更科梨沙(セリア・レーヴェン)視点 3-⑬
ゆらゆら ゆらゆら
暗く、温かな闇の中を意識が
上も下も、右も左もない空間で、私はぼんやりと目の前の丸い水面を眺める。
その水面の向こうからは光が差し込み、人々の喧騒が聞こえてくる。
しかし、水面越しのその光はこの闇を照らし出すことはなく、その音もこの闇の静寂を乱すほどではない。
(ここは……楽だな……)
水面の向こうに映る景色を見るとはなしに眺めながら、私はぼんやりとそんなことを思う。
(でも……戻らないと)
正直、戻りたくない。
それは暖かな春の朝にベッドの中で微睡んでいる最中、嫌々ながら起き出す感覚に似ている。
それでもずっとここにいる訳にはいかない。
私は心地よい闇の誘惑を振り切り、神術を解除した。
その途端、私は目の前の水面へと吸い込まれた。
深海から水面へと引き上げられるような感覚と共に、光や音、あらゆる感覚が鮮明になって行く。
そして、私は水面を突き破り――――
「――っ! うっ、ぶ……」
急激に鮮明になった感覚に、ぬるま湯の中にいた意識が悲鳴を上げる。
反射的に目を瞑り、耳を塞いだ。
そのままベッドの上で小さく縮こまり、少しずつ本来の感覚に意識を慣らしていく。
「はあ、はあ……ふぅ」
ようやく感覚が元に戻って、私はのっそりと起き上がった。
しかし体を起こすと、まだどこか波に揺られているような、船酔いのような感覚が残っていた。
「う~ん……これはダメね」
私が何をやっていたかというと、神術による令嬢モードの再現だ。
自分自身に精神系神術を掛け、かつての令嬢モードと同じような精神状態にしようとしたのだが……結論としては、完全に失敗だった。
術自体は問題なく発動したし、再現度も申し分なかった……と、思う。
だから問題なのは、令嬢モードそのものだ。
そもそも冷静に考えれば、「全てのことに現実感を感じなくなる」というのは「危機感も感じなくなる」ということなのだ。
意識自体ははっきりしているからまるっきり反応出来ないということはないだろうが、それでも令嬢モード発動中に不意打ちを受けたりしたら、間違いなく反応が遅れるだろう。
それに、発動中の半分夢心地のような感覚が楽過ぎて、なかなか戻ってこれなくなる。
しかも、解除した時の反動も大きい。
なんだか自分の体が自分の物ではないような……今でも全身の感覚に違和感が残っている。
「少し前までは……これを普通に使ってたはずなんだけど……」
今になって、いかに当時の自分の精神状態が異常だったかがよく分かる。
きっと、自分でも気付かない内にいろんなものが麻痺していたのだろう。
今思い出してみても、セリア・レーヴェンとして生きていた頃の記憶は、どこか他人事で現実感がない。
それは令嬢モードを発動させていなかった時も、だ。
まるで、ずっと長編ドラマでも観ていたかのような気分だ。
当時の自分は、それなりに画面の向こうの出来事に一喜一憂していたはずなのに、今となっては全然実感が湧かない。
唯一はっきりと思い出せるのはハロルドのこと。
私にとってハロルドだけは、画面のこちら側の住人だった。
もっとも、そのハロルドもいつしか
(だからこそ、それほどショックを受けずに済んだのかもしれないけど、ね……)
今の私が、ハロルドを見たらどう思うのだろう。
逆に、ハロルドが今の私を見たらどう思うのだろう。
何も変わらない気もするし、何かが決定的に変わる気もする。
「まっ、考えても意味はないけど、ねっ!」
考えを断ち切るように一息に上体を起こし、ベッドから降りる。
そして壁に立て掛けてあった細剣を腰の剣帯に吊るすと、部屋を出た。
そのまま階段を下り、一階の食堂を突っ切って宿屋から出る。
「さて、また図書館に籠りますか……」
帝都に辿り着いて数日、私は宿屋に籠って神術の習得と神具作成に勤しみ、疲れたら図書館に籠って本の虫になるという生活を送っていた。
