清湖口敏(産経新聞論説委員)

 日本語で最も難しいのは敬意表現だ―といった声は、日本語を学ぶ外国人だけでなく、日本人の間でもよく聞かれる。

 新聞制作の現場でも事情は全く変わらない。

 敬意表現の中でも特に重要だと思われる「敬称」の話を、ごく一端ながらご紹介することにしよう。 

【竹本越路大夫さん】


 平成14年6月24日、文楽太夫で人間国宝の竹本越路大夫さんが亡くなった。当時、大阪の編集局校閲部にいた私は、訃報の中で越路大夫さんに付ける「敬称」をめぐって大いに悩まされた。

 弊社の記者ハンドブック(用字用語集)には「文楽や浄瑠璃などの『太夫』『大夫』は、芸名であると同時に称号的意味をもつので、さらに敬称はつけない」との記載があった(その後数次の改版を経た現在でも、この文言は命脈を保っている)。

 決まりに従えば、見出しも「竹本越路大夫死去」でいいはずだった。ただ編集局内には「それでは呼び捨てに聞こえないか」との声が上がり、実は私も、ハンドブックの「掟(おきて)」に背いてその声に同調した一人だった。

 称号なら確かに敬称を重ねる必要はない。例えば「博士」に「さん」を付けて「~博士さん」とするのはいかにも滑稽だ。

 が、だからといって「大夫」に「さん」を付けるのはおかしいというのも、何となく世間の常識的な感覚とはずれているような気がしてならなかった。はたして読者が「~大夫」を、敬称の不要な称号として受け止めてくれるだろうか…。「何だ、産経は亡くなった人間国宝を『越路大夫』と呼び捨てにするのか」と叱られはしまいか…。

 迷ってばかりもいられないのが、時間との闘いを余儀なくされる新聞制作の現場である。とにかく「さん」付けでいこうとなって、26日付の新聞ができあがった。気がかりはただただ、他紙がどんな見出しを付けてくるかの一点にあった。

 結果は―。産経はじめ毎日、読売、日経がそろって「竹本越路大夫さん死去」との見出しを掲げる一方で、朝日だけが「さん」を付けずに「竹本越路大夫が死去」と書いていた(いずれも同日付の大阪発行版)。正直に告白すれば、あのとき私は人知れず、「4対1で勝った!」と胸を張ったような気がする。

 しかし、それからやや間を置いた7月6日、文化・芸能記事を発信する部署から今回の判断に対する見解が寄せられた。概略、次のようなものだった。

 《大夫は役称、称号にあたるので「~大夫さん」とするのは不自然だ。文楽の世界でも「~大夫」で敬意を含めた呼称になっている。関係者の間でも「越路大夫さん」との言い方はほとんどせず、「越路さん」という呼び方はするそうである。今回の訃報でもやはり、ハンドブックの記述に従うべきだった》

 さても、難しい問題である。

 理屈はなるほどその通りだとしても、先述したように読者一般には理屈通りに理解してもらえるだろうかとの疑問はなお、大きい。

 人名事典の類では、見出しに立てる人名は「渥美清」「高倉健」といった具合に敬称を省く、つまり呼び捨てにするのが普通であり、そこに「竹本越路大夫」「竹本津大夫」…などと文楽太夫の名前が並んでいれば、多くの人は、それらも呼び捨てだと認識するのではなかろうか。

 また、文楽協会が発行する公演の配役表でも「竹本越路大夫」などと書かれている。「大夫」も芸名の一部であり当然といえば当然ながら、協会が自らの所属技芸員を「~大夫」と紹介するくらいだから、「大夫」には敬意が含まれないと一般の人が「誤解」したところで、とくに不自然とはいえまい―。以上が私の全く個人的な見解だが、みなさんはどのようにお考えだろうか。

