現代の作家は「ジェンダー」に応答できているか? 美術家・黒瀬陽平インタビュー
シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(7)

美術手帖では、全11回のシリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」として、日本の美術界でのジェンダーバランスのデータ、歴史を整理。そして、美術関係者のインタビューや論考を通して、これからあるべき「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」のための展望を示していく。第7回では、カオス*ラウンジの代表であり、「ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校」で5年にわたり講師を務め、アーティスト育成のための指導を行ってきた黒瀬陽平に話を聞いた。 ※編集部注:黒瀬陽平はカオス*ラウンジ 新芸術校の事業において、アシスタントスタッフへのハラスメント行為が発覚。被害者が詳細を告発する事態となった。こうした自体は深刻なものであるが、編集部では黒瀬が過去にジェンダーに関するインタビューを受けたという事実そのものは残す必要があると判断し、記事の削除は行わない(2020年8月4日)。

構成=杉原環樹

サエボーグ Pigpen movie 2016 撮影=日比野武男
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編集部注:黒瀬陽平はカオス*ラウンジ 新芸術校の事業において、アシスタントスタッフへのハラスメント行為が発覚。被害者が詳細を告発する事態となった。こうした自体は深刻なものであるが、編集部では黒瀬が過去にジェンダーに関するインタビューを受けたという事実そのものは残す必要があると判断し、本記事の削除は行わない(2020年8月4日)。

美術大学におけるジェンダーバランス

━━美術界におけるジェンダーバランスの問題が注目を集めています。黒瀬さんはジェンダーに関わる不平等について、何か感じていることはありますか?

 ぼくは美術館などで働いているわけではないので、大きな組織の内部事情はよく知りませんが、ごく身近なところでは、美大・芸大におけるジェンダーギャップが思い当たります。美大・芸大は女性の学生が多い傾向にあると思いますが、教員の男女比を見ると、圧倒的に男性が多い。その点は明確な不平等ですし、実際に学生指導の局面でも問題が多いのではないかと思います。

 しかし、美大・芸大に進学する前の美術予備校になると、講師の男女比率は美大・芸大ほど偏っていないのではないでしょうか。ぼくも都内の予備校で働いていましたが、現場で学生を指導する講師は女性も多く、男性中心の職場だと感じたことはほとんどありません。そう考えると、美術界も保守的で権威的なところに行けば行くほど、男性中心の社会になっているのかもしれません。実際、美術館の外で活動しているインディペンデントな現場では、女性のプレイヤーが多いと感じます。

━━「女子学生が多い」というお話でしたが、卒業後、実際に世の中で活躍するアーティストには男性が多いという印象です。これについて、批評家に男性が多いこと、つまり男性が言説をつくっていることが関係しているのではないか、という指摘もあります。

 ある程度は関係している、とは思います。一口に「言説」と言っても複数あるわけですが、少なくも書籍や雑誌、新聞のようなメディアで筆をふるう美術の書き手には、男性が多い。たとえば、戦後の美術評論の御三家(針生一郎、東野芳明、中原佑介)のように、美術専門誌で書いている評論家はおじさんばかりだよね、という話はもちろんあるし、男性社会のすごく閉じたサロンでつくられた美術言説が、批判を受け付けないまま続いてしまっている面はあると思います。

 ただ、そのことと美大の学内政治は、また違う問題ではないでしょうか。僕も内部にはいないので伝聞になるけれど、たとえば美大や芸大のなかで、誰が教授や学長になるかというのは、ほかの企業と同じく中年男性のコミュニティにおける「純粋」な政治であって、批評や言説とは切り離された世界だと認識しています。でなければ、なぜ美大や芸大では、作家や批評家としてはほとんど何の業績もないプレイヤーが要職に就くことが多いのか、という素朴な問いに答えられない。

━━教員と学生のギャップが生む問題では、多摩美術大学大学院の彫刻科の学生有志が大学に対してハラスメントに関する要望書を提出した件もありました。

 美術を学びたい若い女性の学生に対して、男性社会で生きてきたおじさんの教員がどれだけ対応できるのか。学生は、内面にすごくデリケートな意識や問題を抱えている。そこにどれだけ踏み込んでケアできるかと言えば、現状はとても難しいと思います。意識的ではなく無意識のレベルでも、「男性だから/女性だから」という判断、思い込みはどうしても残ってしまいますし、それは知識や意識だけでは乗り越えることができない。男性教員ばかりだから理解してもらえなかったということは、美大出身のアーティストからもよく聞きます。

黒瀬陽平

ラベリングを超えて、議論の質を求めること

━━黒瀬さんは美大や「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」で教える立場でもありますが、女性の学生に対してはどのように向き合っていますか?

 とにかく学生の話を聞くことを意識しています。もっと正確に言うと、学生に喋らせることですね。多くの学生は、自分が考えていることをまだ上手く言葉にできません。言ってみれば言葉の解像度が低い。言葉の解像度を上げるために、まずは喋ってもらってそれをきちんと聞く。そして、言いたいであろうことと語っている言葉のミスマッチを指摘し、それを修正させる。さらにもう一度、喋らせる。この過程を繰り返していくと、本人の言葉の精度が上がってくる。そのチューニングのために、とても多くの時間を使います。

 ぼくの経験上、美大ではこういう作業が圧倒的に足りていない。作品を見て、先生がなんとなくコメントを言って、終了、みたいな。つまり、お互いが他者であり、異なる言語で話しているという構えがないわけです。とくに新芸術校では、そうした部分にすごく気を遣いますよ。だって、一般から応募してきた受講生について、こちらは何も知らないわけだから。間違った対応で成長を止めたり、傷つけたりしてしまう可能性がある。

━━新芸術校の生徒の男女比はどのくらいですか?

