平城宮跡を横切る線路、なんと不思議
とことん調査隊

関西タイムライン
関西
奈良
2020/8/4 2:01

近鉄電車に乗って大和西大寺駅から奈良に向かうと、車窓右手に朱雀門(復元)、左手に大極殿(同)が見えてくる。考えてみれば世界遺産の平城宮跡の真ん中を電車で横切るというのは、なんとも不思議な感覚だ。近畿日本鉄道の前身の大阪電気軌道(大軌)が奈良線を開業したのは1914年。当時も平城宮跡の存在は知られていたはずなのに、なぜ遺跡を横断する路線が敷かれたのだろう。

そんな疑問を抱えて訪れたのは、平城宮研究の専門家が集結する奈良文化財研究所。遺跡整備研究室長の内田和伸さんが、明治末期の平城宮跡の様子を復元した地形模型の全景写真を見せてくれた。

よく見ると中央から東側の水田の中に黒い塊が規則正しく点在しているのがわかる。「黒いのは当時の建物基壇が風化した土壇が残っているところ。大きな土壇は『大黒の芝』といわれる古代の大極殿(現在の第二次大極殿)の跡で、その南は朝堂院の建物群があったところです」

平城京は784年に長岡京に遷都、その10年後に平安京に移る。平城宮は次第に廃れ、9世紀には水田になっていた。長い眠りから覚め、平城宮の建物の配置などが特定されてくるのは江戸時代末期から明治にかけて。地元の人が「大黒の芝」と呼んでいた土壇が大極殿跡であることが地元新聞に発表されると、これを受けて民間の保存運動が活発になっていった。

大阪と奈良を直結する鉄道が計画された明治末年は、ちょうど保存運動が始まろうとしていた頃に重なる。大軌の奈良線はすでに生駒山地の南側と北側を抜ける2ルートを開業していたライバル路線に対抗し、大阪―奈良を最短で結ぶために生駒山を長大なトンネルで貫いて建設された。

最短ルートを優先したがために、平城宮の遺跡をないがしろにして線路を計画したのだろうか。ところが話はそう単純ではないようだ。近鉄の社史「100年のあゆみ」をひもとくと、その辺の事情がわかってきた。

生駒トンネルは難工事だったが、奈良県側の用地買収もそれ以上に難航した。当初計画された路線は、現在の阪奈道路に沿うように三条通りから奈良市の三条町に至るルート。つまり線路は宮跡の南端から500メートル近く南へ離れた場所に敷かれるはずだった。

しかし生駒以東の用地買収にてこずり、経路を北方へ変更せざるを得なくなる。ようやく線路と駅の用地が確保できたのが西大寺近辺だった。

さらに西大寺から奈良への路線にも問題があった。駅からすぐに東進すると平城宮の大極殿跡に引っかかってしまう。最終的に当時の奈良県知事の判断で、西大寺駅から南へ大きくカーブして奈良に入ることで決着をみたという。

確かに航空写真でみると線路が不自然にカーブしているのがわかる。「当時、平城宮が広いことはわかっていたが、土壇など目に見える遺構が残る区画が重要だと認識されていた。そこは残さないといけないと判断したのではないか」と内田さんは推測する。

奈良線の開通から8年後の1922年、大極殿跡の土壇が残る約47ヘクタールが国の史跡に指定された。その後、60年代に発掘調査が進むと、平城宮跡のエリアが正確に判明し、全域の約131ヘクタールを特別史跡に指定。そして結果的に線路は平城宮跡を横断する形になってしまったというわけだ。

国は2008年、線路の将来的な移設を前提に国営公園とする基本計画を策定。宮跡外への線路移設を求めてきた奈良県は今年7月、渋る近鉄との間で移設協議に入ることで合意した。「平城宮跡の一体的な利活用を考えると、分断が解消されるのは歓迎したい」と内田さん。ただ、電車に乗りながら世界遺産の真ん中を貫く、あの不思議な感覚が味わえなくなると思うと、少し寂しい気もする。

(岡本憲明)

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