ハリー・ポッターと死の秘宝(下) 20章:Xenophilius Lovegood/ゼノフィリウス・ラブグッド  ハリーは、ハーマイオニーの怒りが一夜にして収まるとは期待していなかった。 だから、翌日の朝、ハーマイオニーが怖い目つきをしたり、当てつけがましく黙り込んだりすることで意思表示をしても、別に驚きはしなかった。 それに応えてロンも、ハーマイオニーがいるところでは後悔し続けていることを形に現すために、ロンらしくもないきまじめな態度を守っていた。 事実、三人でいると、ハリーは、会葬者の少ない葬式で、ただ一人、哀悼の意を表していない人間のような気がした。 しかしロンは、ハリーと二人だけになる数少ない機会が来ると−−−水を汲みに行くとか、下生えの間にキノコを探すとか−−−破廉恥なほどに陽気になった。  「誰かが僕たちを助けてくれたんだ」 ロンは何度もそう言った。 「その人が、あの牝鹿をよこしたんだよ。誰か味方がいるんだ。分霊箱、一丁上がりだぜ、おい!」  ロケットを破壊したことで意を強くした三人は、ほかの分霊箱の在り処を話し合いはじめた。 これまで何度も話し合ったことではあったが、楽観的になったハリーは、最初の突破口に続いて次々と進展があるに違いない、と感じていた。 ハーマイオニーがすねていても、ハリーの高揚した気持は損なえなかった。 突然運が向いてきたこと、不思議な牝鹿が現れたこと、グリフィンドールの剣を手に入れたこと、そして何よりロンが帰ってきた大きな幸福感で、ハリーは、笑顔を見せずにいるのがかなり難しかった。 午後遅く、ハリーはロンと一緒に、不機嫌なハーマイオニーの御前からまた退出させていただき、クロイチゴの実を探すという口実で、何もない生垣の中にありもしない実を漁りなが ら、引き続き互いのニュースを交換し合った。 ハリーはやっと、ゴドリックの谷で起こった詳細を含めて、ハーマイオニーと二人の放浪の旅についてのすべてを話し終え、こんどはロンが、二人と離れていた何週間かに知った魔法界全体のことをハリーに話していた。  「……それで、君たちは、どうやって『禁句』のことがわかったんだ?」  マグル生まれたちが魔法省から逃れるために、必死に手を尽くしているという話をしたあとで、ロンがハリーに聞いた。  「何のこと?」  「君もハーマイオニーも、『例のあの人』の名前を言うのをやめたじゃないか!」  「ああ、それか。まあね、悪い癖がついてしまっただけさ」 ハリーが言った。 「でも、僕は、名前を呼ぶのに問題はないよ。ヴォ−−−」  「ダメだ!」ロンの大声で、ハリーは思わず生垣に飛び込んだ。  テントの入口で、本に没頭していたハーマイオニーは、怖い顔で二人を睨んだ。  「ごめん」 ロンは、ハリーをタロイチゴの茂みから引っ張り出しながら謝った。  「でもさ、ハリー、その名前には呪いがかかっているんだ。それで追跡するんだよ。その名前を呼ぶと、保護呪文が破れる。ある種の魔法の乱れを引き起こすんだ−−−連中はその手で、僕たちをトテナム・コート通りで見つけたんだ!」  「僕たちが、その名前を使ったから?」  「そのとおり! なかなかやるよな。論理的だ。『あの人』に対して真剣に抵抗しょうという者だけが、たとえばダンブルドアだけど、名前で呼ぶ勇気があるんだ。だけど連中がそれを『禁句』にしたから、その名を言えば追跡可能なんだ−−−騎士団のメンバーを見つけるには早くて簡単な方法さ! キングズリーも危うく捕まるとこだった−−−」  「嘘だろ?」  「ほんとさ。死喰い人の一団がキングズリーを追いつめたって、ビルが言ってた。でも、キングズリーは戦って逃げたんだ。いまでは僕たちと同じように、逃亡中だよ」  ロンは杖の先で、考え深げに顎を掻いた。  「キングズリーが、あの牝鹿を送ったとは思わないか?」  「彼の守護霊はオオヤマネコだ。結婚式で見たこと、覚えてるだろ?」  「ああ、そうか……」  二人はなおも生垣に沿って、テントからそしてハーマイオニーから離れるように移動した。  「ハリー……ダンブルドアの可能性があるとは思わないか?」  「ダンブルドアがどうしたって?」  ロンは少しきまりが惑そうだったが、小声で言った。  「ダンブルドアが……牝鹿とか? だってさ……」  ロンは、ハリーを横目でじっと見ていた。 「本物の剣を最後に持っていたのはダンブルドアだ。そうだろ?」  ハリーはロンを笑えなかった。 質問の裏にあるロンの願いが、痛いほどわかったからだ。 ダンプルドアが実はどうにかして三人のところに戻ってきて、三人を見守っている。 そう考えると、何とも表現しがたい安心感が湧く。 しかし、ハリーは首を横に振った。  「ダンブルドアは死んだ」 ハリーが言った。 「僕はその場面を目撃したし、亡骸も見た。間違いなく逝ってしまったんだ。いずれにせよダンブルドアの守護霊は、不死鳥だ。牝鹿じゃない」  「だけど、守護霊は変わる、違うか?」 ロンが言った。 「トンクスのは変わった、だろ?」  「ああ。だけど、もしダンブルドアが生きてるなら、どうして姿を現さないんだ? どうして僕たちに剣を手渡さないんだ?」  「わかるわけないよ」 ロンが言った。 「生きているうちに君に剣を渡さなかったのと、同じ理由じゃないかな? 君に古いスニッチを遺して、ハーマイオニーには子どもの本を遺したのと同じ理由じゃないか?」  「その理由って何だ?」 ハリーは答えほしさに、ロンを真正面から見た。  「さあね」 ロンが言った。 「僕さ、ときどきイライラしてたまんないときなんかに、ダンブルドアが陰で笑ってるんじゃないかって思うことがあったんだ。それとも−−−もしかしたら、わざわざ事を難しくしたがってるだけなんじゃないかって。でもいまは、そうは思わない。『灯消しライター』を僕にくれたとき、ダンブルドアにはすべてお見通しだったんだ。そうだろ?ダンブルドアは−−−えーと」  ロンの耳が真っ赤になり、急に足元の草に気を取られたように、爪先でほじり出した。  「ダンブルドアは、僕が君を見捨てて逃げ出すことを知ってたに違いないよ」  「違うね」 ハリーが訂正した。 「ダンブルドアは、君がはじめからずっと戻りたいと思い続けるだろうって、わかっていたに違いないよ」  ロンは救われたような顔をしたが、それでもまだきまりが悪そうだった。話題を変える意味もあって、ハリーが言った。  「ダンブルドアと言えば、スキーターがダンブルドアについて書いたこと、何か耳にしたか?」  「ああ、聞いた」 ロンが即座に答えた。 「みんな、ずいぶんその話をしてるよ。もち、状況が違えば、すっごいニュースだったろうな。ダンブルドアがグリンデルバルドと友達だったなん てさ。だけどいまは、ダンブルドアを嫌ってた連中が物笑いの種にしてるだけだよ。それと、ダンブルドアをすごくいいやつだと思ってた人にとっちゃ、ちょっと横面を張られたみたいな。だけど、そんなにたいした問題じゃないと息うな。だって、二人は、ダンブルドアがほんとに若いときに−−−」  「僕たちの年齢だ」  ハリーは、ハーマイオニーに言い返したと同じように言った。 そして、ハリーの表情には、ロンに、この話題を続けないほうがいいと思わせる何かがあった。  クロイチゴの茂みに凍ったクモの巣があり、その真ん中に大きなクモがいた。 ハリーは、前の晩にロンからもらった杖でクモに狙いを定めた。 畏れ多くもハーマイオニーが、あれから調べてくれた結果、リンボクの木でできていると判断してくれた杖だ。  「エンゴージオ<肥大せよ>」クモはちょっと震え、巣の上で少し跳しねた。 ハリーは、もう一度やってみた。こんどはクモが少し大きくなった。  「やめてくれ」 ロンが鋭い声を出した。 「ダンブルドアが若かったって言って、悪かったよ。もういいだろう?」  ハリーは、ロンがクモ嫌いなのを忘れていた。  「ごめん−−−レデュシオ<縮め>」  クモは縮まない。ハリーは、あらためてリンボクの杖を見た。 その目に試してみた簡単な呪文のどれもが、不死鳥の杖に比べて効きが弱いような気がした。 新しい杖は、出しゃばりで違和感があった。自分の腕に、誰かほかの人の手を縫いつけたようだった。  「練習が必要なだけよ」  ハーマイオニーが、昔もなく二人の背後から近づいて、ハリーがクモを大きくしたり縮めようとしたりするのを心配そうに見つめていた。  「ハリー、要するに自信の問題なのよ」  ハリーは、ハーマイオニーがなぜ杖に問題がないことを願うのか、その理由がわかっていた。 ハリーの杖を折ったことを、まだ苦にしているのだ。 口まで出かかった反論の言葉を、ハリーは呑み込んだ。 何も違わないと思うなら、ハーマイオニーがリンボクの杖を持てばいい、代わりにハリーが彼女の杖を持つから、と言いたかった。 なぜかハーマイオニー杖はしっくりハリーに馴染んでいたからだ−−−。 しかし、三人の仲が早く元通りになることを願う気持が強かったので、ハリーは逆らわなかった。 ところが、ロンが遠慮がちにハーマイオニーに笑いかけると、ハーマイオニーはつんけんしながら行ってしまい、再び本の陰 に顔を隠してしまった。  暗くなってきたので、三人はテントに戻り、ハリーが最初に見張りに立った。 入口に座り、ハリーはリンボクの杖で足元の小石を浮上させようとした。 しかしハリーの魔法は、相変わらず以前よりぎごちなく、効き目が弱いように思えた。 ハーマイオニーはベッドに横たわって本を読んでいた。 ロンはおどおどしながら、何度もちらちらとハーマイオニーのベッドを見上げていたが、やがてリュックサックから小さな木製のラジオを取り出し、周波数を合わせはじめた。  「一局だけあるんだ」 ロンは声を落としてハリーに言った。 「ほんとのニュースを伝えてるところが。ほかの局は全部『例のあの人』側で、魔法省の受け売りさ。でもこの局だけは……聞いたらわかるよ。すごいんだから。ただ、毎晩は放送できないし、手入れがあるといけないから、しょっちゅう場所を変えないといけないんだ。それに、選局するにはパスワードが必要で……問題は、僕、最後の放送を聞き逃したから……」  ロンは小声で行き当たりばったりの言葉をブツプツ言いながら、ラジオのてっぺんを杖で軽くトントン叩いた。 何度もハーマイオニーを盗み見るのは、明らかに、ハーマイオニーが突然怒り出すことを恐れてのことだ。 しかしハーマイオニーは、まるでロンなどそこにいないかのように、完全無視だった。 十分ほど、ロンはトントンプツプツ、ハーマイオニーは本のページをめくり、ハリーはリンボクの杖の練習を続けていた。  やがてハーマイオニーが、ベッドから降りてきた。ロンは、すぐさまトントンをやめた。  「君が気になるなら、僕、すぐやめる!」 ロンが、ピリピリしながら言った。  ハーマイオニーは、ロンに応えず、ハリーに近づいた。  「お話があるの」 ハーマイオニーが言った。 ハリーは、ハーマイオニーがまだ手にしたままの本を見た。 「アルバス・ダンブルドアの真っ白な人生と真っ赤な嘘」だった。  「なに?」 ハリーは心配そうに聞いた。  その本にハリーに関する章があるらしいことが、ちらりと脳裏を過った。 リータ版の自分とダンブルドアとの関係を、聞く気になれるかどうかハリーには自信がなかった。 しかし、ハーマイオニーの答えは、まったく予想外のものだった。  「ゼノフィリウス・ラブグッドに、会いにいきたいの」  ハリーは目を丸くして、ハーマイオニーを見つめた。  「何て言った?」 「ゼノフィリウス・ラブグッド。ルーナのお父さんよ。会って話がしたいの!」 「あー−−−どうして?」 ハーマイオニーは意を決したように、深呼吸してから答えた。 「あの印なの。『吟遊詩人ピードル』にある印。これを見て!」 ハーマイオニーは、見たくもないと思っているハリーの目の前に、「アルバス・ダンブルドアの真っ白な人生と真っ赤な嘘」を突き出した。 そこには、ダンブルドアがグリンデルバルドに宛てた手紙の写真が載っていた。 あの見慣れた細長い斜めの文字だった。 間違いなくダンブルドアが書いたものであり、リータのでっち上げではないという証拠を見せつけられるのは、いやだった。  「署名よ」 ハーマイオニーが言った。 「ハリー、署名を見て!」  ハリーは言われるとおりにした。一瞬、ハーマイオニーが何を言っているのか、さっぱりわ からなかったが、杖灯りをかざしてよく見ると、ダンブルドアは、アルバスの頭文字の 「A」の代わりに、「吟遊詩人ピードルの物語」に描かれているのと同じ、三角印のミニチュア版を書いていた。  「えー−−−君たち何の話を?」  ロンが恐る恐る聞きかけたが、ハーマイオニーはひと睨みでそれを押さえ込み、またハリーに話しかけた。  「あちこちに、これが出てくると思わない?」 ハーマイオニーが言った。 「これはグリンデルバルドの印だと、ピクトールが言ったのはわかっているけど、でも、ゴドリックの谷の古い墓にも間違いなくこの印があったし、あの墓石は、グリンデルバルドの時代よりずっと前だわ!それに、こんどはこれ! でもね、これがどういう意味なのか、ダンブルドアにもグリンデルバルドにも聞けないし−−−グリンデルバルドがまだ生きているかどうかさえ、私は知らないわ−−−でも、ラブグッドさんなら聞ける。結婚式で、このシンボルを身につけていたんですもの。これは絶対に大事なことなのよ、ハリー!」  ハリーはすぐには答えなかった。やる気十分の、決然としたハーマイオニーの顔を見つめ、それから外の暗闇を見ながら考えた。しばらくして、ハリーが言った。  「ハーマイオニー、もうゴドリックの谷の二の舞はごめんだ。自分たちを説得してあそこに行ったけど、その結果−−−」  「でもハリー、この印は何度も出てくるわ?ダンブルドアが私に『吟遊詩人ピードルの物語』を遺したのは、私たちに、この印のことを調べるようにって言う意味なのよ。違う?」  「またか!」 ハリーは少し腹が立った。 「僕たち、何かと言うと、ダンブルドアが秘密の印とかヒントを遺してくれたに違いないって、思い込もうとしている−−−」  「『灯消しライター』は、とっても役に立ったぜ」 ロンが急に口を挟んだ。 「僕は、ハーマイオニーが正しいと思うな。僕たち、ラブグッドに会いにいくべきだと思うよ」  ハリーは、ロンを睨んだ。 ロンがハーマイオニーの味方をするのは、三角のルーン文字の意味を知りたいという気持とは無関係だと、はっきりわかるからだ。  「ゴドリックの谷みたいには、ならないよ」 ロンがまた言った。 「ラブグッドは、ハリー、君の味方だ。『ザ・クィブラー』は、ずっと君に味方していて、君を助けるべきだって書き続け てる!」  「これは、絶対に大事なことなのよ!」 ハーマイオニーが熟を込めた。  「でも、もしそうなら、ダンブルドアが、死ぬ前に僕に教えてくれていたと思わないか?」  「もしかしたら……もしかしたら、それは、自分で見つけなければいけないことなのじゃないかしら」  ハーマイオニーの言葉の端に、藁にもすがる思いが滲んでいた。  「なるほど」 ロンがへつらうように言った。 「それで辻複が合う」  「合わないわ」 ハーマイオニーがぴしゃりと言った。 「でも、やっぱりラブグッドさんと話すべきだと思うの。ダンブルドアとグリンデルバルドとゴドリックの谷を結ぶ、シンボルでしょう? ハリー、間違いないわ。私たち、これについて知るべきなのよ!」  「多数決で決めるべきだな」 ロンが言った。 「ラブグッドに会うことに賛成の人−−−」  ロンの手のほうが、ハーマイオニーより早く挙がった。ハーマイオニーは手を挙げながら、疑わしげに唇をひくひくさせた。  「ハリー、多数決だ。悪いな」 ロンはハリーの背中をパンと叩いた。  「わかったよ」 ハリーはおかしさ半分、イライラ半分だった。 「ただし、ラブグッドに会ったら、そのあとは、ほかの分霊箱を見つける努力をしよう。いいね? ところでラブグッドたち は、どこに住んでるんだ? ロン、知ってるのか?」  「ああ、僕のうちから、そう遠くない所だ」 ロンが言った。 「正確にはどこだか知らないけど、パパやママが、あの二人のことを話すときは、いつも丘のほうを指差していた。そんなに苦労しなくても見つかるだろ」  ハーマイオニーがベッドに戻ってから、ハリーは声を低くして言った。  「ハーマイオニーの機嫌を取りたいから、賛成しただけなんだろう?」  「ハーマイオニーに嫌われたままは嫌だからね」 ロンが苦笑しながら言った。 「別に君らの仲を裂こうとは思ってないぜ。それとクリスマス休暇だから、ルーナは家にいると思うよ」  翌朝、風の強い丘陵地に「姿現わし」した三人は、オッタリー・セント・キャッチボール村が一望できる場所にいた。 見晴らしのよい地点から眺めると、雲間から地上に斜めに架かった大きな光の架け橋の下で、村は、おもちゃの家が集まっているように見えた。 三人は手をかざして「隠れ穴」 のほうを見ながら、一分か二分、じっとたたずんだが、見えるのは高い生垣と果樹園の木だけだった。 そういうもののおかげで、曲がりくねった小さな家は、マグルの目から安全に隠されていた。  「こんなに近くまで来て、家に帰らないのは変な感じだな」 ロンが言った。  「あら、ついこの間、みんなに会ったばかりとは思えない言い方ね。クリスマスに家にいたくせに」 ハーマイオニーが冷たく言った。  「『隠れ穴』なんかに、いやしないよ!」 ロンはまさか、という笑い方をした。 「家に戻って、僕は君たちを見捨てて帰ってきました、なんて言えるか? それこそ、フレッドやジョージは大喜びしただろうさ。それにジニーなんか、心底理解してくれたろうな」  「だって、それじゃ、どこにいたの?」 ハーマイオニーが驚いて聞いた。  「ビルとフラーの新居。『貝殻の家』だ。ビルは、いままでどんなときも僕をきちんと扱ってくれた。ビルは−−−ビルは僕のしたことを聞いて、感心はしなかったけど、くだくだ言わなかった。僕が本当に後悔してるってこと、ビルにはわかっていたんだ。ほかの家族は、僕がビルのところにいるなんて、誰も知らなかった。ビルがママに、クリスマスにはフラーと二人っきりで過ごしたいから、家には帰らないって言ったんだ。ほら、結婚してから初めての休暇だし。フラーも別に、それでかまわなかったと思うよ。だって、セレスティナ・ワーペック嫌いだしね」  ロンは「隠れ穴」に背を向けた。  「ここを行ってみよう」 ロンは丘の頂上を越える道を、先に立って歩いた。  三人は二、三時間歩いた。ハリーはハーマイオニーの強い意見で、「透明マント」に隠れていた。 低い丘が続く丘陵地には、一軒の小さなコテージ以外は人家がなく、そのコテージにも人影がなかった。  「これが二人の家かしら。クリスマス休暇で出かけたんだと思う?」  窓から覗き込みながらハーマイオニーが言った。 中はこざっぱりとしたキッチンで、窓辺にはゼラニウムが置いてある。 ロンはフンと鼻を鳴らした。  「いいか、僕の直感では、ラブグッドの家なら、窓から覗けば、一目でそれだとわかるはずだ。別な丘陵地を探そうぜ」  そこで三人は、そこから数キロ北へ 「姿くらまし」した。  「ハハーン!」 ロンが叫んだ。  風が三人の髪も服もはためかせていた。 ロンは、三人が現れた丘のいちばん上を指差していた。そこに、世にも不思議な縦に長い家が、くっきりと空にそびえていた。巨大な黒い塔のような家の背後には、午後の薄明かりの空に、ぼんやりとした幽霊のような月がかかっていた。  「あれがルーナの家に違いない。ほかにあんな家に住むやつがいるか? 巨大な城だぜ!」  「何言ってるの? お城には見えないけど」 ハーマイオニーが塔を見て顔をしかめた。  「城は城でもチェスの城さ」 ロンが言った。 「どっちかって言うと塔だけどね」  いちばん足の長いロンが、最初に丘のてっぺんに着いた。 ハリーとハーマイオニーが息を切らし、鳩尾を押さえて追いついたときには、ロンは得意げに笑っていた。  「ズバリあいつらの家だ」 ロンが言った。 「見てみろよ」  手播きの看板が三枚、壊れた門に止めつけてあった。 最初の一枚は「サ・クィブラー編集長 X・ラブグッド」。 二枚目は「ヤドリギは勝手に摘んでください」。 三枚目は「スモモ飛術船に近寄らないてください」と書いてある。  門を開けると、キーキー乳んだ。玄関までのジグザグの道には、さまざまな変わった植物が伸び放題だ。 ルーナがときどきイヤリングにしていた、オレンジ色の兼のような実がたわわに実る潅木もあった。 ハリーはスナーガラフらしきものを見つけ、その萎びた切り株から十分に距離を取った。 玄関の両脇に見張りに立つのは、風に吹き晒されて傾いた豆リンゴの古木が二本。 葉は全部落ちているが、小さな赤い実がびっしりと実り、白いビーズ玉をつけたもじゃもじゃのヤドリギをいくつも冠のように戴いて重そうだ。 鷹のように頭のてっぺんが少しひしゃげた小さなふくろうが一羽、枝に止まって三人をじっと見下ろしていた。  「ハリー、『透明マント』を取ったほうがいいわ」 ハーマイオニーが言った。 「ラブグッドさんが助けたいのは、私たちじゃなくて、あなたなんだから」  ハリーは言われたとおりにして、ハーマイオニーにマントを渡し、ビーズバッグにしまってもらった。 それからハーマイオニーは、厚い黒い扉を三度ノックした。扉には鉄釘が打ちつけて透り、ドアノッカーは鷲の形をしている。 ものの十秒も経たないうちに、扉がパッと開き、そこにゼノフィリウスニフプグッドが立っていた。 裸足で、汚れたシャツ型の寝巻きのようなものを着ている。綿菓子のような長くて白い髪は、汚れてくしゃくしゃだ。 ビルとフラーの結婚式のゼノフィリウスは、これに比べれば確実にめかし込んでいた。  「なんだ? 何事だ? 君たちは誰だ? 何しに来た?」  ゼノフィリウスは甲高い苛立った声で叫び、最初にハーマイオニーを、次にロンを見て、最後にハリーを見た。 とたんに口がぱっくり開き、完壁で滑稽な「O」 の形になった。  「こんにちは、ラブグッドさん」 ハリーは手を差し出した。 「僕、ハリーです。ハリー・ポッターです」  ゼノフィリウスは、握手をしなかった。しかし、斜視でないほうの目が、ハリーの額の傷痕へと走った。  「中に入ってもよろしいでしょうか?」 ハリーが尋ねた。 「お聞きしたいことがあるのですが」  「そ……それはどうかな」 ゼノフィリウスは、囁くような声で言った。そしてゴクリと唾を飲み、さっと庭を見回した。 「衝撃と言おうか……何ということだ……私は……私は、残念ながらそうするべきではないと−−−」  「お時間は取らせません」 ハリーは、この温かいとは言えない対応に、少し失望した。  「私は−−−まあ、いいでしょう。入りなさい。急いで。急いで!」  敷居を跨ぎきらないうちに、ゼノフィリウスは扉をバタンと閉めた。 そこは、ハリーがこれまで見たこともない、へんてこなキッチンだった。 れの中にいるような気がする。何もかもが、壁にぴスレンジも流し台も、食器棚も全部がだ。 それに、完全な円形の部屋で、まるで巨大な胡椒入ったりはまるような曲線になっている。 すべてに鮮やかな原色で花や虫や鳥の絵が描いてある。 ハリーはルーナ好みだと思ったが、こういう狭い空間では、やや極端すぎる効果が出ていた。  床の真ん中から上階に向かって、鍛鉄の螺旋階段が伸びている。 上からはガチャガチヤ、パンパンとにぎやかな音が聞こえていた。 ハリーは、いったいルーナは何をしているのだろうと思った。  「上に行ったほうがいい」ゼノフィリウスは、相変わらずひどく落ち着かない様子で、先に立って案内した。 二階は居間と作業場を兼ねたようなところで、そのためキッチン以上にごちゃごちゃしていて、かつて見た「必要の部屋」 の様子を彷彿とさせた。 部屋が、何世紀にもわたって隠された品々で埋まった巨大な迷路に変わったときの、あの忘れられない光景だ。 もっとも、ここはあの部屋よりは小さく、完全な肝旧`しではあったが、本や書類がありとあらゆる平面に積み上げられているし、天井からは、ハリーには何だかわからない生き物の精巧な模型が、羽ばたいたり顎をバクバク動かしたりしながらぶら下がっていた。  ルーナはそこにいなかった。さっきのやかましい音を出していたものは、歯車や回転盤が魔法で回っている木製の物体だった。作業台と古い棚を一組くっつけた奇想天外な作品に見えた が、しばらくしてハリーは、それが旧式の印刷機だと判断した。「ザ・クィブラー」がどんどん刷り出されていたからだ。  「失礼」ゼノフィリウスはその機械につかつかと近づき、膨大な数の本や書類の載ったテーブルから汚らしいテーブルクロスを抜き取って−−−本も書類も全部床に転がり落ちたが−−−印刷機に被せた。 ガチャガチャ、パンパンの騒音はそれで少し抑えられた。ゼノフィリウスは、あらためてハリーを見た。  「どうしてここに来たのかね?」  ところが、ハリーが口を開くより前に、ハーマイオニーが驚いて小さな叫び声を上げた。  「ラブグッドさん−−−−−あれは何ですか?」  指差していたのは、壁に取りつけられた螺旋状の巨大な灰色の角で、一角獣のものと言えなくもなかったが、壁から一メートルほども突き出している。  「しわしわ角スノーカックの角だが」ゼノフィリウスが言った。 「いいえ、違います!」 「ハーマイオニー」 ハリーはばつが悪そうに小声で言った。 「今はそんな事を−−−」 「でもハリー、あれはエルンペントの角よ!取引可能品目Bクラス、危険物扱いで、家の中に置くには危険すぎる品だわ!」 「どうしてエルンペントの角だって解るんだ?」 ロンは身動きもままならないほど、雑然とした部屋の中を、出来るだけ急いで角から離れた。 「『幻の生物とその生息地』に説明があるわ!ラブグッドさん、それをすぐに捨てないと。ちょっとでも触れたら爆発するかもしれないってご存知ではないんですか?」 「しわしわ角スノーカックは」 ゼノフィリウスは、てこでも動かない顔ではっきり言った。 「恥かしがりやで、高度な魔法生物だ。その角は−−−」 「ラブグッドさん、角の付け根に溝が見えます、あれはエルンペントの角で、信じられないくらい危険なものです−−−どこで手に入れられたかは知りませんが−−−」 「買いましたよ」 ゼノフィリウスは誰が何と言おうと、という調子だった。 「二週間前、私がスノーカックという素晴らしい生物に興味があることを知った、気持ちの良い若い魔法使いからだ。クリスマスにルーナをびっくりさしてやりたくてね。さて−−−」 ゼノフィリウスはハリーに向き直った。 「ミスター・ポッター。いったいどういう用件で来られたのかな?」 「助けていただきたいのです」 ハーマイオニーが何か言い出す前にハリーは答えた。 「ああ、助けね。ふむ」 ゼノフィリウスが言った。 斜視でない方の目が、またハリーの傷痕へと動いた。 怯えながら同時に魅入られているようにも見えた。 「そう。問題は……ハリー・ポッターを助ける事……かなり危険だ……」 「ハリーを助ける事が第一の義務だって、みんなに言っていたのはあなたじゃないですか?」 「ロンが言った。「あなたのあの雑誌で?」 ゼノフィリウスはテーブルクロスに覆われてもまだ喧しく動いている印刷機を、ちらりと振り返った。 「あー−−−そうだ。そういう意見を表明してきた。しかし−−−」 「−−−他の人がする事であなた自身ではないって事ですか?」ロンが言った。 ゼノフィリウスは何も答えなかった。唾を何度も飲み込み、目が三人の間を素早く往ったり来たりした。 ハリーはゼノフィリウスが心の中で何かもがいているような感じを受けた。 「ルーナはどこかしら?」 ハーマイオニーが聞いた。 「ルーナがどう思うか聞きましょう」 ゼノフィリウスはゴクリと大きく唾を飲んだ。覚悟を決めているように見えた・ しばらくしてやっと、印刷機の音にかき消されて聞き取り難いほどの震え声で答えが返ってきた。 「ルーナは川に行っている。川にプリンピーを釣りに。ルーナは君たちに会いたいだろう。呼びに行ってこよう。それから−−−そう、よろしい。君を助けることにしよう」  ゼノフィリウスは螺旋階段を下りて、姿が見えなくなった。玄関の扉が開いて、閉まる音が聞こえた。三人は顔を見合わせた。  「臆病者のクソチビめ」 ロンが言った。 「ルーナのほうが十倍も肝が太いぜ」  「僕がここに来たことが死喰い人に知れたら、自分たちはどうなるかって、たぶんそれを心配してるんだろう」 ハリーが言った。  「そうねぇ、私はロンと同じ意見よ」 ハーマイオニーが言った。 「偽善者もいいとこだわ。ほかの人にはあなたを助けるように言っておきながら、自分自身はこそこそ逃げ出そうとするなんて。それに、お願いだから、その角から離れてちょうだい」 彼が接触する人は誰でも危険にさらされるのだ。ゼノフィリウスの態度がそれを示していた。 だから、ハーマイオニーのハリーへの勇気と愛情にハリーは改めて感謝した。  ハリーは、部屋の反対側にある窓に近寄った。ずっと下のほうに川が見える。 丘の麓を、光るリボンのように細く流れている。 この家は、ずっと高いところにある。ハリーは「隠れ穴」の方角をじっと見つめた。 すると、窓の外を鳥が羽ばたいて通り過ぎた。「隠れ穴」は、別の丘の稜線の向こうで、ここからは見えない。 皆は、どこかあのあたりにいる。ビルとフラーの結婚式以来、二人はいちばん近くにいるのに、自分がいまジニーのことを考えながら、その方向を眺めていることをジニーは知る由もない。 そのほうがいいと思うべきなのだ。自分が接触した人は、みんな危険に晒されるのだから。 ゼノフィリウスの態度がいい証拠だ。 窓から目を離すと、ハリーの目に別の奇妙なものが飛び込んできた。 壁に沿って曲線を描く、ごたごたした戸棚の上に置かれている石像だ。 美しいが厳めしい顔つきの魔女の像が、世にも不思議な髪飾りをつけている。 髪飾りの両脇から、金のラブパ型補聴器のようなものが飛び出ている。 小さなキラキラ光る青い翼が一対、頭のてっぺんを通る革紐に差し込まれ、オレンジ色の蕪が一つ、額に巻かれたもう一本の紐に差し込まれていた。  「これを見てよ」 ハリーが言った。  「ぐっと来るぜ」 ロンが言った。 「結婚式になんでこれを着けてこなかったのか、謎だ」  玄関の扉が閉まる音がして、まもなくゼノフィリウスが、螺旋階段を上って部屋に戻ってきた。 細い両足をゴム長に包み、バラバラなティーカップをいくつかと、湯気を上げたティーポットの載った盆を持っている。  「ああ、私のお気に入りの発明を見つけたようだね」  盆をハーマイオニーの腕に押しっけたゼノフィリウスは、石像のそばに立っているハリーのところに行った。  「まさに打ってつけの、麗しのロウエナ・レイブンクローの頭をモデルに制作した。計り知れぬ英知こそ、われらが最大の宝なり!」  ゼノフィリウスは、ラッパ型補聴器のようなものを指差した。  「これはラックスパート吸い上げ管だ−−−思考する者の身近にあるすべての雑念の源を取り除く。これは」 こんどは小さな翼を指差した。 「ビリーウィグのプロペラで、考え方や気分を高揚させる。極めつきは」オレンジの蕪を指していた。 「スモモ飛行船だ。異常なことを受け入れる能力を高めてくれる」  ゼノフィリウスは、大股で盆のほうに戻った。ハーマイオニーは盆をごちゃごちゃしたサイドテーブルの一つに載せて、何とかバランスを保っていた。  「ガーディルートのハーブティーはいかがかな?」ゼノフィリウスが勧めた。 「自家製でね」  赤蕪のような赤紫色の飲み物を注ぎながら、ゼノフィリウスが言葉を続けた。  「ルーナは『端の橋』の向こうにいる。君たちがいると聞いて興奮しているよ。おっつけ来るだろう。我々全員分のスープを作るぐらいのプリンピーを釣っていたからね。さあ、掛けて、砂糖は自分で入れてくれ」  「さてと−−−」 ゼノフィリウスは、肘掛椅子の上でぐらぐらしていた書類の山を降ろして腰掛け、ゴム長履きの足を組んだ。 「ミスター・ポッター、何をすればよいのかな?」  「えーと」  ハリーはちらりとハーマイオニーを見た。ハーマイオニーは、がんばれというように頷いた。 「ラブグッドさん、ビルとフラーの結婚式に、あなたが首から下げていた印のことですけど。あれに、どういう意味があるのかと思って」  ゼノフィリウスは、両方の眉を吊り上げた。  「『死の秘宝』の印のことかね?」 21章:The Tale of the Three Brothers/三兄弟の物語  ハリーは、ロンとハーマイオニーを見たが、どちらも、ゼノフィリウスの言ったことが理解できなかったようだった。  「死の秘宝?」  「そのとおり」ゼノフィリウスが言った。 「聞いたことがないのかね? まあそうだろうね。信じている魔法使いはほとんどいない。君の兄さんの結婚式にいた、あの戯けた若者がいい証拠だ」 ゼノフィリウスは、ロンに向かって頷いた。 「悪名高い闇の魔法使いの印を見せびらかしていると言って、私を攻撃した! 無知も甚だしい。秘宝には闇の『や』の字もない−−−少なくとも、一般的に使われている単純な闇の意味合いはない。あのシンボルは、ほかの信奉者が『探求』を助けてくれることを望んで、自分が仲間であることを示すために使われるだけのことだ」  ゼノフィリウスは、ガーディルートのハーブティーに角砂糖を数個入れて掻き回し、一口飲んだ。  「すみませんが」 ハリーが言った。 「僕には、まだよくわかりません」  ハリーも失礼にならないようにと一口飲んだが、ほとんど吐き出すところだった。鼻くそ味の百味ピーンズを液体にしたような、むかむかするひどい味だ。  「そう、いいかね、信奉者たちは、『死の秘宝』を求めているのだ」  ゼノフィリウスは、ガーディルート・ティーがいかにもうまいとばかりに、舌鼓を打った。  「でも、『死の秘宝』って、いったい何ですか?」 ハーマイオニーが聞いた。  ゼノフィリウスは、空になったカップを横に置いた。  「君たちは、『三人兄弟の物語』をよく知っているのだろうね?」  ハリーは「いいえ」と言ったが、ロンとハーマイオニーは同時に「はい」と言った。  ゼノフィリウスは重々しく頷いた。  「さてさて、ミスター・ポッター、すべては『三人兄弟の物語』から始まる……どこかにその本があるはずだが……」 ゼノフィリウスは漠然と部屋を見回し、羊皮紙や本の山に目をやったが、ハーマイオニーが「ラブグッドさん、私がここに持っています」と言った。  そしてハーマイオニーは、小さなビーズバッグから「吟遊詩人ピードルの物語」を引っ張り出した。  「原書かね?」ゼノフィリウスが鋭く聞いた。 ハーマイオニーが領くと、「さあ、それじゃ、声を出して読んでみてくれないか? みんなが理解するためには、それがいちばんよい」とゼノフィリウスが言った。  「あっ……わかりました」 ハーマイオニーは、緊張したように答えて本を開いた。 ハーマイオニーが小さく咳払いして読みはじめたとき、ハリーはそのページのいちばん上に、自分たちが調べている印がついているのに気づいた。  「昔々、三人の兄弟がさびしい曲がりくねった道を、夕暮れ時に旅していました」  「真夜中だよ。ママが僕たちに話して聞かせるときは、いつもそうだった」  両腕を頭の後ろに回し、体を伸ばして聞いていたロンが言った。ハーマイオニーは、邪魔しないで、という目つきでちらりとロンを見た。  「ごめん、真夜中のほうが、もうちょっと不気味だろうと思っただけさ!」  「うん、そりゃあ、僕たちの人生には、もうちょっと恐怖が必要だしな」 ハリーは思わず口走った。ゼノフィリウスはあまり注意して聞いていない様子で、窓の外の空を見つめていた。  「ハーマイオニー、続けてよ」  「やがて兄弟は、歩いては渡れないほど深く、泳いで渡るには危険すぎる川に着きました。 でも三人は魔法を学んでいたので、杖を一振りしただけでその危なげな川に橋を架けました。 半分ほど渡ったところで三人は、フードを被った何者かが行く手を塞いでいるのに気がつきました」  「そして、『死』が三人に語リかけました−−−」  「ちょっと待って」 ハリーが口を挟んだ。「『死』が語りかけたって?」  「お伽噺なのよ、ハリー」  「そうか、ごめん。続けてよ」  「そして、『死』が三人に語りかけました。三人の新しい獲物にまんまとしてやられてしまったので、『死』は怒っていました。というのも、旅人はたいてい、その川で溺れ死んでいたからです。でも『死』は狡猾でした。三人の兄弟たちが魔法を使った事を誉めるふりをしました。そして、『死』を免れるほど賢い三人に、それぞれ褒美をあげると言いました」  「二番上の兄は戦闘好きでしたから、存在するどの杖よりも強い杖をくださいと言いました。決闘すれば必ず持ち主が勝つという、『死』を克服した魔法使いにふさわしい杖を要求したのです! そこで『死』は、川岸のニワトコの木まで歩いていき、下がっていた枝から一本の杖を作り、それを一番上の兄に与えました」  「二番目の兄は、倣慢な男でしたから、『死』をもっと辱めてやりたいと恩いました。そこで、人々を『死』から呼び戻す力を要求しました。すると『死』は、川岸からし個の石を拾って二番目の兄に与え、こう言いました。この石は死者を呼び戻す力を持つであろう」  「さて次に、『死』はいちばん下の弟に何がほしいかと尋ねました。三番目の弟は、兄弟の中でいちばん謙虚で、しかもいちばん賢い人でした。そして、『死』を信用していませんでした。そこでその弟は、『死』に跡を追けられずに、その場から先に進むことができるようなものがほしいと言いました。そこで『死』は渋々、自分の持ち物の『透明マント』を与えました」  「『死』が『透明マント』を持っていたの?」 ハリーはまた口を挟んだ。  「こっそり人間に忍び寄るためさ」 ロンが言った。「両腕をひらひら振って、叫びながら走って襲いかかるのに飽きちゃうことがあってさ……ごめん、ハーマイオニー」  「それから『死』は、道を開けて三人の兄弟が旅を続けられるようにしました。三人はいましがたの冒険の不思議さを話し合い、『死』の贈り物に感嘆しながら旅を続けました」  「やがて三人は別れて、それぞれの目的地に向かいました」  二番上の兄は、一週間ほど旅をして、遠い村に着き、争っていた魔法使いを探し出しました。『ニワトコの杖』が武器ですから、当然、その後に起こった決闘に勝たないわけはありません。死んで床に倒れている敵を置き去りにして、一番上の兄は旅寵に行き、そこで『死』そのものから奪った強力な杖について大声で話し、自分は無敵になったと自慢しました」  「その晩のことです。一人の魔法使いが、ワインに酔いつぶれて眠っている一番上の兄に忍び寄りました。その盗人は杖を奪い、ついでに一番上の兄の喉を掻き切りました」  「そうして『死』は、一番上の兄を自分のものにしました」  一方、二番目の兄は、一人暮らしをしていた自分の家に戻りました。そこですぐに死人を呼び戻す力のある石を取り出し、手の中で三度回しました。驚いたことに、そしてうれしいことに、若くして死んだ、その昔結婚を夢見た女性の姿が現れました」 「しかし、彼女は悲しそうで冷たく、二番目の兄とはベールで仕切られているかのようでした。この世に戻ってきたものの、その女性は完全にはこの世には馴染めずに苦しみました。二番目の兄は、望みのない思慕で気も狂わんばかりになり、彼女と本当に一緒になるために、とうとう自らの命を絶ちました」  「そうして『死』は、二番上の兄を自分のものにしました」  「しかし三番目の弟は、『死』が何年探しても、決して見つけることができませんでした。三番目の弟は、とても高齢になったときに、ついに『透明マント』を脱ぎ、息子にそれを与えました。そして三番目の弟は、『死』を古い友人として迎え、喜んで『死』とともに行き、同じ仲間として、一緒にこの世を去りましたとさ」  ハーマイオニーは本を閉じた。ゼノフィリウスは、ハーマイオニーが読み終えたことにすぐには気づかず、一瞬、間を置いてから、窓を見つめていた視線を外して言った。 「まあ、そういうことだ」 「え?」 ハーマイオニーは混乱したような声を出した。 「それらが、『死の秘宝』だよ」ゼノフィリウスが言った。 ゼノフィリウスは、肘のところにある散らかったテーブルから羽根ペンを取り、積み重ねられた本の山の中から破れた羊皮紙を引っ張り出した。  「ニワトコの杖」ゼノフィリウスは、羊皮紙に縦線をまっすぐ一本引いた。「蘇りの石」と言いながら縦線の上に円を描き足し、「透明マント」と言いながら、縦線と円とを三角で囲んで、ハーマイオニーの関心を引いていたシンボルを措き終えた。  「三つを一緒にして」ゼノフィリウスが言った。 「死の秘宝」  「でも、『死の秘宝』という言葉は、物語のどこにも出てきません」  ハーマイオニーが言った。  「それは、もちろんそうだ」  ゼノフィリウスは、腹立たしいほど取り澄ました顔だった。  「それは子どものお伽噺だから、知識を与えるというより楽しませるように語られている。しかし、こういうことを理解している我々の仲間には、この昔話が、三つの品、つまり『秘宝』に言及していることがわかるのだ。もし三つを集められれば、持ち主は死を制する者となるだろう」 一瞬の沈黙が訪れ、その間にゼノフィリウスは窓の外をちらりと見た。太陽はもう西に傾いていた。  「ルーナはまもなく、十分な数のプリンピーを捕まえるはずだ」ゼノフィリウスが低い声で言った。  「『死を制する者』っていうのは−−−」 ロンが口を開いた。  「制する者」ゼノフィリウスは、どうでもよいというふうに手を振った。 「征服者。勝者。言葉は何でもよい」  「でも、それじゃ……つまり……」  ハーマイオニーがゆっくりと言った。ハリーには、疑っていることが少しでも声に表れないように努力しているのだとわかった。 「あなたは、それらの品『秘宝』−−−が実在すると信じているのですか?」  ゼノフィリウスは、また眉を吊り上げた。  「そりゃあ、もちろんだ」  「でも、ラブグッドさん、どうして信じられるのかしら−−−?」 その声で、ハリーは、ハーマイオニーの抑制が効かなくなりはじめているのを感じた。  「お嬢さん、ルーナが君のことをいろいろ話してくれたよ」ゼノフィリウスが言った。 「君は知性がないわけではないとお見受けするが、気の毒なほど想像力がかぎられている。偏狭で頑迷だ」  「ハーマイオニー、あの帽子を試してみるべきじゃないかな」  ロンがばかばかしい髪飾りを顎でしゃくった。笑い出さないように堪える辛さで、声が震えていた。  「ラブグッドさん」 ハーマイオニーがもう一度聞いた。 「『透明マント』の類が存在することは、私たち三人とも知っています。珍しい品ですが、存在します。でも−−−」  「ああ、しかし、ミス・グレンジャー、三番目の秘宝は本物の『透明マント』なのだ! つまり、旅行用のマントに『目くらまし術』をしっかり染み込ませたり、『眩惑の呪い』をかけたりした品じゃないし、葉隠れ獣の毛で織ったものでもない。この織物は、はじめのうちこそ隠してくれるが、何年か経つと色礎せて半透明になってしまう。本物のマントは、着ると間違いなく完全に透明にしてくれるし、永久に長持ちする。どんな呪文をかけても見通せないし、いつも間違いなく隠してくれる。ミス・グレンジャー、そういうマントをこれまで何枚見たかね?」  ハーマイオニーは答えようとして口を開いたが、ますます混乱したような顔でそのまま閉じた。 ハリーたち三人は顔を見合わせた。ハリーは、みなが同じことを考えていると思った。 この瞬間、ゼノフィリウスがたったいま説明してくれたマントと寸分適わぬ品が、この部屋に、しかも自分たちの手にある。  「そのとおり」  ゼノフィリウスは、論理的に三人を言い負かしたというような調子だった。  「君たちはそんな物を見たことがない。持ち主はそれだけで、計り知れないほどの富を持つと言えるだろう。違うかね?」  ゼノフィリウスは、また窓の外をちらりと見た。空はうっすらとピンクに色づいていた。  「それじゃ」 ハーマイオニーは落ち着きを失っていた。 「その『マント』は実在するとしましょう……ラブグッドさん、石のことはどうなるのですか? あなたが『蘇りの石』と呼ばれた、その石は?」  「どうなるとは、どういうことかね?」  「あの、どうしてそれが現実のものだと言えますか?」  「そうじゃないと証明してごらん」ゼノフィリウスが言った。  ハーマイオニーは憤慨した顔をした。  「そんな−−−失礼ですが、そんなこと愚の骨頂だわ!実在しないことをいったいどうやって証明できるんですか? たとえば、私が石を−−−世界中の石を集めてテストすればいいとでも? つまり、実在を信ずる唯一の根拠が、その実在を否定できないということなら、何だって実在すると言えるじゃないですか?」  「そう言えるだろうね」ゼノフィリウスが言った。 「君の心が少し開いてきたようで、喜ばしい」  「それじゃ、『ニワトコの杖』は」 ハーマイオニーが反論する前に、ハリーが急いで聞いた。 「それも実在すると思われますか?」  「ああ、まあ、この場合は、数えきれないほどの証拠がある」ゼノフィリウスが言った。 「秘宝の中でも『ニワトコの杖』は最も容易に跡を追える。杖が手から手へと渡る方法のせいだがね」  「その方法って?」 ハリーが聞いた。  「その方法とは、真に杖の所持者となるためには、その前の持ち主から杖を奪わなければならないということだ。『極悪人エグバート』が『悪人エメリック』を虐殺して杖を手に入れた話は、もちろん聞いたことがあるだろうね? ゴデロットが、息子のヘレワードに杖を奪われて、自宅の地下室で死んだ話も? あの恐ろしいロクシアスが、バーナバス・デベリルを殺して、杖を手に入れたことも?『ニワトコの杖』の血の軌跡は、魔法史のページに点々と残っている」  ハリーはハーマイオニーをちらりと見た。顔をしかめてゼノフィリウスを見てはいたが、ハーマイオニーは反対を唱えなかった。  「それじゃ、『ニワトコの杖』は、いまどこにあるのかなあ?」 ロンが聞いた。  「鳴呼、誰ぞ知るや?」ゼノフィリウスは窓の外を眺めながら言った。 「『ニワトコの杖』がどこに隠されているか、誰が知ろう? アーカスとリビウスのところで、跡が途絶えているのだ。ロクシアスを打ち負かして杖を手に入れたのがどちらなのか、誰が知ろう? そのどちらかを、また別の誰が負かしたかもしれぬと、誰が知ろう? 歴史は、鳴呼、語ってくれぬ」 一瞬の沈黙の後、ハーマイオニーが切り口上に質問した。  「ラブグッドさん、ペベレル家と『死の秘宝』は、何か関係がありますか?」  ゼノフィリウスは度肝を抜かれた顔をし、ハリーは記憶の片隅が揺すぶられた。 しかし、ハリーにはそれが何なのか、はっきりとは思い出せなかった。ペベレル……どこかで聞いた名前だ……。  「なんと、お嬢さん、私はいままで勘違いをしていたようだ!」  ゼノフィリウスは椅子にしゃんと座り直し、驚いたように目玉をぎょろぎょろさせてハーマイオニーを見ていた。  「君を『秘宝の探求』の初心者とばかり思っていた! 探求者たちの多くは、ペベレルこそ『秘宝』のすべてを−−−すべてを−−− 握っていると考えている!」  「ペベレルって誰?」 ロンが聞いた。  「ゴドリックの谷に、その印がついた墓石があったの。その墓の名前よ」 ゼノフィリウスをじっと見たまま、ハーマイオニーが答えた。 「イグノタス・ペベレル」  「いかにもそのとおり!」ゼノフィリウスは、ひとくさり論じたそうに人差し指を立てた。 「イグノタスの墓の『死の秘宝』の印こそ、決定的な証拠だ!」  「何の?」 ロンが聞いた。  「これはしたり!物語の三兄弟とは実在するペベレル家の兄弟、アンチオク、カドマス、イグノタスであるという証拠だ!三人が秘宝の最初の持ち主たちだという証拠なのだ!」  またしても窓の外に目を走らせると、ゼノフィリウスは立ち上がって盆を取り上げ、螺旋階段に向かった。  「夕食を食べていってくれるだろうね?」再び階下に姿を消したゼノフィリウスの声が聞こえた。 「誰でも必ず、川プリンピースープのレシピを聞くんだよ」  「たぶん、聖マンゴの中毒治療科に見せるつもりだぜ」 ロンがこっそり言った。  ハリーは、下のキッチンでゼノフィリウスが動き回る音が聞こえてくるのを待って、口を開いた。  「どう思う?」 ハリーはハーマイオニーに聞いた。  「ああ、ハリー」 ハーマイオニーはうんざりしたように言った。「ばかばかしいの一言よ。あの印の本当の意味が、こんな話のはずはないわ。ラブグッド独特のへんてこな解釈にすぎないのよ。時間の無駄だったわ」  「『しわしわ角スノーカック』を世に出したやつの、いかにも言いそうなことだぜ」 ロンが言った。  「君も信用していないんだね?」 ハリーが聞いた。  「ああ、あれは、子どもたちの教訓になるようなお伽噺の一つだろ?『君子危うきに近寄らず、喧嘩はするな、寝た子を起こすな、目立つな、余計なお節介をやくな、それで万事オッケー』。そう言えば−−−」 ロンが言葉を続けた。 「ニワトコの杖が不幸を招くって、あの話から来てるのかもな」  「何の話だ?」  「迷信の一つだよ。『真夏生まれの魔女は、マグルと結婚する』、『朝に呪えば、夕べには解ける』『ニワトコの杖、永久に不幸』。聞いたことがあるはずだ。僕のママなんか、迷信どっさりさ」  「ハリーも私も、マグルに育てられたのよ」 ハーマイオニーがロンの勘違いを正した。 「私たちの教えられた迷信は違うわ」  そのときキッチンからかなりの刺激臭が漂ってきて、ハーマイオニーは深いため息をついた。ゼノフィリウスにイライラさせられたおかげで、ハーマイオニーがロンへの苛立ちを忘れてしまったのは、幸いだった。  「あなたの言うとおりだと恩うわ」 ハーマイオニーがロンに話しかけた。 「単なる道徳話なのよ。どの贈り物がいちばんよいかは明白だわ。どれを選ぶべきかと言えば−−−」  三人が同時に声を出した。ハーマイオニーは「マント」、ロンは「杖」、そしてハリーは「石」と言った。  三人は、驚きとおかしさが半々で顔を見合わせた。  「『マント』と答えるのが正解だろうとは思うけど」 ロンがハーマイオニーに言った。 「でも、杖があれば、透明になる必要はないんだ。『無敵の杖』だよ、ハーマイオニー、しっかりしろ!」  「僕たちにはもう、『透明マント』があるんだ」 ハリーが言った。  「それに、私たち、それにずいぶん助けられたわ。お忘れじゃないでしょうね!」  ハーマイオニーが言った。 「ところが杖は、間違いなく面倒を引き起こす運命−−−」  「−−−大声で宣伝すれば、だよ」 ロンが反論した。 「間抜けならってことさ。杖を高々と掲げて振り回しながら踊り国って、歌うんだ。『無敵の杖を持ってるぞ、勝てると思うならかかってこい』なんてさ。口にチャックしておけば−−−」  「ええ、でも口にチャックしておくなんて、できるかしら?」 ハーマイオニーは疑わしげに言った。 「あのね、ゼノフィリウスの話の中で、真実はたった一つ、何百年にもわたって、強力な杖に関するいろいろの話があったということよ」  「あったの?」 ハリーが聞いた。  ハーマイオニーはひどくイライラした顔をしたが、それがいかにもハーマイオニーらしくて憎めない顔だったので、ハリーとロンは顔を見合わせてニヤリとした。  「『死の杖』、『宿命の杖』、そういうふうに名前の違う杖が、何世紀にもわたってときどき現れるわ。たいがい闇の魔法使いの持つ杖で、持ち主が杖の自慢をしているの。ピンズ先生が何度かお話されたわ−−−でも−−−ええ、すべてナンセンス。杖の力は、それを使う魔法使いの力次第ですもの。魔法使いの中には、自分の杖がほかのより大きくて強いなんて、自慢したがる人がいるというだけよ」  「でも、こうは考えられないか?」 ハリーが言った。 「そういう杖は『死の杖』とか『宿命の杖』だけど−−−同じ杖が、何世紀にもわたって、名前を変えて登場するって」  「おい、そいつらは全部、『死』が作った本物の『ニワトコの杖』だってことか?」 ロンが言った。  ハリーは笑った。ふと思いついた考えだったが、結局、ありえないと思ったからだ。 ヴォルデモートに空中追跡されたあの晩、ハリーの杖が何をしたにしても、あの杖は柊でニワトコではなかったし、オリバンダーが作った杖だ。 ハリーはそう自分に言い聞かせた。それに、もしハリーの杖が無敵だったのなら、折れてしまうわけがない。  「それじゃ、君はどうして石を選ぶんだ?」 ロンがハリーに聞いた。  「うーん、もしそれで呼び戻せるなら、シリウスも……マッド・アイも……ダンブルドアも……僕の両親も……」  ロンもハーマイオニーも笑わなかった。  「でも、『吟遊詩人ピードルの物語』では、死者は戻りたがらないということだったよね?」 いま聞いたばかりの話を思い出しながら、ハリーが言った。 「ほかにも、石が死者を蘇らせる話がたくさんあるってわけじゃないだろう?」  ハリーはハーマイオニーに聞いた。  「ないわ」 ハーマイオニーが悲しそうに答えた。 「ラブグッドさん以外に、そんなことが可能だと思い込める人はいないでしょうよ。ピードルはたぶん、『賢者の石』から思いついたんだと思うわ。つまり、不老不死の石の代わりに、死を逆戻しする石にして」  キッチンからの悪臭は、ますます強くなってきた。下着を焼くような臭いだ。 せっかくの気持を傷つけないようにしたくとも、どれだけゼノフィリウスの料理が食べられるか、ハリーには自信がなかった。  「でもさ、『マント』はどうだ?」 ロンはゆっくりと言った。 「あいつの言うことが正しいと思わないか? 僕なんか、ハリーの『マント』に慣れっこになっちゃって、どんなにすばらし いかなんて、考えたこともないけど、ハリーの持っているようなマントの話は、ほかに聞いたことないぜ。絶対確実だものな。僕たち、あれを着てて見つかったことないし」  「当たり前でしょ−−−あれを着ていれば見えないのよ、ロン!」  「だけど、あいつが言ってたほかのマントのこと−−−それに、そういうやつだって、二束三クヌートってわけじゃないぜ−−−全部本当だ!いままで考えてもみなかったけど、古くなって呪文の効果が切れたマントの話を聞いたことがあるし、呪文で破られて、穴が開いた話も聞いた。ハリーのマントはお父さんが持っていたやつだから、厳密には新品じゃないのにさ、それでも何て言うか……完壁!」  「ええ、そうね、でもロン、石は……」  二人が小声で議論している間、ハリーはそれを聞くともなく聞きながら、部屋を歩き回っていた。 螺旋階段に近づき、何気なく上を見たとたん、ハリーはどきりとした。 自分の顔が上の部屋の天井から見下ろしている。 一瞬うろたえたが、ハリーはそれが鏡でなく、絵であることに気づいた。 好奇心に駆られて、ハリーは階段を上りはじめた。  「ハリー、何してるのア ラブグッドさんがいないのに、勝手にあちこち見ちゃいけないと恩うわ!」  しかしハリーはもう、上の階にいた。  ルーナは部屋の天井を、すばらしい絵で飾っていた。 ハリー、ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビルの五人の顔の絵だ。 ホグワーツの絵のように動いたりはしなかったが、それにもかかわらず、絵には魔法のような魅力があった。 ハリーには、五人が息をしているように思えた。 絵の周りに細かい金の鎖が織り込んであり、五人をつないでいる。 しばらく絵を眺めていたハリーは、鎖が実は、金色のインクで同じ言葉を何度も繰り返し描かれたものだと気づい た。  ともだち……ともだち……ともだち……  ハリーはルーナに対して、熱いものが一気に溢れ出すのを感じた。 ハリーは部屋を見回した。ベッドの脇に大きな写真があり、小さいころのルーナと、ルーナそっくりの顔をした女性が抱き合っている。 この写真のルーナは、ハリーがこれまで見てきたどのルーナよりも、きちんとした身なりをしていた。 写真は埃を被っていた。何だか変だ。ハリーは周りをよく見た。  何かがおかしい。淡い水色の絨毯には埃が厚く積もっている。 洋服箪笥には一着も服がないし、ドアが半開きのままだ。 ベッドは冷えてよそよそしく、何週間も人の寝た気配がない。 いちばん手近の窓には、真っ赤に染まった空を背景に、クモの巣が一つ掛っている。  「どうかしたの?」  ハリーが下りていくと、ハーマイオニーが聞いた。 しかし、ハリーが答える前に、ゼノフィリウスがキッチンから上がってきた。こんどはスープ皿を載せた盆を運んできた。  「ラブグッドさん。ルーナはどこですか?」 ハリーが聞いた。  「何かね?」  「ルーナはどこですか?」  ゼノフィリウスは、階段のいちばん上で、はたと止まった。  「さ−−−さっきから言ってるとおりだ。『端の橋』でプリンピー釣りをしている」  「それじゃ、なぜお盆に四人分しかないんですか?」  ゼノフィリウスは口を開いたが、声が出てこなかった。 相変わらず聞こえてくる印刷機のハタハタという騒音と、ゼノフィリウスの手の震えでカタカタ鳴る盆の音だけが聞こえた。  「ルーナは、もう何週間もここにはいない」 ハリーが言った。 「洋服はないし、ベッドには寝た跡がない。ルーナはどこですか?それに、どうしてしょっちゅう窓の外を見るんですか?」  ゼノフィリウスは盆を取り落とし、スープ皿が恥ねて砕けた。ハリー、ロン、ハーマイオニーは杖を抜いた。 ゼノフィリウスは、手をポケットに突っ込もうとして、その場に凍りついた。 そのとたん、印刷機が大きくバーンと音を立て、「ザ・クィブラー」誌がテーブルクロスの下から床に流れ出てきた。 印刷機はやっと静かになった。  ハーマイオニーが、杖をラブグッド氏に向けたまま、屈んで一冊拾い上げた。  「ハリー、これを見て」  ハリーはごたごたの山の中をできるだけ急いで、ハーマイオニーのそばに行った。 「ザ・クィブラー」 の表紙には、ハリーの写真とともに「問題分子ナンバーワン」 の文字が鮮やかに書かれ、見出しには賞金額が書いてあった。  「『ザ・クィブラー』は、それじゃ、論調が変わったということですか?」  ハリーはめまぐるしく頭を働かせながら、冷たい声で聞いた。 「ラブグッドさん、庭に出ていったとき、あなたはそういうことをしていたわけですか? 魔法省にふくろうを送ったのですね?」  ゼノフィリウスは唇を舐めた。  「私のルーナが連れ去られた」ゼノフィリウスが囁くように言った。 「私が書いていた記事のせいで。あいつらは私のルーナを連れていった。どこにいるのか、連中がルーナに何をしたのか、私にはわからない。しかし、私のルーナを返してもらうのには、もしかしたら−−−もしかしたら−−−」  「ハリーを引き渡せば?」 ハーマイオニーが言葉を引き取った。  「そうはいかない」 ロンがきっぱり言った。 「邪魔するな。僕たちは出ていくんだから」  ゼノフィリウスは死人のように青ざめ、老けて百歳にも見えた。 唇が引きつり、凄まじい形相を浮かべている。  「連中はいまにもやって来る。私はルーナを救わなければならない。ルーナを失うわけにはいかない。君たちは、ここを出てはならないのだ」  ゼノフィリウスは、階段で両手を広げた。ハリーの目に、突然、自分のベビーベッドの前で同じことをした母親の姿が浮かんだ。  「僕たちに、手荒なことをさせないでください」 ハリーが言った。 「どいてください、ラブグッドさん」  「ハリー!」 ハーマイオニーが悲鳴を上げた。  箒に乗った人影が窓の向こうを飛び過ぎた。 三人が目を離した隙に、ゼノフィリウスが杖を抜いた。 ハリーは危ういところで油断に気づき、横っ飛びに挑んで、ロンとハーマイオニーを呪文の通り道から押し退けた。 ゼノフィリウスの「失神の呪文」は、部屋を横切ってエルンペントの角に当たった。  ものすごい爆発だった。部屋が吹っ飛んだかと思うような音だった。 木や紙の破片、瓦礫が四方八方に飛び散り、前が見えないほどのもうもうたる埃で、あたりが真っ白になった。 ハリーは宙に飛ばされ、そのあと床に激突し、両腕でかばった頭の上に降り注ぐ破片で何も見えなくなった。 ハーマイオニーの悲鳴、ロンの叫び声、そして吐き気を催すようなドサッという金属音が繰り返し聞こえた。 吹き飛ばされたゼノフィリウスが、仰向けに螺旋階段を落ちていく音だと、ハリーには察しがついた。  瓦礫に半分埋もれながら、ハリーは立ち上がろうとした。舞い上がる埃で、ほとんど息もできず、目も見えない。天井は半分吹き飛び、ルーナのベッドの端が天井の穴からぶら下がっていた。 顔が半分なくなったロウエナ・レイブンクローの胸像がハリーの脇に倒れ、切れ切れになった羊皮紙は宙を舞い、印刷機の大部分は横倒しになって、キッチンへ下りる階段のいちばん上を塞いでいた。そのとき、白い人影がハリーのそばで動き、埃に覆われてまるで二個目の石像になったようなハーマイオニーが、唇に人差し指を当てていた。 一階の扉がすさまじい音を立てて開いた。  「トラバース、だから急ぐ必要はないと言ったろう?」荒々しい声が言った。 「このイカレポンチは、また戯言を言っているだけだと言ったろう?」  バーンという音と、ゼノフィリウスが痛みで悲鳴を上げるのが聞こえた。  「違う……違う……二階に……ポッターが!」  「先週言ったはずだぞ、ラブグッド、もっと確実な情報でなければ我々は来ないとな!先週のことを覚えているだろうなぞ あのばかばかしい髪飾りと娘を交換したいと言ったなぞ−−−その一週間前は−−−」 またバーンという音と叫び声。 「−−−お前は何を考えていた? 何とか言う変な動物が実在する証拠を提供すれば、我々が娘を返すと思ったと? しわしわ−−−」 バーン  「−−−アタマの−−−」 バーン  「−−−スノーカックだと?」  「違う−−−違う−−−お願いだ!」ゼノフィリウスは啜り泣いた。 「本物のポッターだ! 本当だ!」  「それなのにこんどは、我々をここに呼んでおいて、吹っ飛ばそうとしたとは!」  死喰い人が吠え喚き、バーンという音の連発の合間に、ゼノフィリウスの苦しむ悲鳴が聞こえた。  「セルウィン、この家はいまにも崩れ落ちそうだぞ」 もう一人の冷静な声が、めちゃめちゃになった階段を伝って響いてきた。 「階段は完全に遮断されている。取り外してみたらどうかな? ここ全体が崩れるかもしれんな」  「この小汚い嘘つきめ」セルウィンと呼ばれた魔法使いが叫んだ。 「ポッターなど、いままで見たこともないのだろう? 我々をここに誘き寄せて、殺そうと思ったのだろうが? こんなことで娘が戻るとでも思うのか?」  「嘘じゃない……嘘じゃない……ポッターが二階にいる!」 「ホメナム・レベリオ!<人 現れよ>」階段下で声がした。 ハリーはハーマイオニーが息を呑むのを聞いた。それから、何かが自分の上にスーッと低く飛んできて、その影の中にハリーの体を取り込むような奇妙な感じがした。  「上にたしかに誰かいるぞ、セルウィン」 二番目の声が鋭く言った。  「ポッターだ。本当に、ポッターなんだ!」ゼノフィリウスが啜り泣いた。 「お願いだ……お願いだ……私のルーナを返してくれ。ルーナを私のところに返して……」  「お前の小娘を返してやろう、ラブグッド」セルウィンが言った。 「この階段を上がって、ハリー・ポッターをここに連れてきたならばな。しかしこれが策略だったら、民を仕掛けて上にいる仲間に我々を待ち伏せさせているんだったら、お前の娘は、埋葬のために一部だけを返してやるかどうか考えよう」  ゼノフィリウスは、恐怖と絶望で咽び泣いた。あたふたと、あちこち引っ掻き回すような音がした。ゼノフィリウスが、階段を覆う瓦礫を掻き分けて、上がってこようとしている。  「さあ」 ハリーが囁いた。 「ここから出なくては」  ゼノフィリウスが階段を上がろうとするやかましい音にまざれて、ハリーは瓦礫の中から自分の体を掘しり出しはじめた。ロンがいちばん深く埋まっていた。 ハリーとハーマイオニーは、ロンが埋まっているところまで、なるべく音を立てないように瓦礫の山を歩いていった。 ロンは、両足に乗った重い箪笥を、なんとかして取り除こうとしていた。 ゼノフィリウスが呻いたり掘ったりする音が、次第に近づいてくる。 ハーマイオニーは「浮遊術」 でやっとロンを動けるようにした。  「これでいいわ」 ハーマイオニーが小声で言った。階段のいちばん上を塞いでいる印刷機が、ガタガタ揺れはじめた。ゼノフィリウスはすぐそこまで来ているようだ。 「ハリー、私を信じてくれる?」埃で真っ白な姿のハーマイオニーが聞いた。  ハリーはロンの目を掠めてハーマイオニーにキスをして頷いた。  「オッケー、それじゃ」 真っ赤になったハーマイオニーが小声で言った。 「『透明マント』を使うわ。ロン、あなたが着るのよ」  「僕? でもハリーが−−−」  「お願い、ロン!ハリー、私の手をしっかり握って。ロン、私の肩をつかんで」  ハリーは左手を出してハーマイオニーの手を握った。ロンは『マント』の下に消えた。階段を塞いでいる壊れた印刷機は、まだ揺れていた。ゼノフィリウスは、「浮遊術」で印刷機を動かそうとしている。ハリーには、ハーマイオニーが何を待っているのかわからなかった。  「しっかり捕まって」 ハーマイオニーが囁いた。 「しっかり捕まって……まもなくよ……」  ゼノフィリウスの真っ青な顔が、倒れたサイドボードの上から現れた。  「オプリビエイト!<忘れよ>」  ハーマイオニーはまずゼノフィリウスの顔に杖を向けて叫び、それから床に向けて叫んだ。 「デプリモ!<沈め>」  ハーマイオニーは居間の床に穴を開けていた。三人は石が落ちるように落ちていった。 ハリーは、ハーマイオニーの手をしっかり握ったままだった。 降ってくる大量の瓦礫や壊れた家具の雨を避けて逃げる、下で悲鳴が上がり、破れた天井から二人の男の姿がちらりとハリーの目に入った。  ハーマイオニーが空中で身を振り、ハリーは、家が崩れる轟音を耳にしながら、ハーマイオニーに引きずられて再び暗闇の中に入っていた。 22章:The Deathly Hallows/死の秘宝  ハリーは喘ぎながら草の上に落ち、ようやく立ち上がった。 三人は、夕暮れのどこか野原の一角に着地したようだった。 ハーマイオニーはもう杖を振り、周りに円を措いて走っていた。  「プロテゴ・トタラム<万全の守り>……サルビオ・へクシア<呪いを避けよ>……」 「あの裏切り者!老いぼれの悪党!」 ロンはゼィゼィ言いながら「透明マント」を脱いで現れ、マントをハリーに放り投げた。 「ハーマイオニー、君って天才だ。大天才だ。あそこから逃げおおせたなんて、信じられないよ!」  「カーベ・イニミカム<敵を警戒せよ>……だから、エルンペントの角だって言ったでしょう? あの人にちゃんと教えてあげたのに。結局、あの人の家は吹き飛んでしまったじゃない!」 「罰が当たったんだ」 ロンは、破れたジーンズと両足の切り傷を調べながら言った。 「連中は、あいつをどうすると思う?」 「あぁ、殺したりしなければいいんだけど?」  ハーマイオニーが呻いた。 「だから、離れる前に、死喰い人たちにハリーの姿をちらとでも見せたかったの。そしたら、ゼノフィリウスが嘘をついていたんじゃないってわかるから!」 「だけど、どうして僕を隠したんだ?」 ロンが聞いた。 「ロン、あなたは黒斑病で寝ていることになってるの!死喰い人は、父親がハリーを支持しているからって、ルーナをさらったのよ! あなたがハリーと一緒にいるのを見たら、あの人たちが、あなたの家族に何をするかわからないでしょう?」  「だけど、君のパパやママは?」  「オーストラリアだもの」 ハーマイオニーが言った。 「大丈夫なはずよ。二人は何も知らないわ」  「君って天才だ」 ロンは感服しきった顔で繰り返した。  「うん、ハーマイオニー、天才だよ」 ハリーも心から同意した。 「君がいなかったら、僕たちどうなっていたかわからない」  ハーマイオニーはにっこりしたが、すぐに真顔になった。  「ルーナはどうなるのかしら?」  「うーん、あいつらの言ってることが本当で、ルーナがまだ生きてるとすれば−−−」  ロンが言いかけた。  「やめて、そんなこと言わないで!」 ハーマイオニーが金切り声を上げた。 「ルーナは生きてるはずよ。生きていなくちゃ!」  「それならアズカバンにいる、と思うな」 ロンが言った。 「だけど、あそこで生き延びられるかどうか……大勢がだめになって……」  「ルーナは生き延びる」  ハリーが言った。そうではない場合を考えることさえ耐えられなかった。  「ルーナはタフだ。僕たちが考えるよりずっと強い。たぶん、監獄に囚われている人たちに、ラックスパートとかナーグルのことを教えているよ」  「そうだといいけど」 ハーマイオニーは手で目を拭った。 「ゼノフィリウスがかわいそうだわ。もし−−−」  「もし、あいつが、僕たちを死喰い人に売ろうとしていなかったらな。うん」 ロンが言った。  三人はテントを張って中に入り、ロンが紅茶を入れた。 九死に一生を得たあとは、こんな寒々とした徽臭い古い場所でも、安全でくつろげる居心地のよい家庭のようだった。  「ああ、私たち、どうしてあんなところへ行ったのかしら?」  しばらく沈黙が続いたあと、ハーマイオニーが呻くように言った。  「ハリー、あなたが正しかったわ。ゴドリックの谷の二の舞だった。まったく時間の無駄!『死の秘宝』なんて……くだらない……でも、ほんとは−−−」 ハーマイオニーは何か急に閃いたらしい。 「全部あの人の作り話なんじゃないかしら? ゼノフィリウスは、たぶん『死の秘宝』なんてまったく信じていないんだわ。死喰い人たちが来るまで、私たちに話をさせておきたかっただけよ!」  「それは違うと思うな」 ロンが言った。 「緊張しているときにでっち上げ話をするなんて、意外と難しいんだ。『スナッチャー』に捕まったとき、僕にはそれがわかったよ。スタンのふりをする方が、全く知らない誰かをでっち上げるよりずっと簡単だった。だって、少しはスタンのことを知っているからね。ラブグッド爺さんも、僕たちを足止めしようとして、ものすごくプレッシャーがかかってたはずだ。僕たちをしゃべらせておくために、あいつは本当のことを言ったと思うな。でなきゃ、本当だと思っていることをね」  「まあね、それはどっちでもいいわ」 ハーマイオニーはため息をついた。 「ゼノフィリウスが正直な話をしていたにしても、あんなでたらめだらけの話は聞いたことがないわ」  「でも、待てよ」 ロンが言った。 「『秘密の部屋』だって、伝説上のものだと思われてたんじゃないか?」  「でも、ロン、『死の秘宝』なんて、ありえないわ!」  「君はそれぽっかり言ってるけど、そのうちの一つはありうるぜ」 ロンが言った。 「ハリーの『透明マント』−−−」  「『三人兄弟』の話はお伽噺よ」 ハーマイオニーがきっぱりと言った。 「人間がいかに死を恐れるかのお話だわ。生き残ることが『透明マント』に隠れると同じぐらい簡単なことだったら、いまごろ私たち、必要なものは全部手にしているはずよ」  「それはどうかな。無敵の杖が手に入ればいいんだけど」  ハリーは、大嫌いなリンボクの杖を、指でひっくり返しながら言った。  「ハリー、そんな物はないのよ!」  「たくさんあったって、君が言ったじゃないか−−−『死の杖』とか何とか、名前はいろいろだけどー−−−−」  「いいわよ、それじゃ、仮に『ニワトコの杖』は実在するって思い込んだとしましょう。でも、『蘇りの石』のほうはどうなるの?」 ハーマイオニーは、「蘇りの石」と言うときにハテナマークを指で描いてみせ、口調には皮肉が込められていた。  「どんな魔法でも、死者を蘇らせることはできないわよ。これは決定的だわ!」  「僕の杖が『例のあの人』の杖とつながったとき、僕の父さんも母さんも現れた……それにセドリックも……」  「でも、本当に死から蘇ったわけじゃないでしょう?」 ハーマイオニーが言った。 「ある種の−−−ぼんやりした影みたいな姿は、誰かを本当にこの世に蘇らせるのとは違うわ」  「でも、あの話に出てくる女性は、本当に戻ってきたんじゃなかったよ。そうだろう? あの話では、人はいったん死ぬと、死者の仲間入りをする。でも、二番目の兄は、その女性を見たし、話もしただろう? しかも、しばらくは一緒に住んだ……」  ハリーはハーマイオニーが心配そうな、何とも形容しがたい表情を浮かべるのを見た。 そのあとでハーマイオニーがロンをちらりと見たときに、ハリーはそれが恐怖の表情だと気がついた。 死んだ人たちと一緒に住むという話が、ハーマイオニーを怖がらせてしまったのだ。  「それで、ゴドリックの谷に墓のある、あのペベレル家の人のことだけど−−−」 ハリーは、自分が正気だと思わせるように、きっぱりした声で、急いで話題を変えた。 「その人のこと、何もわからないの?」 「ええ」 ハーマイオニーは、話題が変わってほっとしたような顔をした。 「墓石にあの印があるのを見たあとで、私、その人のことを調べたの。有名な人か、何か重要なことをした人なら、持ってきた本のどれかに絶対に載っているはずだと思って。やっと見つけたけど、『ペベレル』っていう名前は、たった一カ所しかなかったわ。『生粋の貴族−−−魔法界家系図』。クリーチャーから借りた本よ」  ロンが眉を吊り上げたのを見て、ハーマイオニーが説明した。  「男子の血筋が現在では絶えてしまっている、純血の家系のリストなの。ペベレル家は、早くに絶えてしまった血筋の一つらしいわ」  「男子の血筋が絶える?」 ロンが繰り返した。  「つまり、氏が絶えてしまった、という意味よ」 ハーマイオニーが言った。 「ペベレル家の場合は、何世紀も前にね。子孫はまだいるかも知れないけど、違う姓を名乗っているわ」  とたんにハリーの頭に、パッと閃くものがあった。 ペベレルの姓を聞いたときに揺すぶられた記憶だ。魔法省の役人の鼻先で、醜い指輪を見せびらかしていた汚らしい老人−−−。  「マールヴォロ・ゴーント?」 ハリーは叫んだ。  「えっ?」 ロンとハーマイオニーが同時に聞き返した。  「マールヴォロ・ゴーントだ!『例のあの人』の祖父だ!『憂いの蹄』の中で!ダンブルドアと一緒に!マールヴォロ・ゴーントが、自分はペベレルの子孫だと言ってた!」  ロンもハーマイオニーも、当惑した顔だった。  「あの指輪。分霊箱になったあの指輪だ。マールヴォロ・ゴーントが、ペベレルの紋章がついていると言ってた! 魔法省の役人の前で、ゴーントがそれを振って見せていた。ほとんど鼻の穴に突っ込みそうだった!」  「ペベレルの紋章ですって?」 ハーマイオニーが鋭く聞いた。 「どんなものだったか見えたの?」  「いや、はっきりとは」  ハリーは思い出そうとした。  「僕の見たかぎりでは、何にも派手なものはなかった。引っ掻いたような線が二、三本だったかもしれない。ほんとによく見たのは、指輪が壊れたあとだったから」  ハーマイオニーが突然目を見開いたのを見て、ハリーは、ハーマイオニーが何を理解したかを悟った。 そうハーマイオニーだけは何も言わなくても、いつもハリーを理解してくれる。 ロンはびっくりして二人を交互に見た。 「おっどろいたー……それがまたしても例の印だって言うのか? 秘宝の印だって?」 「そうさ!」 ハリーは興奮した。 「マールヴォロ・ゴーントは、豚みたいな暮らしをしていた 無知な老人で、唯一、自分の家系だけが大切だった。あの指輪が、何世紀にもわたって受け継がれてきたものだとしたら、ゴーントは、それが本当は何なげかを知らなかったかも知れない。あの家には本なんかなかったし。それに、いいかい、あいつは間違っても、子どもにお伽噺を聞かせるようなタイプじゃなかった。石の引っ掻き傷を紋章だと思いたかったんだろう。だって、ゴーントにしてみれば、純血だということは貴族であるのも同然だったんだ」  「ええ……それはそれでとてもおもしろい話だわ」 ハーマイオニーは慎重に言った。 「でも、ハリー、あなたの考えていることが、私の想像どおりなら−−−」  「そう、そうだよ。そうなんだ!」 ハリーは慎重さを投げ捨てて言った。 「あれが石だったんだ。そうだろう?」 ハリーは応援を求めるようにロンを見た。 「もしもあれが『蘇りの石』だったら?」 ロンは口をあんぐり開けた。 「おっどろきー……だけど、ダンブルドアが壊したのなら、まだ効き目があるかなぁ」  「効き目? 効き目ですって? ロン、一度も効いたことなんかないのよ?『蘇りの石』なんていうものはないの!」  ハーマイオニーは、苛立ちと怒りを顔に出して、勢いよく立ち上がった。  「ハリー、あなたは何もかも『秘宝』の話に当てはめようとしているわ−−−」  「何もかも当てはめる?」 ハリーが繰り返した。 「ハーマイオニー、自然に当てはまるんだ!あの石に『死の秘宝』の印があったに決まってる! ゴーントはペベレルの子孫だって言ったんだ!」  「ついさっき、石の紋章をちゃんと見なかったって、言ったじゃない!」  「その指輪、いまどこにあると思う?」 ロンがハリーに聞いた。 「ダンブルドアは、指輪を割ったあと、どうしたのかなぁ?」  しかしハリーの頭の中は、ロンやハーマイオニーよりずっと先を走っていた……。  三つの品、つまり「秘宝」は、もし三つを集められれば、持ち主は死を制する者となるだろう……制する者……征服者……勝者……最後の敵なる死もまた亡ぼされん……。  そしてハリーは、「秘宝」を所有するものとして、ヴォルデモートに対決する自分の姿を想い浮かべた。分霊箱は秘宝には敵わない……一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……これがその答えだろうか?  秘宝対分霊箱? ハリーが最後に勝利者になる確実な方法があった、ということなのだろうか? 「死の秘宝」 の持ち主になれば、ハリーは安全なのだろうか?  「ハリー?」  しかしハリーは、ハーマイオニーの声をほとんど聞いていなかった。 「透明マント」を引っ張り出し、指の間を滑らせた。 水のように柔軟で、空気のように軽い布だ。 魔法界に入ってほぼ七年の間、これと同じ物は見たことがない。 この「マント」はゼノフィリウスが説明したとおりの品だ。 本物のマントは着ると間違いなく透明にしてくれるし、永久に長持ちする。 どんな呪文をかけても見通せないし、いつでも聞達いなく隠してくれる。  そのときハリーは、思わず息を呑んだ。思い出したことがある−−−。  「ダンブルドアが、僕の『マント』を持っていた!僕の両親が死んだ夜に!」  ハリーは声が震え、顔に血が上るのを感じたが、かまうものかと思った。  「母さんが、シリウスにそう教えてた。ダンブルドアが『マント』を借りてるって?なぜ借りたのかがわかった! ダンブルドアは調べたかったんだ。三番目の『秘宝』じゃないか、と思ったからなんだ!イグノタス・ペベレルは、ゴドリックの谷に埋葬されている……」  ハリーはテントの中を無意識に歩き回っていた。真実の広大な展望が、新しく目の前に開けてきたような感じがした。  「イグノタスは僕の先祖だ! 僕は三番目の弟の子孫なんだ! それで全部辻複が合う!」  ハリーは、「秘宝」を信じることで、確実に武装されたように感じた。 「秘宝」を所有すると考えただけで、守られるかのように感じた。 ハリーはうれしくなって、二人を振り返った。  「ハリー」  ハーマイオニーがまた呼びかけたが、ハリーは、激しく震える指で、首の巾着を開けることに没頭していた。  「読んで」  ハリーは、母親の手紙をハーマイオニーの手に押しつけて言った。  「それを読んで!ハーマイオニー、ダンブルドアが『マント』を持っていたんだ! どうしてそれがほしかったのか、ほかには理由がないだろ? ダンブルドアには『マント』なんか必要なかった。強力な『目くらまし術』を使って、マントなんかなくとも完全に透明になれたんだから!」  何かが床に落ちて、光りながら椅子の下を転がった。 手紙を引っ張り出したときにスニッチを落としてしまったのだ。ハリーは屈んで拾い上げた。 すると、たったいま見つけたばかりのすばらしい発見の泉が、ハリーにまた別の贈り物をくれた。 衝撃と驚きが体の中から噴き出し、ハリーは叫んでいた。  「ここにあるんだ!ダンブルドアは僕に指輪を遺した−−−このスニッチの中にある!」  「そ−−−その中だって?」  ロンがなぜ不意を衝かれたような顔をするのか、ハリーには理解できなかった。 わかりきったことじゃないか、はっきりしてるじゃないか、何もかも当てはまる、何もかもだ……ハリーの 「マント」は三番目の 「秘宝」 であり、スニッチの開け方がわかったときには二番目の 「秘宝」も手に入る。 あとは第一の 「秘宝」 である「ニワトコの杖」を見つければよいだけだ。 そうすれば−−−。  しかし、きらびやかな舞台の幕が、そこで突然下りたかのようだった。ハリーの興奮も、希望も幸福感も一挙に消えた。 輝かしい呪文は破れ、ハリーは一人、暗闇に佇んでいた。  「やつが狙っているのは、それだ」  ハリーの声の調子が変わったことで、ロンもハーマイオニーもますます怯えた顔になった。  「『例のあの人』が、『ニワトコの杖』を追っている」  張しりつめた、疑わしげな顔の二人に、ハリーは背を向けた。これが真実だ。 ハリーには確信があった。すべての辻嬢が合う。 ヴォルデモートは新しい杖を求めていたのではなく、古い杖を、しかもとても古い杖を探していたのだ。 ハリーはテントの入口まで歩き、夜の闇に目を向けて、ロンやハーマイオニーがいることも忘れて考えた……。  ヴォルデモートは、マグルの孤児院で育てられた。ハリー同様、子どものときに誰からも「吟遊詩人ピードルの物語」を聞かされてはいないはずだ。 「死の秘宝」を信ずる魔法使いはほとんどいない。すると、ヴォルデモートが秘宝のことを知っているという可能性はあるだろうか?  ハリーはじっと闇を見つめた……もしヴォルデモートが「死の秘宝」 のことを知っていたなら、間違いなくそれを求め、手に入れるためには何でもしたのではないだろうか?  所有者を、死を制する者にする三つの品なのだ。 「死の秘宝」 のことを知っていたなら、ヴォルデモートははじめから「分霊箱」など必要としなかっただろう。 秘宝の一つを手に入れながら、それを分霊箱にしてしまったという単純な事実を見ても、魔法界のこの究極の秘密を、ヴォルデモートが知らなかったことが明らかなのではないだろうか?  そうだとすれば、ヴォルデモートは「ニワトコの杖」 の持つ力を、完全には知らずに探していることになる。 三つの品の一つだということを知らずに……杖は隠すことができない秘宝だから、その存在は最もよく知られている……「ニワトコの杖」 の血の軌跡は、魔法史のページに点々と残っている……。  ハリーは曇った夜空を見上げた。くすんだ灰色と銀色の雲の曲線が、白い月の面を撫でていた。 ハリーは自分の発見したことに驚き、顔がぼーっとなっていた。  ハリーはテントの中に戻った。 ロンとハーマイオニーが、さっきとまったく同じ場所に立っているのを見て、ハリーはひどく驚いた。 ハーマイオニーはまだリリーの手紙を持ち、ロンはその横で、少し心配そうな顔をしていた。 この数分間に、自分たちがどれほど遠くまでやって来たかに、二人は気づいていないのだろうか?  「こういうことなんだ」  ハリーは、自分でも驚くほどの確信の光の中に、二人を引き入れようとした。 「これですべて説明がつく。『死の秘宝』は実在する。そして僕はその一つを持っている−−−二つかもしれない−−−」  ハリーはスニッチを掲げた。  「−−−そして『例のあの人』は三番目を追っている。ただし、あいつはそれを知らない……強力な杖だと思っているだけだ」 「ハリー」 ハーマイオニーはハリーに近づきリリーの手紙を返しながら言った。 「気の毒だけれど、あなたは勘違いしているわ。何もかも勘違い」  「でも、どうして? これで全部辻複が−−−」  「いいえ、合わないわ」 ハーマイオニーが言った。 「合わないのよ、ハリー。あなたはただ夢中になっているだけ。お願いだから−−−」  ハーマイオニーは、口を開きかけたハリーを止めた。 「お願いだから、答えて。もしも『死の秘宝』が実在するのなら、そしてダンブルドアがそれを知っていたのなら、三つの品を所持するものが死を制すると知っていたのなら−−−ハリー、どうしてそれをあなたに話さなかったの? どうして?」  ハリーは、答える準備ができていた。  「だって、ハーマイオニー、君が言ったじゃないか。自分で見つけなければいけないことだって! これは『探求』なんだ?」  「でも私は、ラブグッドのところに行くようにあなたを説得したくて、そう言ったにすぎないのよ!」  ハーマイオニーは、極度にイライラして叫んだ。 「そう信じていたわけじゃないわ!」  ハリーはあとに引かなかった。  「ダンブルドアはいつも、僕自身に何かを見つけ出させた。自分の力を試し、危険を冒すようにし向けた。こんどのことも、ダンブルドアらしいやり方だという感じがするんだ」  「ハリー、これはゲームじゃないのよ。練習じゃないわ! 本番なのよ。ダンブルドアはあなたにはっきりした指示を遺したわ。分霊箱を見つけ出して壊せと! あの印は何の意味もないわ。『死の秘宝』のことは忘れてちょうだい。寄り道している暇はないの−−−」  ハリーはほとんど聞いていなかった。スニッチが開いて、「蘇りの石」が現れ、ハーマイオニーに自分が正しいことを、そして「死の秘宝」が実在することを証明してくれないかと、半ば期待しながら、ハリーはスニッチを手の中で何度もひっくり返していた。  ハーマイオニーはロンに訴えた。  「あなたは信じないでしょう?」  ハリーは顔を上げた。ロンはためらっていた。  「わかんないよ……だって……ある程度、合ってるところもあるし」  ロンは答えにくそうだった。 「だけど全体として見ると……」 ロンは深く息を吸った。 「ハリー、僕たちは分霊箱をやっつけることになっていると思う。ダンブルドアが僕たちに言ったのは、それだ。たぶん……たぶん、この秘宝のことは忘れるべきだろう」  「ありがとう、ロン」 ハーマイオニーが言った。 「私が最初に見張りに立つわ」  そしてハーマイオニーは、ハリーの前を意気揚々と通り過ぎ、テントの人口に座り込んで、この件にぴしゃりと終止符を打った。 しかし、ハリーはその晩殆ど眠れなかった。「死の秘宝」にすっかり取り憑かれ、その考えが心を揺り動かし、顔の中で渦巻いているうちは、気が休まらなかった。 杖、石、そし てマント。そのすべてを所有できさえすれば……。  私は終わるときに開く……でも終わるときって、何だ? どうして、いますぐ石が手に入らないんだ?  石さえあれば、ダンブルドアに直接、こういう質問ができるのに……そしてハリーは、暗い中でスニッチに向かってプツプツと呪文を唱えてみた。 できることは全部やってみた。 蛇語も試したが、金色の球は開こうとしない……。  それに、杖だ。「ニワトコの杖」は、どこに隠されているのだろう?  ヴォルデモートはいま、どこを探しているのだろう?  