通州事件とは? 私は見たー佐々木テン氏の告白 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

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通州事件とは? 私は見たー佐々木テン氏の告白

 

 

 

昭和12年(1937年)7月29日、中国の通州というところで、日本人を標的にした残虐なテロ事件が起きました。

 

当時の通州は、昭和10年(1935年)から蒋介石国民党政権と分離した自治政権、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)を殷汝耕(いんじゅこう)が設立統治してました。そして、残虐なテロ事件はその自治政府の保安隊5、800名が起こしました。

 

その当時、通州に住んでいた、佐々木てん氏は事件の様子を目撃します。その記録は「天皇様が泣いてござった」のご著書に収録されていますので、引用させていただきます。

 

なお、以下の引用文は、勝手ながらR指定(未成年者禁止)とさせていただきます。

その内容が、あまりにも残虐だからです。

 

大人の方でも、そのメンタルケアについては自己責任でお願いします。途中で気分が悪くなりましたら、画面をすぐ閉じてください。

 

以下、引用始まり

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私は沈さんに従ってその年の3月に支那に渡りました。長い船旅でしたが、しばらく天津で仕事をしておりました。

 

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりました時に、沈さんが通州へいくというのです。

 

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて、支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私は沈さんに従って通州に行くことにしたのです。

 

それは昭和9年の初めごろだったのです。

沈さんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。

 

だから、買う人にとってはとても便利なんです。

沈に頼んでおけばなんでも手に入るということから、商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。

 

沈さんも北門のあたりまで行って、日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

 

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちは、沈さんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

 

この通州の町にはその当時、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)がありました。

これは殷汝耕(いん じょこう)さんという人が作った政府で、軍隊も一万人以上いたそうです。

 

そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も、日本人であるということに誇りを持っていたのです。

 

ところが、昭和11年の春も終わろうとしていた時、沈さんが私に、これから日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故かと尋ねますと、支那と日本は戦争をする、その時私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまり付き合ってはいけないと申すのです。

 

私は心の中に不満が一杯だったけど、沈さんに逆らうことはできません。

 

それが昭和11年の終わり頃になると、こうした支那人たちの日本に日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

 

それは、支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるようにに思われました。

 

そしてこの頃(昭和12年)になると、一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら、行進をするのです。

 

それが7月になると「日本皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

 

鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

 

昭和12年7月29日の朝、まだ辺りが薄暗い時でした。突然、私は沈さんに激しく起こされました。大変なことが起こったようだ。

 

早く外に出ようというので、私は風呂敷包み二つを持って外に飛び出しました。日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。8時をすぎて9時近くになって、銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心している時です。

 

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。

そのうち、誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。

 

何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

 

私は沈さんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

日本人居留区に近づくと何か一種異様な匂いがして来ました。

何か生臭い匂いがするのです。

血の匂いです。

 

沢山の支那人が道路の傍に立っております。

そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も混じっています。

 

いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち、日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。15歳から16歳と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引きだして来たのは、学生でした。

 

その娘さんは恐怖のため顔が引きつっております。

体はブルブルと震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫がネズミをとった時のような嬉しそうな顔をしておりました。

 

そして、その着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

 

すると、雪のように白い肌があらわになってまいりました。

娘さんが、何か一生懸命この学生に言っております。

 

しかし、学生はニヤニヤと笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。

 

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。

そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けて!」と叫びました。

 

とその時です。

 

一人の日本人の男性がパアッと飛び出してきました。

そしてこの娘さんの上に覆いかぶさるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったのでしょう。

 

すると、保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

 

何かグシャっと言うような音が聞こえたように思えます。

頭が破られたのです。

 

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。

保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。

 

保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーっと辺り一面に何かが飛び散りました。

 

恐らくこの男の脳漿(のうしょう)だったろうと思われます。

そして2、3人の兵隊と2、3人の学生がこの男の人の体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。

 

服が破れます。肌が出ます。血が流れます。そんなこと御構い無しに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうち保安隊の一人が、銃につけた剣で腹のあたりを突き刺しました。

 

血がパーっと飛び散ります。

その血は横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

 

腹を突き刺しただけではまだ、足らないと思ったのでしょうか?

今度は、胸のあたりを突き刺します。

また腹をつきます。

 

胸をつきます。

たくさんの支那人が見るけど「うーん」とも「わー」とも言いません。

 

ただ、見ているだけです。この屍体を3メートル程離れたところま

で、丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生たちは、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

 

この娘さんはすでに全裸になされております。

そして、恐怖のために動くことができないのです。

その娘さんのところまで来ると、下肢を大きく広げました。

 

そして凌辱を始めようとするのです。

これはもう人間のすることとは言えません。

ところが娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。

 

どうしても凌辱がうまくいかないのです。

すると三人ほどの学生が広げられるだけこの下肢を広げるのです。

そして保安隊が持っている銃を持って来て、その銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突っ込むのです。

 

何人もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声をだす人もおりません。

すると、ぎゃーと言う悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。

 

