2020年8月5日(水曜日)
今日も一日お元気でお過ごしくださいね。
私は勿論、元気に一日を楽しく過ごします。
陽射しの強い真っ昼間に散歩に出かけてしまい、「しまった、こりゃ暑過ぎる」と、私は家に向かってまっしぐらに帰りました。すると冷蔵庫には冷たい水が待っていて、「お帰り」と言って私の体に入ってくれました。
「ありがたや ありがたや」
コップ一杯の水に感謝申し上げます。
2020年8月5日(水曜日)
中浜万次郎、又の呼び名をジョン万次郎。
ジョン万次郎と呼ばれるようになるまで、死後40年が経っています。
直木賞を受賞した小説『ジョン萬次郎漂流記』で、初めてジョン万次郎と呼ばれるようになったのです。
万次郎の生涯はまさに“事実は小説より奇なり”そのものです。
今日、中浜万次郎の数奇な人生ドラマをご一緒に見てみようではありませんか。
万次郎は14歳の時、漁に出て嵐に遇いました。
漁師仲間4人と5日半も漂流し、伊豆諸島の鳥島に漂着。
143日間も無人島生活をすることになるのですが、143日目に、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間4人と共に救助されたのです。
捕鯨船の船長に気に入られた万次郎は自ら希望して、そのまま捕鯨の航海に出た後、船長の養子となります。日本では読み書きも出来なかった万次郎でしたが、学校に通い2年足らずで主席で卒業してしまったのです。
万次郎は、ゴールドラッシュのサンフランシスコで金を掘り、帰国費用を稼ぎ帰郷。漂流から11年が経っていました。
帰国後、土佐藩の士分に取り立てられ、黒船来航の対応の時には幕府江戸に呼ばれ、直参旗本になりました。1860年には遺米使節団の一人として、福沢諭吉、勝海舟らと共に咸臨丸で渡米し、通訳として大活躍したのです。
土佐の漁村で生まれ、貧乏故に寺小屋にも通えなかった万次郎ですが、捕鯨船の船長は万次郎の頭の良さを気に入り養子にしたくらいですから、中々優秀な人だったのがわかります。
又、人柄もよく、捕鯨船の仲間の船員からジョン・マンと呼ばれ可愛がられていたのですから、きっと笑顔が絶えない少年だったのでしょう。
人はどのような環境下であっても生きることが出来る、ということを万次郎から学びました。