 ほぼ半分で、少し女性が多いくらい。ただ、先着順で採っただけです。新芸術校の生徒は1年目から本当にみんなの出自も年齢もバラバラで、ぼくの一回り上どころか、親や祖父母くらいの歳の方もいらっしゃいます。

━━ジェンダーだけでなく、世代差や立場の差が生むギャップもありそうですね。

 そうですね。ただ美大に関しては、少なくとも女性教員が増えることで、「女性教員が少なくて女子学生の相談相手がいない」という現状は変えられる。ならばまずそこをクリアして、「女性教員はいるけれど話が通じない」という、次のレベルの議論ができるようにするべきだと思います。

━━美大の学生からは、ジェンダーに関する作品をつくろうとすると、先生から「それは茨の道だ」と諭されたという話も聞きます。つまり、「そのテーマでつくり続ける覚悟があるのか」と。

 それはひどい。学生がそのときに提出してきたテーマをずっと続けるかなんてわからない。いま一生懸命考えていること、興味があることを作品にするのは、学校で成長していくうえで当然のことであって、まずは内容について話すべきです。それができないのは、教員が作品内容について議論する教育をサボっているに過ぎない。すべてをパターンで処理していて、「その学生」自身の問題を見ていないわけでしょう。これはジェンダー問題に限らず、美大でありがちな事態ですね。

━━これは美大に限らないですが、男性にとっては、女性がジェンダーや女性性について主張をすること自体、忌み嫌ってしまう部分があるのかなとも思ったのですが。

 どうでしょう。いままでの話とその議論は別なんじゃないかと思いますが、そのレベルの偏見があるとしたら、論外ですね。ジェンダーを扱った作品も個別的な良し悪しがある。「ジェンダーを扱っているからダメ」と、「それゆえに良い」というのは、同じくらい雑なラベリングです。その次元を超えて、議論のレベルを下げないことが重要だと思います。

「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」第1期の授業写真。右が堀浩哉

サブカルチャーの豊かなジェンダー表象

━━女性のなかにも、女性性が無批判に持ち上げられることに対する疑問の声というのはあります。

 議論が成熟していないんだと思います。議論の蓄積やパターンが少ない。もちろん専門的な領域では研究の蓄積がありますが、それが現場レベルに降りてきていない。

 ぼくも大学の授業でジェンダーに関する話をすることがあります。でも、ジェンダー論ではなくてコンテンツを紹介するんですよ。ぼくはジェンダー論の専門家ではなく批評家ですから、コンテンツを一緒に見ながら、考えましょうというスタイルを取っています。たとえば、女子美術大学で担当している授業では、「#MeToo」運動前後のサブカルチャーの話をしています。美大だから美術の話をしたいけど、現代美術史のなかでジェンダー問題を扱おうとすると、最低でも1960年代まで遡らなければならなかったり、たくさんの固有名や美術史的文脈を解説しなければならなかったりで、現代のアクチュアルな問題に接続するまでに時間がかかってしまうんですよね。

 それに比べて少女漫画やBLコミック、ハリウッド映画や海外ドラマは、そのあたりの問題に敏感で、あらゆる批判を想定しながら「いま」の社会にアンサーを返している。だから限られたコマ数のなかで、いまのジェンダー問題を考えようとするなら、サブカルチャーを入り口にしてもいいんじゃないかと。

━━サブカルチャーとは、具体的にはどういった作品ですか?

 先駆的なのは、ディズニー映画の『アナと雪の女王』。あれは2013年公開で「#MeToo」運動より前です。ディズニーは受け身なプリンセスばかり描いてきたけれど、『アナ雪』はそのことに対するディズニーの自己批評になっている。しかし面白いのは、『アナ雪』はむしろ極端な「逆張り」になっていて、あの世界に登場する男性はヘタレか詐欺師しかいない。つまり、男性がなんの役にも立たない世界を描いてしまっている。男性は役に立たず、女性だけで成り立つ世界のなかで、本当のマイノリティは誰なのか?という、複雑な問いに導かれる傑作です。

 いっぽう「#MeToo」以降は、強い女性のあり方や理想を描く作品が増えます。それを一番突き詰めたのが『キャプテン・マーベル』(2019)。スーパーマンの女性版のような設定で、『アナ雪』よりもさらにシンプルな「逆張り」に見える。ただ、よく見るとあれはいわゆる「ガラスの天井」(*1)問題に対して新しいアンサーを返そうとしているようにも読解できる。キャプテン・マーベルと男性の師匠の関係をよく見ると、女性の社会進出を阻む「ガラスの天井」なんてじつはなかった、というメッセージを入れようとしたのかもしれません。

 ほかにも、最近ではウェブで連載されているマンガ『青のフラッグ』(2017〜、集英社)、Netflixのドキュメンタリー『クィア・アイ』(2018〜)などは、いろいろと突っ込みたくなる問題点もありますが、批評的な視点を持った作品です。こうした作品についてちゃんと説明すると、学生も意見をぶつけてくれたり、自分もそうしたアイデンティティの問題を抱えていると相談してくれる。「あ、通じるな」と思いますよ。

━━美術の領域で、ジェンダーの問題につながる作品をつくっている、黒瀬さんが注目されているアーティストはいますか?

 男性作家ですが、飴屋法水さんが思い当たります。飴屋さんは、つねに他者や不可能性について考えている作家ですから、自分が男性であること、自分が女性でないことについて考え続けていると感じます。飴屋さんには新芸術校にも講評に来てもらっていますが、その態度はしっかりと講評や生徒への対応にも現れていますね。

 それから、サエボーグはモチーフとしてジェンダーを扱いながら、人間の欲望とは何か、という問題に迫ろうとしているように思います。ジェンダーを超えて共感できる哲学的な問題を提示しようとしている、尊敬できるアーティストです。

サエボーグ 2019年の「Dark MOFO」(ミュージアム・オブ・オールド・アンド・ニューアート、オーストラリア)でのパフォーマンスの様子 撮影=都築響一

キャラクター表象の理解のために

━━カオス*ラウンジについてはどうでしょう? カオス周辺の作家が扱う美少女キャラクターの表象については、その男性主体的な視線について、とくに海外などから批判もあると思います。

