ベトナム系アメリカ人の「小さな家」


 二十年以上前、ローラに憧れて渡米した私には、ひとつの夢があった。

「アメリカの『小さな家』ファンとローラについて、思いっきり話したい!」

 当時の日本では、ドラマの「大草原の小さな家」は超がつくほどの人気番組だったものの、原作はそれほどでもなく、原作派の私は仲間に飢えていたのだ。

 九十年代に入り、インターネットの普及によってその夢は現実となった。コンピューター音痴の私は、おっかなびっくりキーボードを繰って、「小さな家」ファンのホームページや掲示板をきままに楽しんでいた。  

 アメリカの「小さな家」ファンの情熱は生半可ではない。学術的な知識にしても、権威ある研究者に負けるとも劣らない。中でもチャットや掲示板で交わされるディスカッションは情報の宝庫で、毎日のように送られてくるメーリング・リストを読むのが楽しみだった。仕事から戻ると、すぐにコンピューターのスイッチを入れ、スクリーンの前で何時間も費やすのが日課となった。



 ネットで飛び交う情報は、メディアや学者によって選別されたものではない。ファンの声そのものだ。メーリング・リストに参加したばかりの頃は、豊富な知識に圧倒されて、ため息ばかりついていた。

 でも、それなりの知識を身につけるようになると、「あれ、違うんじゃないのかな?」と、さめた目で彼らを見るようにもなった。本来のへそ曲がり精神が頭を持ち上げてきたのだ。

「小さな家」ファンの情熱や愛情には共感する。作品の解釈も、すべてではないけれど共鳴する。未発表の原稿や書簡を読みあさる、貪欲なまでの探究心にいたっては、あっぱれというか表彰ものだと思う。

 それなのに、彼らの発言に耳を傾けていると、心の奥深くに、ざわめきを感じることがある。掲示板がどんなに盛り上がっていても、輪の中に入っていかれない疎外感のようなものを、しだいに感じるようになったのだ。

私はロム専門でほとんど投稿したことがない。だから、不愉快なことを言われたわけではない。それなのに、私だけのけ者にされているような感覚に襲われることがあった。それが北米にアジア系移民として暮らす、私の立場やアイデンティティに起因すると気づくのに、それほど時間はかからなかった。



 アメリカの「小さな家」ファンはヨーロッパ系(白人、キリスト教徒)が大多数を占める。彼らにとって「小さな家」は家族愛を描いた作品でもあるが、アメリカ史という思いが何よりも強い。「小さな家」はアメリカの歴史なのだ。 彼らは祖先の体験をインガルスと重ね合わせて語る。インガルスは建国に尽力した人々の象徴なのだろう。アメリカ人にとって建国は、祖父母や曾祖父母の体験で、それほど遠くない家族史でもある。祖先やインガルスを身近に感じるのは当然だろう。

 開拓時代のアメリカは、彼らの祖先にあたる、ヨーロッパ系の移民とその子孫が多数を占めていた。

 でも、建国を担ったのはヨーロッパ系だけではない。南部プランテーションのオーナーは綿花栽培で莫大な利益を得た。それを支えたのは黒人奴隷だった。大陸横断鉄道の敷設は、西部開拓を象徴する事業の一つだが、そのもっとも危険な仕事に従事したのは中国人だった。さまざまなバックグラウンドの人々によって建国されたからこそ、アメリカは多民族国家になったのだ。



ところが、「小さな家」ファンにとって、そういった少数派の人々は眼中にないらしい。彼らの発言からは、アメリカはヨーロッパ系によって建国された国で、今でもアメリカにはヨーロッパ系アメリカ人しか存在していないかのような印象を受けるのだ。少数派不在のまま、ディスカッションが盛り上がっていく。外国からの移民やアジア系のアメリカ人など、まるで存在しないかのように・・・・。それは私の心に、乾いた砂をまき散らしたような、ざらついた感触を残した。

「意識的あるいは無意識のうちに、彼らは少数派を無視しているような気がする・・・」

 その疑問は、ことあるごとにふくらんでいき、先住民問題が白熱化したときに確信に変わった。



 ミネソタの小学校で、ある教諭が「大草原の小さな家」を授業で使用したところ、「いいインディアンなんて、死んだインディアンだけさ」という一文に傷ついた先住民の女の子が、泣きながら帰宅する事件があった。その子どもから事情を聞いた保護者が、「小さな家」シリーズを教室から排除するようクレームをつけたのだ。(「インディアン」は差別語とされている。ピンとこなければ、日本の少数派への差別語に置き換えてみれば実感していただけると思う)

その小学校では、白人と先住民の子どもたちの間に、絶えず緊張感があったという。普通なら、そのような環境にありながら、先住民の子どもの気持をないがしろにして授業を行った、教師の指導方針や授業内容を再検討するよう声が上がると思う。

