「まずいな、と思いました」30年寄り添った日本人が語る「慰安婦問題」の真実
「慰安婦を利用した。私を裏切って、国民を裏切って、全世界の人々を裏切ってだました」
【画像】慰安婦「第1号」とされる金学順氏
こう挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。
韓国メディアでは連日、挺対協と、元代表で先の韓国総選挙で国会議員となった尹美香(ユン・ミヒャン)氏の疑惑が報じられた。この内部分裂が意味するところは、慰安婦問題が“偽物の人権”を掲げる団体に長らく支配されていたということだ。
挺対協の罪は大きい。時にウソの理屈を振りかざし韓国人の中にある反日感情を刺激し、不条理な発言を繰り返すことで日本人の中に“嫌韓”という意識を根付かせた。
はたして挺対協とはいかなる組織なのか。
彼女らの実態をよく知る日本人がいる。
その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏の人生は、1990年に韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の被害者たちと出会って一変する。臼杵氏はその後の半生を、遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。
臼杵氏は支援活動のなかで多くの元慰安婦との交流を持ち、2007~2017年春までは、元慰安婦を巡回し福祉支援を行うという外務省フォローアップ事業の民間担当者としても尽力してきた。
ある意味では韓国人より元慰安婦に寄り添ってきた女性である臼杵氏の、最大の障壁となったのが挺対協だったーー。
本連載では臼杵氏が見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。(連載1回目/#2に続く)
名乗り出た第1号と言われている金学順さん
「私の青春を返して欲しい」
1991年12月6日、東京地裁での記者会見で金学順さんは涙ながらにこう語りました。この言葉と共に、慰安婦問題のニュースは世界を駆け巡りました。
慰安婦と名乗り出た第1号は、金学順さんと言われています。でも、後述しますが私にとっては、その前にも元慰安婦だと名乗り出た女性はいたので、第1号という感覚はありませんでした。
私が金学順さんと出会ったのは91年11月25日のことでした。
私たちは「日本の戦後責任をハッキリさせる会(通称・ハッキリ会)」を結成して、韓国人の戦争被害者で作られた太平洋戦争犠牲者遺族会を支援する活動を行っていました。太平洋戦争犠牲者遺族会は91年12月6日に、東京地裁で日本政府に対して〈戦後補償〉を求める提訴を行いました。その準備の為に、私たちが被害者のヒアリングを行っているなかで出会ったのが金学順さんでした。
金学順さんは挺対協の調査を受け、91年8月に実名で慰安婦と名乗り出た女性でした。その後、彼女は私たちの活動を知り、太平洋戦争犠牲者遺族会に「裁判をするなら私も原告になりたい」と言ってきたようでした。
裏付けが弱い金学順さんの証言
私たちのヒアリング作業は、ソウル市光化門近くにあるネジャーホテル(内資ホテル)で行っていました。太平洋戦争犠牲者遺族会の活動を聞きつけた同ホテルのオーナーが無償で部屋を提供してくれ、私たちは同所を拠点として被害実態の調査に明け暮れる日々を過ごしていました。
金学順さんのヒアリングは、私と裁判で主任弁護士を務めた高木健一氏で行いました。当時の金学順さんは60代後半にしては若く見え、話し方も理路整然としていました。
金学順さんは私たちに対して「平壌からトラックに乗せられて強制連行され慰安婦にされた」という話をしていました。
問題が起きたのは提訴直前でした。高木弁護士から私のところに一本の電話が来たのです。
高木「金学順さんの話なんだけど、私たちが聞いた話と他のマスコミに言っている内容が違う。知ってる?」
臼杵「ぜんぜん気が付かなかった。そうなの?」
高木「そうか。もう裁判だし。こちらでなんとかしよう」
慌てました。報道等を確認すると、金学順さんはキーセン学校に通い、キーセンの養父とともに満州で仕事をしていたというのです。その後、北京に立ち寄ったところで日本軍に捕まり慰安婦にされた、という話が語られていることがわかりました。まずいな、と私は思いました。
キーセンは日本で言う芸者のことです。キーセンという言葉は、裁判では誤解や偏見を招く可能性があると思ったのです。
金学順さんが日本軍に連れて行かれたという鉄壁鎮(てっぺきちん)という場所も中国地図から見つけることが出来ませんでした。彼女が慰安婦だった期間も3か月ほどであり短い。
私は金学順さんの証言では、慰安婦問題を正しい形で提起するためには、裏付けが弱いと感じた。しかし、弁護団の方は、顔を出して肉声で被害を訴えることが出来る人は金学順さんしかいないと、原告とすることを決めたのです。
私は提訴後、彼女の証言にあやふやなところがあったので「ウソを言ったらダメよ」と言いました。でも金学順さんは「私は間違ったことは言ってない」と頑なでした。
金学順さんは慰安婦第一号ではない
いま金学順さんが、名乗り出た慰安婦の第一号とされていますが、実はそうではありません。
私は1984年に裵玉水(ペ・オクス)さんという元慰安婦のかたを取材したことがありました。『レディキョンヒャン』という韓国の女性雑誌に彼女の記事が出ていて、編集長から紹介してもらったのです。
ペさんは16歳のときに「いい仕事がある」と騙され、身売り同然でミャンマー奥地まで連れて行かれ慰安婦となった女性でした。
彼女は辛い経験を語りながらも「日本兵も可哀そうだった」と涙を流しました。アジアの奥地で日本軍が壊滅していく中、なんとか生き延びた女性がペさんだったのです。
ペさんは戦後ベトナムで生活していましたが、ベトナム戦争後「外国人は粛清される」という噂を聞き出国を決意。子供5人を連れ難民として韓国に戻ってきました。
私が行ったペさんへのインタビューは84年にTBS「報道特集」で放送されました。韓国内では『レディキョンヒャン』だけではなく中央日報でもペさんのことが記事になりましたが、当時は元慰安婦を助けようという世論が日韓で湧いてくることがありませんでした。
金学順さんの証言が二転三転したことで……
太平洋戦争犠牲者遺族会の中にはもう一人Aさんという元慰安婦もいました。彼女に私は90年12月に話を聞きました。証言は詳細でした。しかし、Aさんには養女がいた。彼女は「養女に自分の過去を話していないので実名を公表することはできない」と言うので、仮名でしか出せなかった。
つまり金学順さんの前にもすでに2人、慰安婦だと名乗り出た女性はいたのです。
私は前述のように不安を感じました。おそらく金学順さんは、裁判をするにあたってキーセンのことはマイナスになると考え隠したいという気持ちがあったのだと思います。
翌年の1月、宮沢喜一首相(当時)の訪韓により、日韓問題に注目が集まり「私は元慰安婦だった」と申告する人が急増しました。その中の1人に金田きみ子(軍隊名・日本軍の衛生兵によってつけられた名前)さんがいました。
私は金学順さんを第1号証言者とすることを回避する、という決断をしました。92年6月1日の初公判では、金田きみ子さんに証言をお願いしました。彼女は慰安婦として7年ものあいだ日本軍に従軍していた女性です。その証言は明確で、日時や場所など全て裏付けがとれるものばかりで真実相当性が高いと考えました。
金学順さんの証言のブレは、慰安婦問題を語るうえで、後世に大きなシコリを残すことになりました。発言が二転三転したことで、日本側から「売春婦だった」、「慰安婦問題はなかった」などの酷い言論を誘発する事態となってしまったからです。
(インタビュー・赤石晋一郎)
赤石晋一郎 南アフリカ・ヨハネスブルグ出身。「フライデー」記者を経て、06年から「週刊文春」記者。政治や事件、日韓関係、人物ルポなどの取材・執筆を行ってきた。19年1月よりジャーナリストとして独立
勝山泰佑(1944~2018)韓国遺族会や慰安婦の撮影に半生を費やす。記事内の写真の出典は『海渡る恨』(韓国・汎友社)。
元慰安婦支援30年の日本人が語る「第1号」金学順さん、証言がブレ続けた理由 へ続く
(赤石 晋一郎)
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「セブンイレブンいいなあ」JR山陽本線 広島~岡山の間“ナゾの終着駅”「糸崎」には何がある?――2020上半期BEST5
2020年上半期(1月~6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。ライフ部門の第5位は、こちら!(初公開日 2020年4月20日)。
【写真】広島と岡山の間の“ナゾの終着駅”「糸崎」の写真を見る(全19枚)
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岡山駅から在来線の山陽本線に乗って、広島方面を目指す。できることならば乗りっぱなしでのんびり車窓を眺めたり、うつらうつらしながら行けるのが理想である。が、そうはさせまいと、山陽本線は岡山から1時間半ほど走った途中の駅でいったん終点を迎えてしまうのだ。その駅とは、糸崎駅である。
岡山から西に向かう山陽本線の列車は、ほとんどが糸崎止まりになっている。そのひとつ先の三原駅まで行く列車もあるが、頑張っても三原まで。つまり、糸崎駅(と三原駅)が鉄壁のごとく立ちはだかって、まるで広島行きの関所のよう。青春18きっぷで山陽本線を乗り通す人にもすっかりおなじみだろう。三原駅は新幹線も乗り入れるから聞いたことはあるし、糸崎のひとつ手前の尾道駅は大林宣彦監督の尾道三部作でおなじみだ。そんな有名な三原・尾道を露払いと太刀持ちとして従える山陽本線岡山~広島間の“終着駅”糸崎、さぞかし横綱級の立派な駅なのでしょうね……。
さっそく糸崎駅に到着。何がある?
というわけで、実際に訪れた。岡山から在来線で行くのが正しいような気もするが、新幹線が福山駅まで連れて行ってくれるのでそこで在来線に乗り換え。福山から糸崎までは30分足らずである。
これまでいくつもの“終着駅”を訪れてきたから、糸崎駅の正体はおおよそ想像がつく。大きな町とか立派な駅ビルとかそういうものを期待してはならない……両隣が尾道と三原なのだからなおのこと。おそらく車両基地があるんでしょう。
そう思いつつ糸崎駅のホームに降り立った。
すると、予想を裏切らず2面4線のホームの傍らには広大な留置線。駅のホームのすぐ横に車両基地があるパターンはこれまでにはなかったような気もするが、少なくとも糸崎駅が車両基地の駅である点においては他の終着駅の面々と同じであった。そしてその車両基地には、山陽本線の岡山エリアを走る国鉄時代からの大ベテラン115系と、広島の新エース・227系Red Wingが仲良く並んで停まっている。広島と岡山の、鉄道車両における違いをまざまざと見せつけられる糸崎駅である。
なぜ貨物列車のコンテナがある?
