共依存と依存
自分の存在自体を否定されるような無条件のマイナスストロークで受けた傷は、こころにぽっかり空いた空洞のように、穴となって残ります。
一方、ある一定の課題をクリアすればOKというような、条件つきのプラスストロークで受けた傷は、大きなコブのような形となって残ります。
穴を持った人は、「依存」という代替行為によって、こころの穴を何かで埋め、等身大の自分、自尊心を取り戻そうとあがきます。
コブを持った人は、「共依存」という代替行為によって、本来の自分、自尊心を取り戻しているような錯覚に陥ります。
■ 依存
「依存」という行為に走る人には、アルコール依存症をはじめ、薬物依存症、たばこ依存症、摂食障害(過食・拒食症)、買い物依存症、ゲーム依存症、パチンコ依存症、仕事依存症、恋愛依存症、DV(暴力)、また最近では、とにかく様々な習い事をしていないと落ち着かないという習い事依存症や、ブログ依存症などというものもあります。とにかく何かひとつのことに没頭することで、こころの穴に吹きすさぶ虚無感を感じないようにするのです。
もちろん、生活の楽しみとして趣味に没頭することは、何の支障もありません。むしろ、気分転換やストレス解消のための行為としては好ましいくらいです。
しかし、たったひとつの行為のみにはまり、日常の生活がおろそかになったり、支障をきたしたり、果ては周囲に迷惑をかけるようになると、これは「依存症」と呼ぶことになるのです。
■ 共依存
昔は「依存症」が治療対象者として問題視されていました。特にアルコール依存症は、アメリカをはじめどこの国でも問題となっていました。あるアルコール依存症の治療に当たっていた医者が、なかなかよくならない患者を診ながら、ひとつの傾向に気づいたのです。
それは、いつも依存症者に付き添って来る、献身的な妻や母親などの世話役の人たちの存在でした。医者は彼らを「共依存症者」と名づけました。
共依存症者は、特定の依存症者に対して、自分を犠牲にしてまで過度に世話をしたり、行動をコントロールすることに力を注ぎます。
そして、自分のことはさておき、他人の世話をすることに夢中になりすぎ、その人が負うべき責任までも、自分が負ってしまいます。その結果、その人をますます無責任にしてしまうのです。他人の世話をすることに、自分の存在価値を見出している状態です。
つまり、共依存とは「依存者の世話をすることに依存する」、いわば人間関係に依存する依存者なのです。その人間関係とは、迷惑をかける人(依存者)と、迷惑をかけられそれを支える人(共依存者)という人間関係です。
■ 共依存症という病
この「共依存」は依存者に比べて共依存者の症状はとてもわかりにくく、自分のことになると、ますます認めにくいものです。
特に日本では、不甲斐ない夫を支える妻、息子のために身を粉にする母、献身的で辛抱強い妻、良妻賢母な母、家族全員に責任を持つ長男などが、しっかりしていると評価され、美徳とされる文化背景があるのでなおさらです。
英語ではこうした行為をenabling(イネーブリング)と言います。enablingとは、enable...(~を可能にする)、つまり依存者が依存を継続することを可能にするために、手を貸してしまうことという意味です。いくら世話をしても、依存者に「自律性」がなければ、すぐに反動がきて依存行為に舞い戻ります。だから、世話をし続けることは、相手が依存し続けることを助けていることになるという意味が含まれているのです。
しかし、共依存者は、以下のようなことを言って、自分の共依存を否認します。
「自分はダメになりそうな相手を支えるために...。」
「自分が手を貸さなければ、この人は確実に破滅していた...。」
「今度こそ立ち直るって言うから、私が無理して助けてあげたのに...。」
そして、共依存者のほとんどの人が口にするのが、
「この人は私がいなければダメになる。」
つまり、自分はこの人にとって絶対不可欠な存在であると言っているのです。これらの言動の背景には、「誰かに求められたい」「必要とされたい」という共依存症者の潜在的な願いがあります。
■ 誰かの役に立ちたいと思うこと
では「誰かの役に立ちたい」「周囲に認められたい」「他人に受け入れられたい」と思うことは間違っているの?という疑問がわくでしょう。もちろんそういう思いは誰にでもあることですし、人間として自然な欲求です。
アメリカの心理学者マズローは「人間は自己実現に向かって絶えず成長していく生き物である」という人間観に基づき、人間の欲求を5段階に分類しています。(欲求階層説)
絶対条件として求められる生理的満足や安全と安心の欲求に始まり、人とかかわる上での所属欲求や承認欲求など、※自己実現や自己成長の過程として、人間らしい当然の欲求であるとしています。
この中でマズローは、下位の欲求が例え部分的にでも満たされてはじめて、高次欲求が発生するとしています。
つまり、誰かの役に立ちたいと思う言動が真の自己実現であるためには、しっかりとした土台が必要なのです。このどこかが大きく欠けているのに「あなたのためを思って~」「みんなのためを思って~」と言いながら自己犠牲と言う名の献身や忍耐に摩り替えているのは、真の自己実現にはつながらないということです。
自分が今、こころの底で求めているのは、安心安全なのか、愛情なのか、承認なのか...。
今一度、自分の行為を振り返るとき、この基準をこのマズローの欲求階層に照らし合わせて振り返ることも大切なことです。
ときに、共依存症の人は、自分を頼ってほしい、どこまでも必要としてほしいという思いが痛いほど強く、相手の生命線を握ってしまうほどのかかわりを持つこともあります。
そこまでの過剰な思いや状況ではありませんが...、という人もいるかもしれません。
もともと自然な思いやり程度の動機から始まった行為のはずなのに、結果、途中から自分が苦しくなったり、イライラしたり、一生懸命やればやるほど状況が悪化している場合は、不自然な状態だと自覚する必要があります。
いったん立ち止まり、いったい何が起きているのか再検討してみる必要があるでしょう。
共依存症者は、親子や夫婦などの家族関係や友人、恋人同士などの親しい間柄、また世話をする役割にある人だけでなく、職場で他人を援助する立場にある役職、専門職やボランティア活動する人たちの中にも、よくある傾向です。
自分の今の行為が「共依存」から発しているものではないかどうか、自ら問いかけてみましょう。
1.犠牲になっていませんか?
自分ばかりが責任やリスクを負っていたり、気持ちを押し殺したりしていませんか?
2.乗り出し過ぎていませんか?
相手の決断を肩代わりしていませんか?
結果的に相手の甘えを招いていませんか?
3.自分を追い立てていませんか?
困っている人を助けないといけないという罪悪感や、みんなに好かれなければダメ、完璧な自分にならなければ、などと自分で圧力をかけていませんか?
■ 共依存から抜け出す力
このような症状から抜け出すには、以下の力を意識して身につける必要があります。
1. 自分のキャパ(限界)を認める力
2. 溜めたり爆発させたりせず、感情を小出しに表現する力
3. 他人との「適切な境界線」を持つ力
4. はっきりとNOを伝える力
5. 周囲と話し合ったり、SOSを求める力
6. 手放したり、降参する力
7. 手を抜いたり、楽しんだりする力
8. 自分の失敗を許したり、頑張った自分を自分でほめる力
これをトータルすると、「ありのままの自分を認める」つまり「自分を大事にする」「自己肯定感を持つ」「自尊心を持つ」ということになります。