 ところで、この話には「オマケ」がある。全国紙で唯一、「竹本越路大夫が死去」と「さん抜き」で報じた朝日が、その15年前の昭和62年、同じく人間国宝の文楽太夫、竹本津大夫さんの訃報には「竹本津大夫さん死去」の見出しを付けていたのである。

 ま、弊紙の場合もいろいろ当たってみれば、整合を欠く表記の一つや二つはすぐにも見つかるかもしれず、とても朝日サンを笑えた義理ではないかとも思うが、ことほどさように「敬称」は難しいという点では、報道各社はほぼ一致しているのではないか―そんなふうに私は思っている。

【ごりょんはん】


 谷崎潤一郎の長編小説『細雪』は、大阪・船場の旧家を舞台に美しい4姉妹の生活と運命を描いた物語で、作中にはもちろん大阪弁がふんだんに使われている。

 「『細雪』がもし東京弁で書かれたところを想像すれば、方言といふものが文学のなかで、どれだけ大きい力をもつてゐるかがおわかりでせう。(中略)谷崎氏は生粋の江戸つ子でありますが、上方に移住してからこの方言の面白さに心を奪はれ、さまざまな関西弁の小説を書きました。『卍(まんじ)』は関西弁で書かれた傑作であつて、あの不思議な、ぬめぬめとした軟体動物のやうに動きをやめない小説の構造は、あの独特な関西弁を除外しては考へられません」(三島由紀夫著『文章読本』)。

 三島も書いた通り、谷崎は明治19(1886)年、東京の日本橋で生まれた生粋の江戸っ子である。大正12(1923)年に起きた関東大震災のあと、谷崎は関西に移住することになる。この関西の地で、伝統文化と古典文学とが色濃く薫る「谷崎文学」を花開かせたのである。

 江戸っ子だから、大阪弁の小説を書くに際しては恐らく、大阪弁に精通した助手なり助言者なりを身近に置いていたのに違いない。

 「谷崎氏は『卍』を書くに当つては、大阪生れの助手を使つたと言はれますが、私の如きなまけ者は、『潮騒』といふ小説を書くときは、いつたん全部標準語で会話を書き、それをモデルの島出身の人に、全部なほしてもらつたのであります」(同)。谷崎もあるいは、「三島方式」で『細雪』を著したのかもしれない―とは、私の勝手な想像である。

 ところで、この『細雪』に出てくる大阪弁の「はん」について、使い方が間違っていると鋭く指摘したのが牧村史陽編の『大阪ことば事典』である。こんな解説がみえる。

 「『細雪』の中に、ゴリョンハン(御寮人様)・トォハン(嬢さん)という語が出て来るが、これも無理な発音であって、ゴリョンサン・トォサンというのが正しく、ハンといえば大阪弁になると思い誤ったミスである」

 なかなか手厳しい。もとが江戸っ子の谷崎本人が誤るのは無理からぬこととしても、大阪弁の「指南役」でさえも気がつかなかったというところに、大阪弁の、わけても「はん」の使い方の、いわく言い難い微妙さ加減と難しさがあるように思われる。

 実はこの話にも「オマケ」がある。

 念のためにと現在市販されている『細雪』(新潮文庫)をあらためて繰ったところ、そこには『大阪ことば事典』の記述とは明らかに異なる表記の「御寮人(ごりょうん)さん」「娘(とう)ちゃん」が見当たった。当初の表記が改められていたことになる。

 『細雪』は先の大戦時、軍部の干渉によって誌上掲載の中断を余儀なくされたが、昭和21~23年に全編(上・中・下巻)の刊行にこぎつけた。以後、相当の歳月が流れ、その歳月のどこかの時点で、誰かが、通説とは一致しない「はん」の使い方を指摘したものと思われる。

 困難をきわめながらも執筆を続けた名作の中の大阪弁に、とにもかくにも「朱」が入ったわけである。泉下の文豪はこのことについて、「おおきに」と感謝しているのであろうか、それとも…。