ハリーは、額の傷が痺いて、ヴォルデモートの考えを見せてくれればよいのにと思った。 ハリーとヴォルデモートが、初めてまったく同じ物を望むということで結ばれたからだ……ハーマイオニーは、もちろん、こういう考えを嫌うだろう……しかし、ハーマイオニーははじめから信じていない……ゼノフィリウスは、ある意味で正しいことを言った……想像力がかぎられている。 偏狭で頑迷だ。本当のところは、ハーマイオニーは「死の秘宝」という考えが怖いのだ。 とくに「蘇りの石」が……ハリーは再びスニッチに口を押しつけ、キスして、ほとんど飲み込んでみたが、冷たい金属は頑として屈服しなかった……。  明け方近くになって、ハリーはルーナのことを思い出した。 アズカバンの独房で、たった一人、吸魂鬼に囲まれている姿だ。 ハリーは急に自分が恥ずかしくなった。秘宝のことを考えるのに夢中で、ルーナのほうはすっかり忘れていた。 なんとか助け出したい。しかしあれだけの数の吸魂鬼では、事実上攻撃することなどできない。 考えてみると、ハリーは、まだこのリンボクの杖で守護霊の呪文を試したことがない……朝になったら試してみなければ……。  もっとよい杖を得る手段があればいいのに……。  すると、「ニワトコの杖」、不敗で無敵の「死の杖」 への掲望が、またしてもハリーを飲み込んでしまった……。  翌朝、三人はテントをたたみ、憂鬱な雨の中を移動した。 土砂降りの雨は、その晩テントを掛った海岸地方まで追ってきて、ハリーにとっては気の滅入るような荒涼たる風景を水浸しにしながら、その週一杯降り続いた。 ハリーは、「死の秘宝」 のことしか考えられなかった。 まるで胸に炎が点されたようで、ハーマイオニーのにべもない否定も、ロンの頑固な疑いも、その火を消すことはできなかった。 しかし、秘宝への想いが燃えれば燃えるほど、ハリーの喜びは薄れるばかりだった。 ハリーは、ロンとハーマイオニーを恨んだ。 二人の断固たる無関心ぶりが、容赦ない雨と同じくらいにハリーの意気を挫いた。 しかしそのどちらも、ハリーの確信を弱めることはできず、ハリーの信念は絶対的なものだった。 「秘宝」に対する信念と憧れがハリーの心を奪い、そのため、分霊箱への執念を持つ二人から孤立しているように感じた。  「執念ですって?」 ある晩ハリーが不用意にその言葉を口にすると、ハーマイオニーが低い、激しい声で言った。 ほかの分霊箱を探すことに関心がないと、ハーマイオニーがハリーを叱りつけたあとのことだった。 「執念に取り憑かれているのは私たち二人のほうじゃないわ、ハリー!私たちは、ダンブルドアが私たち三人にやらせたかったことを、やり遂げようとしているだけよ!」  しかし遠回しな批判など、ハリーは受けつけなかった。 ダンブルドアは、「秘宝」 の印をハーマイオニーに遺して解読させるようにし、また、ハリーには「蘇りの石」を金のスニッチに隠して遺したのだ、という確信は、揺るぎないものだった。 一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……死を制する者……ロンもハーマイオニーも、どうしてそれがわからないのだろう?  「『最後の敵なる死もまた亡ぼされん』」 ハリーは静かに引用した。  「私たちの戦うはずの敵は『例のあの人』だと思ったけど?」 ハーマイオニーが切り返した。  ハリーはハーマイオニーを説得するのを諦めた。  ロンとハーマイオニーが議論したがった銀色の牝鹿の不思議でさえ、いまのハリーにはあまり重要とは思えず、そこそこおもしろいつけ足しの余興にすぎないような気がした。 ハリーにとってもう一つだけ重要なのは、額の傷痕がまたチクチク痛み出したことだった。 ただし、二人には気づかれないよう、ハリーは全力を尽くした。 痛み出すたびにハリーは一人になろうとしたが、そこで見たイメージには失望した。 ハリーとヴォルデモートが共有する映像は、質が変わってしまった。 焦点が合ったり合わなかったりするように、ぼやけて揺れ動いた。髄健のようなものや、実体のない影のような山などが、脱げに見分けられるだけだった。 現実のような鮮明なイメージに慣れていたハリーは、この変化に不安を感じた。 自分とヴォルデモートとの間の絆が壊れてしまったのではないかと心配だった。 絆はハリーにとって恐ろしいものであると同時に、ハーマイオニーに対して何と言ったかは別として、大切なものだった。 こんなぼんやりした不満足なイメージしか得られないことを、ハリーはなぜか自分の杖が折れたことに関係づけ、ヴォルデモートの心を以前のようにはっきり見ることができないのは、リンボクの杖のせいだと思った。  何週間かがじわじわと過ぎ、ハリーが自分の考えに夢中になっているうちに、どうやらロンが指揮を執っていることに気づかされる羽目になった。 二人を置き去りにしたことへの埋め合わせをしようという決意からか、ハリーの熱意のなさが、眠っていたロンの指揮能力に活を入れたからか、いまやロンが、ほかの二人を励ましたり説き伏せたりして行動させていた。  「分霊箱はあと三個だ」 ロンは何度もそう言った。 「行動計画が必要だ。さあ、さあ! まだ探してないところはどこだ? もう一度復習しようぜ。孤児院……」  ダイアゴン横丁、ホグワーツ、リドルの館、ボージン・アンド・バークスの店、アルバニアなどなど、トム・リドルのかつての住み処、職場、訪れた所、殺人の場所だとわかっているところを、ロンとハーマイオニーは拾い上げ直した。 ハリーは、ハーマイオニーにしつこく言われたので、しかたなく参加した。 ハリーは一人黙って、ヴォルデモートの考えを読んだり、「ニワトコの杖」についてさらに調べたりしていれば満足だったのに、ロンは、ますます可能 性のなさそうな場所に旅を続けようと言い張った。ハリーには、ロンが単に三人を動かし続けるためにそうしているのだと、わかっていた。  「何だってありだぜ」がロンの口癖だった。 「アッパー・フラグリーは魔法使いの村だ。あいつがそこに住みたいと思ったかもしれない。ちょっとほじくりに行こうよ」  こうして魔法使いの領域を頻繁に突つき回っているうちに、三人はときどき「スナッチャー」を見かけることがあった。  「死喰い人と同じぐらいワルもいるんだぜ」 ロンが言った。 「僕を捕まえた一味は、ちょっとお粗末なやつらだったけど、ビルは、すごく危険な連中もいるって言ってる。『ポッターウ オッチ』で言ってたけど−−−−−−−」  「何て言った?」 ハリーが聞き返した。  「『ポッターウオッチ』。言わなかったかな、そう呼ばれてるって? 僕がずっと探しているラジオ番組だよ。何が起こっているかについて、本当のことを教えてくれる唯一の番組だ!『例のあの人』路線に従っている番組がほとんどだけど、『ポッターウオッチ』だけは違う。君たちに、ぜひ聞かせてやりたいんだけど、周波数を合わせるのが難しくて……」  ロンは毎晩のように、さまざまなリズムでラジオのてっぺんを叩いて、ダイヤルを回していた。ときどき、籠痘の治療のヒントなどがちらりと聞こえたし、一度は「♪大鍋は灼熱の恋に溢れ」が数小節流れてきた。 トントンと軽く叩きながら、ロンはブツブツとでまかせの言葉を羅列し、正しいパスワードを当てようと努力し続けていた。  「普通は、騎士団に関係する言葉なんだ」 ロンが言った。 「ビルなんか、ほんとに当てるのがうまかったな。僕も、数撃ちゃそのうち当たるだろ……」  しかし、ようやくロンに幸運が巡ってきたときには、もう三月になっていた。ハリーは見張りの当番で、テントの入口に座り、凍てついた地面を破って顔を出したムスカリの花の群生を、見るともなく見ていた。そのとき、テントの中から、興奮したロンの叫び声が聞こえてきた。  「やった、やったぞ!パスワードは『アルバス』だった!.ハリー、入ってこい!」  「死の秘宝」 の思索から何日かぶりに目覚め、ハリーが急いでテントの中に戻ってみると、ロンとハーマイオニーが、小さなラジオのそばにひざまずいていた。 手持ちぶさたにグリフィンドールの剣を磨いていたハーマイオニーは、口をポカンと開けて、小さなスピーカーを見つめていた。 そこからはっきりと、聞き覚えのある声が流れていた。  「……しばらく放送を中断していたことをお詫びします。お節介な死喰い人たちが、我々のいる地域で何軒も戸別訪問してくれたせいなのです」  「ねえ、これ、リー・ジョーダ一ンだわ!」 「そうなんだよ!」ロンはにっこりした。 「かっこいいだろ?」 「……現在、安全な別の場所が見つかりました」リーが話していた。 「そして、今晩は、うれ しいことに、レギュラーのレポーターのお二人を番組にお迎えしています。レポーターの皆さん、こんばんは!」  「やあ」  「こんばんは、リバー」  「『リバー』、それ、リーだよ」 ロンが説明した。 「みんな暗号名を持ってるんだけど、たいがいは誰だかわかる−−−」  「シーッ!」 ハーマイオニーが黙らせた。  「ロイヤルとロムルスのお二人の話を聞く前に」リーが話し続けた。 「ここで悲しいお報せがあります。『WWN・魔法ラジオネットワークニュース』や『日刊予言者』が報道する価値もないとしたお報せです。ラジオをお聞きの皆さんに、謹んでお報せいたします。残念ながら、テッド・トンクスとダーク・クレスウェルが殺害されました」 ハリーは胃がザワッとした。三人はぞっとして顔を見合わせた。 「ゴルヌックという名の小鬼も殺されました。トンクス、クレスウェル、ゴルヌックと一緒に旅をしていたと思われる、マグル生まれのディーン・トーマスともう一人の小鬼は、難を逃れた模様です。ディーンがこの放送を聞いていたら、またはディーンの所在に関して何かご存知の方、親御さんと姉妹の方々が必死で情報を求めていらっしゃいます」  「一方、ガッドリーでは、マグルの五人家族が、自宅で死亡しているのが発見されました。マグルの政府は、ガス撮れによる事故死と見ていますが、騎士団からの情報によりますと、『死の呪文』によるものだとのことです−−−マグル殺しが新政権のレクリエーション並みになっているという実態については、いまさら証拠は無用ですが、さらなる証拠が上がったということでしょう」  「最後に、たいへん残念なお報せです。バチルダ・バグショットの亡骸がゴドリックの谷で見つかりました。数ヶ月前にすでに死亡していたと見られます。騎士団の情報によりますと、遺体には、『闇の魔術』によって傷害を受けた、まざれもない跡があるとのことです」  「ラジオをお聞きの皆さん、テッド・トンクス、ダーク・クレスウェル、バチルダ・バグショット、ゴルヌック、そして死喰い人に殺された名前のわからないマグルのご一家に対しても、同じく哀悼の意を表して、お亡くなりになった皆様のために、一分間の黙祷を捧げたいと思います。黙祷……」  沈黙の時間だった。ハリー、ロン、ハーマイオニーは言葉もなかった。ハリーは、もっと聞きたい気持と、これ以上聞くのが恐ろしいという気持が半々だった。外部の世界と完全につながっていると感じたのは、久しぶりのことだった。  「ありがとうございました」リ−−−の声が言った。 「さてこんどは、レギュラーのお一人に、新しい魔法界の秩序がマグルの世界に与えている影響について、最新の情報を伺いましょう。ロイヤル、どうぞ」  「ありがとう、リバー」  すぐそれとわかる、深い低音の、抑制のあるゆったりした安心感を与える声だ。  「キングズリー!」 ロンが思わず口走った。  「わかってるわ!」 ハーマイオニーがロンを黙らせた。  「マグルたちは、死傷者が増え続ける中で、被害の原因をまったく知らないままです」 キングズリーが言った。 「しかし、魔法使いも魔女も、身の危険を冒してまで、マグルの友人や隣人を守ろうとしているという、まことに心動かされる話が次々と耳に入ってきます。往々にしてマグルはそれに気づかないことが多いのですが。ラジオをお聞きの皆さんには、たとえば近所に住むマグルの住居に保護呪文をかけるなどして、こうした模範的な行為に倣うことを強く呼びかけたいと思います。そのような簡単な措置で、多くの命が救われることでしょう」  「しかし、ロイヤル、このように危険な時期には『魔法使い優先』、と答えるラジオ聴取者の皆さんに対しては、どのようにおっしゃるつもりですか?」リーが聞いた。  「『魔法使い優先』は、たちまち『純血優先』に結びつき、さらに『死喰い人』につながるものだと申し上げましょう」キングズリーが答えた。 「我々はすべて人です。そうではありませんか? すべての人の命は同じ重さを持ちます。そして、救う価値があるのです」  「すばらしいお答えです、ロイヤル。現在のごたごたから抜け出した暁には、私はあなたが魔法大臣になるよう一票を投じますよ」リーが言った。 「さて、次はロムルスにお願いしましょう。人気特別番組の『ポッター通信』です」  「ありがとう、リバー」  これもよく知っている声だった。ロンは口を開きかけたが、ハーマイオニーが囁き声で封じた。  「ルーピンだってわかるわよ?」  「ロムルス、あなたは、この番組に出ていただくたびにそうおっしゃいますが、ハリー・ポッターはまだ生きているというご意見ですね?」  「そのとおりです」 ルーピンがきっぱりと言った。 「もしハリーが死んでいれば、死喰い人たちが大々的にその死を宣言するであろうと、碓信しています。なぜならば、それが新体制に抵抗する人々の士気に、致命的な打撃を与えるからです。『生き残った男の子』は、いまでも、我々がそのために戦っているあらゆるもの、つまり、善の勝利、無垢の力、抵抗し続ける必要性などの象徴なのです」  ハリーの胸に、感謝と恥ずかしさが湧き上がってきた。最後にルーピンに会ったとき、ハリーはひどいことを言った。 ルーピンは、それを許してくれたのだろうか?  「では、ロムルス、もしハリーがこの放送を聞いていたら、何と言いたいですか?」 「我々は全員、心はハリーと共にある、と言いたいですね」  ルーピンはそのあとに、少し躊躇しながらつけ加えた。  「それから、こうも言いたい。自分の直感に従え。それはよいことだし、ほとんど常に正しい」  ハリーはハーマイオニーを見た。ハーマイオニーの目に涙が溜まっていた。  「ほとんど常に正しい」 ハーマイオニーが繰り返した。  「あっ、僕言わなかったっけ?」 ロンがすっとんきょうな声を上げた。 「ビルに聞いたけど、ルーピンは、またトンクスと一緒に暮らしているって!それにトンクスは、かなりお腹が大 きくなってきたらしいよ」  「……ではいつものように、ハリー・ポッターに忠実であるがために被害を受けている、友人たちの近況はどうですか?」リーが話を続けていた。  「そうですね、この番組をいつもお聞きの方にはもうおわかりのことでしょうが、ハリー・ポッターを最も大胆に支持してきた人々が数人、投獄されました。たとえばゼノフィリウス・ラブグッド、かつての『ザ・クィブラー』編集長などですが−−−」 ルーピンが言った。  「少なくとも生きてる!」 ロンが呟いた。  「さらに、つい数時間前に聞いたことですが、ルビウス・ハグリッド−−−」  三人は揃ってハッと息を呑み、そのためにそのあとの言葉を聞き逃すところだった。  「−−−ホグワーツ校の名物森番ですが、構内で逮捕されかけました。自分の小屋で『ハリー・ポッター応援』パーティを開いたとの噂です。しかし、ハグリッドは拘束されませんでした。逃亡中だと思われます」  「死喰い人から逃れるときに、五メートルもある巨人の弟と一緒なら、役に立つでしょうね?」  「たしかに有利になると言えるでしょうね」 ルーピンがまじめに同意した。 「さらにつけ加えますが、『ポッターウオッチ』としてはハグリッドの心意気に喝来しますが、どんなに熱心なハリーの支持者であっても、ハグリッドのまねはしないようにと強く忠告します。いまのご時世では、『ハリー・ポッター応援』パーティは賢明とは言えない」  「まったくそのとおりですね、ロムルス」リーが言った。 「そこで我々は、稲妻形の傷痕を持つ青年への変わらぬ献身を示すために、『ポッターウオッチ』を聞き続けてはいかがでしょう! さてそれでは、ハリー・ポッターと同じぐらい見つかりにくいとされている、あの魔法使いについてのニュースに移りましょう。ここでは『親玉死喰い人』と呼称したいと思います。彼を取り巻く異常な噂のいくつかについて、ご意見を伺うのは、新しい特派員のローデントです。ご紹介しましょう」  「ローデント?」  また聞き覚えのある声だ。ハリー、ロン、ハーマイオニーはいっせいに叫んだ。 「フレッド!」  「いや−−−ジョージかな?」  「フレッド、だと思う」 ロンが耳をそばだてて言った。双子のどちらかが話した。  「俺はローデントじゃないぜ、冗談じゃない。『レイピア<痩身の剣>』にしたいって言ったじゃないか!」  「ああ、わかりました。ではレイピア、『親玉死喰い人』についていろいろ耳に入ってくる話に関する、あなたのご見解をいただけますか?」  「承知しました、リバー」 フレッドが言った。 「ラジオをお聞きの皆さんはもうご存知でしょうが、もっとも、庭の池の底とかその類の場所に避難していれば別ですが、『例のあの人』が表に出ないという影の人物戦術は、相変わらずちょっとした恐慌状態を作り出しています。いいですか、『あの人』を見たという情報がすべて本当なら、優に十九人もの『例のあの人』がそのへんを走り回っていることになりますね」  「それが彼の思うつぼなのだ」キングズリーが言った。 「謎に包まれているほうが、実際に姿を現すよりも大きな恐怖を引き起こす」  「そうです」 フレッドが言った。 「ですから、皆さん、少し落ち着こうではないですか。状況はすでに十分悪いんですから、これ以上妄想を膨らませなくてもいい。たとえば、『例のあの人』はひと睨みで人を殺すという新しいご意見ですが、皆さん、それはバジリスクのことですよ。簡単なテストが一つ。こっちを睨んでいるものに脚があるかどうか見てみましょう。もしあれば、その目を見ても安全です。もっとも、相手が本物の『例のあの人』だったら、どっちにしろ、それがこの世の見納めになるでしょう」  ハリーは声を上げて笑った。 ここ何週間もなかったことだ。 ハリーは、重苦しい緊張が解けていくのを感じた。  「ところで、『あの人』を海外で見かけたという噂はどうでしょう?」リーが聞いた。  「そうですね。『あの人』ほどハードな仕事ぶりなら、そのあとで、ちょっとした休暇がほしくなるんじゃないでしょうか?」 フレッドが答えた。 「要はですね、『あの人』が国内にいないからといって、間違った安心感に惑わされないこと。海外かもしれないし、そうじゃないかもしれない。どっちにしろ、『あの人』がその気になれば、その動きの素早さときたら、シャンプーを目の前に突きつけられたセブルス・スネイプでさえ敵わないでしょうね。だから、危険を冒して何かしようと計画している方は、『あの人』が遠くにいることを当てにしないように。こんな言葉が自分の口から出るのを聞こうとは思わなかったけど、『安全第一!』」  「レイピア、賢明なお言葉をありがとうございました」リーが言った。  「ラジオをお聞きの皆さん、今日の『ポッターウオッチ』は、これでお別れの時間となりました。次はいつ放送できるかわかりませんが、必ず戻ります。ダイヤルを回し続けてください。次のパスワードはマッド・アイです。お互いに安全でいましょう。信頼を持ち続けましょう。ではお休みなさい」  ラジオのダイヤルがくるくる回り、周波数を合わせるパネルの明かりが消えた。 ハリー、ロン、ハーマイオニーは、まだにっこり笑っていた。 聞き覚えのある親しい声を聞くのは、この 上ないカンフル剤効果があった。孤立に慣れきってしまい、ハリーは、自分たちのほかにもヴォルデモートに抵抗している人々がいることを、ほとんど忘れていた。 長い眠りから覚めたような気分だった。  「いいだろう、ねっ?」 ロンがうれしそうに言った。  「すばらしいよ」 ハリーが言った。  「なんて勇敢なんでしょう」 ハーマイオニーが敬服しながらため息をついた。 「見つかりでもしたら……」  「でも、常に移動してるんだろ?」 ロンが言った。 「僕たちみたいに」  「それにしても、フレッドの言ったことを聞いたか?」 ハリーが興奮した声で言った。 放送が終わってみれば、ハリーの思いは、また同じところに戻っていた。 何もかも焼き尽くすような執着だ。 「ヴォルデモートは海外だ! まだ杖を探しているんだよ。僕にはわかる!」  「ハリーつたら」  「いい加減にしろよ、ハーマイオニー。どうしてそう頑固に否定するんだ? ヴォル−−−」  「ハリー、やめろ!」  「−−−デモートはニワトコの杖を追っているんだ!」  「その名前は『禁句』だ?」  ロンが大声を上げて立ち上がった。テントの外でバチッという音がした。  「忠告したのに。ハリー、そう言ったのに。もうその言葉は使っちゃだめなんだ−−−−−保護をかけ直さないと−−−早く−−−やつらはこれで見つけるんだから−−−」  しかし、ロンは口を閉じた。ハリーにはその理由がわかった。 テーブルの上の 「かくれん防止器」が明るくなり、回り出していた。 外の声がだんだん近づいてくる。荒っぽい、興奮した声だ。 ロンは「灯消しライター」をポケットから取り出してカチッと鳴らした。ランプの灯が消えた。  「両手を挙げて出てこい!」  暗闇の向こうから暖れた声がした。  「中にいることはわかっているんだ! 六本の杖がお前たちを狙っているぞ。呪いが誰に当たろうが、俺たちの知ったことじゃない!」 23章:Malfoy Manor/マルフォイの屋敷 ハリーは二人を振り返った。しかし、暗闇の中では輪郭しか見えない。 ハーマイオニーが杖を上げ、外ではなくハリーの顔に向けているのが見えた。 バーンという音とともに白い光が炸裂したかと思うと、ハリーは激痛でがっくり膝を折った。 あっという間に膨れ上がっていくのがわかった。同時に、何も見えない。 両手で覆った顔が重い足音がハリーを取り囲んでいた。  「立て、虫けらめ」  誰のものともわからない手がハリーを荒々しく引っ張り上げた。 抵抗する間もなく、誰かがハリーのポケットを探り、リンボクの杖を取り上げた。 ハリーはあまりの痛さに顔を強く押さえていたが、その指の下の顔は目鼻も見分けがつかないほど膨れ上がり、ひどいアレルギーでも起こしたようにパンパンに腫れている。 目は押しっぶされて細い筋のようになり、ほとんど見えない。 手荒にテントから押し出された拍子にメガネが落ちてしまい、四、五人のぼやけた姿がロンとハーマイオニーを無理やり外に連れ出すのが、やっと見えただけだった。  「放せ−−−その女を−−−放せ!」  ロンが叫んだ。まざれもなく握り拳で殴りつける音が聞こえ、ロンは痛みに呻き、ハーマイオニーが悲鳴を上げた。  「やめて! その人を放して。放して!」  「お前のボーイフレンドが俺のリストに載っていたら、もっとひどい目に遭うぞ」  聞き覚えのある、身の毛のよだつかすれ声だ。  「うまそうな女だ……何というご馳走だ……俺は柔らかい肌が楽しみでねぇ……」  声の主が誰だかわかり、ハリーは胃袋が宙返った。 フェンリール・グレイバック、残忍さを買われて、死喰い人のロープを着ることを許された狼人間だ。  「テントを探せ!」別の声が言った。  ハリーは放り投げられ、地べたにうつ伏せに倒れた。 ドスンと音がして、ロンが自分の横に投げ出されたことがわかった。 足音や物がぶつかり合う音、椅子を押し退けてテントの中を探す音がした。  「さて、獲物を見ようか」頭上でグレイバックの満足げな声がしたかと思うと、ハリーは仰向けに転がされた。 杖灯りがハリーの顔を照らし、グレイバックが笑った。  「こいつを飲み込むにはバタービールが必要だな。どうしたんだ、醜男?」  ハリーはすぐには答えなかった。  「聞いてるのか!」  ハリーは鳩尾を殴られ、痛さに体をくの字に曲げた。  「どうしたんだ?」グレイバックが繰り返した。  「刺された」 ハリーが呟いた。「刺されたんだ」  「ああ、そう見えらあな」 二番目の声が言った。 「名前は?」グレイバックが唸るように言った。 「ダドリー」 ハリーが言った。 「苗字じゃなくて名前は?」 「僕−−−バーノン。バーノン・ダドリー」  「リストをチェックしろ、 スカビオール」 グレイバックが言った。 そのあと、グレイバックが横に移動して、こんどはロンを見下ろす気配がした。  「赤毛、お前はどうだ?」  「スタン・シャンパイク」ロンが言った。  「でまかせ言いやがって」 スカビオールと呼ばれた男が言った。 「スタン・シャンパイクならよぅ、俺たち、知ってるんだぜ。こっちの仕事を、ちいとばっかしやらせてんだ」  またドスッという音がした。  「プ、バーネーだ」 ロンが言った。口の中が血だらけなのがハリーにはわかった。 「バーネー・ウィードリー」  「ウィーズリー一族か」  グレイバックがざらざらした声で言った。 「それなら、『穢れた血』でなくとも、お前は『血を裏切る者』の親戚だ。さーて、最後、お前のかわいいお友達……」  舌舐りするような声に、ハリーは鳥肌が立った。  「急くなよ、グレイバック」周りの噛り笑いを縫って、スカビオールの声がした。  「ああ、まだいただきはしない。バーニーよりは少し早く名前を思い出すかどうか、聞いてみるか。お嬢さん、お名前は?」  「ペネロピー・クリアウォーター」  ハーマイオニーは怯えていたが、説得力のある声で答えた。  「お前の血統は?」  「半純血」 ハーマイオニーが答えた。  「チェックするのは簡単だ」 スカビオールが言った。「だが、こいつらみんな、まだオグワーツ年齢みてえに見えらあ−−−」  「やべたんだ」 ロンが言った。  「赤毛、やめたってぇのか?」 スカビオールが言った。 「そいで、キャンプでもしてみようって決めたのか? そいで、おもしれえから、闇の帝王のなめえでも呼んでみようと思ったてぇのか?」  「おぼしろいからじゃのい」 ロンが言った。「じご」  「事故?」嘲り笑いの声がいっそう大きくなった。  「ウィーズリー、闇の帝王を名前で呼ぶのが好きだったやつらを知っているか?」  グレイバックが唸った。  「不死鳥の騎士団だ。何か思い当たるか?」  「べづに」  「いいか、やつらは闇の帝王にきちんと敬意を払わない。そこで名前を『禁句』にしたんだ。 騎士団貝の何人かは、そうやって追跡した。まあ、いい。さっきの二人の捕虜と一緒に縛り上げろ」  誰かがハリーの髪の毛をぐいとつかんで立たせ、すぐ近くまで歩かせて地べたに座らせ、ほかの囚われ人と背中合わせに縛りはじめた。 ハリーはメガネもない上に、腫しれ上がった瞼の隙間からはほとんど何も見えなかった。 縛り上げた男が行ってしまってから、ハリーはほかの捕虜に小声で話しかけた。  「誰かまだ杖を持っている?」  「ううん」 ロンとハーマイオニーがハリーの両脇で答えた。  「僕のせいだ。僕が名前を言ったぽっかりに。ごめん−−−」  別な声、しかも聞き覚えのある声が、ハリーの真後ろの、ハーマイオニーの左側に縛られている誰かから聞こえた。 「ディーン?」 「やっぱり君か′.君を捕らえたことにあいつらが気づいたら−−−! 連中は『スナッチャー』 なんだ。賞金稼ぎに、学校に登校していない学生を探しているだけのやつらだ  「一晩にしでは悪くない上がりだ」  グレイバックが、靴底に鋲を打ったブーツでハリーの近くをカツカツと歩きながら言った。 テントの中から、家捜しする音がますます激しく聞こえてきた。  「『穢れた血』が一人、逃亡中の小鬼が一人、学校を怠けているやつが三人。スカビオール、まだ、こいつらの名前をリストと照合していないのか?」グレイバックが吸えた。  「ああ、バーノン・ダドリーなんてぇのは、見当たらねえぜ、グレイバック」  「おもしろい」グレイバックが言った。「そりゃあ、おもしろい」  グレイバックはハリーのそばに屈み込んだ。 ハリーは、腫れ上がった瞼の間のわずかな隙間から、グレイバックの顔を見た。 もつれた灰色の髪と頬髭に覆われた顔、茶色く汚れて尖った歯、両端の裂けた口が見えた。 ダンブルドアが死んだ、あの塔の屋上で嗅いだのと同じ臭いがした。泥と汗と血の臭いだ。  「それじゃ、バーノン、お前はお尋ね者じゃないと言うわけか? それとも違う名前でリストに載っているのかな? ホグワーツではどの寮だった?」  「スリザリン」 ハリーは反射的に答えた。  「おかしいじゃねえか。捕まったやつぁみんな、そう言やぁいいと思ってる」  スカビオールの嘲り笑いが、薄暗いところから聞こえた。 「なのに、談話室がどこにあるか知ってるやつぁ、一人もいねえ」  「地下室にある」 ハリーがはっきり言った。 「壁を通って入るんだ。髑髏とかそんなものがたくさんあって、湖の下にあるから明かりは全部緑色だ」 一瞬、間が空いた。  「ほう、ほう、どうやら本物のスリザリンのガキを摘めえたみてぇだ」  スカビオールが言った。 「よかったじゃねえか、バーノン。スリザリンには親父は誰だ?」  「魔法省に勤めている」 『穢れた血』はあんまりいねえからな。  ハリーはでまかせを言った。ちょっと調べれば、嘘は全部ばれることがわかっていたが、どうせ時間稼ぎだ。顔が元通りになれば、いずれにせよ万事休すだ。  「魔法事故惨事部だ」  「そう言えばよぅ、グレイバック」 スカビオールが言った。 「あそこにダドリーつてやつがいると思うぜ」  ハリーは息が止まりそうだった。運がよければ、運しかないが、ここから無事逃れられるかもしれない?  「なんと、なんと」  ハリーは、グレイバックの冷酷な声に、微かな動揺を感じ取った。 グレイバックは、本当に魔法省の役人の息子を襲って縛り上げてしまったのかもしれないと、疑問を感じているのだ。 ハリーの心臓が、肋骨を縛っているロープを激しく打っていた。 ハリーは、グレイバックにその動きが見えても不思議はないと思った。  「もし本当のことを言っているなら、醜男さんよ、魔法省に連れていかれても何も恐れることはない。お前の親父が、息子を連れ帰った俺たちに、褒美をくれるだろうよ」  「でも」 ハリーは口がからからだった。 「もし、僕たちを放して−−−」  「ヘイ!」 テントの中で叫ぶ声がした。 「これを見ろよ、グレイバック!」  黒い影が急いでこっちへやって来た。杖灯りで、銀色に輝くものが見えた。連中はグリフィンドールの剣を見つけたのだ。  「すーっげえもんだ」  グレイバックは仲間からそれを受け取って、感心したように言った。  「いやあ、立派なもんだ。ゴブリン製らしいな、これは。こんな物をどこで手に入れた?」  「僕のパパのだ」  ハリーは嘘をついた。だめもとだったが、暗いので、グレイバックには柄のすぐ下に紛ってある文字が見えないことを願った。 「薪を切るのに借りてきた−−−」  「グレイバック、ちょっと待った?これを見てみねぇ、『予言者』をよ」  スカビオールがそう言ったそのとき、ハリーの膨れ上がった額の引き伸ばされた傷痕に激痛が走った。 現実に周囲にあるものよりもっとはっきりと、ハリーはそびえ立つ建物を見た。 人を寄せつけない、真っ黒で不気味な要塞だ。 ヴォルデモートの想念が、急にまた鮮明になった。 巨大な建物に向かって滑るように進んでいくヴォルデモートは、陶酔感を感じながら冷静に目的を射たそうとしている……。  近いぞ……近いぞ……  意志の力を振り絞り、 ハリーはヴォルデモートの想念に対して心を閉じ、いまいる現実の場所に自分を引き戻した。 ハリーは、暗闇の中でロン、ハーマイオニー、ディーン、グリップ フックたちと一緒に締りつけられ、グレイバックとスカビオールの声を聞いていた。  「アーマイオニー・グレンジャー」とスカビオールが読み上げていた。 「アリー・ポッターと一緒に旅をしていることがわかっている、『穢れた血』」  沈黙の中で、ハリーの傷痕が焼けるように痛んだが、ハリーは現実のその場にとどまるように、ヴォルデモートの心の中に滑り込まないようにと、極限まで力を振り絞って踏ん張った。 グレイバックがブーツを軋ませて、ハーマイオニーの前に屈み込む音が聞こえた。 「嬢ちゃんよ。驚くじゃないか。この写真は何ともはやあんたにそっくりだぜ」 「違うわ!私じゃない!」  ハーマイオニーの怯えた金切り声は、告白しているも同じだった。  「……ハリー・ポッターと一緒に旅をしていることがわかっている」  グレイバックが低い声で繰り返した。  その場が静まり返った。傷痕が激しく痛んだが、ハリーはヴォルデモートの想念に引き込まれないよう、全力で抵抗した。 自分の心を保つのが、いまほど大切だったことはない。ハーマイオニーを助けなければ。 「すると、話はすべて違ってくるな」 誰も口をきかなかった。ハリーは、 グレイバックが囁いた。 「スナッチャー」 の一味が、身動きもせずに自分を見つめているのを感じ取った。 そして、ハーマイオニーの腕の震えが自分の腕に伝わってくるのを感じた。 グレイバックが立ち上がって、一、二歩歩き、ハリーの前にまた屈み込んで、膨れ上がったハリーの顔をじっと見つめた。  「額にあるこれは何だ、バーノン?」  汚らしい指を引き伸ばされた傷痕に押しつけ、グレイバックが低い声で聞いた。 腐臭のする息がハリーの鼻を突いた。  「触るな!」  ハリーは我慢できずに思わず叫んだ。痛みで吐きそうだった。  「ポッター、メガネを掛けていたはずだが?」グレイバックが囁くように言った。  「メガネがあったぞ!」  後ろのほうをこそこそ歩き回っていた、一味の一人が言った。  「テントの中にメガネがあった。グレイバック、ちょっと待ってくれ−−−」  数秒後、ハリーの顔にメガネが押しっけられた。 「スナッチャー」 の一味は、いまやハリーを取り囲み、覗き込んでいた。  「間違いない!」グレイバックがガサガサ声で言った。 「俺たちはポッターを捕まえたぞ!」 一味は、自分たちのしたことに呆然として、全員が数歩退いた。 二つに引き裂かれる頭の中で、現実の世界にとどまろうと奮闘し続けていたハリーは、何も言うべき言葉を思いつかなかった。 バラバラな映像が、心の表面に入り込んできた−−−。 ……黒い要塞の高い壁の周りを、自分は滑るように動き回っていた−−− 違う。自分はハリーだ。縛り上げられ、杖もなく、深刻な危機に瀕している−−− ……眼を上げて見ている。いちばん上の窓まで行くのだ。いちばん高い塔だ−−− 自分はハリーだ。一味は低い声で自分の運命を話し合っている−−− ……飛ぶときがきた−−− 「……魔法省へ行くか?」  「魔法省なんぞクソ食らえだ」グレイバックが唸った。 「あいつらは自分の手柄にしちまうぞ。俺たちは何の分け前にも与かれない。俺たちが『例のあの人』に直接渡すんだ」  「『あのいと』を呼び出すのか? ここに?」 スカビオールの声は恐れ戦いていた。  「違う」グレイバックが歯噛みした。 「俺にはそこまで−−−『あの人』は、マルフォイのところを基地にしていると聞いた。こいつをそこに連れていくんだ」  ハリーは、グレイバックがなぜヴォルデモートを呼び出さないか、わかるような気がした。 狼人間は、死喰い人が利用したいときだけそのローブを着ることを許されはするが、闇の印を刻印されるのはヴォルデモートの内輪の者だけで、グレイバックはその最高の名誉までは受けていないのだ。  ハリーの傷痕がまたしても疼いた−−− ……そして自分は、夜の空を、塔のいちばん上の窓まで、まっすぐに飛んでいった−−−  「……こいつが本人だってぇのは本当に碓かか? もしまちげえでもしたら、グレイバック、俺たちゃ死ぬ」  「指揮を執ってるのは誰だ?」  グレイバックは、一瞬の弱腰を挽回すべく、吼え声を上げた。  「こいつはポッターだと、俺がそう言ってるんだ。ポッターとその杖、それで即座に二十万ガリオンだ! しかしお前ら、どいつも、一緒に来る根性がなけりやあ、賞金は全部俺のもんだ。うまくいけば、小娘のおまけもいただく!」 ……窓は黒い石に切れ目が入っているだけで、人一人通れる大きさではない…… 骸骨のような姿が、隙間から辛うじて見える。 毛布を被って丸まっている……死んでいるのか、それとも眠っているのか……?  「よし!」 スカビオールが言った。 「よーし、乗った! どっこい、ほかのやつらは、グレイバック、ほかのやつらをどうする?」  「いっそまとめて連れていこう。『穢れた血』が二人、それで十ガリオン追加だ。その剣も俺によこせ。そいつらがルビーなら、それでまたひと儲けだ」  捕虜たちは、引っ張られて立ち上がった。 ハリーの耳に、ハーマイオニーの怯えた荒い息遣いが聞こえた。  「つかめ。しっかりつかんでろよ。俺がポッターをやる!,」  グレイバックはハリーの髪の毛を片手でむんずとつかんだ。 ハリーは、長い黄色い爪が頭皮を引っ掻くのを感じた。  「三つ数えたらだ! いち−−−に−−−さん−−−」 一味は、捕虜を引き連れて「姿くらまし」した。 ハリーはグレイバックの手を振り離そうともがいたが、どうにもならなかった。 ロンとハーマイオニーが両脇にきつく押しっけられていて、自分一人だけ離れることはできなかった。 息ができないほど肺が絞られ、傷痕はいっそうひどく痛んだ−−−。  ……自分は窓の切れ目から蛇のごとく入り込み、霞のように軽々と独房らしい部屋の中に降り立った −  捕虜たちは、どこか郊外の小道に着地し、よろめいてぶつかり合った。 ハリーの両目はまだ腫れていて、周囲に目が慣れるまで少し時間がかかったが、やがて長い馬車道のような道と、その入口に両開きの鉄の門が見えた。 ハリーは少しほっとした。まだ最悪の事態は起こっていない。 ヴォルデモートは、ここにはいない。 頭に浮かぶ映像と戦っていたハリーには、それがわかっていた。 ヴォルデモートは、どこか見知らぬ要塞のような場所の、塔のてっぺんにいる。 しかし、ハリーがここにいると知って、ヴォルデモートがやって来るまでに、果たしてどのくらいの時間がかかるのか、それはまた別な問題だ……。  「スナッチャー」 の一人が、大股で門に近づき揺さぶった。  「どうやって入るんだ? 鍵がかかってる。グレイバック、俺は入れ−−−うおっと!」  その男は、仰天してパッと手を引っ込めた。 鉄が歪んで抽象的な曲線や渦模様が恐ろしい顔に変わり、ガンガン響く声でしゃべり出したのだ。  「目的を述べよ!」  「俺たちは、ポッターを連れてきた!」グレイバックが勝ち誇ったように酔えた。 「ハリー・ポッターを捕まえた!」  門がパッと開いた。  「来い!」グレイバックが一味に言った。 捕虜たちは門から中へ、そして馬車道へと歩かされ、両側の高い生垣がその足音をくぐもらせた。 ハリーは、頭上に幽霊のような白い姿を見たが、それはアルビノの自孔雀だった。 ハリーはつまずいて、グレイバックに引きずり起こされた。 ほかの四人の捕虜と背中合わせに縛られたまま、ハリーはよろめきながら横歩きしていた。 腫れぼったい目を閉じ、ハリーは、しばらく傷痕の痛みに屈服することにした。 ヴォルデモートが何をしているのか、ハリーが捕まったことをもう知っているのかどうか、を知りたかった−−−。 ……やつれ泉てた姿が薄い毛布の下で身動きし、こちらに寝返りを打った。 そして骸骨のような顔の両目が見開かれた…… 弱りきった男は、落ち窪んだ大きな目でこちらを、ヴォルデモートを見据え、上半身を起こした。 そして笑った。歯がほとんどなくなっている……。  「やって来たか。来るだろうと思っていた……そのうちにな。しかし、お前の旅は無意味だった。私がそれを持っていたことはない」  「嘘をつくな!」  ヴォルデモートの怒りが、ハリーの中でドクドクと脈打った。ハリーの傷痕は、痛みで張り裂けそうだった。 ハリーは、心をもぎ取るようにして自分の体に戻し、捕虜の一人として砂利道を歩かされているという現実から心が離れないように戦った。  明かりがこぼれ、捕虜全員を照らし出した。  「何事ですか?」冷たい女の声だ。  「我々は、『名前を言ってはいけないあの人』にお目にかかりに参りました」グレイバックのガサガサした声が言った。  「おまえは誰?」  「あなたは私をご存知でしょう!」  狼人間の声には憤りがこもっていた。  「フェンリール・グレイバックだ! 我々はハリー・ポッターを捕らえた!」  グレイバックはハリーをぐいとつかんで半回りさせ、正面の明かりに顔を向けさせた。 ほかの捕虜も一緒にズルズルと半回りさせられる羽目になった。  「この顔がむくんでいるのはわかっていやすがね、マダム、しかし、こいつはアリーだ!」 スカビオールが口を挟んだ。 「ちょいとよく見てくだきりゃあ、こいつの傷痕が見えまさあ。それに、ほれ、娘っこが見えますかい?『穢れた血』で、アリーと一緒に旅しているやつでさあ、マダム。こいつがアリーなのはまちげえねえ。それに、こいつの杖も取り上げたんで。ほれ、マダム」  ハリーは、ナルシッサ・マルフォイが自分の腫れ上がった顔を確かめるように眺めているのを見た。 スカビオールが、リンボクの杖をナルシッサに押しっけた。 ナルシッサは眉を吊り上げた。  「その者たちを中に入れなさい」ナルシッサが言った。  ハリーたちは広い石の階段を追い立てられ、蹴しり上げられながら、肖像画の並ぶ玄関ホールに入った。  「従いてきなさい」  ナルシッサは、先に立ってホールを横切った。  「息子のドラコが、イースターの休暇で家にいます。これがハリー・ポッターなら、息子にはわかるでしょう」  外の暗闇のあとでは、客間の明かりが眩しかった。 ほとんど目の開いていないハリーでさえ、その部屋の広さが理解できた。 クリスタルのシャンデリアが一基、天井から下がり、この部屋にも、深紫色の壁に何枚もの肖像画が掛かっていた。 「スナッチャー」たちが捕虜を部屋に押し込むと、見事な装飾の大理石の暖炉の前に置かれた椅子から、二つの姿が立ち上がった。 「何事だ?」 いやというほど聞き覚えのあるルシウス・マルフォイの気取った声が、ハリーの耳に入ってきた。 ハリーはいまになって急に恐ろしくなった。逃げ道がない。 しかし恐れが募ることでヴォルデモートの想念を遮断しやすくなったが、傷痕の焼けるような痺きだけは続いていた。  「この者たちは、ポッターを捕まえたと言っています」ナルシッサの冷たい声が言った。 「ドラコ、ここへ来なさい」  ハリーはドラコを真正面から見る気になれず、顔を背けて横目で見た。 肘掛椅子から立ち上がったドラコは、ハリーより少し背が高く、プラチナブロンドの髪の下に、顎のとがった青白い顔がぼやけて見えた。  グレイバックは、捕虜たちを再び回して、ハリーがシャンデリアの真下に来るようにした。  「さあ、坊ちゃん?」狼人間がかすれ声で言った。  ハリーは、暖炉の上にある、繊柳な渦巻き模様の見事な金線の鏡に顔を向けていた。 細い線のような目で、ハリーは、グリモールド・プレイスを離れて以来、初めて鏡に映る自分の姿を見た。  ハーマイオニーの呪いで、顔は膨れ上がり、ピンク色にテカテカ光って、顔の特徴がすべて歪められていた。 黒い髪は肩まで伸び、顎の周りにはうっすらと鬚が生えている。 そこに立っているのが自分だと知らなければ、自分のメガネを掛けているのは誰かと訝ったことだろう。 ハリーは絶対にしゃべるまいと決心した。 声を出せば、きっと正体がばれてしまう。 それでもハリーは、近づいてくるドラコと目を合わせるのを避けた。  「さあ、ドラコ?」  ルシウス・マルフォイが聞いた。声が上ずっていた。  「そうなのか? ハリー・ポッターか?」  「わからない−−−自信がない」ドラコが言った。  ドラコはグレイバックから距離を取り、ハリーがドラコを見るのを恐れると同じくらい、ハリーを見るのが恐ろしい様子だった。 「しかし、よく見るんだ、さあ! もっと近くに寄って!」 ハリーは、こんなに興奮したルシウス・マルフォイの声を、初めて.聞いた。 「ドラコ、もし我々が闇の帝王にポッターを差し出したとなれば、何もかも許され−−−」 「いいや、マルフォイ様、こいつを実際に捕まえたのが誰かを、お忘れではないでしょうな?」 グレイバックが脅すように言った。  「もちろんだ。もちろんだとも!」  ルシウスはもどかしげに言い、自分自身でハリーに近づいた。 あまりに近寄ってきたので、ハリーの腫れ上がった目でさえ、いつもの物憂げな青白い顔が、はっきりと細かいところまで見えた。 膨れ上がった顔は仮面のようで、ハリーは、まるで籠の間から外を覗いているような感じがした。  「いったいこいつに何をしたのだ?」 ルシウスがグレイバックに聞いた。 「どうしてこんな顔になったのだ?」  「我々がやったのではない」  「むしろ『蜂刺しの呪い』のように見えるが」 ルシウスが言った。  灰色の目が、ハリーの額を舐めるように見た。  「ここに何かある」 ルシウスが小声で言った。 「傷痕かもしれない。ずいぶん引き伸ばされている……ドラコ、ここに来てよく見るのだ!どう思うか?」  ハリーは、こんどは父親の顔のすぐ横に、ドラコの顔を近々と見た。瓜二つだった。 しかし、興奮で我を忘れている父親に比べて、ドラコの表情はまるで気の進まない様子で、怯えているようにさえ見えた。  「わからないよ」 ドラコはそう言うと、母親が立って見ている暖炉のほうに歩き去った。  「確実なはうがいいわ、ルシウス」  ナルシッサが、いつもの冷たい、はっきりした声でルシウスに話しかけた。  「闇の帝王を呼び出す前に、これがポッターであることを完全に確かめたほうがいいわ……この者たちは、この杖がこの子のものだと言うけれど」  ナルシッサはリンボクの杖を念入りに眺めていた。  「でも、これはオリバンダーの話とは違います……もしも私たちが間違いを犯せば、もしも闇の帝王を呼び戻しても無駄足だったら……ロウルとドロホフがどうなったか、覚えていらっしゃるでしょう?」  「それじゃ、この『穢れた血』はどうだ?」  グレイバックが唸るように言った。 「スナッチャー」たちが再び捕虜たちをぐいと回し、ハーマイオニーに明かりが当たるようにした。 その拍子に、ハリーは足をすくわれて倒れそうになった。  「お待ち」ナルシッサが鋭く言った。 「そう−−−そうだわ。この娘は、ポッターと一緒にマダム・マルキンの店にいたわ!この子の写真を『予言者』で見ましたわ! ご覧、ドラコ、この娘はグレンジャーでしょう?」 「僕……そうかもしれない……ええ」 「それなら、こいつはウィーズリーの息子だ!」 ルシウスは、縛り上げられた捕虜たちの周りを大股で歩き、ロンの前に来て叫んだ。 「やつらだ。ポッターの仲間たちだ−−−ドラコ、こいつを見るんだ。アーサー・ウィーズリーの息子で、名前は何だったかな−−−?」  「ああ」ドラコは、捕虜たちに背を向けたまま言った。 「そうかもしれない」  ハリーの背後で客間のドアが開き、女性の声がした。その声がハリーの恐怖をさらに強めた。  「どういうことだ? シシー、何が起こったのだ?」  ベラトリックス・レストレンジが、捕虜の周りをゆっくりと回った。 そしてハリーの右側で立ち止まり、厚ぼったい瞼の下からハーマイオニーをじっと見た。  「なんと」 ベラトリックスが静かに言った。 「これがあの『穢れた血』の? これがグレンジャーか?」  「そう、そうだ。それがグレンジャーだ!」 ルシウスが叫んだ。 「そしてその横が、たぶんポッターだ! ポッターと仲間が、ついに捕まった!」  「ポッター?」  ベラトリックスが甲高く叫んで後退りし、ハリーをよく見ようとした。  「たしかなのか? さあ、それでは、闇の帝王に、すぐさまお報せしなくては!」  ベラトリックスは左の袖をまくり上げた。 ハリーはその腕に、閥の印が焼きつけられているのを見た。 ベラトリックスが、愛するご主人様を呼び戻すため、いまにもそれに触れようとしている−−−。  「私が呼ぼうと思っていたのだ!」  そう言うなり、ルシウスの手がベラトリックスの手首を握って、印に触れさせなかった。  「ベラ、私がお呼びする。ポッターは私の館に連れてこられたのだから、私の権限で−−−」  「おまえの権限!」  ベラトリックスは、握られた手を振り離そうとしながら、冷笑した。  「杖を失ったとき、おまえは権限も失ったんだ、ルシウス! よくもそんな口がきけたものだな!その手を離せ!」  「これはおまえには関係がない。おまえがこいつを捕まえたわけではない−−−」  「失礼ながら、マルフォイの旦那」グレイバックが割り込んできた。 「ポッターを捕まえたのは我々ですぞ。そして、我々こそ金貨を要求すべきで−−−」  「金貨?」  義弟の手を握り払おうとしながら、もう一方の手でポケットの杖を探り、ベラトリックスが笑った。  「おまえは金貨を受け取るがいい、汚らしいハイエナめ。金貨など私がほしがると思うか?私が求めるのは名誉のみ。あの方の−−−あの方の−−−」  ベラトリックスは抗うのをやめ、暗い目でハリーには見えない何かをじっと見た。 ベラトリックスを降伏させたと思ったルシウスは、有頂天でベラトリックスの手を放り出し、自分のローブの袖をまくり上げた−−−。  「待て!」  ベラトリックスが甲高い声を上げた。  「触れるな。いま闇の帝王がいらっしゃれば、我々は全員死ぬ!」  ルシウスは、腕の印の上に人差し指を浮かせたまま硬直した。 ベラトリックスがつかつかと、ハリーの視線の届く範囲から出ていった。 「これは、何だ?」 ベラトリックスの声が聞こえた。 「剣だ」見えないところにいる男の一人が、プツプツ言った。 「私によこすのだ」 「あんたのじゃねえよ、奥さん、俺んだ。俺が見つけたんだぜ」  バーンという音がして、赤い閃光が走った。 ハリーには、その男が「失神呪文」 で気絶させられたのだとわかった。 仲間が怒って喚き、スカビオールが杖を抜いた。  「この女、何のまねだ?」 「ステュービファイ!<麻痺せよ>」 ベラトリックスが叫んだ。 「ステュービファイ!」 一対四でも、「スナッチャー」ごときの敵う相手ではなかった。 ハリーの知るベラトリックスは、 並外れた技を持ち、良心を持たない魔女だ。 「スナッチャー」たちは、全員その場に倒れた。 グレイバックだけは、両腕を差し出した格好で、無理やりひざまずかせられた。 ハリーは目の端で、手にグリフィンドールの剣をしっかり握った蒼白な顔のベラトリックスが、素早く狼人間に迫るのをとらえた。  「この剣をどこで手に入れた?」  グレイバックの杖をやすやすともぎ取りながら、ベラトリックスが押し殺した声で聞いた。  「よくもこんなことを!」  グレイバックが唸りを上げた。 無理やりベラトリックスを見上げる姿勢を取らされ、口しか動かせない状態だった。 グレイバックは鋭い牙をむき出した。  「術を解け、女!」  「どこでこの剣を見つけた?」  ベラトリックスは、剣をグレイバックの目の前で振り立てながら、繰り返して聞いた。  「これは、スネイプがグリンゴッツの私の金庫に送ったものだ!」  「あいつらのテントにあった」グレイバックがかすれ声で言った。 「解けと言ったら解け!」  ベラトリックスが杖を振り、グレイバックは馳ねるように立ち上がった。 しかし、用心してベラトリックスには近づかず、油断なく肘掛椅子の後ろに回って、汚らしいねじれた爪で椅子の背をつかんだ。  「ドラコ、このクズどもを外に出すんだ」  ベラトリックスは、気絶している男たちを指して言った。  「そいつらを殺ってしまう度胸がないなら、私が片付けるから中庭に打っちゃっておきな」  「ドラコに対して、そんな口のききかたを−−−−−」  ナルシッサが激怒したが、ベラトリックスの甲高い声に押さえ込まれた。  「お黙り! シシー、おまえなんかが想像する以上に、事は重大だ!深刻な問題が起きてしまったのだ!」  ベラトリックスは、立ったまま少し職ぎながら、剣を見下ろしてその柄を調べた。 それから黙りこくっている捕虜たちに目を向けた。  「もしも本当にポッターなら、傷つけてはいけない」  ベラトリックスは、誰に言うともなく呟いた。  「闇の帝王は、ご自身でポッターを始末することをお望みなのだ……しかし、このことをあのお方がお知りになったら……私はどうしても……どうしても確かめなければ……」  ベラトリックスは、再び妹を振り向いた。  「私がどうするか考える間、捕虜たちを地下牢にぶち込んでおくんだ!」  「ベラ、ここは私の家です。そんなふうに命令することは−−−」  「言われたとおりにするんだ! どんなに危険な状態なのか、おまえにはわかっていない!」  ベラトリックスは金切り声を上げた。恐ろしい狂気の形相だった。 杖から一筋の炎が噴き出し、絨毯に焼け焦げ穴をあけた。  ナルシッサは一瞬、戸惑ったが、やがて狼人間に向かって言った。  「捕虜を地下牢に連れていきなさい、グレイバック」  「待て」 ベラトリックスが鋭く言った。「一人だけ……『穢れた血』を残していけ」  グレイバックは、満足げに鼻を鳴らした。  「やめろ?」 ロンが叫んだ。「代わりに僕を残せ。僕を!」  ベラトリックスがロンの顔を殴った。その昔が部屋中に響いた。  「この子が尋間中に死んだら、次はおまえにしてやろう」 ベラトリックスが言った。 「『血を裏切る者』は、『穢れた血』の次に気に入らないね。グレイバック、捕虜を地下へ連れていって、逃げられないようにするんだ。ただし、それ以上は何もするな−−−いまのところは−−−」  ベラトリックスはグレイバックの杖を投げ返し、ロープの下から銀の小刀を取り出した。 ベラトリックスがハーマイオニーをほかの捕虜から切り離し、髪の毛をつかんで部屋の真ん中に引きずり出す間、グレイバックは、前に突き出した杖から抵抗し難い見えない力を発して、捕虜たちを別のドアまで無理やり歩かせ、暗い通路に押し込んだ。  「用済みになったら、あの女は、俺に娘を味見させてくれると思うか?」 捕虜に通路を歩かせながら、グレイバックが歌うように言った。 「一口か二口というところかな、どうだ、赤毛?」 ハリーはロンの震えを感じた。 捕虜たちは、急な階段を無理やり歩かされ、背中合わせに縛られたままなので、いまにも足を踏み外して転落し、首を折ってしまいそうだった。 階段下 に、頑丈な扉があった。 グレイバックは杖で叩いて開錠し、ジメジメした徴臭い部屋に全員を押し込んで、真っ暗闇の中に取り残した。 地下牢の扉がバタンと閉まり、その響きがまだ消えないうちに、真上から恐ろしい悲鳴が長々と聞こえてきた。  「ハーマイオニー!」  ロンが大声を上げ、綽られているロープを振りほどこうと身もだえしはじめた。 同じロープに縛られているハリーはよろめいた。  「ハーマイオニー!」  「静かにして!」 ハリーが言った。 「ロン、黙って。方法を考えなくては−−−」  「ハーマイオニー!ハーマイオニー!」  「計画が必要なんだ。叫ぶのはやめてくれ−−−このロープをほどかなくちゃ−−−」  「ハリー?」暗闇から囁く声がした。「ロン? あんたたちなの?」  ロンは叫ぶのをやめた。近くで何かが動く音がして、ハリーは、近づいてくる影を見た。  「ハリー? ロン?」  「ルーナ?」  「そうよ、あたし! ああ、あんただけは捕まってほしくなかったのに!」  「ルーナ、ロープをほどくのを手伝ってくれる?」 ハリーが言った。  「あ、うん、できると思う……何か壊すときのために古い釘が一本あるもン……ちょっと待って……」  頭上からまたハーマイオニーの叫び声が聞こえた。 ベラトリックスの叫ぶ声も聞こえたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。ロンがまた叫んだからだ。  「ハーマイオニー!ハーマイオニー!」  「オリバンダーさん?」  ハリーは、ルーナがそう呼ぶ声を聞いた。  「オリバンダーさん、釘を持ってる? ちょっと移動してくだされば……たしか水差しの横にあったと……」  ルーナはすぐに戻ってきた。 「じっとしてないとだめよ」 ルーナが言った。 ハリーは、ルーナが結び目をほどこうとして、ロープの頑丈な繊維に穴を穿っているのを感じた。 上の階から、ベラトリックスの声が聞こえてきた。  「もう一度聞くよ! 剣をどこで手に入れた? どこだ?」  「見つけたの−−−見つけたのよ−−−−−やめて!」  ハーマイオニーがまた悲鳴を上げた。ロンはますます激しく身を振り、錆びた釘が滑って、ハリーの手首に当たった。  「ロン、お願いだからじっとしてて!」ルーナが小声で言った。 「あたし、手元が見えないんだもン−−−」  「僕のポケット!」 ロンが言った。 「僕のポケットの中。『灯消しライター』がある。灯りが一杯詰まってるよ!・」  数秒後、カチッと音がして、テントのランプから吸い取った光の玉がいくつも地下牢に飛び出した。 もともとの出所に戻ることができない光は、小さな太陽のようにあちこちに浮かび、地下牢には光が溢れた。 ハリーはルーナを見た。 白い顔に目ばかりが大きかった。杖作りのオリバンダーが、部屋の隅で身動きもせずに身を丸めているのが見えた。 首を回して後ろを見ると、一緒に縛られている仲間が見えた。 ディーンとグリップフックだ。小鬼は、ヒトと一緒に縛られているロープに支えられてやっと立ってはいたが、ほとんど意識がないように見えた。  「ああ、ずっとよくなったわ。ありがとう、ロン」  ルーナは、そう言うと、また縄目を叩き切りにかかった。  「あら、こんにちは、ディーン!」  上から、ベラトリックスの声が聞こえてきた。  「おまえは嘘をついている、『穢れた血』め、私にはわかるんだ!おまえたちはグリンゴッツの私の金庫に入ったんだろう! 本当のことを言え、本当のことを!」  またしても恐ろしい叫び声−−−。  「ハーマイオニー!」  「ほかには何を盗んだ? ほかに何を手に入れたんだ?本当のことを言え。さもないと、いいか、この小刀で切り刻んでやるよ!」  「ほーら!」  ハリーはロープが落ちるのを感じて、手首をさすりながら振り向いた。 ロンが低い天井を見上げて、撥ね戸はないかと探しながら、地下牢を走り回っているのが目に入った。 ディーンは傷を負い、血だらけの顔でルーナに「ありがとう」と言い、震えながらその場に立っていた。 しかしグリップフックは、ふらふらと右も左もわからないありさまで床に座り込んだ。 色黒の顔に、幾筋もミミズ腫しれが見えた。  ロンは、こんどは杖なしのまま「姿くらまし」しょうとしていた。  「出ることはできないんだもン、ロン」  ロンの無駄なあがきを見ていたルーナが言った。  「地下牢は完全に逃亡不可能になってるもン。あたしも最初はやってみたし、オリバンダーさんは長くいるから、もう、何もかも試してみたもン」  ハーマイオニーがまた悲鳴を上げ、その声は、肉体的な痛みとなってハリーの体を突き抜けた。 自分の傷痕の激しい痛みはほとんど意識せずに、ハリーも地下牢を駆け回りはじめた。 何を探しているのか自分でもわからないまま、ハリーは壁という壁を手探りしたが、心の奥では、無駄なことだとわかっていた。  「ほかには何を盗んだ? 答えろ! クルーシオ!苦しめ!」  ハーマイオニーの悲鳴が、上の階から壁を伝って響き渡った。ロンは壁を拳で叩きながら半分泣いていた。 居ても立ってもいられず、ハリーは、首に掛けたハグリッドの巾着をつかみ、中を掻き回した。 ダンブルドアのスニッチを引っ張り出し、何を期待しているのかもわからずに振ってみた−−−何事も起こらない。 二つに折れた不死鳥の尾羽根の杖を振ってみたが、まったく反応がない−−−鏡の破片がキラキラと床に落ちた。 そして、ハリーは明るいブルーの輝きを見た−−−。  ダンブルドアの目が、鏡の中からハリーを見つめていた。  「助けて!」 ハリーは、鏡に向かって必死に叫んだ。 「僕たちはマルフォイの館の地下牢にいます。助けて!」  その目が瞬いて、消えた。  ハリーには、本当にそこに目があったかどうかの確信もなかった。 破片をあちこちに傾けてみたが、映るものと言えば牢獄の壁や天井ばかりだった。 上から聞こえるハーマイオニーの叫び声が、ますますひどくなってきた。 そしてハリーの横では、ロンが大声で叫んでいた。  「ハーマイオニー!ハーマイオニー!」 だが、ハリーはハーマイオニーの名前を呼ぶだけでは何もならないと解っていた。  「どうやって私の金庫に入った?」 ベラトリックスの叫ぶ声が聞こえた。 「地下牢に入っている薄汚い小鬼が手助けしたのか?」  「小鬼には、今夜会ったばかりだわ!」 ハーマイオニーが啜り泣いた。 「あなたの金庫になんか、入ったことはないわ……それは本物の剣じゃない!ただの模造品よ、模造品なの!」  「偽物?」 ベラトリックスが甲高い声を上げた。 「ああ、うまい言い訳だ!」  「いや、簡単にわかるぞ!」 ルシウスの声がした。 「ドラコ、小鬼を連れてこい。剣が本物かどうか、あいつならわかる!」  ハリーは、グリップフックがうずくまっているところに飛んでいった。  「グリップフック」  ハリーは小鬼の尖った耳に囁いた。  「あの剣が偽物だって言ってくれ。やつらに、あれが本物だと知られてはならないんだ。グリップフック、お願いだ−−−」  誰かが地下牢への階段を急いで下りてくる音が聞こえ、次の瞬間、扉の向こうで、ドラコの震える声がした。  「みんな下がれ。後ろの壁に並んで立つんだ。おかしなまねをするな。さもないと殺すぞ!」  みんな、命令に従った。鍵が回ったとたん、ロンが「灯消しライター」をカチッと鳴らした。 光はロンのポケットに吸い取られて、地下牢は暗闇に戻った。 扉がパッと開き、杖を構えたドラコ・マルフォイが、青白い決然とした顔でつかつかと入ってきた。 ドラコは小さいグリップフックの腕をつかみ、小鬼を引きずりながら後退りした。 扉が閉まると同時に、バチンという大きな音が、地下牢内に響いた。  ロンが「灯消しライター」をもう一度カチッと鳴らした。 光の玉が三つ、ポケットから空中に飛び出し、たったいまそこに「姿現わし」した、屋敷しもべ妖精のドビーを照らし出した。  「ド−−−!」  ハリーはロンの腕を叩いて、ロンの叫びを止めた。 ロンは、うっかり叫びそうになったことでぞっとしているようだった。 頭上の床を歩く足音がした。ドラコがグリップフックを、ベラトリックスのところまで歩かせていた。  ドビーは、テニスボールのような巨大な眼を見開いて、足の先から耳の先まで震えていた。 昔のご主人棟の館に戻ったドビーは、明らかに恐怖ですくみ上がっていた。  「ハリー・ポッター」蚊の鳴くようなキーキー声が震えていた。 「ドビーはお助けに参りました」  「でもどうやって−−−?」  恐ろしい叫び声が、ハリーの言葉を掻き消した。ハーマイオニーがまた拷問を受けている。 ハリーは大事な話だけに絞ることにした。 絶対にハーマイオニーを助けなければならない。 そして、この時ほどハーマイオニーに感謝した事はなかった。 屋敷しもべ妖精に優しくしていなければこの恩恵は受ける事が出来なかった。 やはりハーマイオニーは正しかったのだ−−−。  「君は、この地下牢から『姿くらまし』できるんだね?」  ハリーが聞くと、ドビーは耳をハタハタさせて頷いた。  「そして、ヒトを一緒に連れていくこともできるんだね?」  ドビーはまた頷いた。  「よーし、ドビー、ルーナとディーンとオリバンダーさんをつかんで、それで三人を−−−三人を−−−」  「ビルとフラーのところへ」 ロンが言った。 「ティンワース郊外の『貝殻の家』へ!」  しもべ妖精は、三度嶺いた。  「それから、ここに戻ってきてくれ」 ハリーが言った。「ドビー、できるかい?」  「もちろんです、ハリー・ポッター」小さなしもべ妖精は小声で答えた。  ドビーは、ほとんど意識がないように見えるオリバンダーのところに、急いで近づいた。そ して、杖作りの片方の手を掘り、もう一方の手をルーナとディーンのほうに差し出した。二人 とも動かなかった。  「ハリー、あたしたちもあんたを助けたいわ?」ルーナが囁いた。  「君をここに置いていくことはできないよ!」ディーンが言った。  「二人とも、行ってくれ! ビルとフラーのところで会おう」  ハリーがそう言ったとたん、傷痕がこれまでにないほど激しく痛んだ。 その瞬間ハリーは、誰かの姿を見下ろしていた。杖作りのオリバンダーではなく、同じくらい年老いて痩せこけた男だ。 しかも、嘲るように笑っている。  「殺すがよい、ヴォルデモート。私は死を歓迎する! しかし私の死が、お前の求めるものをもたらすわけではない……お前の理解していないことが、何と多いことか……」  ハリーはヴォルデモートの怒りを感じた。しかし、また響いてきたハーマイオニーの叫び声が、ハリーを呼び戻した。 ハリーは怒りを締め出して、地下牢に、そして自分自身の現実の恐怖に戻ってきた。  「行ってくれ!」 ハリーはルーナとディーンに懇願した。 「行くんだ! 僕たちはあとで行く。とにかく行ってくれ!」  二人は、しもべ妖精が伸ばしている指をつかんだ。再びバチンと大きな音がして、ドビー、ルーナ、ディーン、オリバンダーは消えた。  「あの音は何だ?」  ルシウス・マルフォイの叫ぶ声が、頭上から聞こえてきた。  「聞こえたか? 地下牢のあの物音は何だ?」  ハリーとロンは顔を見合わせた。  「ドラコ−−−いや、ワームテールを呼べ! やつに、行って調べさせるのだ!」  頭上で、部屋を横切る足音がした。そして静かになった。 ハリーは、地下牢からまだ物音が聞こえるかどうかと、客間のみんなが耳を澄ましているのだと思った。  「二人で、やつを組み伏せるしかないな」  ハリーがロンに囁いた。ほかに手はない。 誰かがこの部屋に入って、三人の囚人がいないのを見つけたが最後、こっちの負けだ。  「明かりを点けたままにしておけ」 ハリーがつけ加えた。  扉の向こう側で、誰かが降りてくる足音がした。二人は扉の左右の壁に張りついた。  「下がれ」 ワームテールの声がした。「扉から離れろ。いま入っていく」  扉がパッと開いた。ワームテールは、ほんの一瞬、地下牢の中を見つめた。三個のミニ太陽が宙に浮かび、 その明かりに照らし出された地下牢は、一見して空っぽだ。 だが次の瞬間、ハリーとロンが、ワームテールに飛びかかった。ロンはワームテールの杖腕を押さえて振じり上げ、ハリーはワームテールの口を塞いで、声を封じた。三人は無言で取っ組み合った。 テールの杖から火花が飛び、銀の手がハリーの喉を絞めた。  「ワームテール、どうかしたか?」  上からルシウス・マルフォイが呼びかけた。  「何でもありません!」 ロンが、ワームテールのゼィゼィ声をなんとかまねて答えた。 「異常ありません!」  ハリーは、ほとんど息ができなかった。 「僕を殺すつもりか?」 ハリーは息を詰まらせながら、金属の指を引き剥がそうとした。  「僕はおまえの命を救ったのに?ピーター・ペティグリュー、君は僕に借りがある!」  銀の指が緩んだ。予想外だった。 ハリーは驚きながら、ワームテールの口を手で塞いだまま、銀の手を喉元から振りほどいた。 ネズミ顔の、色の薄い小さな目が、恐怖と驚きで見開かれていた。 わずかに衝動的な憐れみを感じたことを、自分の手が告白してしまったことに、ワ ームテールもハリーと同じくらい衝撃を受けているようだった。 ワームテールは弱みを見せた一瞬を埋め合わせるかのように、ますます力を奮って争った。 「さあ、それはいただこう」 ロンが小声でそう言いながら、ワームテールの左手から杖を奪った。 杖も持たずたった一人で、ペティグリューの瞳孔は恐怖で広がっていた。その視線が、ハリーの顔から何か別なものへと移った。 ペティグリューの銀の指が、情け容赦なく持ち主の喉元へと動いていた。  「そんな−−−」  ハリーは何も考えずに、とっさに銀の手を引き戻そうとした。しかし止められない。 ヴォルデモートがいちばん臆病な召使いに与えた銀の道具は、武装解除されて役立たずになった持ち主に矛先を向けたのだ。 ペティグリューは、一瞬の躊躇、一瞬の憐憫の報いを受けた。 二人の目の前で、ペティグリューは絞め殺されていった。  「やめろ!」  ロンもワームテールを放し、ハリーと二人で、ワームテールの喉をぐいぐい締めつけている金属の指を引っ張ろうとした。 しかし無駄だった。 ペティグリューの顔から血の気が引いていった。  「レラシオ! 放せ!」  ロンが銀の手に杖を向けて唱えたが、何事も起こらなかった。 ワームテールはがっくりと膝をついた。 そのとき、ハーマイオニーの恐ろしい悲鳴が頭上から聞こえてきた。 ワームテールは、顔がどす黒くなり、目がひっくり返って、最後に一度痙攣したきり動かなくなった。  ハリーとロンは、顔を見合わせた。 そして、床に転がったワームテールの死体を残して階段を駆け上がり、客間に続く薄暗い通路に戻った。 二人は半開きになっている客間のドアに慎重に忍び寄った。 ベラトリックスが、グリップフックを見下ろしているのがよく見えた。 グリップフックは、グリフィンドールの剣を指の長い両手で持ち上げている。 ハーマイオニーは、ベラトリックスの足元に身動きもせずに倒れていた。  「どうだ?」 ベラトリックスがグリップフックに聞いた。 「本物の剣か?」  ハリーは息を殺し、傷痕の痛みと戦いながら待った。  「いいえ」グリップフックが言った。 「偽物です」  「確かか?」 ベラトリックスが喘いだ。 「本当に、確かか?」  「確かです」小鬼が答えた。  ベラトリックスの顔に安堵の色が浮かび、緊張が解けていった。  「よし」  ベラトリックスは軽く杖を振って、小鬼の顔にもう一つ深い切り傷を負わせた。 悲鳴を上げて足元に倒れた小鬼を、ベラトリックスは脇に蹴り飛ばした。  「それでは」 ベラトリックスが、勝ち誇った声で言った。 「闇の帝王を呼ぶのだ!」  ベラトリックスは袖をまくり上げて、闇の印に人差し指で触れた。  とたんにハリーの傷痕に、またしてもぱっくり口を開いたかと思われるほどの激痛が走った。 現実が消え去り、ハリーはヴォルデモートになっていた。  目の前の骸骨のような魔法使いが、歯のない口をこちらに向けて笑っている。 呼び出しを感じてヴォルデモートは激怒した−−警告しておいたはずだ。 ポッター以外のことでは俺様を呼び出すなと、あいつらに言ったはずだ。もしあいつらが間違っていたなら……。  「さあ、殺せ!」老人が迫った。 「お前は勝たない。お前は勝てない! あの杖は金輪際、お前のものにはならない−−−」  そして、ヴォルデモートの怒りが爆発した。 牢獄を緑の閃光が満たし、弱りきった走体は硬いベッドから浮き上がって、魂の抜け殻が床に落ちた。 ヴォルデモートは窓辺に戻った。 激しい怒りは抑えようもない……自分を呼び戻す理由がなかったら、あいつらに俺様の報いを受けさせてやる……。  「それでは」 ベラトリックスの声が言った。 「この『穢れた血』を処分してもいいだろう。グレイバック、ほしいなら娘を連れていけ」  「やめろおおおおおおおおおおおお!」  ロンが客間に飛び込んだ。 驚いたベラトリックスは、振り向いて杖をロンに向け直した−−−。  「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」  ロンがワームテールの杖をベラトリックスに向けて叫んだ。 ベラトリックスの杖が宙を飛び、ロンに続いて部屋に駆け込んだハリーがそれを捕らえた。 ルシウス、ナルシッサ、ドラコ、グレイバックが振り向いた。  「ステュービファイ!<麻痺せよ>」 ハリーが叫んだ。  ルシウス・マルフォイが、暖炉の前に倒れた。 ドラコ、ナルシッサ、グレイバックの杖から閃光が飛んだが、ハリーはばっと床に伏せ、ソファの後ろに転がって閃光を避けた。  「やめろ。さもないとこの娘の命はないぞ!」  ハリーは喘ぎながらソファの端から覗き見た。 ベラトリックスが、意識を失っているハーマイオニーを抱え、銀の小刀をその喉元に突きつけていた。  「杖を捨てろ」ベラトリックスが押し殺した声で言った。 「捨てるんだ。さもないと、『穢れた血』が、どんなものかを見ることになるぞ!」  ロンは、ワームテールの杖を握りしめたまま固まっていた。 ハリーは、ベラトリックスの杖を持ったまま立ち上がった。  「捨てろと言ったはずだ!」  ベラトリックスはハーマイオニーの喉元に小刀を押しっけて、甲高く叫んだ。ハリーはそこに血が渉むのを見た。  「わかった!」 何が起こってもハーマイオニーが人質ならハリーは逆らえるはずもなかった。  ハリーは仕方なく、そう叫んで、ベラトリックスの杖を足元の床に落とした。 ロンも同じく、ワームテールの杖を、床に落とした。二人は両手を肩の高さに挙げた。  「いい子だ!」  ベラトリックスがニヤリと笑った。  「ドラコ、杖を拾うんだ! 闇の帝王が御出でになる。ハリー・ポッター、おまえの死が迫っているぞ!」  ハリーにもそれがわかっていた。傷痕は痛みで破裂しそうだ。 ヴォルデモートが暗い荒れた海の上を、遠くから飛んでくるのを感じた。 まもなく、ここに「姿現わし」 できる距離まで近づくだろう。ハリーは逃れる道はないと思った。  「さあて」  ドラコが杖を集めて急いで戻る間、ベラトリックスが静かに言った。  「シシー、この英雄気取りさんたちを、我々の手でもう一度縛らないといけないようだ。グレイバックが、ミス『穢れた血』の面倒を見ているうちにね。グレイバックよ、闇の帝王は、今夜のおまえの働きに対して、その娘をお与えになるのを渋りはなさらないだろう」  その言葉が終わらないうちに、奇妙なガリガリという音が上から聞こえてきた。 全員が見上げると、クリスタルのシャンデリアが小刻みに震えていた。 そして、軋む音やチリンチリンという不吉な音とともに、シャンデリアが落ちはじめた。 その真下にいたベラトリックスは、ハーマイオニーを放り出し、悲鳴を上げて飛び退いた。 シャンデリアは床に激突し、大破したクリスタルや鎖がハーマイオニーと小鬼の上に落ちた。 小鬼はそれでも、しっかりとグリフィンドールの剣を握ったままだった。 キラキラ光るクリスタルのかけらが、あたり一面に飛び散った。 ドラコは血だらけの顔を両手で覆い、体をくの字に曲げた。  ロンがハーマイオニーに駆け寄り、瓦礫の下から引っ張り出そうとした。 ハリーは、チャンスを逃さなかった。 肘掛椅子を飛び越え、ドラコが握っていた三本の杖をもぎ取り、ドラコを蹴り倒した。 そして、三本ともグレイバックに向けて叫んだ。  「ステュービファイ! <麻痺せよ>!」  三倍もの呪文を浴びた狼人間は、掛ね飛ばされて天井まで吹っ飛び、床に叩きつけられた。  ナルシッサが、ドラコを傷つかないようにかばって引き寄せる一方、勢いよく立ち上がったベラトリックスは、髪を振り乱し、銀の小刀を振り回した。 しかしナルシッサは、杖をドアに向けていた。  「ドビー!」  ナルシッサの叫び声に、ベラトリックスでさえ凍りついた。  「おまえ! おまえがシャンデリアを落としたのか−−−?」  小さなしもべ妖精は、震える指で昔の女主人を指差しながら、小走りで部屋の中に入ってきた。  「あなたは、ハリー・ポッターを傷つけてはならない」ドビーはキーキー声を上げた。  「殺してしまえ、シシー!」  ベラトリックスが金切り声を上げたが、またしてもバチンと大きな昔がして、ナルシッサの 杖もまた宙を飛び、部屋の反対側に落ちた。  「この汚らわしいチビ猿!」 ベラトリックスが喚いた。 「魔女の杖を取り上げるとは!よくもご主人様に歯向かったな!」  「ドビーにご主人様はいない!」  しもべ妖精がキーキー声で言った。  「ドビーは自由な妖精だ。そしてドビーは、ハリー・ポッターとその友達を助けにきた!」  ハリーは、傷痕の激痛で目が眩みそうだった。 薄れる意識の中で、ハリーは、ヴォルデモートが来るまで、あと数秒しかないことを感じ取った。  「ロン、受け取れ−−−そして逃げろ!」  ハリーは杖を一本放り投げて叫んだ。それから身を屈めて、グリップフックをシャンデリアの下から引っ張り出した。 剣をしっかり抱えたまま呻いているグリップフックを肩に背負い、ドビーの手をとらえて、ハリーはその場で回転し、「姿くらまし」した。  暗闇の中に入り込む直前、もう一度客間の様子が見えた。 ナルシッサとドラコの姿がその場に凍りつき、ロンの髪の赤い色が流れ、部屋の向こうからベラトリックスの投げた小刀が、ハリーの姿が消えつつあるあたりでぼやけた銀色の光になり−−−。  ピルとフラーのところ……貝殻の家……ビルとフラーのところ……  ハリーは、知らないところに「姿くらまし」した。目的地の名前を繰り返し、それだけで行けることを願うしかなかった。 額の傷は突き刺すように痛み、小鬼の重みが肩にのしかかっていた。 ハリーは、背中にグリフィンドールの剣がぶつかるのを感じた。 そのとき、ドビーが、ハリーに振られている手をぐいーっと引いた。 もしかしたら、妖精が、正しい方向へ導こうとしているのではないかと思い、ハリーは、それでよいと伝えようとして、ドビーの指をギユツと握った……。  そのとき、ハリーたちは固い地面を感じ、潮の香を咲いだ。ハリーは膝をつき、ドビーの手を離して、グリップフックをそっと地面に下ろそうとした。  「大丈夫かい?」  子鬼が身動きしたのでハリーは声をかけたが、グリップフックは、ただビンビン鼻を鳴らすばかりだった。  ハリーは、暗闇を透かしてあたりを見回した。一面に星空が広がり、少し離れたところに小さな家が建っている。 その外で何か動くものが見えたような気がした。  「ドビー、これが『貝殻の家』なの?」  ハリーは、必要があれば戦えるようにと、マルフォイの館から持ってきた二本の杖をしっかり握りながら、小声で聞いた。  「僕たち、正しい場所に着いたの? ドビー?」  ハリーはあたりを見回した。小さな妖精はすぐそばに立っていた。  「ドビー!」  妖精がぐらりと傾いた。大きなキラキラした眼に、星が映っている。 ドビーとハリーは同時 に、妖精の激しく波打つ胸から突き出ている、銀の小刀の柄を見下ろした。  「ドビー−−−ああっ−−−誰か!」  ハリーは小屋に向かって、そこで動いている人影に向かって大声を上げた。  「助けて!」  人影が魔法使いかマグルか、敵か味方か、ハリーにはわからなかったし、そんなことはどうでもよかった。 ドビーの胸に広がっていくどす黒い染みのことしか考えられず、ハリーに向かってすがりつくように伸ばされた細い両腕しか見えなかった。 ハリーはドビーを抱き止めて、ひんやりした草に横たえた。  「ドビー、ダメだ。死んじゃダメだ。死なないで−−−」  妖精の眼がハリーをとらえ、何か物言いたげに唇を震わせた。 「ハリー……ポッター……」  そして、小さく身を震わせ、妖精はそれきり動かなくなった。 大きなガラス玉のような両眼が、もはや見ることのできない星の光をちりばめて、キラキラと光っていた。 24章:The Wandmaker/杖職人  同じ悪夢に、二度引き込まれる思いだった。 一瞬ハリーは、ホグワーツでいちばん高いあの塔の下で、ダンブルドアの亡骸の傍らにひざまずいているような気がした。 しかし現実には、ベラトリックスの銀の小刀に貫かれて、草むらに丸くなっている小さな体を見つめていた。 しもべ妖精は、もはやハリーの呼び戻せないところに行ってしまったとわかっていても、ハリーは「ドビー……ドビー……」と呼び続けていた。  やがてハリーは、結局は正しい場所に着いていたことを知った。 ひざまずいて妖精を覗き込んでいるハリーの周りに、ビル、フラー、ディーン、ルーナが集まってきたからだ。  「ハーマイオニーは?」 ハリーが、突然思い出したように聞いた。 「ハーマイオニーはどこ?」  「ロンが家の中に連れていったよ」ビルが言った。 「ハーマイオニーは大丈夫だ」  ハリーは、再びドビーを見つめ、手を伸ばして妖精の体から鋭い小刀を抜き取った。 それから自分の上着をゆっくりと脱いで、毛布を掛けるようにドビーを覆った。  どこか近くで、波が岩に打ちつけている。 ビルたちが話し合っている間、ハリーは話し声だけを聞いていた。 何を話し合い何を決めているかにも、まったく興味が湧かなかった。 怪我をしたグリップフックを家の中に運び込むディーンに、フラーが急いで従いていった。 ビルは、妖精の埋葬についての提案をしていた。ハリーは、自分が何を言っているかもわからずに同意した。 同意しながら、小さな亡骸をじっと見下ろしたそのとき、傷痕が痺き、焼けるように痛み出した。 どこかハリーの心の一部で、長い望遠鏡を逆に覗いたようにヴォルデモートの姿が遠くに見えた。 ハリーたちが去った後、マルフォイの館に残った人々を罰している姿だ。 ヴォルデモートの怒りは恐ろしいものだったが、ドビーへの哀悼の念がその怒りを弱め、ハリーにとっては、広大で静かな海のどこか遠い彼方で起こっている嵐のように感じた。  「僕、きちんとやりたい」  ハリーが意識して口に出した、最初の言葉だった。  「魔法でなく。スコップはある?」  それからしばらくして、ハリーは作業を始めた。 たった一人で、ビルに示された庭の隅の、茂みと茂みの間に墓穴を掘りはじめた。 ハリーは、憤りのようなものをぶつけながら掘った。 魔法ではなく、汗を流して自分の力で掘り進めることに意味があった。 汗の一滴一滴、手のマメの一つひとつが、自分たちの命を救ってくれた妖精への供養に思えた。  傷痕が痛んだが、ハリーは痛みを制した。 痛みを感じはしても、それは自分とはかけ離れたものだった。 ついにハリーは、心を制御し、ヴォルデモートに対して心を閉じる方法を身につけた。 ダンブルドアが、スネイプからハリーに学び取らせたいと願った、まさにその技だ。 シリウスの死の悲しみに胸塞がれ、ほかのことが考えられなかったハリーの心をヴォルデモートが乗っ取ることができなかったと同様、こうしてドビーを悼んでいる心にも、ヴォルデモートの想念は侵入することができなかった。 深い悲しみが、ヴォルデモートを締め出したようだ……もっとも、ダンブルドアならもちろん、それを愛だと言ったことだろう……。  汗に悲しみを包み込み、傷痕の痛みを掛ねのけて、ハリーは固く冷たい土を掛り続けた。 暗闇の中で、自分の息と砕ける波の音だけを感じながら、ハリーはマルフォイの館で起こったことを考え、耳にしたことを思い出していた。 すると、闇に花が開くように、徐々にいろいろなことがわかってきた……。  穴を掘る腕の、規則的なリズムが頭の中にも刻まれた。 秘宝……分霊箱……秘宝……分霊箱…… しかし、もうあのおかしな執念に身を焦がすことはなかった。 喪失感と恐れが、妄執を吹き消していた。 横面を張られて目が覚めたような気がした。  ハリーは深く、さらに深く墓穴を掘った。 ハリーにはもうわかっていた。 ヴォルデモートが今夜どこに行っていたのか、オーメンガードのいちばん高い独房で、誰を、なぜ殺したのかも……。  そしてハリーは、ワームテールのことを想った。 たった一度の、些細な、無意識で衝動的な慈悲の心のせいで死んだのだ……ダンブルドアはそれを予測していた…… ダンブルドアという人は、そのほか、どれほど多くのことを知っていたのだろう?  ハリーは時を忘れていた。 ロンとディーンが戻ってきたときにも、闇がほんの少し白んでいることに気づいただけだった。  「ハーマイオニーはどう?」  「だいぶよくなった」 ロンが言った。 「フラーが世話してくれてる」  二人がもし、杖を使って完壁な墓を掘らないのはなぜかと聞いたら、ハリーはその答えを用意していた。 しかし答える必要はなかった。 二人はスコップを手に、ハリーの掘った穴に飛び降りて、十分な深さになるまで黙って一緒に掘った。  ハリーは、妖精が心地よくなるように、上着で、すっぽりと包み直した。 ロンは墓穴の縁に腰掛けて靴を脱ぎ、ソックスを妖精の素足に履かせた。 ディーンは毛糸の帽子を取り出し、ハリーがそれをドビーの頭に丁寧に被せて、こうもりのような耳を覆った。  「目を閉じさせたほうが、いいもン」  ほかの人たちが闇の中を近づいてくる音に、ハリーはそのときまで気づかなかった。 ビルは旅行用のマントを着て、フラーは大きな白いエプロンを掛けていた。 そのポケットから、ハリーには「骨生え薬」だと見分けがつく瓶が覗いていた。 借り物の部屋着を着たハーマイオニーは、青ざめた顔をして足元がまだふらついていた。 フラーのコートに包まったルーナが、屈んでそっと妖精の瞼に指を触れ、見開いたままのガラス玉のような眼をつむらせた。  「ほーら」 ルーナが優しく言った。 「ドビーは眠っているみたい」  ハリーは妖精を墓穴に横たえ、小さな手足を眠っているかのように整えた。 そして穴から出て、最後にもう一度小さな亡骸を見つめた。 ダンブルドアの葬儀を思い出し、ハリーは泣くまいと堪えた。 何列も続く金色の椅子、前列には魔法大臣、ダンブルドアの功績を請える弔辞、堂々とした白い大理石の墓。 ハリーは、ドビーもそれと同じ壮大な葬儀に値すると思った。 しかし妖精は、粗っぼく掘った穴で、茂みの間に横たわっている。  「あたし、何か言うべきだと思う」突然、ルーナが言った。「あたしから始めてもいい?」  そして、みんなが見守る中、ルーナは墓穴の底の妖精の亡骸に語りかけた。  「あたしを地下牢から救い出してくれて、ドビー、本当にありがとう。そんなにいい人で勇敢なあなたが死んでしまうなんて、とっても不公平だわ。あなたがあたしたちにしてくれたことを、あたし、決して忘れないもン。あなたがいま、幸せだといいな」  ルーナは、促すようにロンを振り返った。ロンは咳払いをして、くぐもった声で言った。  「うん……ドビー、ありがとう」  「ありがとう」 ディーンが呟いた。  ハリーはゴクリと唾を飲んだ。  「さようなら、ドビー」  ハリーが言った。やっと、それだけしか言えなかった。 しかし、ルーナがハリーの言いたいことを全部言ってくれていた。 ビルが杖を上げると、墓穴の横の土が宙に浮き上がり、きれいに穴に落ちてきて、小さな赤みがかった塚ができた。  「僕もう少しここにいるけど、いいかな?」 ハリーがみんなに聞いた。  口々に返事をする呟き声が聞こえたが、言葉は聞き取れなかった。 ハーマイオニーが背中を優しく撫でるのを感じた。 そしてハリーを一人、妖精のそばに残して、みんなは家に向かってぞろぞろと戻っていった。  ハリーはあたりを見回した。海が丸くした大きな白い石が、いくつも花壇を縁取っていた。 ハリーはいちばん大きそうな石を一つ取り、ドビーの眠っている塚の頭のあたりに、枕のように置いた。 それから、杖を取り出そうとポケットを探った。  杖は二本あった。 何がどうだったのか記憶が途切れ、いまとなっては、誰の杖だったか思い出すことができなかった。 ただ、誰かの手からか、杖をもぎ取ったことは覚えていた。 ハリーは短いほうの杖を選んだ。それのほうが手に馴染むような気がしたからだ。 そして杖を石に向けた。  