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少女が旅立ったその後で 作者:燦々SUN

第2章

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Episode.0 更科杏助視点

 その知らせが届いたのは、家族4人でリビングでくつろいでいた時だった。


 いつになく帰りが遅い長女に、家族全員が訝しがり始めた頃、不意に親父の携帯が鳴った。

 それが、梨沙の学生証に記載されている緊急連絡先の番号であることは、この時まだ誰も気付いていなかった。


 親父が何事かと首を捻りながら電話に出て、間もなくその顔から表情が抜け落ちた。

 呆然と見開かれた眼、同じくぽかんと開けられた口から、え?と意味のない音が零れ落ちる。


 やがて電話を切った親父は、母さんの何の電話だったのかという質問にのろのろと顔を上げると、震える声で告げた。


「梨沙が…車に撥ねられたって……今、病院に………」


 リビングに、静寂が舞い降りた。



* * * * * * *



 母さんが運転する車に乗った俺達は、病院に着いて間もなく1つの部屋に通された。


 そこは病室にしては殺風景で、妙に空気が冷え切っていて……


 その部屋の中央にぽつんと置いてあるベッドに、梨沙は寝かされていた。

 顔に布を被せられ、首から下も布に覆われていたが、それ(・・)が梨沙であることに疑いを持つ者はこの場にはいなかった。


 親父が、よろよろと覚束おぼつかない足取りでそのベッドに近付くと、その顔に掛けられた布をそっと取った。

 その顔は、今朝家を出るのを見送った時のまま何も変わらなくて……でも、はっきりと分かってしまった。


 その顔に、生気がない。

 そこに、もう梨沙はいない。


「いや、いやぁ……」


 ひび割れたように掠れた声が、隣から上がった。


「いやあぁぁぁああぁぁぁ!!!おねえちゃん!!おねえちゃぁん!!!」


 その声は、次の瞬間には絶叫と化した。

 壊れたように叫び、桃華が掴み掛らんばかりの勢いで梨沙の元に駆け寄ろうとするが、その身体を母さんが背後から抱き止めた。


「いやぁぁぁああぁぁ!!!はなしてっ!!はなしてぇぇ!!!おねえちゃんが!!おねえちゃんがぁぁあぁぁ!!!!」


 我を失って暴れる桃華を、母さんは強く抱き締め続けていた。

 壊れそうな桃華の心を、必死に繋ぎ止めようとするかのように。


 その2人を置いて、俺は梨沙の元に歩み寄った。


 ほんの数メートルの距離がやけに遠い。

 足が自分のものじゃなくなったかのように感覚がふわふわしている。


 それでもゆっくりと親父の隣まで進むと、梨沙の顔を静かに見下ろした。

 近くで見る梨沙の表情は安らかで、特に苦痛を受けた様子は見られなかった。


「梨沙…あぁ、りさぁ……」


 親父がベットに顔を埋めながら、弱々しく囁いている。


「一緒にいた男子学生の通報を受け、救急隊が駆け付けたのですが…その時には既に……」


 親父の近くに立つ男の人の声が、側にいる俺の耳にも届いた。


 その言葉の中の“一緒にいた男子学生”という言葉にピンとくる。

 それは最悪の予想で、しかし俺は直感的にそれが真実であることを悟っていた。


(あぁ、春彦…お前が……)


 なら、梨沙は春彦の目の前で死んだのか。

 春彦は、ずっと想い続けた相手を、目の前で失ったのか。


「あの―――」


 その男子学生は、どこに?


 そう聞こうとして、しかし口を閉ざした。


 会ったとして、何を言えばいい?

 今のあいつに、どんな言葉を掛けてやればいい?

 いや、俺はあいつに、どんなことを言うつもりなんだ?


 想い人を亡くしたことへの慰めか?それとも…近くにいながら梨沙を守れなかったことへの恨み言か?