それとは別に、セナト=ラ・ゼディウスとの戦闘中に暴走(?)した《飛天剣》も調べたのだが……これは何の成果も得られなかった。
まあ他ならぬ自分自身が“飛行”で王宮の“聖域結界”を透過した以上、その“飛行”を元に作り上げた“飛剣”が、私の“聖域結界”を透過できるのは当然のことだった。
だが、最後のあの場面で、なぜ私の胸に《飛天剣》が突き刺さったのかが分からない。
一番ありそうなのはセナト=ラ・ゼディウスが風を操って《飛天剣》を飛ばしたという線だが、「神術による移動阻害の無効化」という効果のある“飛剣”が込められている以上、それはあり得ないはずだ。
かといって、私の固有神術である“念動”をセナト=ラ・ゼディウスが使えるとは思えず……。
ならば神具そのものに何か異常が発生したのかと思って調べたが、特にそういったものも見付からず、結局、結論は出なかった。
なんとも収まりが悪い結果だが、分からないものは仕方がない。
何か異常があれば処分するつもりだった《飛天剣》は、なんとなくそのままにしておくのも気持ち悪くて、帯剣用に加工しておいた。
今私の腰に差されているのがそれだ。
元の《飛天剣》を細剣に鍛え直し、余った分の聖銀鋼を鞘にしてある。
これは、私が神術師であるということを隠すための偽装工作の1つだ。
普通、私みたいな小娘が武器も持たずに一人旅ができるほど、帝国の治安はよくない。
自分で言うのもなんだが、私のような見るからに育ちがいい美少女が1人丸腰で歩いていたら、色々と厄介ごとに巻き込まれるだろう。
しかし、それらをいちいち神術で解決していたら、あっという間に身バレの危機だ。
なので、トラブル回避のために分かり易く目に見える護身用の武器を用意したのだ。
といってもただの飾りではないし、いざ暴漢に絡まれたりしたら可能な限りこの剣で撃退するつもりだが。
この剣のいいところは、“飛剣”によって常に浮いているということだ。
つまり、こうして腰に差していても全く重くない。その代わり、きちんと剣帯で固定しておかないと走った拍子にすっぽ抜けたりするが。
また、この剣を帯びるために、ローブの形状も変えた。
セナト=ラ・ゼディウス戦で開いた穴を塞ぐついでに、ローブの前面を切って前開きにし、剣を通す用に後ろ側にもスリットを入れた。
その結果、外見がゲームで出て来る白魔導士からどこぞの銀河を守る騎士みたいになってしまった。
“念動”を使う辺り、ますますその感じが出ている気がするが、別に狙った訳ではない。いや、本当に。
前が開いたことで少し前面の防御力が落ちたが、まあ以前の形状だと着るのも脱ぐのも一苦労だったし、走る時に足にまとわりついて鬱陶しかったので、なんだかんだでこちらの方がいいんじゃないかと思っている。
また、偽装工作の一環として変装用の神具も用意した。
今私が身に着けている髪飾りがそれだ。
雪の結晶をモチーフにした銀細工の中心に美しく輝く青い宝石が付いており、この青い宝石が神術の付与触媒になっている。
宝石の名前はシルグファイト。昔誕生日にハロルドにもらったもので、家から持ち出してきた触媒の1つだ。
この神具の効果は、私の外見の色彩を変えること。
というのも、私の透けるような白皙に銀髪、水色の瞳は帝国では目立つ。
王国でもここまで色素の薄い人間は珍しかったが、帝国ではなおのことだ。
帝国では肌の色は褐色や黄褐色が基本。
髪の色は黒や茶が多く、次に赤や黄。金髪は時々いるが、銀髪なんて帝国では見たことがない。
瞳の色も同じで、基本黒や茶、時々
なので、目立つことを避けるために、いっそのこと全身の色彩を異常変色した方に合わせることにした。
つまり、前世と同じで肌は黄褐色、髪と瞳は黒にしたのだ。
この髪飾りを身に着けることで、一瞬で色を変化させることが出来る。これで多少は目立たなくなっただろう。
……まあ、この光を受けて無駄に輝くローブがある以上、目立つことは目立つのだが。