ハリーの呟く呪文に従って、ゆっくりと、石の表面に何かが深く刻まれた。 ハーマイオニーならもっときれいに、しかも、おそらくもっと早くできただろう。 しかし、墓を自分で掘りたかったように、その場所を自分で記しておきたかった。 ハリーが再び立ち上がったとき、石にはこう刻まれていた。 自由なしもべ妖精 ドビー ここに眠る  ハリーは、しばらく自分の手作りの墓を見下ろしたあと、その場を離れた。 傷痕はまだ少し捲いていたが、頭の中は、墓穴の中で浮かんだ考えで一杯だった。 闇の中ではっきりしてきた考えは、心を奪うものでもあり、恐ろしくもあった。  ハリーが小さな玄関ホールに入ったとき、みんなは居間にいた。 話をしているビルに、みんなが注目していた。 柔らかい色調のかわいい居間で、暖炉には、流木を薪にした小さな炎が明るく燃えていた。 ハリーは、絨毯に泥を落としたくなかったので、入口に立って聞いた。 「……ジニーが休暇中で幸いだった。ホグワーツにいたら、我々が連絡する前にジニーは捕まっていたかもしれない。ジニーもいまは安全だ」  ビルは振り返って、ハリーがそこに立っているのに気づいた。  「僕は、みんなを『隠れ穴』から連れ出しているんだ」ビルが説明した。  「ミュリエルのところに移した。死喰い人はもう、ロンが君と一緒だということを知っているから、必ずその家族を狙う−−−謝らないでくれよ」  ハリーの表情を読んだビルが、一言つけ加えた。  「どのみち、時間の問題だったんだ。父さんが、何カ月も前からそう言っていた。僕たち家族は、最大の『血を裏切る者』なんだから」  「どうやってみんなを守っているの?」 ハリーが聞いた。  「『忠誠の呪文』だ。父さんが『秘密の守人』。この家にも同じことをした。僕が『秘密の守人』なんだ。誰も仕事に行くことはできないけれど、いまは、そんなことは取るに足りない事だ。オリバンダーとグリップフックがある程度回復したら、二人ともミュリエルのところに移そう。ここじゃあまり場所がないけれど、ミュリエルのところは十分だ。グリップフックの脚は治りつつある。フラーが『骨生え薬』を飲ませたから。たぷん、二人を移動させられるのは、一時間後ぐらいで−−−」 「だめだ」 ハリーの言葉に、ビルは驚いたような顔をした。  「二人ともここにいてほしい。話をする必要があるんだ。大切なことで」  ハリーは自分の声に力があり、確信に満ちた目的意識がこもっているのを感じた。 ドビーの墓を彫っているときに意識した目的だ。 みんながいっせいに、どうしたのだろう、という顔をハリーに向けた。  「手を洗ってくるよ」  まだ泥とドビーの血がついている両手を見ながら、ハリーがビルに言った。  「そのあとすぐに、僕は二人に会う必要がある」  ハリーは小さなキッチンまで歩いていき、海を見下ろす窓の下にある流しに向かった。 暗い庭で浮かんだ考えの糸を、再びたどりながら手を洗っていると、水平線から明け初める空が、桜貝色と淡い金色に染まった……。  ドビーはもう、誰に言われて地下牢に来たのかを話してくれることはない。 しかしハリーは、自分の見たものが何か、わかっていた。 鏡の破片から、心を見通すような青い目が覗いていた。そして救いがやってきた。  「ホグワーツでは、助けを求める者には、必ずそれが与えられる」  ハリーは手を拭いた。 窓から見える美しい景色にも、居間から聞こえる低い話し声にも、ハリーは心を動かされることがなかった。 海の彼方を眺めながら、夜明けのこの瞬間、ハリーはいままでになく強く、自分がすべての核心に迫っていると感じた。  しかし、額の傷痕はまだ痺いていた。 ハリーには、ヴォルデモートもその核心に近づいていることがわかっていた。 しかし、頭ではわかっていたが、納得していたわけではなかった。 本能と頭脳が、別々のことをハリーに促していた。 頭の中のダンブルドアが、祈りのときのように組み合わせた指の上からハリーを観察しながら、微笑んでいた。  あなたはロンに「灯消しライター」を与えた。 あなたはロンを理解していた……あなたがロンに、戻るための手段を与えたのだ……。 そしてハーマイオニーに本を与えた。謎はすべからくそこにあると示唆したのだ……。  そしてあなたはワームテールをも理解していた……わずかに、どこかに後悔の念があることを……。  もしあなたが彼らを理解していたとすれば……ダンブルドア、僕のことは、何を理解していたのですか?  僕は知るべきだった。でも、求めるべきではなかったのですね?  僕にとって、それがどんなに辛いことか、あなたにはわかっていたのですね?  だからあなたは、何もかも、これほどまでに難しくしたのですね? 自分で悟る時間をかけさせるために、そうなさったのですね?  ハリーは、水平線に昇りはじめた眩しい太陽の金色に輝く縁を、ぼんやりと見つめながらじっとたたずんでいた。 それからきれいになった両手を見下ろし、その手にタオルが握られているのにふと気づいて、驚いた。 タオルをそこに置き、ハリーは居間に戻った。 そのとき、傷痕が怒りに疼くのを感じた。 そして、ほんの一瞬、水面に映るトンボの影のようにハリーがよく知っているあの建物の輪郭が心を過った。  ビルとフラーが、階段の下に立っていた。  「グリップフックとオリバンダーに話がしたいんだけど」 ハリーが言った。  「いけませーん」 フラーが言った。 「アリー、もう少し待たないとだめでーす。ふーたりとも病気で、疲れーていて−−−」  「すみません」 ハリーは冷静だった。 「でも、待てない。いますぐ話す必要があるんです。秘密に−−−二人別々に。急を要することです」  「ハリー、いったい何が起こったんだ?」ビルが聞いた。 「君は、死んだしもべ妖精と半分気絶した小鬼を連れて現れたし、ハーマイオニーは拷問を受けたみたいに見える。それに、ロンも、何も話せないと言い張るばかりだ−−−」  「僕たちが何をしているかは、話せません」 ハリーはきっぱりと言った。 「ビル、あなたは騎士団のメンバーだから、ダンブルドアが僕たちに、ある任務を残したことは知っているはずですね。でも、僕たち、その任務のことは、誰にも話さないことになっているんです」  フラーが苛立ったような声を漏らしたが、ビルはフラーのほうを見ずに、ハリーをじっと見ていた。深い傷痕に覆われたビルの顔から、その表情を読むことは難しかった。しばらくして、ビルがようやく言った。  「わかった。どちらと先に話したい?」  ハリーは迷った。自分の決定に何が懸かっているかを、ハリーは知っていた。 残された時間はほとんどない。いまこそ決心すべきときだ。分霊箱か、秘宝か?  「グリップフック」 ハリーが言った。 「グリップフックと先に話をします」  全速力で走ってきて、いましがた大きな障害物を越えたかのように、ハリーの心臓は早鐘を打っていた。  「それじゃ、こっちだ」ビルが案内した。  階段を二、三段上がったところで、ハリーは立ち止まって振り返った。  「君たち二人にも来てほしいんだ!」  居間の入口で、半分隠れてこそこそしていたロンとハーマイオニーに、ハリーが呼びかけ 二人は奇妙にほっとしたような顔で、明るみに出てきた。  「具合はどう?」 ハリーがハーマイオニーに問いかけた。 「君ってすごいよ−−−あの女がさんざん君を痛めつけていたときに、あんな話を思いつくなんて−−−」  ハーマイオニーは弱々しく微笑んだ。  「ハリー、こんどは何をするんだ?」ロンが聞いた。  「いまにわかるよ。さあ」  ハリー、ロン、ハーマイオニーは、ビルに従いて急な階段を上がり、小さな踊り場に出た。 そこは三つの扉へと続いていた。  「ここで」ビルは自分たちの寝室のドアを開いた。  そこからも海が見えた。昇る朝日が、海を点々と金色に染めている。 ハリーは窓に近寄り、壮大な風景に背を向けて、傷痕の痺きを意識しながら腕組みをして待った。 ハーマイオニーは化粧テーブル脇の椅子に腰掛け、ロンは椅子の肘掛けに腰を下ろした。  ビルが、小さな小鬼を抱えて再び現れ、そっとベッドに下ろした。グリップフックは呻き声で礼を言い、ビルはドアを閉めて立ち去った。  「ベッドから動かして、すまなかったね」 ハリーが言った。 「脚の具合はどう?」  「痛い」小鬼が答えた。 「でも治りつつある」  グリップフックは、まだグリフィンドールの剣を抱えたままだった。 そして、半ば反抗的で、半ば好奇心に駆られた不可思議な表情をしていた。 ハリーは小鬼の土気色の肌や、長くて細い指、黒い瞳に目を止めた。 フラーが靴を脱がせていたので、小鬼の大きな足が汚れているのが見えた。 屋激しもべ妖精より体は大きかったが、それほどの差はない。 半球状の顔は、人間の頭より大きい。  「君はたぶん覚えていないだろうけど−−−」 ハリーが切り出した。  「−−−あなたがグリンゴッツを初めて訪れたときに、金庫にご案内した小鬼が私だということをですか?」 グリップフックが言った。 「覚えていますよ、ハリー・ポッター。小鬼の間でも、あなたは有名です」  ハリーと小鬼は、見つめ合って互いの腹の中を探った。ハリーの傷痕は、まだ疼いていた。 ハリーは、グリップフックとの話し合いを早く終えてしまいたかったが、同時に、誤った動きをしてしまうことを恐れた。 自分の要求をどう伝えるのが最善かを決めかねていると、小鬼が先に口を開いた。  「あなたは妖精を埋葬した」小鬼は、意外にも恨みがましい口調だった。 「隣の寝室の窓から、あなたを見ていました」 「そうだよ」 ハリーが言った。 グリップフックは吊り上がった暗い目で、ハリーを盗み見た。 「あなたは変わった魔法使いです、ハリー・ポッター」  「どこが?」  ハリーは、無意識に額の傷を擦りながら聞いた。  「墓を掘りました」  「それで?」  グリップフックは答えなかった。 ハリーは、マグルのような行動を取ったことを、軽蔑されているような気がしたが、グリップフックがドビーの墓を受け入れようが受け入れまいが、ハリーにとってはあまり重要なことではなかった。 攻撃に出るために、ハリーは意識を集中させた。  「グリップフック、僕、聞きたいことが−−−」  「あなたは、小鬼も救った」  「えっ?」  「あなたは、私をここに連れてきた。私を救った」  「でも、別に困らないだろう?」 ハリーは少しイライラしながら言った。  「ええ、別に、ハリー・ポッター」  そう言ったあと、グリップフックは指一本をからませて、細く黒い顎鬚をひねった。  「でも、とても変な魔法使いです」  「そうかな」 ハリーが言った。 「ところでグリップフック、助けが必要なんだ。君にはそれができる」  小鬼は先を促すような様子は見せず、しかめ面のまま、こんなものを見るのは初めてだという目つきで、ハリーを見ていた。  「僕は、グリンゴッツの金庫破りをする必要があるんだ」 こんな荒っぽい言い方をするつもりではなかったのに、稲妻形の傷痕に痛みが走って、またしてもホグワーツの輪郭が見えたとたん、言葉が口を突いて出てきてしまったのだ。 ハリーはしっかりと心を閉じた。グリップフックのほうを、先に終えてしまわなければならない。 ロンとハーマイオニーは、ハリーがおかしくなったのではないかという表情で見つめた。  「ハリー−−−」  ハーマイオニーの言葉は、グリップフックによって遮られた。  「グリンゴッツの金庫破り?」  小鬼はベッドで体の位置を変えながら、ビクッとして繰り返した。  「不可能です」  「そんなことはないよ」 ロンが否定した。 「前例がある」  「うん」 ハリーが言った。 「君に初めて会った日だよ、グリップフック。七年前の僕の誕生日」  「問題の金庫は、そのとき空でした。最低限の防衛しかありませんでした」  小鬼はぴしゃりと言った。 グリンゴッツを去ったとは言え、銀行の防御が破られるという考えは腹に据えかねるのだと、ハリーには理解できた。  「うん、僕たちが入りたい金庫は空じゃない。相当強力に守られていると思うよ」 ハリーが言った。 「レストレンジ家の金庫なんだ」  ハーマイオニーとロンが、度肝を抜かれて顔を見合わせるのが目に入った。 しかし、グリップフックが答えてくれれば、そのあとで、二人に説明する時間は十分あるだろう。  「可能性はありません」  グリップフックはにべもなく答えた。  「まったくありません。『おのれのものに あらざる宝、わが床下に 求める者よ−−−』」  「『盗人よ 気をつけよ−−−』うん、わかっている。覚えているよ」 ハリーが言った。 「でも、僕は、宝を自分のものにしようとしているんじゃない。自分の利益のために、何かを盗ろうとしているわけじゃないんだ。信じてくれるかな?」  小鬼は、横目でハリーを見た。そのとき額の稲妻形の傷痕が痺いたが、ハリーは痛みを無視し、引き込もうとする誘いも拒絶した。  「個人的な利益を求めない人だと、私が認める魔法使いがいるとすれば−−−」  グリップフックがようやく答えた。  「それは、ハリー・ポッター、あなたです。小鬼やしもべ妖精は、今夜あなたが示してくれたような保護や尊敬には慣れていません。杖を持つ者がそんなことをするなんて」  「杖を持つ者」  ハリーが繰り返した。 傷痕が刺すように痛み、ヴォルデモートが意識を北に向けているこのときに、そしてハリーが隣の部屋のオリバンダーに質問したくてたまらないというこのときに、その言葉はハリーの耳に奇妙に響いた。  「杖を持つ権利は」小鬼は静かに言った。 「魔法使いと小鬼の間で、長い間論争されてきました」  「でも、小鬼は杖なしで魔法が使える」 ロンが言った。  「それは関係のないことです! 魔法使いは、杖の術の秘密をほかの魔法生物と共有することを拒みました。我々の力が拡大する可能性を否定したのです!」  「だって、小鬼も、自分たちの魔法を共有しないじゃないか」 ロンが言った。 「剣や甲胃を、君たちがどんなふうにして作るかを、僕たちに教えてくれないぜ。金属加工については、小鬼は魔法使いが知らないやり方を−−−」  「そんなことはどうでもいいんだ」  グリップフックの顔に血が上ってきたのに気づいて、ハリーが言った。  「魔法使いと小鬼の対立じゃないし、そのほかの魔法生物との対立でもないんだ−−−」  グリップフックは、意地悪な笑い声を上げた。  「ところがそうなのですよ。まったくその対立なのです! 闇の帝王がいよいよ力を得るにつれて、あなたたち魔法使いは、ますますしっかりと我々の上位に立っている! グリンゴッツは魔法使いの支配下に置かれ、屋敷しもべ妖精は惨殺されている。それなのに、杖を持つ者の中で、誰が抗議をしていますか?」  「私たちがしているわ!」  ハーマイオニーは背筋を正し、目をキラキラさせていた。  「私たちが抗議しているわ! それに、グリップフック、私は小鬼やしもべ妖精と同じぐらい厳しく狩り立てられているのよ! 私は『穢れた血』なの!」  「自分のことをそんなふうに−−−」 ロンがボソボソ呟いた。  「どうしていけないの?」 ハーマイオニーが言った。 「『穢れた血』、それが誇りよ?新しい秩序の下での私の地位は、グリップフック、あなたと違いはないわ!マルフォイの館で、あの人たちが拷問にかけるために選んだのは、私だったのよ!」  話しながら、ハーマイオニーは部屋着の襟を横に引いて、ベラトリックスにつけられた切り傷を見せた。喉に赤々と、細い傷があった。  「ドビーを解放したのがハリーだということを、あなたは知っていた?」  ハーマイオニーが聞いた。 「私たちが、何年も前から屋放しもべ妖精を解放したいと望んでいたことを知っていた?」  ロンは、ハーマイオニーの椅子の肘で、気まずそうにそわそわした。 「グリップフック、『例のあの人』を打ち負かしたいという気持が、私たち以上に強い人なんかいないわ!」  グリップフックは、ハリーを見たときと同じような好奇の目で、ハーマイオニーを見つめた。  「レストレンジ家の金庫で、何を求めたいのですか?」  グリップフックが唐突に聞いた。  「中にある剣は偽物です。こちらが本物です」  グリップフックは三人の顔を順繰りに見た。  「あなたたちは、もうそのことを知っているのですね。あそこにいたとき、私に嘘をつくように頼みました」  「でも、その金庫にあるのは、偽の剣だけじゃないだろう?」 ハリーが聞いた。 「君はたぶん、ほかの物も見ているね?」  ハリーの心臓は、これまでにないほど激しく打っていた。 ハリーは、傷痕の痺きを無視しようと、さらにがんばった。  小鬼は、また指に顎鬚をからませた。  「グリンゴッツの秘密を話すことは、我々の綱領に反します。小鬼はすばらしい宝物の番人なのです。我々に託された品々は往々にして小鬼の手によって鍛錬された物なのですが、それらの品に対しての責任があります」  小鬼は剣を撫で、黒い目がハリー、ハーマイオニー、ロンを順に軋め、また逆の順で視線を戻した。  「こんなに若いのに」しばらくしてグリップフックが言った。 「あれだけ多くの敵と戦うなんて」  「僕たちを助けてくれる?」 ハリーが言った。 「小鬼の助けなしに押し入るなんて、とても望みがない。君だけが頼りなんだ」  「私は……考えてみましょう」  グリップフックは、腹立たしい答え方をした。  「だけど−−−」 ロンが怒ったように口を開いたが、ハーマイオニーはロンの肋骨を小突いた。  「ありがとう」 ハリーが言った。  小鬼は大きなドーム型の頭を下げて礼に応え、それから短い脚を曲げた。  「どうやら」ビルとフラーのベッドに、これ見よがしに横になり、グリップフックが言った。 「『骨生え薬』の効果が出たようです。やっと眠れるかもしれません。失礼して……」  「ああ、もちろんだよ」 ハリーが言った。 部屋を出るとき、ハリーは屈んで小鬼の横からグリフィンドールの剣を取った。 グリップフックは逆らわなかったが、ドアを閉めるときに、小鬼の目に恨みがましい色が浮かぶのを、ハリーは見たような気がした。  「いやなチビ」 ロンが囁いた。 「僕たちがやきもきするのを、楽しんでやがる」 「ハリー」 ハーマイオニーが二人をドアから離し、まだ暗い踊り場の真ん中まで引っ張っていった。  「あなたの言っていることは、つまりこういうことかしらア レストレンジ家の金庫に、分霊箱が一つある。そういうことなの?」  「そうだ」 ハリーが言った。 「ベラトリックスは、僕たちがそこに入ったと思って、逆上する ほど怯えていた。どうしてだ? 僕たちが何を見たと思ったんだろう? 僕たちが、ほかに何を取ったと思ったんだろう?『例のあの人』に知れるのではないかと思って、ベラトリックスが正気を失うほど恐れた物なんだよ」  「でも、僕たち、『例のあの人』がいままで行ったことのある場所を探してるんじゃなかったか? あの人が、何か重要なことをした場所じゃないのか?」  ロンは困惑した顔だった。 「あいつがレストレンジ家の金庫に、入ったことがあるって言うのか?」  「グリンゴッツに入ったことがあるかどうかは、わからない」 ハリーが言った。 「あいつは、若いとき、あそこに金貨なんか預けていなかったはずだ。誰も何も遺してくれなかったんだから。でも、銀行を外から見たことはあっただろう。ダイアゴン横丁に最初に行ったときに」  傷痕がズキズキ痛んだが、ハリーは無視した。 オリバンダーと話をする前に、ロンとハーマイオニーに、グリンゴッツのことを理解しておいてほしかった。  「あいつは、グリンゴッツの金庫の鍵を持つ者を、羨ましく思ったんじゃないかな。あの銀行が、魔法界に属していることの真の象徴に見えたんだと思う。それに、忘れてならないのは、あいつが、ベラトリックスとその夫を信用していたということだ。二人とも、あいつが力を失うまで、最も献身的な信奉者だったし、あいつが消えてからも探し求め続けた。あいつが蘇った夜にそう言うのを、僕は聞いた」  ハリーは傷痕を擦った。  「だけど、ベラトリックスに、分霊箱を預けるとは言わなかったと思う。ルシウス・マルフォイにも、日記に関する本当のことは一度も話していなかった。ベラトリックスには、たぶん、大切な所持品だから、金庫に入れておくようにと頼んだんだろう。ハグリッドが僕に教えてくれたよ。何かを安全に隠しておくには、グリンゴッツがいちばんだって……ホグワーツ以外にはね」  ハリーが話し終えると、ロンが頷きながら言った。  「君って、ほんとに『あの人』のことがわかってるんだな」  「あいつの一部だ」 ハリーが言った。 「一部だけなんだ……僕、ダンブルドアのことも、それくらい理解できていたらよかったのに。でも、そのうちに−−−。さあ−−−こんどはオリバンダーだ」  ロンとハーマイオニーは当惑顔だったが、感心したようにハリーのあとに従いて、小さな踊り掛を横切った。 ハリーがビルとフラーの寝室の向かい側のドアをノックすると、「どうぞ!」という弱々しい声が答えた。  杖作りのオリバンダーは、窓からいちばん離れたツインベッドに横たわっていた。 一年以上地下牢に閉じ込められ、ハリーの知るかぎり、少なくとも一度は拷問を受けたはずだ。 痩せ衰え、黄ばんだ肌から顔の骨格がくっきりと突き出ている。 大きな銀色の目は、限宿が落ち窪んで巨大に見えた。 毛布の上に置かれた両手は、骸骨の手と言ってもよかった。 ハリーは、空いているベッドに、ロンとハーマイオニーと並んで腰掛けた。 ここからは、昇る朝日は見えなかった。 部屋は、崖の上に作られた庭と、掘られたばかりの墓とに面していた。  「オリバンダーさん、お邪魔してすみません」 ハリーが言った。  「いやいや」オリバンダーはか細い声で言った。 「あなたは、わしらを救い出してくれた。あそこで死ぬものと思っていたのに。感謝しておるよ……いくら感謝しても……しきれないぐらいに」  「お助けできてよかった」  ハリーの傷痕が痺いた。 ヴォルデモートよりも先に目的地に行くにしても、ヴォルデモートの試みを挫くにしても、もはやほとんど時間がないことをハリーは知っていた。いや、確信していた。 ハリーは突然恐怖を感じた……しかし、グリップフックに先に話をするという選択をしたときに、ハリーの心は決まっていたのだ。 無理に平静を装い、ハリーは首から掛けた巾着の中を探って、二つに折れた杖を取り出した。  「オリバンダーさん、助けてほしいんです」  「何なりと、何なりと」杖作りは弱々しく答えた。  「これを直せますか? 可能ですか?」  オリバンダーは震える手を差し出し、ハリーはその手のひらに、辛うじて一つにつながっている杖を置いた。  「柊と不死鳥の尾羽根」オリバンダーは、緊張気味に震える声で言った。 「二十八センチ、良質でしなやか」  「そうです」 ハリーが言った。 「できますか−−−?」  「いや」オリバンダーが囁くように言った。 「すまない。本当にすまない。しかし、ここまで破壊された杖は、わしの知っておるどんな方法をもってしても、直すことはできない」  ハリーは、そうだろうと心の準備をしていたものの、やはり痛手だった。 二つに折れた杖を引き取り、ハリーは首に掛けた巾着の中に戻した。 ハーマイオニーは俯いて顔が見えなかった。 オリバンダーは、破壊された杖が消えたあたりをじっと見つめ続け、ハリーがマルフォイの館から持ち帰った二本の杖をポケットから取り出すまで、目を逸らさなかった。  「どういう杖か、見ていただけますか?」 ハリーが頼んだ。  杖作りは、その中の一本を取って、弱った目の近くにかざし、関節の浮き出た指の間で転がしてからちょっと曲げた。  「鬼胡桃とドラゴンの琴線」オリバンダーが言った。 「三十二センチ。頑固。この杖はベラトリックス・レストレンジのものだ」  「それじゃ、こっちは?」  オリバンダーは同じようにして調べた。  「サンザシと一角獣のたてがみ。きっちり二十五センチ。ある程度弾力性がある。これはドラコ・マルフォイの杖だった」  「だった?」 ハリーが繰り返した。 「いまでも、まだドラコのものでしょう?」  「たぶん違う。あなたが奪ったのであれば−−−」  「−−−ええ、そうです−−−」  「−−−それなら、この杖はあなたのものであるかもしれない。もちろん、どんなふうに手に入れたかが関係してくる。杖そのものに負うところもまた大きい。しかし、一般的に言うなら、杖を勝ち取ったのであれば、杖の忠誠心は変わるじゃろう」  部屋は静かだった。遠い波の音だけが聞こえていた。  「まるで、杖が感情を持っているような話し方をなさるんですね」 ハリーが言った。 「まるで、杖が自分で考えることができるみたいに」  「杖が魔法使いを選ぶのじゃ」オリバンダーが言った。 「そこまでは、杖の術を学んだ者にとって、常に明白なことじやった」  「でも、杖に選ばれていなくとも、その杖を使うことはできるのですか?」 ハリーが言った。  「ああ、できますとも。いやしくも魔法使いなら、ほとんとどんな道具を通してでも、魔法の力を伝えることができる。しかし、最高の結果は必ず、魔法使いと杖との相性がいちばん強いときに得られるはずじゃ。こうしたつながりは、複雑なものがある。最初に惹かれ合い、それからお互いに経験を通して探求する。杖は魔法使いから、魔法使いは杖から学ぶのじゃ」  寄せては返す波の音は、哀調を帯びていた。  「僕はこの杖を、ドラコ・マルフォイから力ずくで奪いました」 ハリーが言った。 「僕が使っても安全でしょうか?」  「そう思いますよ。杖の所有権を司る法則には微妙なものがあるが、克服された杖は、通常、新しい持ち主に屈服するものじゃ」  「それじゃ、僕はこの杖を使うべきかなぁ?」  ロンが、ワームテールの杖をポケットから出して、オリバンダーに渡した。  「乗とドラゴンの琴線。二十三・五センチ。脆い。誘拐されてからまもなく、わしはピーター・ペティグリューのために無理やりこの杖を作らされた。そうじゃとも、君が勝ち取った杖じゃから、ほかの杖よりもよく君の命令を聞き、よい仕事をするじゃろう」  「そして、そのことは、すべての杖に通用するのですね?」 ハリーが聞いた。  「そうじゃろうと思う」  窪んだ眼宿から飛び出した目でハリーの顔をじっと見ながら、オリバンダーが答えた。  「ポッターさん、あなたは深遠なる質問をする。杖の術は、魔法の中でも複雑で神秘的な分野なのじゃ」  「それでは、杖の真の所有者になるためには、前の持ち主を殺す必要はないのですね?」  ハリーが聞いた。  オリバンダーはごくりと唾を飲んだ。  「必要? いいや、殺す必要がある、とは言いますまい」  「でも、伝説があります」  ハリーの動悸はさらに高まり、傷痕の痛みはますます激しくなっていた。ヴォルデモートが考えを実行に移す決心をしたのだと、ハリーは確信した。  「一本の杖の伝説です−−−−−−−教本の杖かもしれません−−−殺人によって手から手へと渡されてきた杖です」  オリバンダーは青ざめた。雪のように白い枕の上で、オリバンダーの顔色は薄い灰色に変わり、巨大な目は、恐怖からか血走って飛び出していた。  「それは、ただ一本の杖じゃと思う」オリバンダーが囁くように言った。  「そして、『例のあの人』は、その杖に興味があるのですね?」 ハリーが聞いた。  「わしは−−−どうして?」  オリバンダーの声がかすれ、ロンとハーマイオニーに助けを求めるように目を向けた。  「どうしてあなたはそのことを?」  「『あの人』はあなたに、どうすれば僕と『あの人』の杖の結びつきを克服できるのかを、言わせようとした」 ハリーが言った。  オリバンダーは、怯えた目をした。  「わしは拷問されたのじゃ。わかってくれ!『礫の呪文』で、わしは−−−わしは知っていることを、そうだと推定することを、あの人に話すしかなかった!」  「わかります」 ハリーが言った。 「『あの人』に、双子の杖芯のことを話しましたね? 誰かほかの人の杖を借りればよいと言いましたね?」  オリバンダーは、ハリーがあまりにもよく知っていることにぞっとして、金縛りにあったように見えた。 ゆっくりと、オリバンダーが頷いた。  「でも、それがうまくいかなかった」 ハリーは話し続けた。 「それでも僕の杖は、借りた杖を打ち負かした。なぜなのか、おわかりになりますか?」  オリバンダーは、頷いたときと同じくらいゆっくりと、首を横に振った。  「わしは……そんな話を聞いたことがなかった。あなたの杖は、あの晩、何か独特なことをしたのじゃ。双子の芯が結びつくのも信じられないくらい稀なことじゃが、あなたの杖がなぜ借り物の杖を折ったのか、わしにはわからぬ……」  「さっき、別の杖のことを話しましたね。殺人によって持ち主が変わる杖のことです。『例のあの人』が、僕の杖が何か不可解なことをしたと気づいたとき、あなたのところに戻って、その別の杖のことを聞きましたね?」  「どうして、それを知っているのかね?」  ハリーは答えなかった。  「たしかに、それを聞かれた」オリバンダーは囁くように言った。 「『死の杖』、『宿命の杖』、『ニワトコの杖』など、いろいろな名前で知られるその杖について、わしが知っておることを、『あの人』はすべて知りたがった」  ハリーは、ハーマイオニーをちらりと横目で見た。びっくり仰天した顔をしていた。  「闇の帝王は」  オリバンダーは押し殺した声で、怯えたように話した。  「わしが作った杖にずっと満足していた−−−イチイと不死鳥の尾羽根。三十四センチ−−−双子の芯の結びつきを知るまではじゃが。いまは別の、もっと強力な杖を探しておる。あなたの杖を征服する唯一つの手段として」  「けれど、いまはまだ知らなくとも、あの人にはもうすぐわかることです。僕の杖が折れて、直しようがないということを」 ハリーは静かに言った。  「やめて!」 ハーマイオニーは怯えきったように言った。 「わかるはずがないわ、ハリー、あの人に、どうしてわかるって−−−?」  「直前呪文だ」 ハリーが言った。 「ハーマイオニー、君の杖とリンボクの杖を、マルフォイの館に残してきた。連中がきちんと調べて、最近どんな呪文を使ったかを再現すれば、君の杖が僕のを折ったことがわかるだろうし、君が、僕の杖を直そうとして直せなかったことも知るだろう。そして、僕がそれからずっとリンボクの杖を使っていたことも」  この家に到着して、少しは赤みが注していたハーマイオニーの顔から、さっと血の気が引いた。 ロンはハリーを非難するような目で見て、「いまは、そんなこと心配するのはよそう−−−」と言った。  しかしオリバンダーが口を挟んだ。  「閥の帝王は、ポッターさん、もはやあなたを滅ぼすためにのみ『ニワトコの杖』を求めておるのではないのじゃ。絶対に所有すると決めておる。そうすれば、自分が真に無敵になると信じておるからじゃ」  「そうなのですか?」  「『ニワトコの杖』の持ち主は、常に攻撃されることを恐れねばならぬ」オリバンダーが言った。 「しかしながら、『死の杖』を所有した『闇の帝王』は、やはり……恐るべき強大さじゃ」  ハリーは、最初にオリバンダーに会ったとき、あまり好きになれない気がしたことを突然思い出した。 ヴォルデモートに拷問され牢に入れられたいまになっても、あの闇の魔法使いが「死の杖」を所有すると考えることは、このオリバンダーにとって、嫌悪感を催す以上にゾクゾクするほど強く心を奪われるものであるらしい。  「あなたは−−−それじゃ、オリバンダーさん、その杖が存在すると、本当にそう思っていらっしゃるのですか?」  ハーマイオニーが聞いた。  「ああ、そうじゃ」オリバンダーが言った。 「その杖がたどった跡を、歴史上追うことは完全に可能じゃ。もちろん歴史の空自はある。しかも長い空自によって、一時的に失われたとか隠されたとかで、杖が姿を消したことはあった。しかし、必ずまた現れる。この杖は、杖の術に熟達した者なら、必ず見分けることができる特徴を備えておる。不明瞭な記述も含めてじゃが、文献も残っており、わしら杖作り仲間は、それを研究することを本分としておる。そうした文献には、確実な信憑性がある」  「それじゃ、あなたは−−−お伽噺や神話だとは思わないのですね?」  ハーマイオニーは未練がましく聞いた。 「そうは思わない」オリバンダーが言った。 「殺人によって受け渡される離部があるかどうかは、わしは知らない。その杖の歴史は血塗られておるが、それは単に、それほどに求められる品であり、それほどに魔法使いの血を駆り立てる物だからかもしれぬ。計り知れぬ力を持ち、間違った者の手に渡れば危険ともなり、我々、杖の力を学ぶ者すべてにとっては、信じがたいほどの魅力を持った品じゃ」  「オリバンダーさん」 ハリーが言った。 「あなたは『例のあの人』に、グレゴロピッチが『ニワトコの杖』を持っていると教えましたね?」  これ以上青ざめようのないオリバンダーの顔が、いっそう青ざめた。ゴクリと生唾を飲んだ顔はゴーストのようだった。  「どうして−−−どうしてあなたがそんなことを−−−?」  「僕がどうして知ったかは、気にしないでください」  傷痕が焼けるように痛み、ハリーは一瞬目を閉じた。ほんの数秒間、ホグズミードの大通りが見えた。 ずっと北に位置する村なので、まだ暗い。  「『例のあの人』に、グレゴロピッチが杖を持っていると教えたのですか?」  「噂じゃった」オリバンダーが囁いた。 「何年も前の噂じゃ。あなたが生まれるよりずっと前の!わしはグレゴロピッチ自身が噂の出所じゃと思っておる。『ニワトコの杖』を調べ、その性質を複製するということが、杖の商売にはどんなに有利かわかるじゃろう!」  「ええ、わかります」 ハリーはそう言って立ち上がった。 「オリバンダーさん、最後にもう一つだけ。そのあとは、どうぞ少し休んでください。『死の秘宝』について何かご存知ですか?」  「え?−−−何と言ったのかね?」杖作りはキョトンとした顔をした。  「『死の秘宝』です」  「何のことを言っているのか、すまないがわしにはわからん。それも、杖に関係のあることなのかね?」  ハリーはオリバンダーの落ち窪んだ顔を見つめ、知らぬふりをしているわけではないと思った。 「秘宝」 については知らないのだ。  「ありがとう」 ハリーが言った。 「本当にありがとうございました。僕たちは出ていきますから、どうぞ少し休んでください」 「『あの人』はわしを拷問した!」オリバンダーは喘いだ。 「『礫の呪い』……どんなにひどいかわからんじゃろう……」 オリバンダーは、打ちのめされたような顔をした。  「わかります」 ハリーが言った。 「ほんとにわかるんです。どうぞ少し休んでください。いろいろ教えていただいて、ありがとうございました」  ハリーは、ロンとハーマイオニーの先に立って階段を下りた。 ビル、フラー、ルーナ、ディーンが紅茶カップを前に、キッチンのテーブルに着いているのがちらりと見えた。 人口にハリーの姿が見えると、みんないっせいにハリーを見た。 しかし、ハリーはみんなに向かって頷いただけで、そのまま庭に出ていった。 ロンとハーマイオニーがあとから従いていった。 少し先にあるドビーを葬った赤味がかった土の塚まで、ハリーは歩いた。 頭痛がますますひどくなっていた。 無理やり入ってこようとする映像を締め出すのは、いまや生やさしい努力ではなかった。 しかし、もう少しだけ耐えればいいことを、ハリーは知っていた。 まもなくハリーは屈服するだろう。 なぜなら、自分の理論が正しいことを知る必要があるからだ。 ロンとハーマイオニーに説明できるように、あと少しだけ、もうひとがんばりしなければならない。  「グレゴロピッチは、ずいぶん昔、『ニワトコの杖』を持っていた」 ハリーが言った。 「『例のあの人』がグレゴロピッチを探そうとしているところを、僕は見たんだ。見つけ出したときには、グレゴロピッチがもう杖を持っていないことを、『あの人』は知った。グリンデルバルドに盗まれたということを知ったんだ。グリンデルバルドがどうやって、グレゴロピッチが杖を持っていることを知ったかはわからない−−−でも、グレゴロピッチが自分から噂を流すようなばかなまねをしたというなら、知るのはそれほど難しくはなかっただろう」  ヴォルデモートはホグワーツの校門にいた。ハリーは、そこに立つヴォルデモートを見た。 同時に、夜明け前の校庭から、ランプが揺れながら校門に近づいてくるのも見えた。  「それで、グリンデルバルドは『ニワトコの杖』を使って、強大になった。その力が最高潮に達したとき、ダンブルドアは、それを止めることができるのは自分一人だと知り、グリンデルバルドと決闘して打ち負かした。そして『ニワトコの杖』を手に入れたんだ」  「ダンブルドアが『ニワトコの杖』を?」 ロンが言った。 「でも、それなら−−−杖はいまどこにあるんだ?」  「ホグワーツだ」 ハリーが答えた。  二人と一緒にいるこの屋上の庭に踏みとどまろうと、ハリーは、自分自身と必死に戦っていた。  「それなら、行こうよ!」 ロンが焦った。 「ハリー、行って杖を取ろう。あいつがそうする前に!」  「もう遅すぎる」  ハリーが言った。意識を引き込まれまいと抵抗する自分自身の頭を助けようとして、ハリーは思わずしっかり頭をつかんでいた。  「あいつは杖のある場所を知っている。いま、あいつはそこにいる」  「ハリー!」 ロンがかんかんに怒った。 「どのくらい前からそれを知ってたんだ?−−−僕たち、どうして時間を無駄にしたんだ? なんでグリップフックに先に話をしたんだ? もっと早く行けたのに−−−いまからでもまだ−−−」  「いや」  ハリーは草に膝をついてしゃがみ込んだ。  「ハーマイオニーが正しかった。ダンブルドアは僕にその杖を持たせたくなかった。その杖を取らせたくなかったんだ。僕に分霊箱を見つけ出させたかったんだ」  「無敵の杖だぜ、ハリー!」 ロンが呻いた。 「僕はそうしちゃいけないはずなんだ……僕は分霊箱を探すはずなんだ……」  そして突然、何もかもが涼しく、暗くなった。 太陽は地平線からまだほとんど顔を出しておらず、ハリーは、スネイプと並んで、湖へと校庭を滑るように歩いていた。  「まもなく、城でおまえに会うことにする」彼は高い冷たい声で言った。 「さあ、俺様を一人にするのだ」  スネイプは頭を下げ、黒いマントを後ろになびかせて、いま来た道を戻っていった。 ハリーはスネイプの姿が消えるのを待ちながら、ゆっくりと歩いた。 これから自分が行くところを、スネイプは見てはならない、いや、実は何人も見てはならないのだ。 幸い、城の窓には明かりもなく、しかも彼は自分を隠すことができる……一瞬にして彼は自分に「目くらまし術」をかけ、自分の目からさえ姿を隠した。  そして彼は、湖の縁を歩き続けた。 愛おしい城、自分の最初の王国、自分が受け継ぐ権利のある城の輪郭をじっくり味わいながら……。  そして、ここだ。潮のほとりに建ち、その影を暗い水に映している白い大理石の墓。見知っ た光景には不必要な汚点だ。彼は再び、抑制された高揚感が押し寄せてくるのを感じた。破壊 の際に感じる、あの陶然とした目的意識だ。彼は古いイチイの杖を上げた。この杖の最後の術 としては、なんとふさわしい。  墓は、上から下まで真っ二つに割れて開いた。帷子に包まれた姿は、生前と同じように細く長い。 彼はもう一度杖を上げた。  覆いが落ちた。死に顔は青く透き通り、落ち窪んではいたが、ほとんど元のまま保たれていた。 曲がった鼻に、メガネが載せられたままだ。彼は、ばかばかしさを嘲笑いたかった。 ダンプルドアの両手は胸の上に組まれ、 それはそこに、両手の下にしっかり抱かれて、ダンブルドアとともに葬られていた。  この老いぼれは、大理石か死が、杖を守るとでも思ったのか?  闇の帝王が墓を冒涜することを恐れるとでも思ったのか?  蜘味のような指が襲いかかり、ダンブルドアが固く抱いた杖を引っ張った。 彼がそれを奪ったとき、杖の先から火花が噴き出し、最後の持ち主の亡骸に降りかかった。 杖はついに、新しい主人に仕える準備ができたのだ。 25章:Shell Cottage/シェル・コテージ  ビルとフラーの家は、海を見下ろす崖の上に建つ、白壁に貝殻を埋め込んだ一軒家だった。 寂しくも、美しい場所だった。潮の満ち干の音が、小さな家の中にいても庭でも、大きな生物がまどろむ息のように、ハリーには絶え間なく聞こえていた。 家に着いてから二、三日の間、混み合った家から逃れる口実を見つけては、ハリーは外に出た。 崖の上に広がる空と広大で何もない海の景色を眺め、冷たい潮風を顔に感じたかったのだ。  ヴォルデモートと競って杖を追うのはやめようと決めた、その決定の重大さが、いまだにハリーを怯えさせた。 ハリーにはこれまで一度も、何かをしないという選択をした記憶がない。 ハリーは迷いだらけだった。ロンと顔を合わせるたびに、ロンのほうが我慢できずにその迷いを口に出した。  「もしかしてダンブルドアは、僕たちがあの印の意味を解読して、杖を手に入れるのに間に合ってほしいと思ったんじゃないのか?」、「あの印を解読したら、君が『秘宝』を手に入れるに『ふさわしい者』になったという意味じゃないのか?」、「ハリー、それがほんとに『ニワトコの杖』だったら、僕たちいったいどうやって『例のあの人』をやっつけられるって言うん だ?」  ハリーには答えられなかった。 ヴォルデモートが墓を暴くのを阻もうともしなかったのは、まったく顔がどうかしていたのではないかと、ハリー自身がそう思うときもあった。 どうしてそうしないと決めたのか、満足のいく説明さえできなかった。 その結論を出すまでの理論づけを再現しようとしても、そのたびに根拠が希薄になっていくような気がした。  おかしなことにハーマイオニーが支持してくれることが、ロンの疑念と同じくらい、ハリーを混乱させた。 「ニワトコの杖」が実在すると認めざるをえなくなったハーマイオニーは、そ の杖が邪悪な品だと主張した。そして、ヴォルデモートは考えるだに汚らわしい手段で杖を手に入れたのだと言った。  「あなたには、あんなこと絶対できなかったわ、ハリー」  ハーマイオニーは何度も繰り返しそう言った。 「ダンブルドアの墓を暴くなんて、あなたにはできなかったわ」  しかし、ハリーにとっては、ダンブルドアの亡骸自体が恐ろしいというよりも、生前のダンプルドアの意図を誤解したのではないかという可能性のほうが恐ろしかった。 ハリーはいまだに暗闇を手探りしているような気がしていた。 行くべき道は選んだ。しかし、何度も振り返り、標識を読み違えたのではないか、ほかの道を行くべきではなかったのかと迷った。 ときには、ダンブルドアに対する怒りが、家の建つ崖下に砕ける波のような強さで押し寄せ、ハリーはまたしても押しつぶされそうになった。 ダンブルドアが死ぬ前に説明してくれなかったことへの憤りだった。  「だけど、ほんとに死んだのかな?」  貝殻の家に着いてから三日目に、ロンが言った。 ハリーはそのとき、庭と崖を仕切る壁の上から、遠くを眺めていたが、ロンとハーマイオニーがやって来て、話しはじめたのだ。 ハリーは、一人にしておいてほしかった。二人の議論に加わる気にはなれなかった。  「そうよ、死んだのよ、ロン。お願いだから、蒸し返さないで?」  「事実を見ろよ、ハーマイオニー」 ロンが、ハリーの向こう側にいるハーマイオニーに言った。 ハリーは地平線を見つめたままだった。  「銀色の牝鹿。剣。ハリーが鏡の中に見た目−−−」 「ハリーは、目を見たと錯覚したのかもしれないって認めているわ! ハリー、そうでしょう?」  「そうかもしれない」 ハリーはハーマイオニーを見ずに言った。  「だけど錯覚だとは思ってない。だろ?」 ロンが聞いた。  「ああ、思ってない」 ハリーが言った。  「それ見ろ!」 ロンは、ハーマイオニーが割り込む前に急いで言葉を続けた。 「もしあれがダンプルドアじゃなかったのなら、ドビーはどうやって、僕たちが地下牢にいるってわかったのか、ハーマイオニー、説明できるか?」  「できないわ−−−でも、ダンブルドアがホグワーツの墓に眠っているなら、どうやってドビーを差し向けたのか、説明できるの?」  「さあな。ダンブルドアのゴーストだったんじゃないか?」  「ダンブルドアは、ゴーストになって戻ってきたりはしない」 ハリーが言った。 ダンブルドアについて、ハリーが、いま、確実に言えることなどほとんどなかったが、それだけはわかっていた。 「ダンブルドアは逝ってしまうだろう」  「『逝ってしまう』って、どういう意味だ?」  ロンが聞いたが、ハリーが言葉を続ける前に、背後で声がした。  「アリー?」  フラーが長い銀色の髪を潮風になびかせて、家から出てきていた。  「アリー、グリップウックが、あなたにあなしたいって。いちばん小さい寝室にいまーすね。誰にも盗み聞きされたくない、と言っていまーす」  小鬼がフラーに伝言させたことを、フラーが快く思っていないのは明らかだった。 ぷりぷりしながら家に戻っていった。  グリップフックは、フラーが言ったように、三つある寝室のいちばん小さい部屋で、三人を待っていた。 そこは、ハーマイオニーとルーナが寝ている部屋だった。 グリップフックが赤いコットンのカーテンを閉めきっていたので、雲の浮かぶ明るい空の光が透けて、部屋が燃えるように赤く輝き、優雅で軽やかな感じのこの家には似合わなかった。  「結論が出ました。ハリー・ポッター」 小鬼は脚を組んで低い椅子に腰掛け、細い指で椅子の肘掛けをトントンと叩いていた。 「グリンゴッツの小鬼たちは、これを卑しい裏切りと考えるでしょうが、私はあなたを助けることにしました−−−」  「よかった!」 ハリーは、体中に安堵感が走るのを感じた。 「グリップフック、ありがとう。僕たち本当に−−−」  「−−−見返りに」小鬼ははっきりと言った。 「代償をいただきます」  ハリーは少し驚いて、まごついた。  「どのくらいかな? 僕はお金を持っているけど」  「お金ではありません」グリップフックが言った。 「お金は持っています」  小鬼の黒い目がキラキラ輝いた。小鬼の目には白目がなかった。  「剣がほしいのです。ゴドリック・グリフィンドールの剣です」  昂っていたハリーの気持が、がくんと落ち込んだ。  「それはできない」 ハリーが言った。 「すまないけど」  「それは」小鬼が静かに言った。 「問題ですね」  「ほかの物をあげるよ」 ロンが熱心に言った。 「レストレンジたちはきっと、ごっそりいろん な物を持ってる。僕たちが金庫に入ったら、君は好きな物を取ればいい」  これは失言だった。グリップフックは怒りで真っ赤になった。  「私は泥棒ではないぞ! 自分に権利のない宝を手に入れようとしているわけではない!」  「剣は僕たちの−−−」 「違う」小鬼が言った。 「僕たちはグリフィンドール生だし、それはゴドリック・グリフィンドールの−−−」 「そして、グリフィンドールの前は、誰のものでしたか?」小鬼は姿勢を正して問いつめた。 「誰のものでもないさ」 ロンが言った。 「剣はグリフィンドールのために作られたものだろ?」  「違う!」小鬼は苛立って、長い指をロンに向けながら叫んだ。 「またしても魔法使いの倣慢さよ! あの剣はラグヌック一世のものだったのを、ゴドリックグリフィンドールが奪ったのだ。これこそ失われた宝、小鬼の技の傑作だ! 小鬼族に帰属する品なのだ!この剣は私を雇うことの対価だ。いやならこの話はなかったことにする!」  グリップフックは三人を睨みつけた。ハリーはほかの二人をちらりと見て、こう言った。  「グリップフック、僕たち三人で相談する必要があるんだけど、いいかな。少し時間をくれないか?」  小鬼は、むっつりと頷いた。 一階の誰もいない居間で、ハリーは眉根を寄せ、どうしたものかと考えながら、暖炉まで歩いた。その後ろでロンが言った。  「あいつ、腹の中で笑ってるんだぜ。あの剣をあいつにやることなんて、できないさ」  「ほんとなの?」 ハリーはハーマイオニーに聞いた。 「あの剣は、グリフィンドールが盗んだものなの?」  「わからないわ」 ハーマイオニーがどうしようもないという調子で言った。 「魔法史は、魔法使いたちが他の魔法生物に何かしたことについては、よく省いてしまうの。でも、私が知るかぎり、グリフィンドールが剣を盗んだとは、どこにも書いてないわ」  「また、小鬼お得意の話なんだよ」 ロンが言った。 「魔法使いはいつでも小鬼をうまく騙そうとしているってね。あいつが、僕たちの杖のどれかをほしいと言わなかっただけ、まだ運がよかったと考えるべきだろうな」  「ロン、小鬼が魔法使いを嫌うのには、ちゃんとした理由があるのよ」 ハーマイオニーが言った。 「過去において、残忍な扱いを受けてきたの」  「だけど、小鬼だって、ふわふわのちっちゃなウサちゃん、というわけじゃないだろ?」  ロンが言った。 「あいつら、魔法使いをずいぶん殺したんだぜ。あいつらだって汚い戦い方をしてきたんだ」  「でも、どっちの仲間のほうがより卑怯で暴力的だったかなんて議論したところで、グリップフックが私たちに協力する気になってくれるわけでもないでしょう?」  どうしたら問題が解決できるかを考えようと、三人ともしばらく黙り込んだ。 ハリーは、窓からドビーの墓を見た。 ルーナが、墓石の脇にジャムの瓶を置いてイソマツを活けているところだった。  「オッケー」 ロンが言った。ハリーは振り返って、ロンの顔を見た。 「こういうのはどうだ?グリップフックに、剣は金庫に入るまで僕たちが必要だと言う。そのあとであいつにやる、と言う。金庫の中に、贋物があるんだろう? それと入れ替えて、あいつに贋物をやる」  「ロン、グリップフックは、私たちよりも見分ける力を持っているのよ!」 ハーマイオニーが言った。 「どこかで交換されていると気づいたのは、グリップフックだけだったのよ!」  「うーん、だけど、やつが気づく前に、僕たちがずらかれば−−−」  ハーマイオニーにひと睨みされて、ロンは怯んだ。  「そんなこと」 ハーマイオニーが静かに言った。 「卑劣だわ。助けを頼んでおいて、裏切るの? ロン、小鬼は魔法使いがなぜ嫌いなのかって、それでもあなたは不思議に思うわけ?」  ロンは耳を真っ赤にした。  「わかった、わかった! 僕はそれしか思いつかなかったんだ! それじゃ、君の解決策は何だ?」  「小鬼に、何か代わりの物をあげる必要があるわ。何か同じくらい価値のある物を」  「すばらしい。手持ちの小鬼製の古い剣の中から、僕が一本持ってくるから、君がプレゼント用に包んでくれ」  三人はまた黙り込んだ。 ハリーは、何か同じくらい価値のある物を提案してみたところで、グリップフックは、剣以外の物は絶対に受け入れないだろうと思った。 とはいえ、剣は、自分たちにとって一つしかない、分霊箱に対するかけがえのない武器だ。  ハリーは目を閉じて、わずかの間、海の音を聞いた。 グリフィンドールが剣を盗んだかもしれないと思うと、いやな気分だった。 ハリーはグリフィンドール生であることを、いつも誇りにしてきた。 グリフィンドールは、マグル生まれのために戦った英雄であり、純血好きのスリザリンと衝突した魔法使いだった……。  「グリップフックが、嘘をついているのかもしれない」 ハリーは再び目を開けた。 「グリフィンドールは、剣を盗んでいないかもしれない。小鬼側の歴史が正しいかどうかも、誰にもわからないだろう?」  「それで何か変わるとでも言うの?」 ハーマイオニーが聞いた。  「僕の感じ方が変わるよ」 ハリーが言った。  ハリーは深呼吸した。  「グリップフックが金庫に入る手助けをしてくれたら、そのあとで剣をやると言おう−−−でも、いつ渡すかは、正確には言わないように注意するんだ」  ロンの顔にゆっくりと笑いが広がった。しかし、ハーマイオニーは、とんでもないという顔だった。  「ハリー、そんなことできない−−−」  「グリップフックにあげるんだ」 ハリーは言葉を続けた。 「全部の分霊箱に剣を使い終わってからだ。そのときに必ず彼の手に渡す。約束は守るよ」  「でも、何年もかかるかもしれないわ!」 ハーマイオニーが言った。  「わかっているよ。でもグリップフックはそれを知る必要はない。僕は嘘を言うわけじゃない……と思う」  ハリーは、抗議と恥とが入り交じった気持でハーマイオニーの目を見た。 オーメンガードの入口に彫しられた言葉を、ハリーは思い出した。 「より大きな善のために」 ハリーはその考えを払い退けた。ほかにどんな選択があると言うのか?  「気に入らないわ」 ハーマイオニーが言った。  「僕だって、あんまり」 ハリーも認めた。  「いや、僕は天才的だと思う」 ロンは再び立ち上がりながら言った。 「さあ、行って、やつにそう言おう」  いちばん小さい寝室に戻り、ハリーは、剣を渡す具体的なときを言わないように慎重に言葉を選んで提案した。 ハリーが話している間、ハーマイオニーは、床を睨みつけていた。 ハリーは、ハーマイオニーのせいで計画を読まれてしまうのではないかと恐れ、イライラした。 しかしグリップフックは、ハリー以外の誰も見ていなかった。  「約束するのですね、ハリー・ポッタ−−−?私があなたを助けたら、グリフィンドールの剣を私にくれるのですね?」  「そうだ」 ハリーが言った。  「では成立です」小鬼は、手を差し出した。  ハリーはその手を取って握手した。黒い目が、ハリーの目に危惧の念を読み取りはしないかと心配だった。 グリップフックは手を離し、ポンと両手を打ち合わせて「それでは、始めましょう!」と言った。  まるで、魔法省に潜入する計画を立てたときの繰り返しだった。 いちばん狭い寝室で、四人は作業を始めた。グリップフックの好みで、部屋は薄暗いままに保たれた。  「私がレストレンジ家の金庫に行ったのは、一度だけです」  グリップフックが三人に話した。  「贋作の剣を、中に入れるように言われたときでした。そこはいちばん古い部屋の一つです。魔法使いの旧家の宝は、いちばん深いところに隠され、金庫はいちばん大きく、守りもいちばん堅い……」  四人は、納戸のような部屋に、何度も何時間もこもった。のろのろと数日が過ぎ、それが何週間にも及んだ。次から次と難題が出てきた。一つの大きな問題は、手持ちのポリジュース薬が相当少なくなっていたことだ。  「ほんとに一人分しか残っていないわ」 ハーマイオニーが、泥のような濃い液体を傾けて、ランプの明かりにかざしながら言った。  「それで十分だよ」グリップフックが手描きしたいちばん深い場所の通路の地図を確かめながら、ハリーが言った。  ハリーとロンとハーマイオニーの三人が、食事のときにしか姿を現さなくなったので、「貝殻の家」 の他の住人も、何事かが起こっていることに気づかないわけはなかったが、誰も何も聞かなかった。 しかしハリーは、食事のテーブルで、考え深げな目で心配そうに三人を見ているビルの視線を、しょっちゅう感じていた。  グリップフックを含めた四人で、長い時間を過ごせば過ごすほど、ハリーは小鬼が好きになれない自分に気づいた。 グリップフックは思ってもみなかったほど血に飢え、下等な生き物でも痛みを感じるという考え方を笑い、レストレンジ家の金庫にたどり着くまでに、ほかの魔法使いを傷つけるかもしれないという可能性を大いに喜んだ。 ロンとハーマイオニーもやはり嫌悪感を持っていることがハリーにはわかったが、三人ともその話はしなかった。 グリップフックが必要だったからだ。 小鬼は、みんなと一緒に食事をするのを、 いやいや承知した。脚が治ってからもまだ、体が 弱っているオリバンダーと同じように自分の部屋に食事を運ぶ待遇を要求し続けていたが、あるときビルが−−−フラーの怒りがついに爆発したあと−−−二階に行って、特別扱いは続けられないとグリップフックに言い渡したのだ。 それからは、グリップフックは混み合ったテーブルに着いたが、同じ食べ物は拒み、代わりに生肉の塊、根菜類、茸類を要求した。  ハリーは責任を感じた。 質問するために、小鬼を「貝殻の家」に残せと言い張ったのは、結局、ハリーだった。 ウィーズリー一家が全員隠れなければならなくなったのも、ビル、フレッド、ジョージ、ウィーズリー氏が全員仕事に行けなくなったのも、ハリーのせいだ。  「ごめんね」ある風の強い四月の夕暮れ、夕食の支度を手伝いながら、ハリーがフラーに謝った。 「僕、君に、こんな大変な思いをさせるつもりはなかったんだけど」  フラーは、グリップフックとビルのステーキを切るために、包丁に準備させているところだった。 グレイバックに襲われて以来、ビルは生肉を好むようになっていた。 包丁が傍らで肉を削ぎ切りしている間、少しイライラしていたフラーの表情が和らいだ。  「アリー、あなたはわたしの妹の命を救いまーした。忘れませーん」  厳密に言えば、それは事実ではなかった。 しかし、ハリーは、ガブリエールの命が本当に危なかったわけではないということを、フラーには言わないでおこうと思った。  「いーずれにしても」  フラーは竜の上のソース鍋に杖を向けた。鍋はたちまちグツグツ煮え出した。  「オリバンダーさんは今夜、ミュリエールのところへ行きまーす。そうしたら、少し楽になりまーすね。あの小鬼は」  フラーはそう口にするだけで、ちょっと顔をしかめた。 「一階に移動できまーす。そして、あなたと、ロンとディーンが小鬼の寝室に移ることができまーす」  「僕たちは居間で寝てもかまわないんだ」 ハリーが言った。  小鬼はソファで寝るのがお気に召さないだろうと、ハリーにはわかっていたし、グリップフックを上機嫌にしておくことが、計画にとっては大事だった。  「僕たちのことは気にしないで」  フラーがなおも言い返そうとしたので、ハリーが言葉を続けた。 「僕たちも、もうすぐ、君に面倒をかけなくてすむようになるよ。僕もロンも、ハーマイオニーも。もうあまり長くここにいる必要がないんだ」  「それは、どういう意味でーすか?」  宙に浮かべたキャセロール皿に杖を向けたまま、フラーは眉根を寄せてハリーを見た。  「あなたはもーちろん、ここから出てはいけませーん。あなたはここなら安全でーす!」  そう言うフラーの様子は、ウィーズリーおばさんにとても似ていた。 そのとき勝手口が開いたので、ハリーはほっとした。 雨に髪を清らしたルーナとディーンが、両腕一杯に流木を抱えて入ってきた。  「……それから耳がちっちゃいの」 ルーナがしゃべっていた。 「カバの耳みたいだって、パパが言ったけど、ただ、紫色で毛がもじゃもじゃだって。それで、呼ぶときには、ハミングしなきゃなんないんだもン。ワルツが好きなんだ。あんまり早い曲はだめ……」  なんだか居心地が悪そうに、ディーンはハリーのそばを通るときに肩をすくめ、ルーナのあとから食堂兼居間に入っていった。 そこではロンとハーマイオニーが、夕食のテーブルの準備をしていた。フラーの質問から逃げるチャンスをとらえたハリーは、かぼちゃジュースの入った水差しを二つつかんで、ルーナたちのあとに続いた。  「……それから、あたしの家に来たら、角を見せてあげられるよ。パパがそのことで手紙をくれたんだもン。あたしはまだ見てないんだ。だって、あたし、ホグワーツ特急から死喰い人にさらわれて、それで、クリスマスには家に帰れなかったんだもン」  ディーンと二人で暖炉の火を俄し直しながら、ルーナが話していた。  「ルーナ、教えてあげたじゃない」 ハーマイオニーが向こうのほうから声をかけた。 「あの角は爆発したのよ。エルンペントの角だったの。しわしわ角スノーカックのじゃなくて−−−」  「ううん、絶対にスノーカツクの角だったわ」 ルーナがのどかに言った。 「パパがあたしにそう言ったもン。たぶんいまごろは元通りになってるわ。ひとりでに治るものなんだもン」  ハーマイオニーはやれやれと首を振り、フォークを並べ続けた。 そのとき、ビルがオリバンダー氏を連れて階段を下りてきた。 杖作りは、まだとても弱っている様子で、ビルの腕にすがっていた。 ビルは老人を支え、大きなスーツケースを提げて階段を下りてきた。  「オリバンダーさん、お別れするのは寂しいわ」 ルーナが老人に近づいてそう言った。  「わしもじやよ、お嬢さん」オリバンダーが、ルーナの肩を軽く叩きながら言った。 「あの恐ろしい場所で、君は、言葉には言い表せないほど私の慰めになってくれた」  「それじゃ、オールヴォワール、オリバンダーさん」 フラーはオリバンダーの両頬にキスした。 「それから、もしできれば、ビルの大おばさんのミユリエールに、包みを届けてくださればうれしいのでーすが? あのいとに、ティアラを返すことができなかったのでーす」  「喜んでお引き受けします」オリバンダーが軽くお辞儀しながら言った。 「こんなにお世話になったお礼として、そんなことはお安い御用です」  フラーはすり切れたビロードのケースを取り出し、それを開けて中の物を杖作りに見せた。 低く吊られたランプの明かりで、ティアラが燦然と輝いていた。  「ムーンストーンとダイヤモンド」 ハリーの知らない間に部屋に滑り込んでいたグリップフックが言った。 「小鬼製と見ましたが?」  「そして魔法使いが買い取った物だ」  ビルが静かに言った。小鬼は陰険で、同時に挑戦的な目つきでビルを見た。  ビルとオリバンダーが闇に消え去ったその夜は、「貝殻の家」に強い風が吹きつけていた。 残った全員がテーブルの周りにぎゅう詰めになり、肘と肘がぶつかって動く隙間もなく食事を始めた。 傍らでは、暖炉の火がパチパチと火格子に爆ぜていた。 フラーが、ただ料理を突つき回してばかりなのに、ハリーは気づいた。 フラーは、数分ごとに窓の外をちらちらと見ていた。 幸いビルは、長い髪を風にもつれさせて、夕食の最初の料理が終わる前に戻ってきた。  「みんな無事だよ」ビルがフラーに言った。 「オリバンダーは落ち着いた。母さんと父さんからよろしくつて。ジニーが、みんなに会いたがっていた。フレッドとジョージはミュリエルをかんかんに怒らせてるよ。おばさんの家の奥の部屋から『ふくろう通信販売』をまだ続けていてね。ティアラを返したらおばさんは少し元気になったけどね。僕たちが盗んだと思ったって言ってたよ」  「ああ、あのいと、あなたのおばさーん、シャーマント(すてき)」  フラーは不機嫌にそう言いながら、杖を振って汚れた食器を舞い上がらせ、空中で重ねた。 それを手で受け、フラーはカツカツと部屋を出ていった。  「パパもティアラを作ったもン」ルーナが急に言った。 「うーん、どっちかって言うと冠だけどね」  ロンがハリーと目を見合わせ、ニヤリと笑った。 ハリーは、ロンが、ゼノフィリウスを訪ねたときに見た、あのばかばかしい髪飾りを思い出しているのだとわかった。  「そうよ、レイブンクローの失われた髪飾りを再現しようとしたんだもン。パパは、主な特徴はもうほとんどわかったって思ってるんだもン。ビリーウィグの羽根をつけたら、とってもよくなって−−−」  正面玄関でバーンと音がした。全員がいっせいに音のほうを振り向いた。フラーが怯えた顔でキッチンから駆け込んできた。ビルは勢いよく立ち上がり、杖をドアに向けた。ハリー、ロン、ハーマイオニーも同じことをした。グリップフックは、テーブルの下に滑り込んで姿を隠した。  「誰だ?」ビルが叫んだ。  「私だ、リーマス・ジョン・ルーピンだ!」  風の唸りに消されないように叫ぶ声が聞こえた。ハリーは背筋に冷たいものが走った。何があったのだろう?  「私は狼人間で、ニンファドーラ・トンクスと結婚した。君は『貝殻の家』の『秘密の守人』で、私にここの住所を教え、緊急のときには来るようにと告げた!」  「ルーピン」ビルは、そう呟くなりドアに駆け寄り、急いで開けた。 ルーピンは敷居に倒れ込んだ。真っ青な顔で旅行マントに身を包み、風にあおられた白髪は乱れている。 ルーピンは立ち上がって部屋を見回し、誰がいるかを確かめた後大声で叫んだ。  「男の子だ! ドーラの父親の名前を取って、テッドと名付けたんだ!」  ハーマイオニーが金切り声を上げた。  「えっ?−−−トンクスが−−−トンクスが赤ちゃんを?」  「そうだ。そうなんだ。赤ん坊が生まれたんだ!」 ルーピンが叫んだ。  テーブル中が喜びに沸き、安堵の吐息を漏らした。 ハーマイオニーとフラーは「おめでとう!」と甲高い声を上げた。 ロンは、そんなものはいままで聞いたことがないという調子で「ヒューッ、赤ん坊かよ!」と言った。  「そうだ−−−−−そうなんだ−−−男の子だ」  ルーピンは、幸せでぼーっとしているように見えた。 ルーピンはテーブルをぐるっと回って、ハリーをしっかり抱きしめた。 グリモールド・プレイスの厨房での出来事が、嘘のようだった。  「君が後見人<ゴッドファーザー>になってくれるか?」 ハリーを離して、ルーピンが聞いた。  「ぼ−−−僕が?」 ハリーは舌がもつれた。  「そう、君だ、もちろんだ−−−ドーラも大賛成なんだ。君ほどぴったりの人はいない−−−」  「僕−−−ええ−−−うわぁ−−−」  ハリーは感激し、驚き、うれしかった。  ビルはワインを取りに走り、フラーはルーピンに、一緒に飲みましょうと勧めていた。  「あまり長くはいられない。戻らなければならないんだ」  ルーピンは、全員ににっこり笑いかけた。ハリーがこれまでに見たルーピンより、何歳も若く見えた。  「ありがとう、ありがとう、ビル」  ビルは間もなく、全員のゴブレットを満たした。みんなが立ち上がり、杯を高く掲げた。  「テディ・リーマス・ルーピンに」 ルーピンが音頭を取った。 「未来の偉大な魔法使いに!」  「赤ちゃんは、どちらーに似ていまーすか?」 フラーが聞いた。  「私はドーラに似ていると思うんだが、ドーラは私に似ていると言うんだ。髪の毛が少ない。生まれたときは黒かったのに、一時間くらいで間違いなく赤くなった。私が戻るころには、ブロンドになっているかもしれない。アンドロメダは、トンクスの髪も、生まれた日に色が変わりはじめたと言うんだ」  ルーピンはゴブレットを飲み干し、ビルがもう一杯注ごうとすると、ニコニコしながら「ああ、それじゃ、いただくよ。もう一杯だけ」と受けた。  風が小さな家を揺らし、暖炉の火が掛ぜた。そしてビルは、すぐにもう一本ワインを開けた。 ルーピンの報せはみんなを夢中にさせ、しばしの間、包囲されていることも忘れさせた。 新しい生命の吉報が、心を躍らせた。 小鬼だけは突然のお祭り気分に無関心な様子で、しばらくするとこっそりと、いまや一人で占領している寝室へと戻っていった。 ハリーは、自分だけがそれに気づいていると思ったが、やがて、ビルの目が階段を上がる小鬼を追っていることに気づいた。  「いや……いや……本当にもう帰らなければ」  もう一杯と勧められるワインを断って、ルーピンはとうとう立ち上がり、再び旅行用マントを着た。  「さようなら、さようなら−−−二、三日のうちに、写真を持ってくるようにしよう−−−家の者たちも、私がみんなに会ったと知って喜ぶだろう−−−」  ルーピンはマントの紐を締め、別れの挨拶に女性を抱きしめ、男性とは握手して、ニコニコ顔のまま、荒れた夜へと戻っていった。  「後見人、ハリー!」 テーブルを片付けるのを手伝って、ハリーと一緒にキッチンに入りながら、ビルが言った。 「本当に名誉なことだ!おめでとう!」  ハリーは手に持った空のゴブレットを下に置いた。ビルは背後のドアを引いて閉め、ルービンがいなくなっても祝い続けているみんなの話し声を、締め出した。  「君と二人だけで話したかったんだよ、ハリー。こんなに満員の家ではなかなかチャンスがなくてね」ビルは言いよどんだ。 「ハリー、君はグリップフックと何か計画しているね」  質問ではなく、確信のある言い方だった。ハリーはあえて否定はせず、ただビルの顔を見つめて、次の言葉を待った。  「僕は小鬼のことを知っている」ビルが言った。「ホグワーツを卒業してから、ずっとグリンゴッツで働いてきたんだ。小鬼の友人がいると言える魔法使いと小鬼の間に友情が成り立つかぎりにおいてだが、僕には−−−少なくとも僕がよく知っていて、しかも好意を持っている小鬼がいる」ビルはまた口ごもった。 「ハリー、グリップフックに何を要求した?見返りに何を約束した?」  「話せません」 ハリーが言った。 「ビル、ごめんなさい」  背後のキッチンのドアが開いて、フラーが空になったゴブレットをいくつか持って入ってこようとした。  「待ってくれ」ビルがフラーに言った。「もう少しだけ」  フラーは引き下がり、ビルがドアを閉め直した。  「それなら、これだけは言っておかなければ−−−」ビルが言葉を続けた。 「グリップフックと何か取引をしたなら、とくに宝に関する取引なら、特別に用心する必要がある。小鬼の所有や代償、報酬に関する考え方は、ヒトと同じではない」  ハリーは小さな蛇が体の中で動いたような、気持の悪い微かなくねりを感じた。  「どういう意味ですか?」 ハリーが聞いた。  「相手は種類が違う生き物だ」ビルが言った。 「魔法使いと小鬼の間の取引には、何世紀にもわたってゴタゴタがつき物だった−−−それは、すべて魔法史で学んだだろう。両方に非があったし、魔法使いが無実だったとは決して言えない。しかし、一部の小鬼の間には、そしてとくにグリンゴッツの小鬼にはその傾向が最も強いのだが、金貨や宝に関しては、魔法使いは信用できないという不信感がある。魔法使いは小鬼の所有権を尊重しない、という考え方だ」  「僕は尊重−−−」 ハリーが口を開いたが、ビルは首を振った。  「君にはわかっていないよ、ハリー。小鬼と暮らしたことのある者でなければ、誰も理解できないことだ。小鬼にとっては、どんな品でも、正当な真の持ち主は、それを作った者であり、買った者ではない。すべて小鬼の作った物は、小鬼の目から見れば、正当に自分たちのものなのだ」  「でも、それを買えば−−−」  「−−−その場合は、金を払った者に貸したと考えるだろう。しかし、小鬼にとって、小鬼の作った品が魔法使いの間で代々受け継がれるという考えは、承服し難いものなのだ。グリップフックが、目の前でティアラが手渡されるのを見たとき、どんな顔をしたか、君も見ただろう。承認できないという顔だ。小鬼の中でも強硬派の一人として、グリップフックは、最初に買った者が死んだら、その品は小鬼に返すべきだと考えていると思うね。小鬼製の品をいつまでも持っていて、対価も支払わず魔法使いの手から手へと引き渡す我々の習慣は、盗みも同然だと考えている」  ハリーは、いまや不吉な予感に襲われていた。 ビルは、知らないふりをしながら、実はもっと多くのことを推測しているのではないか、とハリーは思った。  「僕が言いたいのは」ビルが居間へのドアに手をかけながら言った。 「小鬼と約束するなら、十分注意しろということだよ、ハリー。小鬼との約束を破るより、グリンゴッツ破りをするほうがまだ危険性が少ないだろう」  「わかりました」居間へのドアを開けたビルに向かって、ハリーが言った。 「ビル、ありがとう。僕、肝に銘じておく」  ビルのあとからみんなのいるところに戻りながら、ワインを飲んだせいに違いないが、ハリーの頭に皮肉な考えが浮かんだ。 テディ・ルーピンの名付け親になった自分は、ハリー自身の名付け親のシリウス・ブラックと同様、向こう見ずな道を歩み出したようだ。  計画が立てられ、準備は完了した。 いちばん小さい寝室の、マントルピースの上に置かれた小瓶には、長くて硬い黒髪が一本−−−マルフォイの館で、ハーマイオニーの着ていたセーターからつまんだ毛だ−−−丸まって入っていた。  「それに、本人の杖を便うんだもの」 ハリーは、鬼胡桃の杖を顎でしゃくりながら言った。 「かなり説得力があると思うよ」  ハーマイオニーは、杖を取り上げながら、杖が刺したり噛みついたりするのではないかと、怯えた顔をした。  「私、これ、いやだわ」 ハーマイオニーが低い声で言った。 「本当にいやよ。何もかもしっく り来ないの。私の思いどおりにならないわ……あの女の一部みたい」  ハリーは、自分がリンボクの杖を嫌ったとき、ハーマイオニーが一蹴したことを思い出さずにはいられなかった。 自分の杖と同じように機能しないのは気のせいにすぎないと主張し、練習あるのみだとハリーに説教したではないか。 しかし、その言葉をそっくりそのままハーマイオニーに返すのは思いとどまった。 あの時には、確かに何かに気を逸らす方がはるかにマシだと解っていたからだ。  「でも、あいつになりきるのには、役に立つかもしれないぜ」 ロンが言った。 「その杖が何をしたかを考えるんだ!」 「だって、それこそが問題なのよ!」ハーマイオニーが言った。 「この杖が、ネビルのパパやママを拷問したんだし、ほかに何人を苦しめたかわからないでしょう? この杖が、シリウスを殺したのよ!」  ハリーは、そのことを考えていなかった。杖を見下ろすと、急に、へし折ってやりたいという残忍な思いが突き上げてきた。脇の壁に立て掛けてあるグリフィンドールの剣で、真っ二つにしてやりたかった。  「私の杖が懐かしいわ」  ハーマイオニーが惨めな声で言った。  「オリバンダーさんが、私にも新しいのを一本作ってくれてたらよかったのに」  オリバンダーはその日の朝、ルーナに新しい杖を送ってきていた。ルーナはいま、裏の芝生に出て、遅い午後の太陽の光の中で、杖の能力を試していた。「スナッチャー」に杖を取り上げられたディーンが、かなり憂鬱そうにルーナの練習を見つめていた。  ハリーは、ドラコ・マルフォイのものだったサンザシの杖を見下ろした。 ハリーにとってはその杖が、少なくともハーマイオニーの杖と同じ程度には役に立つことがわかり、驚くとともにうれしかった。 オリバンダーが三人に教えてくれた杖の技の秘密を思い出し、ハリーはハーマイオニーの問題が何なのかがわかるような気がした。 ハーマイオニーは自分でベラトリックスから杖を奪ったわけではないので、鬼胡桃の杖の忠誠心を勝ち得ていなかったのだ。  寝室のドアが開いて、グリップフックが入ってきた。ハリーは反射的に剣の柄をつかんで引き寄せたが、すぐに後悔した。 その動きを小鬼に気づかれたことがわかったのだ。気まずい瞬間を取り繕おうとして、ハリーが言った。  「グリップフック、僕たち、最終チェックをしていたところだよ。ビルとフラーには、僕たちが明日発つことを知らせたし、わざわざ早起きして見送ったりしないように言っておいた」  ハリーたちは、この点は譲らなかった。出発前に、ハーマイオニーがベラトリックスに変身するからだ。 それに、これから三人のやろうとしていることを、ビルとフラーは知らないほうがよいし、怪しまないほうがよいのだ。 もうここには戻らないということも、説明した。 「スナッチャー」に捕まった夜、パーキンズの古いテントを失ってしまったので、ビルが貸してくれた別のテントが、ハーマイオニーのビーズバッグに納まっていた。 ハリーはあとで知って感心したのだが、ハーマイオニーはバッグを、片方のソックスに突っ込むというとっさの機転で、賊から守ったのだ。  ピルやフラー、ルーナやディーンたちと別れるのは寂しかったし、この数週間満喫していた家庭の温もりを失うのも、もちろん辛かった。 しかし、ハリーは「貝殻の家」に閉じ込められた状態から抜け出すのも待ち遠しかった。 盗み聞きされないように気を使うことにも、小さな暗い部屋に閉じこもるのにも、うんざりしていた。 とくに、グリップフックを厄介払いしたくてたまらなかった。 しかし、いつ、どのようにして、しかもグリフィンドールの剣を渡さずに小鬼と別れるかは、未解決の問題で、ハリーは答えを持ち合わせていなかった。 小鬼が、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人だけを残して五分以上いなくなることはめったになかったので、その問題をどう解決するかを決めるのは不可能だった。  「あいつ、ママより一枚上手だぜ」  小鬼の長い指が、あまりにも頻繁にドアの端から現れるので、ロンが唸るように言った。 ハリーは、ビルの教訓を思い出し、グリップフックが、ペテンにかけられることを警戒しているのではないかと疑わざるをえなかった。 ハーマイオニーが、裏切り行為の計画には徹底的に反対だったので、ハリーは、うまく切り抜ける方法についてハーマイオニーの頭脳を借りることを、とっくに諦めていた。 ごく稀に、ロンと二人だけで、グリップフックなしの数分間を掠め盗ることができても、ロンの考えはせいぜい 「出たとこ勝負さ、おい」だった。  その晩、ハリーはよく眠れなかった。 朝早く目が覚めて横になったまま、ハリーは、魔法省に侵入する前夜に感じた、興奮にも似た決意を思い出した。 今回は、不安と拭いきれない疑いとで、ハリーの心はぐらついていた。 何もかもうまくいかないのではないかという不安を、振り払うことができなかった。 ハリーは、計画は万全だと、繰り返し自分を納得させた。グリップフックは、立ち向かう相手を知っているし、遭過しそうな困難な問題には、すべて十分に備えた。 それでも、ハリーは落ち着かなかった。 一度か二度、ロンが転々と寝返りを打つ音が聞こえ、ハリーは、ロンもまた眠れずにいるに違いないと思った。 しかし、同じ部屋にディーンがいるので、ハリーは何も言わなかった。  六時になって、ハリーは救われる思いがした。ロンと二人で寝袋から抜け出し、まだ薄暗い中で着替えをすませた。 それから手はずどおりに、ハーマイオニーやグリップフックと落ち合う庭に出た。 夜明けは肌寒かったが、もう五月ともなれば風はほとんどなかった。 ハリーは、暗い空にまだ青白く瞬いている星を見上げ、岩に寄せては返す波の音を聞いた。 この音が聞けなくなるのは寂しかった。  ドビーの眠る赤土の塚からは、もう緑の若芽が萌え出でていた。一年も経てば、塚は花で覆われるだろう。 ドビーの名を刻んだ白い石は、すでに風雨に晒されたような趣きが出ていた。 ドビーを埋葬するのに、これほど美しい場所はほかになかっただろうと、ハリーはあらためてそう思った。 それでも、ドビーをここに置いていくと思うと、悲しさで胸が痛んだ。 ハリーは墓を見下ろし、ドビーはどうやって助けに来る場所を知ったのかと、またしても疑問に思った。 ハリーの指が、無意識に首から下げた巾着に伸び、あの鏡のかけらのギザギザな手触りを感じた。 あのときは、たしかにダンブルドアの目を鏡の中に見たと思ったのだが……。 そのとき、ドアの開く音で、ハリーは振り返った。  ベラトリックス・レストレンジが、グリップフックを従えて、こちらに向かって堂々と芝生を横切ってくるところだった。 グリモールド・プレイスから持ってきた古着の一つを着て、歩きながら小さなビーズバッグを、ロープの内ポケットにしまい込んでいる。 正体はハーマイオニーだとはっきりわかってはいても、ハリーは、おぞましさで思わず身震いした。 ベラトリックスは、ハリーより背が高く、長い黒髪を背中に波打たせ、厚ぼったい瞼の下からハリーを蔑むような目で見た。 しかし話しはじめると、ベラトリックスの低い声を通して、ハリーはハーマイオニーらしさを感じ取った。  「反吐が出そうな味だったわ。ガーディルートよりひどい!じゃあ、ロン、ここへ来て。あなたに術を……」  「うん。でも、忘れないでくれよ。あんまり長い額はいやだぜ−−−」  「まあ、何を言ってるの。ハンサムに見えるかどうかの問題じゃないのよ−−−」  「そうじゃないよ。邪魔っけだからだ! でも鼻はもう少し低いほうがいいな。この前やったみたいにしてよ」  ハーマイオニーはため息をついて仕事に取りかかり、声をひそめて呪文を唱えながら、ロンの容貌のあちこちを変えていった。 ロンはまったく実在しない人物になる予定で、ベラトリックスの悪のオーラがロンを守ってくれるだろうと、みんなが信じていた。 一方、ハリーとグリップフックは、「透明マント」 で隠れる手はずになっていた。  「さあ」 ハーマイオニーが言った。 「これでどうかしら、ハリー?」  変装していても、辛うじてロンだと見分けがついたが、たぶんそれは、本人をあまりにもよく知っているせいだろう、とハリーは思った。 ロンは、髪の毛を長く波打たせ、濃い褐色の顎額と口髭を生やしていた。 そばかすは消え、鼻は低く横に広がり、眉は太かった。  「そうだな、僕の好みのタイプじゃないけど、これで通用するよ」 ハリーが言った。 「それじゃ、行こうか?」  三人は、薄れゆく星明りの下に、静かに影のように横たわる「貝殻の家」をひと目だけ振り返った。 それから家に背を向け、境界線の壁を越える地点を目指して歩いた。 「忠誠の呪文」はその地点で切れ、「姿くらまし」 できるようになるのだ。 門を出るとすぐ、グリップフックが口を開いた。  「たしかここで、私は負さるのですね、ハリー・ポッター?」  ハリーが屈み、小鬼はその背中によじ登って、ハリーの首の前で両手を組んだ。 重くはなかったが、ハリーは、小鬼の感触や、しがみついてくる驚くほどの力がいやだった。 ハーマイオニーが、ビーズバッグから「透明マント」を出して二人の上から被せた。  「完壁よ」 ハーマイオニーは、屈んでハリーの足元を確かめながら言った。 「何にも見えないわ。行きましょう」  ハリーはグリップフックを肩に乗せたまま、ダイアゴン横丁の入口、旅籠の 「漏れ鍋」に全神経を集中して、その場で回転した。 締めつけられるような暗闇に入ると、小鬼はさらに強くしがみついてきた。数秒後、ハリーの足が歩道を打ち、目を開けると、そこはチャリング・クロス通りだった。 マグルたちが、早朝のしょぼしょぼ顔で、小さな旅籠にはまったく気づかずに、慌ただしく通り過ぎていった。 26章:Gringotts/グリンゴッツ  「漏れ鍋」 のバーには、ほとんど誰もいなかった。 腰の曲がった歯抜けの亭主トムが、カウンターの中でグラスを磨いていた。 隅でヒソヒソ話をしていた二人の魔法戦士が、ハーマイオニーの姿をひと目見るなり、暗がりに身を引いた。  「マダム・レストレンジ」トムが呟き、ハーマイオニーが通り過ぎるときに、へつらうように頭を下げた。  「おはよう」 ハーマイオニーが言った。 ハリーがグリップフックを肩に乗せたまま、「マント」を被ってこっそり通り過ぎる際、トムの驚いた顔が見えた。 「丁寧すぎるよ」 宿から小さな裏庭に抜けながら、ハリーがハーマイオニーに囁いた。 「ほかのやつらは、虫けら扱いにしなくちゃ!」 「はい、はい!」 ハーマイオニーはベラトリックスの杖を取り出し、目の前の平凡なレンガの壁を叩いた。 たちまちレンガが渦を巻き、回転して、真ん中に現れた穴がだんだん広がっていった。 そしてとうとう、狭い石畳のダイアゴン横丁へと続く、アーチ形の入口になった。  横丁は静まり返っていた。 開店の時間にはまだ早く、買い物客の姿はほとんどなかった。 もう何年も前になるが、ハリーがホグワーツの最初の学期の準備で来たときには、この曲りくねった石畳の通りはにぎやかな場所だった。 しかし、いまは様変わりしていた。 これまでになく多くの店が閉じられ、窓に板が打ちつけられている一方、前回来たときにはなかった店が数軒、闇の魔術専門店として開店していた。 あちこちのウィンドウに貼られたポスターから、「問題分子ナンバーワン」 の説明書きがついたハリー自身の顔が、ハリーを睨んでいた。  ポロを着た人たちが何人も、あちこちの店の入口にうずくまっていた。 まばらな通行人に、呻くように呼びかけては、金銭をせびり、自分たちは本当に魔法使いなのだと言い張っている声が、ハリーの耳に届いた。 一人の男は、片方の目を覆った包帯が血だらけだった。  横丁を歩きはじめると、物乞いたちはハーマイオニーの姿を盗み見て、たちまち、その目の前から、溶けてなくなるように姿を消した。 フードで顔を隠し、蜘味の子を散らすように逃げていく後ろ姿を、ハーマイオニーは不思議なものを見るように眺めていた。 するとそこへ、血だらけの包帯の男が現れ、よろよろとハーマイオニーの行く手を塞いだ。  「私の子どもたち!」  男は、ハーマイオニーを指差して大声で言った。正気を失ったような、かすれて甲高い声だった。  「私の子どもたちはどこだ? あいつは子どもたちに何をしたんだ? おまえは知っている。知っている!」  「私−−−私はほんとに−−−」 ハーマイオニーは口ごもった。  男はハーマイオニーに飛びかかり、喉に手を伸ばした。 そのとき、バーンという音とともに赤い閃光が走り、男は気を失って仰向けに地面に投げ出された。 ロンが杖を構えたまま、鬚面の奥から衝撃を受けたような顔を覗かせて突っ立っていた。 両側の窓々から、何人かが顔を出す一方、裕福そうな通行人が小さな塊になって、一刻も早く離れようと、ローブをからげて小走りにその場から立ち去った。  ハリーたちのダイアゴン横丁入場は、これ以上目立つのは難しいだろう、というほど人目についた。 一瞬ハリーは、いますぐ立ち去って、別な計画を練るほうがよいのではないかと迷った。 しかし、移動する間も相談する余裕もないうちに、背後で叫ぶ声が聞こえた。  「なんと、マダム・レストレンジ!」  ハリーはくるりと振り向き、グリップフックはハリーの首にさらにしがみついた。 背の高い、痩身の魔法使いが、大股で近づいてきた。 王冠のように見えるもじゃもじゃした白髪で、鼻は高く鋭い。  「トラバースだ」  小鬼がハリーの耳に囁いたが、その瞬間、ハリーはトラバースが誰だったか思い出せなかっ た。ハーマイオニーは思いっきり背筋を伸ばし、可能なかぎり見下した態度で言った。  「私に何か用か?」  トラバースは、明らかにむっとして、その場に立ち止まった。  「死喰い人の一人だ!」グリップフックが声を殺して言った。  ハリーはハーマイオニーに耳打ちして知らせようと、横歩きでにじり寄った。  「単にあなたに、挨拶をしようとしただけだ」トラバースが冷たく言った。 「しかし、私が目障りだということなら……」  ハリーは、ようやくその声を思い出した。トラバースは、ゼノフィリウスの家に呼び寄せられた死喰い人の一人だった。  「いや、いや、トラバース、そんなことはない」  ハーマイオニーは失敗を取り繕うために、急いで言った。「しばらくだった」  「いやあ、正直言って、ベラトリックス、こんなところでお見かけするとは驚いた」  「そうか? なぜだ?」 ハーマイオニーが聞いた。  「それは」トラバースは咳払いした。 「聞いた話だが、マルフォイの館の住人は軟禁状態だとか。つまり……その……逃げられたあとで」  ハリーは、ハーマイオニーが冷静でいてくれるように願った。 もし、それが本当なら、もし、ベラトリックスが公の場に現れるはずがないなら−−−。  「闇の帝王は、これまで最も忠実にあの方にお仕えした者たちを、お許しになる」  ハーマイオニーは見事に、ベラトリックスの侮蔑的な調子をまねた。  「トラバース、あなたは私ほどに、あの方の信用を得ていないのではないか?」  死喰い人は感情を害したようだったが、同時に怪しむ気持は薄れたようだった。 トラバースは、ロンがいましがた 「失神の呪文」 で倒した男をちらりと見た。  「こいつは、なにゆえお怒りに触れたのですかな?」  