「お金をあげるから事務所に来なさい」慰安婦支援団体がいかに日本政府の調査を妨害したか
元慰安婦支援30年の日本人が語る「第1号」金学順さん、証言がブレ続けた理由 から続く
【画像】国会前でのキムチの販売の様子
挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。
はたして挺対協とはいかなる組織なのか。彼女らの実態をよく知る日本人がいる。
その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏は、半生を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。
本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。(連載3回目/#1から続む)
挺対協は被害者や遺族を差別してきた
挺対協が被害者や遺族を差別してきた、という場面を私も何度も見てきました。
私と韓国太平洋戦争犠牲者遺族会が国会で座り込みのデモを行っていたときのことです。弁護士で活動家の戸塚悦朗氏と挺対協代表の尹美香(ユン・ミヒャン)氏が突然、視察に来ました。差し入れをするのでも、激励するのでもないのです。
尹美香氏は「こんなことやって効果あるんですか?」とでも言いたげに、馬鹿にしたかのような笑みを浮かべていました。彼女の笑みに蔑んだものを感じたことを覚えています。
話は少し過去に遡ります。韓国太平洋戦争犠牲者遺族会と私は運命的な巡りあわせで出会いました。
1990年6月、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会のメンバーが、問題を訴えるために釜山からソウルまでを徒歩で500キロの大行進を行いました。当時、ライターをしていた私は取材で駆け付けました。
遺族の人々はこう叫んでいた。
「お父さん! 生きてるんですかー? 死んでいるんですかー? 」
当時、私は日韓基本条約で問題は全て解決しているはずだと思っていました。しかし、戦後40年以上が経過しても、まだ生死すら確認できていない韓国人兵士や徴用者が多数いることを始めて知った。基本的な問題である生存確認すら出来ていないのかと驚きました。これで「全て解決した」といえるのかと疑問を持ちました。
「英語も話せないくせに、何で来た」
遺族会共同代表(当時)の梁順任(ヤン・スニム)氏と出会ったことで、私は遺族会が起こした東京裁判を支援することになりました。私は弁護士選定から原告の聴取までをバックアップして手伝い、遺族会の様々な相談にも乗りました。
そうこうしているなかで、1993年春、ジュネーブの国連人権会議で慰安婦問題を訴えるという話が出たのです。
国連で問題を訴えるという手法は、挺対協に近い戸塚悦朗氏の発案だったようです。戸塚氏は92年にも国連人権委員会で慰安婦問題などを提起したことがあった。ジュネーブへは韓国政府の支援のもと、梁氏や挺対協のメンバーが行くことになっていました。私も「一緒にきてほしい」と梁氏に誘われましたが、日本国内で活動することに意味を見出していたので乗り気になれず、同行を断りました。
ジュネーブでは慰安婦問題や遺族の問題が提起される予定でしたが、挺対協は梁氏を「英語も話せないくせに、何で来た」と蔑んでいたそうです。梁氏は、現地で開かれた食事会にも呼ばれず孤独な思いをしたと、後に聞きました。
日韓歴史問題を“乗っ取ろう”とした尹美香夫婦
驚いたのはジュネーブに尹美香と金三錫(キム・サンソク)夫婦がいたと聞いたことです。夫婦はホテルで一緒の部屋に宿泊していたというのです。
尹美香は挺対協の事務局長なのでわかります。夫がなぜいたのか聞くと、当時、彼は韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の事務局長職に潜り込んでいたというのです。
彼らは夫婦で日韓歴史問題を“乗っ取ろう”としていたのではないか、と私は思っています。
尹美香氏は後に挺対協の代表となり慰安婦問題を利権化していったことは周知の通りです。一方で金三錫氏は事務局長職を得たものの、1万6千人もの会員がいて、かつ口うるさい老人老婆が多い遺族会を束ねきれず、三か月あまりで退任し逃げだすことになります。
金三錫氏は民族解放派とか、セクトだとかいう噂が付きまとう人物で、遺族会事務局長を辞めた後の1993年、北朝鮮の工作資金を受け取ったとして、妹とともに軍事機密漏洩などの罪で起訴、服役しています。この兄妹スパイ疑惑は再審請求により、国家保安法違反は認定されましたが、その他は無罪となりました。とにかく尹美香氏夫婦の背景には後ろ暗い物がいつも見え隠れしていました。
日本政府による元慰安婦への聞き取り調査を拒否
私は運動家ではありません。それでも銀座デモや国会座り込みを敢行したのは、まだ解決していない問題が残っていることを日本人にも訴えたかったからです。元慰安婦や軍人軍属遺族たちの悲しみや苦痛を解決できるのは、日本政府しかないのです。
元慰安婦のハルモニ(おばあさん)も「言いたいこと言って、胸がスッキリした」とか「デモって楽しいね」と言ってくれた。一方で、活動資金には苦労しました。
資金を作るためにキムチを売ろうとなりました。私の自宅の風呂場を使って、元慰安婦のハルモニ指導のもとキムチを作り、国会前で販売したこともあります。私は遺族会の人たちや元慰安婦のハルモニと交流を深めていくうちに、彼らの希望――“戦後処理”を正しく行うべきだという考えを一層強くしていきました。
1993年7月、日本政府も慰安婦問題への取組を本格化させるようになりました。 在韓日本国大使館・参事官だった武藤正敏氏は、まず挺対協と交渉を始めました。挺対協は「日本政府は調査をしろ」等と訴えていたので、日本政府として元慰安婦の聞き取り調査を行いたいと打診したのです。
しかし「日本は信用できない」と言って挺対協は調査を拒否した。このとき、なぜ拒否をしたのか私には未だに理解ができません。
「お金をあげるから事務所に来なさい」挺対協の妨害
武藤氏はその後、遺族会に話を持ち掛けました。梁氏から相談された私は「当然、やるべきだ」と即答しました。
調査は龍山(ヨンサン)にある遺族会の事務所で行われました。私も急遽、ソウル入りして遺族会の手伝いをすることになりました。
龍山は軍の街で、当時は戦争の名残を色濃く残した街でした。駅前には軍人用の集合広場があり、事務所裏には赤線地帯が広がっていました。
7月26日から30日までの5日間で調査は行われました。金学順さんや金田きみ子さんを始めとする16名の元慰安婦が参加しました。
挺対協は「日本政府の真相調査を受けるな!」とピケを張り、反対デモを行っていました。調査が終盤に入ったある日、ハルモニから挺対協が更に悪質な妨害工作を行っていることを聞きました。
「ハルモニたちに挺対協から『お金をあげるから事務所に来なさい』と連絡があり集められた。『250万ウォンあげるから、日本政府の調査に協力しないと誓約書を書け』という話だった。でも、私は話を聞いて欲しいからここに来た」
現在、李容洙氏の告発をきっかけに挺対協が元慰安婦を利用し金儲けをしていたという疑惑が浮上しています。疑惑への反論の一環で、挺対協が李容洙氏へお金を払っていると主張したことがありました。公開された古びた領収書のうちの一枚が93年のものでした。李容洙氏は調査に参加していません。まさに、当時口封じのために挺対協が配ったカネの領収書だと私はピンと来ました。
被害実態の調査なくして、補償の話は成立しない
この調査を受けて、93年 8月、河野官房長官が「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」、いわゆる河野談話を発表しました。
梁氏はこの調査に意義を感じ、日本政府側に「今後も調査を継続して行うよう」とお願いして、私も立ち会って日本政府側に調査継続の誓約書を書いて貰うことにしました。しかし、直後に日本で政権交代が起き、話は宙に浮いてしまう。残念なことにこの調査は、最初で最後の日本政府による慰安婦調査となってしまったのです――。
私は基本的に被害実態の調査なくして、補償の話は成立しないと考えています。
例えば交通事故はどうでしょう。被害を受けた本人の申告だけでは、保険から賠償はされませんよね。審査が入り被害実態が確認された上で、賠償額が決められます。戦後補償問題も実態調査をしたうえで補償することが望ましい。
挺対協は「加害者が被害者を調査するとは何事か」と主張します。でも、その問題がウソか本当かも分からないのに、どう償えばいいというのでしょうか? 慰安婦問題の捻じれてしまった大きな要因は、挺対協が日本の実態調査を妨害し続けたことにあると私は考えています。
(#4「『性奴隷』という言葉を“良し”とする元慰安婦はいない」支援30年の日本人が見た挺対協の仕打ちを読む)
(インタビュー・赤石晋一郎)
赤石晋一郎 南アフリカ・ヨハネスブルグ出身。「フライデー」記者を経て、06年から「週刊文春」記者。政治や事件、日韓関係、人物ルポなどの取材・執筆を行ってきた。19年1月よりジャーナリストとして独立
勝山泰佑(1944~2018)韓国遺族会や慰安婦の撮影に半生を費やす。記事内の写真の出典は『海渡る恨』(韓国・汎友社)。
「当事者は“良し”としていないのに『性奴隷』と……」慰安婦支援30年の日本人が見た挺対協の仕打ち へ続く
(赤石 晋一郎)
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ロシア文学界のスーパースター・ドヴラートフの「なんでもない6日間」を撮った理由
《ドヴラートフは無条件で20世紀後半を象徴する一人であり、ロシア文学界のスーパースターだ。彼は偉大な人物であり、繊細で、信じられないほどの才能に溢れている。彼のような才能はもう二度と生まれないだろう》
