区の概要・地名の由来・区のなりたち
2019年10月9日
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福島区の概要
北に新淀川、南は堂島川・安治川に面し、大阪市の西北部に位置しています。
区内に九つの駅を有し、市内中心部への、また、神戸方面への交通の要衝となっています。
・人口 (平成27年国勢調査)
総計:72,484人
男:34,168人
女:38,316人
世帯数:37,510世帯
1世帯数当たりの人員:1.93人
・面積 (平成27年国勢調査)
4.67平方キロメートル
・区の花 「のだふじ」
「のだふじ」は豊かな房が特徴で、平成7年に区の花に制定されました。
この「のだふじ」は、今から約600年前(南北朝時代)その美しさで知られ、「吉野の桜」「高雄の紅葉」とともに三大名所と言われ、野田の藤見物が盛んでした。
江戸時代には、野田村の「藤之宮」と呼ばれた春日社(玉川2丁目)周辺が、藤の名所であったことは「摂津名所図会」に「野田藤春日の林中にあり 昔より紫藤名高くして」と紹介されています。
地名の由来
福島
平家物語の巻11によれば、元暦2年(1185)讃岐の屋島へ平家追討に向かう源義経が、2月16日当地を出航する記事に「渡辺・福島をいでて」とあり、鎌倉期以降この地に福島庄がひらかれていた。
野田
地名は、伝足利義詮著「住吉詣」の貞治3年(1364)の項に「それ(田蓑島)より南にあたりて野田の玉河と云所あり」とみえ、そのころ鷺島庄の一村であった。
玉川
往昔、この地に野田川の細流が、縦横にめぐり堂島川に注いでいた。この野田川は「玉川」とも呼ばれ、川沿いに名勝野田藤が咲き乱れていた。
吉野
野田村の小字名で、大正14年まで西野田吉野町と称した。
大開
野田村の小字名で、大正14年まで西野田大開町と称した。
海老江
「大阪府全志」によれば、当地は古くは海中にあって海老洲と呼ばれたことによるという。「細川両家記」の元亀元年(1570)の記事に、織田信長がこの地を守る三好氏を討つため、中島天満ノ森に着陣した時、「先陣衆は敵近海老江堤田中に陣屋懸けられ候也」と記されている。
鷺洲
海老洲と同様、古く砂洲状を成していた当地は鷺洲(さぎしま)と呼ばれていた。もと西成郡浦江村(現北区)の勝楽寺所蔵の大般若経裏書に「承久3年(1221)3月27日安置摂津国四天王寺御領西成郡鷺島荘浦江村勝楽寺」とある。
区のなりたち
「福島」の地名の由来は、菅原道真公が大宰府に流されるおり、この地に立ち寄ったときに名づけたと伝えられています。また、平家物語には元暦2年 (1185年)2月16日、源義経が平家追討ちに向かった時にこの地をおとずれており、「渡辺・福島をいでて‥‥」と書かれています。このあたり一帯は湿地帯で細い川が縦横無尽に流れ、川沿いにはフジ(のちに野田藤と命名される)の花が咲き乱れるフジの名所として有名であり、足利義詮将軍、豊臣秀吉らがフジ見物におとずれたことが記録されています。
現在の福島区域は、明治22年(1889年)大阪市制の施行時と明治30年・大正14年の市域拡張により、大阪市域に編入されました。明治後期にできた新淀川は、当時の西淀川区の区域を南北に分けてしまいました。昭和18年4月1日、旧西淀川区の海老江・鷺洲と旧此花区の福島・野田地区に北区の一部が加わり福島区が誕生しました。
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