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地域医療における画像診断の役割と展開
とくに磁気共鳴診断装置登場の背景とその後の歩み
古瀬 和寛

総谷病院中津川市民病院 院長 古瀬和寛
第37回全自病学会放射線分科会特別講演
全国自治体病院協議会のご好意により
同会雑誌1999年7月号・通巻373号 p.35-49 から転載。
発行 1999.10.15("FURUSE9907/index.html).

目次


まえがき

地域医療の水準を拡げた過程で画像診断の普及の力は限り無く大きい。画像診断の展開がたとえ都市部から離れた地であっても、それぞれの地域における医療の水準を高め住民の健康増進に大きく貢献した実績に多言を要しないと思う。まさに1970年代初頭からのこの30年間は、コンピュータ断層(CT)、磁気共鳴画像(MRI)など新しいかたちの画像診断手法が誕生し、その止まるところを知らない進歩が連統した時代であった。

私達は医療の僻地ともいわれた中津川にたいへん名誉にも、1982年、本邦初の磁気共鳴診断装置を導入する機会を得たが、今回の全国自治体病院学会において特別報告を仰せつかったのを機会に、改めてMRI導入の経緯についてMRI誕生や普及の適筋をあわせ振り返り、画像診断の展開過程についてレトロスペクティブな考察を行なってみたい。

まず、核磁気共鳴の歴史から簡単に見てみよう

NMR現象の発見と応用のひろがり

l.NMR研究初期の展開

核磁気共鳴NMR(nuclear magnetic resonance)の発見はそんなに古いことではない。終戦間もない1946年、ブロッホとパーセルによってそれぞれ独自に報告がなされたl)2)。核磁気を持つスピンの運動が静磁場内でその強度に対応する特定周波数により共鳴する現象として理論化されたのである。その基礎研究はあの暗い第二次世界大戦のさなかでも営々とすすめられていて、終戦の翌年に結実し明るい話題を世界にもたらL たことになる。のちに1952年、 この二人はノーベル賞を分かち合うことになった。

NMRの応用は比較的早い展開を見せた。表1にその大要を示す。とくに1950年には多方面にわたる報告がなされている。ハーン3)によりspin echoの概念がすでに提出され、またサーヤン4)によって流れる液体のT1の変化が確認されるなど、flowの研究の第一歩も記された。その研究のスタートからすでに多面性を持っていたように思われる。


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表1 NMR研究初期の展開

これらのなかでもディキンソン5)、ブロクターら6)による物体計測の際の化学シフトの検出(1950)の意義は大きく、この発見は物質構造の特定や代謝研究に応用範囲を急速に拡げ、物理、化学分野での計測手法としての市民権をたちまち獲得して行った。NMRによる測定は対象物をほぼ在るがままの姿に置いたまま情報をとることが出来ることから化学計測で独自の分野を拡げて行くことになる。計測機器は勢い高磁場化、高分解能化に向かい、化学変化、代謝過程での物質同定などにその特異な能力をいかすことになった。

2.生体応用への端緒

このような趨勢のなかで、1971年にダマディアンが行ったin vitroの正常生体組織と悪性腫瘍組織の緩和時間T1値の比較報告7)は、当時関心のある研究者からは熱い注目を集め、いわばNMRの生休応用へのブームの端緒を作ることになった。表2はそのデータをまとめたものである。明らかにウォーカー肉腫やノヴィコフ肝癌のT1値はたかく、このことをめぐって、人体でNMRにより癌の検出ができはしないかという発想が、当時発展の可能性を探っていた画像診断への夢と結んで膨らんで行ったのである。緩和時間値の差のみで癌の検出がもちろん単純にすすむはずもなかったが、この時期から磁気共鳴を用いての生体、とくに人体検索への先陣争いはしのぎを削ることになる。


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表2 ラットにおける正常、腫瘍組織緩和時間(T1)値比較

NMRによる映像化の先鞭はまず磁場焦点法によってなされた。生体組織での緩和時間も計測したダマディアンらは、測定値の映像化に研究をすすめ磁気共鳴法での体外スキャンニングについて特許申請8)を1972年に行なっている。その後、1976年、ダマディアンはScience誌に動物の腹腔内腫瘍についての初の生体イメージを報告した9)。磁場焦点法によるもので、今から見れば極めて荒削りな画像であっても「あるがままの姿」が映し出されたというインパクトは大きなものがあったのである。

3.投影画像再構成法の発達

一方、映像の作成に欠かせない画像再構成法も競うように急展開を見せた。その発端は、1972年、ロータバー 10)が傾斜磁場を用いて得た情報を再構成することによりどの角度からも画像作成ができることを示したことに始まった。この手法ははじめズーグマトグラフィー(zeugmatography)と名付けられたが、zeugmaはギリシャ語で「結合する」の意味で、磁場と共鳴周波数のラジオ波との結谷で像が結ばれることから命名されたようである。このロータバーは、ダマディアンとともにNMRの医学応用の祖とされているが、もともとニューョーク州立大学時代ともに研究L ていた間柄であったとのことである。