映画監督のアレクセイ・ゲルマン・ジュニアは、旧ソ連出身で「亡命作家」と呼ばれたセルゲイ・ドヴラートフにそう讃辞を送り、映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』を制作した。
スクリーンに、溶けるように漂う乳白色。全編を重く覆う霞は、閉塞感の中でもがく人間の心模様のようでもある。
「川と海に抱かれたレニングラード(現サンクトペテルブルグ)は、もともと霧に包まれることが多い街です。色彩がなく、見通しがきかない――映画的です。ただ、1971年の空気としてはネガティブに映るかもしれません。まだ若者は内にエネルギーを秘めていたし、“雪解け”の残響もあったでしょうから」
1950年代半ば、独裁者スターリンが世を去ったソ連は、「雪解け」、すなわち民主的気分から立った恵風が、芸術家や文学者を大いに刺激した。表現の自由はしかし、十数年を経て共産党政権の引き締めにより「凍てつき」、停滞の時代へと移っていく。
1971年のレニングラード――そこに、まだ何者でもない30歳のドヴラートフはいた。彼にとってはなんでもない6日間。それでも監督は、あえて視点を置いた。
「作家や画家を志しながら、必要とされず、自信を持てないでいる人たちを主人公にしたかったのです。それは、変化のない一日を、くり返しくり返し生きる気分だったでしょう。だからこの6日間に特別な意味はありません。冷たい時代に、冷たい街で生きている。そういう人の姿ばかりが見えるかもしれません」
自作を世に出したい。ドヴラートフはただひたすらに欲動するが、「作家同盟」の会員でなければ作家として認められず、社会主義リアリズムを唯一の感性とする世の中では見向きもされない。ただ共同住宅(コムナルカ)で暮らし工業新聞の記者として体制が好むものを納めて、糊口を凌ぐのだった。
「人間は、誰一人として自分の未来、運命など分からないはずです。どうすれば世に認められるのかと煩悶しながらも、自分を捨てることはできない。この映画はそれを見せるのです。実在した芸術家や詩人を描いた作品は数多くあります。それらはせりふや外的な出来事で見せてきました。でもそれはうその姿です。芸術が生まれる場所は、身体の内側です。眼や佇まいにしか表れないはずです」
ドヴラートフが世に知られるようになるのはそれから7年後。米国の出版社から『見えない本』を発表したのだ。米国へ亡命した彼は、『わが家の人びと』などを執筆。ソ連崩壊後、ロシアでも大ブームを呼んだ。
87年にノーベル文学賞を受賞した詩人ヨシフ・ブロツキーとの交流も描かれている。
アレクセイ・ゲルマン・ジュニア/1976年生まれ。2003年『The Last Train』で監督デビュー。2013年、『神々のたそがれ』を撮影した父アレクセイ・ゲルマンが急逝。その父の遺志を引き継いで作品を完成させている。
INFORMATION
映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』
6月20日(土)より、渋谷・ユーロスペースほか全国順次公開
http://dovlatov.net/
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2020年4月30日号)
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愛知県豊田市で下校中に大けが なぜ被害者である姉妹が転校を余儀なくされたのか
愛知県豊田市内の小学校からの帰宅途中、女子児童A(当時小学1年生)が転倒し、手首の骨折や歯の欠損などの大けがを負った。転倒の原因は、同じ時間に一緒に下校していた近所の男子児童B(当時小学5年生)が背中を押したことだ。
【写真】事件の現場となった通学路
事件が起きたのは2018年10月25日午後3時過ぎ。現場は市内の新興住宅街の一角だった。正規の通学路だが、歩道はない。学校から近い場所だが、死角になる。被害児童の自宅まで約50メートルの場所で、かつ加害児童の自宅の目の前だ。姉Cは、Bと同じ学年で、転倒を目撃した。そのことで心に傷を負い、学校生活に支障が出てしまったという。
目撃者は姉だけだった
筆者は、AとCの両親に自宅で話を聞くことができた。
「木曜日以外の曜日は、AもCも一人で下校するんです。ニュースで連れ去り事件が報道されて心配なこともあって、帰りの時間になると、いつも私は家の前で待っています」(被害女児Aと、目撃したCの母親)
その日は木曜日だったために、一斉下校の日だった。登下校のグループで帰宅することになる。現場付近を、A、B、Cの三人で歩いていた。AがBを駆け足で追い抜いた後、BがAを突き飛ばした。目撃者は姉のCのみだ。
家の玄関先からは何をしているのかわからない。何をしているのかと思って、母親が近づくと、Bは「俺、やってねーし」と言っていたという。
「予定の時間を過ぎても帰宅しませんでした。遅かったので子どもたちを迎えに行ったんです。すると、現場でCが手招きをしていたんです。近づくと、Aは血だらけで、泣き声が聞こえました。目撃をしたのはCだけで、近所の人も見ていません」
心の傷になりフラッシュバック
Aの母親によると、転倒したAは当時、顔が血だらけだった。顔をすりむき、1本の永久歯の半分を損傷したことが後にわかる。小5の男児Bと小1の女児Aとは明らかに体格差や体力差がある。
「Cの話では、BとCが歩いて話していたところ、その間をAが走って追い抜いたんです。それを見たBが、ランドセルを背負ったAの背中を押したんです。すると、Aが転んだんです。Cは妹が倒れ込んだのを見ています」
Aは顔をアスファルトの地面に打ち付けた。そのため、顔や口から出血していた。その状況や血だらけの姿をCは見ていた。今でも、Cは心の傷になっている。
Aは死ぬほどの恐怖を感じていたというが、なかなか言葉にはできないでいた。母親が気持ちを言葉にするために紙を渡した。Aはこう書いた。
「つきたおされたのがどうがになって心の中で見ちゃうのがしぬほどいやです。なぜかというとしんでしまうと思ったからです」
つまりは、この日の出来事はAの心の傷になり、まるで、YouTubeなどの動画を見るかのように再体験しているのだろうか、フラッシュバックとして蘇るようだ。これは、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状の一つなのだろう。死を感じさせるほどの強いショック体験をした場合にPTSDとなると言われている。
筑波大学の斎藤環教授(社会精神保健学)は、「交通事故の目撃でもトラウマになる。転ばされて血が出るほどの怪我。生命の危険を感じても不思議ではない。たった1回の出来事でもトラウマになりえます」と話す。また、紙に気持ちを書かせることについては、「体験の言語化は意味がある」と述べる。
加害者となった少年から話を聞くも、謝罪はなし
翌日昼ごろ、母親は学校に報告をした。学校側は、加害者となったBから事情を聞くことになった。担任が話を聞くと、転倒させたのを認めた。押したのは、ランドセルであり、理由は「AがBにぶつかったからだ」と話した。話が本当であれば、帰宅途中に、Aが、BとCの間を駆け抜けたときに、ぶつかったということになる。Bは「(Aのランドセルを)強く押していない」とも話していたと、養護教諭と1年生の学年主任も確認した。
Bの母親はA宅を訪問して謝罪した。ただし、B本人からの謝罪は「後日」となったが、「事件か事故かの認識の違いから決裂」したという(「市教委作成『いじめ重大事態』の経緯」2019年12月5日作成より)。
Aは翌週の月曜日まで欠席、火曜日から母親が送迎することになった。筆者の取材時には、Aが室内で動き回って遊んでいた。気にするほどの傷は確認できなかったが、「以前よりはよくなったんですが、止まって、近くで話すと気になります」と母親は言う。
11月1日に、Aは左手首に痛みを訴えた。整形外科を受診すると、左手首が骨折していることがわかった。1週間ほど、骨折を放置していたことになるが、Aは痛みを感じても我慢していたのだろうか。母は給食の補助などに通った。
11月11日、養護教諭が「一人の人間として話を聞くので、話をしませんか?」と言ってきた。母親は承諾し、学校の会議室で話をし、思いを吐き出すことができた。養護教諭に「(その思いを)校長先生だけには話してもいいかな」と聞かれ、「はい」と返事をした。
両親は「Bに近づけないで」とお願いをしていたが……
11月12日、Aの両親が、(1)今回の事件を、いじめ防止対策推進法による重大事態として捉えてほしい、(2)今後も続く治療のこともみてもらいたい、(3)姉のCに影響がないようにしてほしい、との3点を要望した。
翌13日、加害者のBの両親は、学校を訪問した。Bが通学班を外れることを受け入れた。そしてA宅へ行き、母親に謝罪したが、「いまさら来られても遅い」と被害者の両親は伝えた。話し合いの中で、Aへの配慮がないことが一因だった。
Aの母親は「受けた被害は、いじめ防止対策推進法における重大事態にあてはまると思います。しっかり対応してほしい」とBの両親に伝えた。
翌14日には、校内で学芸会が開かれた。しかし、Cの近くに、Bが座っており、そこでも配慮がなかった。この頃、両親は「Bに近づけないで」と校長にお願いをしていた。担任にそのことを告げると、「私たちのところに情報が降りてきていない」との返答だった。親の要望を校長に伝えていたのに、担任には伝わっていないということなのか。
この件について、母親が校長に事情を聞くと、「すみませんでした。全職員で共有します」と話した。配慮が必要なことだけに、あまりにも杜撰な対応である。
一方、気になることもあった。
「数日後、学校が加害者の家に連絡をしたようです。すると、加害者宅に住んでいるBの祖母と思われる女性が、毎朝、ずっとこっちを見るようになりました。そのことが一定期間続いたので、嫌な気持ちになりました。Cは集団登校できなくなり、(近いのに、私が)車で送迎するようになりました。校長に聞くと、『(加害者の両親に)言いました。正確には、メモを見ないとわからない』と言っていたんです」
児童福祉法による「触法少年」