 去年9月、香港で行われた「セカイ系」と現代美術についてのフォーラムに参加しました。日本からは僕を含め3人と、ほかにイギリスや中国や韓国のアーティスト、研究者が登壇したのですが、その海外の方たちから、「日本の美少女キャラは、男性の欲望によって暴力的に女性のイメージを歪めている」という指摘が複数ありました。

 たしかにその通りなのですが、そもそもそのようなキャラクターは、いわゆる「エロゲー」などのポルノコンテンツのなかから生まれている、という文脈があります。つまり、本来はごく一部の人の目に触れる小規模でアンダーグラウンドな文化だったものが、徐々に大衆的なサブカルチャーとして評価されるようになり、キャラクター造形などに大きな影響を与えている、というプロセスがある。本来的には日本国内でもアンダーグラウンドなものであり、その意味で、ある種のタブーと隣接していた表象なんです。

 ところが、近年の「クールジャパン」が典型的なように、その背景を全部飛ばして、あたかも日本では美少女キャラがなんの抵抗もなく大衆に受け入れられているかのように国外にアピールすることは、大きな誤解を生んでしまいます。シンポジウムでの指摘は、そのような誤解によって生まれたねじれなのだと思います。

 これは、村上隆さんが提起した問題の延長線上にある議論です。なぜ日本の一部のサブカルチャーは、こんないびつなキャラクター表象を生み出してきたのか。これに対して、村上さんは敗戦など歴史的、文化的な背景を考察して、ひとつの道筋をつけようとした。そのいびつさの起源を問うことが重要なのであって、クールジャパンのように「日本初の美少女キャラはこんなに世界中で愛されている」と宣伝することは、アートとなんの関係もありません。

━━性別にかかわらず、キャラクター的な表象を扱う作家は増えていますが、制作や発表にあたってどのような意識やプロセスが必要になると思いますか?

 様々なアプローチが必要だとは思いますが、ひとつは、われわれはキャラクターというモチーフについて、どのような議論を蓄積してきたのか、その歴史を共有しようとする努力かなと思います。

 例えば批評の世界では、大塚英志から東浩紀や伊藤剛につながるキャラクター論の蓄積があります。批評家が時代を超えて少しずつ、その土台をつくってきた。それくらい日本におけるキャラクターというのは、表現における重要なモチーフなのだと。そして、アーティストはその扱い方によって、現実との距離感や自分の考えを表明できる。だからキャラクターは、歴史のなかで時間をかけてつくられてきたひとつのモチーフである、という説明をすることは可能です。

カオス*ラウンジ-X- ポタティックドリーム2018 実質ヴァーチャルの冬 ヴィジュアルイメージ

コレクティブと多様性

━━もう1点、カオス*ラウンジや新芸術校での経験をふまえてお聞きしたいのは、コレクティブや集団制作についてです。日本でもアート・コレクティブの歴史は脈々とありますが、多くは男性たちが組織する集団です。女性が参加する場合も、どうしても「紅一点」的な立場になりがちです。どうしてこのような構造になってしまうのか、何か考えていることはありますか?

 それは美術界だけの問題ではないと思います。大きく言えば、義務教育の教室における男女の関係や、男性同士・女性同士の関係を反映している、ということに過ぎず、アート・コレクティブだから特殊な集まり方をしているわけではない。つまり、日本人がどんな環境で育ってきたのかという問題に関わっているのではないでしょうか。

 ぼくにも息子がいますが、幼稚園や小学校のころから、誰が言ったわけでもないのに「男の子」「女の子」グループという風に、明確に同性の集団をつくる。そのなかで異性のコミュニティを遠くに眺め、同性同士で結束を固めるという習慣がついているのかなと。そうなれば、閉じられた男性のホモソーシャルなコミュニティにあえて入っていこうとする女性は自然と少なくなる。同じように、女性のコミュニティに男性が入ることも、ハードルは決して低くない。コレクティブのジェンダーバランスの問題はそのあたりに根があって、成人後の意識の問題よりもっと前に理由があると思います。

━━ホモソーシャルなコミュニティにおいては、優秀なリーダーであるために、どうしても強い男性性が求められてしまう、という問題も起こりがちだと思います。そのような問題も含めて、黒瀬さんが思う、あるべきコミュニティ像やリーダー像があれば聞かせてください。

 重要なのはやはり多様性だと思います。強い男性性を求められるという問題は、男性同士のコミュニティや同じタイプの人間同士だからこそ起きやすくて、多様性によってある程度解消されるのではないでしょうか。ぜんぜん違う人生を送ってきた人が近くにいれば、お互いに変に期待し合うこともない。多様性がなくなり、自分への感情移入だけで結束する集団になると、リーダーはキツいということだと思います。

━━ただ、その多様性を担保することは、とても難しいことのようにも感じます。

 アート・コレクティブに関して言えば、難しくはないと思いますよ。コレクティブは、作家がひとりで制作するのとぜんぜん違う。集団でつくる、組織なんです。組織としてやらなければいけないことを考えたとき、必要な人材は多様じゃないですか。

 多様ではないコレクティブは、集団に見えてじつはひとりなんです。ひとりでやるのと同じようなことをしているから、同じタイプの人しか集まらない。だから、現代のコレクティブの問題点は、じつは「コレクティブじゃない」ということが本質でしょう。強い個が、自分のやりたいことを拡張するためにひとりで頑張っているコレクティブがとても多い。でも、それはひとりでやっていることの拡張でしかなく、表現として何も新しくはない。

 ぼく自身は、将来的にはそうではないコレクティブを目指しています。これはジェンダーの問題から考えたというより、サステナビリティの視点から考えたんです。ある段階で、ワンマンのコレクティブの限界に直面し、このままでは長続きしないから、組織として人材を集め始めた。この人はつくり手ではないけど、仕事ができるからメンバーに加えないといけない、とか。そういうことを考え始めてから少しずつ変わってきたし、続けられる手応えを持てました。

 

理念と現実を同時に考える

━━最後に、アートにおいて、あるべきジェンダーフリーの状態とはどんなものだと考えていますか?