「車両の運用は基本的にここで分かれているので、227系は糸崎までしか来ないんですよね。でも、一応1日3往復だけ福山までは走っているんですよ」
そう言いながら出迎えてくれたのは、JR西日本岡山支社の藤井彰二さんと福山列車区長の懸田剛一さん。今までの終着駅の旅はひとりで勝手に訪問していたが、今回はなんとJR西日本の方々のエスコート付きなのだ。ありがたいような、申し訳ないような……。
「かつては機関区として車両基地の機能も持っていましたが、今は留置線としての役割だけになっているんですよ。駅前はあとにまわして、まずは留置線のほうから見ていただきましょうか」
懸田区長に案内されながら、駅舎とは反対側に向かって留置線を何本もまたいで歩いていく。115系と227系が仲良さそうに佇む横を。その先には貨物列車のコンテナがいくつも並んでいる。おや、ここには貨物列車も来るのか。
「いや、今はオフレールステーションになっていて列車での貨物の取り扱いはないそうですね。旅客列車の拠点としては岡山エリアと広島エリアの境界で大きな役割を持っていますが、まあ実際には車両留置としての機能があるくらいです。昔は糸崎機関区と言っていましたが、今では福山列車区の糸崎派出。車両留置以外では、乗務員の休憩所として使っています。車両と同じで、乗務員も糸崎・三原を跨いで乗務することはありませんからね」
確かに、ホームの横の車両留置スペース、広々とはしているものの雑草が生えていてとてもじゃないが使えなそうな線路もあるくらいだし、停まっている車両も少なくてどこか淋しげ。留置線をすべてまたぎ終わった先には立派な建物もあるが、職員で賑わっているわけでもなく、無人であった。
鉄道の街“糸崎黄金時代”とは?
「昔の話ばかりになりますが、ここは機関区としての機能と乗務員の基地としての機能の2つがあったんですね。山陽本線が電化されるまではここで蒸気機関車の付替もやっていたようで、古い写真を見ると転車台も給水塔もあって、そうとう賑やかだったことがわかります」
「SL時代の跡を調べてみたんですけど……う~ん、わからない(笑)」
さらに、駅のすぐ南側には倉庫街があり、その先は瀬戸内海。四国との物流の拠点だった歴史もあるといい、糸崎の市街地には遊郭の跡も残っていたとか。駅の西側にある三菱重工の工場は1943年に蒸気機関車の製造を目的にできたもの。こうしたエピソードを聞けば、往年の糸崎の賑わい、なんとなく想像できそうなものだ。
「ただ、転車台とか機関区時代の設備はほとんどなくなってしまっていましてね。取材に来るからということで、古い写真を見てどこかに跡がわかるようなところがないかと調べてみたんですけど……う~ん、わからない(笑)」
懸田区長もそういう通り、確かにうろうろ歩き回っても、糸崎機関区が黄金期を謳歌していた頃の残滓はほとんどみつからない。使われていないボロボロの信号機などもあったが、これとてSL時代のものではないだろう。
“1分でわかる”糸崎駅の歴史
ここで改めて糸崎駅の歴史を振り返る。糸崎駅が開業したのは1892年。当時は山陽鉄道という私鉄の駅で、約2年の間は「三原駅」を名乗って正真正銘の終点だった。三原の市街地は今の三原駅のあたりにあるのに、それより手前で鉄路建設が一旦ストップしていたのだ。その理由はきっと次のとおりだ。三原から先、広島方面に向かっては山越えを控える。山越えは鉄道の大敵で、機関車を付け替えたり水や石炭を補給したりする必要があり、その手前には機関区が欠かせない。とは言え、三原市街地にそれを設けるスペースはないから、糸崎にいったんターミナルを設けて機関区を併設したのだ。
1894年に山陽鉄道(山陽本線)が広島まで延伸すると駅名を糸崎に改め、国有化を経つつも件の通り機関区、鉄道の町として大いに栄えた。ところが、1961年になると山陽本線が三原駅まで電化。さらに翌1962年に広島まで電化される。それでもまだ、三原から分岐する呉線が非電化だったから糸崎のSLの基地としての機能は維持されたが、1970年に呉線も電化されると完全に車両基地としての役割を終える。そして現在ではただ車両が留置されるだけの場所となり、乗務員も乗り継ぎの休憩にここを使うくらいになったのである。
「あれ? セブンイレブン、いいなあ……」
このあたりで糸崎機関区の跡を出て、糸崎の町を歩く。海側には倉庫街があり、その中にはかつて線路が通っていたであろう廃線跡もあった。港まで線路を伸ばし、貨物を積み替えていた時代があった確かな証拠といっていい。跨線橋で線路を跨ぐと、北側に迫る山と海の間のわずかな平地。そこに糸崎の市街地(というか住宅地)が広がり、小学校や中学校も。国鉄時代の官舎やJR西日本の社宅もその中にあるという。かつて鉄道の町だった糸崎。小学校や中学校の生徒たちの大半が鉄道マンの子供という時代もあったのだろうか。糸崎の社宅に暮らしていたことがあるという、同行してくれた広報氏がつぶやく。
「ほんとに糸崎ってなにもないんですよね。コンビニに行くのも遠いから、大変でしたよ。夜中に腹が減って、でも家になにもないってなるとね、延々と歩いて……」
そんな思い出話を聞きながら線路沿いの国道185号を歩いて駅に向かう。すると、いよいよ駅前というところでセブンイレブンの看板が。
「あれ? こんなところにできたんだ。これは糸崎の社宅の人は喜びますよ。乗務員もここがあれば休憩時間も安心でしょう。いいなあ……」
実際に糸崎駅前で気軽に入れる商店はこのセブンイレブンくらい。それでもなにもないよりはマシ、糸崎に暮らす人はだいぶ便利になったと思っているに違いない。と思ったら、懸田さんが「昔ながらの商店街が少しだけど残っているんですよ」と教えてくれた。
そこで一旦駅前を通り過ぎて国道をしばらく歩く。すると、国道沿いに、2階が住宅で1階が店舗になっているような昔ながらの商店がいくつか並んでいる。ほとんどの店がシャッターを下ろしているが今でも開けている小さな定食屋があって、「いまでも時々行きますよ、ここ」と懸田区長。「メシを食うならここだけって店がどこかにあったんだけどな」と件の広報氏。まあ、いずれにしても鉄道の町として栄えてた頃には行列のできる店だったのだろうか。
「糸崎駅」のフォントがたまらない
「糸崎機関区が縮小してからは、鉄道というよりは三菱重工の町になったんでしょうね。働く人たちがこのへんで暮らして、こういう店にも行っていた。三菱の病院もあるみたいですし、鉄道の町というのはもうだいぶ昔のことでしょう(笑)」
懸田区長はそう笑う。が、やはり往年の鉄道の町としての誇りは残っているようだ。最後になってやってきた糸崎駅の駅舎。1945年に建てられたという木造駅舎は、金太郎飴のように同じ見た目のイマドキの駅舎とは明らかに違う。駅名標も独特なフォントで「糸崎駅」と大書され、「JR」の文字は見当たらない。小さいけれど立派な設えであった。傍らには鉄道施設として実は今も使われているという古い木造の建屋もあるし、荷物などをホームから出し入れする際に使っていたと思しきスペースも。
「今年3月から改札口は無人になったんですけどね。いくら鉄道の町といっても、隣の三原駅と比べると利用者数は10分の1くらい。でも、古い駅舎がこうして残っていて、機関区も形を変えながらも使い続けているところは歴史のある駅という感じですね」
ちなみに、山陽本線の岡山と広島の県境、実は糸崎よりはるか東の笠岡~大門間。福山も尾道も、もちろん三原も広島県にある。いわゆる尾三地域、旧備後国に含まれる。糸崎駅で運転系統は分断されているとは言え、三原と尾道が人の往来が少ないわけではないようだ。もしも糸崎駅で乗り換えを強いられないならば、その存在を意識するようなことなどなく通り過ぎるまったく小さな駅なのかもしれない。そこに、鉄道の町として栄えた歴史があった。なんとも興味深い、終着駅の旅である。ただ、やっぱり乗り通すことができたらもっといいのになあ……それも広島の新エース、227系で。
※現地取材は3月に行いました。
写真=鼠入昌史
(鼠入 昌史)
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なぜタクシー運転手は女性にだけタメ口で態度が横柄なのか――2020上半期BEST5
2020年上半期(1月~6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。ライフ部門の第4位は、こちら!(初公開日 2020年6月23日)。
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「もうここでいいですか、はい、降りてください」
さっきまで大通りを走っていたはずの白髪混じりの男性ドライバーが、脇道に入って数分のところで突然車を停めてしまいました。仕事で終電を逃した私が一人でこのタクシーに乗り込んだのは、たしか深夜1時ごろのこと。
ただ私を困らせようとしているだけに思える対応
「すみません、○○ホテルまでお願いします」とシートベルトを締める私を一瞥したドライバーの顔は、どこか不機嫌に見えました。出張先で土地勘がないため地図アプリを立ち上げると、目的地までは車で10分かかるかどうか。
はいはい、と面倒臭そうに車を発進させたドライバーに「住所、お伝えした方がいいですか」と話しかけると、「いや、道路の名前で言ってもらわないと分かんないよ」と鼻で笑われてしまいました。
「あれ、もしかして行き先がわからないまま走っているのか」と思って窓の外を見ると、タクシーはまるで躊躇する様子もないスピードで夜の街を駆け抜けていきます。私は焦って、すぐに現在地からホテルまでの経路を調べなおし、信号待ちのタイミングで、ドライバーにスマートフォンの画面を見せようとしました。
「ごめんなさい、私はここらへんの土地勘がないので今アプリで調べましたけど、○○線だと思います」
しかしドライバーはスマートフォンの画面を見ることもなく、また面倒臭そうに「いや、わかんないよ。目的地、何だって? 近くに何がある? どこ曲がればいいか言って、ホラ」と矢継ぎ早に言う彼は、ホテルへの行き方を明確にしたいのではなく、ただ私を困らせようとしているだけに思えました。
「もうここでいいですか、降りてください」
さすがに腹が立ちましたが、車内には私とドライバーの男性の2人しかおらず、あたりは暗くて人通りも少ないため、何かあってもすぐに助けを呼ぶことが難しい状況です。過去にどこかで見た、タクシー運転手が乗客の女性を襲った事件のニュースが脳裏をよぎり、思わず出かかった抗議の言葉を飲み込むしかありませんでした。
「とにかく穏便に済ませたい」と思い、アプリを使いながらドライバーの質問に答えていると、車は大通りからわざわざ脇道に入り、街灯の少ない暗い場所まで来たところで停車しました。
「もうここでいいですか、降りてください」
支払いを現金で済ませ、タクシーが走り去る低い音を背に凍える手で現在地を検索すると、ここからホテルまでは歩いて20分ほど。一刻も早く明るい大通りに面した場所に出たくて、大きな荷物を揺らしながら走って走って、ホテルに着くころにはもう、深夜2時を迎えようとしていました。
「女の子がこんな遅くまで遊んでちゃだめでしょ」