その後、Aは「気持ち悪い」と言い出し、頭が痛いと訴えるようになったという。「いまでも、PTSDの症状で通院しています」と母親は語る。
斎藤教授はこう指摘する。
「謝罪の有無以上に、学校の対応が不誠実です。子どもたちを保護すべき教師たちが、加害者の肩を持つ対応をしたんです。加害児童にも謝罪をさせない。これは、加害者側に立った対応と思われても仕方がない。非常に、安全、安心を脅かす対応です。PTSDがこじれても不思議ではない。加害児童の直接の謝罪はあるべきです。謝罪と処罰は絶対必要なのです。しなかったのは間違いとしか言いようがない」
12月7日。豊田署に被害届を出した。あとになって、弁護士照会で入手した資料によると、Bは、Aに対して全治6週間の左手首骨折と、全治3週間の永久歯の怪我を追わせたとして、児童福祉法による「触法少年」として扱われたという。
「この件に関しては、市の条例に基づいて、個人情報の開示請求をしました。すると、学校が作成した報告書はないということで、開示されませんでした。学校の対応はあまりにおかしいと思いました」
被害児童の発言は『校長先生が許可しない』
冬休み明けの2019年1月、Aは「自分がされたことを言いたい」と言い出し、通学のグループで発言しようとした。通学のグループでは、月1回、話し合う場を設けている。そこでは、自分の気持ちを自由に言える。
「しかし、先生に止められたんです。『校長先生が許可しない』と。親としては、このことを言えるようになれば、心が強くなるかもしれないと思ったんです。しかし、校長は、『誰かのやった悪いことを知らしめることになるから』と言いました。当時は、まだ学校を信じていたので、何をするにも、事前に一報を入れていたんです。それに、見張るかのように、会合のある教室に、教頭がいました」
1月25日、加害児童Bが、警察に出向いた。翌日、少年課から電話があり、「厳重注意にした」との連絡だった。学校に報告すると、学校は何もすることがないと話すだけ。
いじめかどうかについては、「継続されているわけではない」「突発的なもの」として、静観することになった。いじめ防止対策推進法では、それらは問われない。また、いじめによって、怪我をすれば、重大事態に認定できる。
学校は、「加害児童(B)は、『謝りたい』という気持ちは持っている」と、Aの両親に説明をしているが、納得しない。
「その気持ちが本当であれば、手紙を書く、などの対応はいくらでもあるはずです。教師が、その方法を考えられないということはないのではないでしょうか。本当に、適切な指導がされているのか、調査委員会を開いて、知りたいのです」
「あのとき、死ぬかと思った。怖かった」
事件から3、4ヶ月後、転倒をしたAも、目撃したCも、当時の状況をようやく両親に口にした。
A「あのとき、死ぬかと思った。怖かった」
C「私もそう思った」
Cは、この事件の当事者ではなく、目撃者だが、トラウマ反応が起きているようだ。
「きょうだいではなおのこと、自分が助けられないという罪悪感が生じているのかも。トラウマ的な傷つきはありえる」(斎藤教授)
2019年4月、校長が異動になり、新しい校長になった。このとき、AとCの母親は改めて、いじめ防止対策推進法の「重大事態」として扱ってほしいと申し入れをした。校長は「問題行動ではない」「児童相談所との連携は必要はない」との返事だった。
保護者説明会を開催し、学校側から報告をするように求めても、校長は「時間が経ってしまっています。平日の夜に、保護者を集めるのも大変でしょう」と煙に巻いた。
Aは2019年4月に他の小学校に転校した。9月になると、姉のCも学校に登校できなくなった。これまでの経緯から、Bと校内で近くにいること自体が精神的苦痛になっていたからだ。
「1回(の暴行事件)でもPTSDが起きます」
10月11日、この件に関する学校内のいじめ対策委員会が開かれた。開示資料によると、校長、教頭、教務主任、校務主任、保健主事、生徒指導主任、相談主任、学年主任、養護教諭。以下の3点を結論を出している。
1) 本行為は「いじめ」であり、さらに、「いじめの重大事態」にあたる。AとBは当事者間は、一定の人間関係にあり、Aは大きなけがを負ったこと、これに関わる行為に関して欠席が33日あったこと、その後、PTSDと診断されたこと、結果的に転校を余儀なくされたことが理由になっている。
2) Bが姿を見せることで、Aの姉であるCが不快な気持ちになることはいじめには当たらない。理由は、BはCに何もしていないためだ。
3) 本行為は「いじめ重大事態」にあたるが、全貌は明らかであること、Bの突発的な行為によるものであることから、第三者委員会は開催開催しない。
この結果は、11月1日、AとCの両親に面談し、校長から委員会の結論として書面で回答した。3日に加害男児Bの父親に口頭で「いじめ重大事態」と伝えたという。
「ただ、Aの転校前は、重大事態と認定されていませんでした」(母親)
その後、2020年2月24日、AとCの両親は、豊田市と市教育長あてに要望書を提出した。「被害者側が望む調査、報告が行われていない」などとして、あらためて、いじめ防止対策推進法のもとで調査委員会の設置をお願いした。
3月30日、市教委からの回答が寄せられた。それによると、〈Aの被害は認め、学校としての調査をして事実関係が十分に明らかにされた〉〈また、Aに対する「いじめ」は、今回の件以外には認められなかった〉とした。その上で、学校としては、再発防止や全体指導を行なっており、AやBに再度聞き取り調査をすることは、過度に心理的負担を与えるとして、調査委員会の設置はしない、というものだった。
「1回(の暴行事件)でもPTSDが起きます。まして、怪我もしています。市教委が、対応しないのはありえない」(斎藤教授)
「県外に引っ越しをすることにしました」
今年4月、Cが入学した中学校の担任と面談を行った。
「小学校からの申し送りは詳細ではないようです。小学校での対応、なぜ不信感を抱くようになったのかなどは、知らない様子でした。ただ、学校側からは『(BとCの)クラスを端と端で分ける』『会わせないように配慮する』と伝えられました」
加害者からはいまだに謝罪もないという。Aの母親は、今後も指導を行っていくのか、と学校側に聞いている。
「『今のところ考えてはいなかった』『私たちにそれを決める権限はない』との返事でした。謝罪もさせていない生徒に指導をしないんですね。だから未だに家の前を平気で通るんですよ」
小学校からの問題を解決できずに、結局、中学まで持ち越しをしてしまった。教員が異動してしまえば、指導の継続性もままならず、時間が経てば、「まだそのことで?」などと言われかねない。これでは加害者が近所にいることもあり、生活がしにくくなる。
「今でも、AとCの2人は現場を通ることができません。B(加害児童)と同じ学年のCを同じ中学に通わせるのは難しいです。転校を考えています。安心して預けられませんし、Cも同じ学校には通いたがらないのです。県外に引っ越しをすることにしました」
斎藤教授は「家族が100%被害者の側に立って、対応したことは非常によかったと思います。結果として改善につながらないとしても、AとCには、『家族が自分のために闘った』という記憶が残るので、非常にいい対応だと思います」と述べる。
他県に引っ越しをすることになったことについては、こう指摘した。
「同じ県内なら、どこに行っても同じだと思ったのではないか。しかし、これがいまの学校の平均的な対応なのです。被害者は、泣き寝入り。転校をすることになります。それが学校側には成功体験となってしまっています」
「校長も市教委の担当者も一生懸命に対応したとは思います」
豊田市教委学校教育課は電話取材に応じ、一連の事実関係は大筋で認めた。その上で、「もともとは、被害児童の保護者からいじめという訴えはなく、傷害事件という捉え方でした。しかし、昨年の秋ごろ、いじめの重大事態ではないかとの訴えがなされました」と説明した。
学校でのいじめ対策委員会での会議を経て、学校としても市教委としても「いじめの重大事態」として認定したが、第三者調査委員会の設置は見送った。
「アンケート調査でも他のいじめが確認できず、教員たちからも報告はありませんでした。また、警察でも、加害児童と保護者から事情聴取を受けています。被害児童の気持ちもわかりませんでした。そのため、これ以上調査することは困難と判断しました。また、学校としても再発防止策を取り、加害児童への指導も終えていることも、考慮しました」
姉妹2人が転校することになったが、学校の対応は適切だったのだろうか。市教委としては「事件が起き、初期の対応の中で、被害児童の側と加害児童の側ですれ違いが起きたものとみています。事件当時、すぐには『事故報告書』があがっていないので、なんとも言えませんが、すぐに報告がされていれば、学校と一緒になって助言はできたとは思います。ただし、その時の校長も市教委の担当者も一生懸命に対応したとは思います」と、振り返った。
「Cちゃんはとばっちりですよね」
学校とのやりとりで、こんなことがあった。Aが2019年4月に転校し、Cが不登校になったときのことだ。
母「誰を守りたいんですか?」
校長「Aちゃんです」
母「もう(転校したので、学校には)いないですよ。Cが学校に行けないのはなんなんですか?」
校長「Cちゃんはとばっちりですよね」
「このときの『とばっちり』という表現に違和感を抱きました。その表現は適切なんでしょうか。それとも、その程度のこと、と言いたいんでしょうか。怒りの感情が沸きました」
事件から1年半が経つが、姉妹の心の傷は未だに癒えていない。
(渋井 哲也)
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◆◆◆
山口組ウオッチャー
現在、レギュラーで暴力団記事を扱っている週刊誌は『アサヒ芸能』『週刊実話』『週刊大衆』の3誌である。