 正直、いまのぼくには、そうした問題がすべて解決した社会を具体的に想像することができません。それは、ぼくの想像力の限界なのでぼくの責任なんですが、ひとつ思うのは、自分が生きている間に現実的にここまでは解決できるというヴィジョンと、自分が死んだあとであっても、理念的にはここまで解決できるだろう、というふたつのヴィジョンを持ったほうがいいのかな、と。

 遠くの理念を語る人と、現実的な処方箋を考える人。この二者は、目線が違うだけで本来は対立していないのに、あたかも対立しているように衝突してしまうという状況が、現代における一番不幸な分断なのではないでしょうか。たとえば、「あいちトリエンナーレ2019」における津田大介さんのジェンダー平等の方針について、男女を同数にするという「形式を優先するのか」といった批判があります。しかし津田さんの提案は、現時点で何をやったら前に進めるのかというプラクティカルな処方箋であって、では、将来的にどうすればいいのかというのは次の議論です。実際、津田さんの提案は議論を先に進めているわけですし。

━━取材にあたって、じつは、男性にとってジェンダー問題を語ることには抵抗感もあるのでは?とも予測していました。そうした戸惑いは感じませんでしたか?

 ジェンダーに関する専門的な議論であれば、ぼくも遠慮させていただいたと思います。専門家ではないですから。でも、専門的な勉強をしたという意味ではなくて、たとえば実際にぼくが運営している組織や職場には女性の作家や学生もたくさんいますし、コミュニケーションを取る時間もたくさんある。そういう実際の経験から考える、ということなら、誰しもが考え、語るべきだと思ったので、のこのこと出てきました。

*1──性別や人種などを理由に不当な状態を強いられ、組織内での昇進を阻む障壁のメタファー。


あらゆる人間に必要なジェンダーへの思想、その実践。小田原のどか×百瀬文 対談(後編) シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(11・最終回)

世界経済フォーラム(WEF)による2018年度版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は「調査対象の149ヶ国中110位」という低順位であることが明らかになったが、日本の美術界の現状はどうか。美術手帖では、全11回のシリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」として、日本の美術界でのジェンダーバランスのデータ、歴史を整理。そして、美術関係者のインタビューや論考を通して、これからあるべき「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」のための展望を示していく。最終回となる第11回では、アーティストの小田原のどかと百瀬文が、ジェンダーを取り巻く「実践」について語る。

構成=杉原環樹

百瀬文 Jokanaan(スチル) 2019
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 JOYのためのフェミニズム

小田原 対談の前半では、従来の批評言語ではピックアップされにくい女性アーティスト主体のコレクティブの紹介を中心に話を進めてきました。ただ、繰り返し述べてきたように、それらの活動はそれぞれ異なる動機に支えられていて、一言でまとめることができるものではありません。そうしたなか、百瀬さんから「女性の身体」というキーワードが出ました。後半では、百瀬さんと私という個別の身体がどういった歴史のなかで言葉や思考を構築してきたのか、個人的な話もできればいいなと思っています。はじめに、百瀬さんからうかがっても良いですか?

百瀬 私は、「JOYのためのフェミニズム」という考え方を大事にしています。結論から言っちゃうと、この「JOY」とは、自分の身体は自分のものであり、私はこの身体を楽しんでいいんだという、自己肯定感のことです。私はそこに至るまでの過程がけっこう複雑で。というのも、私は育った家が変わっていて、父親がわりと原理主義的なフェミニストという珍しいパターンだったんですね。うちの両親は結婚をしていなくて、私はいまも戸籍上は庶子扱いになっています。百瀬は母方の姓ですね。一応、父に認知されてはいるけど、非嫡出子と呼ばれる状態になっているんです。

小田原 生活はともにしていらしたのですか?

百瀬 いまは私は実家を出ていますけど、大学を卒業するまでは一緒に暮らしていました。よく覚えているのが、小学生のとき父に「うちはなんで結婚していないの?」と聞いたことがあるんです。そのとき、「なんで自分たちが一緒にいることをお上に言わなきゃいけないんだと思う?」って返されたんですね。

小田原 逆に聞き返されてしまった(笑)。

百瀬 私はうまく答えられなくて。いま想像すると、父はおそらく自分たちが子供を産んだ世帯であることを国に伝えることで、「国力」みたいなものにカウントされるのが嫌だったのかなと思うんですけど。というのも、父は野菜なんかも自分で庭でつくっていたり、わりとアナキスト的な側面が強い人だったので。とにかく、いわゆる「イエ」制度とはズレた価値観の家庭で育ったんですよ。高校も、制服をスカートかズボンか選べるジェンダーフリーを謳った女子校に行きました。

小田原 それは、ご自分の意思で行きたいと選択なさったのですか?

百瀬 何気なく、親に誘導されていたかもしれません(笑)。その学校はフェミニズム教育が盛んだったのですが、すごい授業があって、さだまさしの「関白宣言」の歌詞カードを渡されて、「ジェンダーロールが含まれる部分をマーキングしなさい」と言われるんです。

一同 (笑)

百瀬 真っ赤になるんですけど(笑)。タイトルからアウトだろ、みたいな。いっぽう、そのいわば「フェミ・エリート」のような周囲の環境を誇らしく思うと同時に、自分がなぜか幸せになれないというジレンマも感じていて。例えば気になっていた男の子から告白されても、「結婚しよう」と言われた瞬間すごく萎えてしまう。それは、当時の自分のなかで、女性が家父長制の犠牲者であり、つねに弱きものであるというアイデンティティを内面化せざるを得なかったからだと思います。被害者でないと女性としてのアイデンティティが崩壊してしまうから、自分が幸せだと言えない状態に置かれてしまい、うまく自分のJOYが見つからなくなってしまった。それが大学生ぐらいの頃までズルズル続いたんですけど、自分を変えるきっかけになったのが、ピエール・クロソウスキーの『ロベルトは今夜』(河出書房新社、2006)という1954年に書かれた小説だったんです。たまたま小田原さんも……。