そこら辺は、“隠密”にお任せだ。
その“隠密”も、以前よりもグレードアップしている。
といっても術自体に変更はなく、術の掛け方に工夫を加えたのだが。
以前イェンクーの身体強化の神術を見た時に気付いた、自分自身に神術を掛ける際に、神力を完全に制御すれば周囲に気配は一切漏れないという事実。
それを、私も実践してみることにしたのだ。
元々神術の発動数を増やす過程で神力の制御力はかなり上がっていたので、やってみると意外と簡単に出来た。
その結果、今では神術師にも一切気配を気取られない完璧な“隠密”が完成した。
ふふふ、今の私なら帝城にだって侵入できる気がする。いや、やらないけど。
そんなこんなで、この数日でかなり装備は充実したと思う。
未だに神術師としての力は完全には戻っていないが、これで多少はその不調を補うことが出来るのではないだろうか。
しかし、その一方で図書館での情報収集はそれほど収穫がなかった。
私が求める過去の聖人が書き残した史料などは、恐らく帝城の書庫にでも保管されているのだろう。
だが、遺跡や大迷宮に関する資料はあった。
帝国で確認されている遺跡は、一番有名なヴァレントの大迷宮を除けば全部で6つ。意外と少ない。
しかし、それも仕方がないことだろう。なぜなら、帝国出身の聖人がそもそも少ないのだから。
これには恐らく、帝国の一夫多妻制による「神術師は産めよ増やせよ」という方策が影響を及ぼしている。
この方策のせいで神術師の数が増えた反面質は落ち、優秀な神術師が生まれ難くなっているのだ。それは恐らく聖人も含めて。
(まっ、本命はヴァレントの大迷宮だし。その情報をある程度得られただけよかったかな)
そんな風に考えながら、大通りを歩いていると……道の端に並ぶ屋台の1つから、何ともいい匂いが漂ってきた。
思わず足を止めてそちらを見ると、どうやら何かの肉の串焼きを売っているらしい。
ジュワジュワと油が
(買い食い……しちゃう?)
思わずつばを飲み込むと同時に、頭の中をそんな考えが過ぎった。
当然だが、貴族令嬢であった私は今世で一度も買い食いなんてしたことはない。
いや、そもそも私は前世でも買い食いなんてほとんどしたことが無かった。
夏希や七海に付き合って放課後にクレープやたい焼きを買ったことはあるが、それも滅多にやらなかった。
というのも、それでもし夕食を残したりしたらお母さんがとってもステキな笑みを浮かべるからだ。
なんでか毎回買い食いしたってバレるんだよね。母親の直感って不思議。
しかし、今の私は一人旅の最中。
つまり自由! フリーダム!
屋台で買い食いしたって、それを歩きながら食べたって誰にも叱られない。
(たまにはこういうのも……いいよね? うん)
私はそう自分自身に言い聞かせると、屋台に近付いて串焼きを1本注文した。
串焼きを焼いていた屋台のおじさんは、私の身なりを見て少し緊張した顔をしていた。
恐らく、貴族の令嬢か何かと勘違いされたのだろう。あながち間違ってはいないが。
微妙に恐縮した様子の店主から帝国銅貨と引き換えに串焼き肉を受け取ると、私はさっと周囲を見渡して、近くの人気のなさそうな路地に入った。
……買い食いはともかく、流石に歩き食いをするのはどうかと思ったのだ。
「いっただっきま~す」
そして、路地に入った私が串焼き肉に歯を立てようとした――その瞬間
頭上から、何かが落下してきた。
恐らく路地に隣接する家の屋根から飛び降りてきたのだろうその人影は、ズンッと音を立てて私の5mほど横に着地した。
その右手には凶暴な威圧感を放つ戦槌。左手には……つい先日まで私が持っていた《ヴァレントの針》が握られていた。
その人影――褐色の肌に長い黒髪を持つ少女が、ゆっくりと左手の《ヴァレントの針》に向けていた視線を上げる。
その視線がはっきりと私を捉えると同時に、その口元に獰猛な笑みが浮かんで――――
「お前が、聖女セリア・レーヴェンだな!」