タクシーに一人で乗ると、いいことがない。そう感じているのは私だけかと思っていたのですが、女性の友人たちに「この間、こういうことがあって」と切り出すと「実は私もさあ」と、次から次へと「性別」を理由に侮蔑的な扱いを受けたエピソードがでてくるでてくる。
仕事で夜遅くなった日の帰り道だけタクシーを利用している友人は、あるとき50代半ばごろの男性ドライバーから「女の子がこんな時間まで遊んで……」と説教をされたといいます。疲れていたので適当に受け答えしたり聞こえないふりをしたりしていても、「結婚してるんでしょ? 旦那さん、心が広い人でよかったね、感謝しないとね」などと話しかけてくる始末だったようで、自宅までの10分間が地獄だったことは想像に難くありません。
友人たちからはほかにも、服装についてしつこく言及されたり性的なからかいを受けたり、ひどいものでは「昔、タクシーの運転手に若い女の乗客が殺された事件があったの知ってる?」と脅しともとれる内容をにやにやしながら言われるなど、耳を疑うような体験談が飛び出しました。
なかでも全員が大きく頷いていたのは、ドライバーがタメ口で接してくること。男性と一緒に乗車したときは必ず敬語なのに、一人で乗るとなぜか高い確率でタメ口を使われてしまうといったものです。
男性の多くは、この「差」にピンとこない
先日、男性の友人と2人でタクシーに乗る機会があったのですが、ドライバーが敬語を使っているのを見て「感じがいい人だな」と思い、その友人に伝えたところ「いやいや、普通でしょ」と言われ、はじめて「あ、普通は敬語なのか」と驚いたことがありました。ひとつ納得が行かなかったのは、その「感じのいいドライバー」ですら、友人が車を降りるときには「ありがとうございました」と声をかけたにもかかわらず、私には「ありがと~」と軽く言ったこと。
男性の多くは、この「差」にピンとこないかもしれません。一緒にいた男性の友人も、運転手が性別の違いだけであからさまに対応を変えている場面を目の当たりにして、とても驚いていました。
あとで、私がモヤモヤした顔をしているのを見た友人が「ああいうのムカつくよねえ」と言ってくれたことで少し気が晴れたものの、ドライバーのあの「感じの良い対応」が最初から私に向けられたものではなかったのだと思うと、この出来事をきれいさっぱり忘れる気にはなりませんでした。
顔も名前も公開している彼らが悪質な対応を続ける理由
「ああいうの、今は悪い噂がすぐネットで広まるのになんでなくならないんだろう」と疑問を口にする私に、あるヒントをくれたのは気心の知れた友人でした。
「いやな対応されたとき、タクシー会社に問い合わせしたことある?」
私が「ないかも」と小声で返すと、友人は「だからじゃないかな」と言ったあと、こう続けました。「もちろん100%相手に落ち度があるけど、じゃあ自分は何もしないでいても状況がよくなるかっていうのは別の話だからね」
確かに知っている中では私も他の友人たちも、理不尽な扱いを受けてしまったあと、タクシー会社に連絡をした人は一人もいません。理不尽な態度を取る人が自らそれを反省するのを期待しても、望みは薄い。誰かが指摘してはじめて、彼らの認識が変わるのかもしれません。
考えてみると、例えば「#KuToo」や「検察庁法改正案への抗議」も、もしも誰も行動を起こさなければ、大勢の人が抗議に対して賛同の声を上げなければ、今ごろどうなっていただろう。おそらく、いろいろな問題が顕在化されることもなかっただろうし、大きなムーブメントになっても尚なかなか物事が進展しない様子をみるに、差別が自然になくなることはありえないのでしょう。
ドライバーは顔も名前も車内に掲示しているにもかかわらず、それでも彼らが堂々と女性客を馬鹿にした態度を取ることができるのは、こんなことでクレームが入ることはないとたかをくくっているから。そう考えると非常に納得がいきました。
でも、もしタクシー会社に報告したことで恨みを買ってしまったら。私たちが乗車した場所、降車した場所をドライバーが覚えていて、報復を受ける可能性があったら。
そうした不安を拭いきれずに「何か手はないものか」と調べを進めていくと、国や各自治体が運営するいくつかの相談窓口にたどり着くことができました。
団体や権威に頼ることも有効な手段
たとえば消費生活センターに電話相談すれば、専門家があらゆる問題を円滑に解決するために処理をしてくれます。もちろん個人情報を相手側に漏らすことはないし、個人の特定につながる話をしないよう配慮がなされています。
なかでも「性に基づく差別的な扱いや、男女共同参画の推進を阻害する人権の侵害(職場などでのセクシュアル・ハラスメントなど)といった、当事者間での解決が難しい困りごと」の対応に特化した機関も各都道府県に存在しているため、こうした団体を頼ることもひとつの手かもしれません。
・人権侵害の被害者救済のための施設一覧(http://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/jyuuten_houshin/sidai/pdf/jyu06-5.pdf)
※13ページ目の「資料5-2-3」参照
また意外にも効果が高そうだったのは「タクシーセンター」への連絡。タクシーセンターとは、タクシーの適正な運用のために設立された公益財団法人のこと。車内にある車番と運転手名が書かれたハガキを備忘用に持ち出し、あとで問い合わせをすれば、センターからタクシー会社、運転手に、かなり強烈な指導が入ります。いわば監査の役割を果たす機関であるため、この制度を利用するといいかもしれません。
悔しい、と思ったそのあとに
もちろん加害に対しては徹底的に無視したり、反論したりなどその場で直接抗議することもできますし、そうした抵抗には正当性があります。嫌がらせを受けているのだから、可能であれば強く出て相手を黙らせてもいいはずです。
しかし私を含めて、その場で強く抗議することができない女性も多くいるでしょう。上記のような機関はそういった人のために存在しているはずですから、問い合わせをすることに気後れする必要はないと思います。
上記の情報を調べていたとき、「人権侵害の被害者救済」の文字列を見てはっとしましたが、大げさでもなんでもなく、確かにあれは人権を侵害された体験だったのだと、ようやく自覚することができました。
見ず知らずの女性に対して、服装へのしつこい言及や性的なからかいをすることは「性的嫌がらせ」だし、場合によっては「侮辱行為」にもあたります。なんの脈絡もなく、運転手と乗客という関係性を利用して、女性が怖がるのをわかった上で「タクシー運転手が乗客の女性を殺害した事件」を連想させるように話すことは明らかに「脅迫行為」です。
これらの加害行為をただ「失礼な態度」といった言葉で終わらせて、被害者自身が無理矢理に自分を納得させる必要はないはずだと、私は思います。
また同じような目に遭ったとしても、いまの私には、直接彼らに抗議するだけの勇気はないかもしれません。でも、身の安全を確保しながらなら、感情を整理してからなら、声をあげることは不可能ではないし、何か変わる可能性があるのならそうしたいと思っています。
会話を録音しておくことも効果的
上記の相談窓口に問い合わせをするにしても、ドライバーがどこの会社の誰なのかがわからなければ対応してもらいようがありません。しかしタクシーの車内には、ドライバーが会社名と顔、名前をはっきりと表示しています。だから、もしもハラスメントやなんらかの被害に遭ったら、まずはしっかりと会社名と名前をメモしておくこと。そうすれば「あとでいつでも報告できる」と自分を安心させられるし、何も太刀打ちできないまま自信を失ってしまうことも防げます。
また、会話を録音しておくことも非常に効果的です。私はライターという仕事柄、重要な会話をするときは必ずスマートフォンで録音する癖がありますが、問題が発生したときに録音データが証拠となって助けられた経験が何度かありました。「言った、言わない」になる前に、こうした証拠を持っておくと報告をスムーズに行うことができるのでオススメです。
この原稿を執筆中にも、乗り込んだタクシーで「ありえない対応」を取られたばかりです。録音は間に合わなかったけれど、降りる前に会社名と名前はしっかりとメモを取ることができたことは少しだけ自信につながったように思います。
誰かから人権を侵害されたとき、自分には当然声をあげる権利があること。小さな自信を積み重ねて、「自分の行動には何かを変える効果がある」と自分自身が思えるようになること。そうすれば、私は今よりも生きやすい未来を切り開けるのではないか。最近は、そんなふうに考えています。
(吉川 ばんび)
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長引くコロナ禍でも…なぜ天皇と雅子皇后は「沈黙」を貫いているのか?――文藝春秋特選記事
「文藝春秋」8月号の特選記事を公開します。(初公開:2020年7月16日)
「2011年3月16日、東日本大震災の発生からわずか5日後に天皇(現・上皇)は約6分間に及ぶ異例のビデオメッセージを出しました。未曽有の大災害に動揺する国民に直接語りかけたのです。あの時の天皇の『おことば』に励まされた人も多かったのではないでしょうか。
一方、このコロナ禍において、昨年5月に即位した今上天皇は、今のところ、国民に広く語りかけるメッセージを出しておらず『沈黙』を保っています」
こう語るのは、政治学者で天皇制を研究する原武史さんだ(「文藝春秋」8月号「天皇と雅子皇后はなぜ沈黙しているのか」)。このコロナ禍において天皇や雅子皇后は「沈黙」を保っている。
宮内庁HPにひっそりと掲載された「ご発言」
もっとも、宮内庁のホームページを見れば、天皇や皇后の「新型コロナウイルスに関するご発言」を見ることはできる。だが、これらは4月10日に行われた尾身茂新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長(当時)の「ご進講」と5月20日に行われた大塚義治日本赤十字社社長らによる「ご進講」の際に、この二人に対して行った「挨拶」部分をホームページ上にアップしたものだ。
「そもそも多くの国民は、わざわざアクセスしないとみられない『ご発言』を知らないでしょう」
原さんはこう語る。
この国難とも言えるコロナ禍において、天皇や皇后から国民を励ますような力強い言葉が今のところ聞こえてこない。
「私自身は、(天皇の)ビデオメッセージが持つ『政治性』に関して、批判的に検証している立場です。
しかし、天皇がひとたびそうしたメッセージを出せば、イギリスやオランダと同じように、国民は励まされ、歓迎する空気が生まれるのも間違いありません。その意味で、天皇の『おことば』を求める声が高まれば、例えば即位から1年になる5月1日にメッセージを出す可能性があるのではないか。4月下旬の雑誌の取材で、私はそう答えました。この予測は外れましたが」
なぜ「沈黙」が続くのか。原さんは、天皇がここまでビデオメッセージを出さなかった理由について、二つの可能性を指摘する。
「退位を巡るビデオメッセージ」の影響も?