小田原 私もクロソウスキーは大好きで、お気に入りは『バフォメット』です。

左からピエール・クロソウスキーの『ロベルトは今夜』(河出書房新社、2006)、『O嬢の物語』(河出書房新社、1992)

百瀬 『ロベルトは今夜』は、夫婦の往復書簡みたいな感じで、日記的な文章が交互に並ぶという構成の小説なんですよね。夫のオクターヴは敬虔なクリスチャンで神学教授なんですが、妻のロベルトは婦人代議士でリアリスト、原罪や戒律の感覚がない。そこで彼はロベルトのもとへ若い男たちをけしかけて不貞の関係を結ばせ、彼女に原罪の意識を植え付けようとする。しかしそれに対してロベルトは、むしろそうしてやってくる男たちと積極的な関係を結び、自らの主体的な性の欲望に目覚めていく。オクターヴの思惑を裏切って、あなたは何もわかっていないと、自分の喜びのために自分の身体を獲得していく、そういう小説なんです。

 かつてのフェミニズムでは、結婚制度とは女性が身体をある意味男性に預ける、セックス権を預けることだとも言われた。それに対して、『ロベルトは今夜』は、そうではない自分の身体のあり方を考えるうえで、私に新鮮なパワーを与えてくれた小説だったんです。

 私の場合、そこからどんどん変なほうにいって、SM文学も好きになりました。例えばSM文学の古典でもある『O嬢の物語』の著者ポーリーヌ・レアージュは、ドミニク・オーリーという女性作家の偽名と言われています。彼女が、文芸評論家の恋人に「女には性愛文学を書くことはできない」と言われたことに対する反論として、この『O嬢の物語』の執筆を始めたという点もとても興味深い。一見すると女性が鞭で打たれまくったり、ひどいことをされているんですけど、そこには厳密で儀式的な同意のプロセスや、女性が自らの喜びのために身体を相手に差し出す過程が、非常に緻密な描写で描かれている。

 そのような文章に触れるうち、自分のやりたいことが見えてきた部分もあって。自分が表現の道に向かったのも、キャンバスと絵具の筆触に少しマゾヒスティックな快楽があったからかもしれないし、自分が他者と対峙して映像を撮るときも、そうした緊張感のなかで対象に射抜かれるような感覚があって、それが自分の主体的な欲望とつながっているんだと思ったときに腑に落ちる感覚があった。自分の身体を通して思考することをもっとポジティブにとらえていいんだと思えるようになったという点で、文学は大きなきっかけでした。

 

「選ばれる」という意識の内面化

小田原 百瀬さんは、いわゆる日本の婚姻制度には疑いがありますか?

百瀬 疑いというほどではないですが、自分の親が結婚していないぶん、必然性を想像しにくいというか、リアリティがないということはあります。ただ、当たり前ですけど、必ずしも自分のポリシーとプライベートが一致している必要もないと思います。結婚しながらフェミニストでいることも可能なわけですし。

小田原 なるほど。私は結婚していますが、夫が私の姓を名乗っています。世帯主も私です。べつに何か生家からの要請があったわけではなくて、むしろ反対されたのですが、ふたりで話し合ったうえでそのように決めました。

 私自身の生い立ちですが、親戚中を見渡しても、母も祖母も叔母たちもみな自分の仕事を持って働いていたので、専業主婦が身近にいませんでした。母方の祖父は戦前に日本共産党員だった人物で、戦後も政治運動に関わっていました。けれど身体が丈夫ではなく、祖母は公務員をしながら祖父の事業も手伝って、猛烈に働いていました。祖母は大正一桁生まれですが、母や母の姉妹たちは山羊のお乳とお手伝いさんが育てたと聞いています。祖父のことは思想も含めて尊重していたのだと思います。夫婦が自由で対等であるために、女性は絶対に働かないといけないという考えを持っていて、私もそれを強く言われて育ちました。結婚や出産はどうでもいい、女性であっても一生続けられる仕事を持つことこそがあなたの人生にとって重要なのだと。あと、パートナーは財産や見た目ではなくて、「思想」で選びなさいと言われたことがあります(笑)。

 母は東京出身ですが、いっぽう父は青森出身で生家は農家です。そちらの家では女性と男性が一緒の食卓を囲まないんです。女性はおかってで食べなければいけない。でもじつは、畑にどういう作物を植えるかなど、仕事のいちばん根幹になる部分の決定権は女たちが持っていたりもする。いちばん広い部屋には皇室の近影がびっしりと額装して飾ってあり、物心つくまでは親戚の写真か何かなのかなと思っていました。そんな真逆とも言える「家」のあり方を見て育ちました。

 結婚については、それぞれの生家を出て、ふたりで新しい独立した戸籍をつくることをしたかったというのがいちばんです。そうすることが自分たちにとって、本当の意味で自由に生きる唯一の方法だと思ったのです。自分では選べない「家」から離れて、帰りたいと思える家と家族をふたりでつくりたいと思いました。それもあって、結婚式は両親や親類は呼ばず、友人のみで行いました。旧来の婚姻は、女性の人身売買的側面が強くあり、いまでも「家」と「家」の結びつきが強調されるわけですが、私たちに関しては、そうではないあり方を選んだかたちです。昔で言うところの「駆け落ち」に近いかもしれません。そういった家父長制へのカウンターとしての結婚もありうると思っています。とはいえ婚姻制度には不満があって、現状では、名字のことで夫に不自由な思いをさせているのが心苦しいですし、早く選択的別姓になってほしいです。けれど、そんな不自由ななかでも、考えて選んだ、ということを大切にしたいと思っています。

 そこから思うのは、百瀬さんも講師をされている「蜘蛛と箒」という組織で、研究者の吉良智子さんが開催する「近現代日本美術史をジェンダーの視点からみる」という連続講座に通っているのですが、そこでいろんな受講者の方と意見を交換して、生い立ちがその人の枷にも力にもなっているということをあらためて感じました。抑圧的なご家庭で育ち、苦しんでいる方もいた。

