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NHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」70年にわたり戦後政治の表と裏を目の当たりに…
2020/08/09 22:14
出典:『NHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」』の番組情報(EPGから引用)
2020/08/09(日) 21:00:00 ~ 2020/08/09(日) 22:13:00
NHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」[字]
読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄氏(94)への独占インタビューが実現した。戦争との距離感の中、戦後日本はどう形成されたのか。証言ドキュメントで立体的にひも解く
番組内容
70年にわたり戦後政治の表と裏を目の当たりにしてきた読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄氏、94歳。今回、映像メディアによる初めてのロングインタビューが実現した。証言から浮かび上がるのは、歴代首相の“戦争体験”が、戦後日本に与えた影響である。戦争の記憶が薄れゆく戦後75年目の日本。戦後日本が戦争とのどのような距離感の中で形作られ、現在に何をもたらしているのか。渡辺氏の独占告白から立体的にひも解く。
出演者
【出演】読売新聞グループ本社主筆…渡辺恒雄,作家…保阪正康,東京大学名誉教授…御厨貴,【リポーター】大越健介,【語り】加賀美幸子
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『NHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?
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去年 5年ぶりに
セ・リーグの王座を奪還した
読売ジャイアンツ。
優勝祝賀会の映像である。
ファンの皆様 大きな力を与えて頂き…。
その中で 最も注目を集めたのは
読売新聞グループのトップ
渡辺恒雄の弁舌だった。
よろしくお願いいたします。
(拍手)
やあ どうも。
お願いします。
よろしくお願いいたします。 どっち?
こちらの方に…。
1950年 昭和25年に記者になって以来
70年にわたって
戦後政治を見続けてきた渡辺。
今回 初めて 映像メディアの
ロングインタビューに応じた。
次々に明かされる…
その語り口は
94歳の今も健在だ。
吉田 茂の総理番を振り出しに
時の権力者と 常に密接な関係にあり
保守の論客としても 戦後日本に
大きな影響を与え続けてきた渡辺。
強烈な個性ゆえか その行動や発言は
物議を醸すこともあった。
その渡辺が
インタビューで繰り返し語ったのは
自らの戦争体験
そして 戦争と戦後政治との
関わりだった。
戦前 破滅へと突き進んだ日本は
戦後をどのようにして
作り上げていったのか。
終戦直後から 現在に至るまで
日本政治の表も裏も知る
最後の人物 渡辺恒雄。
独占告白を通じて
戦後日本の自画像を探る。
?~
東京・大手町に本社を置く
読売新聞グループ。
かすかに緊張を覚えながら
そのトップの部屋を訪ねました。
お邪魔いたします。
ああ。
30年近くにわたり グループを率いてきた
渡辺恒雄さんです。
改めまして よろしくお願いいたします。
ああ どうも どうも。
94歳の今もなお
記者たちの頂点に立つ 主筆の座にあり
社論や経営方針を
自ら指示しています。
よいしょ。
渡辺さん自ら
部屋を案内してくれました。
そこには 波乱の人生を象徴する
数々の品が置かれていました。
見えます 見えます。
これ 暴漢が来た時のものですか?
