ランツィオ・リョホーセン視点②
予想以上に長くなってしまい、水曜日の予定が金曜日になってしまいました。
しかし、日曜日にもきちんと定期更新する予定なので、そこはご安心ください。
ツァオ兄上が得意とする精神系神術は、対象が有する知性、そして神力を持っているかどうかによって大きく効果が変化する。
つまり、人間相手、それも神術師相手に使うことを想定するなら、訓練も神術師相手の……はっきり言うなら、人体実験が不可欠だ。
しかし、王国ほどではないにせよ、精神系神術の扱いは帝国においても多くの制約が課せられている。罪人相手ならともかく一般人、中でも神術師である貴族相手となると、使う機会など滅多にない。
しかし、父上はそれを、「国の中枢部に精神系神術に対する耐性を付ける」という名目で半ば強引に合法化した。その結果、わたしを含む多くの兄弟姉妹が、精神系神術によって頭の中をいじくり回される不快感を散々味わうことになったわけだが……今だけは、そのことに感謝しなければならない。
白い通路に突如現れた、黒い影。
それを見た瞬間、わたしは周囲の音がすぅっと遠ざかり、自然と視線がその黒い影に吸い寄せられるのを感じた。
その感覚は、ツァオ兄上と行った近接戦闘で何度も感じたものと同じだった。
意識誘導系の神術。
簡単に言えば、まず自然と目を引く特徴的な物体や動きで相手の注意を引き、それを神術によって加速させるものだ。気になるものに意識を向けるという、無意識の行動に付け込む精神系神術であり、だからこそ回避することは極めて難しい。
ツァオ兄上の場合は、互いに武器を構えて向かい合った際に、ふらふらと剣先を彷徨わせる動きをしていた。その不規則な、それでいて実のところ何の意味もない剣の動きに気を取られていると、気付けば極度の視野狭窄状態に陥っており、もう片方の手から放たれる本命の投剣に反応できなくなってしまうのだ。
うぞうぞと動く黒い影を見た途端、幾度となく食らったその投剣の痛みがビビッと蘇った。その幻痛が刺激となり、強制的に吸い寄せられ掛けていた意識がわずかながら冷静さを取り戻す。
その隙を逃さず、わたしはトカゲを思わせる形状に変形した黒い影から、全力で視線を引き剥がそうとした。
「う、ぐ……っ!」
見ていては危険だと分かっているのに、視線を逸らせない。
少しでも視線を逸らしたら、その瞬間あの黒い影が一気に襲い掛かってくるという、ある種の確信にも似た強迫観念が脳内でガンガンと警鐘を鳴らしている。わたし自身の危機意識と神術によって喚起された偽りの危機意識の板挟みになって、どうにも身動きが出来ない。
「ぐ、ぎいぃぃぃ!」
どうあっても視線を逸らせないと判断したわたしは、全神経を《崩天槌》を握る両手に集中した。
しかし、そうしている間も黒い影の変形は止まらず、今度は無数の触手を有する異形と化していく。それに連れ、わたしの頭の中に何かが侵入して来るような壮絶な不快感が襲い掛かって来る。
意識誘導系の神術の本当に恐ろしいところは、回避の困難さもそうだが、それ以上にその次の精神系神術に抗えなくなるというところだ。
それも当然。意識をどこかに集中しているということは、それ以外に関して完全に精神が無防備になっているということなのだから。
加えて、術師本人に意識を向けさせられた場合などは、もはや自分から精神系神術を掛けてもらいに行っているようなものだ。そうなってしまえば、神術による防御など何の意味もない。
(今の、この状況が正にそれなんだがな……っ!!)
