Powered by Six Apart

2020年8月 5日 (水)

危機管理3 トヨタの危機管理

毎日、毎時が修羅場

 トヨタを始め自動車産業界では、生き残りのため修羅場の戦いが続いている。お客様(トヨタ等)からの納期、品質要求は絶対である。ライントラブルや品質問題で部品の納入ができなければ、トヨタのラインが止まる。それはトヨタと部品メーカの心臓が止まること。トヨタのラインが止まるとは、グループ全体のラインが止まるのだ。

 1997年2月のアイシン精機工場の火災の時は、たった一点の部品が届かないため、トヨタグループの30万人が、仕事ができず一日遊んだ。カンバンシステムで在庫を持たない生産システムでの最悪のケースであった。カンバンシステムでは、部品1点が足りなくても、車が完成しない。全ラインが止まる。

Photo_2

 

ペナルティ

 そんな事故を起こしたメーカにはペナルティとして、納品ストップがかかる。トヨタは各部品を危機管理として、部品の2社発注を原則としている。トヨタは、一社を切って、もう一社のメーカに発注をする。だからサプライヤーは、お客様(トヨタ)からの信頼を得る難しさを毎日体感してる。

 

納品ストップの悲惨さ

 親会社から納品が拒否されれば、数十億円かけたラインが無用の長になる。当然、そこで働いていた人間も配置転換である。正規社員はまだ幸せだが、臨時工は即解雇である。凄惨な首切りである。でもそれはパートなので、新聞紙上で話題になることはない。人知れず消えていく。

 またそうなれば、会社としての信用を失い次回からの受注競争に負けるのだ。前職の会社でも1990年代の初期、某自動車メーカへ納入した自動車部品の品質問題があり、注文が完全に途絶えた。その取引再開には、10年間の地道な信用回復の年月が必用であった。そういう厳しさで自動車部品業界は生きている。その厳しさがないと、会社がつぶれるのだ。

 だからエアバッグで死亡事故を起こし、その対策を胡麻化したタカタが倒産して当然の結果である。

 事故原因を隠蔽して再度の死亡事故を起こした三菱自動車が左前になって当然の結果である。

 

現場の修羅場

 部品納入で2回、同じ品質問題を起こすと、打ち首である。なにせ自動車の部品は人の命がかかっている。リコール問題や死亡事故となったら、企業の屋台骨に影響する。トヨタだって潰れるかもしれない。そのトヨタも米国で欠陥問題で、あらぬ疑いをかけられて、豊田章男社長が、米国議会でつるし上げにあった。世界最大のGМさえ倒産する時代である。それ故、トヨタも危機管理上から、問題を起こした会社への発注を止める。

 

前面の虎、後ろの崖

 自動車の部品の生産ラインは、トヨタから注文がなくなったので、一般のお客様に売ればいいというものではない。そうなったら打つ手がない。それで責任問題も発生する。

 前職の会社でも、ある部品の品質で問題を起こし、トヨタから納品停止を宣告された。その責任を問われ、私が親しく付き合っていた責任者が、2月の人事異動で私の前から姿を消した(海外に飛ばされた)。首から血が流れると同じである。設計部署は生産に直結した部署なのだ。生産ラインでもパートの人が解雇されたのだろう。生活に困ってパートに来ている人たちである。これが凄惨な修羅場なのだ。

 

電機業界との差

 自動車部品の生産は、普通の製品とは、影響の広がりが2桁も3桁を違う。物づくりの現場ではタマをきらせないために、死に物ぐるいの取り組みをしている。そうしないと本当に首が飛ぶのだ。この厳しさがあるからトヨタグループが生き延びている。これが日本の製造業を支える二大産業のもう一つである電機業界との差である。

 

渓谷に渡した綱を渡る

 自動車部品の生産ラインは綱渡りで生きている。何か有るとすぐ赤字になる。それくらい厳しいコスト設定をしている。車の値段は、この数十年間、他の製品に比べるとあまり上がっていない。その分、親会社からのコストダウン要請は厳しく、それに応えているから価格が上がっていない。そんな厳しい競争業界である。

 問題が起これば、真っ先に社外工の人達が切れらる。経費節減でも、最初に要請されるのはこの費用の削減である。私の隣の職場の係長の奥さんもパートの仕事を切られて、半年ほど仕事のない状態が続いていたそうだ。全員総力を上げて業務に取り組まないと、業界の中で負け組みになるのだ。

 

天国と地獄

 それに比較して,事務系は天国である。現場の厳しさは、事務系のプロジェクトがうまくいかなかったら、納期を延ばして解決などとはレベルが違う。カンバン方式はサプライヤーには恐怖のしくみである。毎日、毎時が死に物狂いの戦場だ。時として、同じ仲間同士で罵り合いごとき議論が闘わされる。

 新ラインの立ち上げ時、問題を抱えていると、その対応で神経がずたずたになる。事実、私もそうなった。新しい開発の取り組みをすると当然,いろんな問題を抱えてラインを立ち上げることになるからだ。そういう直接部門に私は6年間在籍した。

 企画という間接部門に異動すると、神経の疲れが全く違う。幸せだと感じた。今ある仕事に不満など言うのは贅沢だと思う。その仕事さえなくなる恐怖をもって仕事をしている人に比べれば、である。