「一つは、ビデオメッセージを出そうとしたが、タイミングを逸した可能性です。ウイルスの拡大には、終わりがありません。後から見ればこの日が拡大のピークだったとわかりますが、刻々と状況が変わる中では、何時どの瞬間がメッセージを出すベストのタイミングかわかりづらかった。この点は、地震や津波などの自然災害と異なる点です。
もう一つは、天皇自身あるいは側近が判断して『メッセージ』は発しない方がよいと決めた可能性です。
2016年に上皇が出した『退位を巡るビデオメッセージ』は少なからぬ軋轢を、皇室と時の政権の間に生みました。
現憲法下で天皇は国政に関する権能を有しません。にもかかわらず、あの時は事前に『8月8日の午後3時から』と放送日時を指定したうえで、天皇が11分にわたり、政府や国会を通さず国民に向かって直接語りかけるや、退位を支持する圧倒的な民意が形成されました。
そこから政府は動かざるをえなくなり、退位に関する特例法が成立しました。結果として、法の上に天皇がたち、露骨に国政を動かしたのです。それに対して、政権から表立った反発はありませんでしたが、メッセージの発表翌月には宮内庁長官が事実上更迭されるなど、内閣と宮内庁の軋轢が見え隠れしました。
今の天皇と皇后はそうした経緯をつぶさに見ていたはずです。今回メッセージを出さなかったのは、2016年を反面教師にして、内閣との関係や日本国憲法における象徴天皇の在り方について、より慎重に考えた結果、とも考えられます」
果たして、コロナ禍で明らかになった皇室の「変化」とは何か。原さんの論考「天皇と雅子皇后はなぜ沈黙しているのか」は、「文藝春秋」8月号と「文藝春秋digital」に全文掲載されている。
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※音声メディア・Voicyで「文藝春秋channel」も放送中! 作家や編集者が「書けなかった話」などを語っています。こちらもフォローをお願いします。
(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2020年8月号)
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動物保護を訴える都心部と被害にあえぐ地方……「女性の狩猟マンガ」が注目される理由
いつの頃からだろうか、食材の産地を気にするようになったのは。相次ぐ食品関連企業の不祥事により、食の安全神話が崩れたことも大きい。いまや、より自然に近い状態の肉を、と大衆居酒屋等にもジビエのメニューが並び、駆除の対象となった鹿や猪の肉を有効活用しようという動きも盛んだ。
【画像】『クマ撃ちの女』熊に襲われるシーン
そんな時代の要請もあってか、狩猟を取り入れたマンガが目立つ。
女性主人公なら狩猟を語りやすい
飛行機事故にあった女子高生4人組が無人島でサバイバル生活をおくる『ソウナンですか?』は、2019年夏にアニメ化。彼女たちは罠を仕掛けて鳥獣を獲り、生活用品まで作ってしまう。原作を手掛けるのは、岡山で鳥獣を獲って暮らす猟師兼漫画家の岡本健太郎。17年には70年代に描かれた矢口高雄の名作『マタギ』の完全版が復刻され、発売早々に連続で重版がかかった。
地方で鳥獣被害が深刻化していることも狩猟への関心を高める一因になっている。農林水産省が発表した野生鳥獣による農作物の被害額は、16、17年度共に約170億円超え。18年度は少し減ったが約164億円に及び、各地で保護用の電気柵設置に莫大な手間と費用をかけているものの、いまだ根本的な解決には至っていない。
とはいえ、狩猟を巡る話は非常に繊細だ。野生動物保護の観点を訴える都心部と被害にあえぐ地方との議論が平行線に終わることも多く、猟銃に対する拒否感も根強い。そんな今だからこそ読みたいのが女性主人公の狩猟マンガだ。声高に被害を訴えるでなく、感情的になりすぎることもない。そのバランスが、女性を中心に据えることで保たれているのだ。
例えば、農家兼漫画家の緑川のぶひろが描く『罠ガール』には、わな猟免許を持つ女子高生とその友人が、畑を守るために奮闘する姿が描かれる。彼女たちの懸命さや明るさが、深刻な被害を暗くなりすぎずに伝えていることで、カルチャーメディアのみならず農業・狩猟従事者からも関心を集めている。
『クマ撃ちの女』著者に聞く
人間と接点の多い鳥獣のなかでもひと際存在感を示すのは熊だ。特にここ数年は人家のあるエリアでの目撃例が増えている。都心に近い神奈川県でも17年には警察に届けがあっただけで64件の目撃例があり、19年、札幌では市街地に熊が出没。国道を横切るニュースがお茶の間に流れた。
そんななか、19年1月の連載開始より話題になっているのが『クマ撃ちの女』だ。主人公の小坂チアキが狙うは日本最強生物のエゾヒグマ。とはいえ、多くの論点を抱える狩猟という題材に、本作が初連載だという著者の安島薮太さんが挑んだのはなぜだろう?
「僕は愛知のド田舎出身。おじいちゃんが鳥撃ちで、弟が農家なんですね。ですから、子供のころから動物との距離感が都会の人とは違うなというのがありました。連載前に読み切りで動物商の話を描いたこともあって、編集者から狩猟を題材にしては? という提案があったんです。そこからターゲットはエゾヒグマ! だったらクマ撃ちの話だ! みたいに絞りこんでいきました。
正直に言うと、その頃の狩猟に関する知識は本を1、2冊読んだ程度。連載の話が本格化してから、取材先を広げていった感じです」
とはいえ、自然界と人間界を切り離すことなく同列に考える思考は最初からあった。それを軸にジビエを提供する飲食店や狩猟従事者、銃砲店など、さまざまな立場の人の話を聞くことで、ある気付きがあったという。
「皆さん、すごく協力的で、その協力がなければこの作品は生まれていなかったというぐらい。逆にいうと、個々の立場から言いたいことがたくさんあるのに、発信する場があまりなかったということなんでしょうね。僕もクマ撃ちの正当性みたいなことは描いていないし、描くつもりもない。ただ、その場に居る人の生の感覚を伝えることが出来れば、闇雲に批判する人が少しでも減るのでは? という思いはあります」
圧倒的存在は時に甘美でもある
本作は狩りに同行するルポライター・伊藤の視点で描かれる。舗装されていない山道でクルマに酔い、獲物を追う山行きで小枝を踏んで音を出してしまう、などのリアルな描写には取材時に得た実感が活かされている。また、第17話(20年1月9日発売の単行本2巻に収録)にはチアキがエゾヒグマに固執する理由が描かれる。この回はweb「くらげバンチ」発表直後に反響を呼び、アクセス数も伸びた。
「17話が盛り上がったのは、熊の実態があまり知られていないからだと思うんですよね。こちらは『そりゃ、そうなるよね』と思いながら描いたので、意外だった部分もあります。実は、熊って人間として考えた方が行動が読めるらしいんですよ。写真を撮ろうと無闇に熊に近づく人の話も聞きますが、本当に止めた方がいい。熊はバカにされたと感じるでしょうし、そうすると襲ってきます。僕も知れば知るほど怖くて、取材時の携行品はかなり気を使っています」
生命を揺るがす外敵に出会う恐怖が遠のいて久しい。そんな時代に熊の生態に惹きつけられるのは、彼らが根源的な恐怖を思い起こさせてくれるからだろう。狩猟マンガには、そういった感覚を呼び起こし、野生動物の知られざる一面を知ることができる面白さもある。
また、これらの作品にたびたび登場するのは、獲った命を美味しくいただく調理&食事のシーンだ。食べ物はスーパーや専門店で買うのが当たり前――狩猟マンガには、頭にこびりついたそんな常識をさらりと剝がしてくれる作用もある。
狩猟する女性をいきいき描くマンガ6冊
【1】ソウナンですか?(1)〜(6)(岡本健太郎/さがら梨々)
『山賊ダイアリー』の著者で猟師兼漫画家の岡本健太郎が原作を務める。飛行機事故で無人島に到着した女子高生4人組は、ほまれの持つサバイバル知識を活用しながら罠を仕掛け、食料を調達し、救助を信じて逞しくも可愛らしく生きる。昨年夏、TOKYO MXほかでアニメ化。講談社 580~630円+税
【2】マタギ(矢口高雄)
舞台は奥羽山脈の山里。マタギたちは冷静な頭脳と研ぎ澄まされた経験を武器に野生動物と渡り合う。全9編収録。なかには女マタギの話もあり、今より遥かに女性が山に入る事は難しかったであろう時代に本作が描かれたと思うとその視点に震える。山と渓谷社 1600円+税
【3】罠ガール(1)〜(5)(緑山のぶひろ)
家の畑を荒らす野生動物を捕獲するため奮闘中の女子高生・朝比奈千代丸。幼馴染で家が農家の昼間レモンや祖父が猟師の夜空つむじと共に、アナグマやイノシシ、アライグマといった動物ごとの習性を見極め、罠を仕掛ける場所や方法に知恵を絞る。KADOKAWA 570~650円+税
【4】クマ撃ちの女(1)〜(3)(安島薮太)
兼業猟師の小坂チアキ(31)は連日山に入り、エゾヒグマを撃つことに執念を燃やす。その山行きに密着するルポライター・伊藤の視点で描かれた本作には、緊張感溢れるドラマはもちろん熊の生態や銃の扱い方などの情報も満載。最新刊では法の領域にも触れている。新潮社 600円+税
【5】北欧貴族と猛禽妻の雪国狩り暮らし(1)~(4)(白樺鹿夜/江本マサシメ)