黒い影がその触手をうねうねと動かす度に、わたしの五感がどんどん鈍くなってくる。
その中で、ギリギリと歯を食い縛り、額から脂汗を流しながら、必死に戦槌を持ち上げる。
そして、鋭く息を吐き出すと、持ち上げた戦槌の石突きを思いっ切り自分自身の足の甲に突き立てた。
「っ!!?!」
頭の中が真っ白になるような激痛と共に、わたしは反射的に蹲った。
右足の甲が尋常じゃなく痛いが、狙い通り視線は逸らせた。痛みと共に、遠ざかりつつあった五感が戻って来る。
「っ! はあっはあっ」
灰色の地面を見詰めながら荒く息を吐いていると、隣から「あ……」と呆然とした声が聞こえた。
その声に隣を見上げて──全身がぞわっと総毛立った。
そこには、その両目を大きく見開き、食い入るように黒い影がいる方向を見詰めるリアの姿があった。
そのわずかに開かれた唇がピクッと動き──次の瞬間、怒涛のように言葉が放たれた。
「白い道を抜けると銀色の人達が私を待ってしましたたくさんの黒い目が私を見て恐怖を覚えましたその間を通り抜けると今度は赤い口が私を待ち構えていましたその口は私を頭から丸呑みにしました呑み込まれた私は息苦しい圧迫感と共に骨が砕ける音を聞きました砕かれた私は痛くて痛くてイタイイタイイタイ──」
まるでタガが外れたように意味不明なことを口走るリアを見て、わたしは背筋に寒いものを感じながらも素早く立ち上がった。
「見るな! リア!」
リアの頬を両手で挟むようにして、強引にわたしの方を向かせる。
しかし、こちらに向けられたリアの目は、わたしを見ているようで見ていない。
焦点が完全に飛んでいるし、目の前のわたしに何の反応もしない。
「あ、あ……」
意味不明な言葉は止まったが、リアはなおも呆然とした表情で口をパクパクとしていた。
その体が、突然がくがくと震え始める。それはまるで、麻薬常習者が禁断症状でも起こしたかのような様子だった。
「おいリア! わたしが分かるか!?」
両腕を掴んで揺さぶりながらそう問い掛けるが、全く反応がない。完全に正気を失っていた。
それどころか、明らかに正気を失いながらも、なおも吸い寄せられるように黒い影の方を見ようとする。
「くっ」
わたしはリアの首の後ろに手を回すと、無理矢理フードを目深に被らせた。
そして少し迷ってから、手に持った《崩天槌》を留め具で背中に固定した。
こうするといざという時にすぐ《崩天槌》を構えられないが、両手を空けるためにはこうするしかない。それに、これからやることを考えれば、どちらにせよ《崩天槌》はそれほど役には立たない。
わたしはリアに黒い影を見させないよう、その頭をしっかりと胸に抱きながら、一言一言を噛み締めるように詠唱を開始した。
「ランツィオ・リョホーセンが願い
詠唱が完了すると同時に、わたしの全力を遥かに超えた強度で“竜殻”が発動する。
王国においては一念祈祷、帝国においては強化詠唱と呼ばれる特殊詠唱だ。
使用中はその神術以外の神術は一切使えず、消費神力量が通常の数倍になるなど、いくつかの対価と引き換えに限界を超えた強度での神術の行使が可能となる。
全身にかつてない力の充溢を感じると、わたしはリアの膝裏と肩に腕を回して持ち上げた。
がくがくと震える体をしっかりと固定すると、右手でフード越しにリアの頭を押さえ、通路の奥目掛けて一気に駆け出した。
視界の隅に、例の黒い影がいるのを感じる。
しかし、わたしはそちらはもう気にせず、前だけを見て一気に駆け抜けた。
「××××××」
「リア?」
その時、腕の中でリアが何かを呟いた。
正気を取り戻したのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
わたしの呼び掛けには答えずに、聞き慣れない言葉をぶつぶつと呟き続けている。
(なんだ? 何を言っている?)