保安隊の兵隊がニタニタ笑いながら、この娘さんの陰部を抉り取っているのです。

 

私の身体はガタガタと音を立てるほど震えました。

この兵隊は今度は腹を縦に割くのです。

それから、剣で首を切り落としたのです。

 

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

 

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。

ほとんどの日本人はすでに殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がわーっと押し寄せていきます。

 

私も沈さんに抱き抱えられながらそちらに行って見ると、日本人の男の人たちが5、6名兵隊達の前に立たされています。

 

そして、一人また一人と日本人の男の人が連れられてきます。

十名程になったかと思うと兵隊達が針金を持ってきて、右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

 

そうして、今度は銃につける剣を取り出すと、その男の人の掌をグサッと突き刺して、穴を開けようとするのです。

悪魔でもこんな無残なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊達はそれ平気でやるのです。

 

集められた十人ほどの日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。

そして60歳を超えたと思われる老人もいるのです。

 

この10名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉り取った学生や兵隊たちは、今度は大きな針金を持ってきてその掌の中を通すのです。

10人の男の人が数珠つなぎにされたのです。

 

学生と兵隊達この日本人の男の人たちの下着を全部取ってしまったのです。

そしてもちろん裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、20歳前後と思われる男のところに行くと足を広げさせました。

 

そして、男の人の男根を切り取ってしまったのです。

この男の人は「助けて!」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにぐさりと男根を切り取った時、この男の人は「ぎゃっ」と叫んでいましたが、そのまま気を失ったのでしょう。

 

でも倒れることはできません。

学生や兵隊達はそんな姿を見て「ふっふっ」と笑っているのです。

私は思わず沈さんにしがみつきました。

 

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行った時です。

日本の女の子が二人、保安隊の兵隊に連れられて出てきました。

 

一人の女の子は前がはだけていました。

この女の人が何をされたのか、私もそうした商売をしておったので、よくわかるのです。

 

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。

二人のうち一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。

 

ほっぺたがひどく腫れ上がっているのです。

その女の人を引っ張ってきた保安隊の兵隊は、ほっぺたの腫れ上がっている女の人をそこに立たせたかと思うと、着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

 

女の人は本能的に手で前を抑えようとすると、いきなりその手を銃剣で切りつけました。

左の手が肘のところからバッサリ切り落とされたのです。

かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

 

そしてそこにばったり倒れました。

すると倒れた女の人の腹を銃剣で突き刺すのです。

 

私は思わず「やめて!」と叫びそうになりました。

その私を沈さんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで身体中が張り裂けんばかりでした。

 

旭軒と近水楼の間にある松山楼の近くまできた時です。

一人のおばあさんがよろけるように逃げてきております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うと、いきなりこのお婆さんに斬りかかったのです。

 

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので、頭に切りつけることができず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

 

学生はこのお婆さんの腹と胸を一刺しづつついてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。私と沈さんとこのお婆さんだけだったので、私がお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんが目を開きました。

 

そして、「悔しい」と申すのです。

「仇をとって」ともいうのです。

 

私は何もしてやれないのでただ黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

すると、このお婆さんが「ナンマンダブ」と一言お念仏を唱えたのです。

そして息が止まったのです。

 

私が西本願寺の別府別院にお詣りするようになったのは、やはりあのお婆さんの最後の一言である「ナンマンダブ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

 

お婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえてきます。

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

 

そこに保安隊出ない国民党政府の兵隊も何名かいました。

みんなで集まっているのは女の子を一人連れ出してきているのです。

何とその女の子はお腹が大きいのです。7ヶ月か8ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

 

恐怖のために恐れおののいている女の子を見ると、女の私ですら綺麗だなと思いました。ところが、一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、女の人が頑強に抵抗するのです。

 

歯をしっかり食いしばってイヤイヤを続けているのです。

学生が2つか3つかこの女お人の頰を殴りつけたのです。

 

そして時々「ヒーっ」と鳴き声を出すのです。

と、その時です。

 

一人の日本人の男の人が木刀を持ってこの場に飛び込んできました。

そして、「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで自体は一変しました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で切りつけました。

するとこの男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。

 

そして持っていた木刀でこの学生の肩を激しく打ちました。

学生は「うーん」と言ってその場に倒れました。

すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣をつけてこの日本の男の人に突きかかってきました。

 

私は、見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。

7名も8名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄ってきましたが、この男の人は少しも怯みません。

 

ぴしりと木刀を正眼に構えて一歩も動こうとはしないのです。

私は立派だな、さすがに日本人だなと思わずにはおられなかったのです。

 

ところが、後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でさっと突いてかかりました。

 

するとどうでしょう。男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で激しく打ったのです。

 

この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でも、この日本の男の人の動きもここまででした。

 

横におった保安隊の兵隊が男の人の腰のところに銃剣でグサりと突き刺したのです。

男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱闘を始めたのです。

 

男の人はうーんと一度唸ったきり声が上がりません。

そして、あのみるも痛ましい残虐行為が始まったのです。

 

それは、この男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。

これ以上はもう人間の行為ではありません。

 