極寒の地を治める貴族のリツハルドと元軍人のジークリンデは、とある夜会をきっかけに1年間の「お試し婚」をすることに。厳しい環境下での狩猟や工芸品造りをとおし、不器用ながらも距離を縮めていく2人のスローライフ。妻が夫に狩猟の手ほどきをする設定も今どき。主婦と生活社 630円+税
【6】鷹の師匠、狩りのお時間です!(1)~(2)(ごまきち)
著者は愛知県在住。オオタカの師匠やイングリッシュ・ポインターの猟犬ミラと共に猟を行う現役鷹匠だ。獰猛なイメージだが本当はストレスに弱い猛禽類との暮らしや鷹匠が訓練に用いる道具など、知らない世界が知れるワンダーに満ちたエッセイコミック。星海社 640円+税
(山脇 麻生/週刊文春WOMAN 2020年 創刊1周年記念号)
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「なかったことにして欲しい」 工藤静香の長女Cocomiが“生田斗真似”彼氏をフった理由
「静香さんは2人の娘を海外で活躍するモデル、アーティストに育てたいと思っている。そのため英才教育を施し、“ステージママ”として厳しく管理してきました」(芸能関係者)
【画像】仲良くおどけるCocomiとKōki,姉妹
芸能界デビューから5カ月。木村拓哉(47)と工藤静香(50)の長女Cocomi(19)が、さらなるステップアップを目指し、新たな“行動”を起こしていた――。
姉妹の活躍の背後には母・静香の“支え”が
2年前、一足先にモデルデビューを果たした妹のKōki,(17)は、ブルガリやシャネルのアンバサダーとして活動中。一方のCocomiもすぐにディオールのアンバサダーの座を獲得し、日本版「VOGUE」をはじめ中国や香港の有名ファッション誌で表紙を務めている。
姉妹の活躍の背後には、いつも母・静香の“支え”が見えるという。
「静香さんは姉妹の海外での撮影にも同行し、スタッフや出演者同士のプライベートな打ち上げの席にも顔を出して挨拶をしています」(音楽関係者)
娘たちには幼い頃から大きな期待をかけていた。
「小学校からインターナショナルスクールに通わせ、ピアノやフルートを熱心に習わせていた。その甲斐あって、Cocomiさんは英語とフランス語が話せるようになり、ディオールの紹介動画でも流暢な英語を披露している。4月からは都内の有名音楽大学に進学し、NHK交響楽団の首席フルート奏者の下で練習に励んでいます」(同前)
そんなCocomiだが、デビュー前は恋愛も謳歌する普通の高校生活を送っていた。お相手は「週刊文春」5月7日・14日号で報じた生田斗真似の同級生である。
「彼は家柄も良く、コンクールで数々の賞を手にするなど音楽家として将来を嘱望されています。Cocomiさんとは校内で人目を憚らず抱き合うなどラブラブで、学校近くで一人暮らしをする彼のマンションに入り浸っていた」(学校関係者)
Cocomiが「(交際を)なかったことにして欲しい」
ところがCocomiのデビュー後、状況は一変――。
「2、3カ月ほど前、彼は一方的にフラれたそうです。Cocomiさんから『(交際を)なかったことにして欲しいと言われた』と、食事会の席で友人たちにボヤき、かなり落ち込んだ様子を見せていました」(同前)
一方のCocomiは何事もなかったかのようにステイホームを徹底し、さらなる“母子密着”を深めている。
インスタライブの配信で「お母さんはどんな存在?」という質問に対し、Kōki,は「親友、お姉ちゃんでもある感じ。なんでも話せるし、近い存在」と語り、Cocomiも「近すぎる」と同調。
「静香さんは巣ごもり中も娘のために野菜中心の食事を作り、体型を維持させている。さらにメイクやポージングの研究を一緒にするなど、自分の仕事をセーブして娘たちに尽くしてきた。だからこそ、デビュー間もない長女の恋愛がスキャンダル化することを危惧するのも当然です」(芸能記者)
結婚相手は「トト(キムタク)よりカッコいい人にする」と誓いを立てたという娘2人。当面は父親が恋人代わりになりそうだ。
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2020年8月13日・20日号)
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「犬に一部を食べられた」遺体――独身派遣OLはなぜ孤独死を迎えたのか
2011年におこなわれたニッセイ基礎研究所の調査によれば、日本全体の孤独死者数は約2.7万人にのぼるという。65歳以上の一人暮らし世帯に限定しても、2006年に約1900人だった孤独死者数は2016年には約1.7倍の約3200人まで増加している。
しかし孤独死は高齢者に限った問題ではない。30代から50代のいわゆる「現役世代」の人間でも、時として孤独死にいたることがある。フリーライターとして孤独死や事故物件について関心を寄せる菅野久美子氏の著書『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに。』(角川新書)より、一部を引用する。
◇ ◇ ◇
犬に体を食べられた独身派遣OLの最期
孤独死の要因として挙げられるのが働き方だ。
それは、ある年の夏も終わる9月の末のこと。上東(編注:同書で取材を行った特殊清掃員)は、ある女性から連絡を受けた。姉が孤独死したので、マンションの部屋を片付けてほしいという。
「くれぐれも部屋の中を見て驚かないでください」と女性は動揺した表情を浮かべながら、思いつめたように上東に告げた。
孤独死は通常、激しい死臭が周囲に漂っているケースが多い。近隣住民からの苦情などの場合、部屋のドアや換気扇の隙間から漏れ出た、強烈な臭いがマンションのフロア全体に充満していることがほとんどだ。しかし、この物件の場合はそんな臭いとは違って、獣のような臭いが、ドアの隙間から漂ってきた。妹によると、亡くなったのは、42歳の女性で派遣の事務職をしていたという。姉と生活をともにしたのは幼少期だけで、その後はずっと疎遠になっていた。
長期の海外旅行中に犬をその女性に預かってもらっていた近所の人が、帰宅後、女性に電話をしてもつながらないことから、警察に通報。
飼い主の死後、放置されるペット
警察官が部屋に入ると、女性の遺体はすでに一部が白骨化していた。夏場は特に遺体の腐敗の進行が速い。女性の妹によると、部屋の中では犬が3匹、遺体の傍らを走り回っていたという。中でも、女性の愛犬だった大型犬だけはやせ衰えて、亡くなった飼い主のそばにピッタリと寄り添い、餓死寸前だったという。警察によると、痛ましいことに遺体の一部を犬に食べられた痕跡もあったらしい。
ドアを開けると、上東の予想どおり糞や尿などの凄まじいアンモニア臭が部屋中に充満し、床には犬たちのものと思われる、乾いて水分を失った大量の糞がコロコロと転がっていた。
女性が亡くなっていたのはベッドだったが、死臭はほとんどなく、体液もわからなかった。あまりに遺体が長期間放置されすぎて、体液も乾いてしまっていたからだ。そのため、死因は不明だった。
このケースでは、奇跡的に犬は生存していたが、飼い主がペットとともに孤独死しているという例は決して少なくない。たいていは、ペットも飼い主亡き後、飢えと苦しみの中で壮絶な死を遂げる。また、食べ物がなくなってしまって、ペロペロと顔をなめているうちに、ガブリと食いついてしまうこともある。なんとも悲しい現実だ。
人は寂しさの行き場を求める
上東は語る。
「犬たちは亡くなった飼い主が起き上がり、いつもの日常が戻ることを待っていたと思うの。自分が着る洋服よりも愛犬に愛情を注いでいたのがわかる。人は寂しさの行き場を探し求めるものなの。きっと、それがこの女性にとってはペットだったんだろうね」
それを表すかのように、妹によると、見つかったガラケーには、犬の預け先や仕事場以外の人とのつながりを示す連絡先や写真は、一切なかった。
よそ行きの洋服は仕事用と思われるスーツだけ。唯一、犬の散歩用のラフな洋服がハンガーにかかっていた。遺影になりそうな写真が全く見つからないため、上東は、書き損じた履歴書に貼ってあった証明写真をかろうじて妹に手渡した。
女性の仕事は、数カ月ごとに派遣先が変わる事務職だ。家族とも疎遠だったこともあり、会社が休みであるお盆の期間は、毎年一人で過ごしていたらしい。ただでさえ入れ替わりが激しい職場で、お盆明けに職場に出勤しなくても、女性の部屋を訪ねてくる人はいなかった。
上東は女性についてこう語る。
「数カ月単位で職場は変わるし、たとえ職場の同僚と仲よくなっても、また別れが来るよね。だから、あまり職場の人とも深入りしない付き合いをしていたんじゃないかな。
孤独死の可能性を高める働き方の志向
ただ唯一、犬の散歩をしていれば近所の人と仲よくなることもある。たわいのないコミュニケーションでほほ笑み、一日が終わる。この女性はきっと心の優しい素敵な女性だったと想像するよ」
女性は就職氷河期の真っただ中で、派遣社員という働き方を選択せざるをえなかった可能性もある。ニッセイ基礎研究所は、「長寿時代の孤立予防に関する総合研究~孤立死3万人時代を迎えて~」という研究結果から、【社会的孤立者の特徴(傾向)】を割り出している。その中に、働き方として、「割り切り」「仕事優先」志向の人が挙げられている。
