糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
08月06日の「今日のダーリン」
・昨日は「じぶんちのこ」が、どうしてもかわいく思えて、
客観的に見られないという話をしたのだけれど、
そのことについて、同感同感というメールをいただいた。
そのなかに、「あああ、そうか!」と
思わず膝を打つような短いメールがあった。
<人間は自然の目よりも心の目で見てるんですよね>と。
だれの心にもつながってない「自然の目=客観的な目」
なんてものはないのだ。
見ることは、もうすでに心の活動なのだから。
これは、あらためてそうかと思う発見だった。
いつも、測量中や検眼中も含めて「心の目」で見ている。
おもしろいことを言ってもらえたなぁ。
・昨日は、朝から夜まで次々に仕事をしていた。
これ、すべてがいやいややっていることだったら、
「死んじゃうよー」なんて漫才のツッコミみたいなことを
言ってたかもしれない。
しかし現実的には、じぶんがやりたいことばかりなのだ。
おもしろいことばかりだし、会う人がそれぞれ、
ぼくが会いたくて会ってる人たちばかりだから、
ぜんぜん死んじゃわないのである。
他人から見たら、たいへんそうに見えるとしても、
本人にはおもしろくてしょうがないこともあるし、
他人からお気楽に見えてることでも、
本人にはつらくてしょうがないこともある。
「いい時間」は、ハードでも「いい時間」、
「いやな時間」は、らくちんそうでも「いやな時間」だ。
・出会ったとたんに、「おはよう」のように
「暑いわね」とかぶつけるように言う人はいないか?
その人は、冬にも出会い頭に「寒いわね」と怒っていた。
どうして、「おはよう」や「こんばんは」ではなくて、
どうにもならない怒りを吐き出すのだろうか?
このあたりの謎が、いまだにわからない。
あれはあれで、「いまここにある不快についての共感」を
求めているということなのだろうか。
ぼくは、そういう共感はしたくないタイプなので、
「あっついわね!」と言われたら「そう?」と答える。
「あついねぇ!」と返せば、まるく収まるのにねー。
それも、夏だから暑いせいなのかもしれない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
手を洗う回数を増やすことにした。気を引き締めるために。
客観的に見られないという話をしたのだけれど、
そのことについて、同感同感というメールをいただいた。
そのなかに、「あああ、そうか!」と
思わず膝を打つような短いメールがあった。
<人間は自然の目よりも心の目で見てるんですよね>と。
だれの心にもつながってない「自然の目=客観的な目」
なんてものはないのだ。
見ることは、もうすでに心の活動なのだから。
これは、あらためてそうかと思う発見だった。
いつも、測量中や検眼中も含めて「心の目」で見ている。
おもしろいことを言ってもらえたなぁ。
・昨日は、朝から夜まで次々に仕事をしていた。
これ、すべてがいやいややっていることだったら、
「死んじゃうよー」なんて漫才のツッコミみたいなことを
言ってたかもしれない。
しかし現実的には、じぶんがやりたいことばかりなのだ。
おもしろいことばかりだし、会う人がそれぞれ、
ぼくが会いたくて会ってる人たちばかりだから、
ぜんぜん死んじゃわないのである。
他人から見たら、たいへんそうに見えるとしても、
本人にはおもしろくてしょうがないこともあるし、
他人からお気楽に見えてることでも、
本人にはつらくてしょうがないこともある。
「いい時間」は、ハードでも「いい時間」、
「いやな時間」は、らくちんそうでも「いやな時間」だ。
・出会ったとたんに、「おはよう」のように
「暑いわね」とかぶつけるように言う人はいないか?
その人は、冬にも出会い頭に「寒いわね」と怒っていた。
どうして、「おはよう」や「こんばんは」ではなくて、
どうにもならない怒りを吐き出すのだろうか?
このあたりの謎が、いまだにわからない。
あれはあれで、「いまここにある不快についての共感」を
求めているということなのだろうか。
ぼくは、そういう共感はしたくないタイプなので、
「あっついわね!」と言われたら「そう?」と答える。
「あついねぇ!」と返せば、まるく収まるのにねー。
それも、夏だから暑いせいなのかもしれない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
手を洗う回数を増やすことにした。気を引き締めるために。