渡辺さんは 世界最大の発行部数を誇る
新聞社トップの影響力を背景に
歴代政権にも深く関与してきました。
こちらは 安倍さんですね。
終戦直後から 政治の中枢の間近で
その舞台裏を目撃し続けているのは
今 渡辺さんのほかには 一人もいません。
戦後75年を迎えた 今だからこそ
渡辺恒雄が知る 日本の戦後の歩みを
再確認すべきと思いました。
インタビュー初日。
席に座った直後
渡辺恒雄が おもむろに取り出したのは
古びた岩波文庫だった。
戦時中 軍隊に召集された際に
ひそかに持ち込んだ本だという。
冒頭 渡辺が熱を込めて語り始めたのが
自らの人生を決定づけた
戦争体験だった。
1926年 大正15年に
東京で生まれた渡辺。
(砲撃音)
満州事変が勃発し
日本が国際連盟を脱退するなど
戦争の足音が近づく時代に
幼少期を過ごした。
(爆発音)
11歳の時には
日中戦争が始まった。
国民の多くが
日本軍の攻勢に熱狂する中で
少年 渡辺は
軍国主義に対する反発を強めていった。
?~
およそ10万の学生が
学徒出陣したとされる 日本の戦争。
渡辺も 召集を免れることはできないと
諦念を抱えていたという。
そんな渡辺が
生きる意味を求めたのが 哲学だった。
当時 読みふけった哲学書は
今も傍らに置いている。
ドイツの哲学者 カントの「実践理性批判」。
その一節を胸に
死が間際に迫る戦争の不条理と
対峙しようとしていたという。
戦争末期の1945年4月
渡辺は
東京帝国大学 文学部哲学科に入学した。
しかし 僅か2か月後 召集令状が届く。
学徒出陣だった。
これが あれだよ。
入隊の前夜
渡辺は 自宅に後輩たちを集め
ある音楽を聴いた。
渡辺は 自らの葬儀の際に
流す音楽を決めている。
忘れられない その曲は
当然 リストに入っている。
チャイコフスキーの
交響曲第6番「悲愴」。
渡辺が入隊したのは
東京・三宿の陸軍砲兵連隊。
米軍が本土に上陸してきた時
砲弾で迎撃する任務だった。
二等兵として入隊した渡辺は
理不尽な仕打ちに直面する。
渡辺は 陸軍の内実なき精神主義に
戦前日本の病理を見たという。
(玉音放送)
「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び」。
1945年8月15日。
アジアや太平洋諸国に 深い傷を残し
日本人だけで 310万人が
命を落とした戦争が 終わった。
軍部が政治の実権を握り
政治家や官僚が それに迎合し
戦争に突き進んだ戦前の日本。
渡辺は 政治の過ちが
個人や国家の命運を
大きく変えてしまうことを
痛感したという。
渡辺は 読売新聞のトップとして
憲法改正試案を紙面に発表するなど
保守論客としても知られる。
一方で 2005年 79歳の時には
1年にわたる大型連載で
日本の戦争責任を徹底的に検証した。
その際 昭和史研究の第一人者として
渡辺に助言を行った
作家の保阪正康。
戦争の痛烈な記憶を持つ
言論人 渡辺に
近年の保守論壇とは
一線を画すものを感じたという。
?~(「リンゴの唄」)
焦土と化した国土の中で
政治 社会体制を一変しようとする
機運に満ちていた終戦直後の日本。
東大に復学した渡辺が
論壇誌につづった文章が見つかった。
渡辺は 戦争と軍隊への憎悪から
体制の抜本改革が必要だと考え
日本共産党に入党する。
しかし 渡辺は 次第に
個人よりも組織を重視するように見えた
党本部と激しく対立。
除名処分を受ける。
しかし 共産党での
激しい抗争の経験から
後の渡辺の歩みに影響を与える
権力掌握術を体得したという。
1950年 渡辺は東京大学大学院を中退し
読売新聞社に入社する。
いまだ GHQ 連合国軍総司令部による
占領政策が行われていた時代だった。
軍人や政治指導者の多くが
公職から追放されていた。
その中には
戦前に閣僚を務めた鳩山一郎や
岸 信介らの名前もあった。
一方 戦前の政治指導者と
入れ代わるように
権勢を誇ったのが
吉田 茂だった。
太平洋戦争の開戦前
日独防共協定に反対し
軍部と対立した吉田。
戦争末期には 極秘に終戦工作を行い
憲兵隊に逮捕された過去を持っていた。
サンフランシスコ講和条約の1年後
渡辺は その吉田の総理番として
政治記者のキャリアを踏み出した。
渡辺は 政治家が あの戦争と
どのような関わりがあったのかを
記者としての
一つの座標軸にしていたという。
そんな渡辺が 最初に懐に飛び込み
親しくなったのは
公職追放解除で
政界復帰した鳩山一郎だった。
その当時は
吉田と対立し 冷遇されていた。
大正デモクラシーの時代に
政治家となった鳩山は
反軍部を掲げ
東條英機と対立。
終戦時には蟄居生活を
強いられていた。
鳩山の戦前からのキャリアに
好感を抱いていた渡辺は
足しげく自宅に通った。
ただ そこには もう一つの
思惑も秘められていた。
そして 終戦から10年がたった 1955年。
戦後日本の方向性を決定づける
地殻変動が生じる。
(一同)万歳! 万歳!