この女性のように数カ月ごとに派遣先が変わる流動的な職場だと、人間関係が希薄になり、その場その場での割り切った人間関係になりやすく、濃密な関係を築くのは困難になるのだ。
また、ストレスを一人で抱え込んでしまい、一度心が雪崩のごとく崩壊すると、家の掃除をしなくなり、部屋の中を徐々にゴミが占拠していく。中には、衣類を天井ほどまでため込んだ女性もいた。
些細なきっかけでセルフネグレクトに陥る
部屋が汚くなると、人を招き入れなくなるという悪循環が起こる。特に現役世代は、健康を害してしまうと誰にも気づかれず、セルフネグレクトに陥り、命が脅かされるようになる。身内との縁が切れていたり、近隣住民からも孤立しているという特徴もあり、行政も捕捉が難しいのが現状だ。
度重なる遺族や現場の取材から、男性はパワハラや失業などいわば、社会との軋轢から、セルフネグレクトに陥るケースが多いと感じた。しかし、女性の場合は、失恋や離婚の喪失感、病気など、プライベートな出来事をきっかけに、一気にセルフネグレクトに陥りがちだ。また、責任感の強さから、誰にも頼れずゴミ屋敷などのセルフネグレクトになり、孤立してしまう。
女性が一度、世間から孤立すると他人が見てもわかりづらい。まだ自分は大丈夫だと仮面をかぶるからだ。しかし実際は、雨が降ると外に出たくなくなり、体がだるいと動きたくないという狭間で、そのギャップに苦しむ。そんな自分に嫌悪感を覚えて自己否定が始まり、最後に精神が崩壊する。女性の孤立は、男性の孤立より、見抜きづらくなる。
女性の孤独死の現場を目の当たりにすると、私自身、同じ女性としていたたまれない思いを抱いてしまう。それは、孤独死は私個人とも無関係ではなく、むしろ、誰の身に起こってもおかしくないという思いを強くするからだ。
孤独死は決して他人事ではない
長年、孤独死の取材を行っているが、ご遺族の方にご本人の人生を聞かせていただくと、対人関係や仕事でつまずいた経験があるなど、何らかの「生きづらさ」を抱えていた人も多い。
私自身、元ひきこもり当事者であり、今も人間関係では、打たれ弱い面があり、「生きづらさ」を抱えている。亡くなった方とは趣味や性格や生い立ちなど、私と共通点が多く、共感することが多々ある。ご遺族も、そんな生前の故人の「生きづらさ」や「社会の抱える矛盾」を知ってほしいと取材に応じてくださることもある。
現在、社会問題になっている8050問題に代表されるような中高年のひきこもりが孤独死という結末を迎える日も遠くないし、実際にもう現場では起こっているという実感がある。かつてのひきこもりだった自分も同じ結末を迎えていたかもしれないと思うと、切ない気持ちになる。
誰もが人生の些細なつまずきをきっかけとして、孤独死という結末を迎えてしまう。そして、孤独死は決して他人事ではないということを私たちに突きつけてくる。
遺族の兄が語る弟の生活実態――51歳の男性を孤独死に追い込んだもの へ続く
(菅野 久美子)
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行方不明になった男が、故郷を廃村に追い込んだ…旧住人が語った“戦慄の記憶”
京都・蓮久寺の三木大雲住職のもとには、助けを求める人が絶えない。ポルターガイストに悩まされている、人形をお祓いしてほしい、さまよう霊を供養成仏させてほしい……。そんな実話や自身の体験など、現代の怪談、奇譚の数々を収めた『続々・怪談和尚の京都怪奇譚』(文春文庫)より、背筋も凍る「廃村マニア」を特別公開。見えない世界に触れることで、あなたの人生も変わる……のかもしれない。(全2回の1回目/後編に続く)
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◆ ◆ ◆
ここ数年、日本は深刻な人口減少が問題になっております。それに伴う過疎化も進み、廃村を迎える所も増えてきました。
私は何カ所かの廃村に行かせていただいた事があります。その中には、建物も家の中にあったものも、そのままになっており、そこだけ時間が止まってしまっているように感じます。
まるでご飯の時に、急に家を出て行った様に、台所のテーブルには、ご飯茶碗や、湯飲みがいくつか置いたままになっていました。
そんな空き家が並ぶ廃村に、写真を撮りに行かれる方や、見学に行かれる方々がおられます。いわゆる廃村マニアと呼ばれる方々です。もちろん、空き家に入る時には、家主の方を探して、許可を得てから行かれるようです。
そんな廃村マニアである男子大学生4名がお寺にお経をあげて欲しいとお越しになりました。学生さんたちは他の廃村マニアの方々と同様に、廃墟の写真を撮ったり、廃村に至るまでの歴史などを調べるのが趣味なのだと話した後、恐ろしい体験をお話しくださいました。
「何があっても自己責任でお願いします」
全国各地にある廃村の中には、怪奇現象が起こるといわれる廃村があります。僕たちは、今まで一度も怪奇現象に遭ったことがなかったので、そんな話は信じない方でした。日常でも心霊経験は一度もなく、霊感と呼ばれるものが自分たちには全くないと思っていました。
そんなある日、とある県に、小さな廃村があるという情報があり、皆で行こうということになったのです。場所は、大学から電車で数時間、そこからレンタカーを借りて、車で数時間という場所です。とても日帰りは難しいので、宿泊することになりました。
しかし、宿泊の場合、お金がかかるので、廃村にテントで野宿することに決め、早速その廃村についての歴史、建物の所有者などを探す作業に入りました。
役所や関係者の方々をあたり、建物の所有者である、不動産屋さんが見つかりました。撮影も建物への立ち入りも自由にして下さいと許可をいただきました。ただ、その時に「自由に見てもらっても良いけれど、何があっても自己責任でお願いします」
そう言われたのです。でも、この時は特に気にも留めませんでした。
突然村に戻ってきた行方不明の男性
その後、昔、村に住んでいたというお年寄りをみつけたので、老人ホームに電話をし、本人から直接話を聞きに行きました。
そのお年寄りが話すには、この村が廃村に至るまでの背景には、ある事件が切っ掛けになったと言っていました。その事件は、今から何十年も前の出来事で、ある村人が行方不明になったことから始まったそうです。
当時、村に住んでいたある男性が、突然行方が分からなくなり、そのまま数年が過ぎたそうです。
しかし、数年後、行方不明の男性が突然村に帰ってきたのだそうです。帰って来たその男性は、行方不明の間の記憶が全くなく、自分がどのようにその期間を過ごし、どこにいたのかも分からないということを話したといいます。そして、その男性は、村に帰って来てから少し様子がおかしくなっていたようです。夜に突然大声で何かを怒鳴り出したり、見たこともない奇妙な字を書き出したりしていたそうです。
その後、その男性の家族も様子がおかしくなり、最後には家に火を付けて一家全員が亡くなったそうです。
あの世から帰ってきたのではないか
それからまた数年が過ぎた頃、ある家の玄関の扉に、小さなマジックペンで書いたような落書きが見つかりました。
その落書きは「む」という文字を変化させた様な字で、誰が書いたのかと皆で不思議がったそうですが、その文字は、あの行方不明だった男性がよく書いていた文字に似ているという話が出たそうです。
その後すぐに、その家のご家族が突然亡くなりました。そして、この不思議な文字は、毎年のようにどこかの家の玄関に書かれていて、書かれた家では不幸があったというのです。
「もしかしたらあの世からあの男が帰ってきたのではないか」そんな話も出て来たそうですが、それ以来、この村ではその文字が玄関先に書かれると、その家の家族の誰かが亡くなるという噂が囁かれるようになったといいます。
話を裏付けるものは見つからなかったが……
そのお年寄りは、この事件が元で廃村になったという事は無いかも知れないが、子供や孫を授かると、自分たちの家族が奪われるのを恐れた人達が、続々と引っ越していったのは間違いない事実だと教えてくれました。
この話を聞いてから、役所や村の関係書類なども調べましたが、話を裏付けるものは見つかりませんでした。
しかも、この話は怪談小説のようにも思えたので、どうせ年寄りの作り話だろうとみんな信じてくれませんでした。ただ、直接電話で話を聞いた僕だけは、話し方やしっかりした口調にとても嘘だとは思えませんでした。
だからといって、この村に行かないという選択をするわけではなく、出発の準備をして、村へと向かいました。
最後のコンビニで休憩を取る事に
僕たちは、テントや寝袋、食料などを各自持ち寄り、電車を数回乗り継ぎながら、廃村を目指しました。ところが、目的の駅に着いた時には、すでに夕方近くになっていました。到着した駅から、目的の村までは、まだ車で数時間はかかる距離です。急いで駅の近くのレンタカーに乗り換え、そのまま村に向かいました。
途中、青木君がトイレに行きたいと言いました。そこで、恐らくここが最後のコンビニだろうと思える所で小休憩を取る事にしました。
飲み物やお菓子、パンなども少し買い込んで、みんな車に戻りました。でも青木君だけが、戻ってきませんでした。トイレにいっているのだろうと車で待っていましたが、何分経っても戻ってこなかったので、呼びに行こうとしたその時、青木君がやっと戻ってきました。