「それはどうでもよい。二度とそんなことはできまい」 ハーマイオニーは冷たく言った。  「『杖なし』たちの中には、厄介なのもいるようですな」トラバースが言った。 「物乞いだけしているうちは、私は別にかまわんが、先週、ある女が、魔法省で私に弁護をしてくれと求めてきた。『私は魔女です。魔女なんです。あなたにその証拠を見せます!』」  トラバースはキーキー声をまねした。  「まるでその女に、私が自分の杖を与えるとでも思ったみたいに−−−しかし、いまあなたは」 トラバースは興味深げに聞いた。 「誰の杖をお使いかな、ベラトリックス? 噂では、あなたの杖は−−−」  「私の杖はここにある」  ハーマイオニーはベラトリックスの杖を上げて、冷たく言った。  「トラバース、いったいどんな噂を聞いているのかは知らないが、気の毒にも間違った情報をお持ちのようだ」  トラバースはやや驚いた様子で、こんどはロンに目を向けた。  「こちらのお連れは、どなたかな? 私には見覚えがないが」  「ドラゴミール・デスバルドだ」  ロンが他人になりすますのには、架空の外国人がいちばん安全だろうと、三人は決めていた。  「英語はほとんどしゃべれない。しかし、闇の帝王の目的に共鳴している。トランシルバニアから、我々の新体制を見学に来たのだ」  「ほう? はじめまして、ドラゴミール」  「はじめって」 ロンが手を差し出した。  トラバースは指を二本だけ出して、汚れるのが怖いとでもいうようにロンと握手した。  「ところで、あなたも、こちらの−−−えーと−−−共鳴しておられるお連れの方も、こんなに早朝、ダイアゴン横丁に何用ですかな?」トラバースが聞いた。  「グリンゴッツに用がある」 ハーマイオニーが言った。  「なんと、私もだ」トラバースが言った。 「金、汚い金! それなくして我々は生きられん。しかし、実を言うと、指の長い友達とつき合わねばならんのは、嘆かわしいかぎりだ」  ハリーは、グリップフックの指が、一瞬首を締めつけるのを感じた。  「参りましょうか?」トラバースがハーマイオニーを、先へと促した。  ハーマイオニーは、しかたなく並んで歩き、曲りくねった石畳の道を、小さな店舗の上にひときわ高くそびえる、雪のように白いグリンゴッツの建物へと向かった。 ロンはひっそりと二人の脇を歩きハリーとグリップフックはその後についた。  警戒心の強い死喰い人の出現は、最も望ましくない展開だった。 トラバースが、すっかりベラトリックスだと思い込んでハーマイオニーの横を歩いているので、ハリーがハーマイオニーともロンとも話ができないのは、最悪だった。 そうこうするうちに、大理石の階段の下に着いてしまった。 階段の上には大きなブロンズの扉があった。 グリップフックに警告されていたとおり、扉の両側には、制服を着た小鬼の代わりに、細長い金の棒を持った魔法使いが立っている。  「ああ、『潔白検査棒』だ」  トラバースが大げさな身振りでため息をついた。  「原始的だ−−−しかし効果あり!」  トラバースは階段を上がって、左右の魔法使いに頷いた。 魔法使いたちは金の棒を上げて、トラバースの体を上下になぞった。 「検査棒」が、身を隠す呪文や隠し持った魔法の品を探知する棒だということを、ハリーは知っていた。 わずか数秒しかないと判断し、ハリーはドラコの杖を二人の門番に順に向けて、呪文を二回呟いた。  「コンファンド<錯乱せよ>」  ブロンズの扉から中を見ていたトラバースは気づかなかったが、門番の二人は呪文に撃たれたとたん、ピタッとした。  ハーマイオニーが長い黒髪を背中に波打たせて、階段を上った。  「マダム、お待ちください」 「検査棒」を上げながら、門番が言った。  「たったいま、すませたではないか!」  ハーマイオニーが、ベラトリックスの倣慢な命令口調で言った。 トラバースが層を吊り上げて振り向いた。 門番は混乱して、細い金の「検査棒」をじっと見下ろし、それからもう一人の門番を見た。  「ああ、マリウス、おまえはたったいま、この方たちを検査したばかりだよ」  相方は、少しぼーっとした声で言った。  ハーマイオニーがロンと並んで、威圧するように素早く進み、ハリーとグリップフックは、透明のままそのあとから小走りに進んだ。 敷居を跨いでからハリーがちらりと振り返ると、二人の魔法使いが頭を掻いていた。  内扉の前には小鬼が二人立っていた。 銀の扉には、盗人は恐ろしい報いを受けると警告した詩が書いてある。 それを見上げたとたん、ハリーの心に思い出がくっきりと蘇った。 十一歳になった日、人生でいちばんすばらしい誕生日に、ハリーはこの同じ場所に立っていた。 ハグリッドが脇に立ち、こう言った。  「言ったろうが。ここから盗もうなんて、狂気の沙汰だわい」  あの日のグリンゴッツは、不思議の国に見えた。 魔法のかかった宝の山の蔵、ハリーのものだとはまったく知らなかった黄金。 そのグリンゴッツに、盗みに戻ってこようとは、あのときは夢にも思わなかった……次の瞬間、ハリーたちは、広々とした大理石のホールに立っていた。  細長いカウンターの向こう側で、脚高の丸椅子に座った小鬼たちが、その日の最初の客に応対していた。 ハーマイオニー、ロン、トラバースの三人は、片眼鏡を掛けて一枚の分厚い金貨を吟味している、年老いた小鬼のほうに向かった。 ハーマイオニーは、ロンにホールの特徴を説明するという口実で、トラバースに先を譲った。  小鬼は手にしていた金貨を脇に放り投げ、誰に言うともなく言った。  「レプラコーンの偽金貨だ」  それからトラバースに挨拶し、渡された小さな金の鍵を調べてから持ち主に返した。  ハーマイオニーが進み出た。  「マダム・レストレンジ!」  小鬼は、明らかに度肝を抜かれたようだった。  「なんと! な−−−何のご用命でございましょう?」  「私の金庫に入りたい」 ハーマイオニーが言った。  年老いた小鬼は、少し後退りしたように見えた。ハリーはさっとあたりを見回した。 トラバースがまだその場に残って見つめていたし、そればかりでなく、ほかの小鬼も数人、仕事の手を止めて顔を上げ、ハーマイオニーをじっと見ていた。  「あなた様の……身分証明書はお持ちで?」小鬼が聞いた。  「身分証明書? こ−−−これまで、そんなものを要求されたことはない!」  ハーマイオニーが言った。  「連中は知っている!」グリップフックがハリーの耳に囁いた。 「名を騙る偽者が現れるかもしれないと、警告を受けているに違いない!」  「マダム、あなた様の杖で結構でございます」小鬼が言った。  小鬼が微かに震える手を差し出した。ハリーはそのとたんに気がついて、ぞっとした。 グリンゴッツの小鬼たちは、ベラトリックスの杖が盗まれたことを知っているのだ。  「いまだ。いまやるんだ」グリップフックがハリーの耳元で囁いた。 「服従の呪文だ!」  ハリーは「マント」 の下でサンザシの杖を上げ、年老いた小鬼に向けて、生まれて初めての呪文を囁いた。  「インペリオ<服従せよ>」  奇妙な感覚がハリーの腕を流れた。暖かいものがジンジン流れるような感覚で、どうやらそれは、自分の心から流れ出て筋肉や血管を通り、杖と自分を結びつけて、いまかけた呪いへと流れ出していくようだった。 小鬼はベラトリックスの杖を受け取り、念入りに調べていたが、やがてこう言った。  「ああ、新しい杖をお作りになったのですね、マダム・レストレンジ!」  「何?」 ハーマイオニーが言った。 「いや、いや、それは私の−−−」  「新しい杖?」  トラバースが再びカウンターに近づいてきた。周り中の小鬼がまだ見つめている。  「しかし、そんなことがどうしてできる? どの杖作りを使ったのだ?」  ハリーは考えるより先に行動していた。トラバースに杖を向け、ハリーはもう一度小声で唱えた。  「インペリオ<服従せよ>」  「ああ、なるほど、そうだったか」  トラバースがベラトリックスの杖を見下ろして言った。  「なるほど、見事なものだ。それで、うまく機能しますかな? 杖はやはり、少し使い込まないと馴染まないというのが、私の持論だが、どうですかな?」  ハーマイオニーは、まったくわけがわからないという顔だったが、結局、この不可解な成行きを、何も言わずに受け入れたので、ハリーはほっとした。  年老いた小鬼がカウンターの向こうで両手を打つと、若手の小鬼がやってきた。  「『鳴子』の準備を」  年老いた小鬼がそう言いつけると、若い小鬼はすっ飛んでいき、ガチャガチャと金属音のする革袋を手に、すぐに戻ってきて、袋を上司に渡した。  「よし、よし! では、マダム・レストレンジ、こちらへ」  年老いた小鬼は、丸椅子からポンと飛び降りて姿が見えなくなった。  「私が金庫まで、ご案内いたしましょう」  年老いた小鬼がカウンターの端から現れ、革袋の中身をガチャつかせながら、いそいそと小走りでやってきた。 トラバースは、口をだらりと開け、棒のように突っ立っていた。 ロンがポカンとしてトラバースを眺めているせいで、周囲の目がこの奇妙な現象に引きつけられていた。  「待て−−−ボグロッド!」  別の小鬼が、カウンターの向こうからあたふたと走ってきた。  「私どもは、指令を受けております」  小鬼はハーマイオニーに一礼しながら言った。  「マダム・レストレンジ、申し訳ありませんが、レストレンジ家の金庫に関しては、特別な命令が出ています」  その小鬼が、ボグロッドの耳に急いで何事かを囁いたが、「服従」させられているボグロッドは、その小鬼を振り払った。  「指令のことは知っています。マダム・レストレンジはご自分の金庫にいらっしゃりたいのです……旧家です……昔からのお客様です……さあ、こちらへ、どうぞ……」  そして、相変わらずガチャガチャと音を立てながら、ボグロッドは、ホールから奥に続く無数の扉の一つへと急いだ。 ハリーが振り返って見ると、トラバースは、異常に虚ろな顔で、同じ場所に根が生えたように立っていた。 ハリーは意を決して、杖を一振りし、トラバースに従いて来させた。 トラバースは、おとなしく後ろから従いてきた。 一行は扉を通り、その向こうのゴツゴツした石のトンネルへと出た。松明がトンネルを照らしている。  「困ったことになった。小鬼たちが疑っている」  背後で扉がバタンと閉まるのを待って、「透明マント」を脱いだハリーが言った。 グリップフックが肩から飛び降りた。 ボグロッドもトラバースも、ハリー・ポッターが突然その場に現れたことに、驚く気配をまったく見せなかった。  「この二人は『服従』させられているんだ」  無表情にその場に立つトラバースとボグロッドを見て、困惑した顔で尋ねるハーマイオニーとロンに、ハリーが答えた。  「僕は、十分強く呪文をかけられなかったかもしれない。わからないけど……」  そのとき、また別の思い出がハリーの脳裏をかすめた。 ハリーが初めて「許されざる呪文」を使おうとしたときに、本物のベラトリックスレストレンジが甲高く叫んだ声だ。  「本気になる必要があるんだ、ポッター!」 「どうしよう?」 ロンが聞いた。 「まだ間に合ううちに、すぐここを出ようか?」  「出られるものならね」  ハーマイオニーが、ホールに戻る扉を振り返りながら言った。 その向こう側で何が起こっているか、わかったものではない。  「ここまで来た以上、先に進もう」 ハリーが言った。  「結構!」グリップフックが言った。 「それでは、トロッコを運転するのに、ボグロッドが必要です。私にはもうその権限がありません。しかし、あの魔法使いの席はありませんね」  ハリーはトラバースに杖を向けた。  「インペリオ!<服従せよ>」  トラバースは回れ右して、暗いトンネルをきびきびと歩きはじめた。  「何をさせているんですか?」  「隠れさせている」  ボグロッドに杖を向けながら、ハリーが言った。 ボグロッドが口笛を吹くと、小さなトロッコが暗闇からこちらに向かってゴロゴロと線路を走ってきた。 全員がトロッコによじ登り、先頭にポグロッド、後ろの席にグリップフック、ハリー、ロン、ハーマイオニーがぎゅう詰めに なって乗り込んだとたん、ハリーは、背後のホールから、たしかに叫び声が聞こえたように思った。  トロッコはガタンと発車し、どんどん速度を上げた。 壁の割れ目に体を押し込もうとして身を振っているトラバースの横をあっという間に通り過ぎ、くねくね曲がる坂道の迷路を、トロッコは下へ下へと走った。 ガタゴトと線路を走るトロッコの音に掻き消されて、ハリーは何も聞こえなくなった。 天井から下がる鍾乳石の間を飛ぶように縫って、どんどん地中深く潜っていくトロッコから、ハリーは髪をなびかせながら何度もちらちらと後ろを振り返った。 ハリーたちは、膨大な手がかりを残してきたも同然だった。 考えれば考えるほど、ハーマイオニーをベラトリックスに変身させたのは愚かだったと、ハリーは後悔しはじめた。 ベラトリックスの杖を誰が盗んだのか、死喰い人にはわかっているのに、その杖を持ってくるなんて−−−。  トロッコは、ハリーが入ったことのない、グリンゴッツの奥深くへと入り込んでいった。 ヘアピンカーブを高速で曲がったとたん、線路に叩きつけるように落ちる滝が目に飛び込んできた。 滝まであと数秒もない。グリップフックの叫び声がハリーの耳に入った。 「ダメだ!」 しかし、ブレーキを効かせる間もない。トロッコはズーンと滝に突っ込んだ。 ハリーは目も口も水で塞がれ、何も見えず、息もできなかった。 トロッコがぐらりと恐ろしく傾いたかと思うと、ひっくり返って、全員が投げ出された。 トロッコがトンネルの壁にぶつかって粉々になる音や、ハーマイオニーが何か叫ぶ声が聞こえた瞬間、ハリーは無重力状態でスーッと地面に戻るのを感じた。 ハリーは何の苦もなく、岩だらけのトンネルに着地した。  「ク……クッション呪文」  ロンに助け起こされたハーマイオニーが、ゲホゲホ咳き込みながら言った。 そのハーマイオニーを見て、ハリーは大変だと思った。 そこにはベラトリックスの姿はなく、ぶかぶかのロープを着てずぶ濡れになり、完全に元に戻ったハーマイオニーが立っていた。 ロンも赤毛で額なしになっていた。 二人とも互いの顔を見、自分の顔を触ってみて、それに気づいていた。  「盗人落としの滝!」よろよろと立ち上がったグリップフックが、水浸しの線路を振り返りながら言った。 いまになってハリーは、それが単なる水ではなかったことに気づいた。  「呪文も魔法による隠蔽も、すべて洗い流します! グリンゴッツに偽者が入り込んだことがわかって、我々に対する防衛手段が発動されたのです!」  ハーマイオニーが、ビーズバッグがまだあるかどうかを調べているのを見て、ハリーも急いで上着に手を突っ込み、「透明マント」がなくなっていないことを確かめた。 振り返ると、ボグロッドが当惑顔で頭を振っているのが見えた。 「盗人落としの滝」は、「服従の呪文」をも解いてしまったようだ。  「彼は必要です」グリップフックが言った。 「グリンゴッツの小鬼なしでは、金庫に入れません。それに『鳴子』も必要です!」  「インペリオ!<服従せよ>」 ハリーがまた唱えた。その声は石のトンネルに反響し、同時に、顔から杖に流れる陶然とした強い制御の感覚が戻ってきた。 ボグロッドは再びハリーの意思に従い、まごついた表情が礼儀正しい無表情に変わった。 ロンは、金属の道具が入った革袋を急いで拾った。  「ハリー、誰か来る音が聞こえるわ?」  ハーマイオニーは、ベラトリックスの杖を滝に向けて叫んだ。  「プロテコ!護れ!」  「盾の呪文」がトンネルを飛んでいき、魔法の滝の流れを止めるのが見えた。  「いい思いつきだ」 ハリーが言った。 「グリップフック、道案内してくれ」  「どうやってここから出るんだ?」  グリップフックのあとを、暗闇に向かって急いで歩きながら、ロンが聞いた。 ボグロッドは年老いた犬のように、ハァハァ言いながらそのあとに従いてきた。 「いざとなったら考えよう」 ハリーが言った。  ハリーは耳を澄ましていた。近くで何かがガランガランと音を立てて動き回っている気配を感じたのだ。  「グリップフック、あとどのくらい?」 「もうすぐです。ハリー・ポッター、もうすぐ……」  角を曲がったとたん、ハリーの警戒していたものが目に入った。予想していたとは言え、やはり全員が棒立ちになった。  巨大なドラゴンが、行く手の地面につながれ、最も奥深くにある四つか五つの金庫に誰も近づけないように立ちはだかっていた。 長い間地下に閉じ込められていたせいで、色の薄れた鱗は跡げ落ちやすくなり、両眼は自濁したピンク色だ。 両の後脚には足伽がはめられ、岩盤深く打ち込まれた巨大な杭に、鎖でつながれていた。 棘のある大きな翼は、閉じられて胴体に折りたたまれていたが、広げればその洞を塞いでしまうだろう。 ドラゴンは醜い頭をハリーたちに向けて恥え、その声は岩を震わせた。 口を開くと炎が噴き出し、ハリーたちは走って退却した。  「ほとんど目が見えません」グリップフックが言った。 「しかし、そのためにますます樽猛になっています。ただ、我々にはこれを押さえる方法があります。『鳴子』を鳴らすと、次にどうなるかを、ドラゴンは教え込まれています。それをこちらにください」  ロンが渡した革袋から、グリップフックは小さな金属の道具をいくつも引っ張り出した。 道具を振ると、鉄床に小型ハンマーを打ち下ろすような、大きな音が響き渡った。 グリップフックは道具を一人ひとりに渡し、ボグロッドは自分の分を素直に受け取った。  「やるべきことは、わかっていますね」  グリップフックがハリー、ロン、ハーマイオニーに言った。  「この昔を聞くと、ドラゴンは痛い目に遭うと思って後退りします。その際にボグロッドが、手のひらを金庫の扉に押し当てるようにしなければなりません」  ハリーたちは、もう一度角を曲がり直して、前進した。「鳴子」を振ると、岩壁に反響した音が何倍にも増幅されてガンガンと響き、ハリーは頭骸骨が震動するのを感じた。 ドラゴンは再び晦噂を上げながら、後退りした。 ハリーはドラゴンが震えているのに気づいた。近づいて見ると、その顔に何カ所も荒々しく切りつけられた傷痕があり、ハリーは、「鳴子」 の音を聞くたびに焼けた剣を怖がるよう、躾けられたのだろうと思った。 「手のひらを扉に押しっけさせてください!」  グリップフックがハリーを促した。ハリーは再びボグロッドに杖を向けた。 年老いた小鬼は命令に従い、木の扉に手のひらを押しっけた。金庫の扉が溶けるように消え、洞窟のような空間が現れた。 天井から床までぎっしり詰まった金貨、ゴブレット、銀の鎧、不気味な生き物の皮−−−長い棘がついている物もあるし、羽根が垂れ下がっているのもある−−宝石で飾られたフラスコ入りの魔法薬、冠を被ったままの頭骸骨。  「探すんだ、早く!」急いで中に入りながら、ハリーが言った。  ハリーは、ハッフルパフのカップがどんなものか、ロンとハーマイオニーに話しておいたが、この金庫に隠されている分霊箱が、それ以外の未知のものなら、何を探してよいのかわからなかった。 しかし、全体を見渡す間もなく、背後で鈍い音がして、金庫の扉が再び現れ、ハリーたちは閉じ込められてしまった。 あたりはたちまち真っ暗闇になり、ロンが驚いて叫び声を上げた。  「心配いりません。ボグロッドが出してくれます!」グリップフックが言った。 「杖灯りを点けていただけますか? それに、急いでください。ほとんど時間がありません!」  「ルーモス!<光よ>」  ハリーが、杖灯りで金庫の中をぐるりと照らした。 灯りを受けてキラキラ輝く宝石の中に、ハリーは、いろいろな鎖に混じって高い棚に置かれている偽のグリフィンドールの剣を見つけた。 ロンとハーマイオニーも杖灯りを点けて、周りの宝の山を調べはじめていた。  「ハリー、これはどう−−−? あぁぅー!!」  ハーマイオニーが痛そうに叫んだ。 ハリーが杖を向けて見ると、宝石を掛め込んだゴブレットがハーマイオニーの手から転がり落ちるところだった。 ところが、落ちたとたんにそのゴブレットが分裂して同じようなゴブレットが噴き出し、あっという間に床を埋め、カチャカチャとやかましい昔を立てながらあちこちに転がりはじめた。 もともとのゴブレットがどれだったか、見分けがつかない。  「火傷したわ!」  ハーマイオニーが、火脹れになった指をしゃぶりながら呻いた。 「大丈夫か!」ハリーは慌ててハーマイオニーの傍に行き火傷した手をとった。 少し赤くなっているが、大丈夫そうだ。  「『双子の呪文』と『燃焼の呪い』が追加されていたのです!」グリップフックが言った。 「触れる物はすべて、熱くなり、増えます。しかしコピーには価値がない−−−宝物に触れ続けると、最後には増えた金の重みで押しつぶされて死にます!」  「わかった。何にも手を触れるな!」  ハリーは必死だった。しかしそう言うそばから、ロンが、落ちたゴブレットの一つをうっかり足で突ついてしまい、ロンがその場で飛び跳ねているうちに、ゴブレットがまた二十個ぐらい増えた。ロンの片方の靴の一部が、熱い金属に触れて焼け焦げていた。  「じっとして、動いちゃダメ!」 ハーマイオニーは急いでロンを押さえようとした。  「目で探すだけにして!」 ハリーが言った。  「いいか、小さい金のカップだ。穴熊が彫ってあって、取っ手が二つついている−−−そのほかに、レイプンクローの印がどこかについていないか見てくれ。鷲だ−−−」  三人はその場で慎重に向きを変えながら、隅々の割れ目まで杖で照らした。 しかし、何にも触れないというのは不可能だった。 ハリーはガリオン金貨の滝を作ってしまい、偽の金貨がゴブレットと一緒になって、もはや足の踏み場もない。 しかも輝く金貨が熱を発し、金庫は竃の中のようだった。 ハリーの杖灯りが、天井まで続く棚に置かれた盾の類や、小鬼製の兜を照らし出した。 杖灯りを徐々に上へと移動させていくと、突然、あるものが見えた。 ハリーの心臓は躍り、手が震えた。  「あそこだ。あそこ!」  ロンとハーマイオニーも、杖をそこに向けた。小さな金のカップが、三方からの杖灯りに照らされて浮かび上がった。 ヘルガ・ハッフルパフのものだったカップ。 ヘプジバ・スミスに引き継がれ、トム・リドルに盗まれたカップだ。  「だけど、いったいどうやって、何にも触れないであそこまで登るつもりだ?」  ロンが聞いた。  「アクシオ!カップよ、来い!」  ハーマイオニーが叫んだ。必死になるあまり、計画の段階でグリップフックの言ったことを忘れてしまったらしい。  「無駄です。無駄!」小鬼が歯噛みした。  「それじゃ、どうしたらいいんだ?」 ハリーは小鬼を睨んだ。 「剣がほしいなら、グリップフック、もっと助けてくれなきゃ−−−待てよ?剣なら触れられるんじゃないか? ハーマイ オニー、剣をよこして!」  ハーマイオニーはローブをあちこち探って、やっとビーズバッグを取り出し、しばらくガサゴソ掻き回していたが、やがて輝く剣を取り出した。ハリーはルビーの傲まった柄を握り、剣先で、近くにあった銀の細口瓶に触れてみた。増えない。  「剣をカップの取っ手に引っ掛けられたら−−−でも、あそこまでどうやって登ればいいんだろう?」  カップが置かれている棚は、誰も手が届かない。三人の中でいちばん背の高いロンでさえ届かなかった。 呪文のかかった宝から出る熱が、熱波となって立ち昇り、カップに届く方法を考えあぐねているハリーの顔からも背中からも、汗が滴っていた。 そのとき、金庫の扉の向こう側で、ドラゴンの吼え声と、ガチャガチャ言う音がだんだん大きくなってくるのが聞こえた。  いまや、完全に包囲されてしまった。出口は扉しかない。 しかし扉の向こうには大勢の小鬼が近づきつつあるようだ。 ハリーがロンとハーマイオニーを振り返ると、二人とも恐怖で顔が引きつっていた。  「ハーマイオニー」  ガチャガチャという音がだんだん大きくなる中で、ハリーが呼びかけた。  「僕、あそこまで登らないといけない。僕たちは、あれを破壊しないといけないんだ−−−」  ハーマイオニーは杖を上げ、ハリーに向けて小声で唱えた。  「レビコーパス<身体浮上せよ>」 ハリーの体全体が踵から持ち上がって、逆さまに宙に浮かんだ。 とたんに鎧にぶつかり、白熱した鎧のコピーが中から飛び出して、すでに一杯になっている空間をさらに埋めた。 ロン、ハーマイオニー、そして二人の小鬼が、押し倒されて痛みに叫びを上げながら、ほかの宝にぶつかった。 その宝のコピーがまた増えた。 満ち潮のように迫り上がってくる灼熱した宝に半分埋まり、みんなが悲鳴を上げてもがく中、ハリーは剣をハッフルパフのカップの取っ手に通し、剣先にカップを引っ掛けた。  「インパーピアス!<防水・防火せよ>」  ハーマイオニーが、自分とロンと二人の小鬼を焼けた金属から守ろうとして、金切り声で呪文を唱えた。  そのとき、一段と大きな悲鳴が聞こえ、ハリーは下を見た。ロンとハーマイオニーが腰まで 宝に埋まりながら、宝の満ち潮に飲まれようとするポグロッドを救おうと、もがいていた。 かし、グリップフックはすでに沈んで姿が見えず、長い指の先だけが見えていた。 ハリーは、グリップフックの指先を捕まえて引っ張り上げた。火脹れの小鬼が、泣き喚きながら少しずつ上がってきた。  「リベラコーパス!<身体自由>」 ハリーが呪文を叫び、グリップフックもろとも、膨れ上がる宝の表面に音を立てて落下した。剣がハリーの手を離れて飛んだ。  「剣を!」熱い金属が肌を焼く痛みと戦いながら、ハリーが叫んだ。 グリップフックは灼熱した宝の山を何が何でも避けようと、またハリーの肩によじ登った。 「剣はどこだ? カップが一緒なんだ!」 扉の向こうでは、ガチヤガチャ音が耳を劈くほどに大きくなっていた−−−もう遅すぎる。 「そこだ!」 見つけたのも飛びついたのも、グリップフックだった。 そのとたん、ハリーは、小鬼が、自分たちとの約束をまったく借用していなかったことを思い知った。グリップフックは、焼けた宝の海のうねりに飲み込まれまいと、片手でハリーの髪の毛をむんずとつかみ、もう一方の手に剣の柄をつかんで、ハリーに届かないよう高々と振り上げた。  剣先に取っ手が引っ掛かっていた小さな金のカップが、宙に舞った。 小鬼を肩車したまま、ハリーは飛びついてカップをつかんだ。カップがじりじりと肌を焼くのを感じながらも、ハリーはカップを離さなかった。 数えきれないハッフルパフのカップが、握った手の中から飛び出して、雨のように降りかかってきても離さなかった。 そのとき金庫の入口が開き、ハリーは、膨れ続けた、火のように熱い金銀の雪崩になす術もなく流されて、ロン、ハーマイオニーと一緒に金庫の外に押し出された。  体中を覆う火傷の痛みもほとんど意識せず、増え続ける宝のうねりに流されながら、ハリーはカップをポケットに押し込んで、剣を取り戻そうと手を伸ばした。 しかし、グリップフックはもういなかった。 頃合を見計らって、素早くハリーの肩から滑り降りたグリップフックは、周囲を取り囲む小鬼の中にまざれ込み、剣を振り回して叫んだ。  「泥棒! 泥棒!助けて! 泥棒だ!」  グリップフックは、攻め寄せる小鬼の群れの中に消えた。 手に手に短刀を振りかざした小鬼たちは、何の疑間もなくグリップフックを受け入れたのだ。  熱い金属に足を取られながら、ハリーは何とか立ち上がろうともがき、脱出するには囲みを破るほかはないと覚悟した。  「ステュービファイ!<麻痺せよ>」  ハリーの叫びに、ロンとハーマイオニーも続いた。 赤い閃光が小鬼の群れに向かって飛び、何人かがひっくり返ったが、ほかの小鬼が攻め寄せてきた。 その上、魔法使いの門番が数人、曲り角を走ってくるのが見えた。  つながれたドラゴンが抱え猛り、吐き出す炎が小鬼の頭上を飛び過ぎた。 魔法使いたちは身を屈めて逃げ出し、いま来た道を後退した。 そのとき、啓示か狂気か、ハリーの頭に突然閃くものがあった。 ドラゴンを岩盤に鎖でつないでいるがっしりした足柳に杖を向け、ハリーは叫んだ。  「レラシオ!<解放>」  足棚が爆音を上げて割れた。  「こっちだ!」 ハリーが叫んだ。 そして、攻め寄せる小鬼たちに「失神の呪文」を浴びせかけながら、ハリーは目の見えないドラゴンに向かって全速力で走った。  「ハリー−−−ハリー−−−何をするつもりなの?」 ハーマイオニーが叫んだ。  「乗るんだ、よじ登って、さあ−−−」  ドラゴンは、まだ自由になったことに気づいていなかった。 ハリーはドラゴンの後脚の曲がった部分を足がかりにして、背中によじ登った。 鱗が鋼鉄のように硬く、ハリーが乗ったことも感じていないようだった。 ハリーが伸ばした片腕にすがって、ハーマイオニーも登った。 そのあとをロンが登ってきた直後、ドラゴンはもうつながれていないことに気づいた。  ドラゴンは、一声吼えて後脚で立ち上がった。 ハリーはゴツゴツした鱗を力のかぎりしっか りつかみ、両膝をドラゴンの背に食い込ませた。 ドラゴンは両の翼を開き、悲鳴を上げる小鬼たちをボウリングのピンのようになぎ倒して、舞い上がった。 ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、トンネルの開口部方向に突っ込んでいくドラゴンの背中にぴったり張りついていた。 天井で体がこすれた。その上、追っ手の小鬼たちが投げる短剣が、ドラゴンの脇腹をかすめた。  「外には絶対出られないわ。ドラゴンが大きすぎるもの!」  ハーマイオニーが悲鳴を上げた。 しかしドラゴンは、開けた口から再び炎を吐いて、トンネルを吹き飛ばした。 床も天井も割れて砕けた。 ドラゴンは、力任せに鈎爪で引っ掻き、道を作るのに奮闘していた。 熟と埃の中で、ハリーは両目を固く閉じていた。 岩が砕ける音とドラゴンの咆哮は耳を聾するばかりで、ハリーは背中につかまっているのがやっとだった。 いまにも振り落とされるのではないかと思った。 そのとき、ハーマイオニーの叫ぶ声が聞こえた。  「ディフォディオ!<掘れ>」  ハーマイオニーは、ドラゴンがトンネルを広げるのを手伝っていた。 新鮮な空気を求め、小鬼の甲高い声と、鳴子の音から遠ざかろうと格掬しているドラゴンのために、天井を穿っていたのだ。 ハリーとロンもハーマイオニーに倣い、穴掘り呪文を連発して、天井を吹き飛ばした。 地下の湖を通り過ぎたあたりで、鼻息も荒く這い進むこの巨大な生き物は、行く手に自由と広い空間を感じ取った様子だった。 背後のトンネルは、ドラゴンが叩きつける棘のある尻尾と、叩き壊された瓦礫で埋まり、大きな岩の塊や、巨大な鍾乳石の残骸が累々と転がっていた。 後方の小鬼の鳴らすガチャガチャという音は、だんだんくぐもり、前方にはドラゴンの吐く炎で、着々と道が開けていた−−−。  呪文の力とドラゴンの怪力が重なり、三人はついに地下トンネルを吹き飛ばして抜け出し、大理石のホールに突入した。 小鬼も魔法使いも悲鳴を上げ、身を隠す場所を求めて逃げ惑った。 とうとう翼を広げられる空間を得たドラゴンは、入口の向こうに爽やかな空気を嗅ぎ分け、角の生えた顔をその方向に向けて飛び立った。 ハリー、ロン、ハーマイオニーを背中にしがみつかせたまま、ドラゴンは金属の扉を力ずくで突き破った。 捻じれて蝶番からだらりとぶら下がった扉を尻目に、よろめきながらダイアゴン横丁に進み出たドラゴンは、そこから高々と大空に舞い上がった。 27章:The Final Hiding Place/最後の隠し場所  舵を取る手段はなかった。 ドラゴン自身、どこに向かっているのか見えていなかった。 もし急に曲がったり空中で回転したりすれば、三人ともその広い背中にしがみついていることはできないと、ハリーにはわかっていた。 にもかかわらず、どんどん高く舞い上がり、ロンドンが灰色と線の地図のように眼下に広がるにつれ、ハリーは、不可能と思われた脱出ができたことへの感謝の気持のほうが圧倒的に強いことを感じていた。 ドラゴンの首に低く身を伏せ、金属的な鱗にしっかりしがみついていると、ドラゴンの翼が風車の羽根のように送る冷たい風が、火傷で火脹れになった肌に心地よかった。 後ろでは、うれしいからか恐ろしいからか、ロンが声を張り上げて悪態をつき、ハーマイオニーは啜り泣いているようだった。  五分も経つと、ドラゴンが三人を振り落とすのではないかという緊迫した恐れを、ハリーは少し忘れることができた。 ドラゴンが、地下の牢獄からなるべく遠くに離れることだけを思いつめているようだったからだ。 しかし、いつ、どうやって降りるかという問題を考えると、やはりかなり恐ろしかった。 ハリーは、ドラゴンという生き物が休まずにどのくらい飛び続けられるのか知らなかったし、このほとんど目の見えないドラゴンが、どうやってよい着陸地点を見つけるのか、まったくわからなかった。 ハリーはひっきりなしにあたりに目を配った。額の傷痕が疼くような気がしたからだ……。  ハリーたちがレストレンジの金庫を破ったことが、ヴォルデモートの知るところとなるまでにどのくらいかかるだろう?  グリンゴッツの小鬼たちは、どのくらい急いでベラトリックスに報せるだろう?  どのくらい経ってから、盗まれた品物が何なのかに気がつくだろう?  そして、金のカップがなくなっていると知れば、ヴォルデモートはついに気づくだろう。 ハリーたちが分霊箱を探し求めていることに……。  ドラゴンは、より冷たく新鮮な空気に飢えているようだった。 どこまでも高く上がり、とうとういまは、冷たい薄雲が漂う中を飛んでいた。 それまで、色のついた小さな点のように見えていたロンドンに出入りする車も、もう見えなくなった。 ドラゴンは飛び続けた。緑と茶色の区画に分けられた田園の上を、景色を縫って蛇行する艶消しのリボンのような道や光る川の上を、どこまでも飛んだ。  「こいつは何を探してるんだ?」北へ北へと飛びながら、ロンが後ろから叫んだ。  「わからないよ」 ハリーが叫び返した。  冷たくて手の感覚がなくなっていたが、かといって握り直すことなど怖くてとてもできない。 ハリーはこの間、眼下に海岸線が通り過ぎるのが見えたらどうしようと考えていた。 もしドラゴンが広い海に向かっていたらどうなるのだろう。 ハリーは寒さにかじかんでいた。そればかりか、死ぬほど空腹で喉も渇いていた。 このドラゴンが最後に餌を食ったのはいつだろう?  きっとそのうちに、食料補給が必要になるのではないだろうか?  そして、もしそのとき、三人のちょうど食べごろの人間が背中に乗っていることに気づいたら?  太陽が傾き、空は藍色に変わったが、ドラゴンはまだ飛び続けていた。 大小の街が矢のように通り過ぎ、ドラゴンの巨大な影が、大きな黒雲のように地上を滑っていった。 ドラゴンの背に必死にしがみついているだけで、ハリーは体中のあちらこちらが痛んだ。  「僕の錯覚かなあ?」長い無言の時間が過ぎ、やがてロンが叫んだ。 「それとも、高度が下がっているのかなぁ?」  ハリーが下を見ると、日没の光で赤銅色に染まった深い線の山々と湖がいくつか見えた。 ドラゴンの脇腹から目を細めて確かめているうちにも、見る見る景色は大きくなり、細部が見えてきた。 ハリーは、ドラゴンが、陽の光の反射で淡水の存在を感じ取ったのではないかと思った。  ドラゴンは次第に低く飛び、大きく輪を描きながら、小さめの湖の一つに的を放り込んでいるようだった。  「十分低くなったら、いいか、飛び込め!」 ハリーが後ろに呼びかけた。 「ドラゴンが僕たちの存在に気づく前に、まっすぐ湖に!」  二人は了解したが、ハーマイオニーの返事は少し弱々しかった。 そのときハリーには、ドラゴンの広い黄色い腹が湖の面に映って、小さく波打っているのが見えた。  「いまだ!」  ハリーはドラゴンの脇腹をズルズル滑り降りて、潮の表面目がけて足から飛び込んだ。 落差は思ったより大きく、ハリーはしたたか水を打って、葦に覆われた凍りつくような緑色の水の世界に石が落下するように突っ込んだ。 水面に向かって水を蹴り、喘ぎながら顔を出して見回すと、ロンとハーマイオニーが落ちたあたりに、大きな波紋が広がっているのが見えた。 ドラゴンは何も気づかなかったようだ。 すでに十四、五メートルほど先をスーツと低空飛行し、傷ついた鼻面で水をすくっていた。 ロンとハーマイオニーの顔がようやく水面に現れ、ゼィゼィ喘ぎながら水を吐き出しているうちに、ドラゴンは翼を強く羽ばたかせてさらに飛び、ついには遠くの湖岸に着陸した。  ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、ドラゴンとは反対側の岸を目指して泳いだ。 湖はそう深くはないように見えたが、そのうち、泳ぐというより、むしろ葦と泥を掻き分けて進むことになってしまった。 やっと岸に着いたときには、三人とも水を滴らせ、息を切らしながら疲労困催して、つるつる滑る草の上にばったり倒れた。  ハーマイオニーは咳き込み、虚脱状態で震えていた。 ハリーもそのまま横になって眠れたらどんなに幸せかと思ったが、ハーマイオニーの為に、よろよろと立ち上がって杖を抜き、いつもの保護呪文を周囲に張り巡らしはじめた。  それが終わって二人のそばに戻ったハリーは、金庫から脱出して初めて、二人をまともに見た。 二人とも、顔と腕中を火傷で赤く掛れ上がらせ、着ている物もところどころ焼け焦げて、痛さに顔をしかめて身を振りながら、火傷にハナハッカのエキスを塗っていた。 ハーマイオニーはハリーに薬瓶を渡し、「月殻の家」から持ってきたかぼちゃジュース三本と、乾いた清潔なロープを三人分取り出した。 着替えをすませた三人は、一気にジュースを飲んだ。  「まあ、いいほうに考えれば−−−」  座り込んで両手の皮が再生するのを見ながら、ロンがようやく口を開いた。  「分霊箱を手に入れた。悪いほうに考えれば−−−」  「−−−剣がない」  ジーンズの焼け焦げ穴からハナハッカを垂らして、その下のひどい火脹れに薬をつけていたハリーが、歯を食いしばりながら言った。  「剣がない」 ロンが繰り返した。「あのチビの裏切り者の下衆野郎……」  ハリーはいま脱いだばかりの滞れた上着のポケットから分霊箱を引っ張り出し、目の前の草の上に置いた。 カップは燦然と陽に輝き、ジュースをぐい飲みする三人の目を引いた。  「少なくともこれは、身につけられないな。首に掛けたら少し変だろう」 ロンが手の甲で口を拭いながら言った。  ハーマイオニーは、ドラゴンがまだ水を飲んでいる遠くの岸を眺めていた。  「あのドラゴン、どうなるのかしら?」 ハーマイオニーが聞いた。 「大丈夫かしら?」  「君、まるでハグリッドみたいだな」 ロンが言った。 「あいつはドラゴンだよ、ハーマイオニー。ちゃんと自分の面倒を見るさ。心配しなけりやならないのは、むしろこっちだぜ」 「どういう事?」  「えーと、この悲報を、どう君に伝えればいいのかなあ」 ロンが言った。 「あのさ、あいつらは、もしかしたら、僕たちがグリンゴッツ破りをしたことに気づいたかもしれないぜ」  三人とも笑い出した。いったん笑いはじめると、止まらなかった。 ハリーは笑いすぎて肋骨が痛くなり、空腹で頭がふらふらしたが、草に寝転び夕焼けの空を見上げて、喉がかれるまで笑い続けた。  「でも、どうするつもり?」  ハーマイオニーはヒクヒク言いながら、やっと笑いやんで真顔になった。  「わかってしまうでしょうね?『例のあの人』に、私たちが分霊箱のことを知っていることが!」  「もしかしたら、やつらは怖くてあの人に言えないんじゃないか?」 ロンが望みをかけた。 「もしかしたら、隠そうとするかも−−−」  そのとき、空も湖の水の匂いも、ロンの声も掻き消え、ハリーは頭を刀で割かれたような痛みを感じた。  ハリーは薄明かりの部屋に立っていた。 目の前に魔法使いが半円状に並び、足元の床には小さな姿が震えながらひざまずいている。  「俺様に何と言った?」甲高く冷たい声が言った。頭の中は怒りと恐れで燃え上がっていた。 このことだけを恐れていた−−−しかし、まさかそんなことが。どうしてそんなことが……。  小鬼は、ずっと高みから見下ろしている赤い眼を見ることができず、震え上がっていた。  「もう一度言え!」ヴォルデモートが呟くように言った。 「もう一度言ってみろ!」  「わ−−−わが君」小鬼は恐怖で黒い目を見開き、つかえながら言った。 「わ−−−わが君……我々は、ど−−−努力いたしました。あ−−−あいつらを、と−−−止めるために……に−−−偽者が、わが君……破りました−−−金庫をや−−−破って−−−レストレンジ家のき−−−金庫に……」  「偽者? どんな偽者だ? グリンゴッツは常に、偽者を見破る方法を待っていると思ったが? 偽者は誰だ?」 「それは……それは……あのポ−−−ポッターのや−−−やつと、あと、ふ−−−二人の仲間で……」 「それで、やつらが盗んだ物は?」 ヴォルデモートは声を荒らげた。恐怖がヴォルデモートを締めつけた。 「言え! やつらは何を盗んだ?」 「ち……小さな−−−金のカ−−−カップです。わ−−−わが君……」  怒りの叫び、否定の叫びが、ヴォルデモートの口から他人の声のように漏れた。 ヴォルデモートは逆上し、荒れ狂った。 そんなはずはない。不可能だ。知る者は誰もいなかった。どうしてあの小僧が、俺様の秘密を知ることができたのだ? ニワトコの杖が空を切り、緑色の閃光が部屋中に走った。 ひざまずいていた小鬼が、転がって絶命した。 周りで見ていた魔法使いたちは、怯えきって飛び退き、ベラトリックスとルシウス・マルフォイは、ほかの者を押し退けて、真っ先に扉へと走った。 ヴォルデモートの杖が、何度も何度も振り下ろされ、逃げ遅れた者は、一人残らず殺された。 こんな報せを俺様にもたらし、金のカップのことを聞いてしまったからには−−−。  屍の間を、ヴォルデモートは荒々しく往ったり来たりした。 頭の中に、次々に浮かんでくるイメージ。 自分の宝、自分の守り、不死の碇−−−日記帳は破壊され、カップは盗まれた。 もしも、もしもあの小僧が、ほかの物も知っているとしたなら? 知っているのだろうか?  すでに行動に移したのか? ほかの物も探し出したのか?  ダンブルドアがやつの陰にいるのか? 俺様をずっと疑っていたダンブルドア、俺様の命令で死んだダンブルドア、いまやその杖は俺様のものとなったというのに、ダンブルドアは恥ずべき死の向こうから手を伸ばし、あの小僧を通して、あの小僧め−−−。  しかし、もしあの小僧が分霊箱のどれかを破壊してしまったのなら、間違いなく、このヴォルデモート卿にはわかったはずだ。 感じたはずではないか? 最も偉大なる魔法使いの俺様が、最も強大な俺様が、ダンブルドアを亡き者にし、ほかの名もない虫けらどもを数えきれないほど始末してくれたこの俺様が−−−そのヴォルデモート卿が、いちばん大切で尊い俺様自身が襲われ傷つけられるのに、気づかぬはずがないではないか?  たしかに、日記帳が破壊されたときには感じなかった。 しかしあれは、感じるべき肉体を持たず、ゴースト以下の存在だったからだ……いや、間違いない。 ほかの物は安全だ……ほかの分霊箱は手つかずだ……。  しかし、知っておかねばならぬ、確かめねば……。ヴォルデモートは部屋を往き来しながら、小鬼の死体を蹴飛ばした。 煮えくり返った頭に、ぼんやりとしたイメージが燃え上がった。湖、小屋、そしてホグワーツ……。  わずかの冷静さが、いま、ヴォルデモートの怒りを鎮めていた。 あの小僧が、ゴーントの小屋に指輪が隠してあると知るはずがあろうか? 自分がゴーントの血筋であると知る者は、誰もいない。 そのつながりは隠し通してきた。 あの当時の殺人についても、この俺様が突き止められることはなかった。 あの指輪は、間違いなく安全だ。  それに、あの小僧だろうが誰だろうが、洞窟のことを知ることも、守りを破ることもできはすまい?  ロケットが盗まれると考えるのは、愚の骨頂だ……。  学枚はどうだ。分霊箱をホグワーツのどこに隠したかを知る者は、俺様ただ一人だ。 自分だけがあの場所の、最も深い秘密を見抜いたのだから……。  それに、まだナギニがいる。これからは、身近に置かねばなるまい。 もう俺様の命令を実行させるのはやめ、俺様の庇護の下に置くのだ……。 しかし、確認のために、万全を期すために、それぞれの隠し場所に戻らねばならぬ。 分霊箱の守りをさらに強化せねばなるまい……ニワトコの杖を求めた時と同様、この仕事は俺様一人でやらねほならぬ……。  どこを最初に訪ねるべきか? 最も危険なのはどれだ?  昔の不安感が脳裏をかすめた。 ダンプルドアは、俺様の二番目の姓を知っている……ダンブルドアがゴーントとの関係に気づいたかもしれぬ……隠し場所として、あの廃屋は、たぶんいちばん危ない。 最初に行くべきは、あそこだ……。  湖、絶対に不可能だ……もっとも、ダンブルドアが、孤児院を通じて、自分の過去の悪戯をいくつか知った可能性が、わずかにはあるが。  それに、ホグワーツ……しかし、あそこの分霊箱は安全だとわかりきっている。ポッターが網にかからずしてホグズミードに入ることは不可能だし、ましてや学校はなおさらだ。 万が一のために、スネイプに、小僧が城に潜入しようとするやもしれぬ、と警告しておくのが賢明かもしれぬ……小僧が戻ってくる理由をスネイプに話すのは、むろん愚かしいことだ。 ベラトリックスやマルフォイのやつらを信用したのは、重大な過ちだった。 あいつらのバカさ加減と軽率さを見ればわかる。 そもそも信用するなぞということ自体、いかに愚かしいことかを証明しているではないか?  まずは、ゴーントの小屋を訪ねるのだ。ナギニも連れていく。 もはやこの蛇とは離れるべきではない……そしてヴォルデモートは荒々しく部屋を出て玄関ホールを通り抜け、噴水が水音を立てて落ちる暗い庭に出た。 ヴォルデモートが蛇語で呼ぶ声に応えて、ナギニが長い影のようにスルスルと傍らに寄ってきた……。  ハリーは、自分を現実に引き戻し、ぱっと目を開けた。陽が沈みかけ、ハリーは湖のほとりに横たわっていた。 ロンとハーマイオニーが、ハリーを見下ろしている。 二人の心配そうな表情や、傷痕がズキズキ痛み続けていることから考えると、突然ヴォルデモートの心の中に旅をしていたことが、二人に気づかれてしまったらしい。 ハリーは、肌がまだ濡れているのに漠然と驚き、震えながらなんとか体を起こした。 目の前の草の上には、何も知らぬげに金のカップが転がり、深い青色の湖は、沈む太陽の金色に彩られていた。  「『あの人』は知っている」  ヴォルデモートの甲高い叫びのあとでは、自分の声の低さが不思議だった。  「あいつは知っているんだ。そして、ほかの分霊箱を確かめにいく。それで、最後の一個は」  ハリーはもう立ち上がっていた。  「ホグワーツにある。そうだと思っていた。そうだと思っていたんだ」  「えっ?」  ロンはポカンとしてハリーを見つめ、ハーマイオニーは膝立ちで心配そうな顔をしていた。  「何を見たの? なぜ、それがわかったの?」 「あいつがカップの事を聞かされる様子を観た。僕は−−−僕はあいつの頭の中にいて、あいつは−−−」  ハリーは殺教の場面を思い出した。 「あいつは本気で怒っていた。それに、恐れていた。どうして僕たちが知ったのかを、あいつは理解できない。それで、これからほかの分霊箱が安全かどうか、調べにいくんだ。最初は指輪。あいつは、ホグワーツにある品がいちばん安全だと思っている。スネイプがあそこにいるし、見つからずに入り込むことがとても難しいだろうから。あいつはその分霊箱を最後に調べると思う。それでも、数時間のうちにはそこに行くだろう−−−」  「ホグワーツのどこにあるか、見たか?」 ロンもいまや急いで立ち上がりながら、聞いた。  「いや。スネイプに警告するほうに意識を集中していて、正確にどこにあるかは思い浮かべていなかった−−−」  「待って、待ってよ!」  ロンが分霊箱を取り上げ、ハリーがまた「透明マント」を引っ張り出すと、ハーマイオニーが叫んだ。  「ただ行くだけじゃだめよ。何の計画もないじゃないの。私たちに必要なのは−−−」  「僕たちに必要なのは、進むことだ」 ハリーがきっぱりと言った。 ハリーは眠りたかった。新しいテントに入るのを楽しみにしていた。しかしもうそれはできない。  「指輪とロケットがなくなっていることに気づいたら、あいつが何をするか想像できるか?ホグワーツの分霊箱はもう安全ではないと考えて、どこかに動かしてしまったらどうなる?」  「だけど、どうやって入り込むつもり?」  「ホグズミードに行こう」 ハリーが言った。「そして、学校の周囲の防衛がどんなものかを見 てから、何とか策を考える。ハーマイオニー、『透明マント』に入って。こんどはみんな一緒 に行きたいんだ」  「でも、入りきらないし−−−」  「暗くなるよ。誰も、足なんかに気づきやしない」  暗い水面に翼の音が大きく響いた。 心行くまで水を飲んだドラゴンが、空に舞い上がったのだ。 三人は支度の手を止め、ドラゴンがだんだん高く舞い上がっていくのを眺めた。 急速に暗くなる空を背景に飛ぶ黒い影のようなドラゴンが、近くの山の向こうに消えるまで、三人はその姿を見送っていた。 それからハーマイオニーが進み出て、二人の真ん中に立った。 ハリーはできるかぎり下までマントを引っ張り、それから三人一緒にその場で回転して、押しつぶされるような暗闇へと入っていった。 28章:The Missing Mirror/鏡のかたわれ  ハリーの足が道路に触れた。胸が痛くなるほど懐かしいホグズミードの大通りが目に入った。 暗い店先、村の向こうには山々の黒い稜線、道の先に見えるホグワーツへの曲り角、「三本の箒」 の窓から漏れる明かり。 そして、ほぼ一年前、絶望的に弱っていたダンブルドアを支えてここに降り立ったときのことが細部まで鮮明に思い出されて、ハリーは心が揺すぶられた。 降り立った瞬間、そうしたすべての想いが一度に押し寄せた−−−しかしそのとき−−−ロンとハーマイオニーの腕をつかんでいた手を緩めた、まさにそのときに事は起こった。  ギャーッという叫び声が空気を切り裂いた。 カップを盗まれたと知ったときの、ヴォルデモートの叫びのような声だった。 ハリーは、神経という神経を逆撫でされるように感じた。 三人が現れたことが引き金になったのだと、ハリーにはすぐにわかった。 マントに隠れたほかの二人を振り返る間に、「三本の箒」 の入口が勢いよく開き、フードを被ったマント姿の死喰い人が十数人、杖を構えて道路に躍り出た。  杖を上げるロンの手首を、ハリーが押さえた。失神させるには相手が多すぎる。 呪文を発するだけで、敵に居所を教えてしまうだろう。 死喰い人の一人が杖を振ると、叫び声はやんだが、まだ遠くの山々にこだまし続けていた。  「アクシオ!透明マントよ、来い!」死喰い人が大声で唱えた。  ハリーはマントの襞をしっかりつかんだが、マントは動く気配さえない。 「呼び寄せ呪文」は、「透明マント」には効かなかった。  「被り物はなしということか、え、ポッター?」  呪文をかけた死喰い人が叫んだ。それから仲間に指令を出した。  「散れ、やつはここにいる」  死喰い人が六人、ハリーたちに向かって走ってきた。 ハリー、ロン、ハーマイオニーは、急いで後退りし、近くの脇道に入ったが、死喰い人たちは、そこからあと十数センチというところを通り過ぎていった。 三人が暗闇に身を潜めてじっとしていると、死喰い人の走り回る足音が聞こえ、捜索の杖灯りが通りを飛び交うのが見えた。  「このまま逃げましょう!」 ハーマイオニーが囁いた。 「すぐに『姿くらまし』しましょう!」  「そうしよう」 ロンが言った。  しかしハリーが答える前に、一人の死喰い人が叫んだ。  「ここにいるのはわかっているぞ、ポッター。逃げることはできない。おまえを見つけ出してやる!」  「待ち伏せされていた」 ハリーが囁いた。 「僕たちが来ればわかるように、あの呪文が仕掛けてあったんだ。僕たちを足止めするためにも、何か手が打ってあると思う。袋のねずみに−−−」  「『吸魂鬼』はどうだ?」別の死喰い人が叫んだ。 「やつらの好きにさせろ。やつらなら、ポッターをたちまち見つける!」  「闇の帝王は、ほかの誰でもなく、ご自身の手でポッターを始末なさりたいのだ−−−」  「−−−吸魂鬼はやつを殺しはしない! 闇の帝王がお望みなのはポッターの命だ。魂ではない。まず吸魂鬼にキスさせておけば、ますます殺しやすいだろう!」  口々に賛成する声が聞こえた。ハリーは恐怖に駆られた。吸魂鬼を追い払うためには守護霊を創り出さなければならず、そうすればたちまち三人の居場所がわかってしまう。  「とにかく『姿くらまし』してみましょう、ハリー!」 ハーマイオニーが囁いた。  その言葉が終わらないうちに、ハリーは不自然な冷気が通りに忍び込むのを感じた。 周りの明かりは吸い取られ、星までもが消えた。 真っ暗闇の中で、ハーマイオニーが自分の手を取るのを感じた。三人はその場で回転した。  通り抜けるべき空間の空気が、固まってしまったかのようだった。 「姿くらまし」はできなかった。 死喰い人のかけた呪文は、見事に効いていた。 冷たさがハリーの肉に、次第に深く食い込んできた。 ハリーたち三人は、手探りで壁を伝いながら、音を立てないように脇道を奥へ奥へと入り込んだ。 すると脇道の入口から、音もなく滑りながらやってくる吸魂鬼が見えた。 十体、いやもっとたくさんいる。 周りの暗闇よりも、さらに濃い黒でそれとわかる吸魂鬼は、黒いマントを被り、瘡蓋に覆われた腐った手を見せていた。 周辺に恐怖感があると、それを感じ取るのだろうか? ハリーはきっとそうだと思った。さっきより速度を上げて近づいてくるようだ。 ハリーの大嫌いな、あのガラガラという息を長々と吸い込み、あたりを覆う絶望感を味わいながら、吸魂鬼が迫ってくる−−−。  ハリーは杖を上げた。あとはどうなろうとも、吸魂鬼のキスだけは受けられない、受けるものか。 ハリーが小声で呪文を唱えたときに思い浮かべていたのは、ハーマイオニーのことだけだった。  「エクスペクト・パトローナム!<守護霊よ、来たれ>」  銀色の牡鹿が、ハリーの杖から飛び出して突撃した。 吸魂鬼は蹴散らされたが、どこか見えないところから勝ち誇った叫び声が聞こえてきた。  「やつだ。あそこだ、あそこだ。あいつの守護霊を見たぞ。牡鹿だ!」  吸魂鬼は後退し、星が再び瞬きはじめた。死喰い人たちの足音がだんだん大きくなってきた。 恐怖と衝撃で、ハリーがどうすべきか決めかねていると、近くで門を外す音がして狭い脇道の左手の扉が開き、ガサガサした声が言った。  「ポッター、こっちへ、早く!」  ハリーは迷わず従った。三人は開いた扉から中に飛び込んだ。 「二階に行け。『マント』は被ったまま。静かにしていろ!」  背の高い誰かが、そう呟きながら三人の脇を通り抜けて外に出ていき、背後で扉をバタンと閉めた。  ハリーにはどこなのかまったくわからなかったが、明滅する一本の蝋燭の明かりであらためて見ると、そこは、おが屑の撒き散らされた汚らしい 「ホッグズ・ヘッド」 のバーだった。 三人はカウンターの後ろに駆け込み、もう一つ別の扉を通って、ぐらぐらした木の階段を急いで上がった。 階段の先は、すり切れたカーペットの敷かれた居間で、小さな暖炉があり、その上にブロンドの少女の大きな油絵が一枚掛かっていた。 少女はどこか虚ろな優しい表情で、部屋を見つめている。  下の通りで喚く声が聞こえてきた。 「透明マント」を被ったまま、三人は、埃でべっとり汚れた窓に忍び寄り、下を見た。 救い主は−−−ハリーにはもう、「ホッグズ・ヘッド」のバーテンだとわかっていたが−−−ただ一人だけフードを被っていない。  「それがどうした?」  バーテンは、フード姿の一人に向かって大声を上げていた。  「それがどうしたって言うんだ? おまえたちが俺の店の通りに吸魂鬼を送り込んだから、俺は守護霊をけしかけたんだ!あいつらにこの周りをうろつかれるのはごめんだ、そう言ったはずだぞ。あいつらはお断りだ!」 「あれは貴様の守護霊じゃなかった!」 死喰い人の一人が言った。 「牡鹿だった。あれはポッターのだ!」  「牡鹿!」バーテンは怒鳴り返して杖を取り出した。 「牡鹿?このバカ−−−エクスペクト・パトローナム!<守護霊よ、来たれ>」  杖から何か大きくて角のあるものが飛び出し、頭を低くしてハイストリート大通りに突っ込み、姿が見えなくなった。  「俺が見たのはあれじゃない−−−」  そう言いながらも、死喰い人は少し自信をなくした口調だった。  「夜間外出禁止令が破られた。あの音を間いたろう」仲間の死喰い人がバーテンに言った。 「誰かが規則を破って通りに出たんだ−−−」  「猫を外に出したいときには、俺は出す。外出禁止なんてクソ食らえだ!」  「『夜鳴き呪文』を鳴らしたのは、貴様か?」  「鳴らしたがどうした? 無理やりアズカバンに引っ張っていくか?自分の店の前に顔を突き出した各で、俺を殺すのか? やりたきゃやれ?だがな、おまえたちのために言うが、けちな闇の印を押して、『あの人』を呼んだりしてないだろうな。呼ばれて来てみれば、俺と年寄り猫一匹じゃ、お気に召さんだろうよ。さあ、どうだ?」  「よけいなお世話だ」死喰い人の一人が言った。「貴様自身のことを心配しろ。夜間外出禁止令を破りやがって!」  「それじゃぁ、俺のパブが閉鎖になりや、おまえたちの薬や毒薬の取引はどこでする気だ? おまえたちの小遣い稼ぎはどうなるかねぇ?」  「脅す気か−−−?」  「俺は口が固い。だから、おまえたちはここに来るんだろうが?」  「俺は間違いなく牡鹿の守護霊を見た!」最初の死喰い人が叫んだ。  「牡鹿だと?」バーテンが扱え返した。 「山羊だ、バ力め!」  「まあ、いいだろう。俺たちの間違いだ」二人目の死喰い人が言った。 「こんど外出禁止令を破ってみろ、この次はそう甘くはないぞ!」  死喰い人たちは鼻息も荒く、大通りへ戻っていった。 ハーマイオニーは、ほっとして呻き声を上げ、ふらふらと「マント」から出て、脚のがたついた椅子にドサリと腰掛けた。 ハリーはカーテンをきっちり閉めてから、ロンと二人で被っていた「マント」を脱いだ。 階下でバーテンが入口の円を閉め直し、階段を上がってくる音が聞こえた。  ハリーは、マントルピースの上にある何かに気を取られた。 少女の絵の真下に、小さな長方形の鏡が立てかけてある。  バーテンが部屋に入ってきた。  「とんでもないバカ者どもだ」 三人を交互に見ながら、バーテンがぶっきらぼうに言った。 「のこのこやって来るとは、どういう了見だ?」  「ありがとうございました」 ハリーが言った。 「お礼の申し上げようもありません。命を助けてくださって」  バーテンは、フンと鼻を鳴らした。 ハリーはバーテンに近づき、針金色のパサついた長髪と額に隠れた顔を見分けるように、じっと覗き込んだ。 バーテンはメガネを掛けていた。汚れたレンズの奥に、人を見通すような明るいブルーの目があった。  「僕がいままで鏡の中に見ていたのは、あなたの目だった」  部屋の中がしんとなった。ハリーとバーテンは見つめ合った。  「あなたがドビーを遣わしてくれたんだ」  バーテンは頷き、妖精を探すようにあたりを見た。  「あいつが一緒だろうと思ったんだが。どこに置いてきた?」  「ドビーは死にました」 ハリーが言った。 「ベラトリックス・レストレンジに殺されました」  バーテンは無表情だった。しばらくしてバーテンが言った。  「それは残念だ。あの妖精が気に入っていたのに」  バーテンは三人に背を向け、誰の顔も見ずに、杖で小突いてランプに灯を点した。  「あなたはアバーフォースですね」 ハリーがその背中に向かって言った。  バーテンは肯定も否定もせずに、屈んで暖炉に火を点けた。  「これを、どうやって手に入れたのですか?」  ハリーは、シリウスの 「両面鏡」に近づきながら聞いた。 ほぼ二年前にハリーが壊した鏡と、対をなす鏡だった。  「ダングから買った。一年ほど前だ」 アバーフォースが言った。 「アルバスから、これがどういうものかを聞いていたんだ。ときどき君の様子を見るようにしてきた」  ロンが息を呑んだ。  「銀色の牝鹿!」 ロンが興奮して叫んだ。 「あれもあなただったのですか?」  「いったい何のことだ?」 アバーフォースが言った。  「誰かが、牝鹿の守護霊を僕たちに送ってくれた!」  「それだけの脳みそがあれば、フン、死喰い人になれるかもしれんな。たったいま、俺の守護霊は山羊だと証明してみせただろうが?」  「あっ」 ロンが言った。 「そうか……あのさ、僕、腹ペコだ!」  ロンは、胃袋がグーッと大きな音を立てたのを弁解するように、つけ加えた。 ハーマイオニーはロンをチラリと見て溜息をついた。  「食い物はある」 アバーフォースはすっと部屋を抜け出し、大きなパンの塊とチーズ、蜂蜜酒の入った錫製の水差しを手にほどなく戻ってきて、暖炉前の小さなテーブルに食べ物を置いた。 三人は貪るように飲み、かつ食べた。 しばらくは、暖炉の火が掛ぜる音とゴブレットの触れ合う音や物を噛む音以外は、何の音もしなかった。  「さて、それじゃぁ−−−」  三人がたらふく食い、ハリーとロンが、眠たそうに椅子に座り込むと、アバーフォースが言った。 「君たちをここから出す手立てを考えないといかんな。夜はダメだ。暗くなってから外に出たらどうなるか、聞いていただろう。『夜鳴き呪文』が発動して、連中は、ドクシーの卵に飛びかかるポウトラックルのように襲ってくるだろう。牡鹿を山羊と言いくるめるのも、二度目はうまくいくとは思えん。明け方まで待て。夜間外出禁止令が解けるから、そのときにまた『マント』を被って、歩いて出発しろ。まっすぐホグズミードを出て、山に行け。そこからなら『姿くらまし』できるだろう。ハグリッドに会うかもしれん。あいつらに捕まりそうになって以来、グロウプと一緒にあそこの洞穴に隠れている」  「僕たちは逃げません」 ハリーが言った。 「ホグワーツに行かなければならないんです」  「ばかを言うんじゃない」 アバーフォースが言った。  「そうしなければならないんです」  「君がしなければならんのは」 アバーフォースは身を乗り出して言った。 「ここから、できるだけ遠ざかることだ」  「あなたにはわからないことです。あまり時間がない。僕たちは、城に入らないといけないんだ。ダンブルドアが−−−−−−−あの、あなたのお兄さんが−−−僕たちにそうしてほしいと−−−」  暖炉の火が、アバーフォースのメガネの汚れたレンズを、一瞬曇らせ、明るい白一色にした。 ハリーは巨大蜘味のアラゴグの盲いた目を思い出した。  「兄のアルバスは、いろんなことを望んだ」 アバーフォースが言った。 「そして、兄が偉大な計画を実行しているときには、決まってほかの人間が傷ついたものだ。ポッター、学校から離れるんだ。できれば国外に行け。俺の兄の、賢い計画なんぞ忘れっちまえ。兄はどうせ、こっちのことでは傷つかないところに行ってしまったし、君は兄に対して何の借りもない」  「あなたには、わからないことです」 ハリーはもう一度言った。  「わからない?」 アバーフォースは静かに言った。 「俺が、自分の兄のことを理解していないと思うのかね? 俺よりも君のほうが、アルバスのことをよく知っているとでも?」  「そういう意味ではありません」  ハリーが言った。疲労と、食べすぎ飲みすぎで、頭が働かなくなっていた。 「つまり……ダンブルドアは僕に仕事を遺しました」  「へえ、そうかね?」 アバーフォースが言った。 「いい仕事だといいが? 楽しい仕事か?簡単か? 半人前の魔法使いの小僧が、あまり無理せずにできるような仕事だろうな?」  ロンはかなり不愉快そうに笑い、ハーマイオニーは緊張した面持ちだった。  「僕は−−−いいえ、簡単な仕事ではありません」 ハリーが言った。 「でも、僕には義務が−−−」  「『義務』? どうして『義務』なんだ? 兄見は死んでいる。そうだろうが?」  アバーフォースが荒々しく言った。 「忘れるんだ。いいか、兄と同じところに行っちまう前に! 自分を救うんだ!」  「できません」  「なぜだ?」 「僕−−−」  ハリーは胸が一杯になった。説明できない。代わりにハリーは反撃した。 「でも、あなたも戦っている。あなたも『騎士団』のメンバーだ−−−」  「だった」 アバーフォースが言った。 「『不死鳥の騎士団』はもうおしまいだ。『例のあの人』の勝ちだ。もう終わった。そうじゃないとぬかすやつは、自分を騙している。ポッター、ここは君にとって決して安全ではない。『例のあの人』は、執拗に君を求めている。国外に逃げろ。隠れろ。自分を大切にするんだ。この二人も一緒に連れていくほうがいい」  アバーフォースは親指をぐいと突き出して、ロンとハーマイオニーを指した。  「この二人が君と一緒に行動していることは、もう誰もが知っている。だから、生きているかぎり二人とも危険だ」  「僕は行けない」 ハリーが言った。 「僕には仕事がある−−−」  「誰かほかの人間に任せろ!」  「できません。僕でなければならない。ダンブルドアがすべて説明してくれた−−−」  「ほう、そうかね? それで、何もかも話してくれたかね? 君に対して正直だったかね?」  ハリーは心底「そうだ」と言いたかった。しかし、なぜかその簡単な言葉が口を突いて出てこなかった。 アバーフォースは、ハリーが何を考えているかを知っているようだった。  「ポッター、俺は兄を知っている。秘密主義を母親の膝で覚えたのだ。秘密と嘘をな。俺たちはそうやって育った。そしてアルバスには……天性のものがあった」  老人の視線が、マントルピースの上に掛かっている少女の絵に移った。 ハリーがあらためてよく見回してみると、部屋にはその絵しかない。 アルバス・ダンブルドアの写真もなければ、ほかの誰の写真もない。  「ダンブルドアさん?」 ハーマイオニーが遠慮がちに聞いた。 「あれは妹さんですか? アリアナ?」  「そうだ」 アバーフォースは素っ気なく答えた。 「娘さん、リータ・スキーターを読んでるのか?」  暖炉のバラ色の明かりの中でもはっきり見分けられるほど、ハーマイオニーは真っ赤になった。  「エルファイアス・ドージが、妹さんのことを話してくれました」  ハリーはハーマイオニーに助け舟を出した。  「あのしょうもないばかが……」  アバーフォースはプツブツ言いながら、蜂蜜酒をまたぐいとあおった。  「俺の兄の、毛穴という毛穴から太陽が輝くと思っていたやつだ。まったく。まあ、そう思っていた連中はたくさんいる。どうやら、君たちもその類のようだが」  ハリーは黙っていた。ここ何カ月もの間、自分を迷わせてきたダンブルドアに対する疑いや確信のなさを、口にしたくはなかった。 ドビーの墓穴を掘りながら、ハリーは選び取ったのだ。 アルバス・ダンブルドアがハリーに示した、曲がりくねった危険な道をたどり続けると決心し、自分の知りたかったことのすべてを話してもらってはいないということも受け入れ、ただひたすら信じることに決めたのだ。 再び疑いたくはなかった。目的から自分を逸らそうとするものには、いっさい耳を傾けたくなかった。 ハリーは、アバーフォースの目を見つめ返した。驚くほどその兄の眼差しに似ていた。 明るいブルーの目は、やはり、相手を]腺で透視しているような印象を与えた。 ハリーは、アバーフォースが自分の考えを見通し、そういう考え方をするハリーを軽蔑していると思った。  「ダンブルドア先生は、ハリーのことをとても気にかけていました」  ハーマイオニーがそっと言った。  「へえ、そうかね?」 アバーフォースが言った。 「おかしなことに、兄がとても気にかけた相手の多くは、結局、むしろ放っておかれたほうがよかった、と思われる状態になった」  「どういうことでしょう?」 ハーマイオニーが小さな声で聞いた。  「気にするな」 アバーフォースが言った。  「でも、いまおっしゃったことは、とても深刻なことだわ?」 ハーマイオニーが言った。 「それ−−−それは、妹さんのことですか?」  アバーフォースは、ハーマイオニーを睨みつけた。出かかった言葉を噛み殺しているかのように唇が動いた。 そして、堰を切ったように話し出した。  「妹は六つのときに、三人のマグルの男の子に襲われ、乱暴された。妹が魔法を使っているところを、やつらは裏庭の垣根からこっそり覗いていたんだ。妹はまだ子どもで、魔法力を制御できなかった。その歳では、どんな魔法使いだってできはせん。たぶん、見ていた連中は怖くなったのだろう。植え込みを押し分けて入ってきた。もう一度やれと言われても、妹は魔法を見せることができなかった。それでやつらは、風変わりなチビに変なまねをやめさせようと図に乗った」  暖炉の明かりの中で、ハーマイオニーの目は大きく見開かれていた。 ロンは少し気分が悪そうな顔だった。アバーフォースが立ち上がった。 兄のアルバス同様背の高いアバーフォースは、怒りと激しい心の痛みで、突然、恐ろしい形相になった。  「妹はめちゃめちゃになった。やつらのせいで。二度と元には戻らなかった。魔法を使おうとはしなかったが、魔法力を消し去ることはできなかった。魔法力が内にこもり、妹を狂わせた。自分で抑えられなくなると、その力が内側から爆発した。妹はときどきおかしくなり、危険になった。しかし、いつもは優しく、怯えていて、誰にも危害を加えることはなかった」  「そして父は、そんなことをしたろくでなしを追い−−−」アバーフォースが話を続けた。 「そいつらを攻撃した。父はそのためにアズカバンに閉じ込められてしまった。攻撃した理由を父は決して口にしなかった。魔法省がアリアナの状態を知ったら、妹は、聖マンゴに一生閉じ込められることになっただろう。アリアナのように精神不安定で、抑えきれなくなるたびに魔法を爆発させるような状態は、魔法省から、『国際機密保持法』を著しく脅かす存在とみなされただろう」  「家族は、妹をそっと安全に守ってやらなければならなかった。俺たちは引っ越し、アリアナは病気だと言いふらした。母は妹の面倒を見て、安静に幸せに過ごさせようとした」  「妹のお気に入りは、俺だった」 そう言ったとき、アバーフォースのもつれた額に隠れた奴だらけの顔から、泥んこの悪童が顔を覗かせた。  「アルバスじゃない。あいつは家に帰ると、自分の部屋にこもりきりで、本を読んだりもらった賞を数えたり、『当世の最も著名な魔法使いたち』と手紙のやり取りをするばかりだった」  アバーフォースはせせら笑った。 「あいつは、妹のことなんか関わり合いになりたくなかったんだ。妹は俺のことがいちばん好きだった。母が食べさせようとしてもいやがる妹に、俺なら食べさせることができた。アリアナが発作を起こして激怒しているときに、俺ならなだめることができた。状態が落ち着いているときは、俺が山羊に餌をやるのを手伝ってくれた」  「妹が十四歳のとき……いや、俺はその場にいなかった」 アバーフォースが言った。 「俺がいたならば、なだめることができたのに。妹がいつもの怒りの発作を起こしたが、母はもう昔のように若くはなかった。それで……事故だったんだ。アリアナには抑えることができなかった。そして、母は死んだ」  ハリーは哀れみと嫌悪感の入り交じった、やりきれない気持になった。 それ以上聞きたくなかった。しかしアバーフォースは話し続けた。 アバーフォースが最後にこの話をしたのはいつのことだろう、いや、一度でも話したことがあるのだろうか、とハリーは訝った。  「そこで、アルバスの、あのドジなドージとの世界一周旅行は立ち消えになった。母の葬儀のために、二人は家にやって来た。そのあと、ドージだけが出発し、アルバスは家長として落ち着いたってわけだ。フン!」  アバーフォースは、暖炉の火に唾を吐いた。  「俺なら、妹の面倒を見てやれたんだ。俺は、あいつにそう言った。学校なんてどうでもいい。家にいて、面倒を見るってな。兄は、俺が最後まで教育を受けるべきだ、自分が母親から引き継ぐ、とのたもうた。『秀才殿』も落ちぶれたものよ。心を病んだ妹の面倒を見たところで、一日おきに妹が家を吹っ飛ばすのを阻止したところで、何の賞ももらえるものか。しかし、兄は、数週間は何とかかんとかやっていた……やつが来るまでは」  アバーフォースの顔に、こんどこそ間違いなく危険な表情が浮かんだ。  「グリンデルバルドだ。そして兄はやっと、自分と同等な話し相手に出会った。自分同様優秀で、才能豊かな相手だ。すると、アリアナの面倒を見ることなんぞ二の次になった。二人は新しい魔法界の秩序の計画を練ったり、『秘宝』を探したり、ほかにも興味の趣くままのことをした。すべての魔法族の利益のための壮大な計画だ。一人の少女がないがしろにされようが、アルバスが『より大きな善のため』に働いているなら、何の問題があろう?」  「しかし、それが数週間続いたとき、俺はもうたくさんだと思った。ああ、そうだとも。俺のホグワーツに戻る日が間近に迫っていた。だから、俺は二人に言った。二人に面と向かって言ってやった。ちょうどいま俺が君に話しているように」  そしてアバーフォースはハリーを見下ろした。兄と対決する屈強な怒れる十代のアバーフォースを、容易に想像できる姿だった。  「俺は兄に言った。すぐにやめろ。妹を動かすことはできない。動かせる状態じゃない。どこに行こうと計画しているかは知らないが、おまえに従う仲間を集めるための小賢しい演説に、妹を連れていくことはできないと、そう言ってやった。兄は気を悪くした」  メガネがまた暖炉の火を反射して白く光り、アバーフォースの目が一瞬遮られた。  「グリンデルバルドは、気を悪くするどころではなかった。やつは怒った。ばかな小童だ、自分と優秀な兄との行く手を邪魔しようとしている。やつはそう言った……自分たちが世界を変えてしまえば、そして隠れている魔法使いを表舞台に出し、マグルに身の程を知らせてやれば、俺の哀れな妹を隠しておく必要もなくなる。それがわからないのか? とそう言った」  「口論になった……そして俺は杖を抜き、やつも抜いた。兄の親友ともあろう者が、俺に『礫の呪文』をかけたのだ−−−アルバスはあいつを止めようとした。それからは三つ巴の争いになり、閃光が飛び、パンパン音がして、妹は発作を起こした。アリアナには耐えられなかったのだ−−−−−」  アバーフォースの顔から、まるで瀕死の重傷を負ったように血の気が失せていった。  「−−−だから、アリアナは助けようとしたのだと思う。しかし自分が何をしているのか、アリアナにはよくわかっていなかったのだ。そして、誰がやったのかはわからないが−−−三人ともその可能性はあった−−−妹は死んだ」  最後の言葉は泣き声になり、アバーフォースは傍らの椅子にがっくりと座り込んだ。 ハーマイオニーの顔は涙に滞れ、ロンは、アバーフォースと同じくらい真っ青になっていた。 ハリーは、激しい嫌悪感以外、何も感じられなかった。聞かなければよかったと思った。 聞いたことを、きれいさっぱり洗い流してしまいたいと思った。  「本当に……本当にお気の毒」 ハーマイオニーが囁いた。  「逝ってしまった」 アバーフォースがかすれ声で言った。「永久に、逝ってしまった」  アバーフォースは袖口で鼻を拭い、咳払いした。  「もちろん、グリンデルバルドのやつは、急いでずらかった。自国で前科のあるやつだから、アリアナのことまで自分の各にされたくなかったんだ。そしてアルバスは自由になった。そうだろうが? 妹という重荷から解放され、自由に、最も偉大な魔法使いになる道を−−−」  「先生は決して自由ではなかった」 ハリーが言った。  「何だって?」 アバーフォースが言った。  「決して」 ハリーが言った。 「あなたのお兄さんは、亡くなったあの晩、魔法の毒薬を飲み、幻覚を見ました。叫び出し、その場にいない誰かに向かって懇願しました。『あの者たちを傷つけないでくれ、頼む……代わりにわしを傷つけてくれ』」  ロンとハーマイオニーは、目を見張ってハリーを見た。 湖に浮かぶ島で何が起こったのかを、ハリーは一度も詳しく話していなかった。 ハリーとダンブルドアがホグワーツに戻ってからの一連の出来事の大きさが、その直前の出来事を完全に覆い隠してしまっていた。  「ダンブルドアは、あなたとグリンデルバルドのいる、昔の場面に戻ったと思ったんだ。きっとそうだ」  ハリーはダンブルドアの呻きと、すがるような言葉を思い出しながら言った。 「先生は、グリンデルバルドが、あなたとアリアナとを傷つけている幻覚を見ていたんだ……それが先生にとっては拷問だった。あのときのダンブルドアをあなたが見ていたら、自由になったなんて言わないはずだ」  アバーフォースは、節くれだって血管の浮き出た両手を見つめて、想いに耽っているようだった。 しばらくして、アバーフォースが言った。  「ポッター、確信があるのか? 俺の兄が、君自身のことより、より大きな善のほうに関心があったとは思わんのか? 俺の小さな妹と同じように、君が使い捨てにされているとは思わんのか?」  冷たい氷が、ハリーの心臓を貫いたような気がした。  「そんなこと信じないわ。ダンブルドアはハリーを愛していたわ」 ハーマイオニーが言った。  「それなら、どうして身を隠せと言わんのだ?」 アバーフォースが切り返した。 「ポッターに、自分を大事にしろ、こうすれば生き残れる、となぜ言わんのだ?」  「なぜなら」 ハーマイオニーより先に、ハリーが答えていた。 「ときには、自分自身の安全よりも、それ以上のことを考える必要がある!ときには、より大きな善のことを考えなければならない! これは戦いなんだ?」  「君はまだ十七歳なんだぞ!」  「僕は成人だ。あなたが諦めたって、僕は戦い続ける!」  「誰が諦めたと言った?」  「『不死鳥の騎士団はもうおしまいだ』」 ハリーが繰り返した。 「『例のあの人の勝ちだ。もう終わった。そうじゃないと言うやつは、自分を騙している』」  「それでいいと言ったわけじゃない。しかし、それが本当のことだ!」  「違う」 ハリーが言った。 「あなたのお兄さんは、どうすれば『例のあの人』の息の根を止められるかを知っていた。そして、その知識を僕に引き渡してくれた。僕は続ける。やり遂げるまで−−−でなければ、僕が倒れるまでだ。どんな結末になるかを、僕が知らないなんて思わないでください。僕にはもう、何年も前からわかっていたことなんです」  ハリーはアバーフォースが嘲るか、それとも反論するだろうと待ち構えたが、どちらでもなかった。 アバーフォースはただ、顔をしかめただけだった。  「僕たちは、ホグワーツに入らなければならないんです」 ハリーがまた言った。 「もし、あなたに助けていただけないのなら、僕たちは夜明けまで待って、′あなたにはご迷惑をかけずに自分たちで方法を見つけます。もし助けていただけるなら−−−そうですね、いますぐ、そう言っていただけるといいのですが」  アバーフォースは椅子に座ったまま動かず、驚くほど兄と瓜二つの目で、ハリーをじっと見つめていた。 やがて咳払いをして、アバーフォースはついと立ち上がり、小さなテーブルを離れてアリアナの肖像画のほうに歩いていった。  「おまえは、どうすればよいかわかっているね」 アバーフォースが言った。  アリアナは微笑んで、後ろを向いて歩きはじめた。 肖像画に描かれた人たちが普通するように、額縁の縁から出ていくのではなく、背後に措かれた長いトンネルに入っていくような感じだった。 か細い姿がだんだん遠くなり、ついに暗闇に飲み込まれてしまうまで、ハリーたちはアリアナを見つめていた。  「あのぅ−−−これは−−−?」 ロンが何か言いかけた。  「入口はいまや唯一つ」 アバーフォースが言った。 「やつらは、昔からの秘密の通路を全部押さえていて、その両端を塞いだ。学校と外とを仕切る壁の周りは吸魂鬼が取り巻き、俺の情報網によれば、校内は定期的に見張りが巡回している。あの学校が、これほど厳重に警備されたことは、いまだかつてない。中に入れたとしても、スネイプが指揮を執り、カロー兄妹が副指揮官だ。そんなところで、君たちに何ができるのやら……まあ、それは、そっちが心配することだなぞ 君は死ぬ覚悟があると言った」  「でも、どういうこと……?」  アリアナの絵を見て顔をしかめながら、ハーマイオニーが言った。  絵に描かれたトンネルの向こう側に、再び白い点が現れ、アリアナがこんどはこちらに向かって歩いてきた。 近づくにつれて、だんだん姿が大きくなってくる。 さっきと違って、アリアナよりも背の高い誰かが一緒だ。 足を引きずりながら、興奮した足取りでやってくる。 その男の髪はハリーの記憶よりもずっと長く伸び、顔には数箇所切り傷が見える。 服は引き裂かれて破れていた。 二人の姿はだんだん大きくなり、ついに顔と肩で画面が埋まるほどになった。 そして、その画面全部が、壁の小さな扉のようにパッと前に開き、本物のトンネルの入口が現れた。 その中から、伸び放題の髪に傷を負った顔、引き裂かれた服の、本物のネビル・ロングボトムが這い出してきた。 ネビルは大きな歓声を上げながら、マントルピースから飛び降りて叫んだ。  「君が来ると信じていた! 僕は信じていた!ハリー!」 29章:The Lost Diadem/消えたティアラ  「ネビル−−−いったい−−−どうして−−−?」  ロンとハーマイオニーを見つけたネビルは、歓声を上げて二人を抱きしめていた。 ハリーは、見れば見るほど、ネビルがひどい姿なのに気がついた。 片方の目は腫れ上がり、黄色や紫の痣になっているし、顔には深く挟られたような痕がある。 全体にポロポロで、長い間、厳しい生活をしていた様子が見て取れた。 それでも、ハーマイオニーから離れたときのネビルは、傷だらけの顔を幸せそうに輝かせて言った。  「君たちが来ることを信じてた! 時間の問題だって、シェーマスにそう言い続けてきたんだ!」  「ネビル、いったいどうしたんだ?」  「え? これ?」  ネビルは首を振って、傷のことなど一蹴した。  「こんなの何でもないよ。シューマスのほうがひどい。いまにわかるけど。それじゃ、行こうか? あ、そうだ」  ネビルはアバーフォースを見た。  「アブ、あと二人来るかもしれないよ」  「あと二人?」  「何を言ってるんだ、ロングボトム、あと二人だって? 夜間外出禁止令が出ていて、村中に『夜鳴き呪文』がかけられてるんだ!」  「わかってるよ。だからその二人は、このパブに直接『姿現わし』するんだ」ネビルが言った。 「ここに来たら、この通路から向こう側によこしてくれる? ありがとう」  ネビルは手を差し出して、ハーマイオニーがマントルピースによじ登り、トンネルに入るのを助けた。 ロンがそのあとに続き、それからネビルが入った。ハリーはアバーフォースに挨拶した。  「何とお礼を言ったらいいのか。あなたは僕たちの命を二度も助けてくださいました」  「じゃ、その命を大切にするんだな」  アバーフォースがぶっきらぼうに言った。  「三度は助けられないかもしれんからな」  ハリーはマントルピースによじ登り、アリアナの肖像画の後ろの穴に入った。 絵の裏側には、滑らかな石の階段があり、もう何年も前からトンネルがそこにあるように見えた。 真銀のランプが壁に掛かり、地面は踏み固められて平らだ。 歩く四人の影が、壁に扇のように折れて映っていた。  「この通路、どのくらい前からあるんだ?」  歩き出すとすぐに、ロンが聞いた。  「『忍びの地図』にはないぞ。な、ハリー、そうだろ? 学校に出入りする通路は、七本しかないはずだよなぞ」  「あいつら、今学期の最初に、その通路を全部封鎖したよ」ネビルが言った。 「もう、どの道も絶対通れない。入口には呪いがかけられて、出口には死喰い人と吸魂鬼が待ち伏せしてるもの」  ネビルはにこにこ顔で後ろ向きに歩きながら、三人の姿をじっくり見ようとしていた。  「そんなことはどうでもいいよ……ね、ほんと? グリンゴッツ破りをしたって? ドラゴンに乗って脱出したって? 知れ渡ってるよ。みんな、その話で持ちきりだよ。テリー・ブートなんか、夕食のときに大広間でそのことを大声で言ったもんだから、カローにぶちのめされた!」  「うん、ほんとだよ」 ハリーが言った。  ネビルは大喜びで笑った。  「ドラゴンは、どうなったの?」  「自然に帰した」 ロンが言った。 「ハーマイオニーなんか、ペットとして飼いたがったけど−−−」 「大げさに言わないでよ、ロン−−−」 「でも、これまで何していたの? みんなは、君が逃げ回ってるって言ったけど、ハリー、僕はそうは思わない。何か目的があってのことだと思う」  「そのとおりだよ」ハリーが言った。 「だけど、ホグワーツのことを話してくれよ、ネビル、僕たち何にも聞いてないんだ」  「学校は……そうだな、もう以前のホグワーツじゃない」ネビルが言った。  話しながら笑顔が消えていった。  「カロー兄妹のことは知ってる?」  「ここで教えている、死喰い人の兄妹のこと?」  「教えるだけじゃない」ネビルが言った。 「規律係なんだ。体罰が好きなんだよ、あのカロー兄妹は」  「アンブリッジみたいに?」  「ううん、二人にかかっちゃ、アンブリッジなんてかわいいもんさ。ほかの先生も、生徒が何か悪さをすると、全部カロー兄妹に引き渡すことになってるんだ。だけど、渡さない。できるだけ避けようとしてるんだよ。先生たちも僕らと同じくらい、カロー兄妹を嫌ってるのがわかるよ」  「アミカス、あの男、かつての『闇の魔術に対する防衛術』を教えてるんだけど、いまじや『闇の魔術』そのものだよ。僕たち、罰則を食らった生徒たちに『礫の呪文』をかけて棟習することになってる」  「えーっ?」  ハリー、ロン、ハーマイオニーの声が一緒になって、トンネルの端から端まで響いた。  「うん」ネビルが言った。「それで僕はこうなったのさ」  ネビルは、頬のとくに深い切り傷を指差した。  「僕がそんなことはやらないって言ったから。でも、はまってるやつもいる。クラップとゴイルなんか、喜んでやってるよ。たぶん、あいつらが一番になったのは、これが初めてじゃないかな」  「妹のアレクトのほうはマグル学を教えていて、これは必須科目。僕たち全員があいつの講義を聞かないといけないんだ。マグルは獣だ、間抜けで汚い、魔法使いにひどい仕打ちをして追い立て、隠れさせたとか、自然の秩序がいま再構築されつつある、なんてさ。この傷は−−−」  ネビルは、もう一つの顔の切り傷を指した。  「アレクトに質問したら、やられた。おまえにもアミカスにも、どのくらいマグルの血が流れてるかって、聞いてやったんだ」  「おっどろいたなぁ、ネビル」 ロンが言った。 「気の利いた科白は、時と場所を選んで言うもんだ」  「君は、あいつの言うことを開いてないから」ネビルが言った。 「君だってきっと我慢できなかったよ。それより、あいつらに抵抗して誰かが立ち上がるのは、いいことなんだ。それがみんなに希望を与える。