ナキア・レーヴェン視点⑤
屋敷に戻り、本来の目的を果たすべく廊下を歩く。
その間も、頭の中は母のことでいっぱいだった。
去り際に母が上げた
今まで社交界でたくさんの人間に会ってきたが、あれほど剥き出しの狂気に触れたのは初めてだった。
それが長年に渡って身内として接してきた相手ともなると、たとえそれがずっと嫌悪していた相手だったとしても衝撃は大きい。
今や記憶の中にある母の姿が、どれもこれも歪な笑みを浮かべている気がする。
例えば誕生日をお祝いされた時。例えば学園での成績を褒められた時。
あの時も、内心で母は笑っていたのだろうか?
自身の復讐の代行者として順調に成長するわたくしを見て、歪な笑い声を上げていたのだろうか?
あの時も、あの時もあの時もあの時も…………
そこまで考え、前方から聞こえる足音にハッとする。
どうやら前の曲がり角の向こうから警備の者が近付いて来ているらしい。
咄嗟に周囲を見回すが、身を隠せそうな遮蔽物は見付からない。
考え事に没頭し過ぎて注意が散漫になっていた自分自身を内心で罵倒しつつ、やむなく近くの部屋に素早く滑り込む。
音を立てないように慎重に、しかし素早く後ろ手でドアを閉めると、そのまま廊下の音に聴覚を集中させる。
やがて警備の足音がドアの前を通り、離れて行くのを確認してから、ふっと肩の力を抜いた。
…よく考えれば、別にそこまで必死に隠れる必要もなかった気がしてきた。
これだけ暗ければ、相手の目が腫れているかどうかなんてそうそう分からないだろう。なのに、何をここまで必死になっているのか。
静かに自嘲しつつ、廊下に向けていた意識を部屋の中に向けて……固まった。
「っ!…ぁ……」
意図せず、口から意味のない音が漏れる。
しかし、無理もないだろう。なぜなら、咄嗟に飛び込んだその部屋が……出て行った姉の部屋だったから。
何ですぐに気付かなかったのかと思い、次の瞬間にはそれも無理ないかと思い直す。
そもそも姉の部屋の入ったこと自体、数えるほどしかない。
会話すら滅多にしない間柄だったのだから、部屋を訪ねる機会などそうあるはずもない。
「……」
この部屋の主がいなくなってもうそろそろ1カ月になるが、使用人達が欠かさず掃除をしているのだろう。特に人の気配がなくなっているという感じは受けなかった。
しかし、窓から差し込む月明かりに照らし出されたこの部屋には、それとは無関係に寂しい雰囲気が漂っていた。
それは
ベッドやクローゼットといった必要最低限の家具が置いてある部分を除き、壁という壁が本棚で埋め尽くされており、その本棚もまた無数の本や書類で埋め尽くされている。
これはもはや令嬢の私室というより、どちらかと言うと執務室に近い気がする。
使用人が定期的に入れ替えているのだろう、机の上の花瓶に差してある花が、寂しいこの部屋に添えられたせめてもの彩りと言えるだろうか。
「……」
何となくさっさと出て行く気にもなれず、全身の力を抜くと、ドアに背を預ける。
すると思い出すのは、先程ラルフの口から聞いた姉の最後の言葉。
『私はあなたのことを嫌ってはいなかった。あなたの気遣いに気付いてあげられない鈍い姉でごめんなさい。そしてありがとう』
「……」
ずっと、嫌われていると思っていた。
嫌われて当然のことをしていた自覚はあるし、自分が姉の立場ならば間違いなく他の家族と同じように嫌悪していただろう。なのに……
(嫌ってないって……今更そんなことを言われても……)
そんな、そんなことを言われても…わたくしは、お姉様のことなんて……
「きらい、ですわ……」
自分の口からぽつりと零れたその言葉が、自分でも驚くほど空虚で嘘っぽく聞こえ、思わず唇をムッと尖らせる。
そして、そんな自分の子供っぽい仕草に気付いて
本当に馬鹿みたいだ。
姉はもうとっくにいなくなったというのに、未だに姉の一言にこうも振り回されてしまうなんて。
今頃姉はどこかで、こんな家のことなんか忘れて好きに生きているだろうに。
わたくしばかりが簡単に意識を囚われて……こんな、これではまるで……
(わたくしがお姉様のことを……き…みたいじゃありませんの!)
