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少女が旅立ったその後で 作者:燦々SUN

第2章

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リョホーセン帝国民視点 前編

連続更新2本目です。


今回、残酷な描写があります。

~ カロクン村の自警団員視点 ~



「投石来るぞ!避けろぉ!!」


 その叫びを聞いて間もなく、矢倉の上にいる俺達に向かって、俺の頭ほどもある石が次々に投げ付けられた。

 咄嗟に身を屈めて避けるが、その内の何個かが矢倉の柱に当たって嫌な音がした。

 度重なる投石を浴びたせいか、回数を追うごとにどんどん揺れが酷くなっている。このままでは矢倉が倒壊するのも時間の問題だろう。


「ちっ!うっとおしい奴らだな!!」


 舌打ちしつつ、素早く身を起こすと、柵の外にいる投石の犯人達に向けて矢を放つ。

 しかし、やはり距離が遠過ぎるためにいとも容易く避けられてしまう。

 俺の無駄な攻撃を嘲笑うかのように歯を剥き出して笑う猿型の害獣達を見て、俺はもう一度舌打ちをした。


 本当に面倒な奴らだ。

 最初村の外に奴らが現れた時、俺達はすぐさま矢倉から矢を放ち、奴らが柵に近付けないようにした。

 普段相手にする猪型や狼型の害獣と同じく、ちょっと脅かしてやればすぐに逃げ出すと思っていたのだ。

 ところが、奴らは違った。


 奴らは一旦柵から離れて逃げ出す素振りをしたのだが、しばらく離れたところで立ち止まり、こちらを じっと見詰めて来たのだ。

 すぐに射撃を再開したのだが、奴らがいるところまでは矢が届かなかった。

 しばらくすると、奴らは俺達の射程限界まで近付いて来て、その場から逆に投石をしてきたのだ。


 普段相手している害獣は決してしない行動に、仲間達は硬直してしまった。咄嗟に回避が出来たのは俺含め数人だけ。3人の仲間が矢倉から叩き落され、他にも多くの仲間が大なり小なり傷を負った。


 それからはずっと同じことの繰り返しだ。

 奴らが投石するのを避け、隙を見ては矢を射返す。

 こちらの射撃が牽制にしかならないのに対し、奴らの投石は仲間と矢倉を着実に削っていく。

 しかし、射撃を止めるという手はない。

 そうすれば、奴らはすぐに柵に取り付くだろう。

 頑丈さを重視したために高さはそれ程でもないこの村の柵など、奴らはものの数秒で乗り越えてしまう。

 柵の上から奴らを叩き落とそうにも、この村の柵には上に足場がないのでそれも出来ない。

 つまり、手詰まり状態という訳だ。

 今はなるべく矢で時間を稼いで、下の仲間達が迎撃準備を整えてくれるのを待つしかない。



 何度目になるか分からない投石をやり過ごしつつそんなことを考える。

 そして投石が止むと同時に素早く矢を射る。

 だが、今回に限って俺以外の矢が一射も放たれなかった。


「おい!どうし――」


 周囲を見て気付く。

 いつの間にか、俺以外に矢を射れる状態の仲間が1人もいなくなっていることに。

 同じ矢倉にいる仲間も、他の矢倉にいる仲間も、一様に身体のどこかから血を流して倒れていた。


「マジか………っ!!?」


 一瞬愕然としてしまうが、すぐに背筋を走った怖気に反射的に前を向いて……


「あ――」


 その時には既に、目の前に拳大の石が迫っていた。



 ―あ、死ぬ



 自然と頭に浮かんだその予感に、ただ呆然と立ち尽くす。

 身体は動かないのに、頭だけは妙に冴えている。

 妙にゆっくりと迫る石を眺めながら、色々なことが頭の中を駆け巡る。


(あぁ~あ、結局独り身で死ぬのかよ。こんなことならジルの奴にさっさと告白しときゃよかったぜ)


 今はずっと後方に避難しているだろう幼馴染を思い、次に両親と妹のことを思い出す。


(すまんお袋。俺はやっぱり親父の息子だったよ。まあ親父程華々しくは死ねなかったが……それでも村を守って死ぬんだ。少しくらい、誇りに思ってくれよな。孫の顔を見せんのは妹に任すぜ。あぁでもあいつも恋人いねぇからなぁ……)


 こんなことを考えては、妹に余計なお世話だと怒られるな。

 そう思って苦笑する。

 というか……


(……いい加減、ゆっくり過ぎじゃね?っていうかほとんど止まってないか?)


