ランツィオ・リョホーセン視点⑤
最初に感じたのは、むっとするような湿気。
それはどんどん粘っこさを増し、肌にまとわりつくような濃度へと変化する。
やがて、わたしの全身を覆うようにポツポツと水滴が出現し始め……
(ま、ずい……っ!)
そう思った数秒後、わたしは完全に水の中に囚われた。
なんとか脱出しようと必死にもがくが、その試みが成功するより先に、今度は全身にヒンヤリとした冷気を感じる。
(これは、あの時の……っ!?)
つい数日前に囚われ、危うく命を落とし掛けた罠を思い出す。
このままでは、あの時と同じように……
迷ったのはほんの一瞬。
わたしは氷で完全に閉じ込められる前に、“竜殻”を自ら解除した。
その瞬間、全身が凄まじい虚脱感に襲われた。
これもまた、強化詠唱の代償の1つだ。基本的に一度発動してしまえば、術者の神力が尽きるまで発動状態が維持され、途中で強制的に解除した場合、代償として凄まじい虚脱感に襲われる。
(だが、これで……)
“三叉撃”が、使える!
わたしは目を閉じると、ブーツに仕込んである術式に意識を集中させた。
そして、頭の中で詠唱を行う。
無言詠唱はかじった程度だが、極めて簡略化されている“三叉撃”なら発動可能だと信じて、神力を練り上げる。
(俊足を!!)
そして、カッと目を開くと同時に、神術を発動した。
グンッと体が前方に加速する。
氷で閉ざされかけていた水の中を突破し、リアへと一足飛びに接近する。が……
「くっ……!?」
水中を飛び出した途端、全身を刺すような痛みが襲った。
それが冷気によるものだと気付いたのは、吐く息が白く染まっているのを見た時。そして息を吸うと同時に、喉の奥から胸にかけて同じように痛みが走った。
水中だけでなく、通路全体が極寒の冷気に覆われていたのだ。むしろ、その寒さたるや水中の方がまだマシだったかもしれない。濡れた体が、どんどん感覚を失っていくのが分かる。
「う゛、あ゛あ!!」
凍てつく喉から掠れた雄叫びを上げながら、わたしは突き進む。
しかし、地面を蹴りつけ、最後の加速に入った瞬間、リアが背後へと高速で跳躍した。
リアも“三叉撃”を発動したのだ。
瞬間的にそう察したわたしは、最後の加速に身を任せつつ、“三叉撃”再発動の準備を整えた。
そしてリアが二度目の加速をすると同時に、わたしは再発動した“三叉撃”でその後を追った。
このまま追いかけっこをしても、ほとんど差は埋まらないだろう。
だが、こと“三叉撃”に関してはわたしに一日の長があるらしく、発動速度はわたしの方が僅かに速い。加えて通路自体も、ずっと直線というわけではない。
(なんとか、わたしの体力が尽きる前に追い付ければ……!)
そう考えつつ二度目の加速に入ったところで、わたしは驚愕に目を見開いた。
地面に足をついたリアが、後方へと飛び退ると思いきや、グッと前傾姿勢になってこちらへ突っ込んできたのだ。しかも、その手にはしっかりと細剣が握られている。
「ぐっ……!?」
既に加速に入っているわたしに、それを跳んで避けることは不可能。
咄嗟に神術を強制中断するも、一度最高速度に到達した体はそう簡単に止まらない。
そうしている間にも、リアの真っ直ぐに突き出された細剣が、わたしの首元に高速で近付いてきて──
(く、お……っ!!)
