とある帝国騎士視点
ドドドッドドドッ
俺は今、同僚と2人で赤飛馬に跨って渓谷を駆けていた。
元々俺達帝国騎士団第3部隊は、両殿下の命に従い、領都の南で迎撃準備を整えている軍の護衛に当たっていた。
すると2時間程前に、渓谷の方からナハク・ベイロンのものと思われる、凄まじい咆哮が聞こえた。
それを聞いて、俺達はレーヴェン侯爵令嬢がナハク・ベイロンとの戦闘を開始したのかと思い、手助け出来ないなりに心の中で応援していたのだが、しばらくしてまた咆哮が聞こえた。
それだけなら良かったのだが、問題は、その咆哮が先程よりも明らかに大きく、はっきりと近くで聞こえたということだった。
予測では、ナハク・ベイロンの領都襲来まで短くとも2日は掛かるということだった。
しかし、その2回目の咆哮は明らかにその予測を裏切っていた。
その上そのすぐ後に、更に近くで咆哮が聞こえるに至って、フォーベル隊長は俺達2人を偵察に出す決断をされたのだ。
もし何らかの不測の事態によって、ナハク・ベイロンの移動速度が上がっていたのだとしたら、迎撃作戦に大きな支障が出るため、これは当然のことだった。
この偵察任務に当たり、俺達2人には部隊の赤飛馬の中でも特に健脚な2頭を与えられていたが、正直俺は全く乗り気ではなかった。
渓谷の方から轟いた最初の咆哮を聞いただけで分かった。
ナハク・ベイロンは、俺達人間にどうこう出来る存在じゃないってことが。
俺はあの咆哮を聞いた時、直接浴びせられた訳でもないのに竦んでしまった。
身体だけじゃない。心が竦んだ。
騎士としてそれなりに多くの修羅場を潜り抜けて来た自負と誇りがあってなお、これはダメだと思った。勝てる訳がない。抗うことなど不可能な存在だと悟った。
正直、迎撃なんて考えずに全員で無理にでも逃げ出すべきじゃないかと思った。
だが、仲間を置いて1人で敵前逃亡など出来る訳がない。
そんなことは騎士としての誇りに懸けて断じて出来なかった。
だが…だがまさか、こんな貧乏くじを引くことになるとは……
「なあ、ジン」
「何だ?」
隣を駆ける同僚に声を掛けると、ジンはチラリとこちらを振り向いた。
こいつの表情もいつも以上に硬い。
こいつも理解しているのだろう。これから向かうのが死地であると。
ナハク・ベイロンが危険なのは勿論だが、この先ではまだレーヴェン侯爵令嬢が戦っているのだ。先程から何度も聞こえる轟音でそれは分かる。
正直レーヴェン侯爵令嬢が勝てる見込みなど皆無だと思うが、仮にも聖女なのだ。戦闘の巻き添えを食えば、俺達のような中級神術師程度、あっさりと死ぬだろう。
「もう十分だろ?このまま戻って、隊長に撤退を進言しないか?」
「…どういう意味だ?」
俺の命令違反に当たるだろう言葉に、鋭い視線が返される。
だが、俺はごくりと唾を飲み込んで続けた。
「お前だって分かってるんだろ?撤退しかないって。ナハク・ベイロンと戦おうなんて無謀だ。こんな無意味な偵察に時間を費やすよりも、その時間を使って1人でも多くの人間を逃がすべきじゃないか?」
俺の言葉に、ジンは視線を逸らして前を向いた。
確かに自分の命が惜しいのもある。だが、今のは俺の紛れもない本心だ。こいつだって分かってくれるはずだ。
その思いを視線に込めて見詰める先で、しかしジンは固い声で言った。
「…今のは聞かなかったことにしておく」
「何でだよ!こんなこと時間の無駄だ!そんなことより――」
「黙れ!それを決めるのは我々ではなく隊長だ!我々の任務はその隊長が正しく判断出来るように情報を集めること!騎士の本分に従え!!」
「っ!!」
こいつにそこまで言われては、俺はもう何も言えなくなってしまう。
「ちっ、しゃーねえなぁ」
舌打ちしながら前を向き、半ば自棄になりながら馬に鞭を入れる。
そうして渓谷の曲がり角を曲がったところで……
あまりにも大き過ぎる巨体。
その巨体に相応しい巨大な頭に、家すら一呑みに出来そうな巨大な口。
