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磁気共鳴診断装置FONAR QED 80ーaIpha導入の思い出
古瀬 和寛

JAMIT Advisony Committee (JAMITの名誉会員で構成)
総合病院中津川市民病院
[〒508ー8502岐阜県中津川市駒場1522ー1]
MEDICA1 IMAGING TECHNOLOGY Vol.17 No.3 May 1999
発行 1999.1012(FURUSE9905/index.html)

目次

「NMR」との出会い

1980年夏のある昼下がりのことであった。私が当時在籍していた名古屋大学脳神経外科の研究室に,持田製薬(株)医療機器部長の木村宏朗氏が訪ねてこられた。用向きは,私どもの研究室がその開発にかかわってきた豊田中央研究所製の硬膜外型脳圧計の販売を,今後持田製薬医療機器部が行うことになったので,よろしくといういわぱ儀礼的な訪問であった。その談話の途中,木村さんが私の本棚に無造作に置いてあったNMRの解説書に目をとめて,「NMRに興味がおありなんですか」と真剣な顔で聞いてこられた。「はい,興味はもっているんですが,どうこれからの研究と繋がりますか」と,そのときはそれだけの会話で過ぎた。

実は,私も内心驚いた。医療機器関係者でNMRという言葉を口にしたひとは初めてであったからである。当時は臨床医学系のなかではまずNMR現象の存在すら頭にのぽっていなかったと言ってよかった。実はこの1980年10月の第23回脳循環代謝研究会で「脳組織の熱測定による水分分析一自由水結合水の検出の試み」の報告を予定していて,この仕事の手法となった示差走査熱分析については1977年頃から名古屋大学農学部と工学部で教えていただいていた。そのころ,生体水の分析に核磁気共鳴,すなわちNMRによる測定の可能性もあることを示唆していただいていて,分析用のNMRで資料を計測するところをみせてもらったが,われわれの研究に使うことは所詮高嶺の花と諦めていたのである。だが,せめてもと買ってあったNMR関連の2,3冊の本が次への展開のきっかけを作ってくれるとは,まったく不思議な縁となった。

1980年の秋,木村さんが再び訪れてこられた。そのときNMRの臨床使用の話を聞いて胸が高鳴ったのを覚えている。ニューヨークではすでにFONAR QED 80が産声をあげていたのである。持田製薬はフォナー社と連携を取りはじめているという。緩和時問を人体で計り,病態の分析をするという話のイメージから,そのとき農学部でみた分析用NMRをとてつもなく大きくしたような姿を連想してみたが,当然のことながら,なんとも現実のものと思えなかった。

実はこのころ,もう1つのモメントが私のまわりで動いていた。私に中津川に来ないかというお誘いである。市民病院を立て直して地域の医療と福祉の充実に力を出して欲しいという。私のなかでは感情がそのときどきで大きく起伏し揺れたが,当時の小池保市長さんらとお会いするなかで腹を据えた。そのころ医学部長をされていた,のちの名古屋大学学長の飯島宗一先生に相談にいったときには,始め何を考えておるんだとほとんど一喝されそうになったけれど,地域での医療を学問と結んで力一杯やってみたいことを言ったら,そこまで言うんなら,やってみろよと,言ってくださり,中津川,恵那地域の医療状況のサーヴェイを医学部として,公衆衛生学教室山田信也教授を中心に組むことについて積極的に応援してくれたことをありがたく思い出す。しかし,この話をしに行った頃には,NMRの話はまだなかったのである。

年の暮れの頃であったろうか、木村さんから便りがあってダマディアン氏を呼んでNMR勉強会をやるから来ないかという。喜んで出席すると返事をする。1981年2月15日、持田製薬医療機器部主催の「第1回NMRスキャン研究会」が四ツ谷のルークホールで行われることになった。木村さん努力の設営によるその構成は素晴しいもので、放射線医学総合研究所飯沼武先生によるNMRの原理、武蔵工業大学阿部善右衛門先生の磁場焦点法の経緯、名古屋大学医学部佐久問貞行先生によるNMR医学への応用という当時の二一ズをまさに先取りした講演が用意されていた。そしてDr. R. Damadianが最後に登壇し、Image and tissue chemistry in the live human body by FONAR nuclear magnetic resonance(NMR)scanning と題する特別講演をした。印象が強く刻まれた。このときが、ダマディアン氏との最初の出会いであった。