 目の前の石がいつまで経っても俺の顔面を砕かない。

 それどころか、気のせいでなければ動いてすらいないような……あれ?本当に止まってる!?


 ハッと気づいた瞬間、目の前の石が静かに落下した。

 同時に投げ付けられた周囲の石も、同様に途中で落下していた。


「何――」


 呆然としたまま、自分でも何を言うつもりなのか分からないまま口を開いた、その直後。


 遥か前方で俺と同じように困惑していた猿型の害獣達に、天より雷が降り注いだ。


 文字通りの青天の霹靂に、口をぽかんと開けて間抜け面を晒してしまう。

 一瞬の閃光が宙に溶けて消え、閃光に焼けた眼が元通りの視界を取り戻した時には、視線の先には地に倒れ伏した害獣達と、周囲の地面から微かに立ち上る黒煙だけがあった。


 何が何やら分からず、そのまましばらく間抜け面を晒していると、不意に全身を温かな光が包み込んだ。

 熱い風呂に入った時のように、全身を心地よい熱が包み込み、戦いで負った細かな傷や疲労した腕がじんじんとした熱を持つ。

 唐突に訪れた心地よい感覚に、思わず状況も忘れて陶然としていると、その感覚は訪れた時と同じように唐突に去って行った。


 急速に感覚が元に戻ってしまったことに目をぱちくりさせていると、ふと自分の隣に誰かがいることに気付いた。


「ん…?ってうわぁ!!誰だあんた!!?」


 てっきり仲間の誰かが起き上がったのかと思いきや、そこにいたのは全く見覚えのない女だった。

 光沢のある白いローブに全身をすっぽりと覆い隠し、フードを目深に被っているため、身長差もあって相手の口元くらいしか見えないが、はっきりと主張する胸元の膨らみからして女であることだけは分かる。

 突然出現した怪しい人物に咄嗟に飛び退こうとするが、あちこちに投石を受けた矢倉が不吉な揺れ方をしたので、慌てて立ち止まる。


 そんな俺に構うことなく、目の前の女は俺の方に顔を向けると、端的に質問を発した。


「怪我人はこれだけですか?」


 綺麗な声だった。そして、予想以上に若い声だった。

 女性にしては背が高いので、てっきり大人の女性なのかと思っていたのだが、もしかしたら妹と同じくらいの年齢なのかもしれない。


「あ、あぁ、怪我人はここにいる奴らだけだ」


 反射的に質問に答えると、女…いや、少女は「そうですか」とだけ呟き、目の前の俺を気にすることもなく、ふっとその身を浮かした…って、えっ!?


「と、飛ん……っ!!?」


 その様子を呆然として見送っていると、少女は村の外の上空で滞空し、大きく腕を広げた。まるで村をその両腕で包み込むかのように。

 そして次の瞬間、その全身が凄まじい輝きを放ち始めた。


 少女の全身が白銀の光に包まれ、その周囲に神々しい光を放つ。


「何だ…あれは……」


 その声に周囲を見ると、傷付き倒れた仲間達が次々と身を起こし、同じようにその光景を眺めていた。

 しかし、その光景は唐突に遮られた。


 突然隆起した土の壁によって。


 村を囲う柵を更に囲うようにして、巨大な土の壁が形成される。

 その土の壁は、矢倉の上からでも見上げるような高さになったところで、細かく分岐しながら緩やかにカーブし、やがて格子状に組み合ったドーム型の屋根を形成した。


 この場にいる全員が、そして恐らく村に残っている村人全員が、まさしく神の御業というべきその圧倒的な光景を言葉もなく見上げる中、俺は、この光景を作り出した少女の気配が遠ざかって行くのを感じた。


(誰かは知らないが……感謝するぜ。俺達を救ってくれたこと。村を守ってくれたこと。おかげで俺は……)


 遠ざかって行く少女の気配に向けて感謝の念を捧げる。

 危機は去った。ならば、俺がやることは1つ。そう…ジルに告白するのだ!