NMRの映像化のための研究は以降急テンポですすみ、点スキャンニング法 11)l2)かち線スキャンング法 13)14)、さらには、1975年頃には二次元フーリエ変換 15)16)へと展開されて行くことになる。1970年代のなかばから後半にかけては、理論面の急速な展開があって、NMR研究の新しい提案の多くはこの頃すでになされていて、現在脚光を浴びているエコープラナー法 17)18)も1977年にマンスフィールドにより報告された。

4.研究創成期における我が国のNMR研究

ここで研究創成期における我が国のNMR研究に少し触れておきたい。それは呵部善右衛門先生らの一連の先駆的な研究で、1970年代初頭すでに、血流計測、焦点磁場計測などを含め多面的に先駆的なNMRの生体応用への研究がすすめられていた。1972年には報告成果が記載され 19)、1973年には特許申請がなされた 20)。 これらの研究シリーズは1970年にはすでに初報告が出されており 21)、その後の研究も系統的にすすめられた 22)23)24)。研究への取りかかりは1960年代にすでに行われていただけに研究がもう少し早く表に出ていれば、また、日本の企業が先進性を見てとり支援をしていたならばと、わが国の学問発展の機会という立場から惜しまれてならないことであった。ここでは改めて、NMR研究におけるわが国研究者の先進性を注目しておきたいのである。

X線CT開発の技術革新のかかわり

1970年代のはじめNMR研究はにわかに医学医療分野に立ち入ってくることになってきたが、ここで注目しておきたいのは当時まさに疾風のように展開していたX線CT開発とそこで培われた映像化への技術革新のかかわrりである。

表3に経緯の大略を示した。CT生みの親となったハンスフィールドがEMI中央研究所に研究申請書”An improved form of X-radiography”を出し、およそ音楽中心のレコード会社には奇異としか受け取られないような研究に実際に取っ組みを始めたのが1967年であったとされる。翌年にははやばやと特許申請し、1971年にはアトキンソン・モーリー病院にCT1号機を置いて治験に入ったとされており、レコード会社EMIとしては異例の力の入れようであったのである。やがてそれは二つの論文として報告された 25)26)。そして、1972年には北米医学放射線学会RSNAにおいてX線CT機を初展示して大反響を世界に巻き起こした。


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表3 X線CTの展開

当然このEMI社製CTはその頃は殆ど独壇場で、次々と全世界的に普及を続ける。わが国には1975年、EMI-CTスキャナーが東京女子医大脳神経センターに初設置されて、1976年には主要大学病院を中心ににEMI-CT26台がACTA-CT5台等とともに一挙に導入されている。CT国産化への取っ組みも急速にすすんだ。1975年12月には国産機による映像化がなされている。

1976年のRSNAには、実に13社に及ぶ各国CTメーカーが自社製品を競って展示し、性能についての激しい宣伝合戦がなされたとされる。この勢いのなか、EMI社はこの段階においてもはや開発に遅れを見せ始めていて、翌1977年のRSNAの展示を最後に、はやくもCT機製作から撤退して行くことになるのであるから、この時期の競争の激しさが伺われよう。

このX線CT開発についても、日本の優れた着想と研究が先駆していたことを、ここでもやはり触れておきたいと思う。有名な高僑信次先生一門の回転横断撮影をめぐっての業績である。戦時下の1944年頃より狙撃回転撮影等の試みがなされていたとされ、のちに、研究は回転横断撮影、原休撮影に展開されて、1951年の日本放射線医学会において「X線回転撮影法の研究」として広範な宿題報告 27)がなされている。世界に向けては、研究のまとめ「Rotation Radiography」28)が1957年に刊行されていた。

これらはCTという名前で生体の断層像化に取り掛かるずっと以前のことであり、もし日本でコンビュータ開発と結んで総合研究がなされ、製品化に対しても眼が向けられていれば、CTのみならず臨床NMRの展開においてもわが国が世界の中心になり得た素地があったと考えるのは私だけでないと思う。そう思うと残念でならない。

中津川への磁気共鳴診断装置の導入

l. 脳の水分析への模索

私がNMRにかかわりを持つことになったのは名古屋大学に在籍中に行なっていた頭蓋内圧研究や脳浮腫へのアプローチがきっかけとなった。生体、とくに脳の水分をどう分析できるかを模索しているとき、その頃信頼性が大きく進歩してきていた熱分析の一手法としての示差走査熱分析を1977年頃から名古屋大学農学部と工学部で教えて頂くこととなった。その狙いは脳浮腫の解析で脳組織の自由水と結合水の定量が可能か、またその分析が病態を考える上で有効性を持つかどうかであった。いろいろなお話を聞くなかで、生体水の分析に核磁気共鳴、すなわちNMRによる測定の可能性も大いにあることは示唆して頂いていて、実際にも分析用のNMRで資料を計測するところをみせて貰ったけれども、当時としてはそれを私たちの研究に使うことはとても出来まいと諦めていた。