 それから、作家のなかで「選ばれる」ということが驚くほど内面化されていることにも直面しました。具体的に言うと、批評家のような立場の人から無理矢理に近いかたちでふたりきりで会おうと言われたときに断りにくいとか、尊厳を傷つけられるようなことを言われても耐えるしかないとか、ある賞に推薦してもらったりピックアップしてもらった人に抗えないとか、自分は「選ばれる側」だから理不尽な目にあっても多少のことは目をつぶらなければという話を聞いて、とても驚いたんです。

百瀬 性別に関わらず「選ぶ/選ばれる」という、キュレーターや批評家と、アーティストの関係の非対称性の問題はありますよね。キュレーターがアーティストを選ぶ「VOCA」展に代わって、アーティストがキュレーターを選ぶような展覧会をつくったらどうかと思ったことがあります。なんか毎回、馬と馬主みたいな関係性だとお互いに嫌じゃないですか(笑)。それをたまに交換するような試みがあれば面白いのになあ、と。

小田原 馬と馬主(笑)。その意味でも、百瀬さんの「JOYのためのフェミニズム」は重要で、それは自分のあり方を主体的に選べるんだということですよね。この身体を持って自由に生きるという意識が、いろんな枷から自分を解き放ってくれるものにもなるんだ、ということ。もちろん、アーティストとキュレーターや批評家の非対称性は制度的な問題なので、別アプローチで解消していく必要もあるとは思うのですが、少なくとも変だと思うことがあったら意見を言っていいし、嫌な人、恐い人とは会わなくていい。自分を損なうような付き合いは避けていいし、自分で選べるんだよということを、とくに若い世代の人には伝えたい。

百瀬 上の世代からそう言われなければ、若い人は自覚もしにくいですもんね。

小田原 おかしいと思うことがあれば、おかしい、嫌だと言っていい。それは、ぜんぜんワガママなんかじゃない。

 

「隣にいる人」と問題を共有する

──いろいろなお話をありがとうございます。制度のお話がありましたが、素朴な疑問として、どうしたらそれが変えられるのかと思うんです。美術館にしろ、教育機関にしろ、小さな声を拾い上げていけばそのあり方が変えられるものなのか。

小田原 いまは過渡期で、今後女性がもっと管理側に入っていく。トップダウンは良くないですが、まずはトップやそこに近い人たちの意識が変わらないと、状況は変わらない。だけどそれは、いま権威側にいる男性たちをもれなく排除すべきだということではないはずです。こんなに問題があるからこそ一緒に考えていきましょう、ともに生きていきましょう、という姿勢は欠かせないと思います。そこは、私が強く言いたい部分です。

 母校の多摩美術大学彫刻学科で学生がハラスメントの訴えを起こしたときも、当事者の気持ちは当然尊重したいですが、大学という制度や彫刻の歴史の問題でもあると思ったんです。とくに彫刻という領域では、教員たちが学生だった時代には周りに女性が少なかった。それがこれだけ美大に女性の学生が増えたとき、あなたたちの常識がおかしいと言われても、対応する術がわからず抑圧的に振舞ってしまう部分があるのだろうと想像します。とはいえ、現状では大学側が誠実に対応していないので、そこは強く批判されるべきですし、もちろんハラスメントは調停されなくてはなりませんが、教員個人の資質の問題として断罪するのではなくて、過渡期に必然的に生じる構造の問題としてとらえる必要があります。

 では、どうすればいいか。権力者を斬首!という方向性ではなくて(笑)、そこに多様性を担保させればいい。そしてその多様性を交換し合うような仕組みづくりをする。具体的には、美術大学でも「ファカルティ・ディベロップメント(大学教員の教育能力を高めるための実践的方法)」を学科や専攻を横断して共有する仕組みをつくるべきです。大学という高等教育の場でどのように美術を教えるかという知見を、交換して蓄積していくことは、これからますます必要です。

百瀬 「ひるにおきるさる」に掲載されている遠藤麻衣さんのロングインタビュー(聞き手・福尾匠)で、私の「以前は『肩パッド』を入れて制作していた」という言葉に触れていただいたんですよね。この「肩パッド」は、前半で話したような、「自分を武装化するための態度」の比喩として使っています。そのインタビューのなかで、福尾さんも「男が自分で勝手に肩パッド入れているっていうのもけっこうあるんじゃないか」と仰っていて。たしかに、勝手に自分で設定した規範に苦しんでいる男性もいると思うんですよ。この世界を椅子取りゲームとしてとらえてしまうと、「自分たちの椅子を女性たちが奪おうとしている」と、ミソジニーに走ってしまったりするわけですよね。でも、そもそもその椅子って存在しているのか。例えばレジャーシートのように全員が座れる場所を、流動的で、仮設的なものとして設定するということだって可能だと思うんです。そうした環境ごとに発生するマッチョイズムは、性別問わずみんなで解決すべき病なのだということを認識して、問題を共有できるフラットな場がつくれたらいいのかなと。

小田原 レジャーシート! いいですね。私は危機は好機だと思うんです。そういう病によって、男性だって苦しんでいる。同質性が高い環境は「同じであること」が求められるので、抑圧がきつくなります。そこで問題が起こるのは当然なんです。だからこそ、そこで必然的に起こってしまう問題に対する異議申し立てを隠そうとするんじゃなくて、ともに学んで、いびつな状況をアップデートするチャンスだととらえていくほうがいい。

 最近、アーティストの嶋田美子さんにお話を聞きました。嶋田さんが1997年に『現代思想』誌に寄せた「マニラで考えたこと」という、スーザン・ソンタグの『ハノイで考えたこと』をふまえた素晴らしいエッセイがあって。マニラのいわゆる慰安婦と呼ばれる方たちのことから話が始まるんですけど、彼女たちを一方的に搾取された側、被害者として固定化するのではなくて、そのいろんな側面に光を当てながら、日本人で女性であることの責任や表現活動をすることについて思考されている。