 湧き上がる高揚感に身を任せ、俺は一思いに矢倉から飛び降りた。


 一刻も早くこの胸の想いを愛する幼馴染に伝えるため、真っ直ぐに走り、今すぐ彼女をこの腕に強く抱き締めるため。さぁ、駆け出すんだ!


 胸の中に宿る熱情を激しく燃え上がらせながら踏み出したその足は……




 見事に第一歩目で挫けた。

 というか思いっ切り足を挫いた。

 流石に矢倉から飛び降りるのは無理があった。


「ぐ、お、おぉぉぉ……」


 戦いの終わった戦場跡に、俺が1人で悶絶する声が虚しく響いた。






~ ブクイーの町駐在軍軍団長視点 ~



 ギィイ、ギィィ


 町の上空に、不快な鳴き声が木霊する。

 発生源は町の上空を旋回する翼竜の群れだ。

 数は群れのリーダーと思われる一際大きな個体を含めて17体。そいつらが先程から、眼下の我々を焦らすかのように町の上空を飛び回っているのだ。


 この町にはそこいらの害獣の群れなら容易く弾き返すだけの立派な外壁があるが、それも空を飛ぶ翼竜には意味がない。

 外壁の外にいた頃ならまだ弓矢で対抗出来たのだが、町の上空まで侵入されてしまった今となっては、それも出来ない。

 町中で矢を射ったとして、目標に当たればいいが、当たらなければその矢はそのまま町に降り注ぐのだ。そんな危険なことは出来ない。

 それに、町に侵入されるまでの攻防で、我々の矢では奴らにほとんど傷を負わせることが出来ないと分かってしまった。今となっては、町の各地に散らばった7人の神術師が頼りだ。

 しかし、それも大分怪しくなってきたようだ。


 また1匹の翼竜が高度を下げ、町を襲う素振りを見せた。

 間髪入れず、近くにいた神術師から風の刃が飛ぶ。

 しかし、下降してくるところを狙ったその神術は、翼竜が下降を中断して再び群れに戻ったことで虚しく空を切った。

 これが先程からずっと繰り返されていることだ。


 奴らは予想以上に賢い。恐らく、神術が無限に撃ち続けられる訳ではないと理解した上で、思わせ振りなヒット&アウェイを繰り返して神術を無駄撃ちさせているのだ。

 しかし、それが分かったところで神術を止める訳にはいかない。

 そんなことをすれば奴らは一気に町を襲うだろう。


 それに、この流れはこちらにとっても好都合である。

 奴らは知らないだろうが、この町にいる神術師は、最高でも中級神術師。俺も一応中級神術師だが、俺は近接戦闘型で遠隔攻撃は不得手だ。

 他の7人も遠隔中級神術を使えるのは2人だけで、その2人も中級神術は5発も撃てば撃ち止め。1体に集中して撃ち込めば仕留められるかもしれないが、所詮それまで。到底竜種に対する切り札にはなり得ない。

 ならば最初から時間稼ぎの手段として使い、その内に奴らを迎撃出来るだけの準備を整えるのだ。

 具体的には非戦闘員をなるべく地面に近い屋内に避難させ、奴らがどこに降りて来ようと対応出来るよう、兵を町の各所に分散して配置するのだ。


 この町の駐在軍の軍団長である俺は、部下を引き連れてこの町で一番高い建物の上に陣取っていた。

 今こうしている間にも、続々と仲間達が建物の屋根の上に上って戦闘準備を整えている。


 そして、各所で部隊の配置が完了しようとしたその直前、奴らは動いた。


「っ!!!来るぞ!!避けろぉぉぉ!!!」


 眼下の部隊に大声で警告を発する。


 どうやら、俺達はまだ奴らを甘く見ていたらしい。

 奴らの散発的な襲撃は、神術師に神術を使わせるだけでなく、神術師の位置を把握する目的もあったのだ。


 神術師が手薄な場所の、まだ配置が完了していない部隊に向けて、リーダー個体を除く翼竜達が一斉に襲い掛かった。

 翼を折り畳んで、重力に任せた急降下。先程までの襲撃が牽制でしかなかったことをはっきりと思い知らされるような高速の襲撃。それが屋根を上ろうとしていた部隊に容赦なく降り注いだ。