熱分析を用いての試行は基礎段階をまず済ませ、実験動物での検討に人ることができて、1980年10月の第23回脳循環代謝研究会には「脳組織の熱測定による水分分析ー自由水・結合水の検出の 試み」の報告を予定するところまですすんだ。そんな1980年の真夏のある昼下がりであった。私たちの研究室に、当時持田製薬株式会社医療機器部長をされていた木村宏朗氏が訪ねてこられた。そ bの用件は、私どもの研究室がその開発に係ってき た豊田中央研究所製の硬膜外型脳圧計の販売を、持田製薬医療機器部が行なうことになったので、よろしくと言ういわば儀札的な挨拶のための来訪であった。そのとき、木村さんがふと私の本棚に無造作に置いてあったNMRの解説書に目をとめて、「NMRに興昧がおありなんですか」とたい へん真剣な顔で聞いて来られた。「はい、興味はあるんですが、どう脳の水の研究に繋げることができますか」と、そのときはそれだけで過ぎた。当時は臨床医学系のなかではまずNMRという現 象の存在すら意識にのぼっていなかったと言ってよく、そこに話が立ち入りかけたことに妙に強い印象を覚えたことを思い出す。

1980年の秋に、木村さんが再び訪れて来られた。話しを聞いて胸が高鳴った。そのころニューョークではすでにFONAR QED-80が産声をあげていて、持田製薬はフォナー社と連携を取りはじめているという、話しが切り出された。緩和時間を人体で計り、病態分析をするというその話しのイメージから、そのとき農学部でみた分析用NMRをとてつもなく大きくしたような姿を連想してみたが、なんともその機器の実際の姿については考えあぐねた。

2.ダマディアン氏との出合い

年の暮れの頃であったろうか、木村さんから便りがあってダマディアン氏を呼んでNMR勉強会をやることになるという。喜んで出席すると返事をする。翌1981年2月15日、持田製薬医療機器部主催の「第1回NMRスキャン研究会」が四ッ谷のルークホールで行なわれた。木村さん苦心の設営でその構成は素晴しいもので、世話人の挨拶は当時の愛知県がんセンター総長高僑信次先生がなされ、3つの教育講演は、放射線医学総合研究所飯沼武先生によるNMRの原理、武蔵工業大学阿部善右衛門先生の磁場焦点法の経緯、名古屋大学医学部佐久間貞行先生によるNMR医学への応用という課題について順次すすめられた。そして、ダマディアン氏が最後に登壇し、「Image and tissue chemistry in the live humanbody by FONAR nuclear magnetic resonance(NMR)scanning」と題する特別講演を行なった。何か茫漠としているが、たいへんな可能性がありそうだと言う印象は刻まれた。この日が、ダマディアン氏との最初の出会いであった。

その年の夏のはじめ、ダマディアン氏と会うことにした。セントルイスでの第10回国際脳循環代謝学会をすませ、6月19日ニューョークのロングアイランドに回りフォナー社を訪れる。彼はNMRのこれからの可能性について熱っぽく説いた。なんとも強烈だったのは緩和時間がわかれば病態診断がすすむというダマディアン氏の信仰とも言える信念であった。私が説明を受けたものはまだ未整理でいわば実験機とも言うようなものであったが、これには未来があるぞと確信のようなものを抱かされたことは事実であった。ちなみに、そのセントルイスでの学会では、ラットでの熱分析データから正常脳と浮腫脳の自由水、結合水のちがいについて報告 29)したばかりであったので、生体の水の姿に関心が集中していたわたしの頭のなかではもうNMRと水の像が重なりあっていたのだと思う。

戻るとまもなく、1981年7月25日、有水昇先生を大会長とする第1回NMR医学研究会が富士フィルム本社講堂で開かれた。わが国でもNMR医学研究の道筋の基礎が据えられ、時流はまさに動き出すことを感じさせていた。表4はその発足の時の式次第の記録である。まさに歴史の扉が開く重みを感じさせる。


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表4 第1回核磁気共鳴医学研究会

3.中津川への赴任とNMR

実はこのころ、もう一つのモメントが私のまわりで動いていた。私の中津川赴任のお誘いである。市民病院を充実させ地域の医療のために力を出して欲しいという。私のなかでは感情がそのときどきで起伏していたが、ある日、当時の小池保中津川市長さんらとお会いするなかで腹を据えた。しかし、この話しが進む頃には、NMRの話しはまだ話題になかったのである。

