バーナード視点③
「我々は特別な存在だ。生まれながらにして、神に選ばれた存在なのだ」
幼い私達兄弟に、父は繰り返しそう言った。
我々は選ばれている。上に立つ特別な存在として、その他の人間を支配する存在として選ばれている。
我々は許されている。自らの意思に従ってその他の人間を支配し、正しく導くことを許されている。
所詮この世の大半の人間は神に選ばれなかった下等な存在。無力で哀れな存在なのだ。
奴らにとって我々選ばれた存在に導いてもらうことは喜びであり、それこそが正しいこと。それに抗う者は、神の意志を理解できない不信人者。神に反する大逆人なのだ。
あの頃の私にとって、父の教えは絶対だった。その教えが正しいかどうかなど、疑うことすらなかった。
いや、疑うことを放棄していたのだ。その教えに従って生きることは楽で、私は疑問を持つことすら煩わしくて、いつの間にか思考を停止してしまっていた。
領民を自分と同じ人間と思ったことなど一度もなかった。
ただ自分に支配される存在とだけ認識し、欲望のままに弄んだ。罪悪感など覚えるはずもない。神に許されたことに、どうして罪の意識など覚える必要があろうか。
そんな自分に微かな変化が生じたのは、私が14歳の時だった。
私が領内の町で見初め、屋敷で囲っていた女の1人が、子を孕んだのだ。
ただ、戸惑った。
この女は、神に選ばれなかった存在。我々
だが、その女の腹に宿った新たな命は? 考えるまでもない。神力を有しているならば、それは神に選ばれた存在だ。
……神に選ばれた存在の母親が、神に選ばれていない?
その考えが、私の中で1つの疑問となった。
その疑問が、私の中の何かを決定的に破壊してしまう危険な考えであることを、私は直感的に理解した。
そして、私は……その疑問が大きく育つ前に、女を屋敷から追い出した。そうすることで、私は全てから目を逸らした。
その、3年後のことだった。
あの日以来、なんとなく領民を手元に置く気になれず、屋敷で静かに暮らしていた私の元に……ある日、1つの知らせが届いた。領内で呪術師が発見され、領軍の手によってその処刑が行われたというのだ。
呪術師。外法を用いて、神の奇跡を簒奪した者達。
彼らは発見され次第、神に仇なす者として、それを庇った者も一緒に処刑されることが決まっていた。
それまではそういうものだと思っていたし、そんな知らせを聞いても特になんとも思わなかった。
だが……処刑されたのは、まだ小さな幼子とその母親だと聞かされた時、私の中で不吉な予感がした。
体の芯が震えるような感覚を必死に抑えながら、私は報告に来た兵士に頼んで、その処刑場へと案内してもらった。
そんなはずはない。全て私の思い違いだ。全部、私の馬鹿げた妄想なのだ。
そう自分自身に言い聞かせながら、馬車に揺られること2日。辿り着いた小さな村の広場で、木にくくり付けられ、晒し者にされていたのは……3年前、私が屋敷から追い出したあの女とその子供だった。
その瞬間、私の中で何かが壊れた。
全身の震えで立っていられず、私はその場に蹲って胃の中のものを全部ぶちまけた。
胃液やよだれや涙をだらだらと垂れ流しながら、私はひたすらに叫び続けた。
地面を、自分の頭を、顔を、激情のままに掻き毟り、従者に止められ、無理矢理馬車に押し込まれるまで、私は半狂乱になって暴れ続けた。
そして、その帰り道に、私は今まで一度も訪れたことのなかった神殿を訪れた。
領内でたった1つだけ存在する、貴族の手が届かない神の聖域。
私は土埃と汚物と自分自身の血で汚れた無残な姿のままそこに駆け込み、生れて初めて神に懺悔した。
自分が今までやったこと。そのことに罪の意識すら覚えなかったこと。
それらを支離滅裂な言葉で吐き散らす私の元に、その時たまたま神殿を訪れていた、当時まだ副神官長であったビフォン・クーリガン様がやってきた。
ビフォン様は私を責めることもなく、私の懺悔を黙って聞いてくださった。
そして、全てを聞き終わった後、私にやり直す機会をくださったのだ。
名を変え、それまでの自分を全て捨てて、神に仕える者として生まれ直すことを。
私はその場でビフォン様の“名奉じの儀”を受け、ただのバーナードとして生まれ変わった。
それから私は神殿騎士となり、20年以上真摯にその務めを果たし続けた。
神殿関係者の護衛。警備。時には、はぐれ神術師の子供とその家族を保護するために、貴族の手勢と刃を交えたこともある。
そうするうちに、いつしか私は神殿騎士団の隊長の座まで上り詰めていた。
だが、今でも時々夢に見る。
木にくくり付けられた女とその子供が、顔も名前も覚えていないたくさんの黒い人影が、怨嗟に満ちた声を上げながら私を睨んでくる光景を。
私はまだ許されていない。名を変え、生き方を変えようが、私が罪人であることは紛れもない事実で……私はいつか、その報いを受けなければならないのだ。