それが、渓谷を塞ぐようにして横たわっていた。
報告とは違ってその全身は黒色だったが、それがナハク・ベイロンであることは疑いようがなかった。
「あ、あ……」
ナハク・ベイロンは眠っているのか、その目を固く閉じてピクリとも動かない。
しかし、俺はそのあまりの威容に、その場から動けなくなってしまった。
俺が跨る赤飛馬も、息を潜めて全く動こうとしない。
動けない。動けるはずもない。
下手に動いてもしコイツを起こしてしまえば、その瞬間に殺される。
だが、このまま動かずにいても、やがて目を覚ましたコイツに殺される。
自分の目で見てはっきり分かった。
俺の危機感など、まだまだ甘かった。
だが、誰が予想出来るだろうか。
まさか…まさか、こんな生物が実在するなんて。
強大というのも生温い。圧倒的という言葉でもまだ足りない。
これは、そう……絶望だ。
あらゆる希望を踏み潰し、あらゆる祈りを呑み込む絶望そのもの。そうとしか思えなかった。
どうしようもない絶望に捕らわれた俺の耳に、隣で同じように固まっていたジンの訝しげな声が飛び込んで来た。
「ん…?あれは…まさか……?」
「おい、どうしたんだよ?」
「…奴の口元を見てみろ。あれは……血じゃないか?」
「は……?」
信じられない言葉に口を開けてしまいながらも、その言葉に従ってナハク・ベイロンの口を見る。
よく見ると、確かにうっすらと開いた口から、赤い液体が一筋地面に流れ出しているのが分かった。その下の地面が広範囲に渡って黒ずんでいることから、かなりの量が流れ出しているのだろう。
…いや、もっとよく見てみると、口の右端から舌らしきものがだらんとはみ出していた。
眠っているにしては、これは明らかに妙だ。いや、でもまさか……?
「まさかコイツ……死んでいるのか?」
俺よりも先に、隣のジンがその予想を口にした。
自分だけでなくジンも同じ結論に辿り着いたことで、俺の頭をその事実が雷光のように貫いた。
「倒した…のか?これを、1人の人間が?」
自分で口にして、俺は全身が震えた。
胸の奥から沸き上がるこの感情が何なのか、俺にはよく分からない。
感動のようでもあり、畏怖のようでもある。
言うなれば、奇跡を目の当たりにした気分だろうか。
どうしようもない絶望を打ち払う、神の奇跡を。
今まで感じたことのない感情に襲われて、俺はただ震えた。
だが、またしても先に冷静になったジンの一言で、俺も現実に引き戻された。
「しかし…ならばこの音は何だ?」
そう言われ、俺も気付いた。
ナハク・ベイロンとの戦いは終わっている。ならば今尚響いているこの音は何だ?
ここよりも南の方角にまだ害獣がいたのだろうか?
そんなことを考えている俺の隣で、ジンが
「少し上に行って様子を見て来る。お前はここで待っていろ」
それだけ言うと、手早く鎧兜を鞍に括り付け、剣だけ持って崖の方に走って行く。
そして崖の下で風属性神術を発動し、局所的な上昇気流を生み出すと、身軽になった身体を一気に舞い上がらせた。
そのまま10m以上飛び上がり、適当な岩場に着地する。そしてその場でまた飛び上がり、次の足場に着地する。
それを何十回も繰り返して、ジンはようやく崖の上まで辿り着いた。
そのまま待っていると、不意に崖の上から風が吹き下ろしてきて、それに乗って明らかに焦燥の滲むジンの声が聞こえた。
『おい!マズいぞ!』
「な、何だよ?新しい害獣の群れでも来たのか?」
『そんなもんじゃない!!カグロフェナクが―――』
伝えられた情報に、愕然とする。
何故?あり得ない。そんな言葉が頭の中で渦巻く。
「うそだろ……もう何百年も活動を停止してるはずじゃなかったのかよ!?」
『事実だ!くそっ!このままでは………ん?』
「おい、どうした?」
その俺の言葉に、答えが返って来ない。
やがて俺の不安が駆り立てられるには十分なだけの時間が経過してから、呆然とした、明らかに俺に聞かせることを考えていないだろう独り言が届いた。
『何だ……あれは………?』