その後小池市長さんに率直にお話しする別な機会があった。いま、NMRという新しい技術がひそかに注目されていること、そして、それはやがて医療展開の重要な鍵を握るだろうことをお話しすると、二、三の質問をされつつ、そのときはなにも言わず、頷いておられた。その後しばらくたった折に、「先日のNMRという新しい技術のことですがね」と切り出され、「あなた方がそう考えるのなら、力を貸してみたい。どうせそのNMRとかを入れるのならば、日本一号機にしませんか」といった旨の、静かな、しかし語り口のはっきりした言葉が発せられたのである。そのときは、ほんとに中津川にNMRが入ることになるのかもしれないと、興奮が感慨をともなってこみ上げてきたのを忘れられない。同時に、この事業はどうしても成功させねばならないと、不退転の気持が湧いてきたことも覚えてい

私は1982年4月から正式赴任した。間借っの形で脳神経外科の外来診療を始め、本格オープンへの準備をすすめる。新築の建屋はしだいに形を成し始め、2階建ての、小さいが大きな機器が並んで配置される予定の建物が突貫工事でできてゆく。

4.QED 80-alpha導入の開始

言うまでもなく当時はまったく未知のモダリティーのNMRである。事前にその実際を研修しよもない。後でお聞きしたのだが、当時の持田製薬医療機器部の葛西章さんは前年の11月すでに渡米していて、フォナー社に張り付き機器性能の確認を始めておられたとのことである。そして1982年5月、FONAR QED80-a1phaが積み荷されるところまで見届けて日本に戻り、そうそうに、中津川に来られたのである。船便でついた問題の機器は税関手続きの関係との理由で随分と長く留められてやきもきさせた後、6月30日午後、いよいよ4台の大型トラックで、病院近くの一時借用の駐車場に到着した。その夜は不寝番がついて、7月1日朝から、建屋の東側にあらかじめ空けられていた仮搬入口を通して導入が始まった。

機械の設置には徹底した秘密保持がフォナー社側の条件で、組み立て作業はすべてニューョークから派遣された人たちだけで行なわれ、現場には、私たちはもちろん、持田の医療機器部のメンバーも入らない約束になっていた。いったい行程がどこまで進んだのか判らないまま日が過ぎて行く。やきもきさせられたが、考えて見れば日本での初導入ということでもあるし、この位は止むを得ないかと考え直す。よくフォナー社派遣のメンバーと夜おそく焼肉を食べ呑んだ。愉快な連中なのだが、肝心なことはやっぱり口を開けてくれない。本当に永久磁石なのか、ひょっとして常伝導ではないのかの根本的疑問すら始めは氷解しない。永久磁石だということが確認された後も、コイルがどう配置されているのかは謎として残った。形は出来てきた。図lは設置されたスキャナーのガントリ一部分である。また、図2は1階部分の機器や診察室の配置図を示す。 .

図l 設置されたFONAR QED80-alphaのガントリー部分
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図2 機器配置略図(1階部分)
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ややして画像が出始めた。確かに脳の像であるが、こんな解像度では困る、と繰り返しアビールする。まず歪みの除去からかからねばならない。なにか間題が出るとニューョークと交信である。先方からもかかってくる。そのころ病院の夜間受付けには一台だけの電話であったので、突然英話のコールが人ってきて当直者が大慌てであったことも懐かしい思い出である。緩和時間T1測定の方はほぼスムースにセットされていった。綬和曲線の13ポイントを逆半対数グラフにプロットしてその勾配からT1を求める方法がとられている(図3)。映像の方は定常自由歳差運動法SSFPをシーケンスにしたものであったが、しばらく経過してもなんとももう一歩の質である。そもそもこのシステムは磁場焦点法による局所緩和時間測定を狙いに開発され、1980年にまずQED 80として当時初のFDAの認可をアメリカでとった。これにイメージング機能の強化を図って、T1測定のケミストリーモードにSSFP映像のアナトミーモードを加え、いわゆるデュアルモードのQED 80-alphaとしてバージョンアップして登場してきた経緯がある。表5に構成概要を示した。静磁場強度はほぽ0.05テスラ(T)の低磁場である。ちなみに、FONARはfield focusing nuclear magnetic resonanceからダマディアンがつくった人工語で、これが社名になった。緩和時間がわかればtissue chemistryを評価できるという信念が色濃くシステム作りの根底にあったと言える。


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図3 緩和時間算出のプロッティングの一例
逆片対数グラフに自由誘導減衰(FlD)初期値をプロッ卜し(左)、これらの点からコンピュータ画面上で近似線を求めその勾配からT1値を算出する(右)。
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. 表5 F0NAR QED 80-aIpha仕様

ダマディアン氏が夏の最中に訪れてくれた。図4はそのときの病院でのスナップである。こちらの希望には丁寧に答えてくれるのだが,実際にはハドウェアー上の制約がなんともきつい。それでもイメージの改善をくり返し要請する。彼は彼で臨床面での展開にいま何が必要か鋭く質間してくる。いま考えるとそのときフォナー社は3000ガウス機の開発のかなりの段階に差し掛かっていたのである。彼が帰ったあともたどたどしいながらもこんなことは出来ないかなど電話での交信が続いた。 .

