<戦後75年>ドイツの終戦 「解放の日」へ決意込め

2020年8月12日 07時23分
 日本と同様、先の大戦の敗戦国で、戦後経済復興を成し遂げたドイツ。しかし、終戦のとらえ方は日本とは違うものでした。
 ドイツにとって終戦の日は日本より一足早く、連合国に降伏した五月八日です。この日の意味合いについて、長い間、論争が続いてきましたが、今年、この日開かれた終戦七十五周年式典の演説で、シュタインマイヤー大統領が一つの決着をつけました。いわく、「五月八日は解放の日だった」。
 「心の底からこうした確信が得られるまで、三世代の歳月がかかりました」とも述べました。
 式典はコロナ禍のため、メルケル首相ら三権の長のみ参列し、国民向けにテレビ放映されました。
 ドイツは戦後、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)などナチス政権下の非を認め、被害者らに補償し、被害を受けた国々との和解を図ってきました。
 三世代にわたる和解の努力が、終戦七十五年の「解放の日」演説に結実したともいえます。
 「解放の日」にまず言及したのは西ドイツのワイツゼッカー大統領でした。三十五年前、終戦四十周年の演説で「一九四五年五月八日」を「ドイツ史の誤った流れの終点」と位置付け、ナチスからの「解放の日」であると強調しました。演説は世界的な反響を呼び、歴史に向き合うドイツの姿勢を強く印象付けました。
 しかし当時、敗北を前向きにとらえる演説に反発する人々も少なからずいました。背景には、終戦直後に舐(な)めた辛酸があります。
 ナチ・ドイツは周辺国を占領する侵略戦争を続けましたが、中でも凄惨(せいさん)だったのが対ソ連戦です。人種的に優れたゲルマン民族が劣ったスラブ民族を絶滅、奴隷化するための戦争と位置付け、ソ連西部へと進撃、住民らを虐殺していきました。
 しかし、スターリングラードの攻防に敗れて、撤退を重ね、ソ連軍に首都ベルリンにまで攻め込まれ、ドイツは降伏します。
 戦後、ソ連は領土を西部に拡大します。ポーランドの国境も西へとずれました。その結果、ナチ時代以前から、数世紀にわたって住み続けてきた旧ドイツ領のうち、約四分の一を失います。

◆故郷からの悲惨な追放

 住んでいたドイツ人住民約千五百万人は西部へと追放されます。 ナチ圧政へのうらみもあり、逃走するドイツ人らは報復、暴行、略奪などに遭い、多くの人々が命を落としました。
 ナチへの後ろめたさが強く残っていた西ドイツ時代は声高には語られませんでしたが、東西ドイツ統一後、次第に、追放の不当を主張する声が目立ってきました。
 戦後五十年の九五年には、保守派の政治家らが、ワイツゼッカー氏の「解放の日」との見方を批判し、「追放と(東西ドイツという)国の分割が始まった日」と訴える新聞広告を掲載しました。
 最近では追放の非を訴えてポーランドへの反感を強め、メルケル政権の寛容政策を批判、反移民難民を掲げる新興右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」に接近する政治家らも出てきました。
 五年前に多くの難民を受け入れて以来、社会に不寛容な空気が広がりAfDは躍進、昨年から今年にかけて、難民保護に尽力した政治家暗殺、外国人銃撃、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)襲撃などの陰惨な事件も相次いでいます。
 シュタインマイヤー氏はこれらの事件を列挙し、繰り返さないよう、「解放の日」を、未来に向けたものとしても理解しなければならないと訴えました。
 「解放」すべき軛(くびき)として、ナショナリズムの誘惑、権威主義的な政治、各国間の相互不信、分断、敵対、憎悪、外国人敵視、民主主義軽視−などの「悪の亡霊」を挙げます。「解放」の過程には決して終わりはありません。
 演説はナチ支配下のドイツによる「比類ない犯罪」を改めて認め、「自由と民主主義の追求が、私たちに託され続けているのです」との言葉で結んでいます。

◆民主主義と協調主導へ

 シュタインマイヤー氏の訴えはメディアに評価され、ドイツ社会で受け入れられています。戦後七十五年、故郷を奪われた怨念は薄れ、民主主義と欧州連合(EU)の協調は定着しているようです。
 演説は英語など十カ国語に翻訳され、大統領府のホームページで公開されています。世界に向けての決意表明でもあります。トランプ米政権への不信が広がる中、民主主義や国際協調による結束を主導したい−そんなドイツの自負も感じられます。
 日本語にも訳されています。そのラブコールにも応え、こちらも終戦で手に入れた、自由と民主主義をさらに血の通ったものにしなければ、と思います。

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