 

私の修羅場

 私も技術部と現場の開発部での任期中、そんな崖っぷちの体験を数回経験した。今もってよく首がつながったのが不思議だ。それを思い神様に感謝している。これもリーダーシップのとり方の指導をしてくれた私の上司のおかげだと感謝である。上司はトヨタから出向していたキレ者であった。

 新ライン立ち上がり当初は,新規設計の型寿命が計画通り持つかを心配しながら、毎日毎夜ひやひやしながら過ごしていた。そして予定していた寿命の1桁しかないと判明した時は、地獄に突き落とされた。なにせ代わりのダイキャスト型を発注しても、その納入は2カ月後なのだから。もう針の筵状態である。どうやってタマをだすのだと。

 お盆休み返上でダイキャスト型を突貫工事で作ってもらうため、その型メーカに懇願しに、北陸まで飛んで行った。危機状態を助けて頂いたその型メーカの社長さんには感謝でいっぱいです。お礼を申し上げます。

 これが事務系の間接部門でしか働いたことのない人間と、設計や製造部門の厳しさを体験した私との意識の差である。

 百聞は一見にしかず。百見は一験にしかず、を実体験した。

 

修羅場でのリーダーとは

 その修羅場で必要になるのはリーダーの決断力である。間違っていてもとにかく、何かを決めて進めるしかない。部下には、リーダーより専門能力ではるかに優秀な人が多くいる。しかし、その人たちが勝手な行動を取りだすと、組織としては崩壊し、修羅場の戦場では負け戦となる。特に頭のいい人たちに限って組織の運営に逆らうものだ。それがなぜ問題なのかを頭のいい人たちは理解していない。上司がばかにみえるのだ。

 

日産の修羅場

 そのよい事例(悪例?)が日産である。日産はトヨタよりも優秀な人が沢山いる。しかし結果は見ての通りだ。工場閉鎖、人員整理という血なまぐさい修羅場に遭遇するのだ。

 そしてゴーンという強引なリーダーが登場して、やっとまともになりかけている。しかしその化けの皮が剥がれて、その対応が対処療法で、真実の改革でなかった。それが虚実の改革だとばれるのに20年間もかかったので、現在の日産は地獄に堕ちる寸前となっている。

 なにせ日産の検査員資格のゴマカシ事件での記者会見にゴーンは雲隠れであった。

 トヨタの社員は、全員がリーダーシップを取って、一つの方向に進んでいるから生き残っている。日々組織の目的に向かって一丸となって取り組まないと、国内市場でさえ生き残れない。

 

エピソード1

 1997年2月1日のアイシン精機刈谷工場の火災事故の翌日は、私が異動先に室長として赴任した初日であった。これから何をやるか、上司と相談しようとしたら、その上司がアイシン精機工場火災事故の対策総責任者として本社の対策本部に拉致(?)され、カンヅメ状態にされてしまった。アイシン精機が生産していた部品を当社で代替生産をするための緊急対応である。そうしないとトヨタのラインが止まったままになる。私は上司の顔も見られない日々が続いた。結局、上司とお会いできたのは1カ月後であった。

 

エピソード2

 アイシン事故の当日、私のマンションの近くを数十台の消防車が走り回り、市内は大騒ぎの様相であったようだ。私は現場部門への異動になってことで落ち込んでおり、当日は昼近くまで寝ていた。その騒ぎに気づかず、床屋に行って話しを聞き、知らないで寝ていた私は、理髪店の奥さんに呆れられた。それほどの大騒ぎであった。

 

エピソード3

 アイシン精機で生産していたのはエンジンのブレーキバルブであった。その穴加工には特殊な工具が必要である。事故発生を知って、ある部品メーカの調達担当者は、商社に指示してその工具を全量抑えてしまった。トヨタグループの全メーカがその商社にたどり着いた時は、既に遅し、である。その会社は業績も一流である。やはり危機管理ができているからこそ、業績もいいのだろう。事故を知ってから、どう対応するかを即座に行動できる感性がすばらしい。それが危機管理である。泥縄では駄目なのだ。

 

エピソード4

 アイシン精機の工場火災は。日本の産業史上に刻まれる火災事故であった。その後、トヨタグループではこの面の危機管理が徹底される。また二社発注も徹底され、受注してもうかうかしていられない情勢となる。私もその関係で、特設消防隊の隊長を務めることになり、危機管理にも力を注ぐことになる。

           初稿 2003年7月12日 

 

2020-08-05 久志能幾研究所通信 1692  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

痴人の愛 「愛人HD」のご臨終

 ビデオをこよなく愛する知人が嘆いていた。この3年間で二人の愛人がご臨終になったと。

 要は、ビデオレコーダーのハードディスク(HD)が故障(クラッシュ)して、録画してあったデータが総てオシャカになったという。

 救いは、3年前の故障時に、録画してあった全データが消えるという痛い目に会ったので、それに懲りて、ビデオレコーダーの外付けHDには、SeeQVault対応品に変えて使っていたこと。それで、その使用中のHDに追加録画はできなくなったが、録画してあったデータは、別のビデオレコーダーで見ることだけはできるという。

 