図4 読影室で討論に参加するダマディアン氏
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なんとか10月になると画像も安定してきたので、体育の日の休日だけれど、区切りよく10月10日をもって臨床映像開始と内部的にすることとした。図5はそんな頃の映像の1例である。どっちみち料金を当初はとる訳でもないし、何より初導入であるのだから基本をしっかり抑えておこうと、この間に緩和時間測定用ファントム作り、人体での計測精度の評価、そして生体安全性テストも平行してすすめる。データをまとめ翌1983年4月には、厚生省への治験報告書も出し、7月の第3回NMR医学研究会に安全性検討結呆が報告された。 .

図5 頭部初期イメージ(SSFP画像)
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NMR-CTについての最初の私たちの報告は、1982年7月、東京で行なわれた第1回医用画像工学シンポジウムでの「デュアルモードシステムによるNMRスキャンニング」30)で、続いては画像工学のトータルシステム化パネルディスカッション(1982年8月)においての「NMR装置の臨床応用」3l)であった。これらのまとめについては、映像情報(M)1983に初掲載された32〉。安全性検討についても1983年のJMRM学会誌 33)に掲載されることになる。

海外での初レポートは、コロラドスプリングスで行なわれたSociety of Magnetic ResinnceImaging(SMRI)の第1回のAnnual Meeting(1983年2月14-18日)に出席したときであった。「Proton density image and in vivo measurement of relaxation time in the human brains - Comparison of T1 values in healthy volunteerand cerebrovascular disease」がタイトルであったが、会長のアムティー教授から面白いアプローチだと好意的なコメントして頂いたのが励みになった。そして1983年8月、サンフランシスコで行なわれた第2回Society of Magnetic Resonance inMedicine(SMRM)での各種頭蓋内病態での緩和時間測定結果の報告に続いた。

まさに手探りであったが、ともかくもNMRと格闘しつつの日々がすすみ始めた。こんな様子を木村宏朗氏はFONAR-CTの紹介のなかで、中津川のことにも触れ島崎藤村の「夜明け前」の舞台と重ねて記して下さっているのが今もうれしい印象として残っている 34)。

1980年代初頭の各ヨでのNMRイメージング化の競争

最初の人休についてのNMR映像の報告は、l977年のダマディアンら 35)の論文ではないかと思われる 磁場焦点法によるScience誌表紙に実験動物のイメージが載って話題を呼んだ翌年である。当時の指向は癌の検知に向けられていて、この頃に”NMR in cancer”のシリーズがいくつか続いている。1978年の報告からは磁場焦点からとったFONARの名称がみえる 36)37)。当時のダマディアンらが使用したものは超伝導機であったが、その歴史的な実験機はいまワシントンのスミソニアン博物館に収納されている。図6はその写真であるが、コイルが小さめであったためダマディアンは入れず痩せていたミンコフらがもっぱら実験台になったと言う逸話もある。その後は当時の技術水準からみて実際の医療現場で耐えうる実用性や磁場安定性の視点から永久磁石方式に切り替えられて行ったようで、その永久磁石を用いた仕様について1980年にアメリカ政府薬品食料庁FDAから初の認可を受けることになる。 .

図6スミソニアン博物館に納められているFONAR社初代NMR-CT実験機
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1979年頃かふ1980年にかけてイギリスでは、アバディーン大学において常伝導コイルによる0.04TのMRイメージング装置が作られ画像を出し始めた。この装置は垂直磁場の様式であったため画像効卒はたかいとされた。同じ頃、ノッチンガム大学では0.1Tの水平磁場常伝導機が製作され、MR画像の質を競い合うことになる。

ちょうどこの頃、オックスフォード社が全身イメージング用超伝導マグネットの開発に成功し、仕様に応じてコイルの供給を始めたことは大きなインパクトになった。X線CTでは第一線を退くかたちになっていたEMI社がこのオックスフォド社のマグネットをもとにNMR-CT開発に乗リ出し、いち早くハマーススミス病院に0.15Tの超伝導装置を設置して治験を開始した。この画像はすばらしいもので全世界に反響を呼んだ 38)39)。その映像の一部を図7に示す。このように創成期のイギリス勢の活躍はまさに目覚ましかったと言える。X線CTにせよNMR-CTにせよ、かのビートルズがEMIを通じ映像科学の展開に声援してくれる形になったと言う初期の歴史も楽しい話である。 .