吉田が率いていた自由党と
鳩山が率いていた日本民主党の
2つの保守勢力が合同し 現在に連なる
自由民主党が誕生したのだ。
自民党は 「文化的民主国家の完成」
「平和と自由を
希求する
人類普遍の
正義」を
綱領に掲げた。
その自民党で
戦前の力を回復させていったのが
公職追放解除で政界に復帰していた
岸 信介だった。
岸が終戦直後 恩師に宛てた
戦争について詠んだ
和歌が見つかった。
開戦時
東條内閣の閣僚で
戦争指導者の
一人だった岸。
戦前 反軍的な立場だった
吉田や鳩山とは異なるキャリアだった。
渡辺は 当時の党内の空気を
鮮明に記憶していた。
権力の所在に左右される
政治家たちの立ち居振る舞いを
かいま見た渡辺。
そして その岸が立候補した
1956年の自民党総裁選挙で
カネと数が ものをいう
政治の側面を目撃する。
一方で 平和国家という
高邁な理想を掲げながら
他方で 生き馬の目を抜く権力闘争を行う
戦後政治の世界に
渡辺は のめり込んでいった。
それはそうだね。
総理の座に就いた岸が
政権最大の課題として取り組んだのが
日米安全保障条約の改定だった。
戦前は 反米の立場だった岸だが
日米関係を強化することが
戦後日本の現実的な選択だと考えていた。
しかし 条約の国会承認を巡り
反対運動である安保闘争が激化する。
戦争の記憶が まだ生々しかった時代
反対運動は 空前の広がりを見せた。
最大の課題として掲げた
安保改定を実現させたものの
退陣を余儀なくされた岸。
池田先生 万歳!
岸のあとを継いだのは
軽武装・経済優先路線をとった
吉田 茂に連なる池田勇人だった。
?~(「上を向いて歩こう」)
終戦から15年。
日本は 安保改定や憲法改正を問う
政治の季節から
豊かさを追い求める経済の季節に
移行しようとしていた。
そこには 所得倍増を掲げ
高度成長の中心的な役割を担った
池田の戦争体験があった。
戦時中 大蔵官僚だった池田は
主税局国税課長として
軍事予算の捻出に奔走。
終戦直後に その責任を感じ
辞表を提出した過去があった。
オーラルヒストリーの手法で
渡辺と 戦後政治の関わりを
著作にまとめたこともある
東京大学名誉教授の御厨 貴。
池田以降の
経済に重心を置いた国家運営は
戦前へのアンチテーゼだと指摘する。
岸や池田が
総理大臣を務めていた頃の自民党。
“八個師団"と呼ばれる
派閥が
生殺与奪の権を巡って
激しく競い合っていた。
渡辺は
政界の父として慕っていた実力者が
激しい抗争の中で裏切られ
敗れていく様に 政治の非情さを見た。
浪花節のような言葉が
豪快な筆致でつづられた掛け軸。
この書を渡辺に贈ったのは 大野伴睦。
衆議院議長などを務めた重鎮で
40名以上を擁する有力派閥の領袖だった。
渡辺は 大野の懐刀として
派閥内の人事案の作成や
ほかの派閥トップとの折衝など
政治記者の枠を超え始めていく。
国際派の記者として
NHKの「ニュースセンター9時」の
キャスターを務めた磯村尚徳。
こんばんは。
パリ駐在の海外特派員から
突然 政治部の
大野派担当となった磯村は
渡辺の影響力に圧倒されたという。
渡辺が目の当たりにした
戦後政治家の権謀術数。
時は 岸が総理だった時代に遡る。
これは 渡辺自身が撮影した
岸の後任を記した密約書である。
難航していた
安保改定への協力の見返りに
岸が 3人の派閥領袖たちと
交わしたものだ。
密約書には 岸の次には大野伴睦
次いで 河野一郎 佐藤栄作の順で
総理大臣になると書かれていた。
立会人として 密約の原書を持っていた
児玉誉士夫。
戦前 軍の特務機関に身を置き
大陸で 巨額の資金を調達した児玉。
戦後は フィクサーとして
大野など 自民党の有力政治家と
