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11代斎院 恭子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
きょうし たかこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:醍醐天皇(885-930)
母:更衣藤原鮮子<従五位上>
  (915没)
延喜2年(902) 延喜15年(915)11月8日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
醍醐(897~930,父) 卜定:延喜3年(903)2月19日
初斎院:不明
本院:延喜5年(905)4月18日
退下:延喜15年(915)5月4日
母死去
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
柔子(959没,叔母)
 [六条斎宮]
 父:宇多天皇
 母:女御藤原胤子
卜定:寛平9年(897)8月13日
初斎院:昌泰元年(898)4月25日
野宮:昌泰元年(898)8月22日
群行:昌泰2年(899)9月8日
退下:延長8年(930)9月22日
天皇譲位

略歴:
 延喜3年(903)(2歳)2月17日、内親王宣下。(異母姉宣子内親王と同時)


2月19日、斎院に卜定。
 延喜5年(905)(4歳)4月18日、野宮(本院)に入る。
 延喜15年(915)(14歳)春(1~3月)着裳?


4月30日、母藤原鮮子卒去。


5月4日、母の喪により退下。


11月8日、薨去。

同母弟妹:代明親王(904-937,三品中務卿)
     婉子内親王(904?-969,14代斎院)
     敏子内親王(906-?)

醍醐天皇第三皇女。
 母藤原鮮子は、醍醐天皇の従姉妹。(祖母源礼子が光孝天皇皇女)
 12代宣子内親王、13代韶子内親王は異母姉妹。
 なお『一代要記』によれば同母妹の婉子は904年生まれ、敏子は906年生まれだが、同母兄弟代明の生年や姉妹の順等から不正確な可能性が高いと思われる。

          ┌──────┐
          |      |
  仁明天皇===藤原沢子   藤原直道
       |         |
       |         |
      光孝天皇       |
       |         |
    ┌──┴────┐    |
    |       |    |
   宇多天皇    源礼子===連永
    |          |
  ┌─┴──┐       |
  |    |       |
  柔子  醍醐天皇=====鮮子
  (斎宮)        |
       ┌────┤
       |    |
      ◆恭子   婉子

『貫之集』の詞書に「延喜十五年の春斎院の御屏風の和歌内の仰せによりて奉る」とある。当時の賀茂斎院は恭子内親王(14歳)であった。
 延喜十四年に女一宮(勧子内親王・16歳?)、同十八年に女四のみこ(勤子内親王?・15歳)の裳着の屏風歌がやはり貫之により詠まれており、また年齢から見て、延喜十五年の屏風歌も恭子の裳着に際してのものであった可能性が考えられる。





醍醐天皇
史料 年月日 記述
日本紀略 延喜3年2月17日 【皇女恭子、内親王宣下】
 以今上第二皇女宣子。第三恭子爲内親王。
日本紀略
西宮記
北山抄
中右記
延喜3年2月19日 【恭子内親王、斎院卜定】
『日本紀略』
 卜定賀茂齋院。恭子内親王卜食云々。