「っ!!」


 俺と周囲の部下達が息を呑んで見守る中、翼竜達が再び舞い上がった。

 舞い上がった翼竜達は、その足に何かを掴んでいた。それは…


「う、うわぁぁぁ!!!」

「くそ!放せぇぇぇ!!」

「助けてくれぇぇ!!」


 襲撃を受けた部隊から兵士が1人ずつ、翼竜に捕まっていた。


 残された部隊の仲間達が慌てて屋根に上り、捕まった仲間を取り戻そうとするが、その時には既に翼竜達は手の届かない上空まで舞い上がっていた。


「くそっ!!」


 ああなってはもうどうしようもない。

 俺はせめて部下の死を見届けようとして…更なる驚愕に襲われた。


「なっ…!?」


 何と奴らは、捕えた兵士を食わず、勢いよく投げ落としたのだ。仲間の部隊に向かって。


 捕まった仲間が生きたまま投げ返されるという予想だにしない事態に、兵士達は硬直してしまった。


「逃げ――」


 警告を飛ばそうとするが間に合わない。


 仲間の死体を投げ付けられたなら、地上の兵士達は迷わず回避しただろう。

 だが、生きたまま投げ付けられたことで、一瞬でも、受け止めた方がいいのではないか?という迷いが生じてしまったのだ。

 冷静に考えれば、あの高さから勢いをつけて落とされた完全武装の人間を、神術もなしに受け止めることなど不可能だ。受け止めようとした人間も落ちて来た人間も、諸共に肉塊と化すのがオチだろう。

 だが、落ちてくる仲間の悲鳴が、その冷静な思考を妨げてしまう。

 結果、何も出来ないまま硬直することになる。それはこの状況にあっては致命的。


 その光景を見ている誰もが、兵士達が真っ赤な花を咲かせる光景を幻視した。


 だが、そうはならなかった。


「うわぁぁぁぁぁ、あぁ?」

「ひ、ひぃ」

「な、何がっ!?」


 落とされた16人の兵士は、全員落下途中で急減速し、そのままゆっくりと屋根の上に着地したのだ。


「何だ?神術師の誰かがやったのか?」


 今そこに地面が存在することを確かめるかのように、屋根の上に俯せになりながら荒い呼吸を繰り返している兵士達を見詰めながら、今の現象を自分なりに分析する。

 だが、その推測はすぐに自分で否定した。あの人数を咄嗟に受け止めるには、神術師の人数も詠唱時間も圧倒的に足りない。


(ならば誰が…?)


 その疑問は、間もなく解決した。


 町の上空を駆け巡る凄まじい雷光によって。



 ズガガァァァァン!!!!!