僕はね、ハリー、君がそうするのを見て、それに気づいていたんだ」  「だけど、あいつらに包丁研ぎ代わりに使われっちまったな」  ちょうどランプのそばを通り、ネビルの傷痕がくっきりと浮き彫りにされて、ロンは少し、たじろぎながら言った。  ネビルは肩をすくめた。  「かまわないさ。あいつらは純血の血をあまり流したくないから、口がすぎればちょっと痛い目を見させるけど、僕たちを殺しはしない」  ネビルの話している内容のひどさと、それがごく当たり前だというネビルの話の調子と、どちらがより嘆かわしいのか、ハリーにはわからなかった。  「本当に危ないのは、学校の外で友達とか家族が問題を起こしている生徒たちなんだ。そういう子たちは、人質に取られている。あのゼノエフブグッドは『ザ・クィブラー』でちょっとズバズバ言いすぎたから、クリスマス休暇で帰る途中の汽車で、ルーナが引っ張っていかれた」  「ネビル、ルーナは大丈夫だ。僕たちルーナに会った」 「うん、知ってる。ルーナがうまくメッセージを送ってくれたから」 ネビルは、ポケットから金貨を取り出した。ハリーは、それがダンブルドア軍団の連絡に使った偽のガリオン金貨だと、すぐわかった。  「これ、すごかったよ」  ネビルはハーマイオニーに、にっこりと笑顔を向けた。  「カロー兄妹は、僕たちがどうやって連絡し合うのか全然見破れなくて、頭に来てたよ。僕たち、夜にこっそり抜け出して、『ダンブルドア軍団、まだ募集中』とか、いろいろ壁に落書きしていたんだ。スネイプは、それが気に入らなくてさ」  「していた?」 ハリーは、過去形なのに気づいた。  「うーん、だんだん難しくなってきてね」ネビルが言った。 「クリスマスにはルーナがいなくなったし、ジニーはイースターのあと、戻ってこなかった。僕たち三人が、リーダーみたいなものだったんだ。カロー兄妹は、事件の陰に僕がいるって知ってたみたいで、だから僕を厳しく抑えにかかった。それから、マイケル・コーナーが、やつらに鎖でつながれた一年生を一人解き放してやっているところを捕まって、ずいぶんひどく痛めつけられた。それで、みんな震え上がったんだ」  「マジかよ」上り坂になってきたトンネルを歩きながら、ロンが呟いた。  「ああ、でもね、みんなにマイケルみたいな目に遭ってくれ、なんて頼めないから、そういう目立つことはやめた。でも、僕たち戦い続けたんだ。地下運動に変えて、二週間前まではね。ところが、あいつらとうとう、僕にやめさせる道は一つしかないと思ったんだろうな。それで、ばあちゃんを捕まえようとした」  「何だって?」 ハリー、ロン、ハーマイオニーが同時に声を上げた。  「うん」  坂が急勾配になって少し息を切らしながら、ネビルが言った。  「まあね、やつらの考え方はわかるよ。親たちをおとなしくさせるために子どもを誘拐するっていうのは、うまくいった。それなら、その道を始めるのは時間の問題だったと思うよ。ところが−−−」  ネビルが三人を振り返った。その顔がニヤッと笑っているのを見て、ハリーは驚いた。  「あいつら、ばあちゃんを侮った。独り暮らしの老魔女だ、とくに強力なのを送り込む必要はないって、たぶんそう思ったんだろう。とにかく−−−」  ネビルは声を上げて笑った。  「ドーリッシユはまだ聖マンゴに入院中で、ばあちゃんは逃亡中だ。ばあちゃんから手紙が来たよ」  ネピルはロープの胸ポケットをポンと叩いた。  「僕のことを誇りに思うって。それでこそ親に恥じない息子だ、がんばれって」  「かっこいい」 ロンが言った。  「うん」ネビルがうれしそうに言った。  「ただね、僕を抑える手段がないと気づいたあとは、あいつら、ホグワーツには結局、僕なんか要らないと決めたみたいだ。僕を殺そうとしているのか、アズカバン送りにするつもりなのかは知らないけど、どっちにしろ、僕は姿を消すときが来たって気づいたんだ」  「だけど−−−」  ロンがさっぱりわからないという顔で言った。  「僕たち−−−僕たち、まっすぐホグワーツに向かっているんじゃないのか?」  「もちろんさ」ネビルが言った。 「すぐわかるよ。ほら着いた」  角を曲がると、トンネルはそのすぐ向こうで終わっていた。短い階段があって、その先に、アリアナの肖像画の背後に隠されていたと同じような扉があった。ネビルは扉を押し開けてよじ登り、くぐり抜けた。ハリーもあとに続いた。ネビルが、見えない人々に向かって呼びかける声が聞こえた。  「この人だーれだ! 僕の言ったとおりだろ?」  ハリーが通路の向こう側の部屋に姿を現すと、数人が悲鳴や歓声を上げた。  「ハリー!」  「ポッターだ。ポッターだよ!」  「ロン!」  「ハーマイオニー!,」  色鮮やかな壁飾りやランプや大勢の顔が見え、ハリーは頭が混乱した。 次の瞬間、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、二十人以上の仲間に取り囲まれ、抱きしめられて背中を叩かれ、髪の毛をくしゃくしゃにされ、握手攻めにあった。 たったいま、クィディッチの決勝戦で優勝したかのようだった。  「オッケー、オッケー、落ち着いてくれ!」  ネビルが呼びかけ、みんなが一歩退いたので、ハリーはようやく周りの様子を眺めることができた。  まったく見覚えのない部屋だった。 飛びきり贅沢な樹上の家の中か、巨大な船室のような感じの大きな部屋だった。 色とりどりのハンモックが、天井から、そして窓のない男っぽい板壁に沿って張しり出したバルコニーからぶら下がっている。 板壁は、鮮やかなタペストリーの掛け物で覆われていた。 タペストリーは、深紅の地にグリフィンドールの金色のライオンの縫い取り、黄色地にハッフルパフの黒い穴熊、そして青地にレイプンクローのブロンズ色の鷲だ。 銀と緑のスリザリンだけがない。 本で膨れ上がった本棚、壁に立てかけた箒が数本、そして隅には大きな木のケースに入ったラジオがある。 「ここはどこ?」  「『必要の部屋』に決まってるよ?」ネビルが言った。 「いままでで最高だろう? カロー兄妹が僕を追いかけていた。それで、隠れ場所はここしかないと思ったんだ。何とか入り込んだら、中はこんなになってたんだ! 最初に僕が入ったときは、全然こんなじゃなくて、ずっと小さかった。ハンモックが一つとグリフィンドールのタペストリーだけだったんだ。でも、DAのメンバーがどんどん増えるに連れて、部屋が広がったんだよ」  「それで、カロー兄妹は入れないのか?」  ハリーは扉を探して、ぐるりと見回しながら聞いた。  「ああ」シューマス・フィネガンが答えた。  ハリーは、その声を間くまでシエーマスだとわからなかった。それほど傷だらけで、腫れ上がった顔だった。  「ここはきちんとした隠れ家だ。僕たちの誰かが中にいるかぎり、やつらは手を出せない。扉が開かないんだ。全部ネビルのおかげさ。ネビルは本当にこの部屋を理解してる。この部屋に、必要なことを正確に頼まないといけないんだ−−−たとえば、『カローの味方は、誰もここに入れないようにしたい』− そしたら、この部屋はそのようにしてくれる!ただ、抜け穴を必ず閉めておけばいいのさ! ネビルはすごいやつだ!」  「たいしたことじゃないんだ。ほんと」  ネビルは謙遜した。  「ここに一日半ぐらい隠れていたら、すごくお腹が空いて、それで、何か食べるものがほしいって願った。ホッグズ・ヘッドへの通路が開いたのは、そのときだよ。そのトンネルを通っていったら、アバーフォースに会った。アバーフォースが僕たちに、食料を提供してくれているんだ。なぜかこの『必要の部屋』は、それだけはしてくれない」  「うん、まあ、食料は『ガンプの元素変容の法則』の五つの例外の一つだからな」  ロンの言葉に、みんな呆気に取られた。  「それで、僕たち、もう二週間近く、ここに隠れているんだ」 シエーマスが言った。 「ハンモックが必要になるたびに、この部屋は追加してくれるし、女子が入ってくるようになったら、急にとてもいい風呂場が−−−」  「−−−女子がちゃんと体を洗いたいと思ったから、現れたの。ええそうよ」  ラベンダー・ブラウンが説明を加えた。ハリーはそのときまで、ラベンダーがいることに気づかなかった。あらためてきちんと部屋を見回すと、ハリーの見知った顔がたくさんいるのに気がついた。双子のパチル姉妹もいるし、そのほかにも、テリー・ブート、アーニー・マクミラン、アンソニー・ゴールドスタイン、マイケル・コーナー。  「ところで、君たちが何をしていたのか、教えてくれよ」 アーニーが言った。  「噂があんまり多すぎてね、僕たち、『ポッターウオッチ』で、何とか君の動きに追いつくようにしてきたんだ」  アーニーは、ラジオを指差した。  「君たちまさか、グリンゴッツ破りなんか、していないだろう?」  「したよ!」ネビルが言った。「それに、ドラゴンのこともほんとさ!」  バラバラと拍手が起こり、何人かが「ウワッ」と声を上げた。ロンは舞台俳優のようにお辞儀した。  「何が目的だったの?」 シューマスが熱くなって聞いた。  三人は自分たちから質問することで、みんなの質問をかわそうとした。しかしその前に、稲妻形の傷痕に焼けるような激痛が走った。ハリーは、嬉々とした顔で知りたがっているみんなに急いで背を向けた。  「必要の部屋」は消え去り、ハリーは荒れ果。てた石造りの小屋の中に立っていた。 足下の腐った床板が訃ぎ取られ、穴があいたその脇に、掘り出された黄金の箱が空っぽになって転がっていた。 ヴォルデモートの怒りの叫びが、ハリーの頭の中でガンガン響いた。  ハリーは、全力を振り絞ってヴォルデモートの心から抜け出し、ふらふらしながら自分のいる「必要の部屋」に戻ってきた。 顔からは汗が噴き出し、ロンに支えられて立っていた。  「ハリー、大丈夫?」ハーマイオニーが声をかけていた。 「腰掛けたら? たぶん疲れているせいじゃ−−−?」  「違うんだ−−−」 ハリーはロンとハーマイオニーを見て、ヴォルデモートが分霊箱の一つがなくなっているのに気づいたと、無言で伝えようとした。 時間がどんどんなくなっていく。 ヴォルデモートが次にホグワーツに来るという選択をしたなら、三人は機会を失ってしまう。  「僕たちは、先に進まなくちゃならない」  ハリーが言った。二人の表情から、ハリーは理解してくれたと思った。  「それじゃ、ハリー、僕たちは何をすればいい?」シューマスが聞いた。 「計画は?」  「計画?」 ハリーが繰り返した。  ヴォルデモートの激しい怒りに再び引っ張り込まれないようにと、ハリーはありったけの意思の力を使っていたし、傷痕は焼けるように痛み続けていた。  「そうだな、僕たちは−−−ロンとハーマイオニーと僕だけど−−−やらなくちゃいけないことがあるんだ。そのあとは、ここから出ていく」  こんどは、笑うものも「ウワッ」と言うものもいなかった。ネビルが困惑した顔で言った。  「どういうこと?『ここから出ていく』って?」  「ここに留まるために、戻ってきたわけじゃない」  ハリーは痛みを和らげようと傷痕を擦りながら言った。  「僕たちは大切なことをやらなければならないんだ−−−」  「何なの?」  「僕−−−僕、話せない」  プツブツという呟きがさざなみのように広がった。ネビルは眉根を寄せた。  「どうして僕たちに話せないの?『例のあの人』との戦いに関係したことだろう?」  「それは、うん−−−」  「なら、僕たちが手伝う」  ダンブルドア軍団のほかのメンバーも、ある者は熱心に、ある者は厳粛に頷いた。中の二人が椅子から立ち上がり、すぐにでも行動する意思を示した。  「君たちにはわからないことなんだ」  ハリーは、ここ数時間の間に、この言葉を何度も言ったような気がした。  「僕たち−−−君たちには話せない。どうしても、やらなければならないんだ−−−僕たちだけで」  「どうして?」ネビルが尋ねた。  「どうしてって……」  最後の分霊箱を探さなければと焦り、少なくとも、どこから探しはじめたらいいかを、ロンとハーマイオニーの二人だけと話したいと焦るあまり、ハリーはなかなか考えがまとまらなかった。額の傷痕は、まだジリジリと焼けるように痛んでいた。  「ダンブルドアは、僕たち三人に仕事を遺した」 ハリーは慎重に答えた。 「そして、そのことを話すわけには−−−つまり、ダンブルドアは、僕たちに、三人だけにその仕事をしてほしいと考えていたんだ」  「僕たちはその軍団だ」ネビルが言った。 「ダンブルドア軍団なんだ。僕たちはそこで全員結ばれている。君たちが三人だけで行動していた間、僕たちは軍団の活動を続けてきた−−−」  「おい、僕たちはピクニックに行ってたわけじゃないぜ」 ロンが言った。  「そんなこと、一度も言ってないよ。でも、どうして僕たちを信用できないのか、わからない。この『部屋』にいる全員が戦ってきた。だからカロー兄妹に狩り立てられて、ここに追い込まれてきたんだ。ここにいる者は全員、ダンブルドアに忠実なことを証明してきた−−−君に−−−忠実なことを」  「聞いてくれ−−−」  ハリーは、そのあと何を言うのか考えていなかったが、言う必要もなくなった。ちょうどそ のとき、背後のトンネルの扉が開いたからだ。  「伝言を受け取ったわ、ネビル! こんばんは。あたし、三人ともきっとここにいると思ったもン!」  ルーナとディーンだった。シューマスは吼えるような歓声を上げてディーンに駆け寄り、無二の親友を抱きしめた。  「みんな、こんばんは!」 ルーナがうれしそうに言った。 「ああ、戻ってこれてよかった!」  「ルーナ」  ハリーは気を逸らされてしまった。  「君、どうしたの? どうしてここに−−−?」  「僕が呼んだんだ」  ネビルが、偽ガリオン金貨を見せながら言った。  「僕、ルーナとジニーに、君が現れたら知らせるって、約束したんだ。君が戻ってきたら、そのときは革命だって、僕たち全員そう思ってた。スネイプとカロー兄妹を打倒するんだって」  「もちろん、そういうことだもン」  ルーナが明るく言った。  「そうでしょ、ハリー? 戦ってあいつらをホグワーツから追い出すのよね?」  「待ってくれ」  ハリーは切羽詰まって、焦りを募らせた。  「すまない、みんな。でも、僕たちは、そのために戻ってきたんじゃないんだ。しなければならないことがある。そのあとは−−−」  「僕たちを、こんなひどい状態一のまま残していくのか?」 マイケル・コーナーが詰め寄った。 「違う!」ロンが言った。 「僕たちがやろうとしている事は、結局みんなのためになる事だ。すべては、『例のあの人』をやっつけるためなんだ−−−」  「それなら手伝わせてくれ!」ネビルが怒ったように言った。 「僕たちも、それに加わりたいんだ!」  またしても背後で物音がして、ハリーは振り返った。 壁の穴をよじ登ってきたのはジニーだった。すぐ後ろにフレッド、ジョージ、リー・ジョーダンが続いていた。 ジニーは、ハリーに輝くような笑顔を向けた。 ハリーは、ジニーに会わす顔が無かった。ハリーはもう選んでしまったのだから−−−。  「アバーフォースのやつ、ちょっとイラついてたな」  フレッドは、何人かの歓迎の声に応えるように手を挙げながら言った。  「ひと眠りしたいのに、あの酒場が駅になっちまってさ」  ハリーはロをあんぐり開けた。リー・ジョーダンの後ろから、ハリーの昔のガールフレンドのチョウ・チャンが現れ、ハリーに微笑みかけていた。  「伝言を受け取ったわ」  チョウは、偽ガリオン金貨を持った手を挙げ、マイケル・コーナーのほうに歩いていって、横に座った。  「さあ、どういう計画だ、ハリー?」ジョージが言った。  「そんなものはない」  ハリーは、急にこれだけの人間が現れたことに戸惑い、しかも傷痕の激しい痛みのせいで、状況が十分に消化しきれていなかった。  「実行しながら、計画をでっち上げるわけだな? 俺の好みだ」 フレッドが言った。  「こんなこと、やめてくれ!」 ハリーがネビルに言った。 「何のために、みんなを呼び戻したんだ? 正気の沙汰じゃない−−−」  「僕たち、戦うんだろう?」  ディーンが、自分の偽ガリオン金貨を取り出しながら言った。  「伝言は、こうだ。ハリーが戻った。僕たちは戦う?だけど、僕は杖が要るな−−−」  「持ってないのか、杖を−−−?」シェーマスが何か言いかけた。  ロンが、突然ハリーに向かって言った。  「みんなに手伝ってもらったら?」  「えっ?」  「手伝ってもらえるよ」  ロンは、ハリーとロンの間に立っているハーマイオニーにしか聞こえないように、声を落として言った。  「あれがどこにあるか、僕たちにはわかってない。早いとこ見つけないといけないだろ。みんなにはそれが分霊箱だなんて言う必勢はないからさ」  ハリーはロンとハーマイオニーを交互に見た。ハーマイオニーがヒソヒソ声で言った。  「ロンの言うとおりだわ。私たち、何を探すのかさえわからないのよ。みんなの助けが要るわ」  ハリーがまだ納得しない顔でいると、ハーマイオニーがもうひと押しした。  「ハリー、何もかも一人でやる必要はないわ」  傷痕が疼き続け、また頭が割れてしまいそうな予感がしながら、ハリーは急いで考えを巡らした。 ダンブルドアは、分霊箱のことはロンとハーマイオニー以外の誰にも言うなと警告した。 秘密と嘘をな。俺たちはそうやって育った。そしてアルバスには……天性のものがあった…… ハリーは、ダンブルドアになろうとしているのだろうか。 秘密を胸に抱え、信用することを恐れているのか?  しかしダンブルドアはスネイプを信じた。その結果どうなったか? いちばん高い塔の屋上での殺人……。  「わかった」 ハリーは二人に向かって小声で言った。  「よーし、みんな」 ハリーが「必要の部屋」全体に呼びかけると、話し声がやんだ。近くにいる仲間に冗談を飛ばしていたフレッドとジョージもぴたりと静かになり、全員が緊張し、興奮しているように見えた。 「僕たちはあるものを探している」 ハリーが言った。 「それは『例のあの人』を打倒する助けになるものだ。このホグワーツにある。しかし、どこにあるのかはわからない。レイプンクローに属する何かかもしれない。誰か、そういうものの話を聞いたことはないか? 誰か、たとえば鷲の印がある何かを、どこかで見かけたことはないか?」  ハリーはもしやと期待しながら、レイプンクローの寮生たちを見た。パドマ、マイケル、テリー、チョウ。しかし答えたのは、ジニーの椅子の肘にちょこんと腰掛けていたルーナだった。  「あのね、失われた髪飾りがあるわ。その話をあんたにしたこと、ハリー、覚えてる? レイプンクローの失われた髪飾りのことだけど? パパがそのコピーを作ろうとしたんだもン」  「ああ、だけど失われた髪飾りつて言うからには−−−−−−−」  マイケル・コーナーが、呆れたように目をぐるぐるさせながら言った。  「失われたんだ、ルーナ。そこが肝心なところなんだよ」  「いつごろ失われたの?」 ハリーが聞いた。  「何百年も前だという話よ」  チョウの言葉で、ハリーはがっかりした。  「フリットウィック先生がおっしゃるには、髪飾りはレイプンクローと一緒に消えたんですって。みんな探したけど、でも」  チョウは、レイプンクロー生に向かって訴えかけるように言った。  「誰もその手がかりを見つけられなかった。そうよね?」  レイプンクロー生がいっせいに頷いた。  「あのさ、髪飾りつて、どんなものだ?」 ロンが聞いた。  「冠みたいなものだよ」 テリー・ブートが言った。 「レイブンクローの髪飾りは、魔法の力があって、それをつけると知恵が増すと考えられていたんだ」  「うん、パパのラックスパート吸い上げ管は−−−」  しかし、ハリーがルーナを遮った。  「それで、誰もそれらしいものを見たことがないのか?」  みんなはまた頷いた。 ハリーはロンとハーマイオニーの顔を見たが、自分の失望が鏡のように映っているのを見ただけだった。 長い間失われた品、そして手がかりさえない品が、城に隠された分霊箱である可能性はないように思われた…… しかし、ハリーが別な質問を考えているとき、チョウがまた口を開いた。  「その髪飾りが、どんな形をしているか見たかったら、ハリー、私たちの談話室に連れていって、見せてあげるけど? レイブンクローの像が、それを着けているわ」  ハリーの傷痕がまた焼けるように痛んだ。一瞬「必要の部屋」がぐらついてぼやけ、暗い大地がぐんぐん下になり、大蛇が肩に巻きついているのを感じた。ヴォルデモートはまた飛び立ったのだ。地下の湖へか、このホグワーツ城へか、ハリーにはわからなかった。どちらにしても、もう残された時間はほとんどない。  「あいつが動き出した」  ハリーはロンとハーマイオニーにこっそり言った。ハリーはチョウをちらりと見て、それからまた二人を見た。  「こうしよう。あんまりいい糸口にはならないと思うけど、でも、その像を見てくる。少なくとも、その髪飾りがどんなものかがわかる。ここで待っていてくれ、そして、ほら−−−もう一つのあれを−−−安全に保管していてくれ」  チョウが立ち上がったが、ジニーがかなり強い調子で言った。  「ダメ。ルーナがハリーを案内するわ。そうよね、ルーナ?」  「やったー、いいわよ。喜んで」  ルーナがうれしそうに言い、チョウは失望したような顔で、また座った。 ハーマイオニーが心配そうに言った。 「気をつけて」 ハリーは少し微笑んでハーマイオニーの髪を梳いた。  「どうやって出るんだ?」 ハリーがネビルに聞いた。  「こっちからだよ」  ネビルはハリーとルーナを、部屋の隅に案内した。そこにある小さな戸棚を開くと、急な階段に続いていた。  「行く先が毎日変わるんだ。だからあいつらは、絶対に見つけられない」ネビルが言った。 「ただ問題は、出ていくのはいいんだけど、行く先がどこになるのか、はっきりわからないことだ。ハリー、気をつけて。あいつら、夜は必ず廊下を見回っているから」  「大丈夫」 ハリーが答えた。 「すぐ戻るよ」  ハリーとルーナは階段を急いだ。松明に照らされた長い階段で、あちこち思いがけないところに曲り角があった。 最後に二人は、どうやら固い壁らしいものの前に出た。  「ここに入って」  そう言いながら、ハリーは「透明マント」を取り出して、ルーナと自分に被せた。ハリーは壁を軽く押した。  壁はハリーが触ると熔けるように消え、二人は外に出た。振り返ると、壁がたちまちひとりでに塞がるのが見えた。 そこは暗い廊下だった。ハリーはルーナを引っ張って物陰に移動し、首から掛けた巾着を探って「忍びの地図」を取り出した。顔を地図にくっつけるようにして自分とルーナの点を探し、やっとそれを見つけた。  「ここは六階だ」  ハリーは、行く手の廊下から、フィルチの点が遠ざかっていくのを見つめながら囁いた。  「さあ、こっちだ」  二人はこっそりと進んだ。  ハリーは、何度も夜に城の中をうろついたことがあったが、心臓がこんなに早鐘を打ったことはなかったし、無事に移動することに、これほどさまざまな期待がかかっていたこともなかった。 月光が四角に射し込む廊下を通り、密かな足音を聞き呑めて兜をキーキー鳴らす鎧のそばを通り過ぎ、得体の知れない何かが潜んでいるかもしれない角を曲がり、「忍びの地図」が読めるだけの明かりがあるところでは地図を確かめながら、ハリーとルーナは歩いた。 ゴーストをやり過ごすために、二度立ち止まった。 いつ何どき障害に出くわしてもおかしくはなかった。 ハリーは、ポルターガイストのビープズを何より警戒し、近づいてくるときの、それとわかる最初の物音を聞き逃すまいと、ひと足ごとに耳を澄ませた。  「こっちよ、ハリー」  ルーナがハリーの袖を引き、螺旋階段のほうに引っ張りながら、声をひそめて言った。  二人は、目の回るような急な螺旋を上った。ハリーは、ここには来たことがなかった。 やっとのことで扉の前に出た。取っ手も鍵穴もない。 古めかしい木の扉がのっぺりと立っているだけで、鷲の形をしたブロンズのドアノッカーがついている。  ルーナが色白の手を差し出した。 腕も胴体もない手が宙に浮いているようで、薄気味が悪かった。 ルーナが一回ノックした。 静けさの中で、その昔はハリーには大砲が鳴り響いたように聞こえた。たちまち鷲の境が開き、鳥の鳴き声ではなく、柔らかな、歌うような声が流れた。  「不死鳥と炎はどちらが先?」  「ンンン……どう思う、ハリー?」  ルーナが思慮深げな表情で聞いた。  「えっ? 合言葉だけじゃだめなの?」  「あら、違うよ。質問に答えないといけないんだもン」 ルーナが言った。  「間違ったらどうなるの?」  「えーと、誰か正しい答えを出す人が来るまで、待たないといけないんだもン」  ルーナが言った。  「そうやって学ぶものよ。でしょ?」  「ああ……問題は、ほかの誰かが来るまで待つ余裕はないんだよ、ルーナ」  「うん。わかるよ」 ルーナがまじめに言った。  「えーと、それじゃ、あたしの考えだと、答えは、円には始まりがない」  「よく推理しましたね」  声がそう言うと、扉がパッと開いた。  レイブンクローの談話室には人気がなく、広い円形の部屋で、ハリーが見たホグワーツのどの部屋より爽やかだった。壁のところどころに優雅なアーチ形の窓があり、壁にはブルーとブロンズ色のシルクのカーテンが掛かっている。 日中なら、レイプンクロー生は、周りの山々のすばらしい景色が眺められるだろう。 天井はドーム型で、星が描いてあり、濃紺の絨毯も同じ模様だ。 テーブル、椅子、本棚がいくつかあり、扉の反対側の壁の窪みに、背の高い白い大理石の像が建っていた。  ルーナの家で胸像を見ていたハリーは、ロウエナ・レイプンクローの顔だとすぐにわかった。 その像は、寝室に続いていると思われるドアの脇に置かれていた。ハリーは逸る心で、まっすぐに大理石の女性に近づいた。 像は物聞いたげな軽い微笑を浮かべて、ハリーを見返していた。 美しいが、少し威嚇的でもあった。 頭部には、大理石で、繊細な髪飾りの環が再現されている。 フラーが結婚式で着けたティアラと、そう違わないものだ。 小さな文字が刻まれている。 ハリーは「透明マント」から出て、レイプンクロー像の台座に乗り、文字を読んだ。  「計り知れぬ英知こそ、われらが最大の宝なり?」  「つまり、おまえは文無しだね、能無しめ」  ケタケタという甲高い魔女の声がした。 ハリーは素早く振り向き、台座から滑り降りて床に立った。 目の前に猫背のアレクト・カローの姿があった。 ハリーが杖を上げる間もなく、アレクトはずんぐりした人差し指を、前腕の髄倭と蛇の焼印に押しつけた。 30章:The Sacking of Severus Snape/セブルス・スネイプ去る  指が闇の印に触れたとたん、ハリーの額の傷痕が堪えようもなく痛んだ。 星をちりばめた部屋が視界から消え、ハリーは崖の下に突き出した岩に立っていた。 波が周囲を洗い、心は勝利感に躍った−−−小僧を捕らえた。  バーンという大きな音で、ハリーは我に返った。 一瞬、自分がどこにいるのかもわからずハリーは杖を上げたが、目の前の魔女は、すでに前のめりに倒れていた。 倒れた衝撃の大きさに、本棚のガラスがチリチリと音を立てた。  「あたし、DAの練習以外で誰かを『失神』させたの、初めてだもン」  ルーナはちょっとおもしろそうに言った。  「思っていたより、やかましかったな」  たしかにそうだった。天井がガタガタ言い出した。 寝室に続くドアの向こう側から、慌てて駆けてくる足音が、だんだん大きく響いてきた。 ルーナの呪文が、上で寝ていたレイプンクロー生を起こしてしまったのだ。  「ルーナ、どこだ? 僕、『マント』に隠れないと!」  ルーナの両足がふっと現れた。 ハリーが急いでそばに寄り、ルーナが二人に「マント」を掛け直したとき、ドアが開いて寝巻き姿のレイブンクロー生がどっと談話室に溢れ出た。 アレクトが気を失って倒れているのを見て、生徒たちは、息を呑んだり驚いて叫んだりした。 そろそろと、寮生がアレクトを取り囲みながら近づいた。 野蛮な獣は、いまにも目覚めて寮生を襲うかもしれない。 そのとき、勇敢な小さい一年生がアレクトにぱっと近寄り、足の親指で尻を小突いた。  「死んでるかもしれないよ!」一年生が喜んで叫んだ。  「ねぇ、見て」  レイブンクロー生がアレクトの周りに人垣を作るのを見て、ルーナがうれしそうに囁いた。  「みんな喜んでるもン!」  「うん……よかった……」  ハリーは目を閉じた。傷痕が疼く。 ハリーはヴォルデモートの心の中に沈んでいくことにした……トンネルを通り、最初の洞穴に着いた……こっちに来る前にロケットの安否を確かめることにしたのだ……しかし、それほど長くはかからないだろう……。  談話室の扉を激しく叩く音がして、レイプンクロー生はみんな凍りついた。 扉の向こうで鷲のドアノッカーから、柔らかな歌うような声が流れるのが聞こえた。  「消失した物質はどこに行く?」  「そんなこと俺が知るか? 黙れ!」  アレクトの兄、アミカスのものだとすぐわかる、下品な唸り声だった。  「アレクト? アレクト? そこにいるのか? あいつを捕まえたのか? 扉を開けろ!」  レイプンクロー生は怯えて、互いに囁き合っていた。すると、何の前触れもなしに、扉に向けて銃を発射したような大きな音が、立て続けに聞こえてきた。  「アレクト! あの方が到着して、もし俺たちがポッターを捕まえていなかったら。−−−マルフォイ一家の二の舞になりてえのか? 返事をしろ!」  アミカスは、力のかぎり扉を揺すぶりながら、大声で喚いた。 しかし、扉は頑として聞かない。 レイプンクロー生は全員後退りしていたし、中でもひどく怯えた何人かは、寝室に戻ろうと慌てて階段を駆け上がりはじめた。 いっそ扉を吹き飛ばして、アミカスがこれ以上何かする前に「失神」させるべきではないか、とハリーが迷っていると、扉の向こうで、よく聞き慣れた別の声がした。  「カロー先生、何をなさっておいでですか?」  「この−−−クソッたれの−−−扉から−−−入ろうとしているんだ!」  アミカスが叫んだ。  「フリットウィックを呼べ!あいつに開けさせろ、いますぐだ!」  「しかし、妹さんが中にいるのではありませんか?」 マクゴナガル教授が聞いた。 「フリットウィック先生が、宵の口に、あなたの緊急な要請で妹さんをこの中に入れたのではなかったですか? たぶん、妹さんが開けてくれるのでは? それなら城の大半の者を起こす必要はないでしょう」  「妹が答えねえんだよ、この婆あ! てめえが開けやがれ! さあ開けろ!いますぐ開けやがれ!」  「承知しました。お望みなら」  マクゴナガル教授は、恐ろしく冷たい口調で言った。ノッカーを上品に叩く音がして、歌うような声が再び尋ねた。  「消失した物質はどこに行く?」  「非存在に。つまり、すべてに」 マクゴナガル教授が答えた。  「見事な言い回しですね」  鷲のドアノッカーが応え、扉がパッと開いた。  アミカスが杖を振り回して扉から飛び込んでくると、残っていた数少ないレイブンクロー生は、矢のように階段へと走った。 妹と同じように猫背のアミカスは、その青膨れの顔についている小さな目で、床に大の字に倒れて動かないアレクトを見つけた。 アミカスは怒りと恐れの入り交じった叫び声を上げた。  「ガキども、何しやがった?」 アミカスが叫んだ。 「誰がやったか白状するまで、全員『礫の呪文』にかけてやる−−−それよりも、闇の帝王が何とおっしゃるか?」  妹の上に立ちはだかって、自分の額を拳でバシッと叩きながら、アミカスが甲高い声で叫んだ。  「やつを捕まえていねえ。その上ガキどもが妹を殺しやがった!」  「『失神』させられているだけですよ」  屈んでアレクトを調べていたマクゴナガル教授が、イライラしながら言った。  「妹さんはまったく何ともありません」  「何ともねえもクソもあるか!」  アミカスが大声を上げた。  「妹が闇の帝王に捕まったら、とんでもねえことにならあ! こいつはあの方を呼びやがった。俺の闇の印が焼けるのを感じた。あの方は、俺たちがポッターを捕まえたとお考えにならあ!」  「ポッターを捕まえた?」 マクゴナガル教授の声が、鋭くなった。 「どういうことですか?『ポッターを捕まえた』とは?」  「あの方が、ポッターはレイプンクローの塔に入ろうとするかもしれねえって、そんでもって、捕まえたらあの方を呼ぶようにって、俺たちにそうおっしゃったのよ」  「ハリー・ポッターが、なんでレイプンクローの塔に入ろうとするのですか? ポッターは私の寮生です!」  まさか、という驚きと怒りの声の中に、微かに誇りが流れているのを聞き取り、ハリーは胸の奥に、ミネルバ・マクゴナガルヘの愛情がどっと湧いてくるのを感じた。  「俺たちは、ポッターがここに来るかもしれねえ、と言われただけだ!」カローが言った。 「なんでもへったくれも、ねえ!」  マクゴナガル教授は立ち上がり、キラキラした目で部屋を眺め回した。 ハリーとルーナの立っている、まさにその場所を、その日が二度行き過ぎた。  「ガキどもに、なすりつけてやる」  アミカスの豚のような顔が、突然、ずる賢くなった。  「そうだとも。そうすりやいい。こう言うんだ。アレクトはガキどもに待ち伏せされた。上にいるガキどもによ」  アミカスは星のちりばめられた天井の、寝室のある方向を見上げた。  「そいでもって、こう言う。ガキどもが、無理やり妹に闇の印を押させた。だから、あの方は間違いの報せを受け取った……あの方は、ガキどもを罰する。ガキが二、三人減ろうが減るまいが、たいした違いじゃねえだろう?」  「真実と嘘との違い、勇気と臆病との違いにすぎません」  マクゴナガル教授の顔からすっと血が引いた。  「要するに、あなたにも妹さんにも、その違いがわかるとは思えません。しかし、一つだけはっきりさせておきましょう。あなたたちの無能の数々を、ホグワーツの生徒たちのせいにはさせません。私が許しません」  「何だと?」  アミカスがずいと進み出て、マクゴナガル教授の顔に息がかかるほどのところまで、無遠慮に詰め寄った。 マクゴナガル教授は一歩も引かず、トイレの便座にくっついた不快なものでも見るようにアミカスを見下ろした。  「ミネルバ・マクゴナガルよぅ、あんたが許すの許さないのってぇ場合じゃぁねえぜ。あんたの時代は終わった。いまは俺たちがここを仕切ってる。俺を支持しないつもりなら、つけを払うことになるぜ」  そしてアミカスは、マクゴナガル教授の顔に唾を吐きかけた。  ハリーは「マント」を脱ぎ、杖を上げて言った。  「してはならないことを、やってしまったな」  アミカスがくるりと振り向いたとき、ハリーが叫んだ。  「クルーシオ!<苦しめ>」  死喰い人が浮き上がった。 溺れるように空中でもがき、痛みに叫びながらジタバクした。 それから、本棚の正面に激突してガラスを破り、アミカスは気を失い、くしゃくしゃになって床に落ちた。  「ベラトリックスの言った意味がわかった」  ハリーが言った。頭に血が上ってドクドク脈打っていた。 「本気になる必要があるんだ」 「ポッター!」  マクゴナガル教授が、胸元を押さえながら小声で言った。  「ポッター−−−あなたがここに! いったい−−−? どうやって?」  マクゴナガル教授は落ち着こうと必死だった。  「ポッター、バカなまねを!」  「こいつは先生に、唾を吐いた」 ハリーが言った。  「ポッター、私は−−−それはとても−−−とても雄雄しい行為でした−−−しかし、わかっているのですか−−−?」  「ええ、わかっています」  ハリーはしっかりと答えた。マクゴナガル教授が慌てふためいていることが、かえってハリーを落ち着かせた。  「マクゴナガル先生、ヴォルデモートがやって来ます」 「あら、もうその名前を言ってもいいの?」 ルーナが 「透明マント」を脱ぎ捨てて、おもしろそうに聞いた。 二人目の反逆者の出現に圧倒され、マクゴナガル教授はよろよろと後退りし、古いタータンチェックの部屋着の襟をしっかりつかんで、傍らの椅子に倒れ込んだ。  「あいつを何と呼ぼうが、同じことだ」 ハリーがルーナに言った。 「あいつはもう、僕がどこにいるかを知っている」  ハリーの頭のどこか遠いところで−−−焼けるように激しく痛む傷痕につながっているその部分で、ハリーは、不気味な線の小舟に乗って暗い湖を急ぐヴォルデモートの姿を見ていた…… あの石の水盆が置いてある小島に、間もなく到着する……。  「逃げないといけません」 マクゴナガル教授が、囁くように言った。  「さあ、ポッター、できるだけ急いで!・」  「それはできません」 ハリーが言った。  「僕にはやらなければならないことがあります。先生、レイプンクローの髪飾りがどこにあるか、ご存知ですか?」  「レ−−−レイプンクローの髪飾り? もちろん知りません−−−何百年もの間、失われたままではありませんか?」  マクゴナガル教授は、少し背筋を伸ばして座り直した。  「ポッター、この城に入るなど、狂気の沙汰です、まったく狂気としか−−−」  「そうしなければならなかったんです」 ハリーが言った。 「先生、この城に隠されている何かを、僕は探さないといけないんです。それは髪飾りかもしれない−−−フリットウィック先生にお話することさえできれば−−−」  何かが動く物音、ガラスの破片のぶつかる音がした。 アミカスが気づいたのだ。ハリーやルーナが行動するより早く、マクゴナガル先生が立ち上がって、ふらふらしている死喰い人に杖を向けて唱えた。  「インペリオ!<服従せよ>」  アミカスは、立ち上がって妹のところへ歩き、杖を拾って、ぎごちない足取りで従順にマクゴナガル教授に近づき、妹の杖と一緒に自分の杖も差し出した。 それが終わると、アレクトの隣に横たわった。 マクゴナガル教授が再び杖を振ると、銀色のロープがどこからともなく光りながら現れ、カロー兄妹にくねくねと巻きついて、二人一緒にきつく縛り上げた。  「ポッター」  マクゴナガル教授は、窮地に陥ったカロー兄妹のことなど、物の見事に無視して、再びハリーのほうを向いた。  「もしも『名前を言ってはいけないあの人』が、あなたがここにいると知っているなら−−−」  その言葉が終わらないうちに、痛みにも似た激しい怒りがハリーの体を貫き、傷痕を燃え上がらせた。 その瞬間、ハリーは石の水盆を覗き込んでいた。 薬が透明になり、その底に安全に置かれているはずの金のロケットがない−−−。  「ポッター、大丈夫ですか?」 その声でハリーは我に返った。ハリーはルーナの肩につかまって体を支えていた。 「時間がありません。ヴォルデモートがどんどん近づいています。先生、僕はダンブルドアの命令で行動しています。ダンブルドアが僕に見つけてほしかったものを、探し出さなければなりません!でも、僕がこの城の中を探している間に、生徒たちを逃がさないといけません−−−−−ヴォルデモートの狙いは僕ですが、ついでにあと何人かを殺しても、あいつは気にも止めないでしょう。いまとなっては−−−」  「僕が分霊箱を攻撃していると知ったいまとなっては」とハリーは心の中で文章を完結させた。  「あなたはダンブルドアの命令で行動していると?」  マクゴナガル教授は、はっとしたような表情で繰り返し、すっと背筋を伸ばした。  「『名前を言ってはいけないあの人』から、この学校を守りましょう。あなたが、その−−−その何かを探している間は」  「できるのですか?」  「そう思います」  マクゴナガル教授は、あっさりと言ってのけた。  「先生方は、知ってのとおり、かなり魔法に長けています。全員が最高の力を出せば、しばらくの間は『あの人』を防ぐことができるに違いありません。もちろん、スネイプ教授については、何とかしなければならないでしょうが−−−」  「それは、僕が−−−」  「−−−そして、闇の帝王が校門の前に現れ、ホグワーツがまもなく包囲されるという事態になるのであれば、無関係の人間をできるだけ多く逃がすのが、賢明というものでしょう。しかし、煙突飛行ネットワークは監視され、学校の構内では『姿現わし』も不可能となれば−−−」  「手段はあります」  ハリーが急いで口を挟み、ホッグズ・ヘッドに続く通路のことを説明した。  「ポッター、何百人という数の生徒の話ですよ−−−」  「わかっています、先生。でも、もしヴォルデモートと死喰い人が、学校の境界周辺に注意を集中していれば、ホッグズ・ヘッドから誰が『姿くらまし』しょうが、関心を払わないと思います」  「たしかに一理あります」  マクゴナガル教授が同意した。教授が杖をカロー兄妹に向けると、銀色の網が繚られた二人の上に被さり、二人を包んで空中に吊り上げた。二人はブルーと金色の天井から、二匹の大きな醜い深海生物のようにぶら下がった。  「さあ、ほかの寮監に警告を出さなければなりません。あなたたちは、また『マント』を被ったほうがよいでしょう」  マクゴナガル教授は扉までつかつかと進みながら、杖を上げた。 杖先から、目の周りにメガネのような模様のある、銀色の猫が三匹飛び出した。 守護霊はしなやかに先を走り、マクゴナガル教授とハリーとルーナが螺旋階段を下りる間、階段を銀色の明かりで満たした。  三人が廊下を疾走しはじめると、守護霊は一匹ずつ姿を消した。 マクゴナガル教授はタータンチェックの部屋着で床をすりながら走り、ハリーとルーナは「透明マント」に隠れて、そのあとを迫った。  三人がそこからさらに二階下に降りたとき、もう一つのひっそりした足音が加わった。 まだ額の痺きを感じていたハリーが、最初にその足音を聞きつけた。 「忍びの地図」を出そうと首から下げた巾着に触れたが、その前に、マクゴナガル教授も誰かがいることに気づいたようだった。 立ち止まって杖を上げ、決陶の体勢を取りながら、マクゴナガル教授が言った。  「そこにいるのは誰です?」  「我輩だ」低い声が答えた。甲宵の陰から、セブルス・スネイプが歩み出た。  その姿を見たとたん、ハリーの心に憎しみが煮えたぎった。 スネイプの犯した罪の大きさにばかり気を取られていたハリーは、スネイプの姿を見るまで、その外見の特徴を思い出しもし なかった。 ねっとりした黒い髪が、細長い顔の周りにすだれのように下がっていることも、暗い目が、死人のように冷たいことも忘れていた。 スネイプは寝巻き姿ではなく、いつもの黒いマントを着て、やはり杖を構え、決闘の体勢を取っていた。  「カロー兄妹はどこだ?」スネイプは静かに聞いた。  「あなたが指示した場所だと思いますね、セプルス」 マクゴナガル教授が答えた。  スネイプはさらに近づき、その視線はマクゴナガル教授を通り越して、素早く周りの空間に走っていた。 まるでハリーがそこにいることを知っているかのようだ。 ハリーも杖を構え、いつでも攻撃できるようにした。  「我輩の印象では」 スネイプが言った。 「アレクトが侵入者を捕らえたようだったが」  「そうですか?」 マクゴナガル教授が言った。 「それで、なぜそのような印象を?」  スネイプは左腕を軽く曲げた。その腕に、闇の印が刻印されているはずだ。  「ああ、当然そうでしたね」 マクゴナガル教授が言った。 「あなた方死喰い人が、仲間内の伝達手段をお持ちだということを、忘れていました」  スネイプは聞こえないふりをした。その日はまだマクゴナガル教授の周りを限なく探り、まるで無意識のように振舞いながら、次第に近づいてきた。  「今夜廊下を見回るのが、あなたの番だったとは知りませんでしたな、ミネルバ」  「異議がおありですか?」  「こんな遅い時間に起き出して、ここに来られたのは何故ですかな?」  「何か、騒がしい物音が聞こえたように息いましたのでね」 マクゴナガル教授が言った。  「はて? 平穏そのもののようだが」 スネイプはマクゴナガル教授の目をじっと見た。  「ハリー・ポッターを見たのですかな、ミネルバ? 何とならば、もしそうなら、我輩はどうあっても−−−」  マクゴナガル教授は、ハリーが信じられないほど素早く動いた。 その杖が空を切り、ハリーは一瞬、スネイプが気絶してその場に崩れ落ちたに違いないと思った。 しかし、スネイプのあまりにも敏速な盾の呪文に、マクゴナガルは体勢を崩していた。 マクゴナガルが壁の松明に向けて杖を振った。 松明が腕木から吹き飛び、まさにスネイプに呪いをかけようとしていたハリーは、落下してくる炎からルーナをかばって引き寄せなければならなかった。 松明は火の輪になって廊下一杯に広がり、投げ縄のようにスネイプ目がけて飛んだ−−−。  次の瞬間、火はもはや火ではなく、巨大な黒い蛇となった。 その蛇をマクゴナガルが吹き飛ばし、煙に変えた。 煙は形を変えて固まり、あっという間に短刀の雨となってスネイプを襲った。 スネイプは甲宵を自分の前に押し出して、辛うじてそれを避けた。 短刀はガンガンと音を響かせ、次々と甲宵の胸に刺さった−−−。  「ミネルバ!」  キーキー声がした。飛び交う呪文からルーナをかばいながらハリーが振り返ると、寝巻き姿のフリットウィック先生とスプラウト先生が、こちらに向かって廊下を疾走してくるところだった。 その後ろから、スラグホーン先生が巨体を揺すり、喘ぎながら追ってきた。  「やめろ!」  フリットウィックが、杖を上げながらキーキー声で叫んだ。  「これ以上、ホグワーツで人を殺めるな!」  フリットウィックの呪文が、スネイプの隠れている甲宵に当たった。 すると甲宵がガチャガチャと動き出し、両腕でスネイプをがっちり締め上げた。 それを振りほどいたスネイプが、逆に攻撃者たち目がけて甲宵を飛ばせた。 ハリーとルーナが、横っ跳びに飛んで伏せたとたん、甲宵は壁に当たって大破した。 ハリーが再び目を上げたときには、スネイプは一目散に逃げ出し、マクゴナガル、フリットウィック、スプラウトがすさまじい勢いで追跡していくところだった。 スネイプは教室のドアから素早く中に飛び込み、その直後に、ハリーはマクゴナガルの叫ぶ声を聞いた。  「卑怯者! 卑怯者!」  「どうなったの? どうなったの?」 ルーナが聞いた。  ハリーはルーナを引きずるようにして立たせ、二人で「透明マント」をなびかせながら廊下を走って、教室に駆け込んだ。 がらんとした教室の中で、スプラウトの三人の先生が、割れた窓のそばに立っていた。  「スネイプは飛び降りました」 マクゴナガル、フリットウィック、  ハリーとルーナが教室に駆け込んでくると、マクゴナガル教授が言った。  「それじゃ、死んだ?」  急に現れたハリーを見て、フリットウィッグとスプラウトが、驚きの叫び声を上げるのも聞き流して、ハリーは窓際に駆け寄った。  「いいえ、死んではいません」 マクゴナガルは苦々しく言った。 「ダンブルドアと違って、スネイプはまだ杖を持っていましたからね……それに、どうやらご主人様からいくつかの技を学んだようです」  学校の境界を仕切る塀に向かって闇を飛んでいく、巨大なコウモリのような姿を遠くに見て、ハリーは背筋が寒くなった。  背後で重い足音がした。スラグホーンが、ハァハァと息を弾ませて現れたところだった。  「ハリー!」  エメラルド色の絹のパジャマの上から、巨大な胸をさすり、スラグホーンが職ぎ喘ぎ言った。 「なんとまあ、ハリー……これは驚いた……ミネルバ、説明してくれんかね……セプルスは……いったいこれは……?」  「校長はしばらくお休みです」  窓にあいたスネイプの形をした穴を指差しながら、マクゴナガル教授が言った。  「先生!」 ハリーは、額に両手を当てて叫んだ。 亡者のうようよしている潮が足元を滑っていくのが見え、不気味な緑の小舟が地下の岸辺にぶつかるのを感じた。殺意に満ちて、ヴォルデモートが舟から飛び降りた−−−。  「先生、学校にバリケードを張ちなければなりません。あいつが、もうすぐやって来ます!」  「わかりました。『名前を言ってはいけないあの人』がやって来ます」  マクゴナガル教授が他の先生方に言った。スプラウトとフリットウィックは息を呑み、スラグホーンは低く呻いた。 「ポッターはダンブルドアの命令で、この城でやるべきことがあります。ポッターが必要なことをしている間、私たちは、能力の及ぶかぎりのあらゆる防御を、この城に施す必要があります」  「もちろんおわかりだろうが、我々が何をしようと、『例のあの人』をいつまでも食い止めておくことはできないのだが?」  フリットウィックが、キーキー声で言った。  「それでも、しばらく止めておくことはできるわ」 スプラウト先生が言った。  「ありがとう、ポモーナ」  マクゴナガル教授が言った。そして二人の魔女は、真剣な覚悟の眼差しを交し合った。  「まず、我々がこの城に、基本的な防御を施すことにしましょう。それから、生徒たちを大広間に集めます。大多数の生徒は、避難しなければなりません。もし、成人に達した生徒が残って戦いたいと言うなら、チャンスを与えるべきだと思います」  「賛成」 スプラウト先生はもうドアのほうに急いでいた。 「二十分後に大広間で、私の寮の生徒と一緒にお会いしましょう」 スプラウト先生は小走りに出ていき、姿が見えなくなったが、ブツブツ呟く声が聞こえた。  「『食虫蔓』『悪魔の昆』それにスナーガラフの種……そう、死喰い人が、こういうものと戦うところを拝見したいものだわ」  「私はここから術をかけられる」  フリットウィックが言った。窓まで背が届かず、ほとんど外が見えない状態で、フリットウィックは壊れた窓越しに狙いを定め、きわめて複雑な呪文を唱えはじめた。 ハリーはザワザワという不思議な音を聞いた。 フリットウィックが風の力を校庭に解き放ったかのようだった。  「フリットウィック先生」  ハリーは、小さな「呪文学」 の先生に近づいて呼びかけた。  「先生、お邪魔してすみません。でも重要なことなのです。レイプンクローの髪飾りがどこにあるか、何かご存知ではありませんか?」  「……プロテゴ・ホリビリス<恐ろしき者から護れ>−−−レイプンクローの髪飾り?」  フリットウィックが、キーキー声で言った。  「ポッター、ちょっとした余分の知恵があるのは、決して不都合なことではないが、このような状況で、それが役に立つとはとうてい思えんが?」  「僕がお聞きしたいのは−−−それがどこにあるかだけです。ご存知ですか? ご覧になったことはありますか−−−?」 「見たことがあるかじゃと? 生きている者の記憶にあるかぎりでは、誰も見たものはない!とっくの昔に失われた物じゃよ!」  ハリーはどうしようもない失望感と焦りの入り交じった気持になった。 それなら、分霊箱は、いったい何なのだろう?  「フィリウス、レイブンクロー生と一緒に、大広間でお会いしましょう!」  マクゴナガル教授はそう言うと、ハリーとルーナに従いてくるようにと手招きした。  三人がドアのところまで来たとき、スラグホーンがゆっくりとしゃべり出した。  「何たること」  スラグホーンは、汗だらけの青い顔にセイウチ髭を震わせて、喘ぎながら言った。  「何たる騒ぎだ!討たしてこれが賢明なことかどうか、ミネルバ、私には確信が持てない。いいかね、『あの人』は、結局は進入する道を見つける。そうなれば、『あの人』を阻もうとした者は皆、由々しき危険に晒される−−−」  「あなたもスリザリン生も、二十分後に大広間に来ることを期待します」  マクゴナガル教授が言った。 「スリザリン生と一緒にここを去るというなら、止めはしません。しかし、スリザリン生の誰かが、抵抗運動を妨害したり、この城の中で武器を取って我々に歯向かおうとするなら、ホラス、そのときは、我々は死を賭して戦います」  「ミネルバ!」 スラグホーンは肝をつぶした。  「スリザリン寮が、態度をはっきりさせるときが来ました」  マクゴナガル教授が、何か言おうとするスラグホーンを遮って言った。  「生徒を起こしにいくのです、ホラス」  ハリーはまだブツプツ言っているスラグホーンを無視してその場を去り、ルーナと二人でマクゴナガル教授のあとを走った。教授は廊下の真ん中で体勢を整え、杖を構えた。  「ピエルトータム−−−ああ、何たること! フィルチ、こんなときに−−−」  年老いた管理人が、喚きながらひょこひょこと現れたところだった。  「生徒がベッドを抜け出している! 生徒が廊下にいる!」  「そうすべきなのです、このどうしようもない馬鹿者!」 マクゴナガルが叫んだ。 「さあ、何か建設的なことをなさい! ビープズを見つけてきなさい!」  「ピ−−−ビープズ?」 フィルチは、そんな名前は初めて聞くというように言いよどんだ。  「そうです、ビープズです、このバカ者が!この四半世紀、ビープズのことで文句を言い続けてきたのではありませんか? さあ、捕まえにいくのです。すぐに!」  フィルチは明らかに、マクゴナガル教授が分別を失ったと思ったらしかったが、低い声でプツブツ言いながら、背中を丸めてひょこひょこ去っていった。  「では、いざーーピエルトータム ロコモーション<すべての石よ、動け>」  マクゴナガル教授が叫んだ。  すると、廊下中の像と甲宵が台座から飛び降りた。上下階から響いてくる衝撃音で、ハリーは、城中の甲冑が同じことをしたのだとわかった。 .  「ホグワーツは脅かされています!」 マクゴナガル教授が叫んだ。 「境界を警護し、我々を守りなさい。我らが学校への務めを果したすのです!」  騒々しい音を立て、叫び声を上げながら、動く像たちは雪崩を打ってハリーの前を通り過ぎた。小さい像も、実物よりも大きい像もあった。動物もいる。 甲宵は、鎧をガチヤガチャ言わせながら剣やら、嫌のついた鎖玉やらを振り回していた。  「さて、ポッター」 マクゴナガルが言った。 「あなたとミス・ラブグッドは、友達のところに戻り、大広間に連れてくるのです−−−私はほかのグリフィンドール生を起こします」  次の階段のいちばん上でマクゴナガル教授と別れ、ハリーとルーナは「必要の部屋」 の隠された入口に向かって走り出した。 途中で、生徒たちの群れに出会った。大多数がパジャマの上に旅行用のマントを着て、先生や監督生たちに導かれながら大広間に向かっていた。  「あれはポッターだ!」  「ハリー・ポッター!」  「彼だよ、間違いない、僕、いまポッターを見たよ!」  しかしハリーは振り向かなかった。 そしてやっと「必要の部屋」 の入口にたどり着き、魔法のかかった壁に寄り掛かると、壁が開いて二人を中に入れた。 ハリーとルーナは、急な階段を駆け下りた。  「うわ−−−?」  部屋が見えたとたん、ハリーは驚いて階段を二、三段踏み外した。満員だ。 部屋を出たときより、さらに混み合っている。キングズリーとルーピンが、ハリーを見上げていた。 オリバー・ウッド、ケイティ・ベル、アンジェリーナ・ジョンソン、アリシア・スピネット、ビルとフラー、それにウィーズリー夫妻も見上げている。  「ハリー、何が起きているんだ?」階段下でハリーを迎えたルーピンが聞いた。  「ヴォルデモートがこっちに向かっているんだ。先生方が、学校にバリケードを築いている−−−スネイプは逃げた−−−みんな、なんでここに? どうしてわかったの?」  「俺たちが、ダンブルドア軍団のほかのメンバー全員に、伝言を送ったのさ」  フレッドが説明した。 「こんなおもしろいことを、見逃すやつはいないぜ、ハリー。それで、DAが不死鳥の騎士団に知らせて、雪だるま式に増えたってわけだ」  「何から始める、ハリー? 色々用意はしてるんだぜ?」ジョージが邪悪にニヤリと笑いながら声をかけた。 「何が起こっているんだ?」  「小さい子たちを避難させている。全員が大広間に集まって準備している」 ハリーが言った。 「僕たちは戦うんだ」  ウオーッと声が上がり、みんなが階段下に押し寄せた。全員が次々とハリーの前を走り過ぎ、ハリーは壁に押しやられた。 不死鳥の騎士団、DA軍団、ハリーの昔のクィディッチ・チームの仲間、みんなが交じり合い、杖を抜き、城の中へと向かっていた。  「来いよ、ルーナ」  ディーンが通りすがりに声をかけ、空いている手を差し出した。ルーナはその手を取り、ディーンに従いてまた階段を上っていった。 一気に人が出ていき、階段下の「必要の部屋」には一握りの人間だけが残った。 ハリーもその中に加わった。ウィーズリーおばさんがジニーと言い争っていた。 その周りに、ルーピン、フレッド、ジョージ、ビル、フラーがいる。  「あなたは、まだ未成年よ!」  ハリーが近づいたとき、ウィーズリーおばさんが娘に向かって怒鳴っていた。  「私が許しません!息子たちは、いいわ。でもあなたは、あなたは家に帰りなさい!」  「いやよ!」  ジニーは髪を大きく揺らして、母親にがっしり握られた腕を引き抜いた。  「私はダンブルドア軍団のメンバーだわ−−−」  「−−−未成年のお遊びです?」  「その未成年のお遊びが、『あの人』に立ち向かおうとしてるんだ。ほかの誰もやろうとしないことだぜ!」 フレッドが言った。  「この子は、十六歳です!」 ウィーズリーおばさんが叫んだ。 「まだ年端も行かないのに!あなたたち二人はいったい何を考えてるのやら、この子を連れてくるなんて−−−」  フレッドとジョージは、ちょっと恥じ入った顔をした。  「ママが正しいよ、ジニー」ビルが優しく言った。 「おまえには、こんなことをさせられない。未成年の子は全員去るべきだ。それが正しい」  「私、家になんか帰れないわ!」  目に怒りの涙を光らせて、ジニーが叫んだ。  「家族みんながここにいるのに、様子がわからないまま家で一人で待っているなんて、耐えられない。それに−−−」  ジニーの目が、初めてハリーの目と合った。ジニーはすがるようにハリーを見たが、ハリーは首を横に振った。 ジニーは悔しそうに顔を背けた。  「いいわ」  ホッグズ・ヘッドに戻るトンネルの入口を見つめながら、ジニーが言った。  「それじゃ、もう、さよならを言うわ、そして−−−」  慌てて走ってくる気配、ドシンという大きな音がした。トンネルをよじ登って出てきた誰かが、勢い余って倒れていた。 いちばん手近の椅子にすがって立ち上がり、その人物は、ずれた角棒メガネを通して周りを見回もた。  「遅すぎたかな? もう始まったのか? たったいま知ったばかりで、それで僕−−−僕」  パーシーは、口ごもって黙り込んだ。家族のほとんどがいるところに飛び込むとは、予想もしていなかったらしい。 驚きのあまり長い沈黙が続き、やがてフラーがルーピンに話しかけた。 緊張を和らげようとする、突拍子もない見え透いた一言だった。  「それで−−−ちーさなテディはお元気でーすか?」  ルーピンは不意を衝かれて、目をぱちくりさせた。 ウィーズリー一家に流れる沈黙は、氷のように固まっていくようだった。  「私は−−−ああ、うん−−−あの子は元気だ!」  ルーピンは大きな声で言った。 「そう、トンクスが一緒だ−−−トンクスの母親のところで」  パーシーとウィーズリー一家は、まだ凍りついたまま見つめ合っていた。  「ほら、写真がある!」  ルーピンは、上着の内側から写真を一枚取り出して、フラーとハリーに見せた。 ハリーが覗くと、明るいトルコ石色の前髪をした小さな赤ん坊が、むっちりした両手の握り拳をカメラに向けて振っているのが見えた。  「僕はバカだった!」パーシーが吼えるように言った。 あまりの大声に、ルーピンは手にした写真を落としかけた。 「僕は愚か者だった、気取った間抜けだった。僕は、あの−−−あのー−−−−」  「魔法省好きの、家族を棄てた、権力欲の強い、大バカヤロウ」 フレッドが言った。  パーシーはゴクリと唾を飲んだ。  「そう、そうだった!」  「まあな、それ以上正当な言い方はできないだろう」  フレッドが、パーシーに手を差し出した。  ウィーズリーおばさんはワッと泣き出してパーシーに駆け寄り、フレッドを押し退けて、パーシーを絞め殺さんばかりに抱きしめた。 パーシーは母親の背中をポンポン叩きながら、父親を見た。  「父さん、ごめんなさい」パーシーが言った。  ウィーズリーおじさんはしきりに目を瞬かせてから、急いで近寄って息子を抱いた。  「いったいどうやって正気に戻った、パース?」ジョージが聞いた。  「しばらく前から、少しずつ気づいていたんだ」  旅行マントの端で、メガネの下の目を拭いながら、パーシーが言った。  「だけど、抜け出す方法がなかなか見つけられなかった。魔法省ではそう簡単にできることじゃない。裏切り者は次々投獄されているんだ。僕、アバーフォースと何とか連絡が取れて、つい十分前に彼が、ホグワーツが一戦交えるところだと密かに知らせてくれた。それで駆けつけたんだ」  「さあ、こんな場合には、監督生たちが指揮を執ることを期待するね」 ジョージが、パーシーのもったいぶった態度を見事にまねしながら言った。 片手で杖を振りながら次々にパーシーのマントの色を変えている。 「さあ、諸君、上に行って戦おうじゃないか。さもないと大物の死喰い人は全部、誰かに取られてしまうぞ」  「じゃあ、君は、僕の義姉さんになったんだね?」  ビル、フレッド、ジョージと一緒に階段に急ぎながら、パーシーはフラーと握手した。  「ジニー!」ウィーズリーおばさんが大声を上げた。  ジニーは、仲直りのどさくさまざれに、こっそり上にあがろうとしていた。  「モリー、こうしたらどうだろう?」 ルーピンが言った。 「ジニーはこの部屋に残る。そうすれば、現場にいることになるし、何が起こっているかわかる。しかし、戦いのただ中には入らない」  「私は−−−」  「それはいい考えだ」  ウィーズリーおじさんが、きっぱりと言った。  「ジニー、おまえはこの『部屋』にいなさい。わかったね?」  ジニーは、あまりいい考えだとは思えないらしかったが、父親のいつになく厳しい目に出会って、頷いた。 ウィーズリー夫妻とルーピンも、階段に向かった。  「ハーマイオニーはどこ?」 ハリーが聞いた。 「ロンはどこ?」  「もう、大広間に行ったに違いない」  ウィーズリーおじさんが振り向きながら、ハリーに答えた。  「来る途中で二人に出会わなかったけど」 ハリーが言った。  「二人は、トイレがどうとか言ってたわ」ジニーが言った。 「あなたが出て行って間もなくよ」 「トイレ?」 ハリーは、「必要の部屋」から外に向かって開いているドアまで急いで歩き、トイレの中を確かめた。空っぽだった。  「ほんとにそう言ってた? トイ−−−?」  そのとき、傷痕が焼けるように痛み、「必要の部屋」が消え去って、ハリーは高い鍛鉄の門から中を見ていた。  両側の門柱には羽の生えたイノシシが立っている。暗い校庭を通して城を見ると、燈々と明かりが点いていた。 ナギニが両肩にゆったりと巻きついている。 彼は、殺人の前に感じる、あの冷たく残忍な目的意識に憑かれていた。  魔法のかかった大広間の天井は暗く、星が瞬いていた。その下の四つの寮の長テーブルには、髪も服もくしゃくしゃな寮生たちが、あるいは旅行マントを着て、あるいは部屋着のままで座っていた。 ホグワーツのゴーストたちが、あちこちで白い真珠のように光っている。 死んでいる目も生きた目も、すべてマクゴナガル教授を見つめていた。 教授は、大広間の奥の、一段高い壇上で話し、その背後にはパロミノのケンタウルス、フィレンツェを含む、学校に踏み止まった教師たちと、戦いに馳せ参じた不死鳥の騎士団のメンバーが立っていた。  「……避難を監督するのはフィルチさんとマダム・ポンフリーです。監督生は、私が合図したら、それぞれの寮をまとめて指揮を執り、秩序を保って避難地点まで移動してください」  生徒の多くは、恐怖ですくんでいたが、ハリーが壁伝いに移動しながら、ロンとハーマイオニーを探してグリフィンドールのテーブルを見回しているとき、ハッフルパフのテーブルから、アーニー・マクミランが立ち上がって叫んだ。  「でも、残って戦いたい者はどうしますか?」  バラバラと拍手が湧いた。  「成人に達した者は、残ってもかまいません」 マクゴナガル教授が言った。  「持ち物はどうなるの?」レイブンクローのテーブルから女子が声を張り上げた。 「トランクやふくろうは?」  「持ち物をまとめている時間はありません」 マクゴナガル教授が言った。 「大切なのは、皆さんをここから無事避難させることです」  「スネイプ先生はどこですか?」 スリザリンのテーブルから女子が叫んだ。  「スネイプ先生は、俗な言葉で言いますと、ずらかりました」  マクゴナガル教授の答えに、グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクローの寮生たちから大歓声が上がった。  ハリーは、ロンとハーマイオニーを探しながら、グリフィンドールのテーブルに沿って奥に進んだ。 ハリーが通り過ぎると寮生が振り向き、通り過ぎたあとにはいっせいに囁き声が湧き起こった。  「城の周りには、すでに防御が施されています」  マクゴナガル教授が話し続けていた。  「しかし、補強しないかぎり、あまり長くは持ち堪えられそうにもありません。ですから、皆さん、迅速かつ静かに移動するように。そして監督生の言うとおりに−−−」  マクゴナガル教授の最後の言葉は、大広間中に響き渡る別の声に掻き消されてしまった。 甲高い、冷たい、はっきりした声だった。 どこから聞こえてくるのかはわからない。 周囲の壁そのものから出てくるように思えた。 かつてその声が呼び出したあの怪物のように、声の主は何世紀にもわたってそこに眠っていたかのようだった。  「おまえたちが、戦う準備をしているのはわかっている」  生徒の中から悲鳴が上がり、何人かは互いにすがりつきながら、声の出所はどこかと怯えて周りを見回していた。  「何をしょうが無駄なことだ。俺様には敵わぬ。おまえたちを殺したくはない。ホグワーツの教師に、俺様は多大な尊敬を払っているのだ。魔法族の血を流したくはない」  大広間が静まり返った。鼓膜を押しっける静けさ、四方の壁の中に封じ込めるには大きすぎる静けさだ。  「ハリー・ポッターを差し出せ」  再びヴォルデモートの声が言った。  「そうすれば、誰も傷つけはせぬ。ハリー・ポッターを、俺様に差し出せ。そうすれば、学校には手を出さぬ。ハリー・ポッターを差し出せ。そうすれば、おまえたちは報われる」  「真夜中まで待ってやる」  またしても、沈黙が全員を飲み込んだ。 その場の顔という顔が振り向き、目という目がハリーに注がれた。 ギラギラした何千本もの見えない光線が、ハリーをその場に釘づけにしているようだった。 やがてスリザリンのテーブルから誰かが立ち上がり、震える腕を上げて叫んだ。  「あそこにいるじゃない! ポッターはあそこよ!誰かポッターを捕まえて!」 それがパンジー・パーキンソンだと、ハリーにはすぐわかった。 ハリーが口を開くより早く、周囲がどっと動いた。 ハリーの前のグリフィンドール生が全貝、ハリーに向かってではなく、スリザリン生に向かって立ちはだかった。 次にハッフルパフ生が立ち、ほとんど同時にレイプンクロー生が立った。 全員がハリーに背を向け、パンジーに対略して、あちらでもこちらでもマントや袖の下から杖を抜いていた。 ハリーは感激し、厳粛な思いに打たれた。  「どうも、ミス・パーキンソン」  マクゴナガル教授が、きっぱりと一蹴した。  「あなたは、フィルチさんと一緒に、この大広間から最初に出ていきなさい。ほかのスリザリン生は、そのあとに続いて出てください」  ハリーの耳に、ベンチが床を擦る音に続いて、スリザリン生が大広間の反対側からゾロゾロと出ていく音が聞こえた。  「レイプンクロー生、続いて!」マクゴナガル教授が声を張り上げた。  四つのテーブルから次第に生徒がいなくなった。 スリザリンのテーブルには完全に誰もいなくなったが、レイプンクロー生が列をなして出ていったあとには、高学年の生徒の何人かが残ったし、ハッフルパフのテーブルにはさらに多くの生徒が残った。 グリフィンドール生は大半が席に残り、マクゴナガル教授が壇から降りて、未成年のグリフィンドール生を追い立てなければならなかった。  「絶対にいけません、クリーピー、行きなさい! ピークス、あなたもです!」  ハリーは、グリフィンドールのテーブルにまとまっているウィーズリー一家のところに急いだ。  「ロンとハーマイオニーは?」  「見つからなかったのか−−−?」 ウィーズリーおじさんが心配そうな顔をした。  しかし、おじさんの言葉はそこで途切れた。キングズリーが壇に進み出て、残った生徒たちに説明しはじめたのだ。  「真夜中まであと三十分しかない。素早く行動せねばならない! ホグワーツの教授陣と不死鳥の騎士団との間で戦略の合意ができている。フリットウィック、スプラウトの両先生とマクゴナガル先生は、戦う者たちのグループを最も高い三つの塔に連れていく−−−レイプングローの塔、天文台、そしてグリフィンドールの塔だ−−−見通しがよく、呪文をかけるには最高の 場所だ。一方、リーマスと−−−」キングズリーは、ルーピンを指した。 「アーサー」こんどは、グリフィンドールのテーブルにいるウィーズリーおじさんを指した。 「そして私の三人だが、いくつかのグループを連れて校庭に出る。さらに、外への抜け道だが、学校側の人口の防衛を組織する人間が必要だ−−−」  「−−−どうやら俺たちの出番だぜ」  フレッドが、自分とジョージを指差して言った。 キングズリーが頷いて同意した。 「よし、リーダーたちはここに集まってくれ。軍隊を分ける!」 「ポッター」 生徒たちが指示を受けようと壇上に殺到して、押し合いへし合いしている中を、マクゴナガル教授が急ぎ足でハリーに近づいてきた。  「何か探し物をするはずではないのですか?」  「えっ? あ−−−」 ハリーが声を上げた。  ハリーは、分霊箱のことをすっかり忘れていた。 「あっ、そうです!」 この戦闘が、ハリーがそれを探すために組織されているということを、忘れるところだった。 ロンとハーマイオニーの謎の不在が、他のことを一時的に頭から追い出してしまっていた。  「さあ、行くのです。ポッター、行きなさい!」  「はい−−−ええ−−−」  目という目が自分を追っているのを感じながら、ハリーは大広間から走り出し、避難中の生徒たちでまだごった返している玄関ホールに出た。 生徒たちの群れに流されるままに、ハリーは大理石の階段を上り、上りきったところからは、人気のない廊下に沿って急いだ。 緊迫した恐怖感で、ハリーの思考は鈍っていた。 ハリーは気を落ち着けて、分霊箱を見つけることに集中しようとした。 しかし頭の中は、ガラス容器に囚われたスズメバチのように虚しくプンプン唸るばかりで、助けてくれるロンとハーマイオニーがいないと、どうも考えがまとまらなかった。 ハリーは、誰もいない廊下の中ほどで歩調を緩めて立ち止まり、主のいなくなった像の台座に腰掛けて、首に掛けた巾着から「忍びの地図」を取り出した。 ロンとハーマイオニーの名前は、地図のどこにも見当たらなかった。 もっともいまは、「必要の部屋」に向かう群れの点がびっしりとついているので、二人の点が埋もれている可能性もある、とハリーは思った。 ハリーは、地図を巾着にしまい、両手に顔を埋めて目を閉じ、集中しようとした……。  ヴォルデモートは、僕がレイブンクローの塔に行くだろうと考えた。  そうだ。確固たる事実、そこが出発点だ。ヴォルデモートは、アレクト・カローをレイブンクローの談話室に配備した。 そのわけはただ一つだ。ヴォルデモートは、分霊箱がその寮に関係していると、すでにハリーが知っていることを恐れたのだ。  レイブンクローとの関連で考えられる唯一の品は、失われた髪飾りらしい……だが、その髪飾りが分霊箱になりえたのだろうか?  レイプンクロー生でさえ、何世代もにわたって見つけられなかったその髪飾りを、スリザリン生であるヴォルデモートが見つけた?  そんなことがありうるだろうか? どこを探せばよいかを、いったい誰が教えたのだろう?  生きている者の記憶にあるかぎりでは、誰も見たものはないというのに?  生きている者の記憶……。  ハリーは、両手で覆っていた目をばっと見開いた。そして勢いよく台座から立ち上がり、最後の望みをかけて、いま来た道号矢のように駆け戻った。 大理石の階段に近づくにつれて、「必要の部屋」に向って行進する何百人もの足跡がだんだん大きくなってきた。 監督生が大声で指示を出し、自分の寮の生徒たちをしっかり取り仕切ろうとしていた。 どこもかしこも、押し合いへし合いだった。 ザカリアス・スミスが、一年生を押し倒して列の前に行こうとしているのが見えた。 あちこちで低学年の子どもたちが泣き、高学年の生徒たちは必死になって友達や弟妹の名前を呼んでいた。  ハリーは白い真珠のような姿が、下の玄関ホールに漂っているのを見つけ、騒がしさに負けないように声を張り上げて呼んだ。  「ニック! ニック!君と話がしたいんだ?」  ハリーは生徒の流れに逆らって進み、やっとのことで階段下にたどり着いた。グリフィンドール塔のゴースト、「ほとんど首無しニッタ」が、そこでハリーを待っていた。  「ハリー、お懐かしい!」ニックは両手でハリーの手を握ろうとした。 ハリーは、両手を氷水に突っ込んだように感じた。  「ニック、どうしても君の助けが必要なんだ。レイプンクローの塔のゴーストは誰?」  「ほとんど首無しニック」は、驚くと同時に、ちょっとむっとした顔をした。  「むろん、『灰色のレディ』ですよ。しかし、何かゴーストでお役に立つことをお望みなのでしたら−−−?」  「そのレディじゃないとだめなんだ−−−どこにいるか知ってる?」  「左様……」  群れをなして移動する生徒の頭上をじっと見ながら、ニックがあちらこちらと向きを変えると、襲襟の上で首が少しぐらぐらした。  「あそこにいるのがそのレディです、ハリー。髪の長い、あの若い女性です」  ニックの透明な人差し指の示す先に、背の高いゴーストの姿が見えたが、レディはハリーが見ていることに気づいて眉を吊り上げ、固い壁を通り抜けて行ってしまった。  ハリーは追いかけた。消えたレディを追って、ハリーも扉を通って廊下に出ると、その通路のいちばん奥をスイスイ滑りながら離れていくレディが見えた。  「おーい−−−待って−−−戻ってくれ!」  レディは、床から十数センチのところに浮かんだまま、いったん止まってくれた。 腰まで届く長い髪に、足元までの長いマントを着たレディは、美しいようにも見えたが、同時に倣慢で気位が高いようにも思えた。 近づいてみると、話をしたことこそなかったが、ハリーが何度か廊下ですれ違ったことのあるゴーストだった。  「あなたが『灰色のレディ』ですか?」  レディは頷いたが、口をきかなかった。  「レイプンクローの塔のゴーストですか?」  「そのとおりです」無愛想な答え方だった。  「お願いです。力を貸してください。失われた髪飾りのことで教えていただけることがあったら、何でもかまいません、知りたいのです」  レディの口元に、冷たい微笑が浮かんだ。  「お気の毒ですが」 レディは立ち去りかけた。 「それはお助けできませんわ」  「待って!」  叫ぶつもりはなかったのに、怒りと衝撃に打ちのめされそうになっていたハリーは、大声を出した。 レディは止まって、ふわふわとハリーの前に浮かんだ。 腕時計に目をやると、真夜中まであと十五分だった。  「急を要することなんだ」 ハリーは胤しい口調で言った。 「もしその髪飾りがホグワーツにあるなら、僕は探し出さなければならない。いますぐに」  「髪飾りをほしがった生徒は、あなたが初めてではない」レディは蔑むように言った。 「何世代もにわたって、生徒たちがしつこく聞いた−−−」  「よい成績を取るためなんかじゃない!」  ハリーはレディに食ってかかった。  「ヴォルデモートにかかわることなんだ−−−ヴォルデモートを打ち負かすためなんだ−−−それとも、そんなことには、あなたは関心がないのですか?」  レディは赤くなることはできなかったが、透明の頬が半透明になり、答える声が熱くなっていた。  「もちろんありますわ−−−なぜ、ないなどと−−−?」  「それなら、僕を助けて!」  レディの取り澄ました態度が乱れてきた。  「それ−−−それは、そういう問題ではなく−−−」  レディが言いよどんだ。 「私の母の髪飾りは−−−」  「あなたのお母さんの?」  レディは、自分に腹を立てているようだった。  「生ありしとき」レディは堅苦しく言った。 「私は、ヘレナ・レイブンクローでした」  「あなたがレイブンクローの娘? でも、それなら、髪飾りがどうなったのか、ご存知のはずだ!」  「髪飾りは、知恵を与える物ではあるが−−−」  レディは、明らかに落ち着きを取り戻そうと努力していた。  「果たしてそれが、あなたにとって、『あの人』を倒す可能性を大いに高める物かどうかは疑問です。自らを『卿』と呼ぶ、あのヴォ−−−」  「もう言ったはずだ! 僕はその髪飾りを被るつもりはない!」  ハリーは激しい口調で言った。 「説明している時間は無い。でもあなたが、ホグワーツの事を気に掛けてくれているのなら、もしヴォルデモートが滅ぼされることを願っているなら、その髪飾りについて何でもいいからご存知のことを、話してください!」  レディは宙に浮いたままハリーを見下ろして、じっとしていた。 失望感がハリーを飲み込んだ。 もしレディが何か知っているのなら、フリットウィックかダンブルドアに話していたはずだ。 二人とも、レディにハリーと同じ質問をしたに違いないのだから。 ハリーは頭を振って、踵を返しかけた。そのとき、レディが小さな声で言った。  「私は、母からその髪飾りを盗みました」  「あなたが−−−何をしたんですって?」  「私は髪飾りを盗みました」  ヘレナ・レイプンクローが囁くように繰り返した。  「私は、母よりも賢く、母よりも重要な人物になりたかった。私はそれを持って逃げたのです」  ハリーは、なぜ自分がレディの信頼を勝ち得たのかわからなかったが、理由を聞くのはやめた。 ただ、レディが話し続けるのを、聞き漏らすまいと耳を傾けた。  「母は、髪飾りを失ったことを決して認めず、まだ自分が持っているふりをしたと言われています。髪飾りがなくなったことも、私の恐ろしい裏切りのことも、ホグワーツの他の創始者たちにさえ秘密にしたのです」  「やがて母は病気になりました−−−重い病でした。私の裏切り行為にもかかわらず、母はどうしてももう一度だけ私に会いたいと、ある男に私を探させました。かつて私は、その男の申し出を掛ねつけたのですが、ずっと私に恋していた男です。その男なら、私を探し出すまでは決して諦めないことを、母は知っていたのです」  ハリーは黙って待った。レディは深く息を吸い、ぐっと頭を反らせた。 「その男は、私が隠れていた森を探し当てました。私が一緒に帰ることを拒むと、その人は暴力を振るいました。あの男爵は、カッとなりやすい性質でしたから、私に断られて激怒し、私が自由でいることを嫉妬して、私を刺したのです」  「あの男爵? もしかして−−−?」  「『血みどろ男爵』。そうです」  灰色のレディは、着ているマントを開いて、白い胸元に一カ所黒く残る傷痕を見せた。  「自分のしてしまったことを目のあたりにして、男爵は後悔に打ちひしがれ、私の命を奪った凶器を取り上げて、自らの命を絶ちました。この何世紀というもの、男爵は悔悟の証に鎖を身につけています……当然ですわ」  レディは、最後の一言を、苦々しくつけ加えた。  「それで……髪飾りは?」 一  「私を探して森をうろついている男爵の物音を聞いて、私がそれを隠した場所に置かれたままです。木の虚です」  「木の虚?」ハリーが繰り返した。「どの木ですか? どこにある木ですか?」  「アルバニアの森です。母の手が届かないだろうと考えた、寂しい場所です」  「アルバニア」  ハリーはまた繰り返した。混乱した頭に、奇跡的に閃くものがあった。 レディが、ダンブルドアにもフリットウィックにも話さなかったことを、なぜハリーに打ち明けたのかが、いまこそわかった。  「この話を、誰かにしたことがあるのですね? 別の生徒に?」  レディは目を閉じて頷いた。  「私は……わからなかったのです……あの人が……お世辞を言っているとは。あの人は、まるで……理解してくれたような……同情してくれたような……」  そうなのだ、とハリーは思った。トム・リドルなら、自らには所有権のない伝説の品物をほしがるという、ヘレナ・レイプンクローの気持を、たしかに理解したことだろう。  「ええ、リドルが言葉巧みに秘密を引き出した相手は、あなただけではありません」  ハリーは呟くように言った。  「あいつは、その気になれば、魅力的になれた……」  そうやって、ヴォルデモートはまんまと、「灰色のレディ」から、失われた髪飾りの在り処を聞き出したんだ。 遠く離れたその森まで旅をして、隠し場所から髪飾りを取り戻したんだ。 おそらくホグワーツを卒業してすぐ、ボージン・アンド・バークスで働きはじめるより前だったろう。  それに、その隔絶されたアルバニアの森は、それから何年もあとになって、ヴォルデモートが十年もの長い間、目立たず、邪魔されずに潜む場所が必要になったとき、すばらしい避難場所に思えたのではないだろうか?  しかし、髪飾りがいったん貴重な分霊箱になってからは、そんなありきたりの木に放置されていたわけではない……違う。髪飾りは密かに、本来あるべき場所に戻されたのだ。 ヴォルデモートが戻したに違いない−−−。  「−−−ヴォルデモートが就職を頼みにきた夜だ!」 ハリーは推理し終わった。  「え?」  「あいつは、髪飾りを城に隠した。学校で教えさせてほしいと、ダンブルドアに頼みにきた夜に!」  声に出して言ってみることで、ハリーにはすべてがはっきりわかった。  「あいつは、ダンブルドアの校長室に行く途中か、そこから戻る途中で、髪飾りを隠したに違いない! ついでに、教職を得る努力をしてみる価値はあった−−−それがうまくいけば、グリフィンドールの剣も手に入れるチャンスができたかもしれなかったから−−−ありがとう。ありがとう!」  当惑しきった顔で浮かんでいるレディをそこに残したまま、ハリーはその場を離れた。 玄関ホールに戻る角を曲がったとき、ハリーは腕時計を確かめた。 真夜中まであと五分。最後の分霊箱が何かはわかったものの、それがどこにあるかは、相変わらずさっぱりわからない……。  何世代にわたって、生徒が探しても見つけられなかった、ということは、たぶん髪飾りはレイプンクローの塔にはない−−−しかし、そこにないなら、どこだ?  永久に秘密であり続けるような場所として、トム・リドルは、ホグワーツ城にどんな隠し場所を見つけたのだ?  必死に推理しながらハリーは角を曲がったが、その廊下を二、三歩も歩かないうちに、左側の窓が大音響とともに割れて開いた。 ハリーが飛び退くと同時に、窓から巨大な体が飛び込んできて反対側の壁にぶつかった。 何だか大きくて毛深いものが、キュンキュン鳴きながら到着したばかりの巨体から離れて、ハリーに飛びついた。  「ハグリッド!」  髭もじゃの巨体が立ち上がったのを見て、ハリーは、じゃれつくボアバウンド犬のファングを引き離そうと苦戦しながら、大声で呼びかけた。  「いったい−−−?」  「ハリー、ここにいたか! 無事だったんか?」  ハグリッドは身を屈めて、肋骨が折れそうな力で、ちょっとだけハリーを抱きしめ、それから大破した窓辺に戻った。  「グロウピー、いい子だ?」  ハグリッドは窓の穴から大声で言った。  「すぐ行くからな、いい子にしてるんだぞ!」  ハグリッドの向こうの夜の闇に、炸裂する遠い光が見え、不気味な、泣き叫ぶような声が聞こえた。 時計を見ると、真夜中だった。戦いが始まっていた。 「オーッ、ハリー」 ハグリッドが喘ぎながら言った。 「ついに来たな、え? 戦うときだな?」 「ハグリッド、どこから来たの?」 「洞穴で、『例のあの人』の声を聞いてな」 ハグリッドが深刻な声で言った。 「遠くまで響く声だったろうが?『ポッターを俺様に差し出すのを、真夜中まで待ってやる』。そんで、おま えさんがここにいるに違えねえってわかった。何がおっぱじまっているかがわかったのよ。 ファング、こら、離れろつちゅうに。そんで、加わろうと思ってやってきた。俺とグロウピーとファングとでな。森を通って境界を突破したっちゅうわけよ。グロウピーが、俺とファングを運んでな。あいつに、城で降ろしてくれっちゅうたら、窓から俺を突っ込んだ。まったく。そういう意味じゃぁなかったんだが。ところで−−−ロンとハーマイオニーはどこだ?」 「それは−−−」 ハリーが言った。 「いい質問だ。行こう」 二人は廊下を急いだ。ファングはその傍らを飛び跳ねながら従いてきた。 廊下という廊下から、人の動き回る音が聞こえてきた。走り回る足音、叫ぶ声。窓からは、暗い校庭にまた何本もの閃光が走るのが見えた。  「どこに行くつもりだ?」  ハリーのすぐ後ろからドシンドシンと床板を震わせて急ぎながら、ハグリッドが息を切らして聞いた。  「はっきりわからないんだ」  ハリーは、行き当たりばったりに廊下を曲がりながら、言った。  「でも、ロンとハーマイオニーは、どこか、このあたりにいるはずだ」  戦いの最初の犠牲者が、すでに行く手の通路に散らばっていた。 いつも職員室の入口を護衛していた一対の石のガーゴイル像が、どこか壊れた窓から流れてきた呪いに破壊され、残骸が床でピクビクと力なく動いていたのだ。 ハリーが胴体から離れた首の一つを飛び越えたとき、首が弱々しく呻いた。 「ああ、俺にかまわずに……ここでバラバラのまま横になっているから……」 その醜い顔が、突然、ゼノフィリウスの家で見たロウエナ・レイプンクローの大理石の胸像を思い出させた。 あのばかばかしい髪飾りをつけた像−−−それから、白い巻き毛の上に石の髪飾りをつけた、レイプンクローの塔の像……。  そして、廊下の端まで来たときに、三つ目の石の彫像の記憶が戻ってきた。 あの年老いた醜い魔法戦士の像……その頭にハリー自身が鬘を被せ、その上に古い黒ずんだティアラを置いた−−−。 ファイア・ウィスキーを飲んだような熱い衝撃が体を貫き、ハリーは転びかけた。  ついにハリーは、自分を待ち受けている分霊箱の在り処を知った……。  誰も信用せず、一人で事を運んだトム・リドルは、倣慢にも、自分だけがホグワーツ城の奥深い神秘に入り込むことができると思ったのだろう。 もちろん、ダンブルドアやフリットウィックのような模範生は、あのような場所に足を踏み入れることはなかった。 しかし、この自分は、学校の誰もが通る道から外れたところを彷裡った−−−ここに、ハリーとヴォルデモートだけが知る秘密があった。 ダンブルドアが見つけることのなかった秘密を、とうとうハリーは見つけたのだ−−−。  そのとき、ネビルと、ほかに六人ほどの生徒を連れて嵐のように走り去るスプラウト先生に追い越され、ハリーは我に返った。 全員が耳当てをつけ、大きな鉢植え植物のような物を抱えている。  「マンドレイクだ!」  走りながら振り返ったネビルが、大声で言った。  