「女はお茶くみ」の時代に革命を信じ…全共闘「女性たちの闘い」の追憶
野村昌二AERA

阿部知子さん(72)。東大出身。医師で政治家(立憲民主党)。安田講堂が陥落した時、それまでこもっていた建物を出て自宅にいた。「50年間、立ち止まる間もありませんでした」(撮影/写真部・小黒冴夏)
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国会議事堂を望む東京・永田町の衆院第1議員会館。衆院議員の阿部知子さん(72)は、部屋がある建物4階から車が行き交う道路を見下ろすと目を細めた。
「不思議な気持ちになるんです。この道を、機動隊に囲まれデモしていたんですから」
50年ほど前、阿部さんは東京大学の学生として東大の全学共闘会議(全共闘)のバリケードの中にいた。1968年、医師になるため東大に入学したのだ。
60年代、日本は「政治の季節」を迎えていた。ベトナム戦争や70年に迫った日米安保条約改定への反対運動が沸き起こり、全国の大学では党派に属さないノンセクトの学生を中心に「全共闘」が形成され、「全共闘運動」が燎原の火のごとく燃え広がった。東大も例外ではなく、68年1月の医学部生によるストライキを機に「東大闘争」が始まっていた。

東大全共闘系の学生らが立てこもった東京・本郷の安田講堂。学生らは投石や火炎瓶で抵抗したが、機動隊の突入で「落城」した/1969年1月19日(c)朝日新聞社
ヘルメットを被り、社会の矛盾と向き合った。国会前をデモしたのもこの頃だ。「ベトナム戦争反対!」と叫び、羽田からアメリカに飛び立つ航空機の下を走ったとも振り返る。
しかし69年1月、東大の安田講堂が陥落すると運動は下火に。運動を続けるか否か。多くの仲間が離れていく中、阿部さんは在日韓国人問題に出合い運動を続けた。
残る者と去る者──。去った者は「裏切り者」と呼ばれ、両者の間に分断が起きた。
「私はそれが一番つらかった。私の主張は正しい、あなたは間違っていると言っているようでは、運動は勝利しない。対立ではなく合意点を求めていかなければ、社会を変えられない」
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