『西宮記』
 二月十九日、卜定恭子内親王為斎院。廿日、遣参議湛朝臣賀茂社頭告新斎院事。

『北山抄』
 左大臣両度令卜、初度丙合、後度乙合、
洗礼以続飯封、此般用刀、以乙合親王定之、
左中弁当時(源)為勅使、明日発使、令申彼社、

『中右記』(大治2年4月6日)
 今日依可有准后並斎院卜定、午時許参内、(中略)
二歳斎院卜定例、延喜御時恭子内親王例云々。
醍醐天皇御記
(年中行事秘抄/賀茂祭)
延喜4年4月27日 【斎院御禊】
 賀茂祭御禊也。
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜4年 【斎院(恭子)月事により相嘗祭停止】
 依有斎王(恭子)月事、相嘗祭停止。是依神祇官定申。准斎宮例祓、謝事由停祭云々。
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜5年4月10日 【斎院(恭子)初斎院御禊日時を定める】
 左大臣(藤原時平)令奏上陰陽寮勘申斎院(恭子)御禊日云々、定十八日、
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜5年4月18日 【中納言、穢れのため初斎院御禊に支障】
 中納言藤原朝臣(有穂)令奏斎院(恭子)御前参議有障、不可奉仕、令勘先例、元慶無公卿御前、寛平納言一人、参議二人、或不如本数、令仰云、前例或有不満数、雖不足何事之有也、
醍醐天皇御記
(西宮記/臨時五斎院)
延喜5年4月18日 【斎院(恭子)初斎院御禊】
 恭子内親王禊鴨河入野宮、中納言源朝臣(貞恒)等、自宮内令蔵人俊胤奏、前日定御前時、差次第使云々、
此度事大於令禊、何無次第使、問例、前少弐恒澤申云、
寛平初斎院御禊、不差次第使、彼時別召五位六位各二人階下、被仰供奉、恒澤其一人也云々、故令奏、兼召左馬助俊蔭、右馬允助光、仰可供奉次第使由云々、
貞信公記 延喜7年4月8日 【左大臣(藤原時平)、斎院恭子を慰問】
 灌仏事如常、此日左閤(藤原時平)参給、令奏斎院(恭子)御前、
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
延喜7年4月14日 【斎院御禊女騎】
 年来例、斎院女騎以左右馬寮調度借[備]給。而右馬寮有穢。因令仰左馬寮、召女騎寮覧[馬]。又左右大臣・左衛門督等、進女騎料馬。此中選定公卿等馬。先日所仰也。
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
延喜7年4月15日 【内侍藤原長子、病のため御禊に不参加】
 召男女使飾馬、覧此云々。使内侍藤原長子、令申依病不得騎馬状、不許云々。
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
延喜7年4月16日 【斎院長官平希世に、斎院恭子の病状を尋ねさせる】
 祭使命婦清原信子復命。自餘等未奏。使[平]希世令問斎院親王(恭子)所悩之。
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
延喜8年4月17日 【斎院御禊所で死者】
 左大臣(藤原時平)令外記春正申云、斎院(恭子)禊所、木工寮工暴死云々。
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
延喜8年4月18日  道明朝臣細奏装束所死穢状云々。仰、穢所在幕外、无限川原。限何處為穢、以為不可穢。中臣禊有視聴穢詞、雖不為穢、宜避其詞。又令替近邊幄幕等云々。
一代要記 延喜9年3月18日 【源礼子(斎院恭子の外祖母)薨去】
 光孝天皇皇女 礼子
配伊予介(藤原)連永朝臣、延喜九年三月十八日薨
醍醐天皇御記
(西宮記裏書
四月賀茂祭事)
延喜9年3月22日 【外祖母の服喪により、斎院恭子の賀茂祭参加の是非を検討】
 高階朝臣申云、斎院(恭子)供奉祭日進止如何。<軽服。>仰外記令勘先例。外記春正申云、國史・日記等无所見。案令・式文、親王有服云々。然則齋王(恭子)不可参祭也。
又召神祇大少副・蔵人所問之。申云、斎宮不忌軽服。准此則可参祭。又令公卿等定申云々。准斎宮例、参祭无妨云々。依公卿定可参祭事、仰高階朝臣了。
醍醐天皇御記
(九暦)
延喜14年11月11日 【斎院(恭子)月事により、相嘗祭を停止】
『九暦』(承平6年11月6日)
 引勘先帝御日記、去延喜十四年御日記云、
依有斎王(恭子)月事相當[嘗]祭停止、是依神祇官定申、准斎宮例秡謝事由停祭云々、准彼例、可止之由、仰興平了者、
貫之集
躬恒集
延喜15年春
(閏2月25日?)
【斎院(恭子)屏風歌(裳着?)】
『貫之集』
 延喜十五年の春斎院(恭子)の御屏風の和歌内(醍醐天皇)の仰せによりて奉る
 女ども瀧のほとりに到りてあるは流れおつる花を見あるは手をひたして水に遊べる春
(59)春くれば瀧の白糸いかなれば結べ共猶泡にとくらむ
 女なども山寺に詣でしたる
(60)思うふことありてこそ行け春霞道さまたげに立ち渡る哉
 人の木のもとに休みて川ごしに櫻の花を見たる
(61)遠方の花も見るべく白波の共にやわれは立渡らまし
 道行く人の歸る雁の渡るを見たる所
(62)妬き事歸るさならば雁音をかつ聞つゝぞ我は行まし
 女柳の枝をひかへて立てり
(63)花見にも行べき物を青柳の糸手に懸て今日は暮しつ
 人の家に櫻の花を見たる
(64)我宿の物なり乍ら櫻花散るをばえこそ留めざりけれ
 池のほとりに藤の花松にかゝれる
(65)緑なる松に懸れる藤なれど己が頃ぞと花は咲きける