「こいつを城壁越しにあいつらにお見舞いしてやる−−−きっといやがるぞ!」  どこに行くべきかがわかったハリーは、全力で走った。その後ろを、ハグリッドとファングが早駆けで従いてきた。 次々と肖像画の前を通り過ぎたが、絵の主たちもハリーたちと一緒に走っていた。 肖像画の魔法使いや魔女たちが、襲襟や中世の半ズボン姿で、あるいは鎧やマント姿で、互いのキャンバスになだれ込んではぎゅう詰めになり、城のあちこちで何が起きているかを大声で知らせ合っていた。 その廊下の端まで来たとき、城全体が揺れた。大きな花瓶が、爆弾の炸裂するような力で台座から吹き飛ばされたのを見て、ハリーは、先生たちや騎士団のメンバーがかけた呪文より破壊的で不吉な呪いが、城をとらえたことを悟った。  「大丈夫だ、ファング−−−大丈夫だっちゅうに!」  ハグリッドが叫んだが、図体ばかりがでかいボアバウンド犬は、花瓶の破片が楷散弾のように降ってくる中を、一目散に逃げ出した。ハグリッドは怖気づいた犬を追って、ハリーを一人残し、ドタドタと走り去った。  ハリーは杖を構え、揺れる通路を押し進んだ。その廊下の端から端まで、小柄な騎士の絵のカドガン卿が、鎧をガチャつかせ、ハリーへの激励の言葉を叫びながら、絵から絵へと走り込んで従いてきた。 カドガン卿のあとからは、太った小さなポニーがトコトコと駆けてきた。  「ほら吹きにゴロッキめ、犬に悪党め、追い出せ、ハリー・ポッター、追い払え!」  廊下の角を素早く曲がったところで、フレッドと、リー・ジョーダン、ハンナ・アポットらの少数の生徒たちが、城に続く秘密の抜け穴を隠している像の、主のいない台座のそばに立っているのを見つけた。 全員が杖を抜き、隠された穴の物音に耳を澄ましている。  「打ってつけの夜だぜ!」  城がまた揺れたとき、フレッドが叫んだ。 ハリーは高揚感と恐怖が交じり合った気持で、その傍らを駆け抜けた。 次の廊下を全力疾走しているときに、あたりがふくろうだらけになった。 ミセス・ノリスが威嚇的な鳴き声を上げながら、前脚で叩き落そうとしていた。 ふくろうを収まるべき場所に戻そうとしていたに違いない……。  「ポッター!」  アバーフォース・ダンブルドアが、杖を構えて、行く手に立ち塞がっていた。  「俺のパブを、何百人という生徒が雪崩を打って通り過ぎていったぞ、ポッター!」  「知っています。避難したんです」 ハリーが言った。 「ヴォルデモートが−−−」  「−−−襲撃してくる。おまえを差し出さなかったから。うん」 アバーフォースが言った。 「耳が聞こえないわけじゃないからな。ホグズミード中があいつの声を聞いた。しかし、スリザリンの生徒を二、三人、人質に取ろうとは、誰も考えなかったのか? 無事に逃がした子の中には、死喰い人の子どもたちもいる。何人か、ここに残しておくほうが利口だったのじゃないか?」 「そんな事でヴォルデモートを止められはしない」ハリーは言った。 「それにお兄さんなら、そんなことは決してしなかったでしょう」  アバーフォースはフンと唸って、急いでハリーと反対方向に去っていった。  あなたのお兄さんなら、そんなことは決してしなかった……そう、それは本当のことだ。 ハリーは再び走り出しながら、そう思った。 長年スネイプを擁護してきたダンブルドアだ。生徒を人質に取ることなど、決してしなかっただろう……。  最後の曲り角を横滑りしながら曲がったとたん、ロンとハーマイオニーが目に入った。 安心感と怒りで、ハリーは叫び声を上げた。 二人とも両腕一杯に、何か大きくて曲がった汚い黄色い物を抱え、ロンは箒を小脇に抱えていた。  「いったい、どこに消えていたんだ?」 ハリーが怒鳴った。  「『秘密の部屋』」 ロンが答えた。 「秘密の−−−えっ?」 二人の前でよろけながら急停止して、ハリーが聞き返した。 「ロンなのよ。全部ロンの考えよ!」 ハーマイオニーが、息を弾ませながら言った。 「とってもすごいと思わない? あなたが出ていってから、私たちあの『部屋』に残っていて、私がロンに言ったの。ほかの分霊箱を見つけても、どうやって壊すの? まだカップも片付けていないわ! そう言ったの。そしたらロンが思いついたのよ! バジリスク!」  「いったいどういう−−−?」  「分霊箱を破壊するためのものさ」 ロンがさらりと言った。  ハリーは、ロンとハーマイオニーが両腕に抱えているものに目を落とし、それが、死んだバジリスクの頭蓋からもぎ取った、巨大な曲がった牙だと気づいた。  「でも、どうやってあそこに入ったんだ?」  ハリーは、牙とロンを交互に見つめながら聞いた。  「蛇譜を話さなきゃならないのに!」  「話したのよ!」 ハーマイオニーが囁くように言った。 「ロン、ハリーにやってみせて!」  ロンは、恐ろしい、喉の詰まるようなシューシューという音を出した。  「君がロケットを開けるとき、こうやったのさ」  ロンは申し訳なさそうに言った。 「ちゃんとできるまでに、何回か失敗したけどね、でも」  ロンは謙遜して肩をすくめた。 「僕たち、最後にはあそこに着いたのさ」  「ロンはすーばらしかった!」 ハーマイオニーが言った。 「すばらしかったわ!」  「それで……」  何とか話に退いていこうと努力しながら、ハリーが促した。  「それで……」 「それで分霊箱、もう一丁上がりだ」  そう言いながらロンは、上着の中から壊れたハッフルパフのカップの残骸を引っ張り出した。  「ハーマイオニーが刺したんだ。彼女がやるべきだと思ったのき。ハーマイオニーは、まだその楽しみを味わってなかったからね」  「すごい!」 ハリーが叫んだ。  「たいしたことはないさ」  そう言いながらも、ロンは得意げだった。  「それで、君のほうは、何があった?」  その言葉が終わらないうちに、上のほうで爆発音がした。三人がいっせいに見上げると、天井から埃が落ちてくるのと同時に、遠くから悲鳴が聞こえた。  「髪飾りがどんな形をしていて、どこにあるかがわかった」  ハリーは早口で話した。  「あいつは、僕が古い魔法薬の教科書を隠した場所と、おんなじところに隠したんだ。何世紀にもわたって、みんなが隠し場所にしてきたところだ。あいつは、自分しかその場所を見つけられないと思ったんだ。行こう」  壁がまた揺れた。ハリーは二人の先に立って、隠れた入口から階段を下り、「必要の部屋」に戻った。 三人の女性以外は誰もいない。 ジニー、トンクス、それに、虫食いだらけの帽子を被った老魔女だ。 それがネビルの祖母だと、ハリーはすぐにわかった。  「ああ、ポッター」  老魔女は、ハリーを待っていたかのように、てきぱきと呼びかけた。  「何が起こっているか、教えておくれ」  「みんなは無事なの?」ジニーとトンクスが同時に聞いた。  「僕たちの知っているかぎりではね」 ハリーが答えた。 「『ホッグズ・ヘッド』への通路にはまだ誰かいるの?」  ハリーは、誰かが部屋の中にいるかぎり、「必要の部屋」は様変わりすることができないことを知っていた。  「わたくしが最後です」 ミセス・ロングボトムが言った。 「通路はわたくしが封鎖しました。 アバーフォースがパブを去ったあとに、通路を開けたままにしておくのは賢明ではないと思いましたからね。わたくしの孫を見かけましたか?」  「戦っています」 ハリーが言った。  「そうでしょうとも」老婦人は誇らしげに言った。 「失礼しますよ。孫の助太刀に行かねばなりません」  ミセス・ロングボトムは、驚くべき速さで石の階段に向かって走り去った。  ハリーはトンクスを見た。  「トンクス、お母さんのところで、テディと一緒のはずじゃなかったの?」  「あの人の様子がわからないのに、耐えられなくて−−−」  トンクスは苦渋を渉ませながら言った。  「テディは、母が面倒を見てくれるわ−−−リーマスを見かけた?」  「校庭で戦うグループを指揮する手はずだったけど−−−」  トンクスは、それ以上一言も言わずに走り去った。  「ジニー」 ハリーが言った。 「すまないけど、外に出ていてほしいんだ。ほんの少しの間だ。そのあとでまた戻ってきていいよ」  ジニーは、保護された場所から出られることが、うれしくてしかたがない様子だった。  「あとでまた戻ってきていいんだからね!」  トンクスを追って駆け上がっていくジニーの後ろ姿に向かって、ロンが叫んだ。  「戻ってこないといけないぞ!」  「ちょっと待った!」 ハリーが鋭い声を上げた。 「僕たち、誰かのことを忘れてる!」  「誰?」 ハーマイオニーが聞いた。  「屋敷しもべ妖精たち。全員下の厨房にいるんだろう?」  「しもべ妖精たちも、戦わせるべきだっていうことか?」 ロンが聞いた。  「違う」 ハリーがまじめに言った。 「脱出するように言わないといけないよ。ドビーの二の舞は見たくない。そうだろ? そんなこと絶対許されない−−−」  ハーマイオニーの両腕から、バジリスクの牙がバラバラ音を立てて落ちた。 ハリーに駆け寄り、その両腕をハリーの首に巻きつけて、ハーマイオニーはハリーの唇に熱烈なキスをした。 ハリーも、ハーマイオニーの体を床から持ち上げてしまうほど夢中になって、キスに応えた。  「そんなことをしてる場合か?」  ロンが力なく問いかけた。しかし何事も起こらないどころか、ハリーとハーマイオニーは、ますます固く抱き合ったままその場で体を揺らしていたので、ロンが声を荒らげた。  「おい! 戦いの真っ最中だぞ!」  ハリーとハーマイオニーは離れたが、両腕を互いに回し合ったままだった。  「わかってる。−−−分霊箱だ」 ハーマイオニーはハリーから離れて、顔を赤らめながら牙を拾いはじめた。  三人が階段を上って再び上の階に出てみると、「必要の部屋」にいた数分の間に、城の中の状況がかなり悪化したことが明らかだった。 壁や天井は前よりひどく振動し、あたり一面埃だらけで、いちばん近い窓からハリーが外を見ると、緑と赤の閃光が城の建物のすぐ下で炸裂するのが見え、死喰い人たちが、いまにも城に入るところまで近づいていることがわかった。 見下ろすと、巨人のグロウプが、屋根からもぎ取ったらしい石のガーゴイルのようなものを振り回して、不機嫌に吼えながらうろうろ歩いていくのが見えた。  「グロウプが、何人か踏んづけるように願おうぜ!」  近くからまた何度か響いてきた悲鳴を聞きながら、ロンが言った。  「味方じゃなければね!」  誰かが言った。ハリーが振り向くと、ジニーとトンクスが二人とも杖を抜き、隣の窓のところで構えていた。 窓ガラスが数枚なくなっている。ハリーが見ている間に、ジニーの呪いが、下の敵軍に正確に狙い定めて飛んでいった。  「娘さん、よくやった!」  埃の中からこちらに向かって走ってきた誰かが吼えた。 少人数の生徒を率いて、白髪を振り乱して走り抜けていくアバーフォースの姿を、ハリーは再び目にした。  「どうやら敵は北の胸壁を突破しょうとしている。敵側の巨人を引き連れているぞ!」  「リーマスを見かけた?」トンクスがアバーフォースの背に向かって叫んだ。  「ドロホフと一騎打ちしていた」 アバーフォースが叫び返した。 「そのあとは見ていない!」  「トンクス」ジニーが声をかけた。 「トンクス、ルーピンはきっと大丈夫−−−」  しかしトンクスはもう、アバーフォースを追って、埃の中に駆け込んでいた。  ジニーは、途方に暮れたように、ハリー、ロン、ハーマイオニーを振り返った。  「二人とも大丈夫だよ」虚しい言葉だと知りながら、ハリーが慰めた。  「ジニー、僕たちはすぐ戻るから、危ない場所から離れて、安全にしていてくれ−−−さあ、行こう!」  ハリーは、ロンとハーマイオニーに呼びかけ、三人は「必要の部屋」 の前の壁まで駆け戻った。壁の向こう側で、「部屋」が次の入室者の願いを待っている。  僕は、すべての物が隠されている場所が必要だ。  ハリーは顔の中で部屋に頼み込んだ。三人が壁の前を三度走り過ぎたとき、扉が現れた。  三人が中に入って扉を閉めたとたん、戦いの騒ぎは消えた。あたりは静まり返っていた。三 人は、都市のような外観の、大聖堂のように広大な場所に立っていた。大昔からの、何千人と いう生徒たちが隠した品物が積み重なって、見上げるような壁になっている。  「それじゃ、あいつは、誰でもここに入れるとは考えなかったわけか?」  ロンの声が静寂の中で響いた。 「あいつは自分一人だけだと思ったんだ」 ハリーが言った。 「僕の人生で、隠し物をしなくちゃならないときがあったというのが、あいつの不運さ……こっちだ」  ハリーは二人を促した。  「こっちの並びだと思う……」  ハリーはトロールの剥製を通り過ぎ、ドラコマルフォイが去年修理して、悲惨な結果をもたらした「姿をくらますキャビネット棚」 の前を通った。 それから先は、ガラクタの間の通路を端から端まで見ながら迷った。次はどう行くのかが思い出せなかった……。  「アクシオ! 髪飾りよ、来い!」 必死のあまり、ハーマイオニーが大声で唱えたが、三人に向かって飛んでくる物は何もなかった。 グリンゴッツの金庫と同じで、どうやらこの部屋は、隠してある品を、そうやすやすとは引き渡さないようだ。  「手分けして探そう」 ハリーが二人に言った。 「老魔法戦士の石像を探してくれ。鬘を被ってティアラをつけているんだ! 戸棚の上に載っている像だ。絶対にこの近くなんだけど……」  三人は、それぞれ隣合せの通路へと急いだ。そびえるガラクタの山の間に二人の足音が響くのが、ハリーの耳に入ってきた。瓶や帽子、木箱、椅子、本、武器、箒にバット……。  「どこかこの近くだ」  ハリーは、一人でプツプツ言った。  「このへんだ……このへん……」  以前に一度入ったときに、この部屋で見た覚えのある品物を探して、ハリーはだんだん迷路の奥深く進んでいった。 自分の呼吸がはっきり聞こえた。そして−−−魂そのものが震えるような気がした−−−見つけた。 すぐそこに、ハリーが古い魔法薬の教科書を隠した、表面がボコボコになった古い戸棚が見え、その上に、痘痕面の石像が、竣っぼい古い賞を被り、とても古そうな黒ずんだティアラをつけている。  まだ三メートルほど先だったが、ハリーはもう手を伸ばしていた。 そのとき、背後で声がした。  「止まれ、ポッター」  ハリーはどきりとして振り向いた。クラップとゴイルが杖をハリーに向け、肩を並べて立っていた。 ニヤニヤ笑う二人の顔の間の小さな隙間に、ハリーはドラコ・マルフォイの姿を見つけた。  「おまえが持っているのは、僕の杖だぞ、ポッター」  クラップとゴイルの間の隙間から、杖をハリーに向けて、マルフォイが言った。  「いまは違う」  ハリーはサンザシの杖をぎゅっと握り、喘ぎながら言った。  「勝者が杖を持つんだ、マルフォィ。おまえは誰から借りた?」  「母上だ」ドラコが言った。  別におかしい状況ではないのに、ハリーは笑った。 ロンの足音もハーマイオニーのも、もう聞こえなくなっていた。 髪飾りを探して、二人ともハリーの耳には届かない距離まで走っていってしまったらしい。  「それで、三人ともヴォルデモートと一緒じゃないのは、どういうわけだ?」  ハリーが問いかけた。  「俺たちはご褒美をもらうんだ」  クラップの声は、図体のわりに、驚くほど小さかった。ハリーはこれまで、クラップが話すのをほとんど聞いたことがなかった。 クラップは、大きな菓子袋をやると約束された幼い子どものような笑いを浮かべていた。  「ポッター、俺たちは残ったんだ。出ていかないことにした。おまえを『あの人』のところに連れていくことに決めた」  「いい計画だ」  ハリーは誉めるまねをして、からかった。あと一歩というときに、まさかマルフォィ、クラップ、ゴイルに挫かれようとは。ハリーはじりじりと後退りして、石の胸像の顔にずれて載っている分霊箱に近づいた。 戦いが始まる前に、それを手に入れることさえできれば……。  「ところで、どうやってここに入った?」三人の注意を逸らそうとして、ハリーが聞いた。  「僕は去年、ほぼ一年間『隠された品の部屋』に住んでいたようなものだ」  マルフォイの声はピリピリしていた。 「ここへの入り方は知っている」  「俺たちは外の廊下に隠れていたんだ」ゴイルがプープー唸るような声で言った。 「俺たちはもう、『目くろます術』ができるんだぞ!」ゴイルの顔が、間抜けなニヤニヤ笑いになった。 「そしたら、おまえが目の前に現れて、髪ぐさりを探してるって言った! 髪ぐさりってなんだ?」  「ハリー?」 突然ロンの声が、ハリーの右側の壁の向こうから響いてきた。 「誰かと話してるのか?」 鞭を振るような動きで、クラップは十五、六メートルもある壁に杖を向けた。古い家具や壊れたトランク、古本やロープ、そのほか何だかわからないガラクダが山のように積み上げられた壁だ。そして叫んだ。 「ディセンド!<落ちろ>」 壁がぐらぐら揺れ出して、 ロンのいる隣の通路に崩れ落ちかかった。 「ロン!」 ハリーが大声で呼ぶと、どこか見えないところからハーマイオニーの悲鳴が上がり、不安定になった山から壁の向こう側に大量に落下したガラクタが、床に衝突する音が聞こえた。 ハリーは杖を壁に向けて叫んだ。  「フイニ−ト!<終われ>」  すると壁は安定した。  「やめろ!」  呪文を繰り返そうとするクラップの腕を押さえて、マルフォイが叫んだ。  「この部屋を壊したら、その髪飾りとやらが埋まってしまうかもしれないんだぞ!」  「それがどうした?」クラップは腕をぐいと振りほどいた。 「闇の帝王がほしいのはポッターだ。髪ぐさりなんか、誰が気にするってんだ?」  「ポッターは、それを取りにここに来た」  マルフォイは、仲間の血の巡りの悪さにイライラを隠せない口調だった。  「だから、その意味を考えろ−−−」  「『意味を考えろ』だぁ?」  クラップは狂暴性をむき出しにして、マルフォイに食ってかかった。  「おまえがどう考えようと、知ったことか! ドラコ、おまえの命令なんかもう受けないぞ。おまえも、おまえの親父も、もうおしまいだ」  「ハリー?」 ロンが、ガラクタの壁の向こうから再び叫んだ。「どうなってるんだ?」  「ハリー?」 クラップが口まねした。 「どうなってるんだ?−−−動くな、ポッター! クル−シオ!<苦しめ>」  ハリーはティアラに飛びついていた。クラップの呪いはハリーを逸れたが、石像に当たり、石像が宙に飛んだ。 髪飾りは高く舞い上がり、石像が載っていたガラクタの山の中に落ちて見えなくなった。  「やめろ!」  マルフォイがクラップを怒鳴りつけた。その声は、巨大な部屋に響き渡った。  「闇の帝王は、生きたままのポッターをお望みなんだ−−−」  「それがどうした? いまの呪文は殺そうとしていないだろう?」  クラップは、自分を押さえつけているマルフォイの手を払い退けながら叫んだ。  「生憎、俺は、やれたら殺ってやる。闇の帝王はどっちみち、やつを殺りたいんだ。どこが違うって言−−−?」  真っ赤な閃光がハリーをかすめて飛び去った。ハーマイオニーがハリーの背後から、角を回って走り寄り、クラップの頭目がけて「失神の呪文」を放ったのだ。マルフォイがクラップを引いて避けたために、わずかのところで呪文は的を外れた。  「あの『穢れた血』だ! アバダ・ケダブラ!」 ハリーは、ハーマイオニーが横っ跳びにかわすのを見た。 クラップは殺すつもりで狙いをつけていた。ハリーの怒りが爆発し、ほかのいっさいが頭から吹き飛んでしまった。 ハリーはクラップ目がけて「失神の呪文」を撃ったが、クラップは呪文を避けるのにグラツとよろけ、弾みでマルフォイの杖を手から弾き飛ばした。 杖は、壊れた家具や箱の山の下に転がり、見えなくなった。  「やつを殺すな! やつを殺すな!」  マルフォイが、ハリーに狙いをつけているクラップとゴイルに向かって叫んだ。 二人が一瞬躊躇した隙を、ハリーは逃さなかった。 「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」 ゴイルの杖が手から離れて飛び、脇のガラクタの防壁の中に消えた。 ゴイルは取り戻そうとして、その場で虚しく飛び上がった。 ハーマイオニーが第二弾の 「失神の呪文」を放ち、マルフォイが飛び退いた。 ロンが突然通路の端に現れ、クラップ目がけて「全身金縛り術」を発射したが、惜しくも逸れた。  クラップはくるりと向きを変え、またしても「アバタ・ケダブラ!」と叫んだ。 ロンは緑の閃光を避けて飛び退き、姿を隠した。 ハーマイオニーが攻撃を仕掛け、ゴイルに「失神呪文」を命中させたが、杖を失ったマルフォイは、攻撃を避けて三本脚の洋服箪笥の陰に縮こまった。  「どこか、このへんだ!」  ハリーは、古いティアラが落ちたあたりのガラクダの山を指しながら、ハーマイオニーに向かって叫んだ。  「探してくれ。僕はロンを助けに−−−」  「ハリー!」 ハーマイオニーが悲鳴を上げた。  背後から押し寄せる轟々という唸りで、ハリーはただならぬ危険を感じた。 振り返ると、ロンとクラップが、こちらに向かって全速力で走ってくるのが見えた。  「ゴミどもめ、熱いのが好きか?」クラップが走りながら吼えた。 しかし、クラップ自身が、自分のかけた術を制御できないようだった。 異常な大きさの炎が、両側のガラクタの防壁を舐め尽くしながら、二人を追っていた。 炎が触れたガラクタは、煤になって崩れ落ちていた。  「アグアメンテイ!<水よ>」  ハリーが声を張り上げたが、杖先から噴出した水は、空中で蒸発した。  「逃げろ!」  マルフォイは、「失神」しているゴイルをつかんで引きずったが、クラップは、いまや怯えた顔で、全員を追い越して逃げ去った。 そのあとを追って飛ぶように走るハリー、 ロン、ハーマイオニーのすぐ後ろから、炎が追いかけてきた。尋常な火ではない。 クラップは、ハリーのまったく知らない呪いを使ったのだ。 全員が角を曲がると炎はまるで知覚を持った生き物が、全員を殺そうとして襲ってくるかのように迫ってきた。 しかも、炎はいまや突然姿を変え、巨大な炎の怪獣の群れになっていた。 大蛇、キメラ、ドラゴンが、めらめらと立ち上がり、伏せ、また立ち上がった。 何世紀にもわたって堆積してきた瓦礫の山は、怪獣の餌食になり、宙に放り投げられ、 牙をむいた怪獣の口に投げ込まれたり、脚の鈎爪に蹴り上げられて、最後には地獄の炎に焼き尽くされた。  マルフォィ、クラップ、ゴイルの姿が見えなくなった。 ハリーとロン、ハーマイオニーは、追い詰められ、炎に取り囲まれた。 炎の怪獣は爪を立て角を振り、尻尾を打ち鳴らして徐々に囲みを狭め、炎の熟が、強固な壁のように三人を包んだ。  「どうしましょう?」  ハーマイオニーが、耳を聾する炎の轟音の中で叫んだ。  「どうしたらいいの?」  「これだ!」  ハリーはいちばん手近なガラクタの山から、がっしりした感じの箒を二本つかんで、一本をロンに放った。 ロンはハーマイオニーを引き寄せて後ろに乗せ、ハリーは二本目の箒にばっと跨った。 三人は強く床を蹴り、宙に舞い上がった。 噛みつこうとする炎の猛禽のとげとげした嘴は、ほんの二、三十センチのところで獲物を逃した。 煙と熟は耐え難い激しさだった。 眼下では、呪いの炎が、お尋ね者の生徒たちが何世代にもわたって持ち込んだ禁制品を、何千という禁じられた実験の罪深い結果を、そしてこの部屋に避難した数えきれない人々の秘密を焼き尽くしていた。 マルフォイやクラップ、ゴイルは、影も形も見えない。 ハリーは、三人を探して、略奪の炎の怪獣すれすれまで舞い降りたが、見えるのは炎ばかりだった。 なんて酷い死に方だ……ハリーは、こんな結果を望んではいなかった……。  「ハリー、脱出だ、脱出するんだ!」  ロンが叫んだが、黒煙の立ち込める中で、扉がどこにあるのか見えなかった。  そのとき、ハリーは、大混乱のただ中に、燃え盛る轟々たる音の中に、弱々しく哀れな叫び声を聞きつけた。  「そんなこと−−−危険−−すぎる−−−−−!」  ロンの叫びを背後に聞きながら、ハリーは空中旋回していた。 メガネのおかげで煙から多少は護られ、ハリーは眼下の火の海を隅なく見回した。 誰かが生きている徴はないか、手足でも顔でもいい、まだ炭になっていないものはないか……。  見えた。 マルフォイが、気を失ったゴイルを両腕で抱えたまま、焦げた机の積み重なった、いまにも崩れそうな塔の上に乗っていた。 ハリーは突っ込んだ。 マルフォイはハリーがやって来るのを見て、片腕を上げた。 ハリーはその腕をつかんだが、これではだめだとすぐわかった。ゴイルが重すぎる。 それに、汗まみれのマルフォイの手は、すぐにハリーの手から滑り落ちた−−−。  「そいつらのために僕たちが死ぬことになったら、君を殺すぞ、ハリー!」  ロンが吼えた。 巨大な炎のキメラがロンたちに襲いかかった瞬間、ロンとハーマイオニーがゴイルを箒に引っ張り上げ、縦に横にと揺れながら、再び上昇した。 マルフォイは、ハリーの箒の後ろに這い上がった。  「扉だ。扉に行け。扉だ!」  マルフォイが、ハリーの耳に叫んだ。 逆巻く黒煙で息もつけず、ハリーはスピードを上げてロン、ハーマイオニー、ゴイルのあとに続いた。 周囲には、貪欲な炎を免れた最後の品々が、巻き上げられて飛んでいた。 呪いの炎の怪獣たちは、勝利の祝いに、残った品々を高々と放り上げていた。 優勝カップや盾、輝くネックレスや黒ずんだ古いティアラ……。  「何をしてる?何をしてるんだ!扉はあっちだ!」  マルフォイが叫んだが、ハリーはヘアピンカーブを切って飛び込んだ。 髪飾りは、スローモーションで落ちていくかのように見えた。 大きく口を開けた大蛇の胃袋に向かって、回りながら、輝きながら落ちていく。 その瞬間、ハリーは髪飾りを捕らえた。 手首にそれを引っ掛けた−−−。  大蛇がハリーに向かって鋭く襲いかかったが、ハリーは再び旋回していた。 そして高々と舞い上がり、扉があると思われるあたりを目指し、そこに扉が開いていることを祈りながら、一直線に飛んだ。 ロン、ハーマイオニー、ゴイルの姿はもうなかった。 マルフォイは悲鳴を上げて、痛いほど強くハリーにしがみついていた。 そのとき、煙を通して、ハリーは壁に長方形の切れ目があるのを見つけ、箒を向けた。 次の瞬間、清浄な空気がハリーの肺を満たし、二人は廊下の反対側の壁に衝突した。 マルフォイは箒から落下し、息も絶え絶えに咳き込み、ゲーゲー言いながら、うつ伏せになって横たわっていた。 ハリーは転がって、上半身を起こした。 「必要の部屋」 の扉はすでに消え、ロンとハーマイオニーが、床に座り込んで喘いでいた。 傍らには、まだ気を失ったままのゴイルがいた。  「ク−−−クラップ」  マルフォイは、口がきけるようになるとすぐ、喉を詰まらせながら言った。  「ク−−−クラップ」  「あいつは死んだ」 ロンが厳しい口調で言った。  しばらくの間、喘いだり咳き込んだりする音以外は何も聞こえなかった。 やがて、バーンという大きな昔が、何度も城を揺るがし、透明な騎馬隊の大軍が疾駆していった。 騎乗者の腋の下に抱えられた頭が、血に飢えた叫びを上げていた。 「首無し狩人」 の一行が通り過ぎた後、ハリーはよろよろと立ち上がり、あたりを見回した。 どこもかしこも戦いの最中だった。 退却するゴーストの群れの叫びよりも、もっと多くの悲鳴が聞こえてきた。 ハリーは突然戦懐を覚えた。  「ジニーはどこだ?」 ハリーが鋭い声を上げた。 「ここにいたのに。『必要の部屋』に戻ることになっているのに」  「冗談じゃない、あんな大火事のあとで、この部屋がまだ機能すると思うか?」  そう言いながらロンも立ち上がって、胸をさすりながら左右を見回した。  「手分けして探すか?」  「ダメよ」立ち上がったハーマイオニーが言った。  マルフォイとゴイルは、床に力なく伸びたままだった。二人とも杖がない。  「離れずにいましょう。さあ、行きましょうか−−−ハリー、腕に掛けてる物、何?」  「えっ? ああ、そうだ−−−」  ハリーは手首から髪飾りを外し、目の前に掲げた。 まだ熱く、煤で黒くなっていたが、よく見ると小さな文字が彫ってあるのが読めた。  計り知れぬ英知こそ、われらが最大の宝なり  黒くねっとりした血のようなものが、髪飾りから流れ出ているように見えた。 突然、髪飾りが激しく震え、ハリーの両手の中で真っ二つに割れた。 そのとたん、ハリーは、遠くからの微かな苦痛の叫びを聞いたように思った。 校庭からでも城からでもなく、たったいまハリーの手の中でバラバラになった物から響いてくる悲鳴だった。  「あれは『悪霊の火』だったに違いないわ!」 砕けた破片に目をやりながら、ハーマイオニーが啜り泣くような声で言った。 「えっ?」 「『悪霊の火』− 呪われた火よ−−−分霊箱を破壊する物質の一つなの。でも私なら絶対にそれを使わなかったわ。危険すぎるもの。クラップは、いったいどうやってそんな術を−−−?」  「カロー兄妹から習ったに違いない」 ハリーが暗い声で言った。  「やつらが止め方を教えたときに、クラップがよく聞いていなかったのは残念だぜ。まったく」 ロンが言った。  ロンの髪は、ハーマイオニーの髪と同じく焦げて、顔は煤けていた。  「クラップのやつが僕たちを皆殺しにしようとしてなけりや、死んじゃったのはかわいそうだけどさ」  「でも、気がついてるかしら?」 ハーマイオニーが囁くように言った。 「つまり、あとはあの大蛇を片付ければ−−−」  しかし、ハーマイオニーは言葉を切った。 叫び声や悲鳴が聞こえ、まざれもない戦いの物音が廊下一杯に聞こえはじめたからだ。 周りを見回して、ハリーはどきりとした。 死喰い人がホグワーツに侵入していた。 仮面とフードを被った男たちと、それぞれ一騎打ちしているフレッドとパーシーの後ろ姿が見えた。  ハリーもロンもハーマイオニーも、加勢に走った。 閃光があらゆる方向に飛び交い、パーシーの一騎打ちの相手が急いで飛び退いた。 とたんにフードが滑り落ちて、飛び出した額とすだれ状の髪が見えた−−−。  「やあ、大臣!」  パーシーがまっすぐシックネスに向けて、見事な呪いを放った。 シックネスは杖を取り落とし、ひどく気持が悪そうにローブの前を掻きむしった。  「辞職すると申し上げましたかね?」  「パース、ご冗談を!」  自分の一騎打ちの相手が、三方向からの 「失神の呪文」を受けて倒れたところで、フレッドが叫んだ。 シックネスは、体中から小さな棘を生やして床に倒れた。 どうやらウニのようなものに変身していく様子だった。 フレッドはパーシーを見て、うれしそうにニヤッと笑った。  「パース、マジ冗談言ってくれるじゃないか……おまえの冗談なんか、いままで一度だって−−−」  空気が爆発した。全員が一緒だったのにハリー、ロン、ハーマイオニー、フレッド、パーシー、そして死喰い人たち。 一人は「失神」し、一人は「変身」して足元に倒れている死喰い人も含めて、みんな一緒だったのに。 一瞬のうちに、危険が一時的に去ったと思ったその一瞬のうちに、世界が引き裂かれた。 ハリーは空中に放り出されるのを感じた。 唯一の武器である細い一本の棒をしっかり握り、両腕で頭をかばうことしかできなかった。 仲間の悲鳴や叫びは聞こえても、その人たちがどうなったかは知るよしもない−−−。  引き裂かれた世界は、やがて収まり、薄暗い、痛みに満ちた世界に変わった。 ハリーの体は、猛攻撃を受けた廊下の残骸に半分埋まっていた。 冷たい空気で、城の側壁が吹き飛ばされたことがわかり、頬に感じる生温かいねっとりしたもので、ハリーは自分が大量に出血していることを知った。 そのとき、ハリーは内臓を締めつけるような、悲しい叫びを聞いた。 炎も呪いも、こんな苦痛の声を引き出すことはできない。 ハリーはふらふらと立ち上がった。その日一日で、こんなに怯えたことはない、たぶんいままでの人生で、こんなに怖かったことはない……。  ハーマイオニーが、瓦礫の中からもがきながら立ち上がった。 壁が吹き飛ばされた場所の床に、三人の赤毛の男が肩を寄せ合っていた。 ハリーはハーマイオニーの手を取って、二人で石や板の上をよろめき、つまずきながら近づいた。  「そんな−−−そんな−−−そんな!」誰かが叫んでいた。 「ダメだ?フレッド! ダメだ!」  パーシーが弟を揺すぶり、その二人の脇にロンがひざまずいていた。 フレッドの見開いた両目は、何も見てはいない。最後の笑いの名残が、その顔に刻まれたままだった。  世界の終わりが来た。それなのになぜ戦いをやめないのか?  なぜ城が恐怖で静かにならず、戦う者全員が武器を捨てないのか?  ハリーは、ありえない現実が飲み込めず、心は奈落へと落ちていった。 フレッド・ウィーズリーが死ぬはずはない。 自分の感覚のすべてが嘘をついているのだ−−−。  そのとき、爆破で側壁にあいた穴から、誰かが上から落下していくのが見えた。 暗闇から呪いが飛び込んできて、みんなの頭の後ろの壁に当たった。  「伏せろ!」  ハリーが叫んだ。呪いが闇の中から次々と飛び込んできていた。ハリーがハーマイオニーを抱き寄せて、床に伏せさせた。 パーシーはフレッドの死体の上に覆いかぶさり、これ以上弟を傷つけさせまいとしていた。  「パーシー、さあ行こう。移動しないと!」  ハリーが叫んだが、パーシーは首を振った。  ロンが、兄の両肩をつかんで引っ張ろうとした。 煤と埃で覆われたロンの顔に、幾筋もの涙の跡がついているのをハリーは見た。 しかしパーシーは動かなかった。 「パーシー!」 「パーシー、フレッドはもうどうにもできない! 僕たちは−−−」 ハーマイオニーが悲鳴を上げた。 振り返ったハリーは、理由を聞く必要がなくなった。 小型自動車ほどの巨大な蜘味が、側壁の大きな穴から適い登ろうとしていた。 アラゴグの子孫の一匹が、戦いに加わったのだ。  ロンとハリーが、同時に呪文を叫んだ。 呪文が命中し、怪物蜘味は仰向けに吹っ飛んで、肢を気味悪くピクビク痩攣させながら闇に消えた。  「仲間を連れてきているぞ!」  呪いで吹き飛ばされた穴から、城の端をちらりと見たハリーが、みんなに向かって叫んだ。 「禁じられた森」から解放された巨大蜘味が、次々と城壁を這い登ってくる。 死喰い人たちは、「禁じられた森」に侵入したに違いない。 ハリーは大蜘味に向けて「失神の呪文」を発射し、先頭の怪物を、這い登ってくる仲間の上に転落させた。 大蜘味はすべて壁から転げ落ち、姿が見えなくなった。 そのときハリーの頭上を、いくつもの呪いが飛び越していった。 すれすれに飛んでいった呪文の力で、髪が巻き上げられるのを感じた。  「移動だ。行くぞ!」  ハーマイオニーを押してロンと一緒に先に行かせ、ハリーは屈んでフレッドの腋の下を抱え込んだ。 ハリーが何をしようとしているのかに気づいたパーシーは、フレッドにしがみつくのをやめて手伝った。 身を低くし、校庭から飛んでくる呪いをかわしながら、二人は力を合わせて、フレッドの遺体をその場から移動させた。  「ここに」 ハリーが言った。  二人は甲胃が不在になっている壁の窪みにフレッドの遺体を置いた。 ハリーは、それ以上フレッドを見ていることに耐えられず、フレッドがしっかり隠されていることを確かめてから、ロンとハーマイオニーを追った。 廊下はもうもうと埃が立ち込め、石が崩れ落ち、窓ガラスはとっくになくなっていた。 マルフォイとゴイルの姿はもうなかったが、廊下の端でハリーは、敵とも味方とも見分けのつかない大勢の人間が走り回っているのを目にした。  「ルックウッド!」  角を曲がったところで、パーシーが牡牛のような唸り声を上げ、生徒二人を追いかけている背の高い男に向かって突進した。  「ハリー、こっちよ!」 ハーマイオニーが叫んだ。  ハーマイオニーは、ロンをタペストリーの裏側に引っ張り込んでいた。 二人は揉み合っていた。 ハーマイオニーは、パーシーを追って駆け出そうとするロンを抑えようとしていたのだった。  「言うことを聞いて−−−ロン、聞いてよ!」  「加勢するんだ−−−死喰い人を殺してやりたい−−−」  埃と煤で汚れたロンの顔はくしゃくしゃに歪み、体は怒りと悲しみでわなわなと震えていた。  「ロン、これを終わらせることができるのは、私たちのほかにはいないのよ! お願い−−−ロン−−−あの大蛇が必要なの。大蛇を殺さないといけないの!」 ハーマイオニーが言った。  しかしハリーには、ロンの気持がわかった。 もう一つの分霊箱を探すことでは、仕返ししたい気持を満たすことはできない。 ハリーも戦いたかった。フレッドを殺したやつらを懲らしめてやりたかった。 それに、ウィーズリー一家のほかの人たちの無事を、確かめたかった。  「私たちだって戦うのよ、絶対に!」 ハーマイオニーが言った。 「戦わなければならないの。あの蛇に近づくために!でも、いま、私たちが何をすべきか、み−−−見失わないで!すべてを終わらせることができるのは、私たちしかいないのよ!」  ハーマイオニーも泣いていた。 説得しながら、焼け焦げて破れた袖で、ハーマイオニーは顔を拭った。 そして、ロンをしっかりつかんだまま、ハーマイオニーはフーッと探呼吸して自分を落ち着かせ、ハリーを見た。  「あなたは、ヴォルデモートの居場所を見つけないといけないわ。だって、大蛇はあの人が連れているんですもの。そうでしょう? さあ、やるのよ、ハリー−−−あの人の頭の中を見るのよ!」  どうしてそう簡単にそれができたのだろう?  傷痕が何時間も前から焼けるように痛み、ヴォルデモートの想念を見せたくてしかたがなかったからだろうか?  ハーマイオニーに言われるまま、ハリーが目を閉じると、叫びや爆発音、すべての耳障りな戦いの音は次第に消えていき、ついには遠くに聞こえる音になった。 まるでみんなから遠く離れたところに立っているかのようだった……。  彼は陰気な、しかし奇妙に見覚えのある部屋の真ん中に立っていた。 壁紙は剥がれ、一カ所を除いて窓という窓には板が打ちつけてある。 城を襲撃する音はくぐもって、遠くに聞こえた。 板のないただ一つの窓から、城の立つ場所に遠い閃光が見えてはいたが、部屋の中は石油ランプ一つしかなく暗かった。  杖を指で回して眺めながら、頭の中は、城のあの 「部屋」 のことを考えていた。 彼だけが見つけることのできた、秘められたあの 「部屋」。 「秘密の部屋」と同じように、あの 「部屋」を見つけるには、賢く、狡猾で、好奇心が強くなければならぬ……あの小僧には髪飾りは見つけられぬ、と彼には自信があった……しかし、ダンブルドアの操り人形めは、予想もしなかったほど深く進んできた……あまりにも深く……。  「わが君」  取りすがるような、しわがれた声で呼ばれて、彼は振り向いた。 いちばん暗い片隅に、ルシウス・マルフォイが座っていた。 ボロボロになり、例の男の子の最後の逃亡のあとに受けた懲罰の痕がまだ残っている。 片方の目が腫れ上がって、閉じられたままだった。  「わが君……どうか……私の息子は……」  「おまえの息子が死んだとしても、ルシウス、俺様のせいではない。スリザリンのほかの生徒のように、俺様の許に戻っては来なかった。おそらく、ハリー・ポッターと仲良くすることに決めたのではないか?」  「いいえ−−−決して」 ルシウスは囁くような声で言った。  「そうではないように望むことだな」  「わが君は−−−わが君は、ご心配ではありませんか? ポッターが、わが君以外の者の手にかかって死ぬことを」  ルシウスが声を震わせて聞いた。  「差し出がましく……お許しください……戦いを中止なさり、城に入られて、わが−−−わが君ご自身が、お探しになるほうが……賢明だとは思し召されませんか?」  「偽っても無駄だ、ルシウス。おまえが停戦を望むのは、息子の安否を確かめたいからだろう。俺様にはポッターを探す必要はない。夜の明ける前に、ポッターのほうで俺様を探し出すだろう」  ヴォルデモートは、再び指に挟んだ杖に目を落とした。 気に人らぬ……ヴォルデモート卿を煩わすものは、何とかせねばならぬ……。  「スネイプを連れてこい」  「スネイプ? わ−−−わが君」  「スネイプだ。すぐに。あの者が必要だ。一つ−−−務めを−−−果たしてもらわねばならぬ。行け」  怯え、暗がりでつまずきながら、ルシウスは部屋を出ていった。 ヴォルデモートは杖を指で回し、じっと見つめながら、その場に立ったままだった。  「それしかないな、ナギ二」  ヴォルデモートは呟きながら、あたりを見回した。 巨大な太い蛇が、宙に浮く球の中で優雅に身をくねらせていた。 ヴォルデモートがナギニのために魔法で保護した空間は、星をちりばめたようにきらめく透明な球体で、光る檻とタンクが一緒になったようなものだった。  ハリーは息を呑み、意識を引き戻して目を開けた。 同時に、甲高い叫び声や喚き声、打ち合いぶつかり合う戦いの喧騒が、ワッと耳を襲った。  「あいつは『叫びの屋敷』にいる。蛇も一緒で、周囲を何かの魔法で守られている。あいつはたったいま、ルシウス・マルフォイにスネイプを迎えにいかせた」  「ヴォルデモートは、『叫びの屋敷』でじっとしているの?」  ハーマイオニーは怒った。 「自分は−−−自分は戦いもせずに?」 「あいつは、戦う必要はないと考えている」 ハリーが言った。 「僕があいつのところに行くと考えているんだ」  「でも、どうして?」  「僕が分霊箱を追っていることを知っている−−−ナギニをすぐそばに置いているんだ−−−蛇に近づくためには、僕があいつのところに行かなきゃならないのは、はっきりしている−−−」  「よし」 ロンが肩を怒らせて言った。 「それなら君は行っちゃだめだ。行ったらあいつの思うつぼだ。あいつはそれを期待してる。君はここにいて、ハーマイオニーを守ってくれ。僕が行って、捕まえて−−−」  ハリーはロンを遮った。  「君たちはここにいてくれ。僕が『マント』に隠れて行く。終わったらすぐに戻って−−−」  「だめ」 ハーマイオニーが言った。 「私が『マント』を着て行くほうが、ずっと合理的で−−−」  「問題外だ」 ロンがハーマイオニーを睨みつけた。  ハーマイオニーが反論しかけた。 「ロン、私だってあなたと同じぐらい力が−−−」 そのとき、階段のいちばん上の、三人がいる場所を覆うタペストリーが破られた。  「ポッター!」  仮面をつけた死喰い人が二人、そこに立っていた。 その二人が杖を上げきらないうちに、ハーマイオニーが叫んだ。  「グリセオ!<滑れ>」  三人の足下の階段が平らな滑り台になった。 ハーマイオニーもハリーもロンも、速度を抑えることもできずに、矢のように滑り降りた。 あまりの速さに、死喰い人の放った「失神の呪文」は三人のはるか頭上を飛んでいき、階段下を覆い隠しているタペストリーを射抜いて床で跳ね返り、反対側の壁に当たった。 「デューロ!<固まれ>」 ハーマイオニーがタペストリーに杖を向けて叫んだ。 タペストリーは石になり、その裏側でグシャッという強烈な衝突音が二つ聞こえた。 三人を追ってきた死喰い人たちは、タペストリーの向こう側でくしゃくしゃになったらしい。  「避けろ!」  ロンの叫びで、ハリーもハーマイオニーも、ロンと一緒に扉に張りついた。 その脇を、マクゴナガル教授に率いられた机の群れが、全力疾走で怒涛のごとく駆け抜けていった。 マクゴナガルは、三人に気づかない様子だった。 髪はほどけ、片方の頬には深手を負っている。角を曲がりながらマクゴナガルの叫ぶ声が聞こえた。  「突撃っ!」  「ハリー、『マント』を着て」 ハーマイオニーが言った。 「私たちのことは気にせずに−−−」  しかし、ハリーは、透明マントを三人に着せかけた。 三人一緒では大きすぎて覆いきれなかったが、あたりは埃だらけだし、石が崩れ落ちて呪文の揺らめき光る中では、胴体のない足だけを見る者は誰もいないだろう、とハリーは思った。  三人が次の階段を駆け下りると、下の廊下は右も左も戦いの真っ最中だった。 生徒も先生も、仮面を着けたままの、あるいは外れてしまった死喰い人を相手に戦っていた。 両脇の肖像画には絵の主たちがぎっしり詰まって、大声で助言したり応援したりしていた。 ディーンはどこからか奪った杖でドロホフに一騎で立ち向かい、パーパティはトラバースと戦っていた。 ハリー、ロン、ハーマイオニーはすぐに杖を構え、攻撃しようとしたが、戦っている者同士はジグザグと目にも止まらぬ速さで動き回っていて、 呪文をかければ味方を傷つけてしまう恐れが大きかった。 緊張して杖を構えたまま好機を待っていると、 「ウィィィィィィィィィィィイ!」と大きな音がした。 ハリーが見上げると、ビープズがプンプン飛び回り、スナーガラフの種を死喰い人の頭上に落としているのが見えた。 種が割れ、太ったイモムシのような緑色の塊茎が、ごにょごにょと死喰い人の頭を覆った。  「ウアッ!」一つかみほどの塊茎が、ロンの頭の上の 「マント」に落ち、ロンが振り落とそうとしている間は、ヌルヌルした緑色の塊茎が宙を漂うという、ありえない状態になった。  「誰かそこに姿を隠しているぞ!」  仮面の死喰い人が一人、指差して叫んだ。  ディーンがその際を衝いて、一瞬気を逸らしたその死喰い人を「失神の呪文」 で倒した。 仕返ししようとしたドロホフを、パーパティが「全身金縛り術」 で倒した。  「行こう!」 ハリーが叫んだ。三人は「マント」をしっかり巻きつけて、頭を低くし、戦う人々の間を、スナーガラフの樹液滑りで足を滑らせながら、大理石の階段の上へ、そして玄開ホールへと、飛ぶように走った。  「僕はドラコ・マルフォイだ。僕はドラコだ。味方だ!」  ドラコが上の踊り場で、仮面の死喰い人に向かって訴えていた。 ハリーは通りがかりにその死喰い人を「失神」させた。 マルフォイは救い主に向かってにっこりしながらあたりを見回したが、ロンが「マント」 の下からパンチを食らわした。 マルフォイは死喰い人の上に仰向けに倒れ、唇から血を流して、さっぱりわけがわからないという顔をしていた。  「命を助けてやったのは、今晩これで二回目だぞ、この日和見の悪党!」 ロンが叫んだ。  階段も玄関ホールも戦闘中の敵味方で溢れていた。 どこを見ても、死喰い人が見えた。 ヤックスリーは玄関の扉近くでフリットウィックと戦い、そのすぐ脇では、仮面の死喰い人がキングズリーと一騎打ちしていた。 生徒たちは四方八方に走り回り、傷ついた友達を抱えたり引きずったりしている生徒もいた。 ハリーは仮面の死喰い人に「失神の呪文」を発射したが、逸れて、危うくネビルに当たるところだった。 ネビルは両手一杯の「有毒食虫蔓」を振り回して、どこからともなく現れていた。 蔓は嬉々としていちばん近くの死喰い人に巻きついて、手繰り寄せはじめた。  ハリー、ロン、ハーマイオニーは、大理石の階段を駆け下りた。 左側の砂時計が大破し、スリザリン寮の獲得した点を示すエメラルドがそこら中に転がり、走り回る敵も味方も、滑ったりつまずいたりしていた。 三人が玄関ホールに下りたとき、階段上のバルコニーから人が二人落ちてきた。 そして灰色の影が−−−ハリーは何かの動物だと思ったが−−−玄関ホールの奥からまさに獣のように走ってきて、落ちてきた一人に牙を立てようとした。  「やめてぇぇ!」  叫び声を上げたハーマイオニーの杖から、大音響とともに呪文が飛んだ。 弱々しく動いているラベンダー・ブラウンの体から、のけぞって吹き飛ばされたのは、フェンリール・グレイバックだった。 グレイバックは大理石の階段の手摺にぶつかり、立ち上がろうともがいた。 そのとき、白く輝く水晶玉がフェンリールの頭にバーンと落ちて割れた。 フェンリールは倒れて、体を丸めたまま動かなくなった。  「まだありますわよ!」  欄干から身を乗り出したトレローニー先生が、甲高い声で叫んだ。  「お望みの方には、もっと差し上げますわ!行きますわよ−−−」  トレローニー先生は、テニスのサーブのような動作で、バッグから取り出したもう一個の巨大な水晶玉を持ち上げ、杖を振るって飛ばせた。 水晶玉は玄関ホールを横切って、窓をぶち割った。 そのとき、玄関の重い木の扉がパッと開き、巨大蜘味の群れが玄関ホールに雪崩れ込んできた。  恐怖の悲鳴が空気を引き裂き、戦っていた死喰い人もホグワーツ隊も、バラバラになった。 押し寄せる怪物に向かって、赤や緑の閃光が飛び、巨大蜘味は身震いして後肢立ちになり、いっそう恐ろしい姿になった。  「どうやって外に出る?」悲鳴の渦の中で、ロンが叫んだ。  ハリーとハーマイオニーが返事をするより前に、三人とも突き飛ばされた。 花柄模様のピンクの傘を振り回しながら、ハグリッドが嵐のごとく階段を駆け下りてきていた。  「こいつらを傷つけねえでくれ! 傷つけねえでくれ!」 ハグリッドが叫んだ。  「ハグリッド、やめろ!」  何もかも忘れて、「マント」から飛び出したハリーは、玄関ホールを明るく照らし出すほど飛び交う呪いを避け、体を屈めて走った。  「ハグリッド、戻るんだ!」 しかし、まだ半分も追いつかないうちに、ハリーの目の前で、事は起こった。 ハグリッドの姿が巨大蜘味の群れの中に消えた。 呪いに攻め立てられた大蜘味の群れは、ガサガサと音を立てて、ハグリッドを飲み込んだまま、うじゃうじゃと退却しはじめた。  「ハグリッド!」  ハリーは、誰かが自分の名前を呼ぶ声を聞いた。 敵か味方か、しかしどうでもよかった。ハリーは、玄関の階段を校庭へと駆け下りた。 巨大蜘味の群れは、獲物もろともうじゃうじゃと遠ざかり、ハグリッドの姿はまったく見えなかった。  「ハグリッド!」  ハリーは、巨大な片腕が、大蜘味の群れの中で揺れ動くのを見たような気がした。 しかし、群れを追いかけるハリーを、途方もない巨大な足が阻んだ。 暗闇の中からドシンと踏み下ろされたその足は、ハリーの立っている地面を震わせた。 見上げると、六メートルを超える巨人が立っていた。 頭部は暗くて見えず、大木のような毛脛だけが、城の扉からの明かりで照らし出されている。 巨大な拳が滑らかに動き、強烈な一殴りで上階の窓を打ち壊した。 雨のように降りかかるガラスを避けて、ハリーは玄関ホールの入口に退却せざるをえなかった。  「ああ、なんてことを−−−!」  ロンと一緒にハリーを追ってきたハーマイオニーが、巨人を見上げて悲鳴を上げた。 こんどは巨人が、上階の窓から中の人間を捕まえようとしていた。  「やめろ!」  杖を上げたハーマイオニーの手を押さえて、ロンが叫んだ。  「『失神』なんかさせたら、こいつは城の半分をつぶしちまう−−−」  「ハガー?」  城の角の向こうから、グロウプがうろうろとやって来た。 いまになってようやく、ハリーは、グロウプが、たしかに小柄な巨人なのだと納得した。 上階の人間どもを押しっぶそうとしていた、とてつもなく大きな巨人が、あたりを見回して一声吼えた。 小型巨人に向かってドスンドスンとやってくる大型巨人の足音は、石の階段を震わせた。 グロウプはひん曲がった口をポカンと開け、レンガの半分ほどもある黄色い歯を見せていた。 そして二人の巨人は、双方から獅子のように獰猛に飛びかかった。  「逃げろ!」ハリーが叫んだ。 巨人たちの取っ組み合う恐ろしい叫び声と殴り合いの音が、夜の闇に響き渡った。 ハリーはハーマイオニーの手を取り、石段を駆け下りて校庭に出た。 ロンがしんがりを務めた。ハリーはまだ、ハグリッドを見つけ出して救出する望みを捨ててはいなかった。 全速力で走り続け、たちまち禁じられた森までの半分の距離を駆け抜けたが、そこでまた行く手を阻まれた。  周りの空気が凍った。 ハリーの息は詰まり、胸の中で固まった。 暗闇から現れた姿は、闇よりもいっそう黒く渦巻き、城に向かって大きな波のようにうごめいて移動していた。 顔はフードで覆われ、ガラガラと断末魔の息を響かせ……。  ロンとハーマイオニーが、ハリーの両脇に寄り添った。 背後の戦闘の音が急にくぐもり、押し殺され、吸魂鬼だけがもたらすことのできる重苦しい静寂が、夜の闇をすっぽりと覆いはじめた……。  「さあ、ハリー!」 ハーマイオニーの声が遠くから聞こえてきた。 「守護霊よ、ハリー、さあ!」  ハリーは杖を上げたが、どんよりとした絶望感が体中に広がっていた。 フレッドは死んだ。そしてハグリッドは間違いなく死にかけているか、もう死んでしまった。 ハリーの知らないところで、あと何人が死んでしまったことだろう。 ハリー自身の魂が、もう半分肉体を抜け出してしまったような気がした……。  「ハリー、早く!」 ハーマイオニーが悲鳴を上げた。  百体を超える吸魂鬼が、こちらに向かってスルスルと進んできた。 ハリーの絶望感を吸い込みながら近づいてくる。 約束されたご馳走に向かって……。  ロンの銀のテリアが飛び出し、弱々しく明滅して消えるのが見えた。 ハーマイオニーのカワウソが空中で擦れて消えていくのが見えた。 ハリー自身の杖は、手の中で震えていた。 ハリーは近づいてくる忘却の世界を、約束された虚無と無感覚を、むしろ歓迎したいほどだった……。  しかしそのとき、銀の野ウサギが、猪が、そして狐が、ハリー、ロン、ハーマイオニーの頭上を越えて舞い上がった。 吸魂鬼は近づく銀色の動物たちの前に後退した。 暗闇からやってきた三人が、杖を突き出し、守護霊を出し続けながら、ハリーたちのそばに立った。 ルーナ、アーニー、シェーマスだった。  「それでいいんだよ」  ルーナが励ますように言った。 まるで「必要の部屋」に戻ってDAの呪文練習をしているにすぎないという口調だ。  「それでいいんだもン。さあ、ハリー……ほら、何か幸せなことを考えて……」  「何か幸せなこと?」 ハリーはかすれた声で言った。  「あたしたち、まだみんなここにいるよ」 ルーナが囁いた。 「あたしたち、まだ戦ってるもン。さあ……」  銀色の火花が散り、光が揺れた。 そして、これほど大変な思いをしたことはないというほどの力を振り絞り、ハリーは杖先から銀色の牡鹿を飛び出させた。 牡鹿はゆっくりと駆けて前進し、吸魂鬼はいまや雲散霧消した。 夜はたちまち元通りの暖かさを取り戻したが、周囲の戦いの音もまた、ハリーの耳に大きく響いてきた。  「助かった。君たちのおかげだ」  ロンがルーナ、アーニー、シエーマスに向かって、震えながら言った。  「もうだめかと−−−」  恥え声を上げ、地面を震わせて、またしても別の巨人が、禁じられた森の暗闇から、誰の背丈よりも長い棍棒を振り回しながら、ゆらりゆらりと姿を現した。  言われるまでもなく、みんなもう散らばっていた。 危機一髪、次の瞬間、怪物の巨大な足が、たったいまみんなの立っていた場所に正確に踏み下ろされていた。 ハリーは周りを見回した。ロンとハーマイオニーはハリーに従いてきていたが、あとの三人は、再び戦いの中に姿を消していた。  「届かないところまで離れろ!」 ロンが叫んだ。  巨人はまた棍棒を振り回し、その吼え声は夜を努いて校庭に響き渡った。 校庭では炸裂する赤と緑の閃光が、闇を照らし続けていた。  「暴れ柳だ」 ハリーが言った。 「行くぞ!」  ハリーはやっとのことで、すべての想いを心の片隅に押し込めた。 狭い心の空間に、すべてを封じ込めて、いまは見ることができないようにした。 フレッドとハグリッドへの想い。 城の内外に散らばっている、愛するすべての人々の安否に対する恐怖。 すべてをいまは封印しなければならない。 三人は走らなければならないのだから。 蛇とヴォルデモートのいるところに行かなければならないのだから。 そして、ハーマイオニーが言ったように、そのほかに事を終わらせる道はないのだから−−−。  ハリーは全速力で走った。 死をさえ追い越すことができるのではないかと、半ばそんな気持になりながら、周りの闇に飛び交う閃光を無視して走った。 海の波のように岸を洗う湖水の音も、風もない夜なのに軋む「禁じられた森」 の音も無視して走った。 地面さえも反乱に立ち上がったような校庭を、これまでにこんなに速く走ったことはないと思えるほど速く走った。 そして、ハリーが真っ先にあの大木を目にした。根元の秘密を守って、鞭のように枝を振り回す「暴れ柳」を。  ハリーは、喘ぎながら走る速度を緩め、暴れる柳の枝を避けながら、古木を麻痺させるたった一カ所の樹皮の瘤を見つけようと、闇を透かしてその太い幹を見た。 ロンとハーマイオニーが追いついてきたが、ハーマイオニーは息が上がって、話すこともできないほどだった。  「どう−−−どうやって入るつもりだ?」 ロンが息を切らしながら言った。 「その場所は−−−見えるけど−−−クルックシャンクスさえいてくれれば−−−」  「クルックシャンクス?」  ハーマイオニーが体をくの字に曲げ、胸を押さえてヒーヒー声で言った。  「あなたはそれでも魔法使いなの!」  「あ−−−そうか−−−うん−−−」  ロンは周りを見回し、下に落ちている小枝に杖を向けて唱えた。  「ウインガーディアム・レビオーサ!<浮遊せよ>」  小枝は地面から飛び上がり、風に巻かれたようにくるくる回ったかと思うと、暴れ柳の不気味に揺れる枝の間をかいくぐって、まっすぐに幹に向かって飛んだ。 小枝が根元近くの一カ所を突くと、身悶えしていた樹はすぐに静かになった。  「完壁よ!」 ハーマイオニーが、息を切らしながら言った。  「待ってくれ」  ほんの一瞬の迷いがあった。 戦いの衝撃音や炸裂音が鳴り響いているその一瞬、ハリーはためらった。 ヴォルデモートの思惑は、ハリーがこうすることであり、ハリーがやって来ることだった……自分は、ロンとハーマイオニーを罠に引き込もうとしているのではないだろうか?  しかし、その一方、残酷で明白な現実が迫っていた。 前進する唯一の道は、大蛇を殺すことであり、その蛇はヴォルデモートとともにある。 そしてヴォルデモートは、このトンネルの向こう側にいる……。  「ハリー、僕たちも行く。とにかく入れ!」 ロンがハリーを押した。  ハリーは、樹の根元に隠された土のトンネルに体を押し込んだ。 前に入り込んだときより、穴はずっときつくなっていた。 トンネルの天井は低く、ほぼ四年前には体を曲げて歩かねばならない程度だったが、こんどは這うしかなかった。 杖灯りを点け、ハリーが先頭を進んだ。 いつ何どき、行く手を阻むものに出会うかもしれないと覚悟していたが、何も出てこなかった。 三人は黙々と移動した。 ハリーは、握った杖の先に揺れる一筋の灯りだけを見つめて進んだ。  トンネルがようやく上り坂になり、ハリーは行く手に細長い明かりを見た。 ハーマイオニーが、ハリーの踵を引っ張った。  「『マント』よ!」 ハーマイオニーが囁いた。 「この『マント』を着て!」  ハリーは後ろを手探りした。 ハーマイオニーは、杖を持っていないほうのハリーの手に、サラサラと滑る布を丸めて押しっけた。 ハリーは動きにくい姿勢のまま、なんとかそれを被り、「ノックス<闇よ>」と唱えて杖灯りを消した。 そして、這ったまま、できるだけ静かに前進した。 いまにも見つかりはしないか、冷たく通る声が聞こえはしないか、緑の閃光が見えはしないかと、ハリーは全神経を張りつめていた。  するとそのとき、前方の部屋から話し声が聞こえてきた。 トンネルの出口が、梱包用の古い木箱のようなもので塞がれているので、少しくぐもった声だった。 息をすることも我慢しながら、ハリーは出口の穴ぎりぎりのところまでにじり寄り、木枠と壁の間に残されたわずかな 隙間から覗き見た。 前方の部屋はぼんやりとした灯りに照らされ、海蛇のようにとぐろを巻いてゆっくり回っているナギニの姿が見えた。 星をちりばめたような魔法の球体の中で、安全にぽっかりと宙に浮いている。 テーブルの端と、杖をもてあそんでいる長く青白い指が見えた。 そのとき、スネイブの声がして、ハリーは心臓がぐらりと揺れた。 スネイプは、ハリーが屈んで隠れているところから、ほんの数センチ先にいた。  「……わが君、抵抗勢力は崩れつつあります−−−」 「−−−しかも、おまえの助けなしでもそうなっている」 ヴォルデモートが甲高いはっきりした声で言った。  「熟達の魔法使いではあるが、セブルス、いまとなってはおまえの存在も、たいした意味がない。我々はもう間もなくやり遂げる……間もなくだ」  「小僧を探すようお命じください。私めがポッターを連れて参りましょう。わが君、私ならあいつを見つけられます。どうか」  スネイプが大股で、覗き穴の前を通り過ぎた。ハリーはナギニに目を向けたまま、少し身を引いた。ナギニを囲んでいる守りを貫く呪文は、あるのだろうか。 しかし、何も思いつかなかった。 一度失敗すれば、自分の居場所を知られてしまう……。  ヴォルデモートが立ち上がった。 ハリーはいま、その姿を見ることができた。 赤い眼、平たい蛇のような顔、薄暗がりの中で、蒼白な顔がぼんやりと光っている。  「問題があるのだ、セブルス」ヴォルデモートが静かに言った。  「わが君?」 スネイプが問い返した。  ヴォルデモートは、指揮者がタクトを上げる繊細さ、正確さで、ニワトコの杖を上げた。  「セブルス、この杖はなぜ、俺様の思いどおりにならぬのだ?」  沈黙の中で、ハリーは、大蛇がとぐろを巻いたり解いたりしながら、シューシューと音を出すのを聞いたような気がした。 それとも、ヴォルデモートの歯の間から漏れる息が、空中に漂っているのだろうか?  「わ−−−わが君?」スネイプが感情のない声で言った。 「私めには理解しかねます。わが君は−−−わが君は、その杖できわめて優れた魔法を行っておいでです」  「違う」 ヴォルデモートが言った。 「俺様は普通の魔法を行っている。たしかに俺様はきわめて優れているのだが、この杖は……違う。約束された威力を発揮しておらぬ。この杖も、昔オリバンダーから手に入れた杖も、何ら違いを感じない」  ヴォルデモートの口調は、瞑想しているかのように静かだったが、ハリーの傷痕はズキズキと疼きはじめていた。 募る額の痛みで、ハリーは、ヴォルデモートの抑制された怒りが徐々に高まってきているのを感じ取った。  「何ら達わぬ」ヴォルデモートが繰り返した。  スネイプは無言だった。 ハリーにはその顔が見えなかったが、危険を感じたスネイプが、ご主人棟を安心させるための適切な言葉を探しているのではないか、という気がした。  ヴォルデモートは部屋の中を歩きはじめた。 動いたので、その姿がハリーから一瞬見えなくなった。 相変わらず落ち着いた声で話してはいたが、ハリーの痛みと怒りは次第に高まっていた。  「俺様は時間をかけてよく秀えたのだ、セブルス……俺様が、なぜおまえを戦いから呼び戻したかわかるか?」  そのとき、一瞬、ハリーはスネイプの横顔を見た。 その目は、魔法の檻の中でとぐろを巻いている大蛇を見つめていた。  「いいえ、わが君。しかし、戦いの場に戻ることをお許しいただきたく存じます。どうかポッターめを探すお許しを」  「おまえもルシウスと同じことを言う。二人とも、俺様ほどにはあやつを理解してはおらぬ。ポッターを探す必要などない。あやつのほうから俺様のところに来るだろう。あやつの弱点を俺様は知っている。一つの大きな欠陥だ。周りでほかのやつらがやられるのを、見ておれぬやつなのだ。自分のせいでそうなっていることを知りながら、見てはおれぬのだ。どんな代償を払ってでも、止めようとするだろう。あやつは来る」  「しかし、わが君、あなた様以外の者に誤って殺されてしまうかもしれず−−−」  「死喰い人たちには、明確な指示を与えておる。ポッターを捕らえよ。やつの友人たちを殺せ−−−多く殺せば殺すほどよい−−−しかし、あやつは殺すな、とな」  「しかし、俺様が話したいのは、セブルス、おまえのことだ。ハリー・ポッターのことではない。おまえは俺様にとって、非常に貴重だった。非常にな」  「私めが、あなた棟にお仕えすることのみを願っていると、わが君にはおわかりです。しかし−−−わが君、この場を下がり、ポッターめを探すことをお許しくださいますよう。あなた様の許に連れて参ります。私にはそれができると−−−」  「言ったはずだ。許さぬ!」  ヴォルデモートが言った。ハリーは、もう一度振り向いたヴォルデモートの眼が、一瞬ギラリと赤く光るのを見た。 そして、マントを翻す音は、蛇の這う音のようだった。 ハリーは、額の焼けるような痛みで、ヴォルデモートの苛立ちを感じた。  「俺様が目下気がかりなのは、セブルス、あの小僧とついに顔を合わせたときに何が起こるかということだ!」  「わが君、疑問の余地はありません。必ずや−−−」  「−−−−−いや、疑問があるのだ、セブルス。疑問が」  ヴォルデモートが立ち止まった。 ハリーは再びその姿をはっきり見た。 青白い指にニワトコの杖を滑らせながら、スネイプを見据えている。  「俺様の使った杖が二本とも、ハリー・ポッターを仕頻じたのはなぜだ?」  「わ−−−私めには、わかりません、わが君」  「わからぬと?」  怒りが、杭を打ち込むようにハリーの頭を刺した。 ハリーは、痛みのあまり叫び声を上げそうになり、拳を口に押し込んだ。 ハリーは目をつむった。 すると突然ハリーはヴォルデモートになり、スネイプの蒼白な顔を見下ろしていた。  「俺様のイチイの杖は、セブルス、何でも俺様の言うがままに事をなした。ハリー・ポッターを亡き志にする以外はな。あの杖は二度もしくじりおった。オリバンダーを拷問したところ、双子の杖のことを吐き、別な杖を使うようにと言いおった。俺様はそのようにした。しかし、ルシウスめの杖は、ポッターの杖に出会って砕けた」  「我輩−−−私めには、わが君、説明できません」  スネイプはもう、ヴォルデモートを見てはいなかった。 暗い目は、守られた球体の中でとぐろを巻く大蛇を見つめたままだった。  「俺様は、三本目の杖を求めたのだ、セブルス。二ワトコの杖、宿命の杖、死の杖だ。前の持ち主から、俺様はそれを奪った。アルバス・ダンブルドアの墓からそれを奪ったのだ」  再びヴォルデモートを見たスネイプの顔は、デスマスクのようだった。 大理石のように白く、まったく動かなかった。 その顔がしゃべったとき、虚ろな両目の裏に、生きた人間がいることが衝撃的だった。  「わが君−−−小僧を探しにいかせてください−−−」  「この長い夜、俺様が間もなく勝利しようという今夜、俺様はここに座り−−−」  ヴォルデモートの声は、ほとんど囁き声だった。  「耐えに耐え抜いた。なぜこのニワトコの杖は、あるべき本来の杖になることを拒むのか、なぜ伝説どおりに、正当な所有畠に対して行うべき技を行わないのか……そして、俺様はどうやら答えを得た」  スネイプは無言だった。  「おそらくおまえは、すでに答えを知っておろう? なにしろ、セブルス、おまえは賢い男だ。おまえは、忠実なよき下僕であった。これからせねばならぬことを、残念に思う」 「わが君−−−」 「二ワトコの杖が、俺様にまともに仕えることができぬのは、 セブルス、俺様がその真の持 ち主ではないからだ。ニットコの杖は、最後の持ち主を殺した魔法使いに所属する。おまえがアルバス・ダンブルドアを殺した。おまえが生きているかぎり、セブルス、二ワトコの杖は、真に俺様のものになることはできぬ」  「わが君!」  スネイプは抗議し、杖を上げた。  「これ以外に道はない」ヴォルデモートが言った。 「セブルス、俺様はこの杖の主人にならねばならぬ。杖を制するのだ。さすれば、俺様はついにポッターを制する」  ヴォルデモートは、ニワトコの杖で空を切った。 スネイプには何事も起こらず、一瞬、スネイブは、死刑を猶予されたと思ったように見えた。 しかし、やがてヴォルデモートの意図がはっきりした。 大蛇の檻が空中で回転し、スネイプは叫ぶ間もあらばこそ、その中に取り込まれていた。顔も、そして肩も。 ヴォルデモートが蛇語で言った。  「殺せ」  恐ろしい悲鳴が聞こえた。わずかに残っていた血の気も失せ、蒼白になったスネイプの顔に、暗い目が大きく見開かれていた。 大蛇の牙にその首を貫かれ、魔法の檻を突き放すこともできず、スネイプはガクリと床に膝をついた。  「残念なことよ」ヴォルデモートが冷たく言った。  ヴォルデモートは背を向けた。 悲しみもなく、後悔もない。 屋敷を出て指揮を執るべきときが来た。 いまこそ自分の命のままに動くはずの杖を持って。 ヴォルデモートは蛇を入れた星をちりばめたような檻に杖を向けた。 檻はスネイプを離れてゆっくり上昇し、スネイプは首から血を噴き出して横に倒れた。 ヴォルデモートは振り返りもせず、さっと部屋から出ていった。 大蛇は巨大な球体に守られて、そのあとからふわふわと従いていった。  トンネルの中では、我に返ったハリーが目を開けた。 叫ぶまいと強く噛んだ拳から血が出ていた。 木箱と壁の小さな隙間から、いまハリーが見ているのは、床で痙攣している黒いブーツの片足だった。  「ハリー!」  背後でハーマイオニーが、息を殺して呼びかけた。 しかしハリーはすでに、視界を遮る木箱に杖を向けていた。 木箱はわずかに宙に浮き、静かに横にずれた。 ハリーは、できるだけそっと部屋に入り込んだ。  なぜそんなことをするのか、ハリーにはわからなかった。 なぜ死にゆく男に近づくのかわからなかった。 スネイプの血の気のない顔と、首の出血を止めようとしている指を見ながら、自分がどういう気持なのか、ハリーにはわからなかった。 ハリーは「透明マント」を脱ぎ、憎んでいた男を見下ろした。 瞳孔が広がっていくスネイプの暗い目がハリーを捕らえ、話しかけようとした。 ハリーが屈むと、スネイプはハリーのローブの胸元をつかんで引き寄せた。  死に際の、息苦しいゼィゼィという音が、スネイプの喉から漏れた。  「これを……取れ……これを……取れ」  血以外の何かが、スネイプから漏れ出ていた。 青みがかった銀色の、気体でも液体でもないものが、スネイプの口から、両耳と両目から溢れ出ていた。 ハリーはそれが何だか知っていた。 しかし、どうしていいのかわからなかった−−−。  ハーマイオニーがどこからともなくフラスコを取り出し、ハリーの震える手に押しっけた。 ハリーは杖で、その銀色の物質をフラスコに汲み上げた。 フラスコの口元まで一杯になったとき、スネイプにはもはや一滴の血も残っていないかのように見えた。 ハリーのロープをつかんでいたスネイプの手が緩んだ。 「僕を……見て……くれ……」スネイプが囁いた。 緑の目が黒い目をとらえた。 しかし、一瞬の後、黒い両眼の奥底で、何かが消え、無表情な目が、一点を見つめたまま虚ろになった。 ハリーをつかんでいた手がドサリと床に落ち、スネイブはそれきり動かなくなった。  ハリーはスネイプの傍らにひざまずいたまま、ただその顔をじっと見下ろしていた。 そのとき、出し抜けにすぐそばで甲高い冷たい声がした。 あまりに近かったので、ヴォルデモートがまた部屋に戻ってきたかと思ったハリーは、フラスコをしっかり両手に握ったまま、弾かれたように立ち上がった。  ヴォルデモートの声は、壁から、そして床から響いてきた。 ホグワーツと周囲一帯の地域に向かって話していることに、ハリーは気づいた。 ホグズミードの住人やまだ城で戦っている全員が、ヴォルデモートの息を首筋に感じ、死の一撃を受けそうなはど近くに「あの人」が立っているかのように、はっきりとその声を聞いているのだ。  「おまえたちは戦った」甲高い冷たい声が言った。 「勇敢に。ヴォルデモート卿は勇敢さを讃えることを知っている」  「しかし、おまえたちは数多くの死傷者を出した。俺様に抵抗し続けるなら、一人また一人と、全員が死ぬことになる。そのようなことは望まぬ。魔法族の血が一滴でも流されるのは、損失であり浪費だ」  「ヴォルデモート卿は慈悲深い。俺様は、我が勢力を即時撤退するように命ずる。二時間やろう。死者を尊厳を以って弔え。傷ついた者の手当てをするのだ」  「さて、ハリー・ポッター、俺様はいま、直接おまえに話す。おまえは俺様に立ち向かうどころか、友人たちがおまえのために死ぬことを許した。俺様はこれから一時間、『禁じられた森』で待つ。もし、一時間の後におまえが俺様の許に来なかったならば、降参して出てこなかったならば、戦いを再開する。そのときは、俺様白身が戦闘に加わるぞ、ハリー・ポッター。そしておまえを見つけ出し、おまえを俺様から賭そうとしたやつは、男も女も子どもも、最後の一人まで罰してくれよう。一時間だ」  ロンもハーマイオニーも、ハリーを見て強く首を振った。  「耳を貸すな」 ロンが言った。  「大丈夫よ」 ハーマイオニーが激しい口調で言った。  「さあ−−−さあ、城に戻りましょう。あの人が森に行ったのなら、計画を練り直す必要があるわ−−−」  ハーマイオニーはスネイプの亡骸をちらりと見て、それからトンネルの入口へと急いだ。 ロンもあとに続いた。 ハリーは「透明マント」を手繰り寄せ、スネイプを見下ろした。 どう感じていいのかわからなかった。 ただ、スネイプの殺され方と殺された理由とに、衝撃を受けていた……。  三人はトンネルを這って戻った。 誰も口をきかなかった。 しかしハリーの頭の中には、ヴォルデモートの声がまだ響いていた。 ロンもハーマイオニーも、そうなのではないかと思った。  おまえは俺様に立ち向かうどころか、友人たちがおまえのために死ぬことを許した。俺様はこれから一時間、『禁じられた森』で待つ……一時間だ……。  城の前の芝生に、小さな包みのような塊がいくつも散らばっていた。夜明けまで、あと一時間ぐらいだろうか。 しかし、あたりは真っ暗だった。 三人は入口の石段へと急いだ。 小船ほどもある木靴の片方が、石段の前に転がっていたが、それ以外にはグロウプも、攻撃を仕掛けてきた相手の巨人も、何の痕跡もなかった。 城は異常に静かだった。 いまは閃光も見えず、衝撃音も、悲鳴も叫びも聞こえない。 誰もいない玄関ホールの敷石は、血に染まっている。 大理石のかけらや裂けた木片に混じって、エメラルドが床一面に散らばったままだ。 階段の手摺の一部が吹き飛ばされていた。  「みんなはどこかしら?」 ハーマイオニーが小声で言った。  ロンが先に立って大広間に入った。 ハリーは入口で足がすくんだ。  各寮のテーブルはなくなり、大広間は人で一杯だった。 生き残った者は、互いの肩に腕を回し、何人かずつ集まって立っていた。 一段高い壇の上で、マダム・ポンフリーが何人かに手伝わせて、負傷者の手当てをしていた。 フィレンツェも傷つき、脇腹からドクドクと血を流し、立つこともできずに体を震わせて横たわっていた。  死者は、大広間の真ん中に横たえられていた。 フレッドの亡骸は、家族に囲まれていてハリーには見えなかった。 ジョージが頭のところにひざまずき、ウィーズリーおばさんはフレッドの胸の上に突っ伏して体を震わせていた。 おばさんの髪を撫でながら、ウィーズリーおじさんの頬には、滝のような涙が流れていた。  ハリーには何も言わずに、ロンとハーマイオニーが離れていった。 ハリーは、ハーマイオニーが、顔を真っ赤に泣き腫らしたジニーに近づいて、抱きしめるのを見た。 ロンは、ビル、フラー、パーシーのそばに行った。 パーシーは、ロンの肩を抱いた。 ジニーとハーマイオニーが、家族のほうに近寄ろうと移動したとき、ハリーはフレッドの隣に横たわる亡骸をはっきりと見た。リーマスとトンクスだ。 血の気の失せた顔は、静かで安らかだった。 魔法のかかった暗い天井の下で、まるで眠っているように見えた。  ハリーは、入口からよろよろと後退りした。 大広間が飛び去り、小さく縮んでいくような気がした。 ハリーは胸が詰まった。 そのほかに誰が自分のために死んだのかを、亡骸を見て確かめるなどとてもできない。 ウィーズリー一家のそばに行くことなど、とてもできない。 ウィーズリー家のみんなの目を、まともに見ることなどできない。 はじめから自分が我が身を差し出していれば、フレッドは死なずにすんだかもしれないのに……。  ハリーは大広間に背を向け、大理石の階段を駆け上がった。 ルーピン、トンクス……感じることができなければいいのに……心を引き抜いてしまいたい。 腸も何もかも、体の中で悲鳴を上げているすべてのものを、引き抜いてしまうことができればいいのに……。  城の中は、完全に空っぽだった。 ゴーストまでが大広間の追悼に加わっているようだった。 ハリーは、スネイプの最後の想いが入ったクリスタルのフラスコを握りしめて、走り続けた。 校長室を護衛している石のガーゴイル像の前に着くまで、ハリーは速度を検めなかった。  「合言葉は?」  「ダンブルドア!」  ハリーは反射的に叫んだ。 ハリーがどうしても会いたかったのが、ダンブルドアだったからだ。 驚いたことに、ガーゴイルは横に滑り、背後の螺旋階段が現れた。  円形の校長室に飛び込んだハリーは、ある変化が起こっているのに気づいた。 周囲の壁に掛かっている肖像画は、すべて空だった。 歴代校長は誰一人として、ハリーを待ち受けてはいなかった。 どうやら全員が状況をよく見ようと、城に掛けられている絵画の中を駆け抜けていったらしい。  ハリーはがっかりして、校長の椅子の真後ろに掛かっている、ダンブルドアのいない額をちらりと見上げ、すぐに背を向けた。 石の「憂いの師」が、いつもの戸棚の中に置かれていた。 ハリーは、それを持ち上げて机の上に置き、ルーン文字を縁に刻んだ大きな水盆に、スネイプの記憶を注ぎ込んだ。 誰かほかの人間の頭の中に逃げ込めれば、どんなに気が休まることか……たとえ、あのスネイプがハリーに遺したものであれ、ハリー自身の想いより悪いはずがない。 記憶は銀白色の不思議な渦を巻いた。 どうにでもなれと自暴自棄な気持で、自分を責め苛む悲しみを、この記憶が和らげてくれるとでも言うように、ハリーは迷わず渦に飛び込んだ。  頭から先に陽の光を浴び、ハリーの両足は温かな大地を踏んだ。 立ち上がると、ほとんど誰もいない遊び場にいた。 遠くに見える街の家並の上に、巨大な煙突が一本そそり立っている。 女の子が二人、それぞれプランコに乗って前後に揺れている。 痩せた男の子が、その背後の潅木の茂みからじっと二人を見ていた。 男の子の黒い髪は伸び放題で、服装はわざとそうしたかと思えるほど、ひどくちぐはぐだった。 短すぎるジーンズに大人の男物らしいだぶだぶでみすぼらしい上着、おかしなスモックのようなシャツを着ている。  ハリーは男の子に近づいた。 せいぜい九歳か十歳のスネイプだ。 顔色が悪く、小さくて筋張っている。 ブランコをどんどん高く漕いでいるほうの少女を見つめるスネイプの細長い顔に、憧れがむき出しになっていた。  「リリー、そんなことしちゃダメ!」もう一人の少女が、金切り声を上げた。  しかしリリーは、プランコが弧を描いたいちばん高いところで手を離して飛び出し、大きな 笑い声を上げながら、上空に向かって文字どおり空を飛んだ。 そして、遊び場のアスファルトに墜落してくしゃくしゃになるどころか、空中ブランコ乗りのように舞い上がって、異常に長 い間空中にとどまり、不自然なほど軽々と着地した。  「ママが、そんなことしちゃいけないって言ったわ!」  ペチュニアは、ズルズル音を立てて、サンダルの踵でブランコにブレーキをかけ、ぴょんと立ち上がって腰に両手を当てた。  「リリー、あなたがそんなことするのは許さないって、ママが言ったわ!」  「だって、わたしは大丈夫よ」  リリーは、まだクスクス笑っていた。  「チュニー、これ見て。わたし、こんなことができるのよ」  ペチュニアはちらりと周りを見た。遊び場には二人のほかに誰もいない。 二人に隠れて、スネイプがいるだけだった。 リリーは、スネイプが潜む茂みの前に落ちている花を拾い上げた。 ペチュニアは、見たい気持と許したくない気持の間で明らかに揺れ動きながらも、リリーに近づいた。 リリーは、ペチュニアがよく見えるように近くに来るまで待ってから、手を突き出した。 花は、その手のひらの中で、襞の多い奇妙な牡蠣のように、花びらを開いたり閉じたりしていた。  「やめて!」ペチュニアが金切り声を上げた。  「何も悪さはしてないわ」そうは言ったが、リリーは手を閉じて、花を放り投げた。  「いいことじゃないわ」  ペチュニアはそう言いながらも、目は飛んでいく花を追い、地面に落ちた花をしばらく見ていた。  「どうやってやるの?」ペチュニアの声には、はっきりと羨ましさが渉んでいた。  「わかりきったことじゃないか?」  スネイプはもう我慢できなくなって、茂みの陰から飛び出した。 ペチュニアは悲鳴を上げてブランコのほうに駆け戻った。 しかしリリーは、明らかに驚いてはいたが、その場から動かなかった。 スネイプは、姿を現したことを後悔している様子だった。 リリーを見るスネイプの土気色の頬に、鈍い赤みが注した。  「わかりきったことって?」リリーが聞いた。  スネイプは興奮し、落ち着きを失っているように見えた。 離れたところで、プランコの脇をうろうろしているペチュニアにちらりと目をやりながら、スネイプは声を落として言った。  「僕はきみが何だか知っている」  「どういうこと?」  「きみは……きみは魔女だ」 スネイプが囁いた。  リリーは侮辱されたような顔をした。  「そんなこと、他人に言うのは失礼よ!」  リリーはスネイプに背を向け、つんと上を向いて、鼻息も荒くペチュニアのほうに歩いていった。  「達うんだ!」  スネイプは、いまや真っ赤な顔をしていた。 ハリーは、スネイプがどうしてばかばかしいほどだぶだぶの上着を脱がないのだろう、と訝った。 その下に着ているスモックを見られたくないのだろうか?  スネイプは二人の少女を追いかけた。 大人のスネイプと同じように、まるで滑稽なコウモリのような姿だった。  二人の姉妹は、反感という気持で団結し、プランコの支柱が鬼ごっこの 「たんま」 の場所ででもあるかのようにつかまって、スネイプを観察していた。  「きみはほんとに、そうなんだ」  スネイプがリリーに言った。  「きみは魔女なんだ。僕はしばらくきみのことを見ていた。でも、何も悪いことじゃない。僕のママも魔女で、僕は魔法使いだ」  ペチュニアは、冷水のような笑いを浴びせた。  「魔法使い!」  突然現れた男の子に驚きはしたが、もうそのショックから回復して、負けん気が戻ったペチュニアが叫んだ。  「私は、あなたが誰だか知ってるわ。スネイプって子でしょう! この人たち、川の近くのスピナーズ・エンドに住んでるのよ」  ペチュニアがリリーに言った。 ペチュニアの口調から、その住所が芳しくない場所だと考えられていることは明らかだった。  「どうして、私たちのことをスパイしていたの?」  「スパイなんかしていない」  明るい太陽の下で、スネイプは暑苦しく、不快で、髪の汚れが目立った。  「どっちにしろ、おまえなんかスパイしていない」  スネイプは意地悪くつけ加えた。 「おまえはマグルだ」  ペチュニアは、その言葉がわかっていないようだったが、スネイプの声の調子は間違えようもなかった。  「リリー、行きましょう。帰るのよ!」  ペチュニアが甲高い声で言った。 リリーはすぐに従い、去り際にスネイプを睨みつけた。 遊び場の門をさっさと出ていく姉妹を、スネイプはじっと見ていた。 ただ一人その場に残って観察していたハリーには、スネイプが苦い失望を噛みしめているのがわかった。 そして、スネイブが、このときのために、しばらく前から準備していたことを理解した。 それなのに、うまくいかなかったのだ……。  場面が消え、いつの間にかハリーの周囲が形を変えていた。 こんどは低木の小さな茂みの中にいた。 木の幹を通して、太陽に輝く川が見えた。 木々の影が、涼しい緑の木陰を作っている。 子どもが二人、足を組み、向かい合って地面に座っている。 スネイプは、今回は上着を脱いでいた。おかしなスモックは、木陰の薄明かりではそれほど変に見えなかった。  「……それで、魔法省は、誰かが学校の外で魔法を使うと、罰することができるんだ。手紙が来る」  「でもわたし、もう学校の外で魔法を使ったわ!」  「僕たちは大丈夫だ。まだ杖を持っていない。まだ子どもだし、自分ではどうにもできないから、許してくれるんだ。でも十一歳になったら−−−」  スネイプは重々しく頷いた。  「そして訓練を受けはじめたら、そのときは注意しなければいけない」  二人ともしばらく沈黙した。 リリーは小枝を拾って、空中にくるくると円を描いた。 小枝から火花が散るところを想像しているのが、ハリーにはわかった。 それからリリーは小枝を落とし、男の子に顔を近づけて、こう言った。  「ほんとなのね? 冗談じゃないのね? ペチュニアは、あなたがわたしに嘘をついているんだって言うの。ペチュニアは、ホグワーツなんてないって言うの。でも、ほんとなのね?」  「僕たちにとっては、本当だ」 スネイプが言った。 「でもペチュニアにとってじゃない。僕たちには手紙が来る。きみと僕に」  「そうなの?」リリーが小声で言った。  「絶対だ」 スネイプが言った。  髪は不揃いに切られ、服装もおかしかったが、自分の運命に対して碓信に満ち溢れたスネイプが、手足を伸ばしてリリーの前に座っているさまは、奇妙に印象的だった。  「それで、本当にふくろうが運んでくるの?」リリーが囁くように聞いた。  「普通はね」 スネイプが言った。 「でも、きみはマグル生まれだから、学校から誰かが来て、きみのご両親に説明しないといけないんだ」  「何か違うの? マグル生まれって」  スネイプは躊躇した。 黒い目が、線の木陰で熱を帯び、色白の顔と深い色の赤い髪を眺めた。  「いいや」 スネイプが言った。 「何も違わない」  「よかった」  リリーは、緊張が解けたように言った。 ずっと心配していたのは明らかだった。  「きみは魔法の力をたくさん持っている」 スネイプが言った。 「僕にはそれがわかったんだ。ずっときみを見ていたから……」  スネイプの声は先細りになった。 リリーは聞いていなかった。 緑豊かな地面に寝転んで体を伸ばし、頭上の林冠を見上げていた。 スネイプは、遊び場で見ていたときと同じように熱っぽい目で、リリーを見つめた。  「お家の様子はどうなの?」リリーが聞いた。  スネイプの眉間に、小さな皺が現れた。  「大丈夫だ」 スネイプが答えた。  「ご両親は、もう喧嘩していないの?」  「そりゃ、してるさ。あの二人は喧嘩ばかりしてるよ」  スネイプは木の葉を片手につかみ取ってちぎりはじめたが、自分では何をしているのか気づいていないらしかった。  「だけど、もう長くはない。僕はいなくなる」  「あなたのパパは、魔法が好きじゃないの?」  「あの人は何にも好きじやない。あんまり」 スネイプが言った。  「セプルス?」  リリーに名前を呼ばれたとき、スネイプの唇が、微かな笑いで歪んだ。  「何?」  「吸魂鬼のこと、また話して」  「何のために、あいつらのことなんか知りたいんだ?」  「もしわたしが、学校の外で魔法を使ったら−−−」  「そんなことで、誰もきみを吸魂鬼に引き渡したりはしないさ! 吸魂鬼というのは、本当に悪いことをした人のためにいるんだから。魔法使いの監獄、アズカバンの看守をしている。きみがアズカバンになんか行くものか。