今度は、目玉を抉り取るのです。

この時まではまだ男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき僅かに手と足が動いたように見えました。

 

目玉を抉り取ると、今度は服を全部剥ぎ取り、お腹が上になるように倒しました。

そして、学生が又青竜刀で男の人のお腹を切り裂いたのです。

 

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。

ズルズルと腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

 

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあと仕切りに頭のどこかで考えていました。

ハッと目を上げてみると、青竜刀を持った学生がその男の人の腸を切ったのです。

一尺ずつぐらいに切り刻んだ学生は細切れの腸を、妊婦のところに投げたのです。

 

お腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬に当たると「ヒーっ」と言って気を失ったのです。

 

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。

その時、この妊婦の人が気がついたのでしょう。

フラフラと立ち上がりました。

 

そして一生懸命逃げようとしたのです。

その妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。

 

妊婦はばったり倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄ってきて、この妊婦の人を仰向けにしました。

 

剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーっと飛び散りました。妊婦の人がひゃーという最後のひと声もこれ以上ない悲惨な叫び声でした。

 

お腹を切った兵隊は手をお腹の中につきこんでおりましたが、赤ん坊を探し当てることができなかったからでしょうか、今度は陰部の方から切り上げています。

 

そして、とうとう赤ん坊を掴みだしました。

その兵隊はニヤリと笑っているのです。

 

片手で赤ん坊を掴みだした兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

 

ところが、保安隊も学生もその赤ん坊を受け取るものがおりません。

赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。

 

私は、もう街の中には痛くないと思って、沈さんの手を引いて街の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。城内の道を通った方が近いので北門から入り近水楼の近くまで来た時です。

 

その近水楼の近くに池がありました。その池のところに日本人が40人から50人立たされておりました。

ほとんどが男の人ですが、中には50を越したと思われる女の人も何人かおりました。

ついさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された10人ほどの日本人の人たちが連れられて来ました。

 

国民党政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして、一番最初に連れ出された50歳くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って切りつけたのです。

 

ところが首に当たらず、肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀ひったくるようにした国民党政府軍の将校と見られる男が、肩を切られて倒れている日本の男の人を兵隊2人で抱き起こしました。

 

そして、首を前の方に突き出させたのです。

そこに国民党政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

 

この男の人の首はコロリと前に落ちました。

これを見て国民党政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

 

落ちた首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。

 

この国民党政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させると、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に切りつけたのです。

 

するとこの男の人の額がパックリ割られて脳梁が飛び散りました。

国民党政府軍の将校は手を挙げて合図をして、自分はさっさと引き上げたのです。

 

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がわーっと日本人に襲いかかりました。40人か50人かの日本人が次々に殺されていきます。

 

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。

 

全部の日本人が投げ込まれたときは、池の水は真っ赤になっていたのです、真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。

 

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。

 

日本軍が来たというので、国民党政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

 

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残酷無比なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出していくのです。

 

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は、支那人の嫁になっているけど、支那人が嫌いになりました。

 

こんなことから沈さんとも別れることになり、昭和15年に日本に帰って来ました。

 

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以上、引用終わり。

 

この事件に関わっっていた国民党政府軍の兵隊達。当時の佐々木テンさんのご主人が支那人だったこともあり、軍服を見て、そのように解説していました。

 

このような残虐行為を平気でする支那人の風習は、古来より実地されて来ました。明の皇帝は特にこの残虐な殺人が好みで、清朝末期の西太后の時代まで、残虐な刑罰が行われていました。

 

この現場を見た日本の兵隊は、どう感じたでしょう?

日本人を守れなかったことを悔しがったことでしょう。

 

この事件を昭和12年7月30日付けの号外として、東京日日新聞が報道したのをはじめ、読売新聞、東京朝日新聞など各社が報道しました。そして、その記事を見た日本人は皆、沸騰しました。

 

この事件に対して、冀東防共自治政府の保安隊を買収した、国民党政府は日本政府に謝罪をしたことがありません。また、「日本人を殺せ!」と街頭演説を北京大学の学生達にやらせた中国共産党も、だんまりです。

 

そして、日本終戦後、数年経った後に中国大陸で建国した中国共産党は、このテロ事件の被害者である日本人を加害者にすり替え、加害者である支那人を被害者にすり替え、事件の場所を通州から南京にすり替え、被害者の数を250余人から40万人にすり替えて、全世界に向けて宣伝(プロパガンダ)しています。

 

この宣伝(プロパガンダ)に沿った形で、歴史認識を改めるように、日本に謝罪とODAと円借款を要求し続けています。

 

そして、中国全土100箇所に南京大虐殺記念館(抗日戦線記念館)を建設して、学校教育の一環として、多くの中国人が訪れています。

 

さらに、ユネスコ世界記憶遺産として登録されました。

通州事件としてではなく南京大虐殺としてです。

 

この世は嘘であふれています。

真実を見極める目を養っていくことが求められています。

 

通州の地で無念の思いで血祭りにあげられた日本人たち。

その英霊の思いを無駄にすることなく、嘘を暴いていかなくてはなりません。