図7 ハマースミス病院超伝導NMR‐CT(0.15T)による頭部イメージ
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1982年には、アメリカでの動きが活発化し、カリフォルニア大学にオックスフォード社マグネットによる0.35T超伝導装置が設置され 40)、映像の質はさらに新しい段階に入って行くことになる。

私が1983年2月、コロラドスブリングスで開催されたSMRIの展示場でみたアメリカ各社からのMR映像には率直なところショックであった。図8はそのときのものである。画像再構成法の持つ力の凄さを感じさせられた。たとえチャンピオンデータであるとしても映像はすでにかなり鮮明で、なかには心収縮期と拡張期のかたちを捕らえ機能画像としての紹介をしていたものもあり驚かされた(図9)。 .

図8 第l回SMRl(コロラドスプリングス)での展示:
3D-Multi-Slice 例(テクニケア社、1983年)
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図9 第1回SMRI(コロラドスプリングス)での展示:
心電図同期心筋画像:拡張期と収縮期(ピッカー社、l983年)
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その半年後の1983年夏のSMRMでは各社からもう一段と解像度の好い画像が展示されその進歩にただ溜め息をついたが、NMRの様々な使い方への試行が提案されていてそのことにも衝撃を受けた。移送卓にのせて回遊できるとするmobile型MRを学会のあとテンプル大学で見せてもらった(図10)。実際にとられている画質もよく、その着実な進歩の姿に日本は置いて行かれてしまうのではないかと焦りを覚えざるを得なかったことを思い出す。その学会の折、ミルウォーキーに飛んでまだ生産ラインを整えている段階のGE社のMR工場を見せてもらった。その偉容にも驚いたが、これからどの磁場レベルのNMR-CTを狙うのかと尋ねたとき、何の躊躇もなく1.5T一本で行くと答えていたことに、当時は半信半疑で受け取ったが、その自信の強さに圧倒される思いだったとも思い出す。 .

図10 モービル型MRlを搭戟する移動車外観(テンプル大学にて、l983年)
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わが国におけるMRl開発と普及

わが国で最も早く人体についてのNMR画像を示されたのは、その当時電子技術総合研究所におられた亀井裕孟氏らであった。1981年、200ガウス低磁場電磁石コイルにより投影画像再構成法を用いて先駆的な頭部像を撮影し報告している 41)。その研究は、その後、NMRの機能画像の開発にも向けられて、左右大脳半球の活動の違いを独自の発想による差分NMR 42)で検出し、NMRによる機能検出への先駆的アプローチをすすめられた。

磁場焦点法を用いての画像化の試みも、田中邦雄氏ら 43)によって地道にすすめられ、すでに1979年、動物頭部での画像化がなされた。この一門の研究シリーズのなかで、磁場焦点法の撮像に関する研究を通して、アクリル樹脂性文字形ファントムやピーマンなどの植物構造のかなりの映像がすでに得られていた 44)。

1982年のFONAR QED80-a1phaの中津川への設置はフォナー社としてニューョーク、クリーヴランド、メキシコに次いで4番目のものとされた。突然とも受け取られた私たちの臨床用NMR装置の導入(1982年8月納入)はわが国でのNMRに対する興昧と普及に大きなインパクト与えたとされ、以降、いわゆるNMRの臨床応用の実験段階からその展開期へと雪崩を打つことになる。

東芝は国産常電導機を東芝中央病院に設置して常伝導MRI-15A(0.15T)による画像を出し始めた。また、時を同じくして島津(SMT-20)、旭化成(MARK-J)、日立(G-10)、三洋(SNR-500)などもつぎつぎ開発され、国内外ではげしく競い合う状況となる。1983年に入ると、放射線医学総合研究所に常伝導垂直型MARK-J(0.15T)が導入され、ややして同型機が藤元病院に設置、映像を出し始めた。さちに、国立大学一号機としてブルッカー社製常電導機BNT-1000J(0.15T)が東北大学抗酸菌研究所に松沢大樹先生らにより導入され、やがて有水昇先生らの努カで本邦初の超伝導機(ピッカー社製、0.3T)が千葉大学医学部に設置され活動を始めた。この頃かちは、全国各地でまさに等比級数的に普及がすすんで行き、映像は各種シークエンスの開発も相挨って目を見晴らせるような鮮明さをみせて行く。

このような普及ムードのなかでNMRの呼び名は次第にMRIに変わって行く。とくに欧米での核を意昧するnuclearを避けようとする意識と、より鮮明に画像化を競い合う傾向が拍車をかけた。イメージだけがNMRだろうかと何か釈然としないものが残ったが、実際にはこの流れはますます加速されていった。そんな流れのなか、私たちはもう一歩の画像改善を試みたが、その成果はあいも変わらず遅々としたものに止まった。ハードウエアーの制約が乗り越えられないのである。幸い緩和時間計測の正確さでは折り紙をつけられていたので、世の中の流れを横目で見ながら緩和時間研究に否応無しに入り込みながら次世代を待つことになる。この辺りのことは私どもの日本磁気共鳴医学会10周年記念論文 45)を参照頂ければ幸いである。