 そのなかに「愛しあうこと」という章があって、笠原美智子さんの言葉を引きながら、フェミニズムというのは個としての立場の違いを明らかにするもので、自分とは相反する側の存在を認めたうえで、いかに引き受けられるかを考えるためのもの、フェミニズムは「高度な愛」だと書いてある。個々のフェミニズム観の違いからくる不毛な争いや、闘争の自己目的化、あるいは一方的な「共生」とか「連帯」とは違うあり方を探るうえで、たくさんヒントがあると思いました。

百瀬 あくまで私の身体は私のもの、あなたの身体はあなたのもの。そこを共有しながらも、隣にいることはできる。その距離感に名前をつけると、愛になるというのはわかりますね。

 

ポップカルチャーの波及力とその影

小田原 先行世代のフェミニズムの思考の蓄積を、アカデミズム的な継承の仕方ではなくても、読み解いて実際の生活に生かすことをつねにみなやっていると思うんですね。私は大学でフェミニズムで学位をとったわけではないですが、自分が生きていくなかで必要な思想だと思うんですよ。というか、あらゆる人間にとって必要だと思います。

──その必要性が、より多くの人に普通に共有されたらいいですよね。

小田原 そうですね。現状だと、武装化のツールとしての側面も強いので、「フェミニズム」という言葉に抵抗を覚える人もいるかもしれません。

百瀬 都市と地方の情報格差の問題もありますよね。最新のジェンダー関連のシンポジウムやイベントは基本的にやはり都会で行われるわけですけど、そういう場所に来られない遠方の女性たちは普段どんな環境のなかで暮らしてるんだろうと考えることがあるんです。女性作家が地方の芸術祭に参加したりすると、現地のおじさんにびっくりするくらい男尊女卑的な発言をされたという話はよく聞きます。そのとき、アカデミックな言葉にどこまで波及力があるのか、ということはよく考えてしまう。

 その意味で、ポップカルチャーの速さはすごいなと思っていて。2009年に結成された「2NE1」という異色のK-POPグループがあったんですけど、そのコンセプトは「女性の権利拡大」なんですよ。韓国のジェンダーをめぐる状況は日本と似たところがありますが、日本よりも男尊女卑の傾向が強く、ついこのあいだ違憲判決が出るまで女性の堕胎罪があったくらいです。なので韓国の女性たちには、このままではやばいという危機意識がつねにある。そこでK-POPでは2011年以降、「ガールズクラッシュ」という概念を打ち出し、「守られる儚い対象」ではない、女性が惚れそうになる女性アイドルというイメージをつくり上げたんです。おそらく、そうしたカルチャーは地方にも届き得るし、その波及力と批評的な言葉の力みたいなことが合わさってくるともっと面白くなってくるんじゃないか、みたいなことは考えたりします。

小田原 最近、「韓国・フェミニズム・日本」特集の『文藝』2019年秋季号(河出書房新社)が重版となり話題になりましたが、韓国の女性作家による小説もとても人気ですよね。ただ、私はポップカルチャーに見られるフェミニズム思想をいいなと思ういっぽうで、市場原理のなかで必然的に生まれてきた側面や、販路拡大のために安易に利用されているのではないか、という意識も持っていたいなと思っています。

百瀬 たしかにその指摘は重要だと思います。もともと「ガールパワー」という言葉も、ライオットガールのムーブメントから出てくるんですけど、この動向自体はパンクですから、もともとは市場に抗うやり方だったんですよね。ただ、その後この言葉はスパイスガールズのイメージになってしまった。もちろん、それで広まった面もありますが、矛盾もあると思います。

小田原 1920年代にニューヨークで女性の権利拡大のためのデモパレードがあったとき、女性たちがわざと喫煙をしながら歩いて、これが私たちの「自由の松明」だと言って、それが先鋭的で自立した女性像だとメディアに取り上げられました。それでタバコのイメージがガラッと変わったんですけど、じつはそれは、ラッキーストライク社の依頼でプロパガンダ広告の専門家が仕掛けた世論操作だった。女性の権利拡大の動きを喜ばしいと思ういっぽうで、そこに市場の要請はないか、いったい何によってプロデュースされているのかということは、つねに意識したいです。

百瀬 現代のニューヨークのLGBTパレードにも商業的という批判があるんですけど、そんな批判が出るくらいの土壌があることが、こちらからすると羨ましい気もします。

小田原 そうですね。では、そうした問題をいったん脇に置いて、百瀬さんの気になるポップカルチャーについて教えていただけますか?

百瀬 ポップカルチャーと呼ぶのが適切かわかりませんが、super-KIKIさんというアーティストがいて、彼女はインスタグラムに#selfportraitというタグをつけて、ドラァグクイーンのメイクを再解釈したかのような格好でセルフポートレイトをあげています。彼女が興味深いのは、自分の女性としての身体を、もはや性別や国籍を超えた存在、どこにも所属しない身体へと変換し、こちら側が潜在的に持っているかもしれない先入観を撹拌させていること。それをインスタで発信することも含め、面白いなと思います。

super-KIKIのInstagram(https://www.instagram.com/super.kiki/)より

政治と生活をめぐる、複数の方法

小田原 もうひとつ、変革を促すための重要な活動の方法にロビイングがありますね。一例ですが、前橋の作家たちが応援するかたちで、市議を出したんですよね。岡正己さんという、もともとスタイリストをしていて、前橋のコミュニティラジオ局に務めていろいろな企画などをやっていた方が立候補したときに、前橋の作家たちが選挙カーをつくったりして応援したと聞きました。前橋の作家たちと飲んだときに岡さんもいて、「明日仕事なので帰ります」と言うので、デザイナーさんとかなのかなと思って仕事の話を聞いたら、「市議会議員です。明日議会です」とおっしゃって、「え!!」となりました(笑)。アーティストのコミュニティに、普通に市議会議員がいるというのは面白いですよね。

 ほかに身近では、東京芸術大学卒で大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレにも参加したアーティストの南雲由子さんは、板橋区議をしています。彼女は作家活動をしていた経験を踏まえて、いまは文化庁の補助金全額不交付問題についての集会を参議院会館で開催したり、国会議員を巻き込んでの働きかけをやっています。そういうことはとても有効だと思うんですよね。自分たちの身内から議員を出しちゃう、気になることは彼らにこまめに陳情する、というような。

