元慰安婦支援30年の日本人が語る「第1号」金学順さん、証言がブレ続けた理由
2020年06月04日 13時00分 文春オンライン
「慰安婦第1号」とされる金学順さん ©?勝山泰佑
「まずいな、と思いました」30年寄り添った日本人が語る「慰安婦問題」の真実 から続く
「慰安婦を利用した。私を裏切って、国民を裏切って、全世界の人々を裏切ってだました」
こう挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。
はたして挺対協とはいかなる組織なのか。
彼女らの実態をよく知る日本人がいる。
その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏の人生は、1990年に韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の女性たちと出会って一変する。臼杵氏はその後の半生を、遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。
本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。(連載2回目/ #1 から続む)
■金学順さんが辿った運命
金学順さんが名乗り出た背景には、被爆女性イ・メンヒ氏の存在があったと言われています。イ氏は自ら被爆者であることを明かし、日本大使館前で自殺未遂騒動を起こした。そのことがマスコミで報じられたことで、日本人から多くの支援を受けた。貧しかった生活ぶりが、いくぶんか改善したそうなのです。
彼女から金学順さんは、「慰安婦として名乗り出たほうがいい」とアドバイスを受けたそうです。このイさんの言葉が、金学順さんが名乗り出るための大きな動機になったようです。孤独な老後を送っていた彼女には、何か救いが欲しかったのだと思います。
証言にブレがあったことは、慰安婦問題を提起する上では大きな問題でしたが、彼女が日本軍に連行され被害に遭ったことは間違いありませんでした。
女性ですから、キーセンや慰安婦の過去を素直に話すということは難しい部分があったと思います。
金学順さんには不幸な背景がありました。平壌出身の金学順さんが思春期のころ、母が再婚したものの、継父との折り合いが悪かった。彼女は継父のことが嫌で家を飛び出し、女性一人で自活していくために自らの意思でキーセン学校に入校したのです。
平壌のキーセンでは19歳にならないと、お座敷などで働けなかった。若すぎた金学順さんは平壌を離れ、職を求めて養父(仕事を斡旋する男性)と共に中国に渡った。そして運命に翻弄されるような形で慰安婦となったのです。
■葛藤を抱えながら生き抜いた金学順さんの涙
金学順さんは、戦中に朝鮮人の男とともに部隊を脱走し、結婚して2児を授かります。しかし戦後、夫が事故死してしまい、2人の子供も病気や事故などで亡くしてしまいます。既に南北が分断したため、故郷の平壌に帰ることもできませんでした。彼女は放浪しながら、孤独な半生を送ることになってしまったのです。
1996年2月、日本の自治労の支援で遺族会ケアセンターが開設されました。様々な被害者の方が集い、寝泊まりできる施設として発足したのです。孤独だった金学順さんもみなが集まれる場所が出来て喜んでいました。
センターに集った人たちと、金学順さんが一緒に旧正月を祝おうという話になりました。38度線・板門店の近くに北朝鮮出身者が参拝できる石碑があります。そこにみなで参拝に行くことになったのです。
そのとき、金学順さんが石碑に抱きついてオイオイと泣き始めたのです。
「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
彼女は平壌の方に首を垂れながら、泣きながら繰り返し謝っていました。確執があったといえども肉親です。親不孝をしてしまったことについて金学順さんは悔いがあったのです。何度も、何度も謝っていました。
金学順さんはキーセンに行ったことを後悔していたのだと、私は思いました。だから私たちのヒアリングに対して口が重かったのだと思います。金学順さん自身がいろいろな葛藤を抱えながら、戦後を生き抜いてきたことを改めて思うと、私も胸が痛くなりました。
裁判が始まって2年後、始めて金学順さんが法廷に立ちました。そのときの証言は検証を重ねた、正確なものだったと思います。慰安婦問題には詳細な実態調査が必要だと私は思っています。しかし、次回以降で詳述しますが挺対協はそうした動きを常に阻害してきました。
■90年代から明らかだった、挺対協の性質
挺対協が設立されたのは1990年11月のことでした。当時は太平洋戦争犠牲者遺族会のほうがはるかに大きい組織でした。
太平洋戦争犠牲者には軍人軍属、遺族といった、いろんな被害者がいました。私の関心も、慰安婦だけにあったわけではなく、多くの被害者のかたを支援することにありました。だから、当時は挺対協のことを気にもとめていませんでした。
ある時、挺対協の共同代表である尹貞玉(ユン・ジョンオク)氏とお会いする機会がありました。彼女は上品な学者さんという印象でした。
太平洋戦争犠牲者遺族会はみな極貧の育ちの人ばかりです。農民や漁民の方が多く、元慰安婦の女性たちもクズ野菜を売って生活をしていたり、清掃員をしているなどこれまた貧困の方ばかり。被害者支援に取組むためには、いろんな境遇にある人たちを思いやれる「感受性」が大事だと私は思っています。尹貞玉氏のようなお上品なかたで、本当に大丈夫なのかなという不安が頭を掠めたことを覚えています。
被害者は元慰安婦だけではありません。東京裁判は多くの被害者のための裁判でした。しかし挺対協が盛んに慰安婦問題を喧伝するようになり、やがて東京裁判は“慰安婦裁判”と見られてしまうようになってしまいます。
私としては納得ができず、尹貞玉氏にこう言いました。
「慰安婦だけが女性問題ではありません。遺族会には未亡人や遺児もいます。女性人権問題として取り組むなら、こうした人たちも含めて一緒に取り組むべきです」
尹氏は「そうですね」と答えました。
しかし、彼女が慰安婦問題以外の支援に乗り出したりすることはありませんでした。挺対協の本質が、ここに表れていると思います。広く弱者に手を差し伸べようという考えは、彼女たちにはなかった。
■尹美香のついたウソは個人の問題ではない
いま尹美香(ユン・ミヒャン)がついてきたウソが、韓国メディアで話題になっています。でもそれは、尹美香個人の問題とは必ずしも言えません。
挺対協自体がウソをつくことが多い団体だったからです。
1997年に金学順さんが亡くなったとき、挺対協は墓碑の横にこんなメッセージを書いたのです。
〈東京の補償裁判は金学順さんが提訴して始めたものだった〉
金学順さんは原告の一人ではあったけど、彼女が始めたわけではない。前述のように補償裁判は太平洋戦争犠牲者遺族会が提訴したものです。遺族会の人々は長年苦労してやっと始めた裁判です。それを無視するかのようなメッセージをあえて残すところに挺対協の本質がよくあらわれています。
私には「被害者を利用してきた」と告発した李容洙さんの気持ちがよくわかります。この30年間、挺対協は本当に被害者に向き合ってきたと胸を張って言えるのでしょうか?
(#3は後日公開)
(インタビュー・赤石晋一郎)
赤石晋一郎 南アフリカ・ヨハネスブルグ出身。「フライデー」記者を経て、06年から「週刊文春」記者。政治や事件、日韓関係、人物ルポなどの取材・執筆を行ってきた。19年1月よりジャーナリストとして独立
勝山泰佑(1944~2018)韓国遺族会や慰安婦の撮影に半生を費やす。記事内の写真の出典は『海渡る恨』(韓国・汎友社)。
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「お金をあげるから事務所に来なさい」慰安婦支援団体がいかに日本政府の調査を妨害したか へ続く
(赤石 晋一郎)