尖閣侵入、沖ノ鳥島調査、そして抗日キャンペーン……。日本にとっては何とも「穏やかでない夏」だ。これは一体、何を意味するのか?
私が思い起こすのは、4年前の夏の出来事である。
中国山東省の港湾都市・威海(Weihai)に、劉公島(Liugongdao)という一周約15kmの外島がある。威海の港から専用の船に乗って、15分ほどだ。そこは、清国時代に「海上の屏風」と称されて北洋艦隊の本部が置かれ、日清戦争(1894年~1895年)の最後の激戦地となった。
大日本帝国海軍は、何度も砲撃を加えたあげく、1895年2月に北洋艦隊を降伏させた。いまはその島の半分ほどを「中国甲午(日清)戦争博物館」にしている。中国で俗に言う「4大抗日博物館」の一角だ(他の3つは、ハルビンの侵華日軍第七三一部隊遺址、北京盧溝橋の中国人民抗日戦争紀念館、南京の侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館)。
4年前の夏、劉公島の広大な抗日博物館を訪れると、そこには「中国側から見た日清戦争」が詳細に展示されていた。
明治維新の6年後、1874年に日本軍が台湾に入ったことに驚愕した清国は、近代海軍の創設を決意した。1888年には、李鴻章(Li Hongzhang)北洋大臣が、劉公島に北洋艦隊を創設。「日本は文明の仮面をかぶりながら、野蛮な本性を露(あらわ)にした」と記されていた。
この博物館の展示によれば、日中が激突するきっかけとなったのは、1886年8月に起こった「長崎事件」だった。北洋艦隊の丁汝昌(Ding Ruchang)提督が軍艦「定遠」他を率いて長崎港に寄港した際、日本の警察と「定遠」の水兵たちが、激しい市街戦を起こした事件である。
日本では、中国人水兵たちが長崎市内で乱暴狼藉を尽くしたというのが定説になっている。だがこの博物館では、日本側に全面的に非があったと解説していた。
ともあれ丁提督は、この勢いで日本が軍拡していけば中国が大変なことになると、強い危機感を抱いて帰国した。そこで、西太后(Cixitaihou)が牛耳っていた北京の宮廷に、日本の脅威を伝える。
ところが西太后は、夏の離宮・頤和園(いわえん)増築のため、海軍予算をカットしようとしていたくらいで、取り合わない。周囲の重臣たちも、外敵の脅威よりも、いかに西太后に取り入るかに執心していた。
そうした中、日本は現地の在留邦人を保護するという名目で朝鮮半島に軍を派遣し、朝鮮の宗主国である清国と激突したのである。日の昇る若い明治日本と、落日の老いた清国とでは、勢いの差は歴然としており、陸戦でも海戦でも日本軍の連戦連勝だった。
かくして下関条約で、清国は日本に台湾と遼東半島を割譲し、2億両もの賠償金を支払うことになったのである。これが遠因となって、清国は1912年に滅亡してしまった。
展示室には、北海艦隊の25隻の主要艦船の模型などが、飾られていた。日中ともに次々と、欧米列強に艦船の製造を発注したが、結果は明暗を分けた。