生は偶然、死は必然

 ハードディスクにも寿命がある。一般論で3年が正常に使える限度である。それを超えたらご臨終を想定して、バックアップやBDへの保存が必要である。ハードディスクは、直径3.5インチの円盤が高速、7000rpmで回転している。それ磁気読み書き用の小さな磁気ヘッドで、その円盤の上をサーチしている。磁気ヘッドの大きさをジャンボ機に例えると、全長70mのジャンボ機が地表5㎝ほどを浮いて飛んでいるようなもの。ハードディスクとは、いかに精密かが想像できる。だからハードディスクはチョットした衝撃で簡単に壊れる。だからハードディスクは壊れて当然の製品である。それは消耗品である。

 生あるものは必ず死がある。それは万物に当てはまる。ビデオレコーダーもしかりである。生きている間だけだよ、手に取ってお互い、生きていることを確認できるのは。

 同じように人の明日の命は分からない。何時までもあると思うな親とカネ。

Photo

 馬場恵峰卒寿記念写経書展写真集「報恩道書写行集」(久志能幾研究所刊)より

 2016年

 

2020-08-05 久志能幾研究所通信 1691  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 4日 (火)

ご縁のリストラクチャリング

悪手の山     

 米長邦夫元名人は、その著で、「人は悪手の中を歩いている、一手間違えれば簡単に人生が暗転する」という。

 同じ意味で、人生には多くの縁が溢れているが、その多くが悪縁である。因果応報で、悪縁と交われば人生は下り坂である。悪縁の人は、悪縁を招く習慣と考え方とそれに纏わりつく人脈がある。その腐臭がすさまじいが、鈍感な人はそれに気が付かない。知らずに付き合うと、悪縁が心に染み込む。「君子危うきに近寄らず」でありたいが、宮仕え生活ではそれもままならない。サラリーマン時代はそれを避けることは、至難の業であったので、かなりの被害を受けてきた。まるでタバコ副煙流の害毒如きである。

 

ご縁の選択肢

 しかし定年後に組織を離れたことで、寄ってくる縁を選別できるようになった。些細なことや対応ぶりから、友人、知人、業者の人生哲学が垣間見えて、縁の鑑定ができる。それが悪性の縁と分かった時点で、その縁を切ることにした。よき人生は良きご縁から始まる。悪縁を切ると、空いた空間に良きご縁がすり寄ってくる。組織を離れたら、縁は自分で選びたい。

 

人生のリストラ

 リストラとは、事業の再構築(restructuring)が本来の意味で、首切りは単なる一つの方法論である。還暦後の第二の人生を門出して、正しい道を歩むために、人生再構築のリストラが必要である。

 企業経営でも、不正をする人、業績を下げる人、定年になった人はお払い箱である。そういう新陳代謝をしないと会社が左前になってしまう。同じ考えで、自分株式会社に害をなす縁者はお払い箱にして、身辺整理をしてリストラしないと自分の人生が傾いてしまう。切るべき縁を切らないから腐れ縁となる。腐った縁は、周りに害を及ぼす。人生経営の6Sをして縁の整理整頓をすべきである。

 

食料というご縁

 生きていく為には食べなければならぬ。その食料が、添加物まみれ、農薬まみれ、養殖魚の病気防止で抗生物質まみれ、ショートニング、マーガリン、植物油まみれの加工食品でもお腹は膨れるし、当面は生存が可能である。しかしその食物は遅延性の毒である。10年、20年のスパンで食の人生を考えた場合、そのツケを慢性病、成人病、ガンという病気という形で支払う日がやってくる。日本をはじめ先進国で加工食品が増えるに比例して、医療費が増大している。

 良薬口に苦し、医食同源を基本に、食べ物とのご縁を大事にしたい。

 

生きていくためのご縁

 社会で生きていく上では、ご縁が必要だ。しかし質の悪い縁に囲まれると、それが遅延性の毒として人生を覆い、不運という人生生活病に侵される。

 約束を守らない人、こちらが散々お世話をしたのに、恩を仇で返す輩、信心深くても己だけの幸せを願う人、苦情対応で不誠実な企業、新興宗教にはまっている人、車検を依頼した車を私用で乗り回す修理工場社長(ドライブレコーダで露見)、人の迷惑を顧みず自慢話ばかりする元副社長、前職の不祥事の責任を回避する後任の長、先祖を大事にしない親類縁者……….よくこれだけいい加減な人がいるものかと呆れるばかり。そういう人と付き合うと血圧が上がるので、自分の組織を守るため、その悪縁を切ることにしている。

 

ご縁のリバイバルプラン

 そのご縁が良いか悪いかは、誰にも分からない。悪だくみをしている人には、詐欺の話しがよい話になるだろう。善人にはその逆である。

 確実に言えることは、じっとしていて動かなければ、永遠にご縁はやって来ない。まず動いてみて、感触が良ければそれに手を出すことだ。今まで数十年間も生きてきて、直観という能力で物事を判断できるはずだ。それに素直に順うことである。来るものは拒まず、去る者は追わず。あとは佛様がよきに計らってくれる、と信じよう。信ずるものは裏切られる? 裏切られても良いではないか。それから、その縁を切ればよいのだ。それで一つ賢くなる。おだ仏教では、そうしている。

 