きみみたいに−−−」  スネイプはまた赤くなって、もっと葉をむしった。 すると後ろでカサカサと小さな音がしたので、ハリーは振り向いた。 木の陰に隠れていたペチュニアが、足場を踏み外したところだった。  「チュニー?」  リリーの声は、驚きながらもうれしそうだった。 しかし、スネイプは弾かれたように立ち上がった。  「こんどは、どっちがスパイだ?」 スネイプが叫んだ。 「何の用だ?」  ペチュニアは見つかったことに愕然として、息もつけない様子だった。 ハリーには、ペチュニアがスネイプを傷つける言葉を探しているのがわかった。  「あなたの着ている物は、いったい何?」  ペチュニアは、スネイプの胸を指差して言った。  「ママのブラウス?」  ポキッと音がして、ペチュニアの頭上の枝が落ちてきた。 リリーが悲鳴を上げた。枝はペチュニアの肩に当たり、ペチュニアは後ろによろけてワッと泣き出した。  「チュニー!」  しかし、ペチュニアはもう走り出していた。リリーはスネイプに食ってかかった。  「あなたのしたことね?」 「違う」 スネイプは挑戦的になり、同時に恐れているようだった。 「あなたがしたのよ?」 リリーはスネイプのほうを向いたまま、後退りしはじめた。 「そうよ! ペチュニアを痛い目に遭わせたのよ!」 「違う−−−僕はやっていない!」 しかし、リリーはスネイプの嘘に納得しなかった。 激しい目つきで睨みつけ、リリーは小さ な茂みから駆け出して、ペチュニアを追った。 スネイプは、惨めな、混乱した顔で見送っていた……。  そして場面が変わった。 ハリーが見回すと、そこは九と四分の三番線で、ハリーの横に、やや猫背のスネイプが立ち、その隣に、スネイプとそっくりな、痩せて土気色の顔をした気難しそうな女性が立っていた。 スネイプは、少し離れたところにいる四人家族をじっと見ていた。 二人の女の子が、両親から少し離れて立っている。 リリーが何か訴えているようだった。ハリーは少し近づいて聞き耳を立てた。  「……ごめんなさい、チュニー、ごめんなさい! ねぇ−−−」  リリーはペチュニアの手を取って、引っ込めようとする手をしっかり握った。 「たぶん、わたしがそこに行ったら−−−ねぇ、聞いてよ、チュニー! たぶん、わたしがそこに行けば、ダンブルドア教授のところに行って、気持が変わるように説得できると思うわ?」  「私−−−行きたく−−−なんか−−−ない!」  ペチュニアは、振られている手を振りほどこうと、引いた。  「私がそんな、ばかばかしい城なんかに行きたいわけないでしょ。何のために勉強して、わざわざそんな−−−そんな−−−」  ペチュニアの色の薄い目が、プラットフォームをぐるりと見回した。 飼い主の腕の中でニャーニャー鳴いている猫や、籠の中で羽ばたきしながらホーホー鳴き交わしているふくろう、そして生徒たち。 中には、もう裾長の黒いロープに着替えている生徒もいて、紅の汽車にトランクを積み込んだり、夏休み後の再会を喜んで歓声を上げ、挨拶を交わしたりしている。  「−−−私が、なんでそんな−−−そんな生まれそこないになりたいってわけ?」  ペチュニアはとうとう手を振りほどき、リリーは目に涙を溜めていた。  「わたしは生まれそこないじゃないわ」リリーが言った。 「そんな、ひどいことを言うなんて」  「あなたは、そういうところに行くのよ」  ペチュニアは、反応を、さも楽しむかのように言った。  「生まれそこないのための特殊な学校。あなたも、あのスネイプって子も……変な者同士。二人ともそうなのよ。あなたたちが、まともな人たちから隔離されるのはいいことよ。私たちの安全のためだわ」  リリーは、両親をちらりと見た。 二人ともその場を満喫して、心から楽しんでいるような顔でプラットフォームを見回していた。 リリーはペチュニアを振り返り、低い、険しい口調で言った。  「あなたは、変人の学校だなんて思っていないはずよ。校長先生に手紙を書いて、自分を入学させてくれって頼み込んだんだもの」  ペチュニアは真っ赤になった。  「頼み込む? そんなことしてないわ!」  「わたし、校長先生のお返事を見たの。親切なお手紙だったわ」  「読んじゃいけなかったのに−−−」 ペチュニアが小声で言った。 「私のプライバシーよ!−−−どうしてそんな−−−?」  リリーは、近くに立っているスネイプにちらりと目をやることで、白状したも同然だった。  ペチュニアが息を呑んだ。  「あの子が見つけたのね! あなたとあの男の子が、私の部屋にこそこそ入って!」  「遠うわ−−−こそこそ入ってなんかいない−−−」  こんどはリリーがむきになった。  「セブルスが封筒を見たの。それで、マグルがホグワーツと接触できるなんて信じられなかったの。それだけよ! セブルスは、郵便局に、変装した魔法使いが働いているに違いないって言うの。それで、その人たちがきっと−−−」  「魔法使いって、どこにでも首を突っ込むみたいね!」  ペチュニアは赤くなったと同じくらい青くなっていた。  「生まれそこない!」  ペチュニアは、リリーに向かって吐き捨てるように言い、これ見よがしに両親のいるところへ戻っていった……。  場面がまた消えた。ホグワーツ特急はガタゴトと田園を走っている。 スネイプが列車の通路を急ぎ足で歩いていた。 すでに学校のローブに着替えている。 たぶんあの不恰好なマグルの服をいち早く脱ぎたかったのだろう。 やがてスネイプは、あるコンパートメントの前で立ち止まった。 中では騒々しい男の子たちが話している。 窓際の隅の席に体を丸めて、リリーが座っていた。顔を窓ガラスに押しつけている。  スネイプはコンパートメントの扉を開け、リリーの前の席に腰掛けた。 リリーはちらりとスネイプを見たが、また窓に視線を戻した。泣いていたのだ。  「あなたとは、話したくないわ」リリーが声を詰まらせた。  「どうして?」  「チュニーがわたしを、に−−−憎んでいるの。ダンブルドアからの手紙を、わたしたちが見たから」  「それが、どうしたって言うんだ?」  リリーは、スネイプなんて大嫌いだという目で見た。  「だってわたしたち、姉妹なのよ!」  「あいつはただの−−−」  スネイプは素早く自分を抑えた。 気づかれないように涙を拭うのに気を取られていたリリー は、スネイプの言葉を聞いていなかった。  「だけど、僕たちは行くんだ!」  スネイプは、興奮を抑えきれない声で言った。  「とうとうだ! 僕たちはホグワーツに行くんだ!」  リリーは目を拭いながら頷き、思わず半分微笑んだ。  「きみは、スリザリンに入ったほうがいい」  リリーが少し明るくなったのに勇気づけられて、スネイプが言った。  「スリザリン?」  同じコンパートメントの男の子の一人が、そのときまではリリーにもスネイプにもまったく関心を示していなかったのに、その言葉で振り返った。 それまで窓際の二人にだけ注意を集中させていたハリーは、初めて自分の父親に気づいた。 細身でスネイプと同じ黒い髪だったが、どことなく、かわいがられ、むしろちやほやされてきたという雰囲気を漂わせていた。 スネイブには、明らかに欠けている雰囲気だ。  「スリザリンになんか誰が入るか?むしろ退学するよ、そうだろう?」  ジェームズは、向かい側の席にゆったりもたれ掛かっている男子に問いかけた。 それがシリウスだと気づいて、ハリーはドキッとした。シリウスはにこりともしなかった。  「僕の家族は、全員スリザリンだった」シリウスが言った。  「驚いたなあ」ジェームズが言った。 「だって、きみはまともに見えると思ってたのに!」  シリウスがニヤッと笑った。  「たぶん、僕が伝統を破るだろう。きみは、選べるとしたらどこに行く?」  ジェームズは、見えない剣を捧げ持つ格好をした。  「『グリフィンドール、勇気ある者が住う寮!』僕の父さんのように」  スネイプが小さくフンと言った。 ジェームズは、スネイプに向き直った。  「文句があるのか?」  「いや」  言葉とは裏腹に、スネイプは微かに嘲笑っていた。  「きみが、頭脳派より肉体派がいいならね−−−」  「きみはどこに行きたいんだ? どっちでもないようだけど」 シリウスが口を挟んだ。  ジェームズが爆笑した。 リリーはかなり赤くなって座り直し、大嫌いという顔でジェームズとシリウスを交互に見た。  「セブルス、行きましょう。別なコンパートメントに」  「オォォォォォ……」  ジェームズとシリウスが、リリーのつんとした声をまねた。 ジェームズは、スネイプが通るとき、足を引っ掛けようとした。  「まーたな、スニベルス!」  中から声が呼びかけ、コンパートメントの扉がバタンと閉まった……。  そしてまた場面が消えた……。  ハリーはスネイプのすぐ後ろで、蝋燭に照らされた寮のテーブルに向かって立っていた。 テーブルには、夢中で見つめる顔がずらりと並んでいる。 そのとき、マクゴナガル教授が呼んだ。  「エバンズ、リリー!」  ハリーは、自分の母親が震える足で進み出て、ぐらぐらした丸椅子に腰掛けるのを見守った。 マクゴナガル教授が組分け帽子をリリーの頭に被せた。 すると、深みのある赤い髪に触れた瞬間、一秒とかからずに、「帽子」が叫んだ。  「グリフィンドール!」  ハリーは、スネイプが小さく呻き声を漏らすのを聞いた。リリーは「帽子」を脱ぎ、マクゴナガル教授に返して、歓迎に沸くグリフィンドール生の席に急いだ。 しかし、その途中でスネイブをちらりと振り返ったリリーの顔には、悲しげな微笑が浮かんでいた。 ハリーは、ベンチに腰掛けていたシリウスが横に詰めて、リリーに席を空けるのを見た。 リリーは、一目で列車で会った男子だとわかったらしく、腕組みをしてあからさまにそっぽを向いた。  点呼が続いた。ハリーは、ルーピン、ペティグリュー、そして父親が、リリーとシリウスのいるグリフィンドールのテーブルに加わるのを見た。 そして、あと十数人の組分けを残すだけになり、マクゴナガル教授がスネイプの名前を呼んだ。  ハリーは一緒に丸椅子まで歩き、スネイプが帽子を頭に載せるのを見た。  「スリザリン!」組分け帽子が叫んだ。  そしてセプルス・スネイプは、リリーから遠ざかるように大広間の反対側に移動し、スリザリン生の歓迎に迎えられた。 監督生バッジを胸に光らせたルシウス・マルフォイが、隣に座ったスネイプの背中を軽く叩いた……。  そして場面が変わった……。  リリーとスネイプが、城の中庭を歩いていた。 明らかに議論している様子だ。 ハリーは急いで追いかけ、聞こうとした。 追いついてみると、二人がどんなに背が伸びているかに気づいた。組分けから数年経っているらしい。  「……僕たちは友達じゃなかったのか?」 スネイプが言っていた。 「親友だろう?」  「そうよ、セプ。でも、あなたが付き合っている人たちの、何人かが嫌いなの! 悪いけど、エイブリーとかマルシベール! マルシベール!セプ、あの人のどこがいいの? あの人、ぞっとするわ! この間、あの人が、メリー・マクドナルドに何をしようとしたか、あなた知ってる?」  リリーは柱に近づいて寄り掛かり、細長い土気色の顔を覗き込んだ。  「あんなこと、何でもない」 スネイプが言った。 「冗談だよ。それだけだ−−−」  「あれは『闇の魔術』よ。あなたが、あれがただの冗談だなんて思うのなら−−−」  「ポッターと仲間がやっていることは、どうなんだ?」  スネイプが切り返した。 憤りを抑えられないらしく、言葉と同時に、スネイプの顔に血が上った。  「ポッターと、何の関係があるの?」  「夜こっそり出歩いている。ルーピンてやつ、何だか怪しい。あいつはいったい、いつもどこに行くんだ?」  「あの人は病気よ」リリーが言った。「病気だってみんなが言ってるわ−−−」  「毎月、満月のときに?」 スネイプが言った。  「あなたが何を考えているかは、わかっているわ」  リリーが言った。冷たい口調だった。  「どうして、あの人たちにそんなにこだわるの? あの人たちが夜何をしているかが、なぜ気になるの?」  「僕はただ、あの連中は、みんなが思っているほどすばらしいわけじゃないって、きみに教えようとしているだけだ」  スネイプの眼差しの乱しさに、リリーは頬を赤らめた。  「でも、あの人たちは、闇の魔術を使わないわ」リリーは声を低くした。 「それに、あなたはとても恩知らずよ。このあいだの晩に何があったか、聞いたわ。あなたは『暴れ柳』のそばのトンネルをこっそり下りていって、そこで何があったかは知らないけれど、ジェームズ・ポッターがあなたを救ったと−−−」  スネイプの顔が大きく歪み、吐き棄てるように言った。  「救った? 救った? きみはあいつが英雄だと思っているのか? あいつは自分自身と自分の仲間を救っただけだ!きみは絶対にあいつに−−−僕がきみに許さない−−−」  「わたしに何を許さないの? 何を許さないの?」  リリーの明るい緑の目が、細い線になった。スネイプはすぐに言い直した。  「そういうつもりじゃ−−−ただ僕は、きみが騙されるのを見たくない−−−あいつは、きみに気がある。ジェームズ・ポッターは、きみのことが好きなんだ!」  言葉がスネイプの意に反して、無理やり出てきたかのようだった。  「だけどあいつは、違うんだ……みんながそう思っているみたいな……クィディッチの大物ヒーローだとか−−−」  スネイプは、苦々しさと嫌悪感とで、支離滅裂になっていた。 リリーの眉がだんだん高く吊り上がっていった。  「ジェームズ・ポッターが、倣慢でいやなやつなのはわかっているわ」  リリーは、スネイプの言葉を遮った。  「あなたに言われるまでもないわ。でも、マルシベールとかエイブリーが冗談のつもりでしていることは、邪悪そのものだわ。セプ、邪悪なことなのよ。あなたが、どうしてあんな人たちと友達になれるのか、わたしにはわからない」  リリーの、マルシベールとエイブリーを非難する言葉を、果たしてスネイプが聞いたかどうかさえ疑わしいと、ハリーは思った。 リリーがジェームズ・ポッターをけなすのを問いたとたん、スネイプの体全体が緩み、二人でまた歩き出したときには、スネイプの足取りは弾んでいた……。  そして場面が変わった……。  ハリーは、以前に見たことのある光景を見ていた。 OWL試験の 「闇の魔術に対する防衛術」を終えたスネイプが、大広間を出て、どこという当てもない様子で城から離れて歩いていた。 たまたまスネイプが向かった先は、ジェームズ、シリウス、ルーピン、そしてペティグリューが一緒に座っているブナの木の下のすぐそばだった。 ハリーは、今回は距離を置いて見ていた。 ジェームズがセブルスを宙吊りにして侮辱した後に、何が起こったかを知っていたからだ。 何が行われ、何が言われたかを知っていたし、それを繰り返して聞きたくはなかった。 ハリーは、リリーがその集団に割り込み、スネイプを擁護しはじめるのを見た。 屈辱感と怒りで、スネイプがリリーに向かって許しがたい言葉を吐しくのが、遠くに聞こえた。  「穢れた血」  場面が変わった……。 「許してくれ」 「聞きたくないわ」  「許してくれ!」  「言うだけ無駄よ」  夜だった。リリーは部屋着を着て、グリフィンドール塔の入口の、「太った婦人」 の肖像画の前で、腕組みをして立っていた。  「メリーが、あなたがここで夜明かしすると脅しているって言うから、来ただけよ」  「そのとおりだ。そうしたかもしれない。決してきみを『穢れた血』と呼ぶつもりはなかった。ただ−−−」  「口が滑ったって?」リリーの声には、哀れみなどなかった。 「もう遅いわ。わたしは何年も、あなたのことを庇ってきた。わたしがあなたと口をきくことさえ、どうしてなのか、わたしの友達は誰も理解できないのよ。あなたと大切な『死喰い人』のお友達のこと−−−ほら、あなたは否定もしない! あなたたち全員がそれになろうとしていることを、否定もしない!『例のあの人』の一味になるのが待ち遠しいでしょうね?」  スネイプは口を開きかけたが、何も言わずに閉じた。  「わたしにはもう、自分に嘘はつけないわ。あなたはあなたの道を選んだし、わたしはわたしの道を選んだのよ」  「お願いだ−−−−−聞いてくれ。僕は決して−−−」  「−−−わたしを『穢れた血』と呼ぶつもりはなかった? でも、セブルス、あなたは、わたしと同じ生まれの人全部を、『穢れた血』と呼んでいるわ。どうして、わたしだけが違うと言えるの?」  セプルスは、何か言おうともがいていた。 しかし、リリーは軽蔑した顔でスネイプに背を向け、肖像画の穴を登って戻っていった……。  廊下が消えたが、場面が変わるまでに、いままでより長い時間がかかった。 ハリーは、形や色が置き換わる中を飛んでいるようだった。 やがて周囲が再びはっきりし、ハリーは闇の中で、俺しく冷たい丘の上に立っていた。 木の葉しの落ちた数本の木の枝を、風がビュービュー吹き鳴らしていた。 大人になったスネイプが、息を切らしながら、杖をしっかり握りしめて、何かを、いや誰かを待ってその場でぐるぐる回っていた……自分には危害が及ばないと知ってはいても、スネイプの恐怖がハリーにも乗り移り、ハリーは、スネイプが何を待っているのかと訝りながら、後ろを振り返った−−−。  すると、目も眩むような白い光線が闇を努いてジグザグに走った。 ハリーは稲妻だと思った。ところが、スネイプの手から杖が吹き飛ばされ、スネイプはがっくりと膝をついた。 「殺さないでくれ!」 「わしには、そんなつもりはない」 ダンブルドアが「姿現わし」した音は、枝を鳴らす風の音に飲み込まれていた。 スネイプの前に立ったダンブルドアは、ロープを体の周りにはためかせ、その顔は下からの杖灯りに照らされていた。  「さて、セブルス? ヴォルデモート卿が、わしに何の伝言かな?」  「違う−−−伝言ではない−−−私は自分のことでここに来た!」  スネイプは両手を揉みしだいていた。 黒い髪が顔の周りにバラバラにほつれて飛び、狂乱した様子に見えた。  「私は−−−警告にきた−−−いや、お願いに−−−どうか−−−」  ダンブルドアは軽く杖を振った。 二人の周囲では、木の葉も枝も、吹きすさぶ夜風に煽られ続けてはいたが、ダンブルドアとスネイプが向かい合っている場所だけは静かになった。  「死喰い人が、わしに何の頼みがあると言うのじゃ?」  「あの−−−あの予言は……あの予測は……トレローニーの……」  「おう、そうじゃ」ダンブルドアが言った。 「ヴォルデモート卿に、どれだけ伝えたのかな?」  「すべてを−−−聞いたことのすべてを!」 スネイプが言った。 「それがために−−−それが理由で 『あの方』は、それがリリー・エバンズだとお考えだ!」 「予言は、女性には触れておらぬ」ダンブルドアが言った。 「七月の未に生まれる男の子の話じゃ」  「あなたは、私の言うことがおわかりになっている!『あの方』は、それがリリーの息子のことだとお考えだ。『あの方』はリリーを追いつめ−−−全員を殺すおつもりだ−−−」  「あの女がおまえにとってそれほど大切なら−−−」ダンブルドアが言った。 「ヴォルデモート卿は、リリーを見逃してくれるに違いなかろう?息子と引き換えに、母親への慈悲を願うことはできぬのか?」  「そうしました−−−私はお願いしました」  「見下げ果てたやつじゃ」ダンブルドアが言った。  ハリーは、これほど侮蔑のこもったダンブルドアの声を、聞いたことがなかった。 スネイプはわずかに身を縮めたように見えた。  「それでは、リリーの夫や子どもが死んでも、気にせぬのか?自分の願いさえ叶えば、あとの二人は死んでもいいと言うのか?」  スネイプは何も言わず、ただ黙ってダンブルドアを見上げた。  「それでは、全員を隠してください」  スネイプはかすれ声で言った。 「あの女を−−−全員を−−−安全に。お願いです」  「その代わりに、わしには何をくれるのじゃ、セプルス?」  「か−−−代わりに?」  スネイプはポカンと口を開けて、ダンブルドアを見た。 ハリーはスネイプが抗議するだろうと予想したが、しばらく黙ったあとに、スネイプが言った。  「何なりと」  丘の上の光景が消え、ハリーはダンブルドアの校長室に立っていた。 そして、何かが、傷ついた獣のような恐ろしい呻き声を上げていた。 スネイプが、ぐったりと前屈みになって椅子に掛け、ダンブルドアが立ったまま、暗い顔でその姿を見下ろしていた。 やがてスネイプが顔を上げた。 荒涼としたあの丘の上の光景以来、スネイプは百年もの間、悲惨に生きてきたような顔だった。  「あなたなら……きっと……あの女を……守ると思った……」  「リリーもジェームズも、間違った人間を信用したのじゃ」ダンブルドアが言った。 「おまえも同じじゃな、セブルス。ヴォルデモート卿が、リリーを見逃すと期待しておったのではないかな?」  スネイプは、ハァハァと苦しそうな息遣いだった。 「リリーの子は生き残っておる」ダンブルドアが言った。  スネイプは、ギクッと小さく頭をひと振りした。 うるさい蝿を追うような仕種だった。  「リリーの息子は生きておる。その男の子は、彼女の目を持っている。そっくり同じ目だ。リリー・エバンズの目の形も色も、おまえは覚えておるじゃろうな?」  「やめてくれ!」スネイプが大声を上げた。 「もういない……死んでしまった……」  「後悔か、セプルス?」  「私も……私も死にたい……」  「しかし、おまえの死が、誰の役に立つというのじゃ?」ダンブルドアは冷たく言った。 「リリー・エバンズを愛していたなら、本当に愛していたなら、これからのおまえの道は、はっきりしておる」  スネイプは苦痛の頭の中を、じっと見透かしているように見えた。 ダンブルドアの言葉がスネイプに届くまで、長い時間が必要であるかのようだった。  「どう−−−どういうことですか?」  「リリーがどのようにして、なぜ死んだかわかっておるじゃろう。その死を無駄にせぬことじゃ。リリーの息子を、わしが守るのを手伝うのじゃ」  「守る必要などありません。闇の帝王はいなくなって−−−」  「−−−闇の帝王は戻ってくる。そしてそのとき、ハリー・ポッターは非常な危険に陥る」  長い間沈黙が続き、スネイプは次第に自分を取り戻し、呼吸も整ってきた。ようやくスネイブが口を開いた。 「なるほど。わかりました。しかし、ダンブルドア、決して決して明かさないでください! このことは、私たち二人の間だけにとどめてください!誓ってそうしてください!私には耐えられない……とくにポッターの息子などに……約束してください!」  「約束しよう、セプルス。きみの最もよいところを、決して明かさぬということじゃな?」  ダンブルドアは、スネイプの残忍な、しかし苦悶に満ちた顔を見下ろしながら、ため息をついた。  「きみの、たっての望みとあらば……」  校長室が消えたが、すぐに元の形になった。スネイプがダンブルドアの前を往ったり来たりしていた。  「−−−凡庸、父親と同じく倣慢、規則破りの常習犯、有名であることを鼻にかけ、目立ちたがり屋で、生意気で−−−」  「セプルス、そう思って見るから、そう見えるのじゃよ」  ダンブルドアは「変身現代」から目も上げずに言った。  「ほかの先生方の報告では、あの子は控えめで人に好かれるし、ある程度の能力もある。わし個人としては、なかなか人を惹きつける子じゃと思うがのう」  ダンブルドアはページをめくり、本から目を上げずに言った。  「クィレルから目を離すでないぞ、よいな?」  色が渦巻き、こんどはすべてが暗くなった。 スネイプとダンブルドアは、玄関ホールで少し離れて立っていた。 クリスマス・ダンスパーティの最後の門限破りたちが、二人の前を通り過ぎて寮に戻っていった。  「どうじゃな?」ダンブルドアが呟くように言った。  「カルカロフの腕の刻印も濃くなってきました。あいつは慌てふためいています。制裁を恐れています。闇の帝王が凋落したあと、あいつがどれほど魔法省の役に立ったか、ご存知でしょう」  スネイプは横を向いて、鼻の折れ曲がったダンブルドアの横顔を見た。  「カルカロフは、もし刻印が熱くなったら、逃亡するつもりです」  「そうかの?」  ダンブルドアは静かに言った。フラー・デラクールとロジャー・デイピースが、クスクス笑いながら校庭から戻ってくるところだった。  「きみも、一緒に逃亡したいのかなぞ」  「いいえ」  スネイプの暗い目が、戻っていくフラーとロジャーの後ろ姿を見ていた。  「私は、そんな臆病者ではない」  「そうじゃな」ダンブルドアが言った。 「きみはイゴール・カルカロフより、ずっと勇敢な男じゃのう、わしはときどき、『組分け』が性急すぎるのではないかと思うことがある……」  ダンブルドアは、雷に撃たれたような表情のスネイプをあとに残して立ち去った……。  そして次に、ハリーはもう一度校長室に立っていた。 夜だった。ダンブルドアは、机の後ろの王座のような椅子に、斜めにぐったりもたれていた。 どうやら半分気を失っている。 黒く焼け焦げた右手が、椅子の横にだらりと垂れている。 スネイプは、杖をダンブルドアの手首に向けて呪文を唱えながら、左手で、金色の濃い薬をなみなみと満たしたゴブレットを傾け、ダンプルドアの喉に流し込んでいた。 やがてダンブルドアの瞼がひくひく動き、目が開いた。  「なぜ」 スネイプは前置きもなしに言った。  「なぜその指輪をはめたのです? それには呪いがかかっている。当然ご存知だったでしょう。なぜ触れたりしたのですか?」  マールヴォロ・ゴーントの指輪が、ダンブルドアの前の机に載っていた。 割れている。グリフィンドールの剣がその脇に置いてあった。  ダンブルドアは、顔をしかめた。  「わしは……愚かじゃった。いたく、そそられてしもうた……」  「何に、そそられたのです?」  ダンブルドアは答えなかった。  「ここまで戻ってこられたのは、奇跡です!」  スネイプは怒ったように言った。  「その指輪には、異常に強力な呪いがかかっていた。うまくいっても、せいぜいその力を封じ込めることしかできません。呪いを片方の手に押さえ込みました。しばしの間だけ−−−」  ダンブルドアは黒ずんで使えなくなった手を挙げ、珍しい骨董品を見せられたような表情で、矯めつ炒めつ眺めていた。  「よくやってくれた、セブルス。わしはあとどのくらいかのう?」  ダンブルドアの口調は、ごく当たり前の話をしているようだった。 天気予報でも聞いているような調子だった。スネイプは躊躇したが、やがて答えた。  「はっきりとはわかりません。おそらく一年。これほどの呪いを永久にとどめておくことはできません。結局は、広がるでしょう。時間とともに強力になる種類の呪文です」  ダンブルドアは微笑んだ。あと一年も生きられないという報せも、ほとんど、いや、まったく気にならないかのようだった。  「わしは幸運じゃ。セプルス、きみがいてくれて、わしは非常に幸運じゃ」  「私をもう少し早く呼んでくださったら、もっと何かできたものを。もっと時間を延ばせたのに!」  スネイプは憤慨しながら、割れた指輪と剣を見下ろした。  「指輪を割れば、呪いも破れると思ったのですか?」  「そんなようなものじゃ……わしは熟に浮かされておったのじゃ、まざれもなく……」  ダンブルドアが言った。そして力を振り絞って、椅子に座り直した。  「いや、まことに、これで、事はずっと単純明快になる」  スネイプは、完全に当惑した顔をした。ダンブルドアは微笑んだ。  「わしが言うておるのは、ヴォルデモート卿がわしの周りに巡らしておる計画のことじゃ。哀れなマルフォイ少年に、わしを殺させるという計画じゃ」  スネイプは、ダンブルドアの机の前の椅子に腰掛けた。ハリーが何度も掛けた椅子だった。 ダンブルドアの呪われた手について、スネイプがもっと何か言おうとしているのがハリーにはわかったが、ダンブルドアは、この話題は打ち切るという丁寧な断りの印に、その手を挙げた。 スネイプは、顔をしかめながら言った。  「闇の帝王は、ドラコが成功するとは期待していません。これは、ルシウスが先ごろ失敗したことへの、懲罰にすぎないのです。ドラコの両親は、息子が失敗し、その代償を払うのを見てじわじわと苦しむ」  「つまり、あの子はわしと同じように、確実な死の宣告を受けているということじゃ」  ダンブルドアが言った。  「さて、わしが思うに、ドラコが失敗すれば当然その仕事を引き継ぐのは、きみじゃろう?」 一瞬、間があいた。  「それが、闇の帝王の計画だと思います」  「ヴォルデモート卿は、近い将来、ホグワーツにスパイを必要としなくなるときが来ると、そう予測しておるのかなぞ」  「あの方は、まもなく学校を掌握できると信じています。おっしゃるとおりです」  「そして、もし、あの者の手に落ちれば−−−」  ダンブルドアは、まるで余談だがという口調で言った。  「きみは、全力でホグワーツの生徒たちを守ると、約束してくれるじゃろうな?」  スネイプは短く頷いた。  「よろしい。さてと、きみにとっては、ドラコが何をしようとしているかを見つけ出すのが、最優先課題じゃ。恐怖に駆られた十代の少年は、自分の身を危険に晒すばかりか、他人にまで危害を及ぼす。手助けし、導いてやるとドラコに言うがよい。受け入れるはずじゃ。あの子はきみを好いておる−−−」  「−−−そうでもありません。父親が寵愛を失ってからは。ドラコは私を責めています。ルシウスの座を私が奪った、と考えているのです」  「いずれにせよ、やってみることじゃ。わしは自分のことより、あの少年が何か手立てを思いついたときに、偶然その犠牲になる者のことが心配じゃ。もちろん最終的には、わしらがあの少年をヴォルデモート卿の怒りから救う手段は、たった一つしかない」  スネイプは眉を吊り上げ、茶化すような調子で尋ねた。  「あの子に、ご自分を殺させるおつもりですか?」  「いや、いや。きみがわしを殺さねばならぬ」  長い沈黙が流れた。ときどきコツコツという奇妙な音が聞こえるだけだった。不死鳥のフォークスがイカの甲を啄んでいた。  「いますぐに、やってほしいですか?」  スネイプの声は皮肉たっぷりだった。  「それとも、少しの間、墓に刻む墓碑銘をお考えになる時間が要りますか?」  「おお、そうは急がぬ」ダンブルドアが微笑みながら言った。  「そうじゃな、そのときは自然にやって来ると言えよう。今夜の出来事からして」 ダンブルドアは萎えた手を指した。 「そのときは、間違いなく一年以内に来る」  「死んでもいいのなら」 スネイプは乱暴な言い方をした。 「ドラコにそうさせてやったら、いかがですか?」  「あの少年の魂は、まだそれほど壊されておらぬ」ダンブルドアが言った。 「わしのせいで、その魂を引き裂かせたりはできぬ」 「それではダンブルドア、私の魂は?私のは?」  「老人の苦痛と屈辱を回避する手助けをすることで、きみの魂が傷つくかどうかは、きみだけが知っていることじゃ」  ダンブルドアが言った。  「これはわしの、きみへのたっての頼みじゃ、セプルス。なにしろ、わしに死が訪れるというのは、チャドリー・キヤノンズが今年のリーグ戦を最下位で終えるというのと同じくらい確かなことじやからのう。白状するが、わしは、素早く痛みもなしに去るほうが好みじゃ。たとえばグレイバックなどがかかわって、長々と見苦しいことになるよりはのうー−−ヴォルデモー トがやつを雇ったと聞いたが? または、獲物を食らう前にもてあそぶのが好きな、ベラトリックス嬢などともかかわりとうはないのう」  ダンブルドアは、気楽な口調だったが、かつて何度もハリーを貫くように見たそのブルーの目は、スネイプを鋭く貫いていた。 まるで、いま話題にしている魂が、ダンブルドアの目には見えているかのようだった。 ついにスネイプは、また短く頷いた。  ダンブルドアは満足げだった。  「ありがとう、セプルス……」  校長室が消え、スネイプとダンブルドアが、こんどは夕暮れの、誰もいない校庭を並んでそぞろ歩いていた。  「ポッターと、幾晩も密かに閉じこもって、何をなさっているのですか?」  スネイプが唐突に聞いた。  ダンブルドアは、疲れた様子だった。  「なぜ聞くのかね? セプルス、あの子に、また罰則を与えるつもりではなかろうな? そのうち、あの子は、罰則で過ごす時間のほうが長くなることじやろう」  「あいつは父親の再来だ−−−」  「外見は、そうかも知れぬ。しかし深いところで、あの子の性格は母親のほうに似ておる。わしがハリーとともに時間を過ごすのは、話し合わねばならぬことがあるからじゃ。手遅れにならぬうちに、あの子に伝えなければならぬ情報をな」  「情報を」  スネイプが繰り返した。  「あなたはあの子を信用している……私を借用なさらない」  「これは信用の問題ではない。きみも知ってのとおり、わしには時間がない。あの子が為すべきことを為すために、十分な情報を与えることがきわめて重要なのじゃ」 「ではなぜ、私には、同じ情報をいただけないのですか?」  「すべての秘密を一つの籠に入れておきとうはない。その籠が、長時間ヴォルデモート卿の腕にぶら下がっているとなれば、なおさらじゃ」  「あなたの命令でやっていることです!」  「しかもきみは、非常によくやってくれておる。セブルス、きみが常にどんなに危険な状態に身を置いておるか、わしが過小に評価しているわけではない。ヴォルデモートに価値ある情報と見えるものを伝え、しかも肝心なことは隠しておくという芸当は、きみ以外の誰にも託せぬ仕事じゃ」  「それなのに、あなたは、『閉心術』もできず、魔法も凡庸で、闇の帝王の心と直接に結びついている子どもに、より多くのことを打ち明けている!」  「ヴォルデモートは、その結びつきを恐れておる」ダンブルドアが言った。 「それほど昔のことではないが、ヴォルデモートは、一度だけ、ハリーの心と真に結びつくという経験がどんなものかを、わずかに味わったことがある。それは、ヴォルデモートがかつて経験したことのない苦痛じゃった。もはや再び、ハリーに取り憑こうとはせぬだろう。わしには確信がある。同じやり方ではやらぬ」  「どうもわかりませんな」  「ヴォルデモート卿の魂は、損傷されているが故に、ハリーのような魂と緊密に接触することに耐えられんのじゃ。凍りついた鋼に舌を当てるような、炎に肉を焼かれるような−−−」  「魂? 我々は、心の話をしていたはずだ!」  「ハリーとヴォルデモート卿の場合、どちらの話も同じことになるのじゃ」  ダンブルドアはあたりを見回して、二人以外に誰もいないことを確かめた。 「禁じられた森」の近くに来ていたが、あたりには人の気配はない。  「きみがわしを殺したあとに、セブルス−−−」  「あなたは、私に何もかも話すことは拒んでおきながら、そこまでのちょっとした奉仕を期待する!」  スネイプが唸るように言った。その細長い顔に、心から怒りが燃え上がった。  「ダンブルドア、あなたは何もかも当然のように考えておいでだ! 私だって気が変わったかもしれないのに!」  「セブルス、きみは誓ってくれた。ところで、きみのするべき奉仕の話が出たついでじゃが、例の若いスリザリン生から、目を離さないと承知してくれたはずじゃが?」  スネイプは憤慨し、反抗的な表情だった。ダンブルドアはため息をついた。  「今夜、わしの部屋に来るがよい、セプルス、十一時に。そうすれば、わしがきみを信用していないなどと、文句は言えなくなるじゃろう……」  そして場面は、ダンブルドアの校長室になり、窓の外は暗く、フォークスは止り木に静かに止まっていた。 身動きもせずに座っているスネイプの周りを歩きながら、ダンブルドアが話していた。  「ハリーは知ってはならんのじゃ。最後の最後まで。必要になるときまで。さもなければ、為さねばならぬことをやり遂げる力が、出てくるはずがあろうか?」  「しかし、何を為さねばならないのです?」  「それはハリーとわしの、二人だけの話じゃ。さて、セプルス、よく聴くのじゃ。そのときは来る−−−わしの死後に−−−反論するでない。口を挟むでない! ヴォルデモート卿が、あの蛇の命を心配しているような気配を見せるときが来るじゃろう」  「ナギニの?」 スネイプは驚愕した。  「さよう。ヴォルデモート卿が、あの蛇を使って自分の命令を実行させることをやめ、魔法の保護の下に安全に身近に置いておくときが来る。そのときには、たぶん、ハリーに話しても大丈夫じゃろう」 「何を話すと?」 ダンブルドアは深く息を吸い、目を閉じた。  「こう話すのじゃ。ヴォルデモート卿があの子を殺そうとした夜、リリーが盾となって自らの命をヴォルデモートの前に投げ出したとき、『死の呪い』はヴォルデモートに撥ね返り、破壊されたヴォルデモートの魂の一部が、崩れ落ちる建物の中に唯一残されていた生きた魂に引っかかったのじゃ。ヴォルデモート卿の一部が、ハリーの中で生きておる。その部分こそが、ハリーに蛇と話す力を与え、ハリーには理解できないでいることじゃが、ヴォルデモートの心とのつながりをもたらしているのじゃ。そして、ヴォルデモートの気づかなかったその魂のかけらが、ハリーに付着してハリーに守られているかぎり、ヴォルデモートは死ぬことができぬ」  ハリーは、長いトンネルの向こうに、二人を見ているような気がした。 二人の姿ははるかに遠く、二人の声はハリーの耳の中で奇妙に反響していた。  「するとあの子は……あの子は死なねばならぬと?」  スネイプは落ち着き払って聞いた。 「しかも、セブルス、ヴォルデモート自身がそれをせねばならぬ。それが肝心なのじゃ」  再び長い沈黙が流れた。そしてスネイプが口を開いた。  「私は……この長い年月……我々が彼女のために、あの子を守っていると思っていた。リリーのために」  「わしらがあの子を守ってきたのは、あの子に教え、育み、自分の力を試させることが大切だったからじゃ」  目を固く閉じたまま、ダンブルドアが言った。  「その間、あの二人の結びつきは、ますます強くなっていった。寄生体の成長じゃ。わしはときどき、ハリー自身がそれにうすうす気づいているのではないかと思うた。わしの見込みどおりのハリーなら、いよいよ自分の死に向かって歩み出すそのときには、それがまさにヴォルデモートの最期となるように、取り計らっているはずじゃ」  ダンブルドアは目を開けた。スネイプは、ひどく衝撃を受けた顔だった。  「あなたは、死ぬべきときに死ぬことができるようにと、いままで彼を生かしてきたのですか?」  「そう驚くでない、セプルス。いままで、それこそ何人の男や女が死ぬのを見てきたのじゃ?」  「最近は、私が救えなかった者だけです」 スネイプが言った。  スネイプは立ち上がった。  「あなたは、私を利用した」 「はて?」 「あなたのために、私は密偵になり、嘘をつき、あなたのために、死ぬほど危険な立場に身を置いた。すべてが、リリー・ポッターの息子を安全に守るためのはずだった。いまあなたは、その息子を、屠殺されるべき豚のように育ててきたのだと言う−−−」  「なんと、セブルス、感動的なことを」ダンブルドアは真顔で言った。 「結局、あの子に情が移ったと言うのか?」  「彼に?」  スネイプが叫んだ。  「エクスペクト・パトローナム!<守護霊よ、来たれ>」  スネイプの杖先から、銀色の牝鹿が飛び出した。 牝鹿は校長室の床に降り立って、一跳びで部屋を横切り、窓から姿を消した。 ダンブルドアは牝鹿が飛び去るのを見つめていた。 そして、その銀色の光が薄れたとき、スネイプに向き直ったダンブルドアの目に、涙が溢れていた。  「これほどの年月が、経ってもか?」  「永遠に」 スネイプが言った。  そして場面が変わった。こんどは、ダンブルドアの机の後ろで、スネイプがダンブルドアの肖像画と話しているのが見えた。  「きみは、ハリーがおじおばの家を離れる正確な日付を、ヴォルデモートに教えなければならぬぞ」ダンブルドアが言った。 「そうせねば、きみが十分に情報をつかんでいると信じておるヴォルデモートに、疑念が生じるじゃろう。しかし、囮作戦を仕込んでおかねばならぬ−−−それで、たぶん、ハリーの安全は確保されるはずじゃ。マンダンガス・フレッチャーに『錯乱の呪文』をかけてみるのじゃ。それから、セブルス、きみが追跡に加わらねばならなくなった場合は、よいか、もっともらしくきみの役割を果たすのじゃ……わしはきみが、なるべく長くヴォルデモート卿の腹心の部下でいてくれることを、頼みの綱にしておる。さもなくば、ホグワーツはカロー兄妹の勝手にされてしまうじゃろう……」  そして次は、見慣れない酒場で、スネイプがマンダンガスと額をつき合わせていた。 マンダンガスの顔は奇妙に無表情で、スネイプは眉根を寄せて意識を集中させていた。  「おまえは、不死鳥の騎士団に提案するのだ」  スネイプが呪文を唱えるようにプツブツ言った。  「囮を使うとな。ポリジュース薬だ。複数のポッターだ。それしかうまくいく方法はない。おまえは、我輩がこれを示唆したことは忘れる。自分の考えとして提案するのだ。わかったな?」  「わかった」  マンダンガスは焦点の合わない目で、ボソボソ言った……。  こんどは、箒に乗ったスネイプと並んで、ハリーは雲一つない夜空を飛んでいた。 スネイプは、フードを被った死喰い人を複数伴っている。 前方に、ルーピンと、ハリーになりすましたジョージがいた……一人の死喰い人がスネイプの前に出て、杖を上げ、まっすぐルーピンの背中を狙った−−−。  「セクタム・センプラ!<切り裂け>」 スネイプが叫んだ。 しかし、死喰い人の杖腕を狙ったその呪いは外れ、代わりにジョージに当たった  そして次は、スネイプがシリウスの昔の寝室でひざまずいていた。 リリーの古い手紙を読むスネイプの曲がった鼻の先から、涙が滴り落ちていた。 二ページ目には、ほんの短い文章しか書かれていなかった。 ゲラート・グリンデルバルドの友達だったことがあるなんて。 たぷんバチルダはちょっとおかしくなっているのだと思うわ。 愛を込めて リリー  スネイプは、リリーの署名と「愛を込めて」と書いてあるページを、ローブの奥にしまい込んだ。 それから、一緒に手に持っていた写真を破り、リリーが笑っているほうの切れ端をしまい、ジェームズとハリーの写っているほうの切れ端は、整理箪笥の下に捨てた……。  そして次は、スネイプが再び校長室に立っているところへ、フィニアス・ナイジェラスが急いで自分の肖像画に戻ってきた。  「校長! 連中はディーンの森で野宿しています! あの『穢れた血』が−−−」  「その言葉は、使うな!」スネイプが叫んだ。  「−−−−−あのグレンジャーとかいう女の子が、バッグを開くときに場所の名前を言うのを、聞きました!」  「おう、それは重畳!」 校長の椅子の背後で、ダンブルドアの肖像画が叫んだ。  「さて、セブルス、剣じゃ! 必要性と勇気という二つの条件を満たした場合にのみ、剣が手に入るということを忘れぬように−−−さらに、それを与えたのがきみだということを、ハリーは知ってはならぬ! ヴォルデモートがハリーの心を読み、もしもきみがハリーのために動いていると知ったら−−−」  「心得ています」  スネイプは素っ気なく言った。 スネイプがダンブルドアの肖像画に近づき、額の横を引っ張ると、肖像画がパッと前に開き、背後の隠れた空洞が現れた。その中から、スネイプはグリフィンドールの剣を取り出した。  「それで、この剣をポッターに与えることが、なぜそれほど重要なのか、あなたはまだ教えてはくださらないのですね?」  ロープの上に旅行用マントをさっと羽織りながら、スネイプが言った。  「そのつもりは、ない」  ダンブルドアの肖像画が言った。  「ハリーには、剣をどうすればよいかがわかるはずじゃ。しかし、セプルス、気をつけるのじゃ。ジョージ・ウィーズリーの事故のあとじゃから、きみが姿を現せば、あの子たちは快く受け入れてはくれまい−−−」  スネイプは、扉のところで振り返った。  「ご懸念には及びません、ダンブルドア」  スネイプは冷静に言った。  「私に考えがあります……」  スネイプは校長室を出ていった。  ハリーの体が上昇し、「憂いの篩」から抜け出ていった。 そしてその直後、ハリーはまったく同じ部屋の、絨毯の上に横たわっていた。 まるでスネイプが、たったいまこの部屋の扉を閉めて、出ていったばかりのように。 とうとう真実が−−−。校長室の埃っぽい絨毯にうつ伏せに顔を押しっけて、勝利のための秘密を学んでいると思い込んでいたその場所で、ハリーはついに、自分が生き残るはずではなかったことを悟った。 ハリーの任務は、両手を広げて迎える「死」に向かって、静かに歩いていくことだった。 その途上で、ヴォルデモートの生への最後の絆を断ち切る役割だったのだ。 つまり、ハリーが杖を上げて身を守ることもせず、観念してヴォルデモートの行く手に自らを投げ出しさえすれば、きれいに終わりが来る。 ゴドリックの谷で成し遂げられるはずだった仕事は、そのときに成就するのだ。 どちらも生きられない。 どちらも生き残れない。  ハリーは、心臓が激しく胸板に打ちつけるのを感じた。 死を恐れるハリーの胸の中で、むしろハリーを生かしておくために、より強く、雄々しく脈打っているのは、何と不思議なことか。 しかしその心臓は、止まらなければならない。 しかも間もなく。 鼓動はあと何回かで終わる。 立ち上がって、最後にもう一度だけ城の中を歩き、校庭から「禁じられた森」 へ入っていくまでに、あと何回鼓動する時間があるのだろう?  恐怖が、床に横たわるハリーを波のように襲い、体の中で葬送の太鼓が打ち鳴らされていた。 死ぬのは苦しいことなのだろうか?  何度も死ぬような目に遭い、そのたびに逃れてきたが、ハリーは、死そのものについて真正面から考えたことがなかった。 どんなときでも、死への恐れより、生きる意志のほうがずっと強かった。 しかし、いまはもう、逃げようとは思わなかった。 ヴォルデモートから逃れようとは思わなかった。 すべてが終わった。ハリーにはそれがわかっていた。 残されているのはただ一つ。死ぬことだけだ。  プリベット通り四番地を最後に出発したあの夏の夜に、高貴を不死鳥の尾羽根の杖がハリーを救ったあの夜に、死んでしまえばよかった? ヘドウィグのように、死んだこともわからずに一気に死ねたら! それとも、愛するハーマイオニーを救うために、杖の前に身を投げ出すことができるなら……いまは両親の死に方さえ羨ましかった。 自らの破滅に向かって冷静に歩いていくには、別の種類の勇気が必要だろう。 ハリーは指が微かに震えるのを感じて、抑えようとした。 壁の肖像画はすべて留守で、誰も見てはいなかったにもかかわらず……。  ゆっくりと、本当にゆっくりと、ハリーは体を起こした。 起こしながら、自分の生身の体を感じ、自分が生きていることをこれまでになく強く感じた。 自分がどんなに奇跡的な存在であるかを、これまでどうして一度も考えたことがなかったのだろう?  頭脳、神経、そして脈打つ心臓−−−それらすべてが消える……少なくともハリーがそこから消える。 ハリーは、ゆっくりと深く息をしていた。 口も喉もからからだったが、目も乾ききっていて、涙はなかった。  ダンブルドアの裏切りなど、ほとんど取るに足りないことだった。 なにしろ、より大きな計画が存在したのだから。 愚かにもハリーには、それが見えなかっただけのことなのだ。 ハリーはいま、それを悟った。 ハリーに生きてほしいというのがダンブルドアの願いだと、勝手に思い込んで、一度もそれを疑ったことはなかった。 しかし、自分の命の長さは、はじめから、分霊箱のすべてを取り除くのにかかる時間、と決められていたのだ。 ハリーはいまになってそれがわかった。 ダンブルドアは、分霊箱を破壊する仕事を、ハリーに引き継いだ。 そして、ハリーは従順にも、ヴォルデモートの生命の絆を少しずつ断ち切ってきた。 しかしそれは、自分の生命の絆をも断ち切り続けることだった!  何というすっきりした、何という優雅なやり方だろう。 何人もの命を無駄にすることなく、すでに死ぬべき者として印された少年に、危険な任務を与えるとは。 その少年の死自体は、惨事ではなく、ヴォルデモートに対して新たな痛手を与えるための死なのだ。  しかもダンブルドアは、ハリーが回避しないことを知っていた。 それがハリー自身の最期であっても、最後まで突き進むであろうことを知っていた。 なにしろ、ダンブルドアは、手間ひまをかけて、それだけハリーを理解してきたのだから。 事を終結させる力がハリー自身にあると知ってしまった以上、ハリーは、自分のためにほかの人を死なせたりはしない。 ダンブルドアもヴォルデモート同様、そういうハリーを知っていた。 大広間に横たわっていたフレッド、ルーピン、トンクスの亡骸が、否応なしにハリーの脳裏に蘇り、ハリーは一瞬、息ができなくなった。 死は時を待たない……。  しかしダンブルドアは、ハリーを買いかぶっていた。 ハリーは失敗したのだ。蛇はまだ生きている。 ヴォルデモートを地上に結びつけている分霊箱の一つが、ハリーが殺されたあとも残るのだ。 たしかに、その任務は、ほかの誰がやるにせよ、より簡単な仕事になるだろう。 誰が成し遂げるのだろう、とハリーは考えた。 ロンとハーマイオニーなら、もちろん何をすべきかをわかっているだろう……あの二人に打ち明けることを、ダンブルドアがハリーに望んだのは、そういう理由だったのかもしれない……ハリーが、自分の運命を少し早めに全うすることになった場合、その二人が引き継げるようにと……。  雨が冷たい窓を打つように、さまざまな思いが、真実という妥協を許さない硬い表面に打ちつけた。 真実。 ハリーは死ななければならない、という真実。 僕は、死ななければならない。 終わりが来なければならない。  ロンもハーマイオニーもどこか遠くに離れ、遠方の国にでもいるような気がした。 ずいぶん前に、二人と別れたような気がした。 別れの挨拶も説明もするまいと、ハリーは心に決めた。 この旅は、連れ立っては行けない。 二人はハリーを止めようとするだろうが、それは、貴重な時間を無駄にするだけだ。 ハリーは、十七歳の誕生日に贈られた、くたびれた金時計を見た。 ヴォルデモートが降伏のために与えた時間の、約半分が過ぎていた。  ハリーは立ち上がった。 心臓が、ハタハタともがく小鳥のように飛び跳ねて、肋骨にぶつかっていた。 残された時間の少ないことを、知っているのかもしれない。 もしかしたら、最期が来る前に、一生分の鼓動を打ち終えてしまおうと決めたのかもしれない。 校長室の扉を閉め、ハリーはもう振り返らなかった。  城は空っぽだった。 たった一人で、一歩一歩を踏みしめながら歩いていると、自分がもう死んで、ゴーストになって歩いているような気がした。 肖像画の主たちは、まだ額に戻ってはいない。 城全体が不気味な静けさに包まれ、残っている温かい血は、死者や哀悼者で一杯の大広間に集中しているかのようだった。  ハリーは「透明マント」を被って順々に下の階に下り、最後に大理石の階段を下りて玄関ホールに向かった。 もしかしたら、どこか心の片隅で、誰かがハリーを感じ取り、ハリーを見て、引き止めてくれることを望んでいたのかもしれない。 しかし「マント」はいつものように、誰にも見通せず、完壁で、ハリーは簡単に玄関扉にたどり着いていた。  そこで、危うくネビルとぶつかりそうになった。 誰かと二人で組んで、校庭から遺体の一つを運び入れるところだった。 遺体を見下ろしたハリーは、またしても胃袋に鈍い一撃を食らったような痛みを感じた。 コリン・クリーピーだ。未成年なのに、マルフォイやクラップ、ゴイルと同じように、こっそり城に戻ってきたに違いない。 遺体のコリンは、とても小さかった。  「考えてみりや、おい、ネビル、俺一人で大丈夫だよ」  オリバー・ウッドはそう言うなり、コリンの両腕と両腿を握って肩に担ぎ上げ、大広間に向かった。  ネビルはしばらく扉の枠にもたれて、額の汗を手の甲で拭った。 一気に歳を取ったように見えた。 それからまた石段を下り、遺体を回収しに闇に向かって歩き出した。 ハリーはもう一度だけ、大広間の人口をちらと振り返った。動き回る人々が見えた。 互いに慰めたり、喉の渇きを潤したり、死者の傍に額ずいている。 しかし、ハリーの愛する人々の姿は見えなかった。 ハーマイオニーやロン、ジニーやウィーズリー家の誰の姿もまったく見当たらず、ルーナもいない。 残された時間のすべてを差し出してでも、最後にその人たちを一目見たいと思った。 しかし、一目見てしまえば、それを見納めにする力など、出てくるはずがあろうか?  このほうがよいのだ。  ハリーは石段を下り、暗闇に足を踏み出した。 朝の四時近くだった。校庭は死んだように静まり返り、ハリーが成すべきことを成し遂げられるのかどうか、息をひそめて見守っているようだった。  ハリーは、別の遺体を覗き込んでいるネビルに近づいた。 「ネビル」 「ウワッ!ハリー、心臓麻痺を起こすところだった!」 ハリーは「マント」を脱いでいた。 念には念を入れたいという願いから、突然、ふっと思いついたことがあったのだ。  「一人で、どこに行くんだい?」ネビルが疑わしげに聞いた。  「予定どおりの行動だよ」 ハリーが言った。 「やらなければならないことがあるんだ。ネビル−−−ちょっと聞いてくれ−−−」  「ハリー?」ネビルは急に怯えた顔をした。 「ハリー、まさか、捕まりにいくんじゃないだろうな?」  「違うよ」 ハリーはすらすらと嘘をついた。 「もちろんそうじゃない……別なことだ。でも、しばらく姿を消すかもしれない。ネビル、ヴォルデモートの蛇を知っているか? あいつは巨大な蛇を飼っていて……ナギニって呼んでる……」  「聞いたことあるよ、うん……それがどうかした?」  「そいつを殺さないといけない。ロンとハーマイオニーは知っていることだけど、でも、もしかして二人が−−−」  その可能性を考えるだけでも、ハリーは恐ろしさに息が詰まり、話し続けられなくなったが、気を取り直した。 これは肝心なことだ。 ダンブルドアのように冷静になり、万全を期して、予備の人間を用意し、誰かが遂行するようにしなければならない。 ダンブルドアは、自分のほかに分霊箱のことを知っている人間が三人いることを知った上で、死んでいった。 こんどはネビルがハリーの代わりになるのだ。秘密を知る者は、まだ三人いる。 「もしかして二人が−−−忙しかったら−−−そして君にそういう機会があったら−−−」 「蛇を殺すの?」 「蛇を殺してくれ」 ハリーが繰り返した。 「わかったよ、ハリー。君は、大丈夫なの?」 「大丈夫さ。ありがとう、ネビル」 ハリーが去りかけると、ネビルはその手首をつかんだ。  「僕たちは全員、戦い続けるよ、ハリー。わかってるね?」  「ああ、僕は−−−」  胸が詰まり、言葉が途切れた。 ハリーにはその先が言えなかった。 ネビルは、それが変だとは思わなかったらしい。 ハリーの肩を軽く叩いてそばを離れ、また遺体を探しに去っていった。  ハリーは「マント」を被り直し、歩きはじめた。 そこからあまり遠くないところで、誰かが動いているのが見えた。 地面に突っ伏す影のそばに屈み込んでいる。 すぐそばまで近づいて初めて、ハリーはそれがジニーだと気づいた。  ハリーは足を止めた。 ジニーは、弱々しく母親を呼んでいる女の子のそばに屈んでいた。  「大丈夫よ」ジニーはそう言っていた。 「大丈夫だから。あなたをお城の中に運ぶわ」  「でも、わたし、お家に帰りたい」女の子が囁いた。 「もう戦うのはいや!」  「わかっているわ」ジニーの声がかすれた。 「きっと大丈夫だからね」  ハリーの肌を、ざわざわと冷たい震えが走った。 闇に向かって大声で叫びたかった。 ここにいることをジニーに知ってほしかった。 これからどこに行こうとしているのかを、ジニーに知ってほしかった。 引き止めてほしい、無理やり連れ戻してほしい、家に送り返してほしい。  しかし、ハリーはもう家に戻っている。 ホグワーツは、ハリーにとって初めての、最高にすばらしい家庭だった。 ハリー、ヴォルデモートそしてスネイプと、身寄りのない少年たちにとっては、ここが家だった……。  ジニーはいま、傷ついた少女の傍らに膝をつき、その片手を掘っていた。 ハリーは力を振り絞って歩きはじめた。 そばを通り過ぎるとき、ジニーが振り返るのを見たような気がした。 通り過ぎる人の気配を、ジニーが感じ取ったのだろうか。 しかし、ハリーは声をかけず、振り返りもしなかった。 ジニーで良かった−−−。もしハーマイオニーだったなら−−−。  ハグリッドの小屋が、暗闇の中に浮かび上がってきた。 明かりは消え、扉を引っ掻くファングの爪の音も、うれしげに吼える声も聞こえない。 何度もハグリッドを訪ねたっけ。暖炉の火に輝く銅のヤカン、固いロックケーキ、巨大な虹虫、そしてハグリッドの大きな髭もじゃの顔。 ロンがナメクジを吐いたり、ハーマイオニーと一緒にハグリッドのドラゴン、ノーバートを助ける手伝いをしたり……。  ハリーは歩き続けた。 「禁じられた森」 の端にたどり着き、そこで足がすくんだ。  木々の間を、吸魂鬼の群れがスルスル飛び回っている。 その凍るような冷たさを感じ、無事に通り抜けられるかどうか、ハリーには自信がなかった。 守護霊を出す力は残っていない。 もはや、体の震えを止めることさえできなくなっていた。 死ぬことは、やはり、そう簡単ではなかった。 息をしている瞬間が、草の匂いが、そして顔に感じるひんやりした空気が、とても貴重に思えた。 たいていの人には何年ものあり余る時間があり、それをだらだらと浪費しているというのに、自分は一秒一秒にしがみついている……。 これ以上進むことはできないと思うと同時に、ハリーには進まなければならないこともわかっていた。 長いゲームが終わり、スニッチは捕まり、空を去るときが来たのだ……。  スニッチ。 感覚のない指で、ハリーは首から掛けた巾着をぎごちなく手探りし、スニッチを引っ張り出した。  私は終わるときに開く。  ハリーは荒い息をしながら、スニッチをじっと見つめた。 時間ができるだけゆっくり過ぎてほしいこのときに、急に時計が早回りしたかのようだった。 理解するのが早すぎて、考える過程を追い越してしまったかのようだった。 これが「終わるとき」なのだ。 いまこそ、そのときなのだ。  ハリーは、金色の金属を唇に押し当てて囁いた。  「僕は、まもなく死ぬ」  金属の殻がぱっくり割れた。 震える手を下ろし、ハリーはマントの下でドラコの杖を上げて、呟くように唱えた。  「ルーモス<光よ>」  二つに割れたスニッチの中央に、黒い石があった。 真ん中にギザギザの割れ目が走っている。「蘇りの石」は、ニワトコの杖を表す縦の線に沿って割れていたが、マントと石を表す三角形と円は、まだ識別できた。  そして再び、ハリーは頭で考えるまでもなく理解した。 呼び戻すかどうかはどうでもいいことだ。 間もなく自分もその仲間になるのだから。 あの人たちを呼ぶのではなく、あの人たちが自分を呼ぶのだ。  ハリーは目をつむって、手の中で石を三度転がした。  事は起こった。周囲の微かな気配で、ハリーにはそうとわかった。 惨い姿が、森の端を示す、小枝の散らばった土臭い地面に足をつけて、動いている昔が聞こえた。 ハリーは目を開けて周りを見回した。  ゴーストとも違う、かといって本当の肉体を持ってもいない、ということがハリーにはわかった。 ずいぶん昔のことになるが、日記から抜け出したあのリドルの姿に最も近く、記憶がほとんど実体になった姿だった。 生身の体ほどではないが、しかしゴーストよりずっとしっかりした姿が、それぞれの顔に愛情のこもった微笑を浮かべて、ハリーに近づいてきた。  ジェームズはハリーと、まったく同じ背丈だった。 死んだときと同じ服装で、髪はくしゃくしゃ、そしてメガネは、ウィーズリーおじさんのように片側が少し下がっていた。  シリウスは背が高くハンサムで、ハリーの知っている生前の姿よりずっと若かった。 両手をポケットに突っ込み、ニヤッと笑いながら大きな足取りで、軽やかに、自然な優雅さで歩いていた。  ルーピンもまだ若く、それほどみすぼらしくなかったし、髪は色も濃く、よりふさふさしていた。 青春時代にさんざんほっつき歩いた、懐かしいこの場所に戻ってこられて幸せそうだった。  リリーは、誰よりもうれしそうに微笑んでいた。 肩にかかる長い髪を背中に流してハリーに近づきながら、ハリーそっくりの緑の目で、いくら見ても見飽きることがないというように、ハリーの顔を貪るように眺めていた。  「あなたはとても勇敢だったわ」  ハリーは、声が出なかった。 リリーの顔を見ているだけで幸せだった。 その場にたたずんで、いつまでもその顔を見ていたかった。それだけで満足だと思った。  「おまえはもうほとんどやり遂げた」ジェームズが言った。 「もうすぐだ……父さんたちは鼻が高いよ」  「苦しいの?」子どもっぽい質問が、思わず口を突いて出ていた。  「死ぬことが? いいや」 シリウスが言った。 「眠りに落ちるより素早く、簡単だ」  「それに、あいつは素早くすませたいだろうな。あいつは終わらせたいのだ」  ルーピンが言った。  「僕、あなたたちに死んでほしくなかった」  ハリーが言った。 自分の意思とは関係なく、言葉が口を突いて出てきた。  「誰にも。許して−−−」ハリーは、ほかの誰よりも、ルーピンに向かってそう言った。心から許しを求めた。 「−−−男の子が生まれたばかりなのに……リーマス、ごめんなさい−−−」  「私も悲しい」ルーピンが言った。 「息子を知ることができないのは残念だ……しかし、あの子は、私が死んだ理由を知って、きっとわかってくれるだろう。私は、息子がより幸せに暮らせるような世の中を、作ろうとしたのだとね」  森の中心から吹いてくると思われる冷たい風が、ハリーの額にかかる髪を掻き揚げた。 この人たちのほうからハリーに行けとは言わないことを、ハリーは知っていた。 決めるのは、ハリーでなければならないのだ。  「一緒にいてくれる?」  「最後の最後まで」ジェームズが言った。  「あの連中には、みんなの姿は見えないの?」 ハリーが聞いた。  「私たちは、君の一部なのだ」シリウスが言った。 「ほかの人には見えない」 ハリーは母親を見た。 「そばにいて」 ハリーは静かに言った。 そしてハリーは歩き出した。吸魂鬼の冷たさも、ハリーを挫きはしなかった。 その中を、ハリーは親しい人々と連れ立って通り過ぎた。 みんなが、ハリーの守護霊の役目を果たし、一緒に古木の間を行進した。 木々はますます密生して、枝と枝がからみつき、足元の木の根は節くれ立って曲がりくねっていた。 暗闇の中で、ハリーは「透明マント」をしっかり巻きつけ、次第に森の奥深くへと入り込んでいった。 ヴォルデモートがどこにいるのか、まったく見当がつかなかったが、必ず見つけられると碓信していた。 ハリーの横に、ほとんど音を立てずに歩くジェームズ、シリウス、ルーピン、リリーがいた。 そばにいてくれるだけでハリーは勇気づけられ、一歩、また一歩と進むことができた。  ハリーはいま、心と体が奇妙に切り離されているような気がしていた。 両手両足が意識的に命令しなくとも動き、まもなく離れようとしている肉体に、自分が運転手としてではなく、乗客として乗っているような気がした。 城にいる生きた人間よりも、自分に寄り添って森の中を歩いている死者のほうが、ハリーにとってはより実在感があった。 ハーマイオニー、ロン、ジニー、そしてほかのみんなが、いまのハリーにとっては、ゴーストのように感じられた。 つまずき、滑りながら、ハリーは進んでいった。 生の終わりに向かって、ヴォルデモートに向かって……。  ドスンという音と囁き声。何かほかの生き物が、近くで動いていた。 ハリーはマントを被ったまま立ち止まり、あたりを透かし見ながら耳を澄ませた。 母親も父親も、ルーピン、シリウスも立ち止まった。  「あそこに、誰かいる」近くで荒々しい声が囁いた。 「あいつは『透明マント』を持っている。もしかしたら−−−?」  近くの木の陰から、杖灯りを揺らめかせて二つの影が現れた。 ヤックスリーとドロホフだった。 暗闇に目を凝らして、ハリーや両親、シリウス、ルーピンが立っている場所を、まっすぐに見ていた。 どうやら二人には何も見えないらしい。  「絶対に、何か聞こえた」ヤックスリーが言った。 「獣、だと思うか?」  「あのいかれたハグリッドの奴め、ここに、しこたまいろんなものを飼っているからな」  ドロホフが、ちらりと後ろを振り返りながら言った。  ヤックスリーは腕時計を見た。  「もうほとんど時間切れだ。ポッターは一時間を使いきった。来ないな」  「しかしあの方は、やつが来ると確信なきっていた! ご機嫌麗しくないだろうな」  「戻ったほうがいい」ヤックスリーが言った。 「これからの計画を聞くのだ」  ヤックスリーとドロホフは、庫を返して森の奥深くへと歩いていった。 ハリーはあとを追けた。 二人に従いていけば、ハリーの望む場所に連れていってくれるはずだ。 ふと横を見ると、母親が微笑みかけ、父親が励ますように頷いた。  数分も歩かないうちに、行く手に明かりが見えた。 ヤックスリーとドロホフは、空き地に足を踏み入れた。 そこは、ハリーも知っている、怪物蜘昧アラゴグのかつての棲処だった。 巨大な蜘味の巣の名残がまだあったが、アラゴグの儲けた子孫の大蜘妹たちは、死喰い人に追い立てられ、手先として戦わされていた。  空き地の中央に焚き火が燃え、チラチラと揺らめく炎の明かりが、黙りこくってあたりを警戒している死喰い人の群れを照らしていた。 今まで見たどの時よりも数が多かった。ざっとみただけでも100人は超えている。 まだ仮面とフードをつけたままの死喰い人もいれば、顔を現している者もいる。 残忍で、岩のように荒削りな顔の巨人が二人、群れの外側に座って、その場に巨大な影を落としていた。 フェンリール・グレイバックが、長い爪を噛みながら忍び歩いている姿や、ブロンドの大男ロウルが、出血した唇を拭っているのが見えた。 ルシウス・マルフォイは、打ちのめされ、恐怖に怯えた表情をし、ナルシッサは、目が落ち窪み、心配でたまらない様子だった。  すべての目が、ヴォルデモートを見つめていた。 その場に頭を垂れて立っているヴォルデモートは、ニワトコの杖を持った蝋のような両手を、胸の前で組んでいる。 祈っているようでもあり、頭の中で時間を数えているようでもあった。 空き地の端にたたずみながら、ハリーは場違いな光景を思い浮かべた。 かくれんぼの鬼になった子どもが、十まで数えている姿だ。 ヴォルデモートの頭の後ろには、怪奇な後光のように光る檻が浮かび、大蛇のナギニが、その中でくねくねととぐろを巻いたり解いたりしていた。  ドロホフとヤックスリーが仲間の輪に戻ると、ヴォルデモートが顔を上げた。  「わが君、あいつの気配はありません」ドロホフが言った。  ヴォルデモートは、表情を変えなかった。 焚き火の灯りを映した眼が、赤く燃えるように見えた。 ゆっくりと、ヴォルデモートはニワトコの杖を長い指でしごいた。  「わが君−−−」  ヴォルデモートのいちばん近くに座っているベラトリックスが、口を開いた。 髪も服も乱れ、顔が少し血にまみれてはいたが、ほかに怪我をしている様子はない。  ヴォルデモートが手を挙げて制すると、ベラトリックスはそれ以上一言も言わず、ただうっとりと崇拝の眼差しでヴォルデモートを見ていた。  「あいつはやって来るだろうと思った」  踊る焚き火に眼を向け、ヴォルデモートが甲高いはっきりした声で言った。  「あいつが来ることを期待していた」  誰もが、無言だった。 誰もが、ハリーと同じくらい恐怖に駆られているようだった。 ハリーの心臓は、いまや肋骨に体当たりし、ハリーが間もなく捨て去ろうとしている肉体から、逃げ出そうと必死になっているかのようだった。 「透明マント」を脱ぐハリーの両手は、じっとりと汗ばんでいた。 ハリーは、マントと杖を、一緒にロープの下に収めた。 戦おうという気持が起きないようにしたかった。  「どうやら俺様は……間違っていたようだ」ヴォルデモートが言った。  「間違っていないぞ」  ハリーは、ありったけの力を凝り絞り、声を張り上げた。 怖気づいていると思われたくなかった。 「蘇りの石」が感覚の無い指から零れ落ちた。 焚き火の明かりの中に進みながら、ハリーは、両親もシリウスもルーピンも消えるのを、目の端でとらえた。 その瞬間、ハリーはヴォルデモートしか念頭になかった。 ヴォルデモートと、たった二人きりだ。  しかし、その感覚はたちまち消えた。 巨人が吼え、死喰い人たちがいっせいに立ち上がったからだ。 叫び声、息を呑む音、そして笑い声まで湧き起こった。 ヴォルデモートは凍りついたようにその場に立っていたが、その赤い眼はハリーをとらえ、ハリーが近づくのを見つめていた。 二人の間には焚き火があるだけだった。  そのとき、喚き声がした−−−。  「ハリー! やめろ!」  ハリーは声のほうを見た。 ハグリッドが、ギリギリと縛り上げられ、近くの木に縛りつけられていた。 必死でもがくハグリッドの巨体が、頭上の大枝を揺らした。  「やめろ! ダメだ! ハリー、何する気だ!」  「黙れ!」ロウルが叫び、杖の一振りでハグリッドを黙らせた。  ベラトリックスは弾けるように立ち上がり、激しい息遣いで、ヴォルデモートとハリーを食い入るように見つめた。 動くものと言えば、焚き火の炎と、ヴォルデモートの背後に光る檻で、とぐろを巻いたり解いたりする蛇だけだった。 ハリーは、杖が胸に当たるのを感じたが、抜こうとはしなかった。 蛇の護りはあまりに堅く、何とかナギ二に杖を向けることができたとしても、それより前に五十人もの呪いがハリーを撃つだろう。 ヴォルデモートとハリーは、なおも見つめ合ったままだった。 やがてヴォルデモートは小首を傾げ、目の前に立つ男の子を品定めしながら、唇のない口をめくり上げて、きわめつきの冷酷な笑いを浮かべた。  「ハリー・ポッター」  囁くような言い方だった。 その声は、パチパチ爆しぜる焚き火の音かと思えるほどだった。  「生き残った男の子」  死喰い人は、誰も動かずに待っていた。 すべてが待っていた。 ハグリッドはもがき、ベラトリックスは息を荒らげていた。 そしてハリーは、なぜかハーマイオニーを思い浮かべた。 あの優しい母のような瞳、そしてハーマイオニーの唇のあの感触−−−。  ヴォルデモートは杖を上げた。 このままやってしまえば何が起こるのかと、知りたくてたまらない子どものように小首を傾げたままだ。 ハリーは赤い眼を見つめ返し、早く、いますぐにと願った。 まだ立っていられるうちに、自分を抑制することができなくなる前に、恐怖を見抜かれてしまう前に−−−。  ハリーはヴォルデモートの口が動くのを見た。緑の閃光が走った。 そして、すべてが消えた。 35章:King's Cross/キングズ・クロス駅  ハリーはうつ伏せになって、静寂を聞いていた。 完全に一人だった。誰も見ていない。 ほかには誰もいない。 自分自身がそこにいるのかどうかさえ、ハリーにはよくわからなかった。  ずいぶん時間が経ってから、いや、もしかしたら時間はまったく経っていなかったのかもしれないが、ハリーは、自分自身が存在しているに違いないと感じた。 体のない、想念だけではないはずだ。 なぜなら、ハリーは横たわっていた。 間違いなく何かの表面に横たわっている。 触感があるのだ。自分が触れている何かも存在している。  この結論に達したのとほとんど同時に、ハリーは自分が裸なのに気づいた。 自分以外には誰もいないという確信があったので、裸でいることは気にならなかったが、少し不思議に思った。 感じることができるのと同じように、見ることもできるのだろうか、とハリーは訝った。 目を開いてみて、ハリーは自分に目があることを発見した。  ハリーは明るい靄の中に横たわっていたが、これまで経験したどんな魂とも様子が違っていた。 雲のような水蒸気が周囲を覆い隠しているのではなく、むしろ、靄そのものがこれから周囲を形作っていくようだった。 ハリーが横たわっている床は、どうやら白い色のようで、温かくも冷たくもない。 ただそこに、平らで真っさらな物として存在し、何かがその上に置かれるべく存在していた。  ハリーは上体を起こした。 体は無傷のようだ。顔に触れてみた。 もう、メガネは掛けていなかった。  そのとき、ハリーの周囲の、まだ形のない無の中から、物音が聞こえてきた。 軽いトントンという音で、何かが手足をバタつかせ、振り回し、もがいている。 哀れを誘う物音だったが、同時にやや猥雑な音だった。 ハリーは、何か恥ずかしい秘密の音を盗み聞きしているような、居心地の悪さを感じた。  ハリーは、急に何かを身にまといたいと思った。  頭の中でそう願ったとたん、ロープがすぐ近くに現れた。 ハリーはそれを引き寄せて身につけた。柔らかく清潔で温かかった。 驚くべき現れ方だ。ほしいと思ったとたんに、さっと……。  ハリーは立ち上がって、あたりを見回した。 どこか大きな「必要の部屋」 の中にいるのだろうか?  眺めているうちに、だんだん目に入るものが増えてきた。 頭上には大きなドーム型のガラス天井が、陽光の中で輝いている。 宮殿かもしれない。すべてが静かで動かない。 ただ、ハタハタという奇妙な音と、哀れっぽく訴えるような音が、靄の中の、どこか近くから聞こえてくるだけだ……。  ハリーはゆっくりとその場でひと回りした。 ハリーの動きにつれて、目の前で周囲がひとりでに形作られていくようだった。 明るく清潔で、広々とした開放的な空間、「大広間」よりずっと大きいホール、それにドーム型の透明なガラスの天井。 まったく誰もいない。そこにいるのはハリーただ一人。 ただし−−−。  ハリーはびくりと身を引いた。 音を出しているものを見つけたのだ。 小さな裸の子どもの形をしたものが、地面の上に丸まっている。 肌は皮を剥がれでもしたようにザラザラと生々しく、誰からも望まれずに椅子の下に置き去りにされ、目につかないように押し込まれて、必死に息をしながら震えている。  ハリーは、それが怖いと思った。 小さくて弱々しく、傷ついているのに、ハリーはそれに近寄りたくなかった。 にもかかわらずハリーは、いつでも跳び退れるように身構えながら、ゆっくりとそれに近づいていった。 やがてハリーは、それに触れられるほど近くに立っていたが、とても触れる気にはなれなかった。 自分が臆病者になったような気がした。 慰めてやらなければならないと思いながらも、それを見ると虫唾が走った。  「きみには、どうしてやることもできん」  ハリーはくるりと振り向いた。 アルバス・ダンブルドアが、ハリーに向かって歩いてくる。 流れるような濃紺のロープをまとい、背筋を伸ばして、軽快な足取りでやって来る。 「ハリー」 ダンブルドアは両腕を広げた。手は両方とも白く完全で、無傷だった。 「なんとすばらしい子じゃ。なんと勇敢な男じゃ。さあ、一緒に歩こうぞ」  ハリーは呆然として、悠々と歩き去るダンブルドアのあとに従った。 ダンブルドアは、哀れっぽい声で泣いている生々しい赤子をあとに、少し離れたところに置いてある椅子へと、ハリーを誘った。 ハリーはそれまで気づかなかったが、高く輝くドームの下に椅子が二脚置いてあった。 ダンブルドアがその一つに掛け、ハリーは校長の顔をじっと見つめたまま、もう一つの椅子にストンと腰を落とした。 長い銀色の髪や顎鬚、半月形のメガネの奥から鋭く見通すブルーの目、折れ曲がった鼻。 何もかも、ハリーが憶えているとおりだった。 しかし……。  「でも、先生は死んでいる」 ハリーが言った。  「おお、そうじゃよ」 ダンブルドアは、当たり前のように言った。  「それなら……僕も死んでいる?」  「あぁ」  ダンブルドアは、ますますにこやかに微笑んだ。  「『それが問題だ』、というわけじゃのう? 全体としてみれば、ハリーよ、わしは違うと思うぞ」  二人は顔を見合わせた。老ダンブルドアは、まだ笑顔のままだ。  「違う?」 ハリーが繰り返した。  「違う」ダンブルドアが言った。  「でも……」  ハリーは反射的に、稲妻形の傷痕に手を持っていったが、そこに傷痕はなかった。  「でも、僕は死んだはずだ−−−僕は防がなかった!あいつに殺されるつもりだった!」  「それじゃよ」ダンブルドアが言った。 「それが、たぶん、大きな違いをもたらすことになったのじゃ」  ダンブルドアの顔から、光のように、炎のように、喜びが溢れ出ているようだった。 こんなに手放しで、こんなにはっきり感じ取れるほど満足しきったダンブルドアを、ハリーは初めて見た。  「どういうことですか?」 ハリーが聞いた。  「きみにはもうわかっているはずじゃ」  ダンブルドアが、左右の親指同士をくるくる回しながら言った。  「僕は、あいつに自分を殺させた」 ハリーが言った。 「そうですね?」  「そうじゃ」ダンブルドアが頷いた。 「続けて!」  「それで、僕の中にあったあいつの魂の一部は……」  ダンブルドアはますます熱く頷き、晴れ晴しと励ますような笑顔を向けてハリーを促した。  「……なくなった?」  「そのとおりじゃ!」ダンブルドアが言った。 「そうじゃ。あの者が破壊したのじゃ。きみの魂は完全無欠で、きみだけのものじゃよ、ハリー」 「でもそれなら−−−」 ハリーは振り返って椅子の下で震える小さな傷ついた生き物を一瞥した。  「先生、あれは何ですか?」  「我々の救いの、及ばぬものじゃよ」ダンブルドアが言った。  「でも、もしヴォルデモートが『死の呪文』を使ったのなら−−−そして、こんどは誰も僕のために死んでいないのなら−−−僕はどうして生きているのですか?」  「きみにはわかっているはずじゃ」  ダンブルドアが言った。  「振り返って考えるのじゃ。ヴォルデモートが、無知の故に、欲望と残酷さの故に、何をしたかを思い出すのじゃ」  ハリーは考え込み、視線をゆっくり移動させて、周囲をよく見た。 二人の座っている場所がもしも宮殿なら、そこは奇妙な宮殿だった。 椅子が数脚ずつ、何列か並び、切れ切れの手摺があちこちに見えるが、そこにいるのは、やはり、ハリーとダンブルドアの二人だけで、あとは、椅子の下にいる発育不良の生き物だけだった。 そのとき、何の苦もなく、答えがハリーの唇に上ってきた。  「あいつは、僕の血を入れた」 ハリーが言った。  「まさにそうじゃ!」  ダンブルドアが言った。  「あの者はきみの血を採り、それで自分の生身の身体を再生させた! あの者の血管に流れるきみの血が、ハリー、リリーの護りが、二人の中にあるのじゃ!あの者が生きているかぎり、あの者はきみの命をつなぎとめておる!」  「僕が生きているのは……あいつが生きているから? でも、僕……僕、その逆だと思っていた! 二人とも死ななければならないと思ったけど? それともどっちでも同じこと?」  ハリーは、背後でもがき苦しむ泣き声と物音に気を逸らされ、もう一度振り返った。  「本当に、僕たちにはどうにもできないのですか?」  「助けることは不可能じゃ」  「それなら、説明してください……もっと詳しく」  ハリーの問いに、ダンブルドアは微笑んだ。  「きみはのう、ハリー、あの者が期せずして作ってしまった、七つ目の分霊箱だったのじゃ。あの者は、自らの魂を非常に不安定なものにしてしもうたので、きみのご両親を殺害し、幼子までも殺そうという言語に絶する悪行を為したとき、魂が砕けた。あの部屋から逃れたものは、あの者が思っていたより少なかったのじゃ。あの者は、自分の肉体だけではなく、それ以上のものをあの場に置いていったのじゃ。犠牲になるはずだったきみに、生き残ったきみに、あの者の一部が結びついて残されたのじゃ−−−しかも、ハリー、あの者の知識は、情けないほど不完全なままじゃった! ヴォルデモートは、自らが価値を認めぬものに関して理解しようとはせぬ。屋敷しもべ妖精やお伽噺、愛や忠誠、そして無垢。ヴォルデモートは、こうしたものを知らず、理解しておらぬ。まったく何も。こうしたもののすべてが、ヴォルデモートを凌駕する力を持ち、どのような魔法も及ばぬ力を持つという真実を、あの者は決して理解できなかった」  「ヴォルデモートは、自らを強めると信じて、きみの血を入れた。あの者の身体の中に、母君がきみを守るために命を棄ててかけた魔法が、わずかながら取り込まれた。母君の犠牲の力を、あの者が生かしておる。そして、その魔法が生き続けるかぎり、きみも生き続け、ヴォルデモート自身の最後の望みである命の片鱗も生き続ける」  ダンブルドアはハリーに微笑みかけ、ハリーは目を丸くしてダンブルドアを見た。  「先生はご存知だったのですか? このことを−−−はじめからずっと?」  「推量しただけじゃ。しかしわしの推量は、これまでのところ、大方は正しかったのう」  ダンブルドアはうれしそうに言った。それから二人は、座ったまま長い間、黙っていた。 長く感じただけかもしれない。背後の生き物は、相変わらずヒーヒー泣きながら震えていた。  「まだあります」  ハリーが言った。  「まだわからないことが。僕の杖は、どうしてあいつの借り物の杖を折ったのでしょう?」  「それについては、定かにはわからぬ」  「それじゃ、推量でいいです」  ハリーがそう言うと、ダンブルドアは声を上げて笑った。  「まず理解しておかねばならぬのは、ハリー、きみとヴォルデモート卿が、前人未蹄の魔法の分野をともに旅してきたということじゃ。しかしながら、いまから話すようなことが起きたのではないかと思う。前例のないことじゃから、どんな杖作りといえども予測できず、ヴォルデモートに対しても説明できはしなかった、とわしはそう思う」  「きみにはもうわかっているように、ヴォルデモート卿は、人の形に蘇ったとき、意図せずしてきみとの絆を二重に強めた。魂の一部をきみに付着させたまま、あの者は、自分を強めるためと考えて、きみの母君の犠牲の力を、一部自分の中に取り込んだのじゃ。その犠牲がどんなに恐ろしい力を持っているかを的確に理解していたなら、ヴォルデモートはおそらく、きみの血に触れることなどとてもできなかったじゃろう……いや、さらに言えば、もともとそれが理解できるくらいなら、あの者は所詮ヴォルデモート卿ではありえず、また、人を殺めたりしなかったかもしれぬ」  「この二重の絆を確実なものにし、互いの運命を、歴史上例を見ないほどしっかりと結びつけた状態で、ヴォルデモートは、きみの杖と双子の芯を持つ杖できみを襲った。すると、知ってのとおり、摩討不思議なことが起こった。芯同士が、二人の杖が双子であることを知らなかったヴォルデモート卿には、予想外の反応を示したのじゃ」  「あの夜、ハリーよ、あの者のほうが、きみよりももっと恐れていたのじゃ。きみは死ぬかもしれぬということを受け入れ、むしろ積極的に迎え入れた。ヴォルデモート卿には決してできぬことじゃ。きみの勇気が勝った。きみの杖があの者の杖を圧倒したのじゃ。その結果、二本の杖の間に、二人の持ち主の関係を反映した何事かが起こった」  「きみの杖はあの夜、ヴォルデモートの杖の力と資質の一部を吸収した、とわしは思う。つまり、ヴォルデモート自身の一部を、きみの杖が取り込んでおったのじゃ。そこで、あの者がきみを追跡したとき、きみの杖はヴォルデモートを認識した。血を分けた間柄でありながら不倶戴天の敵である者を認識して、ヴォルデモート自身の魔法の一部を、彼に向けて扱き出したのじゃ。その魔法は、ルシウスの杖がそれまでに行ったどんな魔法よりも強力なものじゃった。きみの杖は、きみの並外れた勇気と、ヴォルデモート自身の恐ろしい魔力を併せ持っていた。ルシウス・マルフォイの哀れな棒切れなど、敵うはずもないじゃろう?」  「でも、僕の杖がそんなに強力だったのなら、どうしてハーマイオニーに折ることができたのでしょう?」 ハリーが聞いた。  「それはのう、杖のすばらしい威力は、ヴォルデモートに対してのみ効果があったからじゃ。魔法の法則の深奥を、あのように無分別にいじくり回したヴォルデモートに対してのみじゃ。あの者に向けてのみ、きみの杖は異常な力を発揮した。それ以外は、ほかの杖と変わることはない……もちろん、よい杖ではあったがのう」  ダンブルドアは、優しい言葉をつけ加えた。  ハリーは長いこと考え込んだ。いや、数秒だったかもしれない。 ここでは、時間などをはっきり認識するのが、とても難しかった。  「あいつは、あなたの杖で僕を殺した」  「わしの杖で、きみを殺し損ねたのじゃ」  ダンブルドアが、ハリーの言葉を訂正した。  「きみが死んでいないということで、きみとわしは意見が一致すると息うー−−じゃが、もちろん」  ダンブルドアは、ハリーに対して礼を欠くことを恐れるかのようにつけ加えた。  「きみが苦しんだことを軽く見るつもりはない。過酷な苦しみだったに違いない」  「でもいまは、とてもいい気分です」  ハリーは、清潔で傷一つない両手を見下ろしながら言った。  「ここはいったい、どこなのですか?」  「そうじゃのう、わしがきみにそれを聞こうと思っておった」  ダンブルドアが、あたりを見回しながら言った。 「君はここが、何処だと思うかね?」  ダンブルドアに聞かれるまで、ハリーにはわかっていなかった。 しかし、いまはすぐに答えられることに気づいた。  「なんだか」  ハリーは考えながら答えた。  「キングズ・クロス駅みたいだ。でも、ずっときれいだし誰もいないし、それに、僕の見るかぎりでは、汽車が一台もない」  「キングズ・クロス駅!」  ダンブルドアは、遠慮なくクスクス笑った。  「なんとまあ、そうかね?」  「じゃあ、先生はどこだと思われるんですか?」  ハリーは少しむきになって聞いた。  「ハリーよ、わしにはさっぱりわからぬ。これは、いわば、きみの晴れ舞台じゃ」  ハリーには、ダンブルドアが何を言っているのかわからなかった。 ダンブルドアの態度が腹立たしくなってハリーは顔をしかめたが、そのとき、いまどこにいるかよりも、もっと差し迫った問題を思い出した。  「死の秘宝」  ハリーは言った。その言葉でダンブルドアの顔からすっかり笑いが消えたのを見て、ハリーの腹も収まった。  「ああ、そうじゃな」 ダンブルドアは、逆に心配そうな顔になった。  「どうなのですか?」  ダンブルドアと知り合って以来初めて、ハリーは、老成したダンブルドアではない顔を見た。 剃那ではあったが、老人どころか、悪戯の最中に見つかった小さな子どものような表情を見せたのだ。  「許してくれるかのう?」ダンブルドアが言った。 「きみを信用しなかったこと、きみに教えなかったことを、許してくれるじゃろうか? ハリー、わしは、きみがわしと同じ失敗を繰り返すのではないかと恐れただけなのじゃ。わしと同じ過ちを犯すのではないかと、それだけを恐れたのじゃ。ハリー、どうか許しておくれ。もうだいぶ前から、きみがわしよりずっとまっすぐな人間だとわかっておったのじゃが」  「何をおっしゃっているのですか?」  