わたしは地面を蹴りつけて強引に進行方向をずらすと、限界まで首を曲げてその切っ先を躱した。
そして右手を伸ばしてリアの額を押さえつつ、ほとんど飛び蹴りのような形でその足を後ろから払う。
「お、らあ!!」
「!?」
突進中に縦回転の力を加えられたリアが、後ろ向きに回転しながら吹っ飛んでいく。
それを尻目に、わたしは自身の“三叉撃”の勢いを完全に殺してしっかりと着地すると、すかさずリアに追撃を加えるべく振り向いた。
リアはわたしの投げを食らい、地面に仰向けに倒れていた。
起き上がる前にトドメを刺そうと駆け寄り──リアの全身が神力で覆われたのを見て、寸前で急停止した。
次の瞬間、リアの体が突如跳ね上がると、ありえない体勢、ありえない角度で袈裟斬りが飛んで来た。
わたしはそれを剣の内側に踏み込むことで回避すると、リアの右腕を自分の
そして、その髪の先端をしっかりと掴みつつ、膝を沈み込ませてリアの腕の勢いを削ぐと、首を支点に髪で投げを打った。
「どっしゃあっ!!」
神術で不自然な体勢のまま剣を振るっていたリアは、わたしの投げに抗えず、再び背中から地面に叩き落される。
すかさずその鳩尾にそっと足を乗せ、一気に踏み抜──
「な、ん?」
不意の浮遊感。
突如踏ん張りが効かなくなり、わたしの踏み付けはほとんど体重を乗せられず、リアの鳩尾を軽く押し込んだたけで終わった。
そのまま、体が完全に宙に浮く。
見れば、リアの右手の人差し指が真っ直ぐにわたしの胸辺りを指していた。そしてそのまま、リアは悠々と起き上がる。
そのリアを前に、わたしは──
(ランツィオ・リョホーセンが願う 俊足を!)
再びの無言詠唱と共に、自身を拘束する神術に強引に抗った。
「ぐ、ああっ!!」
自分の体がビキビキと不穏な音を立てるのにも構わず、無理矢理体を前に出すと、起き上がったリアの首の後ろを掴み、その額に頭突きを叩き込む。
そして、結界に押し返されるのを無視してその虚ろな両目を至近距離で睨むと、大声で叫んだ。
「いい加減、目を覚ませ!! サラシナリサ!!」
その名前(?)を呼んだ途端、リアがビクンッと体を跳ねさせ、わたしを拘束していた神術が解けた。
「う、あ……?」
リアの口から不明瞭な声が漏れ、その両目に僅かに理性が戻る。
まだ完全に正気を取り戻した訳ではないようだが、動きは止まった。
「ふう……随分と、好き勝手やってくれたな」
呆然と立ち尽くすリアの鳩尾に、右の拳を当てる。
「だがまあ、わたし達は友達だからな」
右腕を真っ直ぐに伸ばし、肩から手首までをガッチリと固定する。
「これで、勘弁してやるっ!!」
そして地面を勢いよく踏み込むと、その踏み込みの力と体の捻転力を、残さず右手からリアの鳩尾へと叩き込んだ。
ドムゥ!!
鈍い音と共に、リアの体が吹き飛ぶ。
そしてそのまま地面に倒れ、ピクリとも動かなくなった。
「あぁ〜〜……痛てて」
リアが完全に意識を失っているのを確認してから、わたしはその体を横抱きにして持ち上げた。
そしてリアの細剣と《崩天槌》を回収すると、ゆっくりと先を進み始めた。
左腕は完全に折れているし、全身あちこち痛い上に倦怠感も酷いが、ここで休んでいる訳にはいかない。
“竜殻”を解除した今、いつまたあの黒い影の影響を受けるか分からないからだ。
しかし予想に反して、わたしは再び黒い影を見ることなく、無事に白い通路を抜けた。
壁や地面の色が灰色に戻り、通路の幅が縦にも横にも広くなる。
予想以上にあっさりと危険地帯を脱出できたことに少し拍子抜けしつつも、少し安堵の息を吐く。
しかし、その弛緩した気持ちは、何気なく角を曲がった直後に霧散した。
「っ!?!」
慌てて体を引き戻し、壁に背中をついて口を押える。
(なんだ、今のは……っ!?)