『躬恒集』
 同じ十五年斎院(恭子)の御屏風の歌、春
(90)香をとめて誰折ざらむ梅の花あやなし霞立な隠しそ
(91)降雪に色は紛ひぬ梅花かにこそ似たる物なかりけれ
日本紀略 延喜15年4月16日 【斎院(恭子)御禊】
 齋院(恭子)御禊如常。
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
延喜15年4月18日 【斎院恭子、月事により賀茂祭に不参加を決定】
 斎院長官(平)希世、申斎内親王(恭子)自昨有月事。仰外記令検先例、無所見。
召神祇大副安則、問斎宮例。申云、於離宮有月事、不参外宮。於外宮有月事、不参内宮。但所備幣物、宮主・所司等、持至河邊、祓其由棄之。斎院事、非神祇官之所知之云々。
仰希世、斎院参社事、宜停止。只於院令祓停止由。又所設幣物、依斎宮例、院司・宮主等、相共於川邊、令祓棄之。
醍醐天皇御記
(西宮記/四月賀茂祭事)
日本紀略
延喜15年4月19日 【賀茂祭。斎院(恭子)は不参加】
『西宮記』
 祭如常云々。只斎王(恭子)不参社頭云々。
午剋、使等令申向社之由。覧使等餝馬従者了、命婦・蔵人・●司等、召南廊給禄。<典侍於陣外令申参由>
未一刻、出南殿拝賀茂大神、申斎王不参状、兼祈平安。

『日本紀略』
 賀茂祭。齋院(恭子)不共奉。依月事也。

●=闈(門がまえ+韋。こちらを参照(字源))
日本紀略
扶桑略記
延喜15年4月30日 【更衣藤原鮮子(斎院恭子の母)卒去】
『日本紀略』
 更衣從五位上藤原朝臣鮮子卒。<伊與介連永女。>賀茂齋院恭子内親王之母也。

『扶桑略記』
 更衣従五位上藤原朝臣鮮子卒、是斎内親王母也、
日本紀略 延喜15年5月4日 【斎院恭子、母の喪により退出】
 賀茂齋院恭子内親王依母喪出本院。遷坐葛井宮。
日本紀略 延喜15年11月8日 【前斎院恭子内親王薨去】
 辰時。前齋院恭子内親王薨。<今上(醍醐)皇女。>
日本紀略 延喜15年11月14日 【恭子内親王薨去を奏上、賻物(葬祭料)他を支給】
 奏恭子内親王薨由。賻物之外別給大藏省絹布。穀倉院米等。



史料 記述
一代要記
醍醐天皇
(斎院)
恭子内親王<帝二女、延木三ー二月十七日爲親王、同日卜定、同十五ー五月遭母喪退出、同ー十一月八日薨、>
(皇女)
恭子内親王<賀茂齊、>
帝王編年記
醍醐天皇
(皇女)
<第三>
恭子〃〃〃[内親王]<賀茂/齋院>
(齋院)
恭子〃〃〃[内親王]<帝第三/皇女>
本朝皇胤紹運録
(醍醐天皇子)
(313)恭子内親王[齋院。母同代明(更衣藤鮮子。伊予介連永女)]
賀茂斎院記
恭子内親王
醍醐天皇第■皇女也。
母更衣鮮子。伊予介連永之女也。
延喜三年二月十九日卜定。
十五年四月三十日鮮子卒。五月四日恭子依母喪出本院、遷居葛井宮。
十一月八日恭子薨。賻物之外別給絹布。
本朝女后名字抄
恭子内親王 延喜三年卜定、醍醐天皇第十九御女、母更衣鮮子


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