緊密な関係を持っていた。
しかし 岸退陣後の自民党総裁選挙で
密約は無きものにされる。
結局 大野は 総裁選への立候補を
断念せざるをえなかった。
たまたま。
大野は 副総裁として
党への影響力を残すことで
この後 戦後外交に一役買うことになる。
池田総理の誕生とともに
経済成長を軌道に乗せた 1960年代の日本。
大きな外交課題は
アジア諸国との戦後処理問題だった。
その中でも最大の課題だったのが
韓国との国交正常化だった。
日本は 1910年に韓国を併合。
以来 36年間にわたって
植民地支配を行った。
戦時中は 内鮮一体の名のもと
多くの朝鮮半島出身者が
戦場に駆り出された。
補償の在り方などを巡って
10年以上にわたって
難航していた日韓交渉。
1962年 渡辺は 交渉内容を巡って
スクープを放つ。
そのスクープは
外務大臣の大平正芳と
韓国軍事政権
ナンバーツーだった 金鐘泌の
極秘交渉についてだった。
このスクープは 渡辺が 度重なる接触で
信頼関係を築いていた金鐘泌から
直接 情報を得たものだった。
渡辺は この金鐘泌と ある人物を
引き合わせたことをきっかけに
取材者としてだけでなく
当事者としても交渉に関与していく。
渡辺が金に引き合わせたのは
密約を反故にされたものの
副総裁として
党内に強い影響力を残していた
大野伴睦。
大野は 自民党内に多く存在した
韓国との交渉消極派の筆頭だった。
どうぞよろしくお願いします。
当時 渡辺と共に
外務省記者クラブに籍を置いていた
毎日新聞の西山太吉。
韓国訪問を決めた
大野のスケジュールや同行者を
差配していたのは 渡辺だったという。
外務省の正式ルートに加え
自民党副総裁を基軸とした
韓国側との もう1つの交渉ルートが
生まれていった。
渡辺の動きは 韓国中央情報部に
マークされるほどのものだった。
軍隊での過酷な経験から
政治家と戦争との距離感を測ることで
記者の道を歩んできた渡辺。
国の方向性をも左右する政策に
当事者として関与するようになっていく。
そして 大平と金の合意から3年。
条約文書を巡る 外交当局同士の
激しいやり取りを経て
ついに 日韓基本条約が結ばれた。
?~(「世界の国からこんにちは」)
高度成長期を経て
GNPが世界第2位となり
経済大国と称されるようになった
1970年代の日本。
戦後生まれが現役世代となり
戦争の記憶が
少しずつ薄れ始めた時代だった。
渡辺は 取材現場を離れ
政治部長などを務めていたが
歴代の政権とは
変わらず昵懇な関係を築いていた。
その中でも 盟友関係を結んだのが
去年 101歳で亡くなった
中曽根康弘元総理大臣だった。
2人は 戦争の記憶が まだ鮮明な
1956年 昭和31年に出会った。
去年から公開が始まった中曽根の資料。
その中に
GHQのマッカーサーの占領政策を
批判する建白書があった。
?「自由と民主平和をば」
当時 中曽根は
憲法改正を強硬に主張するなど
自民党の最右派として 名をはせていた。
当初は 中曽根の思想信条に
好感を持っていなかったという渡辺だが
生真面目な政治姿勢に
徐々に惹かれていった。
そして 1950年代から
総理大臣の座を見据えて
行動を共にするようになった。
その中曽根の総理就任に
決定的な役割を果たしたのが
自民党の最大派閥を率い
闇将軍 キングメーカーと
呼ばれていた
田中角栄だった。
同い年で当選同期ながら
出自や経歴の全く異なる田中と中曽根。
しかし 2人には共通点があった。
共に 戦場の最前線で
戦争の現実に直面していたのである。
田中角栄の 知られざる戦場での姿を
記録した写真が
戦友の自宅で見つかった。
1939年 陸軍二等兵として満州に渡った