『アサヒ芸能』は昭和の暴力団記事のトップリーダーで、山口組田岡一雄三代目の自伝を連載するなど、山口組関連記事では他誌に圧倒的な差を付けていた。現在は3誌の中でもっともヤクザ記事の分量が少なく、基本的に現役幹部のインタビューは掲載しなくなった。週によっては全くヤクザ関連記事が載らないこともある。中途半端な形で暴力団に触れるなら決別すればいいのにと思うが、過去の栄光をすっぱり捨てるのは勇気がいるだろう。
『週刊実話』もヤクザ記事ではパイオニア的存在で、過去、数多くの組織インタビューを掲載してきた。『アサヒ芸能』と並んで一時代を築きあげたといってよく、全国各地の組織を取り上げるところに特色がある。昭和の『週刊実話』は実に破天荒だった。覚せい剤をシノギとしている九州の組織が、それをはっきり公言し、警察から逃亡している親分に「留守は任せてください!」とエールを送っている記事など、いまでは絶対に載せられないはずだ。現在もヤクザ記事をウリにしており、週刊誌の中ではもっとも多方面にわたる記事を掲載している。
暴力団の許容範囲内で原稿を書く「ウオッチャー」
『週刊大衆』が狙うのは山口組だけだ。
他団体の取材をするときもあるが、彼らが狙うのはそこに来訪する山口組関係者である。態度があまりにあからさまなので、こちらが冷や冷やすることもある。取材を担当するのは外注スタッフで、彼らは通称・山口組ウオッチャーと呼ばれる。
山口組ウオッチャーとは、文字通り山口組だけを取材する人間のことで、しかし、組織には直接の取材をしない部分に特徴がある。ウオッチャーの仕事は、あくまでウオッチなのだ。余計なことを知ったところでどうせ書けない。だったら暴力団が許容する範囲で仕事をしよう、という合理精神がこうしたジャンルを生んだ。とはいえ、彼らのほとんどは昔からヤクザ記事を作っていた人間たちで、中には多くの苦難を乗り越えてきた強者がいる。
ファンのような心理状態で取材を続ける記者
「ヤクザはしょせんヤクザや。気をつけなあかんで……」
最も古参の山口組ウオッチャーから、実感がたっぷりこもったアドバイスをされたこともあった。深く関わりあったら火傷する――その忠告が正しいことを、そののち、私は嫌というほど思い知らされた。
彼らのネタは、毎月一回開かれる山口組の定例会で、暴力団が抗争をしなくなってから、「何時何分、●●組長が本家に入った」と、分刻みのレポートをするのが定番となった。書くべきことがない中で、なんとか記事を作ろうとする苦肉の実況中継だ。この模様を監視する警察とも昵懇の仲……というより和気藹々で、暴力団取材という先入観を持ってその様子をみたら、あまりにアットホームで仰天するだろう。持参した脚立に腰掛け、携帯用灰皿を取り出し煙草を吸いながら、手慣れた仕草で組長たちの到着を待っている姿は、まさに一芸に秀でたプロフェッショナルといっていい。彼らの存在なくして週刊誌のヤクザ記事は成り立たない。
警察も例外ではない
彼らは山口組ばかりを追いかけているため、実質、山口組のファンクラブのような心理状態にある。山口組と対抗している他団体のトップが死ぬと、「邪魔者がいなくなった。よかった」と公言するばかりか、山口組の幹部にそう告げたりする。マル暴の刑事たちにもときおり、自分たちが担当する組織に、似たような感情を持っていると感じる。
「我々が取り締まっている組織こそ最強だ」
という気持ちは、自尊心の裏返しに違いない。そう分かってはいても、組織の取材に行って、表で張り込みをしている刑事たちから「ドカンと派手に書いてやってくれよ」と言われると面食らう。福岡県警のように「御用記者が来たぞ!」と警戒されたほうがすっきりする。
そののち、暴力団組織の名称は載せないが、ヤクザの生態を題材の一部とする『実話ナックルズ』や、2匹目のドジョウを狙った『実話マッドマックス』といった新ジャンルの雑誌が登場し、『実話時代』のスタッフが『実話時報』という後発の暴力団専門誌を立ち上げ、私の仕事の場は拡大した。
『実話時代』vs.『実話時報』
暴力団をメインとして扱う雑誌は3誌ある。
『実話時代』は、暴力団専門誌の先駆けでありオピニオン誌だ。一部、時事ネタや情報ページもあるが、読者対策というよりは対外的なもので、具体的にはコンビニエンスストア対策と説明された。構成はまず、最低1本の現役暴力団組長、幹部のインタビュー取材を入れ、2、3本、現役暴力団組織エッセイを連載として載せる。それに暴力団を主人公とした実録小説を2本、元暴力団員の連載コラムを数本掲載するのが定型である。特集はもちろん、暴力団関連の内容である。テキ屋を特集したり、博徒を特集したり、暴力団の未来にスポットを当てたり、昭和の闇市のことを再検証したり、どちらにせよ、毎月ほとんどのページが暴力団社会の記事で埋まる。
ヤクザを対象にした星占い
もともとは総合実話誌としてスタートしており、今の週刊誌同様、スキャンダルを中心とした芸能ネタ、スポーツネタ、政治ネタなどに、エロ記事とヤクザ記事を加えて一冊の雑誌を作っていた。創刊号からしばらくは試行錯誤を繰り返し、苦悩の跡がありありと分かる。ライバル誌との売り上げ合戦の中、当時、人気があったヤクザ記事に特化し、最終的に暴力団のみを扱う雑誌となった。当初は星占いでも「獅子座のみなさんは流れ弾に注意!」と、悪のりしていた。
エロ記事を排除したのは、特化した専門誌となっていく過程で、暴力団たちが嫌がったからという。自分たちのインタビューとエロ記事が隣同士に並ぶと、「あんなもんと一緒にしやがって」とクレームがくるのだ。
私が編集長をしていた頃は、とっくにエロ記事はなかった。しかし、実話誌だけに広告はダイヤルQ2など、ヌード写真を使ったものばかりだ。インタビュー記事の真横に、きわどいヌード写真の広告があると、当事者から「一緒にされたくない」と怒られた。広告ページの置き場所には細心の注意を払った。
各誌が趣向を凝らしたヤクザの描写
『実話ドキュメント』は、そこまで露骨な暴力団専門誌ではなく、エロ記事なども同時掲載する。セックス&バイオレンスという正統路線だ。取材対象も広く、右翼団体などのインタビューも行う。構成は独特でデザインや企画にもカストリ色が強い。
単純に読むだけなら『実話時代』より面白いだろう。『実話時代』は真面目で堅いからだ。それにこの世界の第一人者である溝口敦の記事が載る。いまのところ山口組記事の限界は、溝口が書いたか否か、というラインで決まる。
『実話時報』は、『実話時代』のスタッフが立ち上げたコピー誌だ。編集部員の4分の3が、もともとは『実話時代』を作っていた。その人脈もノウハウも、すべて『実話時代』をパクっている。
親分を裏切る形で立ち上げられた『実話時報』
発刊のきっかけは当時の編集長が会社を解雇されたためで、それに抗議した編集部員が退職して雑誌を立ち上げた。鬱積していた不満が爆発したわけで、その気持ちはよく分かる。『実話時代』の編集部員だった頃、私にも不満はたくさんあった。しかし、それはどの業種でも、どの仕事場にもある類のもので、わざわざここに書くには値しない愚痴だし、育ててもらった恩は忘れていない。
不満はあっても後発誌を立ち上げるという発想はなかった。暴力団社会で親分は絶対の存在であり、そこにどんな理由があろうと裏切り行為は絶対のタブーとされる。建前上、そうした精神構造を持っている暴力団たちが、実質、謀反のような形で発刊した雑誌を好ましく思うはずがない、と考えていたのだ。
フリーライターとなり、『実話時代』を仕事の場にしていた私は間に挟まれ、身の振り方を迫られた。部外者であっても両者と関係が深い。すべては昔の同僚なのだ。最終決断は自分で下さずに済んだ。『実話時代』が、「携帯電話にでなかった。馬鹿にしている」と三行半突きつけてきたのである。おそらく私も旗揚げに荷担したと思われたのだろう。
「裏切り者」にもかかわらず暴力団受けする雑誌
後発の『実話時報』は着実に売り上げを伸ばし、増刊から月刊誌に昇格した。逆風をものともせず、裏切り者の汚名を着せられながら暴力団たちに認知されたのは、編集長が驚異的に暴力団ウケするからだ。
なぜこれほど暴力団から好かれるのか?
具体的な理由を説明するのは難しい。愛嬌のある丸顔で今風のファッション。取材時にはきちんとスーツを着て、人当たりはいいが、それだけでは説明になってない。彼にはこの仕事を行う上で致命的な欠点がある。携帯電話がなかなか繋がらない。ばかりか折り返しすらないのだ。連絡を取りたい時は、まず携帯メールでトラブルではないことをアピールする。その上で電話をかけ、繋がらなければ、諦めるしかない。
都合が悪くなると暴力団からの電話にも出ない。それはもう徹底して出てくれない。自分たちが携帯電話に縛られているぶん、暴力団たちはこちらに対しても、24時間、いささかの遅延もなく連絡がとれるよう要求してくる。それを無視するのだからかなり図太い神経で、こうでなければこんな仕事は出来ないのかもしれない。私はいつも枕元に携帯電話を置いて寝る。着信音量はつねに最大である。
ある年の大晦日、大掃除を終えてテレビを観ていたら関東近郊の組織から電話がかかってきた。
「今日の夜、初詣を取材するって話なのに、編集長と連絡がとれない。どうなってるんだ!」
ヤクザと迎えた年越し
そんな話は初耳だった。すぐさま彼に電話したがもちろん繋がらない。行きがかり上、仕方がないのでカメラバッグを抱え、バイクに飛び乗った。私はその組織と一緒に年越しをするはめになった。
連絡の取れない編集長……最初は語気荒く彼を非難する暴力団たちも、最後には「仕方ねぇよなぁ」と納得する。なにをやっても暴力団から好かれる。こんな仕事をせず不動産の営業マンにでもなっていれば、巨万の富を築いていたかもしれない。
暴力団雑誌にとって大事なのは、現役暴力団が載っているか否か、である。極論すれば記事の内容など稚拙でもかまわない。その点、暴力団賛美であっても極めて真面目な作りの『実話時代』より、組織取材の多い『実話時報』が優位かもしれない。実際、実売部数はすでに『実話時代』を抜いたろう。
(鈴木 智彦)
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バラバラ、寄せ集め、裏切り、裸の王様……ヤクザ社会には「NGワード」が存在する?