 わからない。

 今の俺には、何もわからない。


 自分の感情を整理出来ないまま、しかし泣くでも叫ぶでもなく、ただ俺はその場に立ち尽くしていた。



* * * * * * *



 それから、諸々の手続きの為に母さんだけを病院に残して、俺と桃華は父さんの運転する車で一旦家に戻ることになった。

 桃華は少しだけ落ち着いた後、まだ梨沙の側にいたいとごねたが、母さんは断固として認めずに、俺達をあの部屋から追い出した。


 こういう時、本当に母さんは強いと思う。

 自分だって悲しくないはずがないのに、既に死んでしまった娘(梨沙)まだ生きている娘(桃華)に、すぐに優先順位を付けた。

 だからこそ、桃華を一旦あの場から離したのだ。

 あそこで梨沙の死に直面し続ければ、桃華は心に修復不可能な傷を負ってしまっただろうから。

 そして、俺達に桃華を託して、自分1人で梨沙の死に向き合い続けようとしているのだ。

 そう理解した俺は、あの部屋を出てからずっと桃華の手を握り続けていた。


 そのまま3人で病院を出る際、隣の橘家の4人と鉢合わせた。

 恐らく春彦から連絡を受けたのだろう。

 全員蒼白な表情で、いつも明るい夏希と秋雄も、酷く強張った表情をしていた。


 俺が気付くと同時に向こうも俺達に気付いたようだが、お互いに掛ける言葉が見付からなかった。

 俺達も全く心に余裕がなかったし、すっかり静かになってしまった桃華の様子が心配だったので、結局何も言わずに会釈だけをすると、素早くその横を通り過ぎた。


 そのまま駐車場に向かうと、親父が運転席に、俺と桃華は後部座席に乗り込んだ。

 家に向かう車中は、終始無言だった。

 誰もが突然の家族の死を受け止めきれず、口を開くのを躊躇っていたのだろう。


 家に着くと、俺はそのまま2階に上がって、桃華の部屋に入った。

 虚ろな目のまま、抜け殻のようになってしまっている桃華を抱き上げると、そのままベッドに寝かせる。

 今の桃華に必要なのは、休息だ。


 そう考えた俺は、右手はしっかりと桃華の手を握ったまま、左手で優しく桃華の頭を撫で続けた。

 そっと赤子をあやすように撫で続けると、やがて桃華の目蓋が閉じられ、静かな寝息を立て始めた。


 …これは恐らく、一時凌ぎでしかない。

 目を覚まして現実に直面した時、桃華がどのような行動に出るかは分からない。

 だが、桃華がどのような行動に出ても冷静に対処出来るように、今の内に俺自身の心の整理をしておいた方がいいだろう。


 桃華の様子が落ち着いたのを確認してから、俺はそっと桃華の手を放すと、音を立てないように静かに階下に向かった。


 リビングのドアを開けると、親父がソファに座って項垂れていた。

 それでも俺が近付くとゆっくりと顔を上げ、ぼそりと口を開いた。


「…桃華は?」

「寝た」

「…そうか」


 端的な受け答え、それだけで、あとは沈黙が満ちる。

 お互いに無言のまま数分が過ぎ、やがて親父は立ち上がると、気分を切り替えるように僅かに頭を振った。


「…病院に戻る。桃華のことは…頼めるな?」

「…あぁ」

「そうか…任せた」


 それだけ言うと、俺の横を通り過ぎてリビングを出て行こうとする。


「親父!」


 その背があまりに弱々しくて、俺は思わず声を掛けた。

 振り返った親父に、俺は一旦開いた口を閉じ…


「…気を付けろよ」

「…あぁ」


 小さく頷くと、親父はリビングを出て行った。

 家の玄関のドアの開閉音がして、その少し後に車のエンジン音が聞こえ、やがて遠ざかって行った。


「……」


 大丈夫か?


 そう、聞くつもりだった。

 しかし、いざ言おうとして、あまりにも愚問過ぎるということに気付いた。

 そんなことにも気付かないとは、どうやら俺も全然大丈夫ではないらしい。

 何とかして、もう少し冷静になった方がいいだろう。


 そう思い、先程の親父のように無駄に頭を振ってみたりしていると、視界に汚れた小さな箱が映った。

 それは梨沙の遺品だった。

 プレゼント包装がしてあるところを見るに、恐らく俺への誕生日プレゼントなのだろう。


 そう予想した俺は、静かにその箱を持ち上げると包み紙を剥がし始めた。

 すると、包み紙の中から出て来たのは…


「…眼鏡?」


 それは真新しい眼鏡だった。

 俺がいつまでも同じ眼鏡を身に付けているを見かねて、新しいのを買って来たらしい。


 俺はその眼鏡を持ったまま洗面所に向かうと、鏡の前でそれを掛けてみた。


「なんだこれ…」


 デザイン自体は悪くない。

 なのに、なんなんだ?この圧倒的な“これじゃない感”は?

 何というか、絶妙に似合ってない。

 いや、恐らく意図してのことだとは思う。

 俺が眼鏡をかけるのは目付きの悪さを隠す為で、決してオシャレの為ではない。

 だから、これはこれで理に適っているのだろう。

 しかし、いくらなんでもこれは……


「アホくさ…こんなもん買うために、何日も寄り道してたのかよ」


 思わず、そんな悪態が漏れてしまう。

 こんなもののために、あいつは…


「ばっかじゃねぇの……っ!」


 鏡に映る自分の姿が、ぼやけ、歪む。


「そんなことせずに……まっすぐ帰って来いってんだよ……なぁ……っ!!」


 震える手で眼鏡を外すと、俺は洗面所に突っ伏した。


「う、うぅ……っ」




 静寂の中、微かな嗚咽だけがいつまでも響いていた。

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