当時19歳だった田中。
その直後に ノモンハン事件が起き
出撃した同僚の古参兵の多くが
命を落とした。
その2年後 病気で除隊となった田中は
周囲には ほとんど
戦争体験を語らなかったという。
総理大臣として
日中国交正常化を実現させる半年前
田中は 国会で
自身の戦争観を初めて語った。
1982年 田中角栄の支援を得て
渡辺の盟友 中曽根は
ついに総理の座に就く。
総理大臣に任命することに決しました。
(拍手)
若い頃からのタカ派的な発言に
世論の中には
警戒する声も少なくなかった。
しかし 就任してすぐに
持論である憲法改正を封印するなど
中曽根は 現実的な政権運営を行っていく。
中曽根には
田中以上に壮絶な戦場体験があった。
東京帝国大学を卒業後すぐに召集され
海軍主計中尉として
東南アジア方面を転戦した中曽根。
開戦のひとつき余り後
アメリカとオランダの駆逐艦に遭遇し
激しい戦闘となった。
(砲撃音)
阿鼻叫喚の地獄図と
自ら振り返る この戦闘で
中曽根は多くの戦友を目の前で失い
23人の仲間を自らの手で荼毘に付した。
中曽根が戦場で経験したのは
一度策定された作戦に拘泥する
軍の官僚主義による失敗だった。
戦争の最前線に立たされた
中曽根や田中
そして 渡辺ら 大正生まれの世代。
およそ7人に1人
200万人が戦死したといわれ
死者が突出して多い世代だった。
歴代総理大臣の中でも
過酷な戦争体験を持っていた中曽根。
強い意欲を示したのが
後に近隣諸国に
大きな波紋を呼ぶことになる
靖国神社公式参拝だった。
靖国神社には 戦死した海軍士官の弟が
英霊として祀られていた。
1978年に 靖国神社に
A級戦犯が合祀されて以降
昭和天皇は 側近に
不快感を示していたとされ
参拝を取りやめていた。
渡辺は 中曽根の遺族感情に
理解を示しながらも
総理大臣が公式参拝するのは
問題があると助言していた。
しかし 中曽根は 1985年の終戦の日
戦後の総理大臣として初めて
公式参拝に踏み切る。
一方で 中曽根は これ以後
靖国神社への公式参拝を
繰り返すことはなかった。
その理由は 信頼関係を築いていた
中国共産党トップとの
関係を配慮したことだった。
中曽根は 戦争を経験した
戦後の歴代総理大臣同様に
自らの信条と現実の政策を
巧みに切り分けることができたという。
総理大臣として 時に
評価が分かれることもあった中曽根と
歩調を合わせた渡辺。
中曽根が5年に及ぶ長期政権を終えた後
渡辺は ついに 読売新聞社の社長の椅子に
座ることになった。
渡辺恒雄さんへの複数回にわたる
ロングインタビュー。
それは あの戦争と日本の戦後史を
渡辺さんに いざなわれる形で
追体験するかのようでした。
今 日本人の85% 国会議員は96%が
戦後生まれとなりました。
時間の経過によって 否応なく
戦争体験から遠ざかっていく日本。
2人の識者は
戦後の日本人が共有してきた
大切な価値観まで薄らいでいくことは
あってはならないと指摘します。
79歳の時 戦争責任を
1年間にわたって検証する
大型連載を主導した渡辺さんは
今なお 戦争を伝え続けることへの意欲を
失っていません。
渡辺さんへのインタビュー
そして 戦後日本をつくった
政治家の取材を通じて感じたのは
戦争という体験が
社会のあらゆる階層を結び
それが政治の現場でも
一つの安全弁として
機能していたということでした。
日本人の共通基盤としての戦争体験が
失われていく中で
社会を結び直すものがあるとすれば何か。
私たちは問い続けていかなければ
なりません。
?~
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