2回目にダマディアン氏と会ったのは、その年の夏のはじめであった(図l)。セントルイスでの第10回国際脳循環代謝学会をすませ、6月19日ニューヨークのロングアイランドに回りフオナー社を訪れる 彼は例のぎょろりとした目で睨みつけるようにしながら、NMRの可能性と将来の拡がりについて熱っぽく説いた。緩和時間が分かれぱ病態診断がすすむという、学者であり社長であるダマディアン氏の信仰とも言える信念から生まれた装置の形であった。私がみたものはまだ未整理でいわぱ実験機とも言うようなものであったが、未来があるぞと確信のようなものを抱いて帰路についた。 .

図1:ダマディアン博士と筆者(1981年6月).後方に写っているのはフォナー社における開発期の超伝導機で,最初に人体映像を記録したものとして現在スミソニアン博物館に収蔵されている。
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導入へ市の決断

戻るとまもなく、1981年7月25日、有水昇先生を大会長とする第1回NMR医学研究会が富士フィルム本社講堂で開かれた。わが国でもNMR医学研究の道筋の基礎が据えられ、時流はまさに動き出して行くことを感じさせたが、この頃が中津川への導入が行われるかどうかの決断を巡ってもまさに熱いときであった。

中津川の小池市長さんに率直にお話しする機会があった。そのとき、いまNMRという新しい技術がひそかに注目されていること、そして、それはやがて医療展開の重要な鍵を握るだろうことをお話しすると、2、3の質問をされつつ、そのときはなにも言わず、頷いておられた。その後しぱらくたっての折りに、「先日のNMRという新しい技術のことですがね」と切り出され、「あなた方がそう考えるのなら、力を貸してみたい。どうせそのNMRを入れるのならぱ、日本一号機にしませんか」といった旨の、静かな語り口のはっきりした言葉が発せられたのである。そのとき、ほんとに中津川にNMRが入ることになるのかもしれないと、感慨が興奮をともなってこみ上げてきたのを忘れることができない。同時に、これを絶対成功させねぱならないと後に引けない不退転の気持が湧いてきたことも覚えている。何しろNMRだけを入れるのではない。大型機器では、血管撮影装置とX線CTを入れ、それに3番目の超大物としてのNMRを加えるというのであるからなんとも思いきった市と市議会の決断であったろうし、それだけに私に任されたという重さがずっしりと伝わった。ずっとあとで聞いたことであるが、放射線医学総合研究所の飯沼武先生の所に小池市長さんからこれからのNMRの価値とか持つ意味について、この頃問い合わせの電話があったとのことである。飯沼先生は、「それはいいことです、とはっきり言いました」とずっとのちに言っておられた。運があったというか、有難い話しである。

手さぐりの導入作業

こうなると、具体的なブランニングの詰めが加速してくる。大学の私の研究室に当時の病院事務次長早川一さんがいろいろな資料や宿題をもって訪ねて来られた。私も中津川に向かう回数が増える。NMR室のことでは、石本建設事務所の方々がどういう構造にすれぱいいのかと質問してくるが、調べようにも資料がない。苦肉の策で機械を据えるところを中心に見て鉄骨は対称形にして置けぱいいだろうということにする。私は12月からは病院で非常勤での外来診療を行いつつ、定期的に通って具体的な詰めをすすめさせてもらう。年未近くなって建物の入札が行われる。そして、寒いなか基礎工事が始まった。何がどう入るのかはいわぱ秘密である。機器と建屋との関連でときにメーカー合同で協議する場面もあったが、磁気シールド工法の説明になるとほかの機器メーカーの方には一時退席してもらって協議をすすめるなどの珍妙な場面のあったことも思い出である。

私は1982年4月から正式赴任した。間借りの形で毎日の脳神経外科の外来診療を始めつつ本格オープンへの準備をすすめる。建屋はしだいに形を成し始め、2階建ての小さいが大きな機器の入る建屋が突貫工事でできてゆく(図2)。 .