百瀬 たしかにそういう働きかけも大事ですよね。これは私が所属するアーティスト・ギルドでもよく話されることなのですが、まず学芸員の労働環境の改善が重要な具体策だと思うんです。学芸員が適切な給与をもらいながら、時間をかけてリサーチをできるような当たり前の環境。それはひいては幅広い作家に光が当たるチャンスが増えることにもつながりますし、美術の言説のアップデートにも関わってきます。最近興味深かったのは、共産党の吉良よし子さんが、2019年参議院選挙の文化芸術マニフェストに、「都立文化施設の学芸員等の正規雇用の拡大や収蔵予算の充実等を行い、長期に系統的な運営ができるようにする」という内容を具体的に入れていたんです。もしかしたらなんらかの美術界からのアプローチがあったのかもしれませんが、そうした政策の具体性から選挙を追いかけていく視点もひとつ有効かもしれません。

──必ずしも自分の表現活動と政治的な活動が結びついている必要はなくて、いろんな方法やチャンネルをそれぞれのアーティストが持てるといいですよね。

百瀬 そう思います。私自身、抗議活動のために官邸の前に立つことが多いですが、そうした政治運動の速さとは別のパースペクティブを作品は持ち得ると考えていますし、その両方を同じひとつの身体で行うことには矛盾がありません。

小田原 私の作品は、フェミニズムの直接的なアクションを促すものかと言えば違うのですが、だからと言ってその話題について発言する権利がないということにはならない。それに、この身体を通して作品が生まれるという意味では、自分の普段の購買活動や食のあり方も選択の積み重ねであるわけで、そこから大文字の政治を考えることもできますよね。私生活の面で、百瀬さんが何か具体的に実践していることはありますか?

百瀬 私はいまパートナーがふたりいるんですが、その3人で一緒に暮らしていますね。それはたまたま部屋の契約更新のタイミングが3人重なったから、なんとなく自然にそういうかたちになりました。愛する人と1対1で暮らすことだけが正解ではない。ならば、やってみてから判断すればいいかなと。私はどうも、世間で普通に言われているような「つき合う」というのが、お互い相手の首に首輪をつけあうようでうまく馴染めなかったところがあるんです。いまの暮らしでは、みんながそれぞれの人生を自由に楽しもうと、そんな思いを3人が共有している。そういう意味では、家族という共同体のあり方をもう一度再解釈しようとしているのかもしれない。いろいろな実践が普通にできる世界であってほしいし、そういう寛容さはすごく大事だと思っているんですよ。

小田原 実践というと違うかもしれませんが、私がパートナーとの暮らしのなかで日々思うのは、生物学者・思想家のダナ・ハラウェイが、ジェンダーや種の概念も超えた重要な他者を「伴侶種」と言いますね。私と夫の関係は、それに近いのかなと思うんです。私には、1日の最後の出来事がその日の全体の印象になるという感覚があって、嫌なことがあると「もうこの世界に未来はない、生きる意味がない」なんて極端に考えるところがあるのですが、夫と話すと、ああ人間っていいな、捨てたものじゃないなと思えます。そうやって明日が生きていける。私はそういうかたちでパートナーとの関係性を利用している。ハラウェイの場合、伴侶種は犬などですけど、それは人によって動物であったり、ぬいぐるみであったり、二次元のキャラクターかもしれないし、鏡に写った自分かもしれない。次の日を生きていくための要素は人それぞれですが、こういったことにも百瀬さんがおっしゃったような共同体のあり方、「個」としての生を再考するための手がかりがあるように思います。

──生い立ちや生活のこともたくさん話していただきました。最後に、ご自身のアーティストとしてのこれからについて、いま考えていることを聞かせてください。

小田原 私はあえて「彫刻家」と名乗っていますが、ここには、さきほど話題に出た多摩美術大学彫刻学科のハラスメント問題にも顕著な、同質性の高い彫刻という領域への異議申し立ての意味を込めています。私は、もっと多様な作家のあり方、彫刻のあり方を自分が生きることによって示したい。だから、書くし、話すし、研究もするし、本もつくるし、来年は展覧会のキュレーションもします。それから公共彫刻に関する政策提言もやっていきたい。アーティストが評価されるためにはあまりいろいろやらないほうがいいとか、女性作家についても「巫女」的な役割が期待されているところがありますが、そういった押しつけられる枠組みを、自分のありようによって打開していきたいと思います。下の世代のアーティストや学生さんにも、「あなたたちが自由に生きることこそが最大の抵抗の手法なのだ」と伝えたいです。彫刻について言えば、教育の問題もとても深刻ですが、例えばあいちトリエンナーレ2019でさらに多くの注目を集めたキム・ソギョン+キム・ウンソン《平和の少女像》や、法王フランシスコが往訪を避けた北村西望《平和祈念像》、昨年話題になったヤノベケンジ《サン・チャイルド》などを論じることを通じて、社会と彫刻についての言説を厚くすることは喫緊の課題だと思っています。

百瀬 私はもともと自分の作品と、自身の女性というアイデンティティというものを深く結びつけないで考えてきました。それこそわたしが好きなのはモダニズム芸術だったり、メディアの成立条件をメディア内部で問い直すような自己言及的な作品が多く、いまでもやはり自分の作品にはそういった構造を含むものが多いと思います。だけど最近はそういった関心に対して、もっと非論理的な、自身の主体的な欲望から生まれてくるフェティッシュな部分を勝手に接続させるようなことをしています。また、小田原さんもおっしゃっているように、女性作家たちを変にミステリアスな存在にせず、積極的に彼女たちの「ことば」の体系を残していくことが重要で、それこそ前半で話したような様々な媒体の可能性があるんじゃないかと思っています。あくまで自分の身体を経由させた思考をすることを忘れずにいたい。お答えになってますかね?

小田原 それぞれの結論があるのがいいと思います。私と百瀬さんとで。

左から小田原のどか、百瀬文