原爆忌に考える 忘却にあらがう夏
2020年8月6日 07時53分
遠出を少しためらいながら、広島行きの「のぞみ」に飛び乗りました。
広島駅から超低床の路面電車で十五分。「原爆ドーム前」で下車すると、ドーム正面の定位置に、三登浩成さん(74)の姿がありました。ボランティアガイドグループのリーダーです。
三登さんの母親は原爆投下から三日後に、疎開先の実家から広島市内の自宅の様子を見に戻り、残留放射線を浴びました。
その時、妊娠四カ月。母親は「入市被爆者」、三登さんは「胎内被爆者」です。
長じて高校の英語教師となった三登さんは、五十歳の「知命」の年に沼田鈴子さん(二〇一一年、八十七歳で死去)という語り部の語りを聞いて、「いつか、この人の後を継ごう」と決めました。
◆伝えずにいられない
定年まで二年残して教職を退くと、この十四年間、雨の日を除く毎朝、自転車に手作りの資料を積んで、爆心地に近い広島平和記念公園に通い詰め、海外からの観光客らに、「被爆の実相」を語っています。
広島、長崎の被爆者の平均年齢は、八十三歳を超えました。三登さんは、最も“若い”被爆者の一人です。共同通信のアンケートによると、被爆体験の継承活動をしていなかったり、回数を減らしたりしている人は約八割に上っています。七十五年という歳月の重みが、ここにも大きくのしかかってきています。
その上にコロナ禍が追い打ちをかけています。感染の広がりが、今後の継承活動を妨げると答えた人は六割を超えました。
修学旅行や平和学習で広島を訪れる県外からの小中高校生もコロナのために激減です。ただでさえ、ピーク時の六割程度に減っていたというのにです。
◆人は過ちを繰り返す
三登さんは、海外への伝承に特に力を入れてきました。
これまでに約百八十カ国の人々が、英語が堪能な三登さんの語りに耳を傾けました。ところが今年は「米国の高校生だけで延べ二千人のガイドが、キャンセルになってしまいました」と、嘆いています。
それでも時折、県内の学生や家族連れが訪れます。三登さんは「一期一会の出会い」を求めて、がれきの中に変わり果てた姿をさらし続けるドームの前に、立つことをやめません。
三登さんは言いました。
「東京から来た若い女性が『原爆を落としたのは、どの国ですか』と聞くんです。ドームの前でバンザイを三唱していった団体さんもありました。足元には、まだ骨が埋まっているというのにね…」
忘却の彼方(かなた)で、人は過ちを繰り返す−。三登さんがたとえ分厚いマスク越しにでも、伝えることをやめない、というより、やめることができない理由なのでしょう。
コロナのために今は入場制限がかかった広島平和記念資料館の出口の真ん前に、アオギリの木が立っています。
爆心地から一・三キロの広島逓信局の中庭にあったアオギリは、熱線に焼かれ、爆風に幹の半分をえぐられました。ところがその傷を自ら包み込むかのように新しい樹皮を張り、一九七三年に今ある場所に移植されました。実生の若木も隣ですくすく育っています。
三登さんを語り部へと導いた沼田鈴子さんは、二十二歳の時に職場だった逓信局で被爆しました。崩れた建物の下敷きになり、左脚を失った上に婚約者の戦死の報に触れ、一時は自殺を考えました。
そんな時、職場の中庭のアオギリが、傷ついた幹から懸命に細い枝を伸ばして新しい芽を吹く姿を目に留めて、生きる勇気を取り戻すことができました。
そして「証言は平和の種まき」と言いながら、移植されたアオギリの木の下で、絶望と再生の体験を修学旅行生らに伝え続けた人でした。沼田さんが「アオギリの語り部」と呼ばれた由縁です。
◆再生への希望を語る
沼田さんはこんなふうに語っていたそうです。
<皆さん、アオギリはこんなに大火傷(おおやけど)をしても生きているのよ。一生懸命に生きなくてはいけないと、懸命に力を出しているのです><事実をしっかりと見つめる力をもち、ものの見える人、ヒロシマの見える人になってください。しっかりと自己学習して、なにかの形でヒロシマを伝えてください>(広岩近広著「被爆アオギリと生きる」より)と。
戦後七十五年。忘却を誘う風にあらがい、私たちも生きて、学んで、伝えていかねばなりません。
ヒロシマを、ナガサキを、核兵器の愚かさを、そして世界中がコロナに沈むこの夏は、特に被爆アオギリが今も無言で伝え続ける再生への希望といったものなどを。
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