図2:旧中津川市民病院の東南角に建ち始めた鉄骨(1982年)。手前右角の部分がNMR室にたった。後方の建物は当時の病院本館。
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言うまでもなく当時まったく新しいモダリティーのNMRである。事前にその実際を研修しようもない。後でお聞きしたのだが、当時の持田製薬機器部の葛西章さんは1981年11月すでに渡米していて、フォナー社に張り付いて機器性能の確認を始めておられたとのことである。そして1982年5月、FONAR QED 80-a1pha が積み荷されるのをすべて見届けて日本に戻り、やがて、中津川に来られたとのことであった。船便で着いた話題の機器は税関手続きとかの理由で随分長く留められて私たちをやきもきさせた後、6月30日午後、いよいよ4台の大型トラックで、 病院近くの一時借用の駐車場に到着した。その夜は不寝番がついて、7月1日朝から、建屋の東側に空けられていた仮搬入口を通して導入が始まった。設置には徹底した秘密保持がフォナー社側の条件で、組み立て作業はすべてニューョークから派遣された人たちで行われ、現場には、私たちはもちろん、持田の医療機器部のメンバーも入らない約束になっていて、行程がどこまで進んだのかわからないまま日が過ぎて行く。新しい技術を守る厳しさはわかるけれども、これほどまでとは思わなかったが、考えてみれぱ日本での導入ということでもあるし、このくらいのことは止むを得ないかと考え直す。よくフォナー社派遣のメンバーと夜おそく焼肉を食べ呑んだ愉快な連中なのだが、肝心なことはやっぱり言ってくれない。ほんとに永久磁石なのか、常電導ではないのかの根本的疑問すら初めは氷解しない。永久磁石だということになった後もそれがどう配置されているのかは謎として残った

NMRいよいよ始動

ややして絵が出始めた。 感激である。解像度を上げて、と繰り返しアピールする。問題が出るとニューョークと交信である。先方からもかかってくる。そのころ病院の夜間受付けには一台だけの電話であったので、突然英語のコールが入ってきて当直者が大慌てであったことも懐かしい思い出である。緩和時問Tlの方はほぽスムーズにセットされた。映像の方はSSFPをシーケンスにしたものであったが、なんとももう一歩の質である。そもそもこのシステムは磁場焦点法による局所緩和時間測定を狙いに開発され1980年にQED80として発表され、これにイメージング機能を強化して従来のケミストリーモードにアナトミーモードを加えたいわゆるデュアルモードのQED 80 alpha にグレイドアップしてきた経緯がある。対向フェライト磁石使用の永久磁石方式で静磁場強度はほぽ0.05テスラであった。ちなみに、FONARはfield focusing nuclear magnetic resonanceからダマディアン氏がつくった社名である。局所緩和時問がわかれぱtissue chemistryを評価できるという信念がシステム作りの根底に流れている。図3、4、5に設置された装置と初期の画像、Tl値測定プロッティング例を示した。 .

図3:設置されたFONAR QED80-alphaのガントリー部分。
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図4:定常自由歳差運動法(SSFP)にて撮像された初期頭部像。
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図5:緩和時問T1値算出のブロッティング例.逆片対数グラフ上に自由誘導減衰(FID)初期値をプロットし(左), これらの点に近似線を引きその勾配からT1値を算出する(右)。
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それでもなんとか10月になると画像も安定してきたので、体育の日の祭日だけれど、区切りよく10月10日をもって臨床映像開始と内部的にすることとした。どっちみち料金を当初はとる訳でもないし、何より初の導入であるのだから基本をしっかり抑えておこうと緩和時間測定用ファントム作り、人体での計測精度の評価、そして生体安全性テストも平行してすすめる。データをまとめて翌1983年4月に厚生省への治験報告書も出された。

最初の私たちの報告は、1982年7月8~10日東京で行われた第1回医用画像工学シンポジウム(セツション6;NMR映像法)での「デュアルモードシステムによるNMRスキヤンニング」で、続いて画像工学のトータルシステム化パネルディスカッション(1982年8月6~7日)において「NMR装置の臨床応用」が報告された。論文では、映像情報(M)15巻7号(1983)に初報告された〔1〕。安全性検討の報告〔2〕も1983年のJMRM学会誌に掲載されることになる。

海外での初レポートは、1983年2月14~18日コロラドスプリングスで行われたSMRIの1st Annual Meetingでの報告「Proton density image and in vivo measurement of relaxation time in the human brains‐Comparison of Tl values in healthy volunteer and cerebrovascular disease」であった。そして1983年8月、サンフランシスコで行われた第2回SMRMでの報告に続いた。