人生のご縁収支決算

 人生とは、集めた¥高を誇る競争ではない。円を集めた額を誇示するのではなく、ご縁に接し、その縁に報い、よき縁を人にどれだけ分福したかに価値がある。

 人生は集めたものでなく、どれだけ与えたかで評価される。いくら集めてもそれを喜ぶのは己だけでは哀しい。お金は、あの世には持っていけない。人から分捕った分、不幸になった人がいる。グローバル経済主義では、99人の富をたった1人が強奪独占する。強奪した富には多くの人の怨恨が籠っている。

 人に与えたことは多くの人が評価してくれ、その結果として与えたご縁に花が咲き、実が結ぶ。それでこそ、自分の人生の意味がある。悪しき縁からは、良き人生は生まれない。その縁の選別眼が人生価値を左右する。

039a15511s

2020-08-04 久志能幾研究所通信 1690  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

伝承とは祈り

 私が師匠から教わった一番大事なことは、「技術はいらない。精神性と心を磨け。心が伴なわない人に、技術なんてロクなもんにはならない。」。

 私はそう教わって、次に人にそれを少しでも伝えられたらいいと思う。そうやって結果を残すことが、現場を含めて、人づくりもそうですわね。そこが一番の恩返しかなと思います。

   西山 天龍寺 庭師 平木信行氏 談

 2020年7月6日放映NHKBS「京の都を守る霊山 祈りの道」より

 

何のために?

 どんな仕事でも、イベントでも、心が籠っていない仕事は、人に感動を与えない。やっつけ仕事で、いくらイベントを上手くやっても、同窓会幹事だけが自己満足しているようでは、ガキの作業でしかない。

 その仕事は、何のために? 誰のために? 何を残すために? 何を継承するために?を自問したい。その答えは千差万別でも、それをやり遂げる人の心こそが肝要である。

 それを突き詰めると、何のために生きているのだ?

 その答えを求めて生きている人は幸せである。少なくとも、人として生まれて、学んで人間を目指して精神を磨いているからだ。

 魂の浄化こそが、動物で生まれて、人間になるための目的である。

 

 学ばないと宿命的存在、つまり動物的、機械的存在に成り下がる。学ぶことで運命的存在、つまり人間的存在になる。

               安岡正篤

P10609301s

何のために市長になったのか?

 2017年12月21日、小川敏の母校の忘年会で、集まった同窓生の場で、上座にふんぞり返って小川敏は、翌年の市制100周年記念行事の件を誇らしげにぶち上げた。その忘年会の開催目的は、小川敏が同窓生にその演説をブツための集まりであった。同窓生は卒業すれば、皆同列である。それを小川敏が上座で演説をぶつように段取りした幹事は、仲間の裏切り者である。忖度である。50年前の母校の同窓会としての最初で最後の忘年会を、段取りした幹事は、その目的を忘れて走り回った。多くの同期の仲間を呆れさせた。虚しい幹事作業であったと思う。 P10909022

小川敏は何のために大垣市長になったのだ?

 その市長としての心がけがないから、市政が最低である。小川敏には、市民のためという心も大義名分もないから、大垣市は小川敏が市長になってから、19年間連続で没落し続けた。大垣市の公示地価が冷酷にそれを示している。

 

020-08-04 久志能幾研究所通信 1689小田泰仙

累計閲覧総数 193,300

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 3日 (月)

ご恩返しの響きは、人生交響楽団の調べ

 受けたご恩は、直接は返しにくいものだ。例えば先輩から赤ちょうちんに連れて行かれてご馳走になっても、お返しは「なし」である。それは自分の部下に奢ってあげればよい。それがご恩の響きあいである。

 先輩から人生の指導を受ければ、それを後輩に伝えればよい。その受けた御恩を、自分の後輩に返していく。そうやって代々先輩の苦労話を受け継がれていく。それが御恩返しのハーモニーである。

 最大のご恩は親から受けた恩である。

  親孝行 したいときには 親はなし

 師から受けた教えの御恩を返そうとしても、その時、師はこの世にいないことが多いもの。だからその教えは、後進に伝えればよい。

 私は多くの師から、大きな教えを頂いたので、このブログで、その内容を書いてその恩返しをしている。

 知りたることを人に教えざるは、借金をして金を返さざるが如し。

                  福沢諭吉翁

 

 私の趣味は、写真である。宴会や会合の時、その写真を撮りまくっている。それを皆さんに、お礼の気持ちで提供している。

 先年、高校の同窓会があり、仲間が宴会の風景を写真に撮っていた。その後、その写真を納めたCDが皆さんに送られてきた。お金を払おう必要もなく、会費からその費用は出ていたようだ。写真を提供して頂いて写真係に感謝である。よき想い出の写真となった。記憶は日々薄れていくが、写真が残っていれば、記憶が鮮明になる。

 

ご恩返し連綿の断絶

 先年、50年ぶりの中学の同窓会が開催されて、私は写真係を黙って担当した。その時撮った写真を整理して、82枚のデータをCDに納めて同窓会幹事に託した。私はてっきり、幹事から皆さんへCDのコピー配布があると思っていた。ところが、その写真データを、幹事達だけで、プロジェクターに写して、楽しんでオシマイであった。