最初は王国特有の方言かと思ったが、どうやら違う。
言語には国や地域によって特有の言い回しや訛りがあるが、
その音の響き、抑揚、それらがわたしの知っている言語と根本から異なっていたのだ。
(……いや、そもそもこれは本当に言語なのか? 精神系神術の影響で、何か奇妙な音を口走っているだけなのでは……)
「×××××」
「リアっ!?」
だが、その想念は続いたリアの言葉で……より正確には、その声に宿った震えによって断ち切られた。
泣いている。
その表情はフードに隠れて見えないが、声の震えと、微かに混じる嗚咽が、その事実をはっきりと物語っていた。
その瞬間、わたしはリアが1つ下の少女であるということをかつてなく意識した。
いつも年下とは思えないほど大人びていて、落ち着いた態度を取っているから気にしたことがなかった。
だが、リアは確かにわたしよりも年下の少女なのだ。
「大丈夫、大丈夫だから」
何の根拠もない慰めを口にしながら、わたしはリアを抱く腕に力を込めた。
しかし、リアの震え声は止まらない。自分の無力さを痛感し、唇を噛む。
この大迷宮に来てから、リアには数え切れないほど助けられた。
ついさっきだって、崩落に巻き込まれたわたしを救ってくれたのはリアだ。
わたしも自分が足手まといだったとまでは思わないが、リアを助けるよりは助けられることの方が多かったのは確かだ。なのに、今わたしはそのリアを助けることが出来ない。気休めにもならない慰めを口にしながら、ただひたすらに走り続けることしか出来ない。
そしてここを抜けられたところで、リアが元に戻る保証などどこにもない。
(大丈夫、大丈夫だ。ツァオ兄上なら、きっと……)
魔皇子などとも称される超一流の精神系神術の使い手である兄のことを思い浮かべながら、必死に自分に言い聞かせる。
後のことを考えるのは、ここを脱出してからだ。今は、この白い通路から出ることだけを──
「うっ」
その時、視界の隅にまた黒い影が見えた。しかも、今度は左右2カ所に、まるで壁から滲み出てくるようにして出現したのだ。
「チッ!」
再び襲い掛かって来る意識誘導に必死に抗いながら、前だけを見て進む。
だが、黒い影の間を通り抜けた瞬間、今まで以上の精神干渉を受けて頭の中が揺れた。足がもつれ、転びそうになる。
だがそれと同時に、腕の中でリアがビクッと体を跳ねさせたのを感じた。
「くっ!」
強引に足を大きく踏み出して、なんとか転倒を避ける。
そして、頭の中に侵入しようとしてくるナニかを振り切るように、再び走り出した。
(いつまで、続くんだ……っ! こんなことが続いたら、流石に……)
そう思った瞬間、最悪の光景が目に入った。
曲がり角を曲がった先の長く伸びる直線の通路。その壁、床、天井。上下左右全方向に、10を超える黒い影が出現していた。
思わず足を止め掛け、しかしその影が一斉にこちらに触手を伸ばしてくる光景を見て、わたしは意を決して前へと足を踏み出した。
脳裏に、ツァオ兄上との修行で得た教訓が思い浮かぶ。
ツァオ兄上との修行の際、イェン兄上は言っていた。全力で“竜殻”を発動させている状態なら、精神系神術もほとんど完全に無力化できるはずだと。それでもなお精神系神術の作用を完全に遮断できないなら、それは心のどこかで自分からそちらに意識を向けてしまっているからだと。
ならどうすればいいのかと問うたわたしに、イェン兄上は実に簡単そうに言ったものだ。「そちらに意識を向ける余裕もないくらい、別のことで頭の中をいっぱいにすればいい」と。
その時は、「戦闘中に相手の攻撃を一切警戒しないなんて無理だ」と思った。相手を倒そうと思うなら、その相手がどんな攻撃をしてくるか常に警戒するのは、戦士としてのある種の本能だからだ。
(だが、今わたしは戦っている訳ではない。今、わたしが気にすべきは……)
腕の中で震える、わたしにとって初めての、そしてたった1人の友人のことを思う。
皇女という立場上、今までわたしには友人と呼べる間柄になれる者が誰もいなかった。
こちらが身分など気にせずにざっくばらんに振舞ってみても、向こうはそうはいかない。
出会いを求めて各地の戦場に出向いてみても、戦友と呼べる相手は出来ても対等な友人と呼べる相手は出来なかった。
