米国は第3の原爆投下を計画していた

1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた

2020.08.09
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。

 それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。

1回目の投下

 日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。

 このテニアン島へ7月29日、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。(参考記事:「原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年」

広島へ投下された原爆「リトルボーイ」を乗せたB-29爆撃機「エノラゲイ」。(WORLD HISTORY ARCHIVE/ACI)

 8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。(参考記事:「あの日から75年 広島の記憶」

広島の焼け野原から回収された腕時計。原爆が投下された8時15分で針が止まっている。(SCIENCE SOURCE/BRIAN BRAKE/ALBUM)

第2の攻撃

 ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。

 8月6日時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は8月8日、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。

次ページ:同じ日、テニアン島では次の原子爆弾が

おすすめ関連書籍

ビジュアル 歴史を変えた1000の出来事

1000の出来事を読むことで、世界史の全体像が見える!ピュリツアー賞を受賞したジャレド・ダイヤモンドもオススメする歴史が楽しくなるビジュアルブックです。

定価:本体9,333円+税

  • このエントリーをはてなブックマークに追加