石原プロモーション(以下、石原プロ)が、2021年1月に解散することが発表された。
石原プロは、日活の専属だった石原裕次郎(享年52)が、自由な映画製作をするべく63年に設立した、映画製作と俳優のマネジメントを行う会社である。
長年にわたり、石原プロを取材してきた芸能リポーターの城下尊之氏は語る。
「代表取締役会長の裕次郎夫人・まき子さん(87)、相談役取締役・渡哲也さん(78)たちの高齢と健康上の問題が、解散の理由です。実は、11年の渡さんの社長退任時に、石原プロそのものを解散する話もあったんですが、そのときは『石原裕次郎記念館』(17年閉館)の運営もあり、存続させました。渡さん的には、まき子さんをできるだけ支えていきたい思いもあったようですが、今年、ついに決断されたようです。裕次郎さんが亡くなってからの33年間、よくぞ続けてきたと、関係者は皆、思っていますが、渡さん的には、途中まで話が進んでいた裕次郎追悼映画が実現できなかったことが心残りかもしれません」
『週刊大衆』では、石原軍団の解散を惜しみつつ、伝説の数々を振り返ってみたい。
63年、俳優兼映画プロデューサー兼芸能プロ社長として歩み出した裕次郎はまだ、28歳の若さだった。
「68年には、同じく独立プロを興した東宝出身の三船敏郎と初タッグを組んで、大作映画『黒部の太陽』を大ヒットさせます」(映画雑誌編集者)
続いて、大規模な海外ロケもあった次作『栄光への5000キロ』(69年)もヒット作に。石原プロは順風満帆に見えたが……。
「次の『ある兵士の賭け』(70年)が失敗。大作指向が仇となり、石原プロは一転して多額の借金を背負うことになりました」(前同)
このピンチに駆けつけたのが渡哲也だった。偶然、裕次郎と同じ12月28日生まれで7歳下の渡は、64年に日活に入った。
「新人時代の渡さんは、撮影所の食堂で食事をしていた大スター・裕次郎さんに挨拶に行った。このとき、裕次郎さんは立ち上がって“君が新人の渡君ですか、頑張ってくださいね”と、自ら手を差し出した。以来、渡さんにとって裕次郎さんは特別な存在となります」(当時の映画関係者)
約5年がたち、日活のスター俳優に成長した渡は、裕次郎の苦境を耳にして、居ても立ってもいられなくなったのだ。
「渡さんが、“社員の皆さんのお茶代にでも使ってください”と当時の全財産だった現金を裕次郎さんに差し出し、石原プロ入社を申し出たという話は伝説化しています」(前同)
石原プロに移籍した渡は自社作品に限らず多くの作品に出演し、身を粉にして働いた。だが、渡には、俳優として葛藤もあった。
「東映から、“ポスト高倉健”として熱烈なラブコールを受けていたんです」(前出の編集者)
確かに、東映作品のカラーは、渡の俳優としての個性にマッチする。
「『仁義なき戦い』(73年)で菅原文太が演じた役は、渡の起用が想定されていました。心は揺れたようですが、結局、渡は『仁義の墓場』(75年)など東映作品2本に出演するも、石原プロに留まった」(前同)