肝心な部分は頭の中ですら言語化するのも
…自分でやったのだが、思った以上に力が入ってしまって普通に痛い。
「~~~~~っ!!」
口の中で声にならない呻き声を上げながら、頭を抱えてその場に
今のわたくしの姿は、
何で夜中に1人でこんな醜態を晒さなければならないのか。
これはもう、姉の恥ずかしい秘密の1つや2つ、暴いてやらないと割に合わない。
完全に八つ当たり…というか自分自身何が割に合わないのかもよく分からなかったが、そんなことは関係ない。
微妙に涙が滲んでいるだろう目をキッと上げると、部屋の中を睨みつけた。
考えてみれば、今のこの屋敷は当主であるわたくしのものだ。屋敷の主が、出て行った人間の置いていった持ち物を整理することに何の問題があろうか。見られたくないものがあるなら、出て行く時に持ち出すなり処分するなりすべきなのだ。そうしていないという時点で、誰かに見られるということは覚悟していて
姉が出て行く時にそんな余裕があったとは思えないという事実は脇に置いておいてそう自分自身を納得させると、わたくしは早速手近な本棚を調べ始めた。
…調べ始めた、のだが……
「……」
姉の本棚には特に面白いものは何もなく、ただひたすらに貴族教育、王太子妃教育に関する書物や神術に関する書物が並んでいるだけだった。
結局、姉の
姉もわたくしも、学園入学後は基本的に王都の屋敷に住んでいたので、この部屋にある書物はそのほとんどが学園入学前、つまり姉が10歳になるまでに読んだ物のはずだ。
にも関わらず、そのほとんどが大人が読むことを前提にした難解な内容だ。
特に神術の書物に関しては、明らかに学園の授業でも使われないような専門書だけでなく、まだ製本されていない、宮廷神術師が書いた論文と思われる紙の束まで発見された。
(『ボネッド条件下でブーレーン理論を適用した場合における補助術式のドナ係数の変化に関する考察』?…タイトルを見ただけでは何のことやらさっぱりですわね)
姉は10歳にも満たない頃からこれを理解したのだろうか?……理解したのだろう。パラパラとめくってみると、姉のものと思われる走り書きや注釈があちらこちらに書き込まれていた。それを読んでもわたくしにはどういう内容なのか全く分からない。
他の紙束も見てみるが、どれもこれも到底子供が読むような内容ではなかった。学園の座学では学年で上位3位以内には必ず入っているわたくしでも、タイトルが理解出来るものは半分もなかった。
「……」
思わぬところで自分と姉の“差”を思い知らされて陰鬱な気分になってしまったが、しばらくすると別の感情が湧いてきた。
それは、これらの膨大で難解な書物の数々に、姉の苦悩を見てしまったからだ。
神術に関する専門書や論文だけを纏めて見てみると、それらの内容がある1つの分野に偏っていることが分かった。そして、姉がこれらの書物から何を得ようとしていたのか、その目的が透けて見えた。
即ち、高位の神術を使えないという自身の特異性の原因究明。そして何とかそれを克服するための手段の模索。
これらの書物は、そこに書かれている書き込みは、“神に見放された者”と呼ばれ、あらゆる腕利きの神術師に
全てはハロルド殿下と共にいるため。王太子妃として堂々と殿下の隣に並び立つため。そのため…だったはず。だったはず、なのに……
「どうして……」
今になって、ここにいない姉に対する問い掛けを零す。
これらの努力が実を結んだのかどうかは分からない。だが、姉は結果的に自身の特異性を克服し、長年の悲願を成就させたはずだ。なのに……
(鈍いのはわたくしも、ですわね…。お姉様、わたくしは最後まで貴方のことが分かりませんでした……)
知れば知るほど分からなくなる。いや、それとも勝手に知った気になっているだけなのかもしれない。
わたくしが知っている姉の姿は、そのどれもが姉の作り上げた偽りの姿なのかもしれない。
そう思うと、自分でもその予想は否定出来なかった。しかし…
思い出すのは夢の中で見た光景。
そう…たとえそうだとしても、あの時わたくしに手を差し伸べてくれた姉は本物だった。あの瞬間だけは、姉はわたくしに本当の自分を見せてくれていたと思う。
あの手を、取っていれば……もっと、本当の姉を見ることが出来たのだろうか?