 私は高校同窓会の写真CDの恩返しとして、中学同窓会のCDを提供したのだ。それが使われずにお蔵入りとなってしまった。私は怒りである。

 20人近くいる幹事の誰も、その写真CDをメンバーに配ろうとする発想がなかったことに愕然とした。聞けば幹事同士で醜い主導権争いをしていたという。そんな利己的なレベルの幹事が開催する同窓会では、二度と参加したくはない。受けた恩を忘れては、犬畜生に劣る。

 

2020-08-03 久志能幾研究所通信 1688 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

私のHDバックアップ、人生のバックアップ

 私は毎月、パソコンの6テラ分のデータをバックアップしている。写真やビデオデータが増えて、その容量が急増して閉口である。その昔はフロッピーディスクやMOで済んでいたのが嘘のようである。

 今のバックアップの手法を紹介する。

 

バックアップ機器

 私はパソコンの4テラと2テラのハードディスクを3セット用意して、毎月、3ヶ月をワンサイクルとしてバックアップとしている。毎月、月末にパソコン内の全データをバックアップする。

 今、入手できるのが最大で4テラのハードディスクだから、4テラと2テラのハードディスクを1セットとして使っている。

 3重だから、ハードディスクの使用頻度が1/3になるので、問題がないが、一応、ハードディスクの電源オンオフ回数、累計の使用時間は管理している。ハードディスクの寿命に関係するのが、電源オンオフ回数で、それが3年分を過ぎると危ない。

 家のパソコンは、ハードディスクの保護のため、朝電源を入れて、夜しか切らない。省エネとして、一日に何回も電源をオンオフしては、ハードディスクの故障の原因となる。

 

3重のバックアップサイクル

 翌月、3か月前にバックアップしたハードディスクをフォーマットして、それに当月分のバックアップ分を書き込みする。

 翌月も同じパターンでバックアップする。

 これを3ヶ月のサイクルで繰り返す。

 時折、月の途中で、ディスクトップのデータをバックアップする。

 これで過去3ヶ月分のバックアップが準備できる。

 ハードディスクは常時は電源を入れず、3ヶ月ごとに電源を入れて、稼働である。常時電源を入れておくよりも安全だと思う。あまり長い間、電源を入れないのも、ハードディスクにはよくない。

 

生あるものは必ず死

 これは今まで、私のパソコンのハードディスクがクラッシュして何回も泣いたことから生まれた智慧である。ハードディスクは壊れて当たりまえ。それを前提にバックアップをしている。

 データをブルーレイディスクに保存すればよいが、6テラもあると、物理的にも、時間的にも無理である。そのバックアップには、50Gのブルーレイディスクが120枚もいる。その記録時間も膨大である。またディスク代が高価である。パソコンのハードディスクのバックアップは、ハードディスクへのバックアップが再利用ができて一番効率的である。

 あえて自動ではバックアップはしない。手動である。月一回のことだから、不要なデータを消すことを兼ねて、手動でバックアップである。

 

友情バックアップ

 もう一つのバックアップとして、イベントや宴会等で写真を撮った場合、その写真データをCDに納めて知人に進呈している。そうすれば、当方のデータが消えても、知人の家にそのデータが残っている。安全である。きちんと保管してくれるような高品質の写真を送るようにしている。

 

私の引継ぎ

 会社の異動で職場を変わる場合でも、私は引継ぎにあまり時間をかけない。日頃、仕事の中身は全て書類で残しているし、日頃、部下にその資料を見せているので、その時になって、慌てて引き継ぐ必要もない。これも日ごろの仕事のバックアップと同じである。

 

後継者育成の責任

 リンカーンは、人は40歳を越えたら自分の顔に責任を持たねばならないと言った。私流に解釈すれば、このことは自分だけでなく部下に対しても教育の責任があることを意味している。人はあるレベルに到達すると自分の持つ情報を後継者に正しく伝授する責任が発生する。それがバックアップである。そうなれば、いつ死んでも、何時異動があってもよい。人事異動とは、パソコンのクラッシュと同じである。

 

 自分のしてきた事を、いつか人に伝えれなかったら、何もしてこなかったと同じである。

    アー ウ ィン ・シュ レジ ンガー *2

 

 どんなことでも教育を受けたことは他に伝授して初めてその行為が完結する。設計でも事務 、現場等でも自分のやってきたことを部下がそれ以上にこなしてくれて初めて彼への教育及びその業務が完成したと言える。

 今の科学技術が過去の技術の蓄積の積み重ねである以上、教育はその上台となる。そういう意味で後に続く人をゼロか らスター トさせてはならない。これが会社の組織 及 び技術の継続、発展には不可欠である。

 

自分の生データをバックアップ?