1986年3月の第7回核磁気共鳴医学研究会大会を私に行うようにと名誉にも仰せつかった。大会を中津川でするか名古屋で行おうか迷ったが、いささかのご不便は忍んで頂いてもやっぱり中津川でということにさせて頂いた。モチーフは大会長が決めればいいと言って頂いたので、NMRにおける緩和を柱にさせていただいた。必然的にというか、ダマディアン氏が登場することになり、盟友のへ一ゼルウッド氏も喜んで来てくれた。ほかの招待者は、ヤング、マラヴィーラ、ハーフケンなどの各氏だった。いわば古典的なNMRと時流のMRIの接点のような学会だったね、と山あいの地方都市で開かれたこの大会を何人かの方々が懐かしんでくれた。懇親会のとき、当時の小池市長さんを始め多くの市議会議員の方々も出席され、 大勢の参加者とともに祝って下さった。図11はそのときの鏡開きの様子である。「こりゃあ、中津川の大事件だ。夜明け前転じて夜明けですね」と冷やかし半分にお祝いを言って頂いたことが思い出される。 .

図11 第7回核磁気共鳴医学研究大会懇親会(l986 年)での鏡開き。左からへ一ゼルウツド、ダマディアン、マラヴィ ラの各氏と筆者
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私ども中津川市民病院の新築移転計画は、紆余曲折あっても幸い早いテンポですすんだ。ちなみに、1985年には新病院用地の決定と建設マスタープランの策定がされ、1989年5月、待望の総合移転がなされた。これにともなって、その年の4月末でFONAR QED 80-alphaは役目を終えた。その後は島津製SMT150-S(現MAGNEX 150XP)がフル回転している。もうそれも10年になる。旧病院を取り壊す際、FONAR QED 80-alphaも解体された。実際にはどのようなコイルであったのか、ガントリー周辺を丁寧にはずして行くと、その上下に対をなす磁場焦点コイルが姿を見せた。 図l2がそれである。どっしりとした銅製の円盤と金属管からの鈍い光は、時の重さを強く感じさせてくれた。そのFONAR QED 80-alphaもいまは、恵那山を目前に望み街を見おろす病院敷地のある台地の一角の建物に移動し保存されている。窮屈そうに身を横たえながらも、この20年のNMRの展開にさまざま想い巡らしているに違いない。 .

図12 FONAR QED80-alphaに装備されていた磁場焦点コイル
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MRl普及の足取り

臨床機器としてのわが国のMRIは、今年はとうとう3500装置の大台を超える。当初の想定から見れば驚くほどの拡がりと言わねばならないが、これまでのMRIの普及過程を見るといくつかの時期による特徴がみえる。それらを辿りながら、NMR発展の足取りを、以下にまとめてみたい。

MRI普及の段階を、以前に行ってみた区分46)を援用して、以下のA)実験期(1982年まで)、B)展開期(1983~1986年)、C)普及期(1987年以降)に分け、普及期をそのときどきの特徴からさらに3つのステージに区分してみた。

A)実験期(1977年からl982年まで)

いわばMRI普及のプレステージで、 臨床用試作機がはじめて報告された1977年からブロトタイブの臨床機が設置に至った1982年までの時期である。水面下では織烈な開発競争がすすめられていたが、臨床使用の可能性についてはなお極めて隈られた人たちの関心に止まっていた。その頃ではNMR-CTが将来どんなかたちで利用され得るものなのか、またどの位普及する可能性を持つかなど話題に出ても、具休的なイメージが沸かず、一部に熱い期待論はあっても、普及予想は日本全国で100台、せいぜい200台程度のものかとされたように思う。いわばPETのような位置付けで研究施設、大学を中心とした限定的普及を考える予想が中心であったように思う。情報も乏しく、模索の時期と言えよう。しかし、この頃に理論的蓄積は急速にすすめられていた。

B)展開期(l983一l986年)

NMR-CTの導入が 一旦始まると年を追う毎に設置台数は急増し、1986年には合計設置数は100の大台をすでに超えてしまった。経年の設置数推移を表6と図l3に示した。急上昇振りがよく判る。資料は新医療の数字をもとにした。 .

