さらに昭和になると両者の関係はより密接なものとなる。東京進出を図る吉本興業は、当時浅草で人気のあった浪曲師・ 広沢虎造を吉本の専属にしたいと2代目登に相談した。これを快諾した登は、広沢のマネジメントを手がける浪花家金蔵と話をつけ、一定の制約の元に、広沢が吉本の専属となることを取り決めた。しかしその数年後、広沢は無断で下関の籠寅組(現在の合田一家)の制作する映画に出演することを決めてしまう。これに激怒した吉本側は、登に籠寅組との調停を依頼。登は、広沢の映画出演を白紙に戻させることに成功したものの、その後の話し合いの際、籠寅組に襲われ重傷を負ってしまう。昭和17年、登はこのときの傷が元で永眠する。
2代目の死後、戦中戦後の混乱を極める時代、山口組は組長が不在だった。ようやく3代目に田岡一雄が襲名したのは昭和21年。実業家としても名高い田岡は、先代、2代目の培ってきた芸能関係者との関わりをより深くし、昭和33年、神戸芸能社を設立。美空ひばりなどといった昭和のスターたちの興行権を一手に握る芸能プロモーターとして活躍した。だが、やがて時代は興行からテレビの時代へ。有名芸能人たちのメインステージがお茶の間のブラウン管に移ると、興行先でのチケットの分配や地ならし、用心棒といった仕事を請け負っていたヤクザ組織と芸能事務所の関係は希薄になっていく。
吉本は、所詮、舎弟企業か。だから、上場もできないということか。
上組、吉本は山口組とズブズブ