 目を焼く閃光。耳を弄する轟音。


 先程まで部下の神術師達が使っていた神術が児戯に思える威力。


 未だかつて見たことのない威力の雷属性神術が町の外から放たれ、翼竜の群れに真横から突き刺さった。

 完全に不意を打たれた翼竜達は、その雷撃に容赦なく全身を貫かれた。

 そして、一際大きなリーダー個体を残し、16体の翼竜が煙を上げながら静かに落下して来た。

 あの凄まじい威力の雷属性神術は、竜種が持つ神力遮断能力を易々と食い破り、一撃でその命を奪ったのだ。


「な、何という……」

「すげぇ…」

「軍団長…あれは一体…?」


 思わず部下と共に呆けてしまい、ハッとする。

 人間よりもずっと大きな翼竜が町に落ちれば、落下地点に大きな被害が出る。


「しまっ――」


 だが、その心配は無用だった。

 翼竜の死骸もまた、墜落寸前に一瞬その勢いが落ち、静かに着地したのだ。


 ほっと息を吐いて安心するが、その時にはもう残された群れのリーダーが動き出していた。


 上空に留まっていては、いい的になるだけだと悟ったのだろう。

 僅かに煙を上げる全身を傾け、翼を折り畳むと、町に向けて一気に急降下する。


「いかん!!避けろ!!」


 形振り構わずに町に突っ込み、町を盾にすることで神術を撃たせないようにするつもりだ。


 落下地点の兵士達が退避しようと動き出そうとするが、翼竜が急降下する方が速い。しかし、その翼竜よりも更に速く、急降下する翼竜に追い縋る影があった。


 その影は町の外から飛来し、疾風はやてのように空を駆けると、瞬く間に翼竜との距離を詰めた。


 急降下する翼竜も何かを感じたのか、追い縋る影に振り向いて――



 一閃



 翼竜と、それに比べるとずっと小さな影が空中で交差した瞬間、銀の軌跡が翼竜の身体を走った。

 そしてその影はそのまま翼竜の後方へと駆け抜けて行く。後に残されたのは空中で奇妙な体勢のままゆっくりと落ちて行く翼竜。と、次の瞬間。


 先程の銀の軌跡に沿って真っ赤な血が吹き上がり、町に降り注いだ。


 そこまで経ってようやく斬られたことに気付いたかのように、翼竜がずるりと2つに分かたれ、力なく落下した。


「バ、カな……」

「う、嘘だろ?」

「竜種を両断…?あり得ねぇだろ…」


 部下と共に呆然と呟いていると、翼竜を両断した影が、旋回してこちらに近付いて来るのが見えた。


「っ!!」


 あまりの勢いに反射的に身構えてしまったが、その影はそんな俺から少し離れたところで急停止した。


 女だ。


 日の光を浴びてうっすらと銀の光沢を纏う白いローブに身を包み、フードを目深に被っている。しかも両手に銀色の籠手を着けているため、ほとんど外に露出している部分がない。

 だが何よりも目を引くのは、その右手に握られている、溜息が出そうになるほど美しい長剣だろう。


 先程翼竜を両断したであろうその剣には、不思議と返り血の一滴も付いておらず、曇りのない刃が日の光を眩く反射していた。

 その剣はまるで芸術品のように美しいのに、それでいて冷たい殺意と強力無比な切断の意志を秘めて、見る者の心臓を鷲掴みにするような威圧感を放っていた。

 その威圧感はかつて遠目に見た帝国の至宝、かの“崩天牙戟”に勝るとも劣らない。


 この剣に比べれば、俺の腰に下げられている神具の剣など、玩具同然だと思わされる。

 神力を持たない部下達も、そのただならぬ存在感に呑まれてしまったようで、先程からピクリとも動かない。


 と、そこで目の前の女が、フードから僅かに覗く口を開いた。


「怪我人はいませんか?」


 その声は、そのフードの奥に隠された美貌を容易く想像させる美しさと、自然と頭を垂れさせるような上位者としての風格を備えていた。


「緊急で治療が必要な者はおりません。どなたかは存じ上げませんが、御助力、感謝致します」


 声からすると、相手は明らかに自分よりも遥かに年下だと思われたが、俺はこの相手に最上級の敬意を込めた対応をすることに、何の疑問も抱かなかった。


 目の前の少女はその返答に対して小さく頷くと、それ以上口を開くこともなく、南の空へ飛び去った。


 町中の屋根の上に陣取る兵士達が、怖々と窓から外を窺っていた町の住民達が、その後ろ姿を見送る。


 その胸に去来するのは等しく1つの確信だった。


 即ち、今自分は伝説を眼にしたのだという。


 そんな中にありながら、忠実な副官が俺に声を掛けて来た。

 だが、俺の心は別のところに捕われていた。


「軍団長、翼竜は退けられました。各隊の配置を元に戻してもよろしいですか?」

「…あの剣……いや、まさか……」

「軍団長?」

「ん?あぁすまん。そうだな、合図を出してくれ」

「ハッ!」


 副官が走って行くのを見送ってから、俺はもう一度少女が飛び去った方向を振り返った。


「まさか、な……」


 その呟きは誰に届くこともなく、嵐の去った町に溶けて消えた。


1時間後にもう1話更新します。

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