 自分が死んだら、今まで蓄えた智慧が消滅する。体のDNAは新らしく生まれてくる子供が受け継ぐが、その脳みそ内は再生できない。その智慧を文書に残すのが、唯一のバックアップ手段である。完全ではないが、これしかない。だから私はその体験や知恵を書類に残している。

 前職の会社では、自分のノウハウを文書にして遺してきた。それは設計要領書、規格、論文、報告書、再発防止書等である。だから今の私のブログは遺言である。

 バックアップとは危機管理である。自分の後継者を作るのも、バックアップであり、危機管理である。

 

 書いたものだけだよ、後の残るのは   馬場恵峰師の口癖

 

2020-08-03 久志能幾研究所通信 1687 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 2日 (日)

相田みつをが出逢った逆縁の菩薩

 相田みつを氏は学生の時、喫煙の濡れ衣を着せられ、不良学生と烙印を押された。そのため相田氏は、軍事教練の教官から徹底的に虐められた。結果として軍事教練の単位が、相田氏だけとれず落第となり、進学できなかった。

 当時、軍事教練の単位がないと進学できない時代である。氏はそのため寂しい青春を過ごすことになり、ある縁で在家ながら禅の道を学んだ。それが後に書の道に進む縁に結びつく。

 大学に進んでいたら、学徒動員で戦死していた恐れがある。氏はこの軍事教官を「逆縁の菩薩」と呼んでいる。なにが人生で幸いするか、人知を超えた天の計らいである。この軍事教官は、相田みつを氏には福の神であった。

 

馬場恵峰師の見た夢

福の神・貧乏神

 美しく着飾った女性が資料館を訪ねて来た。どなたでしょう…と聞くと「私は富を与える福の神だ」と答えた。館長は大喜びで奥へ迎え入れた。しばらくしてみすぼらしいなりをして色青ざめた女が訪ねて来た。聞くと、「私は貧乏神だ」と言う。驚いて館長は、貧乏神さまでもおことわりと、追い返そうとすると女は言った。「私を追い返すの…..愚かな事よね….と。先に迎え入れられた福の神は、私の姉で姉妹はいつも離れた事はないのだから、私を追い出せば、姉もいなくなりますよ….」と言って、みすぼらしい女は出て行った。間もなく姉の福の神もこの館から消え去っていた。

 館長は夢から醒めると、この様をよく考え直して見た。人間というものは一方的に都合の良いことのみを願っても、それは達成されるものではない。福があるから禍があり、良いことがあれば悪いこともある。生があるから死がある。相合う喜びあれば別れの悲しみあり。これが人生の真実。相反する禍福を超えて執着しないところにこそ堅実な人生の生き方と….地位が上がった、収入が増えた….そういう得意の絶頂で、禍の谷の深さを意識しない位あぶないものはない….館長は良い反省の夢と手を合わせた。資料館造って20年様々な出逢い喜び悲しみ別れ等々。落成記念写真の120名来賓の中、物故者も20名を超え、20名以上の人が病院そのほかでなかなか会えない。今この四曲の200余の和歌、日頃訪中の折々、いろは歌等々思い出多く自作たるもの、下記つづりしものにして、思いもよらず親愛なる新立大工の心配りのものにして、全長二米八十の屏風本体と共に、館落成20周年の得難き人情交友のあかしとして他に類なき尊いものと言えよう。戌子の上冬の夜も次第に深くなり。また齢82翁の今日も終らんとする。みかん園も活気づく頃も、もう20回。山里の四季の中で過ごす事の有難を感謝して手の痛みと付き合いながら重い深きひと時、天之機緘不測、即天が人間に与える運命のからくりは人知では到底はかり知る事はできない。残された人生に、唯一筋書芸三昧の歩みに餘念なく。館長の夢は大きな玉手箱と…今日も終らんとす。ここに随筆として一篇即興書きどどむ。

          平成20年10月21日三宝斎恵峰

 

 自分の人生を振り返り、谷があるから山がある。谷での試練が有るから、成長ができた。人生塞翁が馬である。いいことばかりの人生などない、が70近くまで生きてきて学んだ真理である。

Img_3618s

Img_3616s

 福の神・貧乏神の板書を解説する馬場恵峰師  図書館にて 2011年4月2日

 この板書は書の収納箱の蓋に書かれている。

2_2

1

2020-08-02 久志能幾研究所通信 1686 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 1日 (土)

日経の本性、洗脳教育「トランプ大統領は敵だ」

 新聞社の本音は、言葉のちょっとした使い方で露見する。いくら本音を隠しても、記事を見ればすぐわかる。文書とは人格、社格そのものである。

 

日本経済新聞記者の本音が出る記事

 2020年7月2日付の日本経済新聞の見出しに「バイデン氏、敵失が支え」とある。その他の文中の表現にも記者の本音が出ている。ここでいう「敵」とは記者自身が思っている敵である。下記の記事中の文(青字)は、記者が解釈して書いたことで、事実ではない。

 トランプ氏の「自滅」に助けられている面がある。

 トランプ氏は・・大規模な集会を強行したが・・・・。

 トランプ氏の・・・不適切な対応という敵失が大きく作用している。

202007021s

 日本経済新聞 2020年7月2日

 

グローバル経済企業の敵はトランプ大統領

 中国との商売を継続したいグローバル経済企業にとって、中国と敵対するトランプ大統領は「敵」なのだ。彼らの社是は、株主への利益至上主義なのだ。自分達の企業が儲かれば、社会がどうなっても構わないのだ。彼らにとって、中国がどれだけ不正をしようが、どれだけウイグル族を虐殺しようが、知的財産を盗もうが、自分達が金儲けさえできればよいのだ。グローバル経済企業は今まで中国に多大な投資をしているので、それを捨てるわけにはいかないのだ。

 日本経済新聞社のスポンサーがグローバル経済企業群である。だから日本経済新聞社にとって、トランプ大統領は敵なのだ。だから「敵失」という言葉を平然と使う。

 日本経済新聞社はグローバル経済企業に都合の悪い記事は書かない。その典型が、4年前の米国大統領選挙報道である。選挙結果が出るまで、クリントン候補が優勢と報道をしていた。今回も、マスコミはその轍を踏んでいる。

 バイデン氏は認知症が進んでいるという。そういう報道は大マスコミでは全くされない。

 

事実はない。解釈の違いだけ

 事実はない。解釈だけがあるだけだ。 ニーチェ

 No facts, only interpretations.