海外では英国Hammersmith病院の超伝導機による画像所見が世界に大きなインパクトを与ネ始めていたものの、なお治験段階にとどまっていた。米国では各機器メーカーがしのぎを削るなか、フォナー社のQED 80とQED 80-alphaのみが当時FDAの認可を取得していて、その設置はニューョーク、クリーヴランド、メキシコに次いで中津川は4番目と聞いた。突如とも受け取られた私たちのフォナー機の導入のニュースはわが国におけるNMRの普及に大きなインパクトを与えたとされ、以降、いわゆるMR臨床応用の実験期からその普及期へと雪崩を打つことになる。東芝はいちはやく国産常電導機を東芝病院に設置して画像を示し始め、島津、旭化成、日立、三洋などもはげしく競いあう状況となった。1983年にはいると、国立大学一号機としてブルッカー社製常電導機 BNT-1000J(0.15T)が東北大学抗酸菌研究所に導入され、 ややして千葉大学に設置された初の超伝導機(ピッカー社製、0.3T)が活動を始めた。以後、1984年から1985年にかけては全国各地でまさに等比級数的に普及がすすみ、映像の鮮明さは各種シークエンスの開発も相侯って目を見晴らせるような進歩をみせてきた。

「NMR」から「MRI」への接点

このような普及ムードのなかでNMRの呼び名は次第にMRIに変わっていく。とくに欧米での核を意味するNを避けようとする意図と、より鮮明な画像化を競い合う傾向が拍車をかけた。イメージだけがNMRだろうかと何か釈然としないものが残ったが、実際にはこの流れはますます加速されていった。そんな流れのなか、私たちはもう一歩の画像改善を試みたが、その成果はなんとも遅々としたものであった。何しろハードウエアーがそのようになっていないのである。幸い緩和時問計測の正確さでは折り紙をつけられていたので、世の中の流れを横目で見ながら緩和時間研究にいっそう入り込みながら次世代を待つことになる。この辺りの過程は日本磁気共鳴医学会10局年記念論文〔3〕を参照いただけれぱ幸いである。

たいへん名誉なことに1986年3月予定の第7回核磁気共鳴医学研究会大会長をやるように仰せつかった。大会を中津川で行うか名古屋でやるか迷ったが、いささかの不便は忍んでいただいてやっぱり中津川でということに落ち着いた。モチーフは大会長が決めれぱいいと言っていただいたので、緩和をひとつの大きな柱にした。必然的にというか、ダマディアン氏が登場することになり、へ一ゼルウッド氏も喜んで来てくれた。ほかの招待者は、ヤング、マラヴィフ、ハーフケンなどの諸氏だった。本来的なNMRと時流のMRIの接点のような学会だったね、と山あいの地方都市で開かれたこの大会を何人かの方々が懐かしんでくれた。この大会の前夜祭シンポジウムのとき、当時の小池市長さんが「もちろん私には、わからないことではありますが、一寸出させていただきます」と会場の後部に席をとられしぱらく聞いておられた姿が印象深く思い出される。

私ども中津川市民病院の新築移転計画は幸い早いテンポですすんだ。 ちなみに、1985年には新病院用地の決定と建設マスタープランの策定がなされ、1989年5月の待望の総合移転が完了した。この移転にともなって、1989年の4月で FONAR QED 80-alpha はその役目を終えることになった。その後任としてはSMT150がフル回転している。いまニューヨークに生まれここに移り住んだ FONAR QED 80-alphaは、前に恵那山をゆったりと望み眼下に街を見る病院敷地の一角のプレハブに身を横たえている。この17年のときの移りを想い、これからのNMR医学の展開について悠々と考え巡らしているに違いないと思ってみる。

文 献

(1)古瀬和寛、佐生勝義、稲尾意秀、他:デュアルモードシステムによるNMRスキャンニングの臨床応用。映像情報(M)l5: 307ー312、1983

(2)茂木禧昌、古瀬和寛、佐生勝義、他:NMR臨床検査における安全性の検討。NMR医学 3: 89‐96、1983

(3)古瀬和寛、井澤章:NMR臨床応用の初動期と生体緩和時間研究の歩み。日本磁気共鳴医学会雑誌11: 251ー267、1991


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