新宿歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に事務所を構え、長年ヤクザと向き合ってきたからこそ書ける「暴力団の実像」とは―― 著作「潜入ルポ ヤクザの修羅場」(文春新書)から一部を抜粋する。
◆◆◆
正しい訂正文の書き方
組織からの理由あるクレームは、これに比べれば気が楽だ。不思議なことに暴力派として有名な組織からのクレーム電話は淡々としており、弱い組織からのそれは恫喝の嵐になりがちだった。
弱い犬ほどよく吠える――。
そのことわざは、暴力団からのクレームに関してならほぼ正しい。ギャンギャン吠えられても、訂正文以上の落とし前を求められたら断るしか方法はない。
訂正文を出さないことを名誉と考える同業者もいるようだが、それは単に突っ込んだことを書いていないだけではないか? 人間は完璧ではない。プロの校正を付けても誤植はなくならない。組織の体質や親密度にもよるが、親分、組長、幹部の名前を1文字間違っただけで、すぐ訂正文である。ただ、誤植が深刻なトラブルに発展することはまれである。悪意がないのは明白だから、大方のケースは訂正文で納得してくれる。問題なのは、記述全体がヤクザの名誉を傷つけている場合で、私の初体験はこれにあたる。落としどころは訂正文しかないにせよ、どうやって書いたらいいのか問題になる。なにしろ事実無根のことを書き飛ばしたわけではない。行為は実際にあったのだ。
この1本に命を懸けた、というなら別だろうが、突っ張るのは馬鹿らしい。事実であろうがなかろうが、ヤクザ側が記事のおかげでイメージがダウンし、メシが食えないと言っているのだ。こっちが頭を下げ、訂正すればいい。
無理をしてまで暴力団の記事を載せる必要があるのか
ただしこれは、実話系雑誌だからできることで、新聞や一部の一般誌にはヤクザと同様のメンツがある。これは結構重い。マスコミの正義は書いた内容が事実か否かだから、私のように「内容はともかく謝っちゃえばいい」ではすまない。とくに新聞は、明らかな誤認――たとえば組織内の名称を誤記したケースでも訂正文の掲載に応じない。もちろん暴力団側も引かない。こんなときはひどくしんどい。間に挟まれ四苦八苦するのではない。そんなことにはもう慣れた。
ことが大事になった時点で、以降、暴力団関連の記事が敬遠される。こうしたトラブルは、無理して暴力団の記事を載せる必要はない、という経験則として新聞社に蓄積される。ほかの分野にいくらでも事件はあるのだから、暴力団に関わるなんてとんでもない。こうなると、もう二度と仕事がこない。
同様に一般誌の暴力団記事は、どの程度まで書けばいいのかさじ加減が難しい。差し障りのない記事→面白くない→仕事がこない。踏み込んだ記事→面白い→でもトラブルになったら仕事が来ない、となるからだ。例外は突出して硬派な記事だろうが、それだけの記事を記名で書く勇気と、書かせてもらえる信用を合わせ持っているのは溝口敦しかいない。
実話系雑誌はもともと、誰もが面倒でさじを投げた部分を狙っている。最初からトラブルは覚悟の上だから、訂正文に対する抵抗が弱いのは当然だろうし、それを恥じる必要はないだろう。
言いなりのように掲載した訂正文
私の最大の訂正文は、『実話時代』を辞めてフリーライターになった後、競合誌『実話時報』のグラビアページの巻頭に、3ヶ月連続で掲載された。記事はまるごとねつ造でしたと謝罪する文面で、訂正文を考えたのはクレームを入れてきた組織である。断言するが、暴力団専門誌が勝手に記事を作ることはない。なぜこんなことになったのか、いまでも真意が分からない。謝罪と訂正には慣れっこの自分だが、さすがに「ねつ造」は堪えた。マスコミ人としては最大の屈辱となる文言が並んでいて、相手組織からのファックスには、古巣の『実話時代』編集部の電話番号が記載されていた。もし『実話時代』が訂正文作りに関与していたとしたらさすがというしかない。実際、ここまで的確にウイークポイントを突いた訂正文は、同業者しか考えつかないだろう。『実話時代』と後発誌『実話時報』の確執については後述する。
このクレームによって、私は暴力団組織の役割分担を再確認した。トップに対する直接交渉のルートが遮断され、その意を汲んだ幹部たちが悪役を演じる。悔しさのあまり言葉が震える私に対し、幹部は「ねつ造といっても、いろいろあるんだからいい意味のねつ造と解釈すればいいんじゃない?」とせせら笑った。普段親しく交流していても、暴力団が本気で怒ったら、暴力に屈服するしか方法がないと理解した。
ヤクザ記事のタブー
毎月ヤクザ記事を作っているうち、なにを書いたらオーケーで、なにに触れたらトラブルとなるのか、その基準がだんだん分かってきた。自分の親分や組織を批判するのがタブーであることは前述したが、この他、御法度の表現がいくつかあった。それらはすべてヤクザとしてのメンツを傷つけるもので、具体例をあげれば、逃げた、泣いた、弱い、日和(ひよ)った、詫びを入れたなど、暴力的劣勢を明確に示す言葉である。表面上、強固な団結力をウリにしているだけに、烏合の衆、バラバラ、寄せ集め、裏切り、裸の王様などもNGワードだ。
便利な言い換え用語も知った。たとえば逃げると書くのは名誉を傷つけるが、「体を躱す」と書けばそれは戦略的撤退となり、勝利のため、一時的に移動したニュアンスに変わる。懲役には枕詞のように「余儀なくされる」が付いてくる。ヤクザである以上、組織のために犠牲となるのは、やむを得ない税金であるということだ。
語尾で徹底的に断定を避けるのも、暴力団記事の特徴だろう。
〈一部ではそういう噂も多いはずに違いないと聞いている……〉
さすがにこんな極端な使い方はしないが、曖昧さを表す言葉をあえて二重三重に使うのは日常的なテクニックとされ、『実話時代』編集部でも徹底的に教え込まれた。とにかく核心をぼかす。断定は避ける。それがコツといえばコツだろう。
勝ち負けを書くのはもってのほか
たとえば、抗争事件でも実際は明確な勝ち負けがあるが、それは書けない。暴力団抗争はよほどのことがない限り、適当なところで仲裁が入る。負けたと書かれれば組織の看板に傷が付き、おマンマの食い上げだ。抗争のあとも、負けた側は暴力団として存在し、カタギを恐怖させ続けねばならない。
マスコミが黙ってさえいれば、暴力社会の事情が一般人に漏れることはないのに、自分たちの暴力的劣勢をマスコミに書かれては困る。闇は闇のまま、光を当てる必要はないと暴力団たちは考えている。そのため実話誌では、前記のような、日本語としてとりあえずは正しいが、内容がさっぱりわからない文章ができあがる。
訂正文の実例
1985年8月29日号の『週刊実話』に載った訂正文は、暴力団たちのタブーを知るには格好の教材だろう。
「〔訂正とお詫び〕
『8月15・22日盛夏増頁合併号』の41頁『名古屋市港区内の路上で中本幹部らに短銃を向けた』2人は『助けてくれとさけんだ』とありますが、一和会五代目水谷一家隅田組より厳しい抗議があり、そのようなことは決してなかったとのことです。
2人は病院近くで何の言葉も交わすことなく、不意に撃たれたとのことであります。けがをした組員の方がはっきりいっております。
やくざ者として生きてこられた隅田組幹部・中本昭七氏の名誉にきずをつけるようなことを書きまして誠に申し訳ありませんでした。
深くお詫び申し上げますとともに訂正させていただきます。」
いまの実話誌は、こうした事情を嫌というほど分かっているので、なにひとつ確かなことは書かないようになっている。書き手が奮闘しても、それを校正で削るのが暴力団記事を作る編集者の腕の見せ所とされる。その点、昭和の実話誌は硬派だった。身をもって体験してきただけに、先輩諸氏の奮闘には頭が下がる。
クレームを防ぐことが最優先された編集部
編集部内のレクチャーで使われたのが、溝口敦の生原稿だった。当時、『実話時代』が依頼した原稿を使い、社長が赤ペンを持ちながら「この部分をそのまま出したら危ない」「こんな記述を載せたらやばいことになる」と指摘しながらバスバス削っていくのだ。本来、記名原稿なのだから、著者に確認をとらなくてはならない。しかし『実話時代』ではクレームを未然に防ぐことが最優先された。編集部の校正に異を唱えた書き手は、安全面の観点からすぐクビになった。
ただし『実話時代』ではクレームのすべてを編集部が受ける決まりになっていた。記名原稿であっても、謝罪の場にライターを同席させることはほとんどなかった。雑誌に載せたものは、編集部がすべての責任を負うので、書き手は気が楽だったろう。安心してヤクザ記事を書ける媒体として、『実話時代』は独特の存在感があった。『実話時代』方式に慣れた書き手が、同じような調子で他誌に記事を載せ、強烈なクレームに遭遇し、絶筆騒ぎになったこともある。他誌は『実話時代』のように、あらかじめクレームに繋がりそうな記述を精査するなどという作業はしない。
ヤクザによる原稿チェック
表面的には紳士な関東ヤクザのほうが、幹部たちのチェックはきつい。原稿を事前にみせるよう要求してくるのはもちろん、幹部たちがよってたかって、我が親分をありえないほど高尚な人格を持つ侠客にしてしまうのだ。
「あんたたちにも表現の自由がある。勝手に書くのは仕方ないが、間違ったことを書かれると困るので取材しにこい」
と言ってくれるのは、大半、西日本の組織である。
本来、客観的に事実を書くなら誰の許可もいらない。しかし、東日本の組織取材に、その大原則は通用しない。それを突っぱねられないのは、専門誌である以上、取材拒否をされると雑誌が立ちゆかない弱みがあるからだ。記者クラブが、警察批判をできないのと一緒だ。
ヤクザ社会には「利口で出来ず、馬鹿で出来ず、中途半端でなお出来ず」という格言がある。その言葉は私に鋭く突き刺さる。
暴力団批判を続けるために
私が編集部を辞めたのは、相応の報酬が欲しかったからだが、ヤクザと持ちつ持たれつの組織に属していては身動きがとれなくなるという焦りもあった。すべてを個人で背負い込まないと、暴力団の批判が出来なくなる。私の書いたことで仲間たちに迷惑がかかったり、取材拒否になるのは避けたい。これだけ多種多様の価値観が溢れる社会のなかでは、それぞれに立場がある。どれが正義なのか、善なのかという結論はどこまでいってもでない。
「我々が取り締まっている組織こそ最強だ」と自負するマル暴刑事――ヤクザと関わる人々の特異な心理とは へ続く
(鈴木 智彦)
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「なぜ日本の新型コロナ死者数は少ないのか?」山中伸弥が橋下徹に語った“ファクターXの存在”――文藝春秋特選記事
「文藝春秋」6月号の特選記事を公開します。(初公開:2020年5月20日)
【画像】山中伸弥教授と対談した橋下徹氏
「ファクターX」とは耳慣れない言葉だが、ノーベル賞受賞者の山中伸弥氏(京都大学iPS細胞研究所所長)は、ファクターXこそ、今後の日本人と新型コロナウイルスとの闘いの行方を左右する重要な要素だという。
「僕が今とても気になっているのは、日本の感染拡大が欧米に比べて緩やかなのは、絶対に何か理由があるはずだということです。何が理由なのかはわからないのですけれど、僕は仮に『ファクターX』と呼んでいます」(山中氏)
「ファクターX」をいかに解明するか?