「長かったけど大丈夫? 具合でも悪いの?」
そう聞くと頷くだけで、返事はありませんでした。
ここから村までの道は、山道や林道などをいくつも超えて、真っ暗な道を通りながら進むので、車酔いも心配しましたが、青木君は大丈夫だと小さく頷いていました。
そして、数時間の車移動の末、ようやく目的の廃村に着きました。到着時刻は、途中少し道に迷った事もあり、夜の9時を回っていました。
(後編に続く)
※三木大雲住職の怪談説法は、Voicyでも配信中です。
※文春文庫編集部は、Twitterで新刊・既刊情報や編集部の日常をつぶやいています。@bunshunbunko のフォローをお願いします。
男子大学生が謎の豹変…“ワケあり廃村”でキャンプした4人組の末路 へ続く
(三木 大雲)
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男子大学生が謎の豹変…“ワケあり廃村”でキャンプした4人組の末路
行方不明になった男が、故郷を廃村に追い込んだ…旧住人が語った“戦慄の記憶” から続く
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京都・蓮久寺の三木大雲住職のもとには、助けを求める人が絶えない。ポルターガイストに悩まされている、人形をお祓いしてほしい、さまよう霊を供養成仏させてほしい……。そんな実話や自身の体験など、現代の怪談、奇譚の数々を収めた『続々・怪談和尚の京都怪奇譚』(文春文庫)より、背筋も凍る「廃村マニア」を特別公開。人里離れた“曰く付きの廃村”にやってきた4人の男子大学生。そこで彼らを待ち受けていたのは――。(全2回の2回目/前編から続く)
◆ ◆ ◆
村の入り口付近には、街灯が一つだけポツンと立っていました。
4人で村へと続く道を見ると、街灯の明かりが薄暗く届いて、荒廃した数軒の家が、不気味に浮かび上がっていました。普段は心霊的なものを信じない僕らでしたが、お年寄りから聞いた話もあり、さすがにこの時は怖いと感じました。
「さて、今日は暗いからテントを張って、晩ご飯を作ろう」
僕がそう声を上げると、
「よし、それじゃあ荷物を降ろそう」
「そうしよう」
と恐怖をかき消すように、皆で明るい声で言い合いました。
なぜか単独行動を取り始めた仲間
「いや、僕は夜の廃屋の写真が撮りたいから奥まで行ってくる」
明るい空気を破るかのように、青木君が急にそう言い出したのです。なぜだか青木君を止められる雰囲気ではなく、そのまま黙りこんでいると、青木君は、黙って車からカメラだけを取り出すと、さっさと村の中に続く道を進み出しました。
一緒に行こうかと声をかけましたが、それを拒否して、一人で道を進んで行ってしまいました。
普段の青木君は、おとなしく、柔和な性格で、みんなとの和を優先するタイプで、こんな風に単独行動を取る人ではなかったので、残された僕たち3人は驚いていました。
それでも気を取り直して、早くテントを張ろうと、車から食べ物やその他必要な物を下ろし始めました。
どうせ人なんか来ないので、村の入り口の道の真ん中にテントを張り、簡易テーブルにコンロなどを設置して、レトルト物の食事を用意していた頃に、青木君が帰ってきました。
「おう、青木、良い写真撮れたか」
そう1人が声をかけると、その時も黙って頷くだけでした。
みんなで食事をしながら、青木君に色々と話を振りましたが、ほとんどしゃべらずに、食事を終えると「先に寝る」とだけ言い、テントの中に入って行きました。
まるで何かに取り憑かれたような……
青木君の様子がおかしくなり始めたのは、道中で立ち寄ったコンビニからです。
「特に体調が悪いわけでもなさそうだし、気分を害するようなことはなかったはずだ」
「とすれば他に理由があるのかな」
「もしかしたら、何かに取り憑かれたとか」
一人が冗談で言ったこの言葉に、誰も笑うことが出来ませんでした。
「取り敢えず、俺たちも寝るか」と一人がテントに入ったその時です。
「あれ、青木がいない」
そう言ってテントから出て来ました。
「僕は先の建物で寝るよ」
「おーい、青木ー」
そう大声で叫ぶと、村の道の先で何かが動きました。
街灯の明かりが届くギリギリの所に、1人の人間が立ってこちらをじっと見ていたのです。思わず持っていた携帯電話のライトを向けますが、遠すぎるのか顔までは見えません。
「青木か?」
1人がそう問いかけると、
「うん、テントが狭いから、僕は先の建物で寝るよ」
そう言い終わると、暗闇へと消えていきました。今は刺激しない方が良いと、僕たちはそのままテントに入り朝を待ちました。
テントの外で何かが動く音がして、目を覚ますと、外の机でカセットコンロを触っている青木君の姿がそこにはありました。
「青木、おはよう」
僕がそう声をかけると青木君は笑顔で「おはよう」と返事してくれました。他のみんなも起きてきて、みんなで青木君の入れてくれたコーヒーを飲みました。昨夜の青木君と違い、元の青木君に戻っていました。
「昨夜は眠れた?」
そう聞こうかと思いましたが、昨夜のことをここで振り返り、再び青木君がおかしくなってはいけないと、敢えて誰も口にしませんでした。
太陽の下で見る村の様子は、昨夜の印象ほど陰鬱なものではありませんでしたが、数十年間の時の経過以上に、建物の風化が激しいように感じました。
建物の写真や、村全体の様子などを写真に収めていると、1軒の黒く煤けた建物がありました。あきらかに火事の跡である事は分かりましたが、この建物が、例のお年寄りから聞いた話と関連性があるのかどうかは分かりませんでした。
コンビニのトイレから出てこない
そのまま数時間、思い思いの時間を過ごし、帰る時間になりました。テントなどの片付けを済ますと、全員車に乗り込み、村を後にしました。
帰り道、夕方の6時頃、行きにも寄ったコンビニが近づいたので、再びここで休憩を取ろうということになりました。
買い物やトイレを済ませて、車に戻ると、また青木君の姿がなかったので、またトイレだろうと、買って来た物を食べながら待っていました。
村で取った写真を見返したり、気が付いたことなどを話し合っていると、気が付けば20分以上が経っていました。いくら何でも青木君が遅いので、様子を見に行こうとした時、突然パトカーのサイレンが聞こえて来て、コンビニの駐車場に入ってきました。
そのパトカーから警官が降りてきて、走りながらコンビニへ入って行きました。
驚いてその様子を目で追うと、警官はコンビニのトイレへと走っていったので、青木君に何かあったのかとコンビニに入って行くと、
「おい、開けなさい」
警官がそう言いながら激しく扉をノックしていました。
「こんな所にこんな落書きあったかな?」
「何かあったのですか。トイレには恐らく僕たちの友達が入っているのですが」
そういっていると、突然トイレの扉が開いて、中から何もなかったかのように青木君が出て来ました。
コンビニの人の話では、トイレの中から大きな声でわめき散らすような声が聞こえてきたので、怖くなって警察に連絡したとのことでした。
出て来た青木君は、僕は1人で静かに用をたしていただけですと言い、壊れた物もないようなので、警察官の方も少し話を聞いた後、すぐに帰っていきました。
青木君の様子も、ただ驚いたという感じで、特におかしな雰囲気でもありませんでした。
しかし、このコンビニの店員さんが、トイレの中を見ている時に、おかしなことを言うのです。
「こんな所にこんな落書きあったかな?」
どんな落書きだろうと見たところ「む」を変化させたような落書きでした。
終電に乗らなくてはいけないので、すぐに車に乗り込んで出発することにしました。その時、僕は、煤の様なもので青木君の服の背中が汚れていることに気がつきました。もしかしたら青木君は事件のあった家で昨夜寝ていたのかも知れない。コンビニでの一件もおかしいと思い、青木君に色々と聞きたかったのですが、帰りの時間を気まずく過ごしたくないと思って、何も聞きませんでした。
無事にそれぞれが帰宅し、また明日大学で会うことを約束してその日は別れました。
あの夜、一体何が起きていたのか?
次の日、大学の食堂で待ち合わせをして4人が撮ってきた写真を見せ合ったりしていました。
その日の青木君は、普段通り温和な感じだったので、一人が切り出しました。
「ずっと気になっていたけど、青木はあの夜どこで寝ていたの?」
「あ、それがね……」
青木君があの夜の話を始めました。
「あの日、コンビニに寄ったあと、みんなには心配掛けるといけないと思って内緒にしていたけど、車に酔ったのか気分が悪かったんだ。だからみんなより先にテントで眠らせてもらったんだ。夜中、突然目が覚めて、気が付いたら真っ暗な廃屋の中で一人寝ていてね。ビックリしたよ。僕は急いでテントに戻ろうとしたんだけど、何となくそこの家が居心地が良くて、そのまま寝ちゃったんだ。そして朝、気が付いたらみんなの寝ているテントの前でカセットコンロに火を付けている時に『青木、おはよう』という誰かの声がして、我に返ったって感じがしたんだ。
帰りのコンビニでも、トイレに入った瞬間、また頭がぼーっとしていると、誰かが激しく扉をノックしてきたので驚いて我に返ったんだ。その時、右手になぜかライターを持っていて、火災警報器が反応でもしたのかと驚いたよ」
例の男性に乗り移られたのか?