* * * * * * *
「──ちょう! バーナード隊長!!」
「む、っ……」
自分を呼ぶ副官の声に、私は急速に意識を引き戻された。
同時に、全身の鈍痛と、右半身を襲う激痛と喪失感を覚え、たまらず呻き声を上げた。
「状況は……どうなっている? 術師団の攻撃は……?」
「術師団は……神術発動前に背後から強襲を受け、壊滅しました。今は、各分隊長指揮の下、必死に抵抗を続けてますが……恐らく、そう長くは」
「そう、か……っ!」
「ダメです隊長! まだ立ち上がっては!」
部下の制止を無視して体を起こし、私は喪失感の正体に気付いた。
私の右腕が、肩口から綺麗に無くなっていたのだ。
副官が治療してくれたのだろう。止血はされているが、大量の血を失ったせいで頭がくらくらする。
「私が隊長を背負います。早くこの場から撤退しましょう。他の者達も、今その時間を稼ぐために奮戦してくれています」
そう言ってこちらに背中を向ける副官に、私は妙に泣きたい気持ちになった。
こんな自分のために、命を投げ打ってくれる人がこんなにたくさんいることが、ひどく胸に迫ってきた。
だが、ここで逃げることなど出来ない。
「いや、そんな時間はない。見ろ、あの大神殿で輝く青い光を。もう聖下のご準備は整っておいでだ。私が逃げる時間などない」
「ですが……」
「私はこのまま敵本陣に向かい、なんとしてもゾレフに一矢を報いる。お前は合図を送ったら、急いでこの場を離れろ」
「なっ……無理です! あの中を突破するなど!」
「正面からでは、な……だが、私1人闇に紛れて側面から回り込めば、まだ可能性はある」
「そんな──」
「異論は許さん! これは命令だ!」
「っ」
「私の剣はどこにある? まさか折れてはいないだろう?」
「……こちらに」
部下が指し示した場所を見ると、そこには《聖剣シューブラムト》と……その柄を握ったまま、無残に変形した私の右腕があった。
ちょうどいい。私は剣を鞘に納めると、千切れた右腕を持って立ち上がった。
重心の位置がずれているせいで上手く歩けないが、剣の鞘を右側に移動させることでなんとか調整する。
「どうしても……行かれるのですね」
「ああ」
「……分かりました。では、私も隊長の奇襲が上手くいくよう敵を引き付けます」
「いや、お前は……」
逃げろ。そう言い掛けて、副官の力強い視線に言葉を呑み込む。
「……分かった。頼んだぞ」
「はっ、隊長もご武運を」
副官と最後の別れを告げると、私は戦場を回り込むように歩き始めた。
最初は慎重に、慣れてきたら徐々に速度を上げて先へと進む。
そうして敵の側面に付けたところで、戦場の後方から空に向かって1発の炎弾が打ち上げられた。炎弾は、空中で3秒程静止した後、炸裂して火花を散らす。
合図は送られた。もう逃げ場はない。あとは……残された時間で、なんとしてでも一矢報いるだけだ。
「ーーっ、行くぞ!」
自分を鼓舞すると、私は敵陣に向かって駆け出した。
無論、このまま敵陣に突っ込んでゾレフの首を落とすことなど不可能だということは分かっている。
術師団が壊滅し、今の私は味方の援護も強化も一切ない状態だ。いくら神器を持っていようとも、片腕を失った満身創痍の身で、あれだけの強化兵を相手に強行突破が出来るとは思えない。
(だが……敵兵と同じだけの強化を私も受けることが出来れば、話は別だ)
ずっと気になっていたことがある。
敵の掲げる神器《鮮血の革命旗》は、どうやって術の対象を決定しているのだろうか?
敵軍だけ正確に強化がされている以上、あの神器は範囲指定ではなく条件指定で術の対象を選定しているはず。
ならば、その条件とは? 味方であること? 同じ敵と相対していること? いや、そんな曖昧な条件ではないはずだ。
かつて史料で読んだことがある。
聖女アンヌは、革命の同志全員に対して、その証として十字の旗に血を捧げさせたと。
同志の血盟によって赤く染まった旗。それこそが《鮮血の革命旗》。
つまり……条件は、恐らくそれだ。
その時、近付く私に遂に敵兵が気付いた。こちらに剣を構え、迎撃態勢を取る。
私はそれにギリギリまで近付くと……
「フンッ!!」
全力で、千切れた自分自身の右腕を投擲した。
ぶんぶんと回転する私の右腕は、戦場に血飛沫を撒き散らしながら空を舞い……敵本陣の中央に立つ、深紅の旗の真ん中に命中した。
その瞬間、私は急激に身軽になったような気がした。
体が恐ろしく軽い。手に握る聖剣がまるで棒切れのようだ。
「オオオッ!!」
私は全身を包む全能感に任せ、全力で敵兵に剣を叩きつけた。
先程までと違い、今度は押されない。いや、それどころか、左腕だけで振ったにもかかわらず、私の剣は敵の剣を真っ二つに圧し折ってそのまま敵兵を切り倒した。
(行ける! このまま突っ切れ! 奴の、ゾレフの元まで!!)
