<戦後75年>週のはじめに考える ぐんぐんぐんぐん
2020年8月9日 07時42分
女性の年齢のことを云々(うんぬん)するのは少々はばかられるのですが、この方のそれは、いつでもすぐに思い出せてしまいます。
女優の吉永小百合さん。自ら、こうおっしゃっているからです。
「戦後と同い年」
インタビューさせてもらったのは十五年も前。ちょうど戦後六十年の、やっぱり夏でした。
当時の紙面で確かめると、例えばこんな発言をなさっています。
「憲法九条が私たちを守ってくれていると思うんですね。よその国からうらやましがられている。それを大事にしないっていうのは分からない」
「政治家のみなさんの中では、戦争への道が進んでいるように思えます。でも一般の人は、自分の子が戦争で死ぬことになるかもしれないって、そこまで考えているのかな、と。考えなきゃいけない時期だと思うんですけどね」
久しぶりに読んで、考えさせられたのは、あの時点で、既に、吉永さんが「戦争への道が進んでいる」などと、強い危機感を語っておられたことでした。
時の宰相は小泉純一郎氏。確かに、米国のイラク戦争を真っ先に支持し、自衛隊の海外派遣にも前のめりのタカ派政権でした。
だが、しかしです。あの時点では、まだ、この国には、きなくさい情報の隠蔽(いんぺい)に利用されかねない「特定秘密保護法」も、反戦運動など市民の自由な行動を縛る恐れもある「共謀罪」法もなかった。「集団的自衛権」は「保持しているが行使できない」とする歴代政権の解釈が生きていて、当然、同盟国の戦争に加わることを可能にする「安保関連法」も、また存在しなかったのです。
吉永さんの発言を読んではっとしたのは、その後の十五年、いや第二次安倍政権がスタートしてから八年の間に、いかに大股で、吉永さんが懸念した「戦争への道」が進められてきたのかを、改めて思い知らされたからです。
実は二年ほど前、小欄でこうした政権の動きを、日本は<じわじわじわじわ>と戦争へ近づいていると書いたことがあります。「平和主義は堅持」と言いながら、その実、大事な原則を次々変質させている。一気に目立つようにことを進めず、一つずつ、じわじわ進める手法に幻惑されたくない−との趣旨だったのですが、読者から「『じわじわ』の表現は悠長すぎる」といった、おしかりを頂戴したことを思い出します。「戦争への道」は確かに、この間、格段と進んでしまっている。むしろ<ぐんぐんぐんぐん>と書くべきだったのかもしれません。
◆崖っぷちへと誘うガイド
例えば、あなたがガイドで、観光客を連れてどこか景勝地の崖の上に行ったと想像してみてください。深く切れ落ちる断崖絶壁は、落ちたらひとたまりもない。縁に立って、少し足がふらつけばおしまい。おまけに足場は脆(もろ)い地質。そういう時、どうします? ガイドなら、客を崖っぷちにできるだけ近づけないようにするのが、当然でしょう。
戦争もきっと同じです。足がふらつかなかったとしても、足元が崩れるかもしれないのです。「戦争はしないから大丈夫」と言いつつ、じわ…もとい、ぐんぐん戦争に近づく道を進む政権とは、「落ちないから大丈夫」と崖っぷちの方へ客を促すガイドみたいなものではないでしょうか。
極言すれば、問題は実際に落ちるか落ちないか、でさえない。転落のリスクがある方へ国民を「近づける」。それ自体が、国民の安全に責任を持つ“案内役”としてあるまじき姿勢だと思うのです。
さらに、つい最近も…。自民党のミサイル防衛検討チームが「敵基地攻撃能力」の保有を求める提言を行い、首相は「新しい方向性を打ち出し、速やかに実行していく」と表明しました。要は、これまで日本が持たないことにしてきた、他国を攻撃する武力を持つという話。現実となれば、わが国安全保障の大原則「専守防衛」は溶解してしまいましょう。
提言を受けた首相の言葉がまたふるっていました。「国民の命と平和な暮らしを守り抜く」。ここでは、前にも書いたことを繰り返しておきます。戦争が最初から戦争の顔をしているとは限らない。ある時までは、平和の顔をしているかもしれない−。
◆悲劇を教訓とする道を
今のままの道を進んでいいとは思えません。戦後六十年の夏、東京のホテルでお会いしたあの時、吉永さんは少し風邪気味でした。
「あんなにたくさんの人が亡くなった戦争を経ているんですから、それを教訓にする道を進んでほしいと強く思いますね」
そうおっしゃった、ややかすれた声が今も耳朶(じだ)に残っています。
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