日本は海外主要国と比較してPCR検査数が少ないため、感染者数を正確に比較するのは難しいが、死者数に関していえば、5月半ばの時点で700人超。アメリカの8万人超、英国の3万人超と比べると文字通りケタ違いに少ない。
「ファクターX」の解明のため、山中氏が重視しているのは、ウイルスに対する抗体(ウイルスに反応して毒素を中和する物質)を持っているかを調べる「抗体検査」だ。
厚労省は6月から、東京・大阪・宮城の3カ所で1万人規模の大規模な検査を開始すると発表したばかりだが、山中氏と元大阪府知事の橋下徹氏が、科学者と政治家それぞれの観点から、新型コロナウイルスとの闘い方について語りあった対談(「文藝春秋」6月号)でも、この抗体検査のことが話題になった。
抗体検査で「大事なのは国産でやること」
山中 僕は、PCR検査に加えて、抗体検査が重要だと考えています。実際にどの層の人が、どれくらいの割合で抗体を持っているのかがわかれば、ファクターXが見えてくる可能性もありますから。
橋下 抗体検査にはどのようなメリットがあるのでしょうか。
山中 抗体検査は、ワクチンや治療薬の開発よりはるかに早くできます。コストも安い。大事なのは国産でやることで、これを外国産に頼ってしまうと、後手後手で質の悪いものを使わされてしまう恐れがあります。国産で品質管理をしっかりして検査キットを作らないといけません。これはPCR検査キットも同じで、変異した後のウイルスまでちゃんと検出しているかわからないという話も出ています。
院内感染対策にも使える
橋下 感染が広まっていない状況で抗体検査をやっても意味がないけれど、現在の東京や大阪であれば、社会がウイルスに対してどれだけ強くなっているかを見る指標の一つにもなるということですよね。
山中 そうです。抗体検査の意義をもう一つ挙げるなら、院内感染対策にも活用できます。今の日本は市中の感染爆発よりも、院内感染による医療崩壊のほうが心配な状況で、ベッドや医療機器が足りていても、医療関係者の数が足りなくなってしまう恐れが出てきました。(中略)
そういう大変な現場で頑張っている医師や看護師の抗体の有無がわかれば、抗体を持っている人だけに現場に入ってもらうこともできる。現段階でも、医療従事者はかなりの方が感染している可能性があると考えています。
◆◆◆
6月から始まる抗体検査によって、日本人の闘い方は変わるのだろうか。また、ファクターXが解明される日は来るのだろうか――。
山中氏と橋下氏が、コロナ禍における科学と政治の役割について、熱く語りあった「ウイルスVS.日本人」は「文藝春秋」6月号および「文藝春秋digital」に掲載されている。
※「文藝春秋」編集部は、ツイッターで記事の配信・情報発信を行っています。@gekkan_bunshun のフォローをお願いします。
※音声メディア・Voicyで「文藝春秋channel」も放送中! 作家や編集者が「書けなかった話」などを語っています。こちらもフォローをお願いします。
(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2020年6月号)
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「これ欲しい~!」泉ピン子の通販番組は他との違いを出せたのか?――青木るえか「テレビ健康診断」
5月末の平日の午前中。つけっぱなしのテレビはいつものように通販番組が流れている。もうじき『ひるおび!』始まるなあと思いながらマンガ読んでたがいつまでたっても通販。あれ今日は休みか?(『ひるおび!』が好きなわけじゃないが)と新聞のテレビ欄を広げたらその日は『ピン子、通販やるってよ』という1時間番組で『ひるおび!』に30分食い込んでいた。関東は2週に分けて、食い込まないようなプログラムだったみたいだけどわが家を含む地方局では1時間まとめて放送したようだ。
それで、いつもは見ない通販番組をついじっくり見てしまったのだが、いろいろ考えさせられた。
これ放送10回目らしい。不定期放映なのでもう何年も前からやってる。
テレビ通販といえばジャパネットや日本文化センター(よく考えるとすごい社名だ)でわかる通り、主役は商品。出演者はあくまで語り部。自分が目立っては本末転倒(ジャパネットの髙田明は目立ってたが語り部の分を守っていた)。
芸能人が出る時も「お茶の間の客の立場」で「素朴な消費者(=ホイホイ甘言に乗る客)」としての役割、いわば間抜けな客を演じさせられる。
その点、『ピン子、通販やるってよ』は泉ピン子がカツラかぶって役場の事務服みたいなの着て、しかしこんな格好だけど「ピン子デパートの支配人」で、出てくる商品に突っ込み入れつつもしつこく値引き交渉し、最後には「これ欲しい~!」というとこに持っていく。笑わせる役だが、それはあくまでも「笑われるのではない、笑わせる」という構造。「今までの通販番組とは一味ちがいまっせ!」というTBSのやる気をビンビンに感じるが、……見てると「日本文化センターのテレホンショッピング」と印象は変わらぬのである。画面がガチャガチャとうるさく、大げさなリアクションと、商品説明の、よく通る声と特有の「ほんのちょっと他よりも高いトーン」のしゃべり。スーパーのチラシの隅っこのエノキダケまで「私を見て!」と言ってるような雰囲気をそのままスタジオに再現してる。通販番組は結局みんなこうなって、「あーやってるな」と思うだけだ。
10回を節目に、最終回らしい。ピン子をはじめ出川哲朗やらIKKOやらタレントいっぱい呼んでもギャラももったいない。
これからの通販番組は深夜系のドラマ仕立てで「そんな○○さんの暮らしを変えたのは……青汁です!」……って、もうあるよそれ! 通販番組に新味は不要。ただ、通販番組の王者・便利調理器具で作ってみせる料理がいつもすげー不味そうなのでそれを改善すればもっと売れ行きはあがると思う。前から言ってるんだが。
INFORMATION
『ピン子、通販やるってよ~本日開店!ピン子デパート~』
TBS系
https://ishop.tbs.co.jp/tbs/tvradio/pinko/
(青木 るえか/週刊文春 2020年6月18日号)
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《慰安婦団体内紛でついに死者》明るみに出た尹美香の「セコい財テク術」と「安倍批判記事」
「私が死ぬところを撮影しようと待っているのか!」
【画像】亡くなったソン氏の施設で嗚咽する尹氏の姿を報じた「朝鮮日報」
6月8日午後、韓国ソウル市の汝矣島にある国会議員会館530号室でこんな怒声が響いた。
声の主は、今年4月の総選挙で初当選した韓国与党・共に民主党の尹美香(ユン・ミヒャン)議員(55)。慰安婦支援団体・正義記憶連帯(正義連)の前理事長だった彼女は、慰安婦問題とカネを巡る数々の疑惑で韓国メディアを騒がしている渦中の人物だ。
その前々日、6月6日の夜10時50分頃には、ソウル市麻浦区にある慰安婦休養施設のソン・ヨンミ所長(60)が自宅で死んでいるのが発見された。死因は縊死と見られている。
尹氏とソン氏は、長く行動をともにしてきた間柄だ。尹氏は、ソン氏の死の翌日、休養施設を訪れた後、検察の捜査とメディアの取材がソン氏を死に追いやったかのように非難する文を自身のフェイスブックに投稿。そして8日に登院すると、議員会館の事務室前に集まった取材記者たちに声を荒げたわけだ。
せせこましいスキャンダル
一連のスキャンダルが噴出したのは、今年5月7日から。元慰安婦女性・李容洙(イ・ヨンス)氏(91)が記者会見やインタビューを通じ、元慰安婦女性の処遇や不透明なカネの流れなどについて尹氏を公然と批判したのが発端だ。これにともなって正義連と尹氏のカネにまつわる疑惑がいくつも浮上し、尹議員は初登院の前から検察の調査を受けることになった。
正義連の前身・韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が発足したのは1990年。やがて閣僚経験者や国会議員が名を連ねる有力な圧力団体に成長し、一民間組織でありながら日韓の慰安婦問題で絶大な影響力を振るうようになった。
2015年の慰安婦問題の日韓合意でも、韓国外交部(外務省に相当)が事前に協議内容を挺対協に漏らしていた疑惑がある。だがそうした大きな存在感の割に、疑惑の多くは尹氏の身内が絡んだせせこましい内容ばかりだった。
取り沙汰される「カネをめぐる5大疑惑」
今回浮上した主な疑惑は5つ。1つめは、元慰安婦女性の憩いの場としてソウル郊外の安城市に用意された施設の転売問題だ。
挺対協はこの建物を2013年に相場の倍近い7億5000万ウォン(約6700万円)で買い入れた後、今年4月に4億2000万ウォン(約3750万円)で売却したという。韓国では不動産の転売で差益を稼ぐのが財テクの常道であり、団体に大損をさせた不自然な取引の真意が詮索されているわけだ。またこの施設の管理費名目で尹氏の父親に7580万ウォン(約680万円)支給していたことも、人々を呆れさせた。
2つめの疑惑は、正義連=挺対協に対する後援金などの振込先が尹氏個人の銀行口座だった問題だ。尹氏は「金額さえ合っていれば問題ないと思ったが、安易な行動だった」と謝罪。だが当然ながら私的流用の疑いは拭い切れていない。
正義連のニュースレターを夫の会社に発注
残りの疑惑は、どれも尹氏の個人的な金銭問題だ。3つめは、尹氏夫妻が1995年から2013年まで、自宅や賃貸用と思われるセカンドハウスを現金で計7回も売買していた問題。尹氏は購入資金について辻褄の合わない説明をしてすぐ言葉を翻すなどしており、その出所に疑惑の目が向けられている。
今月5日にはまた、尹氏の義妹名義になっていた住宅も実質的な所有者が尹氏夫妻ではないかとの疑惑が提起された。
4つめは、尹氏の夫、キム・サムソク氏が絡んだ疑惑だ。キム氏は1994年に北のスパイ容疑=国家保安法違反で懲役4年の判決を受けた経歴の持ち主。後の再審請求を経て2018年に一部無罪が認められたが、「反国家団体と接触して工作資金を受け取った」点については有罪とされた。
キム氏はこの間の2005年にソウル近郊の水原市でローカル紙「水原市民新聞」を刊行、ウェブ版とともに運営を続けている。この「水原市民新聞」に対し、正義連はニュースレターの編集とデザインを発注し続けてきた。正義連は入札を経ていると主張するが、同団体への寄付金や政府の補助金が「水原市民新聞」を通して尹氏の身内に還流している構図は否めない。
いっぽうでキム氏の新聞は、身内の宣伝にも余念がないようだ。疑惑発覚後の今年5月12日にはウェブ版に「安倍が最も憎む国会議員、尹美香」と題した外部からの寄稿を掲載し、尹氏を「日本の軍国主義復活のための平和憲法改正に最も邪魔になる人物」と紹介して、妻の立場を擁護。また2016年2月には、ピアノをたしなむ娘のリサイタルの告知に紙幅を割いている。
2015年9月には挺対協の欧州キャンペーンを伝える記事で、読者に募金を呼びかけた。掲載された振込先は、上述の通り尹氏の個人口座だ。この問題については今年5月25日、韓国の市民団体が、尹氏の個人口座を振込先にして寄付金の私的流用に加担したのは問題だとして、ソウル西部地検に告発。同時にキム氏は実在しない「幽霊記者」の名義で作成した記事をポータルサイトに提供、その業務を妨害したなどの容疑でも告発を受けている。