そんな意味のない仮定が脳裏に浮かび、頭を左右に振ってすぐに打ち消す。
もう、今となってはどうしようもないことだ。
現実にはわたくしは姉を拒絶し、姉は全てを捨てて去った。それだけが事実で、わたくしの選択の結果だ。
(そうですわ。今更そんなたらればを語っても無意味。……今更わたくしがどう思おうが、もうお姉様は帰って来な…のですから)
本当に今更なこと。わたくしは手元の書類を床に下ろすと、そっと目を閉じ、胸の奥で上がった微かな幼い泣き声を意識から遮断した。
引っ張り出した書物を残らず本棚に戻すと、続いて1つだけあるクローゼットに向かった。
もうこの作業にどれだけの意味があるのかもよく分からなかったが、始めた以上途中でやめるのも気持ちが悪い。
さして何の期待もせずにクローゼットを開けると、そこには侯爵家の令嬢にしては簡素な見た目のドレスや室内着が並んでいた。それ自体は見慣れたものばかりで、特に目新しいことは何もなかったのだが……
「あら…?」
それらの衣類に隠れるようにして、クローゼットの奥に一体のぬいぐるみが座っているのが見えた。
ドレスの下から覗いているその小さな足に既視感を覚え、掛かっている服を掻き分けて奥から引っ張り出すと、それがとても懐かしいものだということに気付いた。
茶色い犬のぬいぐるみ。
頭が胴体と同じくらい大きく、頭の横に垂れた耳がふわふわとした毛に包まれている。対して手足は短く簡素で、丸々とした胴体から小さく突き出しているのみだ。
たしか姉が5歳の誕生日に、姉にしては珍しく両親におねだりして買ってもらったものだ。当時のわたくしはそれを羨ましく思っていたのでよく覚えている。
当時は同型のクマのぬいぐるみが貴族令嬢の間で流行っていたのだが、姉はなぜかこの犬のぬいぐるみをいたく気に入り、“モモ”と名付けて屋敷の中ではいつも持ち歩いていた。
あの両親が姉に負の感情を向けるようになった頃から、いつの間にか見掛けなくなっていたのだが、まさかこんなところに隠してあったとは。
「…あなた
その黒いガラス玉の目を見詰めながら囁く。
「まったく、薄情なご主人様ですこと」
くすっと笑みを零すと、かつて姉がそうしていたように、“モモ”を両腕でしっかりと胸に抱く。
「今日から、わたくしがあなたのご主人様ですわ」
この屋敷はもうわたくしのもの。
そこに残してあるだから、わたくしがもらってしまっても何の問題もないだろう。
「もう、返して欲しいって言われたって返してあげないんですから」
そう呟くと、何だか愉快な気分になってきた。
「ふふっ」
何だか久しぶりに本心から笑った気がする。
母と話してからというもの、ずっと頭の中に渦巻いていた嫌なものが消え去って行く。
そうすると、今度は急に眠気を自覚した。
考えてみれば、もう日付が変わってからずいぶん経っている。
我が家主催のパーティでホストを務めて、その後も碌に休まずに執務に没頭していたせいで、かなり疲労が溜まっている。気が抜けた瞬間、それが一気に押し寄せてきた。
急激に襲ってきた眠気に必死に抗いながら振り向くと、視界に入ったのは姉のベッド。
「……」
これは、別に何でもない。
そう、眠気が酷くて、そこに
それだけのことで、別に他意はない。このベッドが誰のものかなんて別に関係ない。ないったらない。
そんな風に頭の中でぼんやりと、誰に言うでもない言い訳をしつつ、吸い寄せられるようにベッドに向かう。
室内履きを適当に脱ぎ捨てると、そのまま倒れ込むようにベッドに横になった。
ボフッと掛け布が
(あ……お姉様の………)
うっすらと靄がかかった意識の中、遠くの方でそんなことを思うと同時に、急激に意識が薄れてきた。
最後になけなしの意志力を振り絞って掛け布に
「おやすみなさい…モモ……」
― おやすみなさい、お姉様
意識の片隅でそう囁くと、今度こそ眠気に身を任せた。
― 数時間後
「ナキア様はまだ見付からんのか!!」
「今、メイドの子達も起こして探させていますわ」
「執事達もです。父上」
「申し訳ありませんラルフ様。警備の者達は何も気付かなかったと…」
「くっ、私が目を離していなければ……ん?」
ダダダダダッ
バンッ!!