このお話をお寺で4人からお聞きしている時、青木さんは青ざめておられました。
私はここまでお話を聞かせていただき、要するに、ご老人から聞かれた事件の男性が青木さんに乗り移ったのではないかという事ですかと尋ねました。
すると4人は「はい、間違いなくそうなんです」とおっしゃるのです。
「何か確信できる物があるんですか」
とお聞きしました。
すると、根拠があるんですといって、数枚の写真を見せてくださいました。
1枚はテントの写真でした。その下の方に「む」に似た字が書いてあります。
そして、こちらは携帯電話で撮られた写真でしたが、コンビニエンスストアのトイレの壁に書かれたこれも「む」に似た字の写真でした。
青木さんはもしかしたら自分がテントやトイレに火を着けようとしていたのではないかと震えていました。
私はこの文字を見た途端、すぐにテントと写真をお焚き上げしましょうと提案しました。
皆でお経を挙げさせていただき、これで大丈夫だと思いますが、一応、4人が行かれた廃村の場所をお聞きしました。
この時、4人の学生さんにはお話ししませんでしたが、あの文字は「む」という文字ではありません。
確かに「む」に似てはいますが、あれは「死」という漢字を草書体で書いたものです。
もしかしたら、何かを伝えたい霊がおられて、話を聞いて欲しいと思っておられるのではないかと、廃村の場所にお経を挙げに行こうとしました。
しかし、私が行こうとした時には、村は全て壊され、その後には、植林されることが決まっていました。
今回のことが以前の事件と関係するかどうかは分かりません。ただ、何か怒りから離れられない魂が存在するのかも知れないという悲しい思いが残りました。
今も時々この村のことを思い出してはお経を挙げさせて頂いております。
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(三木 大雲)
外部リンク
遺族の兄が語る弟の生活実態――51歳の男性を孤独死に追い込んだもの
「犬に一部を食べられた」遺体――独身派遣OLはなぜ孤独死を迎えたのか から続く
【写真】51歳の男性が孤独死した自室
日本の全世帯の中でも単独世帯の割合は年々増加し、2016年には約27%に及んでいる(2018年・厚生労働省)。家族と離れて暮らしていたり死別していたりと状況は様々だが、他人との親しい交流がないまま単独で生活をしていることで、健康状態が急激に悪化しても助けを得られず、死後発見されるまで長い時間が空いてしまう。
全国で約3万人にものぼる孤独死の現状を追うフリーライター・菅野久美子氏の著書『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに。』(角川新書)より、一部を引用する。
◇ ◇ ◇
親亡き後のひきこもりが抱える不安
親も老いて、いつかは死ぬ。だからといって「そのとき」に、外部に助けを求めることは難しいだろう。親が亡くなった後、金銭面で苦しくなり最悪、餓死というケースも考えられるが、ひきこもりの支援を行っている関係者によると、親の遺産として500万円以上の現金を所有しながら、セルフネグレクトとなり若くして孤独死したひきこもりの人の例もあった。
私がひきこもりの時は、決して現状でいいと思っているわけではなかった。自分は、このままでいいのか、これから自分はどうなってしまうのか、未来を憂えて焦りばかり募る。なんでこんなことになってしまったのかという、怒りや悲しみ、どうしようもない焦燥感に襲われる。
社会に置いていかれていると感じる日々は、生きながらにして死んでいるような地獄である。そんな孤立した生活は、益々セルフネグレクトを深めて、不摂生な生活へ向かい、知らず知らずのうちに自らを追い込んでいく。
いつか、叔母からの仕送りが止まるかもしれない、そのとき自分はどうなってしまうのだろう──。そんな不安が、高橋の頭の片隅にあったのではないだろうか。
内閣府は2019年4月に初めて、自宅に半年以上閉じこもっている「広義のひきこもり」の40~64歳が、全国で推計61万3000人いるとの調査結果を出した。
引きこもり解決の糸口とは
今後政府が抜本的な対策を打たない限り、8050問題に代表されるように、長期化する中高年のひきこもりが親亡き後に、孤独死や餓死といった最期を迎えるケースも、増えるだろう。
ひきこもりの当事者や家族をはじめ、生きづらさを抱えている人たちが安心して暮らしていける社会を目指して活動する、一般社団法人「OSD(親が死んだらどうしよう)よりそいネットワーク」(東京都豊島区)の代表理事、馬場佳子さんも、ひきこもる人にとって家族の存在がカギになると訴える。
「ご家族にはまず、本人の今の状態を心の底から受け入れていただきたい。親御さんからの相談で一番多いのは『本人に働いてほしい』ということですが、その前にはいろいろなハードルがあります。まずは、本人が置かれている状態まで下りてきていただきたい。人と会うこと自体が怖い人も多いため、本人がまずどういう状態か、心の底から理解してあげることが大切です。
共感してくれたり、信頼してくれたりする人がいると、本人から少しずつ歩み寄っていけます。本人は、『安全なのは自分の周りだけで外の世界は怖い、危険だ』と感じていることも多いのです。そのため、近くにいる親御さんが安全な存在になることが大きな一歩になります」
現役世代の孤独死が4割
日本少額短期保険協会が発表した第4回孤独死現状レポートによると、孤独死の平均年齢は61歳で、高齢者に満たない年齢での孤独死の割合は5割を超え、60歳未満の現役世代は男女ともに、およそ4割を占めるという。これだけ若くして孤独死してしまう人が多いということだ。
もちろん、孤独死の内訳がひきこもりだけとは限らない。しかし、その中にはかなりの数のひきこもりが含まれており、年々増えているとの実感がある。「命」に関わることであることから、この現状に危機感を感じずにはいられない。政府が重い腰を上げたことで、ようやく中高年のひきこもりの実態が昨年明らかになった。それならば、その最終地点である孤独死の実態把握とその対策も、急いで取り組むべき喫緊の課題といえるだろう。
低体温症で亡くなった50代ひきこもり男性
紺野功(60歳)は、そんなひきこもりの弟を孤独死で亡くした遺族の一人だ。
「弟は、孤独そのものだったと思います。親族だからこそ、あいつは孤独だったという印象を持っていますね。あいつの人生をずっと見てきたから。友達もいないし、仕事もほとんどなくなって、ここ数年は家の中にひきこもっている状態でした」
そう言って、紺野はうなだれた。
まだまだ寒さが骨身に染みる2月某日──都内の1LDKのアパートの一室で、システムエンジニアである紺野の弟(51歳)は孤独死していた。
警察によると、死因は低体温症で死後1週間が経過。警察は「数日間は意識のない状態で生存していた可能性がある」と紺野に告げた。
「低体温症って、雪山に行ったときになるイメージがあったんですけど、部屋の中でも室温や体温が影響して起こることがあるみたいなんです。確かに、弟は部屋に暖房設備も付けていなくて、アルコールばかりでろくに食べてもいなかった。それで衰弱したことが突然死に結びついたみたいです」
弟の部屋に足を踏み入れると、どこもかしこもパソコン関連のモノで溢れていた。部屋の奥には、天井まで幾重にも段ボールが積み重なり、今にも崩れ落ちんばかりとなっている。パソコンが38台、モニターが20台以上、ホコリをかぶっていた。
デスクの下には、4リットルのペットボトルの焼酎が二本も置かれていた。弟は仕事が減るにつれてここ2年ほど、お酒を片時も手放さなくなった。大量の新聞紙は片付ける気力すら失ったのか、読んだ形跡もなく、無造作に山となって積み重なっている。
友人なし、恋人なし、家族との距離も遠い
紺野が弟と最後に会ったのは、お正月だった。その日、弟は日に日に増えていく酒量を巡って心配した母親と言い争いになった。それが最後に見た弟の生きている姿だった。
亡くなる数日前にも弟の携帯に電話をしたが、電話口の弟はアルコールのせいか、ろれつが回っていなかった。弟は幼少期から人付き合いが苦手で、内向的で引っ込み思案な性格だった。友達の輪になかなか入ろうとせず、友人の多い紺野とは真逆の性格だった。
大学卒業後、仕事を転々としたが、20代後半から独立。システムエンジニアとしてフリーで仕事を請け負うようになる。事務所兼自宅として使っていたこの物件はその頃に借りたものだった。
一時期は通帳残高が1000万円を超えたときもあったが、内向的な性格と時代の流れもあって、その後仕事は徐々に減り、貯金を食いつぶしながらひきこもりに近い生活を送るようになる。しかし、母親には毎年小遣いを渡す心優しい一面もあった。
紺野が覚えている限り、弟がこれまでに女性とお付き合いした様子はなく、仕事の付き合い以外では、友人もいないようだった。
医療機関の受診をかたくなに拒む
社交的な性格である兄に対して羨望もあったのだろう。「兄貴は外面いいよな」と、嫉妬とも取れる言葉を投げかけられたこともある。家庭持ちで一見順風満帆に見える兄が、羨ましかったのかもしれなかった。紺野にとって、今でも忘れられない出来事がある。
弟は数年前から痛風を患い、立っているのも辛い様子で足を引きずっていたという。
「それだけ体が辛いんだったら病院に行ったほうがいいんじゃないか」と紺野は何度も説得した。しかし、「大丈夫だよ」と言って、医療機関の受診に激しい拒否反応を示し、どんなに症状が悪化しても病院を訪れることはなかった。そもそも弟は健康保険証すら持っていなかったのではないか、と紺野は考えている。
孤独死者の8割はセルフネグレクト
孤独死する人の8割に見られるのが、こうしたセルフネグレクトである。部屋がゴミ屋敷化したり、病気にかかったりするなど、どんなに危機的な状況に陥って命を脅かされることがあっても、頑なに介入や治療を拒否する。また偏った食生活や過度な飲酒などによる不摂生で、自らを緩やかな自殺に追い込んでしまう。紺野の弟の場合も、医療の拒否が死期を早めてしまった可能性がある。
しかし、セルフネグレクトから救い出すことは難しい。当の本人が拒否していることに対して、無理やり介入することはできないからだ。
「弟はひきこもりからセルフネグレクト、そして孤独死と、まさにこの経過をたどったんです。あいつの人生を振り返ったとき、対人関係で良い思いをしたことがないような気がする。
お金をもらうための仕事はしてたけど、あいつにとって人生の楽しみってなんだったんだろう、と考えてしまうんです。ずっと心の中は孤独で、ひきこもりになって、自分自身の人生を放棄するみたいにお酒に溺れていったんじゃないかな」
行政のセーフティーネットにかかりづらい現役世代
友人もいないため、葬儀は母親と紺野の2人のみ立ち会う家族葬となった。幸いにも冬場だったため、遺体の腐敗はなく、棺に納められた弟の顔を見ることができた。
しかし母親は、弟を一目見ると「これは別人だ」とショックを受けた。生前の面影とは似ても似つかないほど、変貌していたのだ。
「弟の顔は、まだ51歳なのに70代に見えたんです。私も最初に遺体を見た時、こんなに白髪があったの? と驚きました。最後に会ったお正月の時とは比べ物にならないくらい、おじいさんに見えました。衝撃を受けているおふくろを横で見ていて、本当にかわいそうだった。
こんな亡くなり方をさせてしまったことに対して、兄としてもっとやれることがあったんじゃないか、と思ったんです。おふくろは、親より先に子供が亡くなるのが一番の親不孝だ、と嘆いていました。おふくろのことを思うと、とにかく不憫でした」
先にも述べたが、孤独死は高齢者の問題だと思われがちだが、実は働き盛りの現役世代のほうがセーフティーネットにかかりづらいということが、筆者の長年の取材からも明らかになっている。
(菅野 久美子)