変転する娘のUCLA留学費用の説明
最後は、娘の留学に関する疑惑だ。ピアノを学んでいる娘は2016年から米イリノイ大、2018年から米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)音大の2年課程に在学している。
韓国紙「毎日経済」によるとイリノイ大の学費は年間4万ドル(約430万円)、またUCLAでは2018年9月から今年3月までに8万5000ドル(約910万円)の学費を要したとされる。これに対して尹氏の夫キム氏の年収は、本人の申告を元に野党議員が算出したところによると約2500万ウォン(約223万円)だ。
生活費なども加えた高額な留学費用について、尹氏は当初「全額を奨学金で賄える大学を探した」と説明していた。
だがUCLAが留学生に全額奨学金を支給しないことが分かると、夫が再審で一部無罪を勝ち取った際の2億4000万ウォン(約2140万円)の賠償金を充てたと言葉を翻した。しかし前述の通りキム氏の再審の結果が出たのは2018年であり、2016年からそれまでの留学費用をどうしたかは説明されていない。
当の娘は、疑惑が浮上した後にSNS上での活動を中断。だが母親の尹氏が正式に国会議員の身分となるのを待っていたかのように、6月上旬に卒業記念写真を投稿して韓国メディアの注目を集めていた。
ソン氏の死を巡っても渦巻く疑惑
死亡したソン氏について尹氏自身が綴ったところによると、2人が知り合ったのは2004年。慰安婦休養施設の担当者を探していた尹氏は月給80万ウォン(約7万1000円)しか提示しなかったが、ソン氏は誘いに応じた。2004年当時、韓国の大卒初任給は178万7000ウォン(約15万9000円)だ。ソン氏はそれから3カ月の間に3回も辞表を書いたが、尹氏は泣きながら引き止めたそうだ。
そのソン氏を巡っても今月12日、元慰安婦女性の口座を使ってマネーロンダリングしていたという疑いが報じられている。現地大手紙「朝鮮日報」によると疑惑を提起したのは、ソウル市麻浦区の慰安婦休養施設で暮らしていた元慰安婦女性の孫娘だ。孫娘がソン氏に電話して、祖母の口座から多額の現金を引き出したことを問いただしてほどなく、その死が知らされたという。同じく「国民日報」はまた、孫娘が問題の「背後にいるのは尹氏だろう」とコメントしたとも伝えている。
「朝鮮日報」は同じ日、ソン氏が最後に電話で話した相手が尹氏だと確認されたとも報じた。尹氏の秘書が「ソン氏がいる自宅に人の気配がない」と消防に通報したのは、最後の通話から約12時間後の夜10時33分のことだ。
ソン氏の死についても野党は追及の勢いを強めているが、真相が明らかになる日は来るのだろうか。
(高月 靖/Webオリジナル(特集班))
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「G11」構想に舞い上がる韓国 無謀な「対日強硬策」を連発する文在寅の本音
文在寅政権の韓国が、ふたたび日本への強硬姿勢を見せている。
【画像】韓国での反日デモ。安倍首相の顔に次々に偽札が…
韓国政府は6月2日、日本政府が昨年7月からとっている韓国への輸出管理厳格化の措置が続いていることに対し、世界貿易機関(WTO)への提訴の手続きを再開させると発表した。
これに加え、いわゆる徴用工訴訟で韓国最高裁が2018年10月に新日鉄住金(現・日本製鉄)に賠償を命じた問題で、大邱(テグ)地裁浦項(ポハン)支部が6月1日付で日本製鉄に財産差し押さえ命令の「公示送達」を決めた。
このタイミングでの立て続けの対日攻勢に、日本では「コロナ後の混乱を狙ったのではないか?」「連日疑惑が報じられている慰安婦支援団体のスキャンダル隠しでは?」など、文政権の腹の中を探るような憶測まで出ている。
GSOMIA破棄を再びチラつかせる
WTO提訴の再開については、伏線があった。
韓国政府は5月12日、日本に対して一方的に「輸出管理厳格化の解決策について5月末までに立場を示すように」と求めていたのだ。
韓国は、日本側に輸出規制厳格化の原因とされた「不十分な貿易管理体制」について、貿易管理に関する法律を改正し、貿易安保政策官というポストを新設するなど、必要な措置は講じたと主張。それにもかかわらず、日本が措置を見直さないのは、「日本政府が問題解決への意思を見せていないからだ」(韓国産業通商資源省)としていた。
「日本との議論は進展していない。正常な対話の進行とはみなし難いと判断した」
というのが同省の言い分。韓国政府としては“業を煮やした”という形を取って、WTO提訴の手続き再開を発表したわけだ。輸出管理厳格化から間もなく1年。この措置が解かれない場合、韓国政府は8月に日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を再び持ち出すことまで、すでにチラつかせ始めている。
さらに、冒頭で紹介したとおり、徴用工訴訟をめぐって裁判所による日本企業の財産差し押さえ命令の「公示送達」が出された。
日韓関係を根底から揺るがせた徴用工訴訟の韓国最高裁の判決からのこの1年半あまり、いたずらに時間だけが過ぎ、何ら韓国側は手を打てなかった。
そして結局、今回の財産差し押さえ命令の「公示送達」に至った。公示送達とは、被告側が書類の受け取りを拒否したりした場合に、裁判所ホームページなどに一定期間公示することで受け取ったとみなす手続きだ。公示期限は8月4日午前0時で、その後売却・現金化に向けた次の段階に進むことになるとしている。
WTOの問題と意図的に時期を一致させたのかどうかは不明だ。しかし、司法サイドに忖度があったと見ても不自然ではない。
総選挙に大勝して“やりたい放題”
なぜ、文在寅大統領は、急に日本に対して強硬策を連発してきたのか。
背景の一つとして、国内政治が政権与党に有利な状況になったことが挙げられる。
4月の総選挙で左派系与党「共に民主党」は歴史的な圧勝を遂げた。国会300議席のうち177議席を占める“スーパー与党”となり、文政権と与党が気兼ねする相手はいなくなったに等しい。日本に対する今回の措置も、そんな“やりたい放題”の中で行われた政策の一つと言っていい。
また、国内に向けて、ある種の示しをつける意味もありそうだ。韓国社会が大きな衝撃を受けた輸出管理厳格化から7月で1年の節目になる。徴用工訴訟も最高裁判決から1年半あまりが過ぎた。韓国の総選挙も終わったいま、相手が他ならぬ日本ということもあり、ただ放っておくことに世論は黙っていないというわけだ。
韓国をさらに勢いづかせていることがある。WTO提訴の手続き再開を発表する前の5月31日、トランプ米大統領が9月に米国で開く主要7カ国(G7)首脳会議に韓国を招待したのだ。
ロシア、豪州、インドといった大国の首脳とともに文大統領も招かれたことに、政府もメディアも「G11の誕生に韓国が加わった」と、手放しで称賛されている。
李秀赫(イ・スヒョク)駐米韓国大使に至っては、ワシントンでの記者との懇談会で、「われわれは(米国と中国から)選択を強要される国ではなく、選択できる国という自負心を持つ」とまで語った。この「韓国はもはや同盟を選択できる」とでも言うような“浮かれた発言”に、米国務省がクギを刺すようなコメントを出したほどだ。
好き勝手にモノを言える相手は……
もちろん文在寅政権に懸念材料がないわけではない。むしろ課題は山積している。
5月に元慰安婦の女性が、支援団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)と前理事長の尹美香(ユン・ミヒャン)氏を批判したことで、正義連と尹氏による寄付金の不正会計疑惑などが大きな社会問題となっている。ついには正義連の関係者が自殺する事態にまで発展。尹氏はこの疑惑の最中に、与党「共に民主党」の国会議員となった“身内”だ。
文大統領は8日、大統領府での会議でこの問題に初めて触れ、募金活動の透明性の強化などを求めると同時に、「慰安婦運動の大義をしっかり守らねばならない。大義を傷つけようとするのは正しくない」と強調した。
また、韓国は今、一時は克服したかに見えた新型コロナウイルスの感染が、首都圏を中心に再び広がっている。日本同様、コロナ対策で手一杯だ。文大統領自身が言っているように、新型コロナがただでさえ深刻な状態の韓国経済を脅かしている。
加えて、対北関係改善を最重要課題の1つとする文在寅政権だが、北朝鮮からは揺さぶりを受け続けている。6月9日には南北共同連絡事務所の通信回線を完全に遮断すると表明され、南北関係は行き詰まる一方の状態にある。
そんな厳しい状況の中で、好き勝手にものを言って国民にアピールできる相手は日本しかない。
総選挙で圧勝し、G11構想に沸く文在寅政権の韓国にとって、対日外交などは二の次。日本で憶測が出ているような狙い澄ました対日強硬策ではなく、文在寅政権の日本軽視から生まれたご都合主義の外交姿勢が、強硬策のように見えるだけに思えてならない。
徴用工訴訟の公示期限は8月4日。さらに、8月15日には、75年という節目の「光復節」(日本による朝鮮半島統治からの解放記念日)を迎える。夏本番に向け、まだまだ無謀な対日攻勢は続きそうだ。
(名村隆寛(産経新聞ソウル支局長)/Webオリジナル(特集班))
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「北朝鮮兵士4人組とは本当に仲良しです(笑)」『愛の不時着』“耳野郎”役で大ブレイク キム・ヨンミンさんインタビュー
今さら言うまでもない韓国ドラマ『愛の不時着』の人気ぶり。世界配信の「Netflix」に乗って、日本のみならず、タイやフィリピンなど世界各国でも大流行中だそう。
【画像】キム・ヨンミンさんの写真を全部見る(13枚)
『愛の不時着』は、パラグライダーに乗った韓国の財閥令嬢で起業家でもあるセリ(ソン・イェジン)が竜巻に巻き込まれ、たどり着いた先の北朝鮮で、彼の地の将校ジョンヒョク(ヒョンビン)と恋に落ちるロマンティックラブストーリー。
こう書くと、 “お決まりの”と思ってしまうが、幹となる南北国境38度線を超えたふたりの切ないラブストーリーに、脇役が固める枝葉の細部までが丁寧に描かれていて、韓国ではケーブルテレビ「tvN」史上最高の視聴率(21.7%、視聴率調査会社「ニールセンコリア」ケーブル基準)を記録した。
主役2人とともに人気だった “耳野郎”
韓国で主役2人のスターとともに人気だったのが、北朝鮮兵士4人組と、 “耳野郎”と呼ばれる監諜(傍受)室所属の盗聴担当だ。 “耳野郎”は北朝鮮で使われる盗聴者の隠語で、仕掛けた盗聴器から人々の会話を記録して保衛部(警察)に報告する人物。主人公ヒョンビン演じる将校とは深い因縁で結ばれた大事な役どころだった。
その “耳野郎”を演じたのは、これまで舞台を中心に活動していた芸歴22年のベテラン俳優、キム・ヨンミンさん(48歳)だ。『愛の不時着』に続いて出演した『夫婦の世界』(JTBC、日本では7月からKNTVで放映予定)も大ヒットとなり、韓国で今、時の人となっている。
キム・ヨンミンさんに “耳野郎”の役作りや役柄への思い、撮影中のエピソードなどについて聞いた。
◆ ◆ ◆
「予想をはるかに超えるものになっていて驚いています」
ーー日本で『愛の不時着』人気が止まりません。出演された当時、これほどヒットすることは予想していましたか?