そろそろとリアを地面に下ろしつつ、しゃがんだ状態でそっと角の向こうを覗き込み、見間違えでなかったことを確認してすぐに顔を引っ込める。
角の向こうには、見える範囲で6体もの異形の存在が徘徊していた。
生き物ではない。一言で言うなら人形だ。だが、ただの人形ではなかった。
まず、デカい。身の丈はわたしの倍近くもあるだろうか。
そして、その形状は人形にしてはあまりにも不格好というか、はっきり言って大雑把なものだった。
腕も脚も胴体も、全てがわたしの胴体ほどの太さの銀色の金属棒で形成されているのだ。
肘や肩や膝といった関節部は同素材の糸状の金属で繋がっており、まるで腕や脚はヌンチャクみたいになっている。
そして棒状の胴体の先端に、ほとんど突き刺さるようにして卵型の頭が乗っている。その頭部には、まるで目を模しているかのように、大きな黒い鉱石が2つ埋め込まれていた。
あれが子供が戯れに作った人形だというなら、その出来栄えに苦笑の1つでも浮かべられただろう。
だが、あれはそんなに可愛いものではない。なぜなら、その右腕の先端は剣のように薄くなっており、逆に左腕の先端は棍棒のように太くなっていたからだ。
あれは、人形ではない。神術によって作られた迷宮の番人だ。
その時、わたしはふと、正気を失ったリアが口走っていた内容を思い出した。
『白い道を抜けると銀色の人達が私を待ってしましたたくさんの黒い目が私を見て恐怖を覚えましたその間を通り抜けると──』
そうだ、たしかにそんなことを言っていた。と、いうことは……
「あれが、
そう小さく呟いた瞬間、わたしの背筋にゾッと悪寒が走った。
反射的に頭を下げると同時に頭上で轟音がし、ぱらぱらと壁の破片が降りかかって来る。
「くっ!」
わたしは一瞬、戻るべきかどうか迷った。
しかしすぐに決意を固めると、リアをそこに寝かせたまま角の向こうへと飛び出した。
直後、頭上から空を切る音が聞こえ、身を投げ出すようにして回避する。
すると数瞬後、再び背後で轟音が響き、地面の破片が体に当たった。
急いで立ち上がりつつ、右手を背中の《崩天槌》に伸ばして──
ゾクッ!
黒い目。
6対12個の黒い目が、こちらをじっと見詰めていた。
右腕を角に回し込むように伸ばし、左腕を地面に叩き付けている人形。そして、通路の奥から続々とこちらに向かってきている人形。
それらの無機質な視線を意識した途端、言いようのない恐怖に全身を縛られた。
(しまった! これが……っ!?)
リアの言葉を思い出し、自らの不注意を悔いる。
正気を失っていたリアが口走っていた内容。あれは警告だったのだ。
そのことに気付けていれば……いや、今更悔いても無駄だ。今は、とにかく……
(動、けっ!!)
必死に恐怖に抗いながら、わたしは目を閉じた。
そして襲い来る攻撃をほとんど勘で避けると、地面の方を向いて目を開けた。
慎重に視線を上げ、人形の脚だけを視界に収める。
(よし、目さえ見なければ問題はない!!)
だが、動けたところでいい打開策は浮かばない。
先程わたしはこの人形達の腕をヌンチャクのようだと評したが、これは本当にヌンチャクそのものだ。
ただし、その質量と威力は尋常ではない。下手に直撃をもらえば、即死してもおかしくない。
(ええい! ぐだぐだ考えても仕方ない! とにかくやれることをやる!!)
わたしは縦横無尽に飛んで来る攻撃をなんとか掻い潜りつつ“竜殻”を発動すると、手近な人形の脚に《崩天槌》を叩き込んだ。が……
ゴィンンン……
予想に反して鈍い手応え。
わたしが疲労しており、更に右手だけで戦槌を振っているということを勘案しても、妙に鈍い手応え。まるで、戦槌の威力を柔らかく吸収されたような感じがした。
その弾かれるでもなく、かと言って振り抜けるでもない奇妙な感覚に、一瞬意識を奪われた直後。
メギィ!
「ぐ、あっ」
背後からわたしの脇腹に、巨大な棍棒が叩き込まれた。
肋骨が1、2本折れる感覚と共に、わたしは真横に吹き飛ばされる。
「が、ごっは!!」
そのまま壁に叩き付けられ、ずるずると崩れ落ちる。
“竜殻”のおかげでなんとか骨折程度で済んだが、流石にもう限界だ。
度重なる疲労と深手、更には神力が枯渇し掛かっていることも加わり、もはや立ち上がることすら出来ない。
「く、そ……」
ゆらゆらと近付いて来る人形達に、せめて防御姿勢だけでも取ろうとした。その時──
左の方で凄まじい神力の気配が噴き上がり、直後目の前をはっきりと目視できるほどの衝撃波が横切り、人形共をまとめて吹き飛ばした。
「は、はは……やっと、お目覚めか……」
その光景に全身から力を抜きつつ、わたしは左の方を振り返った。
「少し遅過ぎるぞ……リア」
そこには、強大な神力を纏うリアが、人形達に向かって右手を掲げた状態でしっかりと立っていた。