 

 どんな報道でも真実ではない。すべて記者の考えというフィルター、新聞社の思想というフィルターがかかって、記事が書かれている。それを念頭に記事を読まないと洗脳される。

 我々はそのフィルターを理解して、その事実を把握しないと、地獄に落ちる。皆さんも同じことを中国共産党や北朝鮮の宣伝部が言えば、嘘ではないかと構えて聞くでしょう。それが日本経済新聞だからと盲信するのでは、日本経済新聞社に洗脳教育をされているのだ。

 朝日新聞も慰安婦報道で大嘘を言っていた。今だ、朝日新聞が存続しているのは、日教組が子供たちを洗脳教育したためである。

 中日新聞社も、河村名古屋市長が南京虐殺事件に関して意見広告を出そうとしたら、その掲載を拒否して、中国の肩を持った。だから中日新聞社の記事は中国寄りの記事になっている。

 

 紙に書かれた事実は、人々から直接に伝えられる事実と同一でない。事実そのものと同じくらい重要なのは、事実を伝える人間の信頼度である。事実はめったに事実でないが、人々が考えることは憶測を強く加味した事実である。

     (ハロルド・ジェニーン『プロフェッショナル・マネージャー』)      

 

 要約とは、膨大な情報の中から理解すべき価値ある情報を選び取る作業です。これを他人任せにすることが、いかに危険な行為であるか、身にしみて感じました。自分にとって必要な情報だけを選び取る選球眼を磨かなければ、情報の大きなうねりの中に組み込まれて沈没してしまうことになる。

    (吉田たかよし『脳を生かす! 必勝時間攻略法』)

.

大本営発表

 その昔の洗脳教育の大本山が、大日本帝国の大本営発表であった。

 今は、日本政府がその役割を担い「日本には1千兆円の借金がある」と解釈を変えて宣伝し、増税に利用した。それで財務省は、財務の貸借対照表の見方を悪用した。財務省は、国民が財務を知らないとして洗脳教育をしている。

 大垣では、小川敏が同じ洗脳教育の宣伝をやっている。曰く「大垣は子育て日本一」の大嘘である。それでいて大垣市の児童生徒一人当たりの教育費が県下最低なのだ。だから大垣は没落した。

.

2     講義_武道としての情報設計- より(2006年)

 

2020-08-01 久志能幾研究所通信 1685 小田泰仙

累計閲覧総数  192,480

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月31日 (金)

人生の縁道で出会う福の神  生前火葬から逃亡

 来る縁が良い縁か悪い縁かは、棺を覆ってからしか分からない。還暦を迎えてから分かったことは、良い縁も悪い縁も全て己が招いたことで、それをどう解釈するかが問題で、どう対応するかは対処処方の小さな問題である。来る縁が良いものであるように生き様を変えるのが根本処方である。来る縁に善悪はない。全て選択の問題であるので、悪い縁と分かっていれば、選ぶまでもない。選択不能の事項なら、受け入れるしかない。それに無駄な抵抗をするから地獄を見る。不幸の時は、不幸を楽しめばよい。死ぬ時は死ねばよい。それも人生である。

 

生前火葬から逃亡

 定年延長して前職の会社に身を置いても、その扱いは派遣社員並みである。職位は剝ぎ取られ、部下はなく、人事権もない。能力の低い前部下の指示を仰がねばならぬ。その境遇は精神的に惨めである。定年後は、使用済み核燃料みたいな扱いで、生前火葬されると同じである。定年延長の期間を過ぎれば、精神がしっかりと焼かれてボロボロになる。

 私はこのありさまを、隣りの部署の元部長が定年延長で働いている姿を見てたので、定年延長を拒否して会社から逃げ出した。

 もし定年延長であと5年間を働けば、精神的に落ち込んで、新しい世界には跳べないだろう。

.