図13 年次別MRI設置台数の推移(1982~l998)
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. 表6 年次別MRI設置台数(l982~l998)

この時期の特徴は、0.02Tから2.0Tまでの各種静磁場強度の、また磁石方式では常伝導、超伝導、永久磁石の各タイプの機器がつぎつぎと試作され、互いにどのタイブが適当かを探りつつ、華々しい競い合いが繰り広げられて行ったことである。この期の後半では、当初とても臨床利用は無理と思われていた超伝導機の性能の向上とランニングコストの低廉化が飛躍的にすすみ熱い関心が寄せられたが、実際の設置の数からみると低磁場の常伝導機がなお普及の主体をなしていた。NMR-CTはこの時期にもう臨床画像診断装置としての確かなステータスを得て、以降の普及への基礎を作るいわば燃えるような展開の時期であったと形容できようか。1986年秋の第8回核磁気共鳴医学研究会大会では12社が機器についてのワークインブログレスで発表を競っている。ちなみに、核磁気共鳴医学研究会(のちに1987年より日本磁気共鳴医学会となる)は早い知見の拡がりとMR技法の進歩について行くためにと1987年からは1992年にかけて年2回の大会を持つことになった。

C)普及期(l987年以降)

単年度の設置が100の大台を超えた1987年からを普及期としたが、その後の時期のそれぞれの特徴からさらに3つの時期に区分してみた。MRIはすでに、もはやステータスシンボルの意味合いにとどまらず、日常診療に不可欠な検査モダリティとしての役割を確立するに至った。

普及期ーI (l987~1991年)

年次設置数は100合からさらに急増して年あたり300台を超えるまでに至り、設置総数は優に1,000台を越してしまった。最も年ごとの増加が伸びたときである。

この時期の特徴としては、常伝導機から超伝導機にはっきり開発の中心は移り、なかでも普及型と言われた超伝導0.5T機の伸長は著しく1991年にはその設置数のビークを示した。またこの時期にいわば経済性のたかい高磁場機としての1.0T機も伸びを示しはじめ、他方、実用機としての低磁場の永久磁石方式機も設置数を伸ばして普及の一翼を担い始めた。

普及期ーII (l982~1996年)

この時期は、普及面でみたとき、もっとも設置台数が順調に伸びつづけた言わば安定成長期といえる。それぞれの年の設置数が320台から400台という増加を毎年続けて、1996年における総設置数は2,600を超え、MRI装置の最大級の年次増加がみられている。その分布は、1996年における設置内訳から見てみると、超伝導機が2,040台(76.6%)、常伝導機45台(1.7%)と超伝導機が大勢を占め、一方、永久磁石機も578台(21.7%)と大きく増加してきており、超伝導中高磁場機と低磁場永久磁石機との医療機関による分極傾向が顕著になった。

総設置台数は引き続き上昇をつづけ1999年には3,500台を超える普及を見るに至っているが、その年間あたりの伸びには鈍化が見られる。この動向には、広範囲な普及のなかで以前よりも質重視の志向が働いてきているように思われる。併せて現今の医療状況の厳しさも加味されていると考えられる。とくに、1998年度の設置台数の減少は顕著となった。

近年の傾向の特徴を見るため、MRI増加率の内訳について磁場強度別推移を図l4にまとめてみた。0.5T機は明らかな減少傾向をとっている。一方、0.35T以下の低磁場機は年度による差はあれ、ほぼ安定した設置台数を維持し、高磁場機とのいっそうの分極化を形成している。他方、高磁場機はわずかながらでも着実に比率を伸ばしていて、1.5Tと1.0Tを合わせた比率は優に50%を超えるに至っている。このような傾向が21世紀初頭に引き継がれて行くと想定される。 .

図l4 最近の静磁場強度別設置比率の推移(1995~l998)
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今後に向けて

MRI技法のこのごろの進歩は臨床におけるさまざまな機能計測への夢を膨らませてきている。その代表格のfunctional MRIの臨床利用のほか、拡散、灌流画像などのイメージングがEPIなど超高速画像法の進歩のなかでいっそう実際的なものになりつつあるといえよう。また流れの計測への関心も増しており、より鮮明な磁気共鳴血管撮影MRAへの期待もつよい。単にルーチンの断層画像のみでなく、MRの本来持つ機能特性により強い関心が払われて行く時期を迎えてきているように思われる。

同時にMRIのこの十数年間の普及は当初考えられなかったほどNMRを日常診療で身近なものにした。診療分野や用途に適した、患者さんに負担をかけない、いわば人にやさしい専用型MR検査への進化がますます加速されて行くことになろう。

CTが現れてほぼ10年でNMRが躍り出た。NMRが現れた頃、10年たったら次にどんな検査モダリティーが出るのだろうと言われた。それからもう20年近くが経過した。いっそう多様な姿をみせつつNMRはいまも生き続けている。NMRが本来持っている特性を生かして、21世紀にNMRはより身近なところで活躍し、また、さらに奥深い人体の情報を顕わしながら生き続けるものと思ってみる。


文献


平成l0年ll月5日岐阜グランドホテルにおいて講演。


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