「ウオオオォォ!!!」
雄叫びを上げながら、私は剣を振り回し、遮二無二突っ込む。
四方から突き出される剣を、槍を薙ぎ払い、時には鎧で受けながらとにかく前に進む。
いくら神器による強化を受けていようが、いくら私の鎧が頑丈であろうが、そんな無茶な突撃をして無事に済むはずがない。
間もなく私の全身には複数の切り傷、刺し傷が刻まれることとなった。特に、腕を失った右半身へのダメージが大きい。それでも、致命傷だけはなんとか避けて突き進む。
端から命を惜しむ気などない。ここが私の死に場所だ。私は自らの贖罪のため、そして自らの生に意味を与えるため。そのために、ここに来たのだ!!
「そこを、どけぇぇぇーーー!!!」
叩き切り、薙ぎ払い、吹き飛ばす。
そうして文字通り道を切り開き、遂に──
(いた! 奴らだ!!)
目深にフードを被った2人の人物を、視界に捉えた。
旗の真下で、周囲の傀儡兵とは一線を画する装備を身に着けた複数の護衛に守られている。
(もう、少し! だが、どちらだ? どちらがゾレフだ!?)
その時、向こうも近付く私に気付いた。
2人の人影が同時にこちらを向き、背が高い方が、その手に持った羽扇をこちらに向ける。
(何か来──)
私が反射的に首を傾けたその時、ブンッという音と共に私の左肘の辺りに衝撃が走った。
「なっ──」
そして、気付いた時には、私の左腕は振りかぶった勢いそのままに、後方へと吹き飛んでいた。
(鎌、鼬……!?)
その二つ名が脳裏を過ぎった直後、武器を失った私の体に一斉に刃が突き立てられた。
「ぐぼっ!?」
腕に、脇腹に、背中に、金属の塊が突き込まれ、私はたまらずその場に倒れた。
倒れた私の背中に、更に剣が突き立てられる。体重を掛けて押し込まれた刃は、鎧を貫通して内臓にまで達した。
「ゴブッ!」
逆流してきた血を吐きながら、私は半分だけになった左腕と傷だらけの脚で必死に這いずった。
もう少し。もう、少しなんだ!!
罪に塗れた人生だった。何度も自分の犯した罪を悔い、何度も自分の生家を恨んだ。
なんであんな家に生まれたのか。なんで普通の家に生まれ、普通に生きることが出来なかったのか。そう何度も自問自答した。
だが、今それに答えが出る。今、ここでやり遂げれば、私があの呪わしい家に生まれたことに意味が生まれる。
だから、進め!! とにかく前へ!!
視界が霞む。体が重いのは、血を失い過ぎたせいか、それともこの身に突き刺さる複数の剣のせいか。
その時、遂に1本の剣が完全に体を貫通し、私は地面に縫い留められた。
(もう、少し……)
それでも、私は自分自身の体を貫通した剣で切り裂きながら前に進んだ。
そして、最後の距離を詰めたところで、私は背が低い方のフードの人物を視界の中央に収め、口を開いた。
「ぐっ、ごぼっ!」
ああ、血が邪魔だ。声が出せない。
頼む。どうか……ビフォン様、私に力を……
「ごぶっ……ーーっ、はぁっ! パーシバル・メノニカが、願う 彼の者ゾレフに、この身に受けし痛みを!!」
ようやく絞り出したのは、略式もいいところな短縮詠唱。それも、改名前の名前を使った発動するはずのない詠唱。
だが、それでも神術は……メノニカ侯爵家に伝わる秘術、“
視線の先で、術の対象となったフードの人物──ゾレフが、突然倒れる。
自分自身の体を抱き、身悶えながら血を吐く。
秘術“怨返し”。術者が感じている痛みを、対象者にも味わわせる魔属性神術。
確かな実感を伴った痛みは、強力な暗示となって対象者の体に偽りの傷を刻み、場合によってはそのまま死に至らしめる。だが……
(駄目、か……)
血を吐きながらも、片膝立ちでこちらに鋭い視線を向けるゾレフを見ながら、私は無念を噛み締めた。
やはり、同じ魔属性神術の使い手には効果が薄いのか。
私の死力を振り絞って放った最期の攻撃は……どうやら、ゾレフの命には届かなかったらしい。
その時、怖気を誘うような強大な神術の気配と共に、地面が震えた。
(ああ……)
遂に、始まったのだ。原初の御業、全てを呑み込み終わらせる神罰が。
どこか遠くから、地鳴りを伴ってこちらへと押し寄せてくる濁流の音が聞こえる。
そして、最期を悟った仲間達が、神へ、両聖下へ祈りを捧げながら、最後の突貫を試みる雄叫びが。
(皆……先に、行っているぞ……)
それらを遠くに聞きながら、私は……静かに、意識を手放した。
バーナードこと、元パーシバル・メノニカは、王国の神権派貴族筆頭であるメノニカ侯爵家の現当主の弟です。