金太郎飴から桃太郎へ挑戦

 トヨタの社員は、金太郎飴のよう何処で切っても画一的だと言われる。それがトヨタの強みでもあり、弱みでもある。大量生産の製造業の在り方としては理想であるが、現代社会の多様性には少しミスマッチあるようだ。

 GAFA (Google,Apple,Facebook,Amazon)で代表される企業とは、企業価値額で、トヨタは負けている。GAFAはダイバーシティを武器に、多国籍、他民族、多価値観の人間がものを作っている。新しい産業には、異質の文化の融合が必用のようだ。

 私も会社時代は、トヨタ系の会社に勤めていたので、私は正にトヨタ金太郎飴社員であった。しかし私が定年になり、定年延長を拒否して会社を離れたので、その束縛から解放された。会社を離れることで、価値観の違う人たちの付き合いで、多くのご縁を頂いた。

  

新しい世界

 「障子を開けて見よ、世界は広いぞ」(豊田佐吉翁)

 私は、定年後、大垣に帰郷して、前職の閉じた世界から、障子を開けて広い世界に飛び出した。それは正解であった。そのお陰で、この10年間、下記の世界を飛ぶことができた。定年後、前職の会社に居れば経験できない体験である。

 その世界は、陰陽の原理で、明暗が分かれる。それが自然である。明の世界ばかりではない。両方の世界から学ばねばならぬ。

 

欧州の歴史探索旅行(3回)

リフォーム工事の世界(9年間)

シシリアシ島でのスケッチ旅行の世界

仏像彫刻の世界

経営者研究会の黒い世界

恐怖の新興宗教の黒い世界

国家資格取得の受験勉強の世界

拝金主義の銀行の手口を垣間見る世界

ピアノの世界

演奏会を撮影する世界

本を出版する世界

黒い会社を経営診断する世界

恵峰先生の書の世界

ブログの世界

大垣市の市政研究の世界

病気の世界(眼、血圧、心臓、ガン)

 

 老いることは、忌み嫌うべきではなく、喜ばしいことだ。「老」には「結ぶ」という意味がある。親子が生物の発展の形である。物事は結ぶことで生成発展する。結婚しかり、合併しかり、異質なものが結び合うことで新しいものが生成される。それを「化成」という。ニンベン「イ」は背の伸びた若者、「ヒ」は腰の曲がった老人の姿である。親子が結ばれて新しい価値が生まれる。それが「化」の意味である。

 

ダイバーシティ(多様性)へ

 老いるとは経験を練ることである。経験と幸福は、自分とは異質の人がその福を運んでくれる。時に、人の本気度を試すために、福の神が貧乏神の全く逆のコスプレで来るときもある。老心は百面相である。老心は異質なものの昇華体である。だからその衣装に騙されないようにしよう。人間界の投影が神の世界である。神の世界もコスプレが大流行である。

 神には、裕福も貧乏もない。それを決めるのは人間の欲というフィルターがかかった目である。来る人が貧乏神に見える時は、目が曇っている時。目が曇っていては、真実が見えない。そんな状態では、人生時間も稼げない。

 

縁を見る目

 人が罹る目の病気に白内障、緑内障がある。心の目が罹る病気の一つが「欲内障」である。良くない症状である。これは手術では直らない。火葬場で灰にならないと消えないといわれる業病である。禍があるから福が光る。人生の禍福の合計は、人生と言う長い尺度ではトータルゼロである。「不遇な時期は人生の貯金の時と割り切って自己充実を図れ」が佛様のメッセージである。

Photo

加藤梅香先生の書

 

2020-07-31 久志能幾研究所通信 1684 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月30日 (木)

人生道千曲がりでのご縁

 還暦を迎えて、歩いてきた過去を振り返えり、更にその後の10年を振り返ると、下っていた人生道千曲がりの道でも、自分の修行としての下り坂で、上に上るためには通らなければならない道であったと、今更ながら運命の悪戯に感謝している。

 悪路を歩いている間は、目先の試練で惑わされてそんな考えは浮かんでこない。しかし過去は考え方を変えれば、その悪い経験を自分の修行であったと、過去の見方を変えることができる。そうすれば自分の未来が変わる。過去を肯定せずして、自分の未来はない。

 逆縁の菩薩に出会わなければ会えない師とのご縁がある。新しいご縁は、縁あるもの死なくしては、生まれてこない。

 

過去の山道

 還暦前の会社時代は、いくら冒険だとしても、所詮、ガードレールの付いた道を歩いていた。還暦後、自由な世界で道を歩いていると、なんと今までが安全な世界で生きていたかと愕然とする。やはり障子は開かねば、広い世界が見えない。障子の外は広いのだ。

 もの心がついて50年、ひたすら頂上を目指して千曲がりの道を歩いてきた。時に坂を下るときもあったが、視線は頂上を見ていた。その坂も、古希を迎える間際になって、やっとその意味を悟る有様である。

 

地獄を見る

 私は健康オタクで頑張ってきたが、若い頃は仕事に目がくらみ、知らず知らず体を傷つけてきた。それに気がついたのは、古希も近いときで、癌が見つかったときだ。そのため終活準備、入院、手術、余命宣告、病後の養生で、多くの出会いと別れがあった。

 極限状態の地獄を見て初めて、その縁の真価が露見する。すべては仏様の導きであったと、今にして思う。地獄の道に入らねば、見えない世界がある。生死の境を超えることで、多くのご縁を授かった。そこから生還できたことに感謝である。

 人生道は千曲がりの坂道である。頂上に着くには、千回曲がらねば到達しない。無駄な曲がりはない。その曲がり角を1回ずつ超えるごとに、経験と知恵がご褒美で与えられる。それがお宝である。

 

 

参考  2017/07/18

人生は千曲がりの山道(改定) - 久志能幾研究所通信

Dsc002342

 

Photo

2020-07-30 久志能幾研究所通信 1683 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

© EDION Corporation