「ハァ、ハァ、っ、ラルフ様!ナキアお嬢様が!!」
「落ち着きなさい。落ち着いて報告を―――」
「何ですかはしたない。レーヴェン侯爵家に仕えるメイドたるもの―――」
「こらっ、ナキアお嬢様ではない。ナキア様と―――」
「こんな状況で廊下を走るなんて―――」
「ナキアお嬢様が!セリアお嬢様の寝室に!!」
「「「「詳しく」」」」
「私がセリアお嬢様のお部屋を確認しましたら、ナキアお嬢様がセリアお嬢様のベッドで眠っておられて―――」
「「「「尊い!!」」」」
「しかも!ぬいぐるみのモモをしっかりと胸に抱いて!!」
「「「「神々しい!!!」」」」
「それもとても安らいだ表情で……ふぐっ、も、申し訳ありません。興奮し過ぎて鼻血が……」
「あぁ、ナキアお嬢様!とうとう素直になられたのですね!
「あぁなんてこと!ばあやは、ばあやは……」
「尊い!あぁ尊い!!」
「ありがとうございます!ありがとうございます!!」
「ハッ、こうしてはおれん。是非ともその尊いお姿を眼に焼き付けなくては!!」
「いいえ、それよりも先に絵師の手配よ!そのお姿を何としても記録に残すのよ!ちょうどいいわ。あなた、今から町に行って絵師を呼んで来なさい」
「ふぐぅ…か、かじこまりまじた」
「あぁ、生きててよかったぁ!」
「んんっ、ちょっと落ち着いてください皆さん。ナキア様がこの騒ぎで目を覚ましてしまわれては元も子もないでしょう」
「むっ…そうだな。少し落ち着こう」
「ええ、そうね」
「は、ふぁい……」
「あぁ…神よ……」
「…おい、いい加減正気に戻ってくれないか?執事長」
(突然近くで奇声を上げられたおかげで、とっくに目が覚めているのですけど……一体何ですの?この騒ぎ。というか使用人達…お母様達がいなくなってからというもの、性格変わってません?何だかすごく出て行き辛いんですけども……)
結局、この騒動は間もなくナキアがメイドに見付かることによって収束する。
しかしそれからというもの、ナキアは屋敷中の使用人からすごく優しい顔をされるようになり、酷く居心地が悪い思いをすることになるのだった。
ちなみに最後話している使用人は、上から
ラルフ・サルバン(領主代行兼元執事長)
メイド長(ラルフの妻)
現執事長(ラルフの息子)
警備隊長
です。途中から飛び込んで来たのは幸運なメイドAですね。
次回はハロルド視点…と思わせておいて、まさかの
感想欄のコメントに着想を得た本編とは無関係の企画モノで、
ハロルド視点を楽しみにしてくださっている読者の皆様には申し訳ありませんが、「まあ燦々SUNだし。思い付いちゃったなら仕方ねぇなぁ」と思ってもう少しお待ちください。