「韓国でロマンティックコメディの大家といわれるパク・ジウン作家(『星から来たあなた』や『青い海の伝説』などの作品がある)の作品ですし、ヒョンビンさん、ソン・イェジンさんというふたりのスターが出演するので多くの人に愛されるだろうと思ってはいたのですが……。その予想をはるかに超えるものになっていて驚いています。先日はインドネシアからファンレターを頂きました」
ーー “耳野郎”という人物を演じることになった時、どういう人物をイメージされたのでしょう?
「盗聴者というと、みなさんやはり拒否感がありますよね。耳野郎を演じるにあたって真っ先に思い浮かんだのが、ドイツ映画『善き人のためのソナタ』でした。これはベルリンの壁崩壊前の監視社会だった東ベルリンが舞台になっていて、主人公は国が危険人物とみなした人物を盗聴する役でした。
ところが、盗聴するうちにその対象者である夫婦に共鳴してしまうんですね。盗聴する側は盗聴しながら葛藤する。私が演じた耳野郎もそんな存在ではないかと思いました」
盗み聞きするため、背中が少し丸まっていて猫背
ーー役作りのために特にされたことはあるのでしょうか。
「『盗み聞きするため、背中が少し丸まっていて猫背』。台本には、耳野郎の外見はこんな風に描写されていました。最初は少し芝居がかった表現でドラマでは不自然ではないかなあと思ったのですが、演じてみると、なるほど、自然と肩がすぼまって体が曲がってきました(笑)。
耳野郎は10代からこの仕事についていて、なによりも罪悪感が心の奥底に染みついている。その罪悪感に自身が圧倒されている人物でした。そんな雰囲気を醸し出せるようにと思いながら、演じました。
ーー北朝鮮の方言も見事に駆使されていました。
「北朝鮮の方言は、2年前にたまたま北朝鮮の方言を使った芝居に出演しまして、その時に脱北者の方と会って、レッスンを受けました。もう忘れているかなあと思ったのですが、話し出したらまだその感覚が残っていて、今回はあまり苦労せずにできました。それでも、撮影現場では北朝鮮の方言担当の先生(脱北者)が常にいて、シーンごとにチェックしてもらっていました」
印象に残っているのは「ヒョンビンさんとのあのシーン」
ーー耳野郎を演じられて印象に残っているシーンはありますか?
「耳野郎には転機が2回あります。ひとつめは、ヒョンビンさん演じるジョンヒョクに、ジョンヒョクの兄を死に至らしめたことを告白するシーン。このシーンは、耳野郎がそれまで表現できなかった苦悩と懺悔、葛藤が一気に噴き出すシーンで、ジョンヒョクは兄の死の秘密を知って悲しみが押し寄せてくる。
ふたりとも苦痛を感じながら、悲しみに包まれる、韓国では『感情シーン』といわれる、感情をぶつけ合う場面でした。
ヒョンビンさんとはこのシーンの前に話は特にしなかったのですが、私が感情をこめている時にじっと待ってくれまして、そんな配慮がとてもありがたかったです。こんなことができるのは相手への信頼と共感があるからこそですから。
そして、ふたつめはセリを追いかけていったジョンヒョクを探すため、北朝鮮兵士4人と共に韓国に入国するシーンです。それまで抑えられていた耳野郎の本能的に愉快な部分が、天真爛漫な北朝鮮兵士と行動することで呼び覚まされてどんどん変っていく。この韓国でのシーンの数々は忘れられません。実は韓国には入国できないとも思っていたので、感慨ひとしおでもありました」
ーー韓国に入国できない?
「耳野郎はその前に死んでしまうだろうと思っていたんですよ(笑)。台本は一度に6~8回(総16回)までが渡されるのですが、耳野郎は助けてくれた人を死に追いやったその苦しみから、なんとか恩を返そうとするだろう、弟のジョンヒョクのために命を投げうって真実を明らかにするだろう、そう思ったんです。
その過程でおそらく死んでしまうだろうと。ところが、意外にも生き延びた(笑)。作家に聞いたら最初から韓国に行かせるつもりだったと言われました」
北朝鮮兵士4人組の素顔
ーー北朝鮮兵士4人組との仲良しぶりも日本では話題になっています。
「彼らとの撮影は本当に楽しかったです。目を合わせただけでおかしくて、現場では笑いを堪えるのが大変でした(笑)。
セリ(ソン・イェジン)といつもやり合うチス(ヤン・ギョンウォン)は、ミュージカル俳優で、普段からとても気さくな優しい人。彼が有名になって本当にうれしいです。
韓国ドラマを見ていたジュモク(ユ・スビン)は、実は本当にチェ・ジウさんのファンで、新しい台本が来た時に、『チェ・ジウ先輩と本当に会うんですよ』ととても興奮していました。それから撮影までずっと心ここにあらずで、撮影後はすごく幸せそうに『楽しかった~』って(笑)。
グァンボム(イ・シンヨン)はとても寒がり。野外での撮影の時はホットカイロを10個くらい身につけていて、撮影が終わると『暑い、暑い』と言っていて(笑)。
北朝鮮兵士役の4人は最初から撮影も一緒でしたので、韓国シーンの前にはすっかり親しくなっていて、そこへ私が合流した格好になりました。ですから、一番末っ子のウンドンを演じたタン・ジュンサンは、最初は遠慮がちに私のことを『先輩』と呼んでいたのが、どんどん親しくなるうちに『ヒョン(兄貴。韓国で親しい年上の男性に使う呼称)』に代わりました。
その後、実は彼の父親が私よりも年が若いことが発覚して愕然としましたが(笑)」
ーー今でも連絡をとりあったりするのですか?
「カカオトークで北朝鮮兵士4人組と私の5人のグループチャットを作り、連絡を取り合っています。食事をしようしようと言いながらみんな忙しくて延び延びになっていたのですが、近いうちに会う予定にしています」
ーー日本では北朝鮮の暮しぶりとその風景が話題になりました。村のロケ地はどこですか?
「韓国の西海岸のほうです。井戸を中心にした村のセットには広い敷地が必要でしたから、山の中腹あたりに作られたのですが、冬に撮影したこともあって、本当に寒くて。次のロケが村だと知らされると、スタッフみんな『えーっ、またあそこに行くの』と悲鳴をあげていました。あまりにも寒すぎて撮影が中断されたこともありましたから。市場はまた別の場所にセットが作られました」
「ヒョンビンさんは男性からみてもすてきですよ」
ーー撮影で苦労されたのはどんなところでしょう?
「撮影期間が8カ月と長丁場だったことでしょうか。梅雨や台風などもあって天気に左右されたことも多かったですし、また、韓国ではスタッフの労働条件が改善されて、週52時間労働に合わせなくては違法になりますので、そんなこともあって撮影期間が少し延びました。
耳野郎を虐めていたチョルガン役のオ・マンソクとは舞台の頃からの知り合いで、彼とはいつもエールを送りあっていました。とても面白く、現場の雰囲気を盛り上げてくれる俳優さんです。
そんな風に互いにねぎらっていましたが、一番大変だろう主役のヒョンビンさんが、疲れたといったそぶりをみじんも見せなくて、これには感嘆しました。ヒョンビンさんは男性からみてもすてきですよ」
ーーもうひとりの主役、ソン・イェジンさんとのシーンで印象深いシーンはありますか?
「韓国に入国してからのシーンでの挨拶で『初めまして』ってセリ(ソン・イェジン)から言われるのですが、盗聴していたのでどんな人物か知っているためまごつくシーンでしょうか。ソン・イェジンさんとはあまり一緒のシーンがなかったのですが、台本を読み込んでいて、瞬間の演技に集中できる方で驚きました」
「みなさん、 “耳野郎”というあだ名で覚えてくださって」
ーー韓国ではふたつのケーブルテレビの視聴率記録を塗りかえる作品に立て続けに出演されて、人気が急上昇しています。日常生活で何か変わったことはありますか?
「芝居をずっとやってきて、ドラマは『ベートーベン・ウィルス』(2008年、チャン・グンソク主演)で小さな脇役で出演以降、時々本当に小さな役をやっていました。役らしい役は『マイ・ディア・ミスター ~私のおじさん~』(2018年)からでしょうか。それでも、街を歩いていても気がつかれる方はほとんどいませんでした。
ところが、最近はマスクをしていても “耳野郎”や”ジェヒョク”(ドラマ『夫婦の世界』での役名)を見ていましたって声をかけてくださる方も増えて、驚いています。特に”耳野郎”は、ドラマではチョン・マンボクという名前があるのに、みなさん、 “耳野郎”というあだ名で覚えてくださって。そんなことは今までなかったことなのでとてもうれしいです」
耳野郎の最後のシーンには「ああ、幸せになってよかった」って
ーー『愛の不時着』はキム・ヨンミンさんの俳優人生においてどんな作品となったのでしょうか?
「これほど視聴者の方に愛された作品は初めてで、役者人生の中で、こんな作品に一度巡り会えるかどうか……。『愛の不時着』に出演できたことは俳優として大きな幸運だったと思っています」
ーー最後に、『愛の不時着』の中でご自身が好きなシーンはどこでしょう?
「セリとジョンヒョクが平壌に向かう途中で汽車が停電し、汽車から降りてふたり並んで座るシーン。そして、合成して使ったのかと言われたほど壮大なスイスの山間のシーンでしょうか。
あとは、やはり、耳野郎の最後のシーン。盗聴から離れ、映画撮影所で音を拾っているシーンで、ああ、幸せになってよかったって本当に思いました。このシーンは、台本には“『春の日は過ぎゆく』(2001年、韓国映画)のイメージ”と描写されていました。私のカカオトークの写真はこの音を拾っている耳野郎の後ろ姿です」
写真=Junwoo Cho
(菅野 朋子)