もちろん中には、皇女という肩書を気にしない豪放な戦士もいた。だがそういった者達は、戦士であるからこそ、強大な神術師であるわたしに一定の警戒心とある種の畏れを抱いていた。
それは仕方ないことだと、兄弟達は言う。国の頂点に座す一族に生まれ、超常の力を持つ者として存在する以上、常に周囲から畏敬の念を抱かれるのは避けられないと。
それでも、わたしは諦められなかった。
わたし自身、なぜ自分が友人というものに憧れるのかは分からない。だが、城内で親し気に言葉を交わす侍女達を見る度に、どうしようもなく憧れてしまった。
わたしもあんな風に、お互いに気を遣わずに対等に接することが出来る、出来れば同性の相手が欲しい。
リアが帝都に来た時、《崩天槌》と《ヴァレントの針》を持ち出して真っ先に駆け付けたのも、一番の原因はそれだ。
王国の高位貴族の生まれであり、わたしを超える力を持つ神術師であり、しかも皇女という肩書すら霞む聖女という肩書の持ち主。おまけに同性で同年代。わたしの胸はかつてない期待に高鳴った。
友人となる方法がよく分からず、戦友たちとよくやる
だが、リアはわたしを拒むことも恐れることもなく、1人の人間として接してくれた。
口調や振舞いにはどこか一線を引いたものを感じたが、わたしに向ける態度は割と容赦がなく、それがわたしには心地よかった。皇女であるわたしに正面切って「バカ」と言う相手など、家族を除けば恐らくリアが最初で最後だろう。
そして、昨夜。
わたしの“友人”という言葉に、肯定で返してくれたことが本当に嬉しかった。
嬉し過ぎて思わず、憧れの「一緒にお風呂」と「1つのベッドで寝る」を実行しようとしてしまったくらいだ。残念ながら後者は多重結界を張られて全力で拒否られたが……いつもの冷静な態度を崩して、顔を真っ赤にして恥ずかしがるリアの貴重な姿を見れたのはよかった。次に宿に戻ったら、今度こそ一緒に寝ようと思う。
そう、わたしはまだリアとやりたいことがある。
そのために、2人で帰る。わたしは、リアと帰るんだ!
一瞬の瞑目と共にそう強く念じ、カッと目を見開く。
すると、先程まで前方にいた黒い影が、1つ残らず跡形もなく消え去っていた。
しかしわたしはそんなことはもう気にせず、通路の先だけを見て全力で駆けた。の、だが……
「あああぁぁあぁぁ!!」
「っ!?」
突然リアが叫び声を上げながら暴れ始め、一瞬腕を緩めた拍子に両腕が弾かれた。
「ああぁぁぁあぁううぅう」
「リア! しっかりしろ!!」
地面にうつ伏せに倒れたまま、リアは頭を抱えながら呻くと、ふと空中の一点を見詰めて静止した。
釣られてそちらを見るが、そこには何も──
その瞬間、わたしは恐ろしい光景を幻視した。
通路に
「リアっ!!」
怖気を伴う危機感に衝き動かされ、覆い被さるようにしてリアの目を塞ごうとする。
だが、リアが
体勢を崩し、のけ反るわたしの斜め下方で、チカッと何かが光った。
(剣光!!)
そう認識した時には、鋭い切っ先が文字通り
ギャリィィィン!!
咄嗟に顔を振ると、狙いが逸れた細剣が激しい擦過音を上げながら右目の横からこめかみへと抜けて行った。
「リ、リア……?」
尻もちをついた状態で顔を上げると、そこには腰の剣を抜いたリアが無表情でわたしを見下ろしていた。
その視線が、わたしから離れてすいっと横に向けられる。
その行動に、わたしはリアを案ずる気持ちが生じると共に、戦士としての矜持を激しく傷付けられた。
わたしを前にして、わたしに剣を向けておいて、わたしを無視する。
そんなことを、このわたしが……
「許すと、思うか?」
背中に手を回し、《崩天槌》の留め具を外す。
そして、ぶぉんと大きく振り回しながら肩に担ぐようにして構えた。
「こっちを見ろ!!」
その怒声に反応したのか、それともわたしの闘気に反応したのか。
中空に向けられていたリアの視線が、完全にこちらを向いた。左足を引いて半身になり、だらんと下げていた細剣を体の前で突き出すようにして構える。
「そうだ、それでいい」
まさか、あの日望んだ立ち合いがこんな形で実現するとは。
脳裏を過ぎったその考えに、軽く苦笑を漏らして。
わたしは全力で地面を蹴った。