ダンブルドアの声の調子や、急にダンブルドアの目に光った涙に驚いて、ハリーが聞いた。  「秘宝、秘宝」ダンブルドアが呟いた。 「死に物狂いの、人間の夢じゃ!」  「でも、秘宝は実在します!」  「実在する。しかも危険な物じゃ。愚者たちへの誘いなのじゃ」ダンブルドアが言った。 「そしてこのわしも、その愚か者であった。しかし、きみはわかっておろう? もはやわしには、きみに秘すべきことは何もない。きみは知っておるのじゃ」  「何をですか?」  ダンブルドアは、ハリーに真正面から向き合った。 輝くようなブルーの目に、涙がまだ光っていた。  「死を制する者。ハリーよ、死を克服する者じゃ!わしは、結局のところ、ヴォルデモートよりましな人間であったと言えようか?」  「もちろんそうです」 ハリーが言った。 「もちろんですとも−−−そんなこと、聞くまでもないでしょう? 先生は、意味もなく人を殺したりしませんでした!」  「そうじゃ、そうじゃな」  ダンブルドアはまるで、小さな子どもが励ましを求めているように見えた。  「しかし、ハリー、わしもまた、死を克服する方法を求めたのじゃよ」  「あいつと同じやり方じゃありません」 ハリーが言った。  ダンブルドアにあれほどさまざまな怒りを感じていたハリーが、この高い丸天井の下に座り、自己否定するダンブルドアを弁護しようとしているとは、なんと奇妙なことか。  「先生は、秘宝を求めた。分霊箱をじゃない」  「秘宝を」ダンブルドアが呟いた。 「分霊箱をではない。そのとおりじゃ」  しばらく沈黙が流れた。背後の生き物が訴えるように泣いても、ハリーはもう振り返らなかった。  「グリンデルバルドも、秘宝を探していたのですね?」 ハリーが聞いた。  ダンブルドアは一瞬目を閉じ、やがて頷いた。  「それこそが、何よりも強くわしら二人を近づけたのじゃ」  ダンブルドアが、静かに言った。  「二人の賢く倣慢な若者は、同じ想いに囚われておった。グリンデルバルドがゴドリックの谷に惹かれたのは、すでに察しがついておろうが、イグノタス・ペベレルの墓のせいじゃ。三番目の弟が死んだ場所を、探索したかったからじゃ」  「それじゃ、本当のことなんですね?」 ハリーが聞いた。 「何もかも? ペベレル兄弟が−−−」  「−−−物語の中の三兄弟なのじゃ」 ダンブルドアが頷きながら言った。 「そうじゃとも。わしはそう思う。兄弟が寂しい道で『死』に遭うたかどうかは……わしはむしろ、ペベレル兄弟が才能ある危険な魔法使いで、こうした強力な品々を作り出すことに成功した可能性のほうが高いと思う。そうした品々が『死』自身の秘宝であったという話は、作られた品物にまつわる伝説としてでき上がったものじゃろう」 「『マント』は知っての通り父から息子へ、母から娘へと何世代にも渡って受け継がれ、イグノタスの最後の子孫にたどり着いた。その子は、イグノタスと同じく『ゴドリックの谷』という村に生まれた」  ダンブルドアは、ハリーに微笑みかけた。  「僕?」  「きみじゃ。ご両親が亡くなられた夜、『マント』がなぜわしの手元にあったか、きみはすでに推量しておることじゃろう。ジェームズが、死の数日前に、わしにマントを見せてくれた。学生時代、ジェームズの悪戯がなぜ見つからずにすんだのか、それで大方の説明がついた。わしは、自分の目にしたものが信じられなかった。借り受けて調べてみたい、とジェームズに頼んだ。そのときには、秘宝を集めるという夢はとうに諦めておったのじゃが、それでも、マントをよく見てみたいという想いに抗しきれなかった……それは、わしがそれまで見たこともない『マント』じゃった。非常に古く、すべてにおいて完壁で……ところがそのあと、きみの父君が亡くなり、わしは、ついに二つの秘宝を我がものにした!」  ダンブルドアは、痛々しいほど苦い口調で言った。  「でも、『マント』は、僕の両親が死を逃れるための役には、立たなかったと思います」  ハリーは急いで言った。  「ヴォルデモートは、父と母がどこにいるかを知っていました。『マント』があっても、二人に呪いが効かないようにすることはできなかったでしょう」  「そうじゃ」ダンブルドアはため息をついた。 「そうじゃな」  ハリーはあとの言葉を待ったが、ダンブルドアが何も言わないので、ハリーは先を促した。  「それで先生は、『マント』を見たときにはもう、秘宝を探すのを諦めていたのですね?」  「ああ、そうじゃ」  ダンブルドアは微かな声で言った。力を振り絞ってハリーと目を合わせているように見えた。  「きみは、何が起こったかを知っておる。知っておるのじゃ。きみよりわし自身が、どんなに自分を軽蔑しておるか」  「でも僕、先生を軽蔑したりなんか−−−」  「それなら、軽蔑すべきじゃ」  ダンブルドアが言った。そして深々と息を吸い込んだ。  「わしの妹の病弱の秘密を、きみは知っておる。マグルたちのしたことも、その結果、妹がどうなったかも。哀れむべきわしの父が復讐を求め、その代償にアズカバンで死んだことも知っておろう。わしの母が、アリアナの世話をするために、自分自身の人生を捨てておったこともな。わしはのう、ハリー、憤慨したのじゃ」  ダンブルドアはあからさまに、冷たく言い放った。 ダンブルドアは、いま、ハリーの頭越しに、遠くのほうを見ていた。  「わしには才能があった。優秀じゃった。わしは逃げ出したかった。輝きたかった。栄光がほしかった。誤解しないでほしい」  ダンブルドアの顔に苦痛が過り、そのためにその表情は再び年老いて見えた。  「わしは、家族を愛しておった。両親を愛し、弟も妹も愛していた。しかし、わしは自分本位だったのじゃよ、ハリー。際立って無欲なきみなどには想像もつかぬほど、利己的だったのじゃ。母の死後、傷ついた妹と、つむじ曲がりの弟に対する責任を負わされてしまったわしは、怒りと苦い気持を抱いて村に戻った。籠の鳥だ、才能の浪費だ、わしはそう思った! そのとき、ちょうど、あの男がやってきた……」  ダンブルドアは、再びハリーの目をまっすぐに見た。  「グリンデルバルドじゃ。あの者の考えがどんなにわしを惹きつけたか、どんなに興奮させたか、ハリー、きみには想像できまい。マグルを力で従属させる。われら魔法族が勝利する。グリンデルバルドとわしは、革命の栄光ある若き指導者となる」  「いや、いくつか疑念を抱きはした。良心の呵責を、わしは虚しい言葉で鎮めた。すべては、より大きな善のためなのだからと。多少の害を与えても、魔法族にとって、その百倍もの見返りがあるのだからと。心の奥の奥で、わしはゲラート・グリンデルバルドの本質を知っていただろうか? 知っていたと思う。しかし目をつむったのじゃ。わしらが立てていた計画が実を結べば、わしの夢はすべて叶うのじゃからと」  「そして、わしらの企ての中心に、『死の秘宝』があった!グリンデルバルドが、どれほどそれに魅了されていたか! わしらが二人とも、どれほど魅入られていたか!『不敗の杖』、わしらを権力へと導く武器!『蘇りの石』−−−わしは知らぬふりをしておったが、グリンデルバルドにとってそれは、『亡者』の軍隊を意味した! わしにとっては、白状するが、両親が戻ることを、そしてわしの肩の荷がすべて下ろされることを意味しておったのじゃ」  「そして『マント』……なぜかわしら二人の間では、ハリー、『マント』のことは、さして大きな話題になることはなかった。二人とも、『マント』なしで十分姿を隠すことができたからのう。『マント』の持つ真の魔力は、もちろん、所有者だけでなくほかの者をも隠し、守るために使えるという点にあった。わしは、もしそれを見つけたら、アリアナを隠すのに役に立つじゃろうと考えた。しかし、わしら二人が『マント』に関心を持ったのは、主に、それで三つの品が完全に揃うからじやった。伝説によれば、三つの品すべてを集めた者は、真の死の征服者になると言われており、それは無敵になることだと、わしらはそう解釈した」  「死の克服者、無敵のグリンデルバルドとダンブルドア! 二ヵ月の愚かしくも残酷な夢、そのためにわしは、残されたたった二人の家族を、ないがしろにしたのじゃ」  「そして……何が起こったか知っておろう。現実が戻ってきたのじゃ。粗野で無学で、しかも、わしなどよりずっとあっぱれな弟が、それを教えてくれた。わしを怒鳴りつける弟の真実の声を、わしは聞きとうなかった。か弱く不安定な妹を抱えて、秘宝を求める旅に出ることはできないなどと、聞かされとうはなかった」  「議論が争いになった。グリンデルバルドは抑制を失った。気づかぬふりをしてはおったが、グリンデルバルドにはそのような面があると、常々わしが感じておったものが、恐ろしい形で飛び出した。そしてアリアナは……母があれほど手をかけ、心にかけていたものを……床に倒れて死んでいた」  ダンブルドアは小さく喘ぎ、声を上げて泣きはじめた。 ハリーは手を伸ばした。そして、ダンプルドアに触れることができるとわかってうれしくなった。 ハリーは、ダンブルドアの片腕をしっかりと握りしめた。 するとダンブルドアは、徐々に自分を取り戻した。  「さて、わし以外の誰もが予測できたことだったのじゃが、グリンデルバルドは逃亡した。あの者は、権力を掌握する計画と、マグルを苦しめる企てと、『死の秘宝』の夢を持って姿を消した。わしが励まし、手助けした夢じゃ。グリンデルバルドは逃げ、残ったわしは、妹を葬り、一生の負い目と恐ろしい後悔という、身から出た錆の代償を払いながら生きてきた」  「何年かが経った。グリンデルバルドの噂が聞こえてきた。計り知れぬ力を持つ杖を、手にれた。当然わしは断った。権力を持つわし自身は信用できぬということを、とうに学び取っていたからじゃ」  「でも先生は、よい大臣になったはずです。ファッジやスクリムジョールより、ずっとよい大臣に」 ハリーは思わず言った。  「そうじゃろうか?」  ダンブルドアは重苦しい調子で言った。  「そうは言いきれまい。若いとき、わしは、自分が権力とその誘いに弱いことを証明した。興味深いことじゃが、ハリーよ、権力を持つのに最もふさわしい者は、それを一度も求めたことのない者なのじゃ。きみのように、やむなく指揮を執り、そうせねばならぬために権威の衣を着る者は、自らが驚くほど見事にその衣を着こなすのじゃ」  「わしは、ホグワーツにあるほうが安全な人間じゃった。よい教師であったと思う−−−」  「いちばんよい教師でした−−−」  「優しいことを言ってくれるのう、ハリー。しかしながら、わしが、若き魔法使いたちの教育に忙しく打ち込んでいる間に、グリンデルバルドは、軍隊を作り上げておった。人々は、あの者がわしを恐れていると言うた。おそらくそうじやったろう。しかし、わし自身がグリンデルバルドを恐れていたほどではなかったろう。−−−いや、死ぬことをではない」  ハリーのまさかという表情に応えるように、ダンブルドアが言った。  「グリンデルバルドの魔法の力が、わしをどうにかすることを恐れたわけではない。二人の力が互角であることを、いや、わしのほうがわずかに勝っていることを、わしは知っていた。わしが恐れたのは真実じゃ。つまり、あの最後の恐ろしい争いで、二人のうちのどちらの呪いが本当に妹を殺したのか、わしにはわからなかった。きみはわしを臆病者と言うかも知れぬ。そのとおりじやろう。ハリー、わしが何よりも恐れたのは、妹の死をもたらしたのが、わしだと知ることじやった。わしの倣慢さと愚かさが一因だったばかりでなく、実際に妹の命の火を吹き消してしまったのも、わしの一撃だったと知ることを恐れたのじゃ」  「グリンデルバルドは、それを知っておったと思う。わしが何を恐れていたかを、あの者は知っておったと思う。わしはグリンデルバルドと見えるのを、一日延ばしにしておったのじゃが、とうとう、これ以上抵抗するのはあまりにも恥ずべきことじゃという状態になった。人々が死に、グリンデルバルドは止めようもないやに見えた。そしてわしは、自分にできることをせねばならなかった」  「さて、その後に起こったことは知っておろう。わしは決闘した。杖を勝ち取ったのじゃ」  また沈黙が訪れた。誰の呪いでアリアナが死んだのかを、ダンブルドアが知ったのかどうか、ハリーは聞かなかった。 知りたくなかったし、それよりもダンブルドアに話させるのがいやだった。 ようやくハリーは、「みぞの鏡」 でダンブルドアが何を見たかを知った。 そして、鏡の虜になったハリーに、ダンブルドアがなぜあれほど理解を示してくれたのかがわかった。  二人は、長い間黙ったままだった。背後の泣き声は、ハリーにはもうほとんど気にならなかった。  しばらくしてハリーが言った。  「グリンデルバルドは、ヴォルデモートが杖を追うのを阻止しようとしました。グリンデルバルドは、嘘をついたのです。つまり、あの杖を持ったことはない、というふりをしました」  ダンブルドアは、膝に目を落として頷いた。曲がった鼻に、涙がまだ光っていた。  「風の便りに、孤独なオーメンガードの独房で、あの者が後年、悔悟の念を示していたと聞いた。そうであってほしいと思う。自分がしたことを恥じ、恐ろしく思ったと考えたい。ヴォルデモートに嘘をついたのは、償いをしようとしたからであろう……ヴォルデモートが秘宝を手に入れるのを、阻止しようとしたのであろう……」  「……それとも、先生の墓を暴くのを阻止しようとしたのでは?」  ハリーが思ったままを言うと、ダンブルドアは目を拭った。  またしばらくの沈黙の後、ハリーがロを開いた。  「先生は、『蘇りの石』を使おうとなさいましたね」  ダンブルドアは頷いた。  「何年もかかって、ようやくゴーントの廃屋に埋められているその石を見つけた。石は秘宝の中でもわしがいちばん強く求めていたものじゃったもっとも、若いときは、まったく違う理由で石がほしかったのじゃが。石を見て、わしは正気を失ったのじゃよ、ハリー。すでにそれが『分霊箱』になっていることも、指輪には間違いなく呪いがかかっていることも、すっかり忘れてしもうた。指輪を取り上げ、それをはめた。一瞬、わしは、アリアナや母、そして父に会えると思った。そして、みんなに、わしがどんなにすまなく思っているかを伝えられると思ったのじゃ……」  「わしは何たる愚か者だったことか。ハリーよ、長の歳月、わしは何も学んではおらなかった。『死の秘宝』を、一つにまとめるに値しない者であった。そのことを、わしはそれまで何度も思い知らされていたのじゃが、そのときに、決定的に思い知ったのじゃ」  「どうしてですか?」 ハリーが言った。 「当然なのに! 先生はまたみんなに会いたかった。それがどうして悪いんですか?」  「ハリー、三つの秘宝を一つにすることができる人間は、おそらく百万人に一人であろう。わしは、せいぜい秘宝の中で最も劣り、いちばんつまらぬ物を所有するに値する者であった。ニワトコの杖を所有し、しかもそれを吹聴せず、それで人を殺さぬことに適しておったのじゃ。わしは杖を手なずけ、使いこなすことを許された。なぜなら、わしがそれを手にしたのは、勝つためではなく、ほかの人間をその杖から守るためだったからじゃ」  「しかし『マント』は、虚しい好奇心から手に入れた。そうじゃから、わしに対しては、真の所有者である、きみに対する働きと同じ効果はなかったことじゃろう。『石』にしても、わしの場合、安らかに眠っている者を、無理やり呼び戻すために使ったことじやろう。自らの犠牲を可能にするために使った、きみの場合とは違う。きみこそ、三つの『秘宝』を所有するに ふさわしい者じゃ」  ダンブルドアは、ハリーの手を軽く叩いた。 ハリーは顔を上げて老人を見上げ、微笑んだ。 自然に笑いかけていた。 ダンブルドアに腹を立て続けることなど、どうしてできよう?  「こんなに難しくする必要が、あったのですか?」  ダンブルドアは、動揺したように微笑んだ。  「ハリー、わしはのう、すまぬが、ミス・グレンジャーがきみの歩みを遅らせてくれることを当てにしておった。きみの善なる心を、熱い頭が支配してしまいはせぬかと案じたのじゃ。誘惑の品々に関する事実をあからさまに提示されれば、きみもわしと同じように、誤ったときに、誤った理由で『秘宝』を手にしようとするのではないかと、それを恐れたのじゃ。きみが秘宝を手に入れるなら、それらを安全に所有してほしかった。きみは真に死を克服する者じゃ。なぜなら、真の死の支配者は、『死』から逃げようとはせぬ。死なねばならぬということを受け入れるとともに、生ある世界のほうが、死ぬことよりもはるかに劣る場合があると理解できる者なのじゃ」  「それで、ヴォルデモートは、秘宝のことを知らなかったのですか?」  「知らなかったじゃろう。分霊箱にした物の一つが、『蘇りの石』であることにも気づかなかったのじゃから。しかし、ハリー、たといあの者が秘宝のことを知っていたにせよ、最初の品以外に興味を待ったとは思えぬ。『マント』が必要だとは考えなかったろうし、石にしても、いったい誰を死から呼び戻したいと思うじゃろう? ヴォルデモートは死者を恐れた。あの者は誰をも愛さぬ」  「でも先生は、ヴォルデモートが杖を追うと予想なさったでしょう?」  「リトル・ハングルトンの墓場で、きみの杖がヴォルデモートの杖を打ち負かしたときから、わしは、あの者が杖を求めようとするに違いないと思うておった。あの者は、最初のうち、きみの腕のほうが勝っていたがために敗北したのではないかと、それを恐れておったのじゃ。しかし、オリバンダーを拉致し、双子の芯のことを知った。ヴォルデモートは、それですべてが説明できると思ったのじゃ。ところが借り物の杖も、きみの杖の前では同じことじやった!ヴォルデモートは、きみの杖をそれほど強力にしたのがきみの資質だと考えるのではなく、つまり、きみに備わっていて自らには欠如している才能が何かを問うてみるのではなく、当然ながら、すべての杖を破ると噂に聞く、唯一の杖を探しに出かけたのじゃ。ヴォルデモートにとっては、ニワトコの杖への執着が、きみへの執着に匹敵するほど強いものになった。こワトコの杖こそ、自らの最後の弱みを取り除き、真に自分を無敵にするものと信じたのじゃ。哀れなセプルスよ……」  「先生が、スネイプによるご自分の死を計画なさったのなら、『ニワトコの杖』は、スネイプに渡るようにしようと思われたのですね?」  「たしかに、そのつもりじやった」  ダンブルドアが言った。  「しかし、わしの意図どおりには運ばなかったじゃろう?」  「そうですね」 ハリーが言った。  「その部分はうまくいきませんでした」  背後の生き物が急にピクッと動き、呻いた。 ハリーとダンブルドアは、いままででいちばん長い間、無言で座っていた。 その長い時間に、ハリーには、次に何が起こるのかが、静かに降る雪のように徐々に読めてきた。  「僕は、帰らなければならないのですね?」  「きみ次第じゃ」  「選べるのですか?」  「おお、そうじゃとも」  ダンブルドアがハリーに微笑みかけた。  「ここはキングズ・クロスだと言うのじゃろう? もしきみが帰らぬと決めた場合は、たぶん……そうじゃな……乗車できるじゃろう」  「それで、汽車は、僕をどこに連れていくのですか?」  「先へ」  ダンブルドアは、それだけしか言わなかった。  また沈黙が流れた。  「ヴォルデモートは、『ニワトコの杖』を手に入れました」  「さよう。ヴォルデモートは、『ニワトコの杖』を持っておる。じゃが権利者ではない」  「それで、先生は、僕に帰ってほしいのですね?」  「わしが思うには−−−」  ダンブルドアが言った。  「もしきみが帰ることを選ぶなら、ヴォルデモートの息の根を完全に止める可能性はある。約束はできぬがのう。しかし、ハリー、わしにはこれだけはわかっておる。きみが再びここに戻るときには、ヴォルデモートほどにここを恐れる理由はない」  ハリーは、離れたところにある椅子の下の暗がりで、震え、息を詰まらせている生々しい生き物に、もう一度目をやった。  「死者を哀れむではない、ハリー。生きている者を哀れむのじゃ。とくに愛なくして生きている者たちを。きみが帰ることで、傷つけられる人間や、引き裂かれる家族の数を少なくすることができるかもしれぬ。それがきみにとって、価値ある目標と思えるのなら、我々はひとまず別れを告げることとしよう」  ハリーは頷いて、ため息をついた。 この場所を去ることは、「禁じられた森」 に入っていったときに比べれば、難しいとは言えない。 しかし、ここは温かく、明るく、平和なのに、これから戻っていく先には痛みがあり、さらに多くの命が失われる恐れがあることがわかっている。 ハリーは立ち上がった。ダンブルドアも腰を上げ、二人は互いに、長い間じっと見つめ合った。  「最後に、一つだけ教えてください」  ハリーが言った。  「これは現実のことなのですか? それとも、全部、僕の頭の中で起こっていることなのですか?」  ダンブルドアは晴れやかにハリーに笑いかけた。 明るい靄が再び濃くなり、ダンブルドアの姿をおぼろげにしていたが、その声はハリーの耳に大きく強く響いてきた。  「もちろん、きみの頭の中で起こっていることじゃよ、ハリー。しかし、だからと言って、それが現実ではないと言えるじゃろうか?」  ハリーは再びうつ伏せになって、地面に倒れていた。 「禁じられた森」 の匂いが鼻腔を満たした。 頬にひやりと固い土を感じ、倒れたときに横にずれたメガネの蝶番がこめかみに食い込むのを感じた。 体中が一分の隙もなく痛み、「死の呪文」に打たれた箇所は、鉄籠手をつけた拳を打ち込まれて傷ついたように感じた。 ハリーは、倒れたままの位置で、左腕を不自然な角度に曲げ口はポカンと開けたまま、じっとしていた。  ハリーが死んだことを祝う勝利の歓声が聞こえるだろうと思ったが、あたりには慌ただしい足音と、囁き声や気遣わしげに呟く声が満ちているだけだった。  「わが君……わが君……」  ベラトリックスの声だった。まるで恋人に話しかけているようだ。 ハリーは、目を開ける気にはなれなかったが、すべての感覚で現状の難しさを探ろうとした。 胸に何か固い物が押しっけられているのを感じるので、杖はまだロープの下に収まっているらしい。 胃袋のあたりに薄いクッションが当てられているような感触からして、「透明マント」もそこに、外からは見えないように隠されているはずだ。  「わが君……」  「もうよい」ヴォルデモートの声がした。  また足音が聞こえた。 数人の死喰い人が、同じ場所からいっせいに後退したようだ。 何が起きているのか、なぜなのかをどうしても知りたくて、ハリーは薄目を開けた。  ヴォルデモートが立ち上がろうとしている気配だ。 死喰い人が数人、慌ててヴォルデモートのそばを離れ、空き地に勢揃いしている仲間の群れに戻った。 ベラトリックスだけが、ヴォルデモートのそばにひざまずいて、その場に残っていた。  ハリーはまた目を閉じ、いま見た光景のことを考えた。 どうやら、ヴォルデモートは倒れていたらしく、死喰い人たちがその周りに集まっていた。 「死の呪文」 でハリーを撃ったとき、何かが起こったらしい。 ヴォルデモートも気を失ったのだろうか?  どうもそのようだ。すると、二人とも短い時間失神して、ハリーの魂だけが戻ってきた……。  「わが君、どうか私めに−−−」  「俺様に手助けは要らぬ」  ヴォルデモートが冷たく言った。 ハリーには見えなかったが、ベラトリックスが、差し出した手を引っ込める様子が想像できた。  「あいつは……死んだか?」  空き地は、完全に静まり返っていた。 誰もハリーに近づかない。 しかし、全員の目がハリーに注がれるのを感じ、その力で、ハリーはますます強く地面に押しっけられるような気がした。 指一本、瞼の片方でも、ピクリと動きはしないかとハリーは恐れた。  「おまえ」  ヴォルデモートの声とともに、バーンという音がして、痛そうな小さい悲鳴が聞こえた。  「あいつを調べろ。死んでいるかどうか、俺様に知らせるのだ」  誰が検死に来るのか、ハリーにはわからなかった。 持ち主の意に逆らいドクドク脈打つ心臓を抱えてその場に横たわったまま、ハリーは調べられるのを待った。 しかし同時にハリーは、ヴォルデモートが、すべてが計画どおりには運ばなかったことを疑い、用心して自分に近づかないのだと気づいて、わずかにではあったがほっとした。 思ったより柔らかい両手が、ハリーの顔に触れ、片方の瞼をめくり上げ、そろそろとシャツの中に入って胸に下り、心臓の鼓動を探った。ハリーは、女性の早い息遣いを聞き、長い髪が顔をくすぐるのを感じた。 女性は、ハリーの胸板を打つ、しっかりした生命の鼓動を感じ取ったはずだ。  「ドラコは生きていますか? 城にいるのですか?」  ほとんど聞き取れないほどの微かな声だった。 女性は、唇をハリーの耳につくほど近づけ、覆いかぶさるようにしてその長い髪でハリーの顔を見物人から隠していた。  「ええ」 ハリーが囁き返した。  胸に置かれた手がぎゅっと縮み、ハリーは、その爪が肌に突き刺さるのを感じた。 その手が引っ込められ、女性は体を起こした。 「死んでいます!」 ナルシッサ・マルフォイが、見守る人々に向かって叫んだ。 こんどこそ歓声が上がった。 死喰い人たちが勝利の叫びを上げ、足を踏み鳴らした。 ハリーは、閉じた瞼を通して、赤や銀色の祝いの閃光がいっせいに空に打ち上げられるのを感じた。  地面に倒れて死んだふりをしながら、ハリーは事態を理解した。 ナルシッサは、息子を探すには勝利軍としてホグワーツ城に入るしかないことを、知っていたのだ。 ナルシッサにとっては、ヴォルデモートが勝とうが負けようが、もはやどうでもよいことだったようだ。  「わかったか?」  ヴォルデモートが、歓声を凌ぐ甲高い声で叫んだ。  「ハリー・ポッターは、俺様の手にかかって死んだ。もはや生ある者で、俺様を脅かす者は一人もいない!よく見るのだ! クル−シオ!<苦しめ>」  ハリーは、こうなることを予想していた。 自分の屍が、汚されることもなく森の樽に横たわったままでいられるはずがない。 ヴォルデモートの勝利を証明するために、死体に屈辱を与えずにはおかないはずだ。 ハリーの体は宙に持ち上げられた。 だらりとした様子を保つには、ありったけの意思の力が必要ではあったが、予想していたような痛みはなかった。 「ニワトコの杖」は知っているのだ。権利者を攻撃すべきでは無い事を。 一度、二度、三度と空中に放り上げられ、メガネが吹っ飛び、杖がロープの下で少しずれるのを感じたが、ハリーは、ぐったりと生気のない状態を維持したままでいた。 最後にもう一度地面に落下するハリーを見て、空き地全体に嘲りと甲高い笑い声が響き渡った。  「さあ」  ヴォルデモートが言った。  「城へ行くのだ。そして、やつらの英雄がどんなざまになったかを、見せつけてやるのだ。死体を誰に引きずらせてくれよう? いや−−−待て−−−」  あらためて笑いが湧き起こった。 やがてハリーは、体の下の地面が震動するのを感じた。  「貴様が運ぶのだ」ヴォルデモートが言った。 「貴様の腕の中なら、いやでもよく見えるというものだ。そうではないか? ハグリッド、貴様のかわいい友人を拾え。メガネもだ−−−メガネを掛けさせろ−−−−ーやつだとわかるようにな」  誰かが、わざと乱暴に、メガネをハリーの顔に戻した。 しかし、ハリーを持ち上げた巨大な両手は、かぎりなく優しかった。 ハリーは、ハグリッドの両腕が、激しい啜り泣きで震えているのを感じた。 両腕であやすように抱かれたハリーの上に、大粒の涙がぼたぼた落ちてきた。 こんなハグリッドに、まだすべてが終わったわけではないと仄めかすことなど、とてもできない。 ハリーは身動きもせず、言葉も発しなかった。  「行け」  ヴォルデモートの言葉で、ハグリッドは、からみ合った木々を押し分け、「禁じられた森」の出口に向かって、よろめきながら歩き出した。 木の枝がハリーの髪やロープに引っ掛かったが、ハリーはじっと動かず、口をだらしなく開けたまま目を閉じていた。 あたりは暗く、周りでは死喰い人が歓声を上げ、ハグリッドは身も世もなく泣きじゃくっていて、ハリーの首筋が脈打っているかどうかを確かめる者は、誰もいなかった……。  巨人が二人、死喰い人の後ろから、すさまじい音を立てて歩いていた。 ハリーの耳に、巨人が通る道々、木々がギシギシと軋んで倒れる音が聞こえた。 あまりの騒音に、鳥たちは鋭い鳴き声を上げながら空に舞い上がり、死喰い人の嘲笑う声も掻き消されるほどだった。 勝利の行進は、広々とした校庭を目指して進んだ。 しばらくすると、目を閉じていても、暗闇が薄れるのが感じられ、木立がまばらになってきたことがわかった。  「ペイン!」  ハグリッドの突然の大声に、ハリーは危うく目を開けるところだった。  「満足だろうな、臆病者の駄馬どもが。おまえたちは戦わんかったんだからな!満足か、ハリー・ポッターが−−−死−−−死んで……?」  ハグリッドは言葉が続かず、新たな涙に咽せた。 ハリーは、どのくらいのケンタウルスがこの行進を見ているのかと気になったが、危険を冒してまで目を開けようとは思わなかった。 群れのそばを通り過ぎるとき、ケンタウルスに軽蔑の言葉を浴びせる死喰い人もいた。 間もなくハリーは、新鮮な空気から、森の端にたどり着いたことを感じた。  「止まれ」  ハグリッドは、ヴォルデモートの命令に無理やり従わされたに違いない。 ハグリッドが少しよろめいたのを感じて、ハリーはそう思った。 死喰い人たちが立っている場所に、いまや冷気が立ち込め、ハリーの耳に、森の境界を見回っている吸魂鬼の、ガラガラという息が聞こえてきた。 しかし吸魂鬼はもはや、ハリーに影響を与えることはないだろう。 生き延びたという事実が、あたかも父親の牡鹿の守護霊がハリーの胸の中に入り込んだように、吸魂鬼に対する護符となって、ハリーの中で燃えていた。  誰かが、ハリーのそばを通り過ぎた。 それがヴォルデモート自身であることは、そのすぐあとに、魔法で拡大された声が聞こえてきたことからわかった。 声は校庭を通って高まり、ハリーの鼓膜を破るほどに鳴り響いた。  「ハリー・ポッタ−−−は死んだ。おまえたちが、やつのために命を投げ出しているときに、やつは、自分だけ助かろうとして、逃げ出すところを殺された。おまえたちの英雄が死んだことの証に、死骸を待ってきてやったぞ」 「勝負はついた。おまえたちは戦士の半分を失った。俺様の死喰い人たちの前に、おまえたちは多勢に無勢だ。『生き残った男の子』は完全に敗北した。もはや、戦いはやめなければならぬ。抵抗を続ける志は、男も、女も、子どもも虐殺されよう。その家族も同様だ。城を棄てよ。俺様の前にひざまずけ。さすれば命だけは助けてやろう。おまえたちの親も、子どもも、兄弟姉妹も生きることができ、許されるのだ。そしておまえたちは、我々がともに作り上げる、新しい世界に参加するのだ」  校庭も城も、静まり返っていた。ヴォルデモートがこれほど近くにいては、ハリーはとうてい目を開けることができなかった。  「来い」  ヴォルデモートがそう言いながら、前に進み出る音が聞こえ、ハグリッドがそのあとに従わされる動きを感じた。 こんどこそ、ハリーは薄目を開けた。すると、大蛇のナギニを肩に載せたヴォルデモートが、ハリーとハグリッドの前を意気揚々と進んでいくのが見えた。 ナギニはもう、魔法の檻から解き放たれていた。 しかし、両側を行進する死喰い人に気づかれずに、ロープに隠し持った杖を引き抜ける可能性はなかった。 ゆっくりと夜が白みはじめていた……。  「ハリー」 ハグリッドが啜り泣いた。 「おー、ハリー……ハリー……」  ハリーは再び固く目を閉じた。 死喰い人たちが城に近づいたのを感じ、ハリーは耳をそばだてて、死喰い人のザックザックという足音と歓喜の声の中から、城の内側に生き残っている人々の気配を聞き分けようとした。  「止まれ」  死喰い人たちが止まった。 開かれた学校の玄関扉に面して、死喰い人たちが一列に広がる物音が聞こえた。 閉じた瞼を通してでさえ、玄関ホールからハリーに向かって流れ出す、赤みがかった光が感じ取れた。 ハリーは待った。ハリーが命を捨ててまで守ろうとした人々が、いまにも、ハグリッドの腕の中でまざれもなく死んでいるハリーを見るはずだ。  「ああああっ!」  ハリーは、マクゴナガル教授がそんな声を出すとは、夢にも思わなかった。 それだけにその叫び声はいっそう悲痛だった。 別の女性が、ハリーの近くで声を上げて笑うのが聞こえた。 マクゴナガルの絶望の悲鳴で、ベラトリックスが得意になっているのだ。 ハリーは、ほんの一瞬また薄目を開けた。 開かれた扉から、人々が溢れ出るのが見えた。 戦いに生き残った人々が玄関前の石段に出て征服者に対時し、自らの目でハリーの死の真実を確かめようとしていた。 ヴォルデモートがハリーのすぐ前に立ち、蝋のような指一本でナギニの頭を撫でているのが見えた。 ハリーはまた目を閉じた。  「そんな!」  「いや!約束したじゃない!」  「ハリー! ハリー!」  ロン、ハーマイオニー、そしてジニーの声は、マクゴナガルの声より悲痛だった。 ハリーはどんなに声を返したかったことか。 しかし、ハリーはなおも黙って、だらんとしたままでいた。 三人の叫びが引き金になり、生存者たちが義に奮い立ち、口々に死喰い人を罵倒する叫び声を上げた。しかし−−−。  「黙れ!」  ヴォルデモートが叫び、バーンという昔と眩しい閃光とともに、全員が沈黙させられた。  「終わったのだ! ハグリッド、そいつを俺様の足元に下ろせ。そこが、そいつにふさわしい場所だ!」  ハリーは芝生に下ろされるのを感じた。  「わかったか?」  ヴォルデモートが言った。ハリーが横たわっている場所のすぐ脇を、ヴォルデモートが大股で往ったり来たりするのを感じた。  「ハリー・ポッターは、死んだ!惑わされた者どもよ、いまこそわかっただろう? ハリー・ポッターは、最初から何者でもなかった。ほかの者たちの犠牲に頼った小僧にすぎなかったのだ!」  「ハリーはおまえを破った!」  ロンの大声で呪文が破れ、ホグワーツを守る戦士たちが、再び叫び出した。しかしまた、さらに強力な爆発音が、再び全員の声を消し去った。  「こやつは、城の校庭からこっそり抜け出そうとするところを殺された」  ヴォルデモートが言った。その声に、自分の嘘を楽しむ響きがあった。  「自分だけが助かろうとして殺された−−−」  しかし、ヴォルデモートの声はそこで途切れた。 小走りに駆け出す音、叫び声、そしてまたバーンという音が聞こえ、閃光が走って痛みに呻く声がした。 ハリーは、ごくわずかに目を開けた。誰かが仲間の群れから飛び出し、ヴォルデモートを攻撃したのだ。 その誰かが「武装解除」され、地面に打ちつけられるのが見えた。 ヴォルデモートは、奪った挑戦者の杖を投げ捨てて、笑っていた。  「いったい誰だ?」  ヴォルデモートが、蛇のようにシューシューと息を吐きながら言った。  「負け戦を続けようという者が、どんな目に遭うか、進んで見本を示そうというのは誰だ?」  ベラトリックスが、うれしそうな笑い声を上げた。  「わが君、ネビル・ロングボトムです! カロー兄妹をさんざんてこずらせた小僧です!例の闇祓い夫婦の息子ですが、憶えておいででしょうか」  「おう、なるほど、憶えている」  ヴォルデモートは、やっと立ち上がったネビルを見下ろした。 敵味方の境の戦場に、武器もなく、隠れる場所もなく、ネビルはただ一人立っていた。 なんという勇気だろう。例えヴォルデモートが最初にネビルを選んでいても必ずや役割を果たしただろう。 そして、そうなればジニーはネビルを選ぶに違いない。ハリーは少し胸が痛くなった。 しかしハリーには今やハーマイオニーがいる。愛し、愛される真の存在が。  「しかし、おまえは純血だ。勇敢な少年よ、そうだな?」  ヴォルデモートは、空っぽの両手で拳を振りしめて、自分と向き合って立っているネビルに問いかけた。  「だったらどうした?」ネビルが大声で言った。  「おまえは、気概と勇気のあるところを見せた。それに、おまえは高貴な血統の志だ。貴重な死喰い人になれる。ネビル・ロングボトム、我々にはおまえのような血筋の者が必要だ」  「ダンブルドア軍団が地獄の釜の火で凍ったら、仲間になってやる!」ネビルが叫んだ。  ネビルの叫びに応えて、城の仲間から歓声が湧き起こった。 ヴォルデモートの 「黙らせ呪文」 でも抑えられない声のようだ。  「いいだろう」  ヴォルデモートが言った。 滑らかなその声に、ハリーは、最も強力な呪いよりも危険なものを感じた。  「それがおまえの選択なら、ロングボトムよ、我々はもともとの計画に戻ろう。どういう結果になろうと−−−」  ヴォルデモートが静かに言った。 「おまえが決めたことだ」  薄目を開けたままで、ハリーはヴォルデモートが杖を振るのを見た。 たちまち、破れた城の窓の一つから、不恰好な鳥のような物が、薄明かりの中に飛び出し、ヴォルデモートの手に落ちた。 ヴォルデモートは、その黴だらけの物の尖った端を持って、振った。 ボロボロで、空っぽの何かが、だらりと垂れ下がった。組分け帽子だ。  「ホグワーツ校に、組分けは要らなくなる」 ヴォルデモートが言った。  「四つの寮もなくなる。わが高貴なる祖先であるサラザール・スリザリンの紋章、盾、そして旗があれば十分だ。そうだろう、ネビル・ロングボトム?」  ヴォルデモートが杖をネビルに向けると、ネビルの体が硬直した。 そして、その頭に、目の下まですっぽり覆うように、無理やり帽子が被せられた。城の前で見ていた仲間の一団が動いた。すると死喰い人がいっせいに杖を上げ、ホグワーツの戦士たちを遠ざけた。 「ネビルがいまここで、愚かにも俺様に逆らい続けるとどうなるかを、見せてくれるわ」 ヴォルデモートはそう言うと、杖を軽く振った。組分け帽子がメラメラと燃え上がった。 悲鳴が夜明けの空気を引き裂いた。ネビルは動くこともできず、その場に根が生えたように立ったまま炎に包まれた。ハリーはこれ以上耐えられなかった。 行動しなければ−−−その瞬間、一時にいろいろなことが起こった。  遠い校庭の境界から、どよめきが聞こえた。 そこからは見えない遠くの塀を乗り越えて、何百人とも思われる人々が押し寄せ、雄叫びを上げて城に突進してくる音だ。  同時に、グロウプが、「ハガー!」と叫びながら、城の側面からドスンドスンと現れた。 その叫びに応えて、ヴォルデモート側の巨人たちが吼え、大地を揺るがしながら、グロウプ目がけて雄象のように突っ込んでいった。 さらに、蹄の音が聞こえ、弓弦が鳴り、死喰い人の上に突然矢が降ってきた。 不意を衝かれた死喰い人は、叫び声を上げて隊列を乱した。 ハリーは、 素早い滑らかな動きで、ローブから「透明マント」を取り出し、パッと被って飛び起きた。ネビルも動いた。 ネビルは自分にかけられていた「金縛りの術」を解いた。 炎上していた帽子が落ち、ネビルはその奥から、何か銀色の物を取り出した。 輝くルビーの柄−−−。  銀の剣を振り下ろす音は、押し寄せる大軍の叫びと、巨人のぶつかり合う音、ケンタウルスの蹄の音に飲まれて聞こえなかったが、剣の動きはすべての人の目を引きつけた。 一太刀で、ネビルは大蛇の首を切り落とした。 首は玄関ホールから溢れ出る明かりにヌメヌメと光り、回りながら空中高く舞った。 ヴォルデモートは口を開け、怒りの叫びを上げたが、その声は誰の耳にも届かなかった。 そして大蛇の胴体は、ドサリとヴォルデモートの足元に落ちた。  「透明マント」に隠れたまま、ハリーはヴォルデモートが杖を上げる前に、ネビルとの間に「盾の呪文」をかけた。 そのとき、悲鳴や喚き声、そして戦う巨人たちが轟かせる足音を乗り越えて、ハグリッドの叫ぶ声が一段と大きく聞こえてきた。  「ハリー!」ハグリッドが叫んだ。 「ハリ−−−ーハリーはどこだ?」  何もかもが混沌としていた。 突撃するケンタウルスが死喰い人を蹴散らし、誰もが巨人たちに踏みつぶされまいと逃げ惑っていた。 そして、どこからともなく援軍の轟きがますます近づいてきた。 巨大な翼を持つ生き物たちの、ヴォルデモー下側の巨人の頭上を襲って飛び回る姿が、ハリーの目に入った。 セストラルたちとヒッポグリフのバックピークが、巨人たちの目玉を引っ掻く一方、グロウプは相手をめちゃくちゃに殴りつけていた。 そしていまや、ホグワーツの防衛隊とヴォルデモートの死喰い人軍団の区別なく、魔法使いたちは城の中に退却せざるをえない状態だった。 ハリーは、死喰い人を見つけるたびに呪いを撃ち、撃たれたほうは、誰に何を撃ち込まれたのかもわからずに倒れて、退却する人々に踏みつけられていた。  「透明マント」に隠れたまま、人波に押されて玄関ホールに入ったハリーは、ヴォルデモートを探し、ホールの反対側で呪いを放ちながら大広間に後退していく、その姿を見つけた。 四方八方に呪いを飛ばしながら、ヴォルデモートは甲高い声で部下に指令を出し続けていた。 ハリーは、ヴォルデモートの犠牲になりかかっていたシューマス・フィネガン、ハンナ・アポットに、「盾の呪文」をかけた。二人はヴォルデモートの脇をすり抜けて大広間に飛び込み、戦いの真っ最中の仲間に加わった。  玄関前の石段には、味方が続々と押し寄せていた。 チャーリー・ウィーズリーがエメラルド色のパジャマを着たままのホラス・スラグホーンを追い越して入ってくるのが見えた。 二人は、ホグワーツに残って戦っていた生徒の家族や友人たちと、ホグズミードに店や家を持つ魔法使いたちを率いて戻ってきたのだ。 ケンタウルスのペイン、 ロナン、マゴリアンが、蹄の音も高く大広間に飛び込んできたそのとき、ハリーの背後の、厨房に続く扉の蝶番が吹き飛んだ。  ホグワーツの屋敷しもべ妖精たちが、厨房の大ナイフや肉切り包丁を振りかざし、叫び声を上げて玄関ホールに溢れ出てきた。 その先頭に立ち、レギュラス・ブラックのロケットを胸に躍らせたクリーチャーが、この喧騒の中でもはっきり聞こえる食用ガエルのような声を張り上げていた。  「戦え! 戦え! 我がご主人棟、しもべ妖精の擁護者のために!闇の帝王と戦え! 勇敢なるレギュラス様の名の下に戦え!戦え!」 しもべ妖精たちは、敵意をみなぎらせた小さな顔を生き生きと輝かせ、死喰い人の踝をめった切りにし、脛を突き刺した。 ハリーの目の届くかぎりどこもかしこも、死喰い人は、圧倒的な数に押されて総崩れだった。 呪文に撃たれたり、突き刺さった矢を傷口から抜いたり、しもべ妖精に足を刺される者もいれば、何とか逃げようとして、押し寄せる大軍に飲み込まれる者もいた。  しかし、まだ終わったわけではなかった。 ハリーは一騎打ちする人々の中を駆け抜け、逃れようともがく捕虜たちの前を通り過ぎて、大広間に入った。  ヴォルデモートは戦闘の中心にいて、呪文の届く範囲一帯に、強力な呪いを打ち込んでいた。 ハリーは的確に狙いを定められず、姿を隠したまま、ヴォルデモー下により近づこうと周りを掻き分けて進んだ。 歩ける者は誰もが大広間に押し入ってきて、中はますます混雑していた。  ハリーは、ヤックスリーが、ジョージとリー・ジョーダンに床に打ちのめされるのを見た。 また、ドロホフが、フリットウィツクの手にかかって悲鳴を上げて倒れるのを見た。 ワルデン・マクネアは、ハグリッドに掴んで投げられ、部屋の反対側の石壁にぶつかって気絶し、ズルズルと壁を滑り落ちて床に伸びた。 ロンとネビルはフェンリール・グレイバックを倒し、アバーフォースはルックウッドを「失神」させ、アーサーとパーシーは、シックネスを床に打ち倒していた。 ルシウス・マルフォイとナルシッサは、戦おうともせずに、息子の名を叫びながら、戦闘の中を走り回っていた。  ヴォルデモートはいま、マクゴナガル、スラグホーン、キングズリーの三人を一度に相手取り、冷たい憎しみの表情で対決していた。 三人は、呪文を右へ左へとかわしたり、掻いくぐったりしながら包囲していたが、ヴォルデモートを仕留めることはできないでいた−−−。  ベラトリックスも、ヴォルデモートから四、五十メートル離れたところで、しぶとく戦っていた。 主君と同じように、三人を一度に相手取っている。ハーマイオニー、ジニー、ルーナは、力のかぎり戦っていたが、ベラトリックスは一歩も引かなかった。「死の呪文」がハーマイオニーをかすめ、危うくハーマイオニーの命が−−−。 ハリーは、ヴォルデモートから気を逸らしてしまった。  ハリーは目標を変え、ヴォルデモートにではなく、ベラトリックスに向かって走り出した。 しかし、ほんの数歩も行かないうちに、横様に突き飛ばされた。  「私の娘に何をする!この女狐め!」  ウィーズリー夫人は駆け寄りながらマントをかなぐり捨てて、両腕を自由にした。 ベラトリックスはくるりと振り返り、新しい挑戦者を見て大声を上げて笑った。 「お退き!」 ウィーズリー夫人が三人の女の子を怒鳴りつけ、シュッと杖をしごいて決闘に臨んだ。 モリー・ウィーズリーの杖が空を切り裂き、素早く弧を描くのを、ハリーは恐怖と昂揚感の入り交じった気持で見守った。 ベラトリックス・レストレンジの顔から笑いが消え、歯しをむき出して唸りはじめた。 双方の杖から閃光が噴き出し、二人の魔女の足元の床は熱せられて、亀裂が走った。 二人とも本気で相手を殺すつもりの戦いだ。  「おやめ!」  応援しようと駆け寄った数人の生徒に、ウィーズリー夫人が叫んだ。  「下がっていなさい! 下がって!この女は私がやる!」  何百人という人々がいまや壁際に並び、二組の戦いを見守った。 ヴォルデモート対三人の相手、ベラトリックス対モリーだ。 ハリーは、マントに隠れたまま立ちすくみ、二組の間で心が引き裂かれていた。 攻撃したい、しかし守ってあげたい。それに、罪もない者を撃ってしまわないともかぎらない。  「私がおまえを殺してしまったら、子どもたちはどうなるだろうね?」  モリーの呪いが右に左に飛んでくる中を跳ね回りながら、ベラトリックスは、主君同様、狂気の様相でモリーをからかった。  「ママが、フレディちゃんとおんなじようにいなくなったら?」  「おまえなんかに−−−二度と−−−私の−−−子どもたちに−−−手を−−−触れさせて−−−なるものか!」  ウィーズリー夫人が叫んだ。  ベラトリックスは声を上げて笑った。 いとこのシリウスが、ベールの向こうに仰向けに倒れたときの、あの興奮した笑い声と同じだった。 突然ハリーは、次に何が起こるかを予感した。 モリーの呪いが、ベラトリックスの伸ばした片腕の下を掻いくぐって踊り上がり、胸を直撃した。心臓の真上だ。  ベラトリックスの悦に入った笑いが凍りつき、両眼が飛び出したように見えた。 ほんの一瞬だけ、ベラトリックスは何が起こったのかを認識し、次の瞬間、ばったり倒れた。 周囲から「ウォーッ」という声が上がり、ヴォルデモートは甲高い叫び声を上げた。  ハリーは、スローモーションで振り向いたような気がした。 目に入ったのは、マクゴナガル、キングズリー、スラグホーンの三人が仰向けに吹き飛ばされ、手足をばたつかせながら宙を飛んでいる姿だった。 最後の、そして最強の副官が倒され、ヴォルデモートの怒りが炸裂したのだ。 ヴォルデモートが杖を上げ、モリー・ウィーズリーを狙った。  「プロテゴ!<護れ>」  ハリーが大声で唱えた。 すると「盾の呪文」が、大広間の真ん中に広がった。 ヴォルデモートは、呪文の出所を目を凝らして探した。 そのとき、ハリーが「透明マント」を脱いだ。  衝撃の叫びや歓声と、あちこちから湧き起こる「ハリー?」「ハリーは生きている!」の叫びは、しかし、たちまちやんだ。 ヴォルデモートとハリーが睨み合い、同時に、互いに距離を保ったまま円を描いて動き出したのを見て、見守る人々は恐れ、周囲は静まり返った。  「誰も手を出さないでくれ」  ハリーが大声で言った。 水を打ったような静けさの中で、その声はトランペットのように鳴り響いた。  「こうでなければならない。僕でなければならないんだ」  ヴォルデモートは、シューシューと息を吐きながら言った。  「ポッターは本気ではない」  ヴォルデモートは赤い眼を見開いた。  「ポッターのやり方はそうではあるまい? 今日は誰を盾にするつもりだ、ポッター?」  「誰でもない」 ハリーは一言で答えた。  「分霊箱はもうない。残っているのはおまえと僕だけだ。一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ。二人のうちどちらかが、永遠に去ることになる……」  「どちらかがだと?」  ヴォルデモートが嘲った。 全身を緊張させ、真っ赤な両眼を見開き、いまにも襲いかかろうとする蛇のようだ。  「勝つのは自分だと秀えているのだろうな? そうだろう? 偶然生き残った男の子。ダンプルドアに操られて生き残った男の子」  「偶然? 母が僕を救うために死んだときのことが、偶然だと言うのか?」  ハリーが問い返した。二人は互いに等距離を保ち、完全な円を描いて、横へ横へと回り込んでいた。 ハリーには、ヴォルデモートの顔しか見えなかった。  「偶然か? 僕があの墓場で、戦おうと決意したときのことが? 今夜、身を守ろうともしなかった僕がまだこうして生きていて、再び戦うために戻ってきたことが偶然だと言うのか?」  「偶然だ!」  ヴォルデモートが甲高く叫んだ。しかし、まだ攻撃してこなかった。 見守る群衆は、石のように動かない。 何百人もいる大広間の中で、二人以外は誰も息をしていないかのようだった。  「偶然だ。たまたまにすぎぬ。おまえは、自分より偉大な尭たちの陰に、めそめそとうずくまっていたというのが事実だ。そして俺様に、おまえの身代わりにそいつらを殺させたのだ」  「今夜のおまえは、ほかの誰も殺せない」  ぐるぐる回り込みながら互いの目を見据え、線の目が赤い眼を見つめて、ハリーが言った。  「おまえはもう決して、誰も殺すことはできない。わからないのか? 僕は、おまえがこの人々を傷つけるのを阻止するために、死ぬ覚悟だった−−−。」  「しかし死ななかったな!」  「−−−死ぬつもりだった。だからこそ、こうなったんだ。僕のしたことは、母の場合と同じだ。この人たちを、おまえから守ったのだ。おまえがこの人たちにかけた呪文は、どれ一つとして完全には効かなかった。気がつかなかったのか? おまえは、この人たちを苦しめることはできない。指一本触れることはできない。リドル、おまえは過ちから学ぶことを知らないのか?」  「よくも−−−」  「ああ、言ってやる」 ハリーが言った。 「トム・リドル、僕はおまえの知らないことを知っている。おまえにはわからない、大切なことをたくさん知っている。おまえがまた大きな過ちを犯す前に、いくつかでも聞きたいか?」  ヴォルデモートは答えず、獲物を狙うように回り込んでいた。 ハリーは、一時的にせよヴォルデモートの注意を引きつけ、その動きを封じることができたと思った。 ハリーが本当に究極の秘密を知っているのではないかという微かな可能性に、ヴォルデモートはたじろいでいる……。  「また愛か?」  ヴォルデモートが言った。蛇のような顔が嘲っている。  「ダンブルドアお気に入りの解決法、愛。それが、いつでも死に打ち克つとやつは言った。だが、愛は、やつが塔から落下して、古い蝋細工のように壊れるのを阻止しなかったではないか? 愛、おまえの『穢れた血』の母親が、ゴキブリのように俺様に踏みつぶされるのを防ぎはしなかったぞ、ポッター−−−それに、こんどこそ、おまえの前に走り出て、俺様の呪いを受け止めるほど、おまえを愛している者はいないようだな。さあ、俺様が攻撃すれば、こんどは何がおまえの死を防ぐと言うのだ?」  「一つだけある」 ハリーが言った。  二人はまだ互いに回り込み、相手にだけ集中し、最後の秘密だけが、二人を隔てていた。  「いま、おまえを救うものが愛でないのなら」ヴォルデモートが言った。 「俺様にはできない魔法か、さもなくば俺様の武器より強力な武器を、おまえが待っていると信じ込んでいるのか?」  「両方とも持っている」 ハリーが言った。  蛇のような顔に衝撃がさっと走るのを、ハリーは見逃さなかった。 しかし、それはたちまち消えた。ヴォルデモートは声を上げて笑いはじめた。 悲鳴より、もっと恐ろしい声だった。 おかしさのかけらもない狂気じみた声が、静まり返った大広間に響き渡った。  「俺様を凌ぐ魔法を、おまえが知っていると言うのか?」ヴォルデモートが言った。 「この俺様を、ヴォルデモート卿を凌ぐと? ダンブルドアでさえ夢想だにしなかった魔法を行った、この俺様をか?」  「いいや、ダンブルドアは夢見た」 ハリーが言った。 「しかし、ダンブルドアは、おまえより多くのことを知っていた。知っていたから、おまえのやったようなことはしなかった」 「つまり、弱かったということだ!」 ヴォルデモートが甲高く叫んだ。  「弱いが故に、できなかったのだ。弱いが故に、自分の掌握できたはずのものを、そして俺様が手にしようとしているものを、手に入れられなかっただけのことだ?」  「違う。ダンブルドアはおまえより賢明だった」 ハリーが言った。 「魔法使いとしても、人間としても、より優れていた」  「俺様が、アルバス・ダンブルドアに死をもたらした!」  「おまえが、そう思い込んだだけだ」 ハリーが言った。 「しかし、おまえは間違っていた」  見守る群衆が、初めて身動きした。壁際の何百人がいっせいに息を呑んだ。  「ダンブルドアは死んだ!」  ヴォルデモートは、ハリーに向かってその言葉を投げつけた。 その言葉が、ハリーに耐え難い苦痛を与えるとでもいうように。  「あいつの骸はこの城の校庭の、大理石の墓の中で朽ちている。俺様はそれを見たのだ、ポッター。あいつは戻ってはこぬ!」  「そうだ。ダンブルドアは死んだ」 ハリーは落ち着いて言った。 「しかし、おまえの命令で殺されたのではない。ダンブルドアは、自分の死に方を選んだのだ。死ぬ何カ月も前に選んだのだ。おまえが自分の下僕だと思っていたある男と、すべてを示し合わせていた」  「何たる子ども騙しの夢だ?」  そう言いながらも、ヴォルデモートはまだ攻撃しようとはせず、赤い眼はハリーの目をとらえたまま離さなかった。  「セブルス・スネイプは、おまえのものではなかった」 ハリーが言った。 「スネイプはダンブルドアのものだった。おまえが僕の母を追いはじめたときから、ダンブルドアのものだった。おまえは、一度もそれに気づかなかった。それは、おまえが理解できないもののせいだ。リドル、おまえは、スネイプが守護霊を呼び出すのを、見たことがなかっただろう?」  ヴォルデモートは答えなかった。二人は、いまにも互いを引き裂こうとする二頭の狼のように、回り続けた。  「スネイプの守護霊は牝鹿だ」 ハリーが言った。 「僕の母と同じだ。スネイプは子どものころからほとんど全生涯をかけて、ぼくの母を愛したからだ。それに気づくべきだったな」  ヴォルデモートの鼻の穴が膨らむのを見ながら、ハリーが言った。  「スネイプは、僕の母の命乞いをしただろう?」  「スネイプは、あの女がほしかった。それだけだ」  ヴォルデモートがせせら笑った。  「しかし、あの女が死んでからは、女はほかにもいるし、より純血の、より自分にふさわしい女がいると認めた−−−−−」  「もちろん、スネイプはおまえにそう言った」 ハリーが言った。 「しかし、スネイプは、おまえが母を脅かしたその瞬間から、ダンブルドアのスパイになった。そして、それ以来ずっと、おまえに背いて仕事をしてきたんだ! ダンブルドアは、スネイプが止めを刺す前に、もう死んでいたのだ!」  「どうでもよいことだ!」 一言一言を、魅入られたように聞いていたヴォルデモートは、甲高く叫んで、狂ったように高笑いした。  「スネイプが俺様のものか、ダンブルドアのものかなど、どうでもよいことだ。俺様の行く手に、二人がどんなつまらぬ邪魔物を置こうとしたかも問題ではない!俺様はそのすべてを破壊した。スネイプが偉大なる愛を捧げたとかいう、おまえの母親を破壊したと同様にだ!ああ、しかし、これですべてが腑に落ちる、ポッター、おまえには理解できぬ形でな!ダンブルドアは、二ワトコの杖を俺様から遠ざけようとした!あいつは、スネイプが杖の真の持ち主になるように図った! しかし、小僧、俺様のほうが一足早かった−−−おまえが杖に手を触れる前に、俺様が杖にたどり着いたし、おまえが真相に追いつく前に、俺様が真実を理解したのだ。俺様は三時間前に、セブルス・スネイプを殺した。そして、二ワトコの杖、死の杖、宿命の杖は、真に俺様のものになった! ダンブルドアの最後の謀は、ハリー・ポッター、失敗に終わったのだ!」  「ああ、そのとおりだ」  ハリーが言った。  「おまえの言うとおりだ。しかし、僕を殺そうとする前に、忠告しておこう。自分がこれまでにしてきたことを、考えてみたらどうだ……考えるんだ。リドル、そして、少しは後悔してみろ……」  「何を戯けたことを?」  ハリーがこれまで言ったどんな言葉より、どんな思いがけない事実や嘲りより、これほどヴォルデモートを驚愕させた言葉はなかった。 ハリーは、ヴォルデモートの瞳孔が縮んで縦長の細い切れ眼になり、眼の周りの皮膚が白くなるのを見た。  「最後のチャンスだ」 ハリーが言った。 「おまえには、それしか残された道はない……さもないと、おまえがどんな姿になるか、僕は見た……勇気を出せ……努力するんだ……少しでも後悔してみるんだ……」  「よくもそんなことを−−−?」ヴォルデモートがまた言った。  「ああ、言ってやるとも」 ハリーが言った。  「いいか、リドル。ダンブルドアの最後の計画が失敗したことは、僕にとって裏目に出たわけじゃない。おまえにとって裏目に出ただけだ」  ニワトコの杖を握る、ヴォルデモートの手が震えていた。 そしてハリーは、ドラコの杖をいっそう固く握りしめた。 その瞬間がもう数秒後に迫っていることを、ハリーは感じた。  「その杖はまだ、おまえにとっては本来の機能を果たしていない。なぜなら、おまえが殺す相手を間違えたからだ。セプルス・スネイプが、ニワトコの杖の真の所有者だったことはない。スネイプが、ダンブルドアを打ち負かしたのではない」  「スネイプが殺した−−−」  「聞いていないのか? スネイプはダンブルドアを打ち負かしてはいない!ダンブルドアの死は、二人の間で計画されていたことなんだ!ダンブルドアは、杖の最後の真の所有者として、敗北せずに死ぬつもりだった! すべてが計画どおりに運んでいたら、杖の魔力はダンプルドアとともに死ぬはずだった。なぜなら、ダンブルドアから杖を勝ち取る者は、誰もいないからだ!」  「それなら、ポッター、ダンブルドアは俺様に杖をくれたも同然だ!」  ヴォルデモートの声は、邪悪な喜びで震えていた。  「俺様は、最後の所有者の墓から、杖を盗み出した!最後の所有者の望みに反して、杖を奪った! 杖の力は俺様のものだ!」  「まだわかっていないらしいな、リドル? 杖を所有するだけでは十分ではない!杖を持って使うだけでは、杖は本当におまえのものにはならない。オリバンダーの話を聞かなかったのか?杖は魔法使いを選ぶ……ニワトコの杖は、ダンブルドアが死ぬ前に新しい持ち主を認識した。その杖に一度も触れたことさえない者だ。新しい主人は、ダンブルドアの意思に反して杖を奪った。その実、自分が何をしたのかに一度も気づかずに。この世で最も危険な杖が、自分に忠誠を捧げたとも知らずに……」 ヴォルデモートの胸は激しく波打っていた。 ハリーは、いまにも呪いが飛んでくることを感じ取っていた。 自分の顔を狙っている杖の中に、次第に高まっているものを感じていた。  「ニワトコの杖の真の主人は、ドラコ・マルフォイだった」  ヴォルデモートの顔が、衝撃で一瞬呆然となった。しかし、それもすぐに消えた。  「それが、どうだというのだ?」  ヴォルデモートは静かに言った。  「おまえが正しいとしても、ポッター、おまえにも俺様にも何ら変わりはない。おまえにはもう不死鳥の杖はない。我々は技だけで決闘する……そして、おまえを殺してから、俺様はドラコ・マルフォイを始末する……」  「遅すぎたな」  ハリーが言った。  「おまえは機会を逸した。僕が先にやってしまった。何週間も前に、僕はドラコを打ち負かした。この杖はドラコから奪った物だ」  ハリーは、サンザシの杖をピクピク動かした。大広間の目という目が、その杖に注がれるのを、ハリーは感じた。  「要するに、すべてはこの一点にかかっている。違うか?」  ハリーは囁くように言った。  「おまえの手にあるその杖が、最後の所有者が『武装解除』されたことを知っているかどうかだ。もし知っていれば……ニワトコの杖の真の所有者は、僕だ」  二人の頭上の、魔法で空を模した天井に、突如、茜色と金色の光が広がり、いちばん近い窓の向こうに、眩しい太陽の先端が顔を出した。 光は同時に二人の顔に当たった。 ヴォルデモートの顔が、突然ぼやけた炎のようになった。 ヴォルデモートの甲高い叫びを聞くと同時に、ハリーはドラコの杖で狙いを定め、天に向かって一心込めて叫んでいた。  「エクスペリアームス!」  「アバタ・ケダブラ!」  ドーンという大砲のような音とともに、二人が回り込んでいた円の真ん中に、黄金の炎が噴き出し、二つの呪文が衝突した点を印した。 ハリーは、ヴォルデモートの緑の閃光が自分の呪文にぶつかってヴォルデモートに反射するのを見た。 ニワトコの杖は高く舞い上がり、朝日を背に黒々と、ナギニの頭部のようにくるくると回りながら、魔法の天井を横切ってご主人様の元へと向かった。 ついに杖を完全に所有することになった持ち主に向かって、自分が殺しはしないご主人様に向かって飛んできた。 的を逃さないシーカーの技で、ハリーの空いている片手が杖を捕らえた。 そのとき、ヴォルデモートが両腕を広げてのけぞり、真っ赤な眼の、切れ目のように細い瞳孔が裏返った。 トム・リドルは、ありふれた最期を迎えて床に倒れた。 その身体は弱々しく萎び、蝋のような両手には何も持たず、蛇のような顔は虚ろで、何も気づいてはいない。 ヴォルデモートは、撥ね返った自らの呪文に撃たれて死んだ。 そしてハリーは、二本の杖を手に、敵の抜け殻をじっと見下ろしていた。  身震いするような一瞬の沈黙が流れ、衝撃が漂った。 次の瞬間、ハリーの周囲がドッと沸いた。見守っていた人々の悲鳴、歓声、叫びが空気を努いた。 新しい太陽が、強烈な光で窓を輝かせ、人々はワッとハリーに駆け寄った。 真っ先にロンとハーマイオニーが近づき、二人の腕がハリーに巻きついた。 二人のわけのわからない叫び声が、ハリーの耳にガンガン響いた。 そしてジニーが、ネビルが、ルーナがいた。それからウィーズリー一家とハグリッドが、キングズリーとマクゴナガルが、フリットウィツクとスプラウトがいた。  ハリーは、誰が何を言っているのか一言も聞き取れず、誰の手がハリーをつかんでいるのか、引っ張っているのか、体のどこか一部を抱きしめようとしているのか、わからなかった。 何百という人々がハリーに近寄ろうとし、何とかして触れようとしていた。  ついに終わったのだ。「生き残った男の子」 のおかげで−−−。  ゆっくりと、ホグワーツに太陽が昇った。そして大広間は生命と光で輝いた。 歓喜と悲しみ、哀悼と祝賀の入り交じったうねりに、ハリーは欠かせない主役だった。 みんながハリーを求めていた。 指導者であり象徴であり、救い主であり先導者であるハリーと一緒にいたがった。 ハリーが寝ていないことも、ほんの数人の人間と一緒に過ごしたくてしかたがないことも、誰も思いつかないようだった。 遺族と話をして手を握り、その涙を見つめ、感謝の言葉を受けたりしなければならなかった。  陽が昇るにつれ、四方八方からいつのまにか報せが入ってきた。 国中で「服従の呪文」にかけられていた人々が我に返ったこと、死喰い人たちが逃亡したり捕まったりしていること、アズカバンに収監されていた無実の人々が、いまこの瞬間に解放されていること、そして、キングズリー・シャツクルボルトが魔法省の暫定大臣に指名されたこと、などなど……。  ヴォルデモートの遺体は、大広間から運び出され、フレッド、トンクス、ルーピン、コリン・クリーピー、そしてヴォルデモートと戦って死んだ二十人以上に上る人々の亡骸とは離れた小部屋に置かれた。 マクゴナガルは寮の長テーブルを元通りに置いたが、もう誰も、各寮に分かれて座りはしなかった。 みんなが交じり合い、先生も生徒も、ゴーストも家族も、ケンタウルスも屋敷しもべ妖精も一緒だった。 フィレンツェは隅に横たわり、回復しっつあったし、グロウプは壊れた窓から覗き込んでいた。 そしてみんなが、グロウプの笑った口に食べ物を投げ込んでいた。 しばらくして、疲労困催したハリーは、ルーナが同じベンチの隣に座っていることに気づいた。  「あたしだったら、しばらく一人で静かにしていたいけどな」 ルーナが言った。  「そうしたいよ」 ハリーが言った。  「あたしが、みんなの気を逸らしてあげるもン」 ルーナが言った。  「『マント』を使ってちょうだいね」 ハリーが何も言わないうちに、ルーナが叫んだ。 「うわァー、見て。プリバリング・ハムディンガーだ!」 そしてルーナは窓の外を指差した。 聞こえた者はみな、その方向を見た。 ハリーは「マント」を被り、立ち上がった。  ハリーはもう、誰にも邪魔されずに大広間を移動できた。 二つ離れたテーブルに、ジニーを見つけた。 母親の肩に頭を持たせて座っている。 ジニーと話す時間はこれから来るはずだ。 真摯に詫びなければならない。ハリーは選んでしまったのだから。 ネビルが見えた。食事している皿の横に、グリフィンドールの剣を置き、何人かの熱狂的な崇拝者に囲まれている。 テーブルとテーブルの間の通路を歩いていると、マルフォイ家の三人が、果たしてそこにいてもいいのだろうか、という顔で小さくなっているのが見えた。 しかし、誰も三人のことなど気にかけていなかった。 目の届くかぎり、あちこちで家族が再会していた。 そしてやっと、ハリーはいちばん話したかった二人を見つけた。  「僕だよ」  ハリーは二人の間に屈んで、耳打ちした。  「一緒に来てくれる?」  二人はすぐに立ち上がり、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、一緒に大広間を出た。 大理石の階段は、あちこちが大きく欠け、手摺の一部もなくなっていたし、数段上がるたびに瓦礫や血の痕が見えた。  どこか遠くで、ビープズが、廊下をプンプン飛び回りながら、自作自演で勝利の歌を歌っているのが聞こえた。 我々はやったんだ。ヤツをやっつけた。 ちっちゃいポッターは最高だ。 ヴォルビーの奴は朽ち果てちまった。 さぁ今すぐ楽しもう! 「まったく、事件の重大さと悲劇性を、感じさせてくれるよな?」  ドアを押し開けてハリーとハーマイオニーを先に通しながら、ロンが言った。  幸福感はそのうちやってくるだろう、とハリーは思った。 しかしいまは、疲労感のほうが勝っていた。 それに、フレッド、ルーピン、トンクスを失った痛みが、数歩歩くごとに肉体的な傷のようにキリキリと刺し込んできた。 ハリーはいま、何よりもまず、大きな肩の荷が下りたことを感じ、とにかく眠りたかった。  しかし、その前に、ロンとハーマイオニーに説明しなければならない。 これだけ長い間、ハリーと行動をともにしてきた二人には、真実を知る権利がある。 一つひとつ事細かに、ハリーは「憂いの師」 で見たことを物語り、「禁じられた森」 での出来事を話した。 二人が受けた衝撃と驚きをまだ口に出す間もないうちに、三人はもう、暗黙のうちに目的地と定めていた場所に着いていた。  校長室の入口を護衛するガーゴイル像は、ハリーが最後に見たあと、打たれて横にずれていた。 横に傾いて、少しふらふらしている様子で、もう合言葉もわからないのではないかとハリーは思った。  「上に行ってもいいですか?」  ハリーはガーゴイルに聞いた。  「ご自由に」  ガーゴイル像が呻いた。  三人はガーゴイルを乗り越えて、石の螺旋階段に乗り、エスカレーターのようにゆっくりと上に運ばれていった。 階段のいちばん上で、ハリーは扉を押し開けた。  石の 「憂いの諦」が、机の上のハリーが置いた場所にあった。 それを一目見たとたん、耳を穿く騒音が聞こえ、ハリーは思わず叫び声を上げた。 呪いをかけられたか、死喰い人が戻ってきてヴォルデモートが復活したか、と思ったのだ−−−。  しかしそれは、拍手だった。 周り中の壁で、ホグワーツの歴代校長たちが総立ちになって、ハリーに拍手していた。 帽子を振り、ある者は掌を打ち振りながら、校長たちは額から手を伸ばし、互いの手を強く握りしめていた。 描かれた椅子の上で、飛び跳ねて踊っていた。 ディリス・ダーウェントは人目もはばからず泣き、デクスター・フォーテスキューは旧式のラッパ型補聴器を振り、フィニアス・ナイジェラスは、持ち前の甲高い不快な声で叫んでいた。  「それに、スリザリン寮が果たした役割を、特筆しようではないか!我らが貢献を忘れるなかれ!」  しかしハリーの目は、校長の椅子のすぐ後ろに掛かっているいちばん大きな肖像画の中に立つ、ただ一人に注がれていた。 半月形のメガネの奥から、長い銀色の顎鬚に涙が滴っていた。 その人から溢れ出てくる誇りと感謝の念は、不死鳥の歌声と同じ癒しの力でハリーを満たした。  やがてハリーは両手を挙げた。 すると肖像画たちは、敬意を込めて静かになり、微笑みかけたり目を拭ったりしながら、耳を澄ましてハリーの言葉を待った。 しかしハリーは、ダンブルドアだけに話しかけ、細心の注意を払って言葉を選んだ。 疲れ果て、目もかすんでいたが、最後の忠告を求めるために、ハリーは残る力を振り絞った。  「スニッチに隠されていた物は−−−」  ハリーは語りかけた。  「森で落としてしまいました。その場所ははっきりとは覚えていません。でも、もう探しに行くつもりもありません。それでいいでしょうか?」  「ハリーよ、それでよいとも」  ダンブルドアが言った。ほかの肖像画は、わけがわからず、何のことやらと興味を引かれた顔だった。  「賢明で勇気ある決断じゃ。きみなら当然そうするじゃろうと思っておった。誰かほかに、落ちた場所を知っておるか?」  「誰も知りません」  ハリーが答えると、ダンブルドアは満足げに頷いた。  「でも、イグノタスの贈り物は持っているつもりです」  ハリーが言うと、ダンブルドアはにっこりした。  「もちろんハリー、きみが子孫に譲るまで、それは永久にきみのものじゃ!」  「それから、これがあります」  ハリーがニワトコの杖を掲げると、ロンが恭しく杖を見上げた。 ぼんやりした寝不足の頭でも、ハリーはそんな表情は見たくないと感じた。  「僕は、ほしくありません」 ハリーが言った。  「なんだって?」 ロンが大声を上げた。 「気は確かか?」  「強力な杖だということは知っています」  ハリーはうんざりしたように言った。  「でも、僕は、自分の杖のほうが気に入っていた。だから……」  ハリーは首に掛けた巾着を探って、二つに折れて、ごく細い不死鳥の尾羽根だけで辛うじてつながっている柊の杖を取り出した。 ハーマイオニーは、これだけひどく壊れた杖は、もう直らないと言った。 ハリーは、もしこれがだめなら、もう望みはないということだけがわかっていた。  ハリーは折れた杖を校長の机に置き、ニワトコの杖の先端で触れながら唱えた。  「レバロ!<直れ>」  ハリーの杖が再びくっつき、先端から赤い火花が飛び散った。 ハリーは成功したことを知った。 ハリーが柊と不死鳥の杖を取り上げると、突然、指が温かくなるのを感じた。 まるで杖と手が、再会を喜び合っているかのようだった。  「僕はニワトコの杖を−−−」  心からの愛情と賞賛の眼差しで、じっとハリーを見ているダンブルドアに、ハリーは話しかけた。  「元の場所に戻します。杖はそこに留まればいい。僕がイグノタスと同じように自然に死を迎えれば、杖の力は破られるのでしょう? 最後の持ち主は敗北しないままで終わる。それで杖はおしまいになる」  ダンブルドアは頷いた。二人は互いに微笑み合った。 「本気か?」 ロンが聞いた。ニワトコの杖を見るロンの声に、微かに物欲しそうな響きがあった。 「ハリーが正しいと思うわ」 ハーマイオニーが静かに言った。 「この杖は、役に立つどころか、厄介なことばかり引き起こしてきた」 ハリーが言った。 「それに、正直言って−−−」  ハリーは肖像画たちから顔を逸らし、グリフィンドール塔で待っている、 四本柱のベッドのことだけを思い浮かべ、クリーチャーがそこにサンドイッチを持ってきてくれないかな、と考えながら言った。  「僕はもう、一生分の厄介を十分味わったよ」 エピローグ 「これを見ろよ。盾の呪文を呪いに変化させたものだ。こいつは”死のネックレス”からヒントを得た。 あれは正に”アバダ・ケダブラを付与したネックレス”だったよな?じゃぁプロテゴを付与した帽子も作れるに違いないんだ」 ベッドに上半身を起こしたフレッドがにこにこしている横でジョージが言った。 「……本物の天才かも」 「いやぁありがと。ハーマイオニー。でも凄いのはここからだぜ。前に見せた『盾の帽子』『盾のマント』、『盾の手袋』。 こいつらは『許されざる呪文』に対してはあんまり役には立たない。しかしだな。我々は考えたのだよ。『プロテゴ』を『プロテゴ』で守ればもっと強い『プロテゴ』になるんじゃないかとね。そこで、布2枚に『プロテゴ』を付与した。しかし上手くいかない。布同士が反発してくっつかないんだ。同じ呪いだと反発するらしいんだな。そこでだ。この反発を無くすにはどうしたらいいかだが」 「こいつが天才的だったんだよ」 フレッドがうれしそうに言った。 「そう。フレッドこそ天才さ。覚えてるか『ズル休みスナックボックス』『鼻血ヌルヌルヌガー』」 「そりゃ覚えてるよ。すごく流行ったもの」 ハリーはにっこりと笑ったが、ハーマイオニーは顔をしかめた。 「そうか。覚えてたか。あれは通常の状態を異常状態に一時変化させるものだ。一時変化を”体調”に特化させたものだ」 「なるほど」 「じゃあこの反発に特化した一時変化を作れば解決ってわけだ。 そこで必要なのが『ズル休みスナックボックス』『鼻血ヌルヌルヌガー』の中心素材、ドクシーの毒液」 「とある割合で薄めたコイツをシューッと一吹き。ごらんあれ!反発してた布がぴったりくっついた。これでエクスペリアームスまで防げるプロテゴの呪いの付与された布の出来上がりってわけさ。普通のプロテゴの4倍は強度があるぜ」 「まぁ。ハリーのエクスペリアームスが防げるかは疑問だけどな。俺たちのとは違って極端に威力があるからなぁ」 「しかししかし!布だから何枚も重ねれる利点を考慮して、オレたちのローブは仕立てられてたんだ。7枚重ねだぜ。縁起いい数字だろ。しっかし。改良の余地ありだな。ジョージ?」 「たしかにな。フレッド。一発くらい『アバダケダブラ』でも防げると思ったんだがなぁ。 実際にフレッドは3週間も寝込んじまった。 単純計算だとオレたちの『エクスペリアームス』100発の威力を防げる『プロテゴ』を貫通して呪文が届いたんだぜ。なんという貫通力だ……」 「まぁ事前に相手が何の呪文使うか知ってれば、防御対策するのは基本だしな。皆のもこっそり仕掛けてたんだぜ。知らなかったろ?」 「……だからこんなに犠牲者が少なかったのか!」 ウィーズリーおじさんはあっけにとられて二人を見ていた。 そうたったの二十数人程度の犠牲者。数百人が入り乱れていた、あれだけの戦いを考えるとあまりにも犠牲者は少なすぎた。 『死の呪い』は何百回も撒き散らされていたのにこれだけの犠牲者しかいなかったのだ。 7学年、全校生徒六百人と闇祓いや助っ人、合わせると八百人近くになっていたはずなのに、たった二十数人程度の犠牲者しかいない。 いかにフレッドとジョージが精力的に働いていたか、ハリーは二人に深く感謝した。 「『油断大敵!』と俺たちの授業でマッド−アイが吼えてた。全くその通りだと思ったね」 「だから俺たちは対策を講じた。何しろこういうのは得意だからな。さらに言えば資金も豊富だったしな!」 「ドクシーさまさまだよ。ヴォルデモートもドクシーに防がれたとは思ってないかもねぇ」 アハハハハと陽気に笑うフレッドを見て皆も笑った。 ジョージは笑いながら感極まったかのように涙を流していた。ボロボロと。 そしてフレッドに抱きついてバシバシと背中を叩いていた。 Nine Years Later/9年後 ヴォルデモートがいなくなった後、ハリーは闇の魔法使いの標的になった。 ハリーを殺せば手っ取り早くヴォルデモートより強いと証明出来るからだ。 それを防ぐ為に、皆に名を知られていようとも杖を『封印』したと公表した。 しかし、エルダーワンドの所有者の移動方法をも最後の対決の時に明かしてしまった為、そんな訳にはいかなかった。 あらゆる場所で、ハリーに向って呪文が放たれるようになったのだ。 「『ニワトコの杖』の持ち主は、常に攻撃されることを恐れねばならぬ」 あの時オリバンダーに聞いた話は現実となった。 その事は、ハリーの重大な負担になっていた。 盗み聞きされないように気を使うことにも、小さな暗い部屋に閉じこもるのにも、常に背後を気にしなければならないのにも、うんざりしていたし、ましてや、知人友人達まで危険にさらすわけにはいかないとハリーは考えた。 だからこそ、ハリーはあっさりマグルに戻る決意をした。 ハリーは指導者でも象徴でも救い主でも先導者でもない。 そんな事の為に戦っていたのではないのだ。 しかも、ハリーにはエルダーワンドの杖の所有者を辞めるわけにはいかなかった。 それをダンブルドアの肖像画に誓ったのだ。 ハリーは闇祓いになるわけにもいかず、襲い来る闇の勢力の誰一人にも負けるわけにもいかず、だれにも心を許すわけにもいかない。 正直、やっと終わったのにそんな生活は耐える事が出来なかったし、したくもなかった。 ハリーはダンブルドアと同じく、魔法省に入らず、権力を欲する事もなく、静かに平和に満ちた世界を享受したかっただけなのだ。 ハリーは命を脅かされない、普通の人生が欲しかっただけなのだ。 だからこそ魔法界を断ち切った。断ち切らざるを得なかった。 ハリーはダンブルドアがどんなに請われても魔法省に入省しなかったのが今なら理解できると思った。 ダンブルドアの言う通り『死を制する』と言うことは『無敵になる』ということではない。 いくらハリーが、強力な魔法を習得しようとも、無敵ではありえないのだ。 それを忘れれば、ハリーは即座に殺され、ダンブルドアとの約束も果たせず、「ニワトコの杖」の所有権は移り変わり、また闇の時代が来るのだろう。 だからこそ、ハリーは背中を預けて安心していられる戦友でないと一緒にいられない。 ハリーは何人もの友人たちに支えられてここまで生き延びた。 だが、ジニーではあまりにも役不足で、しかもハリーを英雄扱いした。 ハリーは例え、事実英雄であろうとも、そんな者にはなりたくなかった。 そのせいでいったい、どれ程の命が犠牲になったのかを考えると居たたまれなかった。 今のハリーには他人を守るという余裕は無く、ジニーを危険な目に合わすわけにもいかない。 さらにはロンでさえハリーを裏切れるという実績がある。今とは状況が違うかもしれないが。 そういう理由から『背中を預けれる』という人。 そんな相手は唯一人であり、今までハリーを信じ続けて常に傍にいてくれたハーマイオニーだけだった。 ハリーにはハーマイオニーしか選択する事ができず、だがしかし、彼女には多大な期待をかけられて将来を有望視されている才女だ。 ハリーは自分の我侭でハーマイオニーを巻き込めなかったし、恐らくロンが彼女を幸せにするだろうという確信があった。 ロンは彼女を心から愛する事が出来るのだから。 そしてハリーは、8年前に魔法界との全ての関係を断ち切り、名前を変え、戸籍を変えて新たな人生を歩みだした。 さまざまな所を転々としながらの逃亡生活をするうちにひょんな事から小説を書き上げ投稿した。 魔法界の突飛な知識のファンタジー小説は若者を中心に短いブームを発生させた。 そして、その一年後、ハーマイオニーはハリーと同じように何もかもを捨てて、追いかけてきた。 本好きの彼女らしいハリーの見つけ方だった。なんと。ハリーが書いた、あの本をハーマイオニーは読んだのだ。 そしてヴォルデモートの未だ暴かれていない秘密を校長室から見つけてきたとハーマイオニーは語った。 ダンブルドアがまだ話していないヴォルデモート。 それは確かにあるだろう。彼はいろんな場所に行ってさまざまな事を調べていたから。 ホークラックスに関係のないヴォルデモートも、もちろんあっただろう。 そんな事は当たり前の事だし不思議でも何でもない。 ダンブルドアは話すべき事をきちんと選択してハリーに見せてくれただけなのだから。 「んー。でもハリーは聞きたくないでしょ?だから私が持ってるね?」 ハリーの方を伺うように、微笑みながらハーマイオニーは首を傾げた。 「…僕、一生、ヴォルデモートの事なんて知りたくないって思ったままかもしれないよ?」 ヴォルデモートを許そう、理解しようという気には、一生ならない――自嘲気味にそう言ったが、ハーマイオニーは、微笑んだまま答えた。 「それでも、構わないじゃない」 「……」 「私は、それを話すことでハリーに変わって欲しい訳じゃないの。だってハリーは、ちゃんと人に優しくできるし、人を愛することもできるでしょ?…ハリーが変わらなきゃいけない部分なんて、ない。ハリーはもう、今のままのハリーで、十分よ」 ――全く…どうして、彼女は…。 駄目だ。彼女にだけは、本当に敵わない。完敗だ。 「…ハーマイオニーって、どうしてそう、僕の欲しい言葉ばっかりくれるかな」 ハリーは苦笑し、ハーマイオニーの小さな肩を引き寄せて、肩を抱くようにした。するとハーマイオニーは、くすっと笑った。 「それは、私のセリフよ。――ハリーは、いつだって、私が一番欲しい言葉をくれるもの。ハリーがいてくれて良かったって、いつも思う」 ハリーの肩にことん、と頭を預けると、ハーマイオニーは目を伏せた。 「だから、私――ハリーが今のハリーになった、っていう、ただそれだけで、ヴォルデモートに感謝できるわ」 その言葉に、心臓がドキン、と音を立てた。思わず、ハーマイオニーの顔を見下ろす。 ――救われた。そう、実感した。 ヴォルデモートがその手で、何度も葬り去ろうとした、命。数多の犠牲の上に成り立つ、この命。 いつも見えなかった、自分の命の価値――それが見えた気がする。 今までも、ハーマイオニーが何度も教えようとしてくれていたけれど、なかなか見えなかった。でも、やっと――やっと、見えた気がする。 ダンブルドアが言っていた『愛』より強いものは無いという事がやっと実感として理解できた。 ただ、疎まれ虐待された幼い日々。成長すれば今度は命を狙われる日々。その中でハーマイオニーの信頼だけが救いだった。 彼女だけが無償の愛を僕に降り注いでくれた。 「……じゃあ僕も、ほんの少しだけ、感謝しとこうかな」 ハリーもくすっと笑い、そう呟いた。 「生き残っていなければ、こうして、またハーマイオニーとも会えなかったんだもんね」 生き残ったからこそ味わった、痛み、苦しみ。でも、その中には喜びもあるし、自分の存在が誰かの救いになることもある。 そんな当たり前の事を、やっと実感できた。 常に傍にいてくれたハーマイオニーの言葉だから・・・だから信じる事ができた。 結局ハーマイオニーと別に歩む人生などハリーには無かったのだ。 いつでも傍にいてくれた。いつでも助けてくれた。いつも助けていた。 運命の力は全てハーマイオニーの方に向いていて、近くに居過ぎたから気付くのが遅れただけなのだ。 親友で、恋人で、パートナーで、戦友で。そんな奇跡のような相手に出会えた事が嬉しいとハリーは思った。 それから・・・元々マグルとして生活していたハリー達はうまく溶け込んだ。 小説が順調に売れたおかげで裕福に暮らす事ができている。 ヴォルデモートを倒してから4年−−生まれてきたハリー達の子はハーマイオニーが危惧した通りスクイブだった。 ハリーは純血とマグルの混血、そしてハーマイオニーはマグルだ。 この子供は血統で言えばクォーターという事になるだろうか。 ダンブルドアも言っていたが、ヴォルデモートのように魂を引き裂いても魔力や知力は衰えなかった。 そして血統を大事にする風潮から、やはり血にこそ魔力が宿るに違いない。 ハーマイオニーはマグル生まれであり、ハリーもハーマイオニーも、そういう魔法因子が少ないとハーマイオニーは思っていたらしいがその通りだった。 そうでなければ、混血は皆魔法使いになり、この世界は魔法使いだらけになっていたはずだから。 ハーマイオニーの両親は未だオーストリアから帰ってきていない。 記憶を戻していないからだ。どこからハリー達の事が漏れるか解らないから。 いつか会いにいきたいけど今じゃないとハーマイオニーは言ってる。 ハーマイオニーの両親は健在で仲良く過ごしているのは解っている。 闇の勢力がもっともっと少なくなれば迎えに行こうとハリーとハーマイオニーは話あっている。 魔法界と縁を切り、ハーマイオニーと暮らす内に、ハリーはとても穏やかな性格になった。 誰もハリーを知る者は無く、誰も英雄扱いせず、誰もハリーを毛嫌いする事も無く、そして。 −−−誰もハリーを殺そうとはしない。 ハリーも誰をも傷つけることはなく、平凡な幸せな毎日だけがそこに横たわっていた。 今までの不幸を拭い去るように幸せな日々を送っていた。 そして、この9年間、ハリーの額の傷は痛む事も無く。 全てがうまくいっている。 それから、子供には不思議な物語を話して聞かせてきた。不思議な不思議な物語を。 ハリーとハーマイオニーとの冒険を。 そして人の幸せはお金でも魔法の有る無しでもなく、人と出会い、解り合う事こそが幸せなのだと知って欲しいと願っている。 皆と解り合い、争う事の無い世界がいかに幸福かを知って欲しいと思う。 ・・・・・・ 黄色いスクールバスに乗り込む隣の家の男の子を恨めしげに睨むふわふわの栗毛の女の子がいる。 女の子はしっかりと父親の腕をつかんでいた。 ......ハリーの腕を。 「もうすぐだよ。お前も行けるから」 ハリーが女の子に声をかけた。 「1年も先じゃない。私は今行きたいのっ!」 「ジョアン?貴女の年じゃまだ行けないわ」 ハーマイオニーは困ったように娘の頭を撫でた。 ハリーは娘を抱き上げキスを頬に落とすと、娘に笑いかけた。 「またパパがマジックを見せてあげるから」 その言葉を聴いたハーマイオニーはくるりと振り返ると恐ろしい形相でハリーを睨み付けた。 「・・・ハーリーィー?」 「逃げろっ!」 「こらっ!!待ちなさいっ!!」 女の子はこれから大きくなり、マグルの全寮制の学校に旅立つ日が来るだろう。 友と出会い、語らい、そして知識を増やすだろう。 かつての私達と同じように。 愛しい娘。ジョアン・キャスリーン・ローリング。 いつでも君を想っているよ。 ハリー・J・ローリング ハーマイオニー・J・ローリング The END