ところが、メーリング・リストでは、「小さな家」やワイルダーを擁護するばかりで、再検討をうながす声も、先住民の女の子への同情も、みごとなまでに皆無だった。ファンの間ではさまざまな意見が飛び交ったが、彼らの言い分は次のように要約される。


「先住民の描写はあの時代を反映しているのだから、とやかく言うのはおかしい。「小さな家」は歴史を学ぶのに適した作品だから、これからも授業で使うべきだ」



 ヨーロッパ系アメリカ人の「小さな家」ファンが感情に流されるままに作品を擁護するのは、先住民問題に限ったことではない。ワイルダーの一人娘、ローズ・ワイルダー・レインの研究家ウィリアム・ホルツが、「レインは小さな家シリーズのゴーストライターだった」という説を発表したときも、気の狂わんばかりの反論がネット上を駆け巡った(当時、レインは全国誌に連載する流行作家だった。「小さな家」の創作は母娘による共作説と、娘によるゴーストライター説がある)

 「小さな家」ファンには、図書館員や教師のような、高等教育を受けた人たちが多い。そんな彼らが、ときに感情をむき出しにするほど「小さな家」に心酔している。いったい何がそこまで惹きつけるのだろう? 



 しだいに私は距離をおいて彼らを見るようになった。そうして一歩離れて眺めているうちに、見えてきたものがある。多民族社会特有の、民族間の緊張による力関係だ。彼らは「小さな家」に白人プロテスタントを頂点とする、ナショナリズムを見ているのだ(インガルスはアメリカで正統とされるイギリス系の白人プロテスタント)

 ヨーロッパ系アメリカ人の多くは、「小さな家」をアメリカ史だという。だが、そこに描かれているのは、先住民や黒人の苦悩のない白人プロテスタントの西部だ。それは開拓史のほんの一面に過ぎないが、彼らにとっては、それこそが正統なアメリカ史らしい。

 インガルスは自由な土地を求めて西部をめざした。

「アンクル・サム(アメリカ政府)は金持ちで、みんなに農地をくれるとさ!」 

わずかばかりの土地申請料を払い、五年間暮らせば広大な農地が手に入る! アメリカは何て素晴らしい国なんだろう! 

「〈インガルス〉というごく平凡な家族を通して、国家建設の日常を描いた「小さな家」シリーズは、アメリカという巨大な国を内包している。広大な大地を切り拓き、一粒の種をまいて乳と蜜の流れる土地に変えていく途方もない作業。そのときに噴き出される自由、愛国、開拓魂といった結晶の汗。その汗には理想のアメリカが凝縮されている。アメリカのファンは「小さな家」のほとばしる汗に、アメリカという国家の誇りを見出し、アメリカ人としての自覚を再確認しているのだ。

 そのアメリカとは自由と平等を掲げる一点の曇りもない国であり、奴隷制や人種差別といったものは存在しない。先住民問題も「明白なる天命」のもとに正当化されている。

 そこに生きるアメリカ人は明るく楽天的で、成功の階段を登り続ける強い人々である。アメリカ人は「小さな家」に理想のアメリカと理想のアメリカ人を見出しているのだ。それはナショナリズムとも言い換えられるだろう」



ヨーロッパ系アメリカ人が、インガルスの西部を正統化するのは、このナショナリズムのためだ。

祖先を〈インガルス〉と重ね合わせ、彼らの行為を正当化し、アメリカを理想国家と仰ぐことは、自己の存在を肯定することでもある。そうすることによって、彼らはアメリカ人としてのプライドを回復し、アメリカ人としての誇りを見出し、アメリカ人としてのアイデンティティを確認しているのだ。だから、彼らと一体化できない先住民や黒人をはじき出すのだろう。その行為はナショナリズムとも言い換えられよう」

「小さな家」を盲目的に肯定し、それを正統なアメリカ史とする動きの背後には、白人プロテスタントを頂点とする強大なナショナリズムが存在する。この白人ナショナリズムこそ、私の心をざわめかせ、疎外感をもたらした大きな要因だろう。

(ヨーロッパ系アメリカ人の「小さな家」のとらえ方については、二◯◯七年刊「大きな森」三号を参照。ここでは最小限の引用にとどめた。「大きな森」は都立多摩図書館にも収蔵)



 ただ、誤解のないように言っておきたいが、「小さな家」ファンの多くは善良な人々で、決してレイシスト(人種差別主義者)ではない。おそらく、少数派の立場がわからない、あるいは知ろうとしないのだと思う。

 私だって日本に居たときは、在日の人たちについてほとんど考えなかった。「小さな家」の先住民にしても、邦訳の「大草原の小さな家」の解説を読んで「ふーん」と思っただけで、深く考えたこともなかった。北米に永住して少数派になったから、その立場がわかるようになっただけだ。

 だから、ヨーロッパ系の人々が、わからないというのはわかる。都会から一歩踏み出せば、白人オンリーの町などごまんとある。都会でも、人種や民族によって居住区が異なるために、学校や職場で他の人たちと交わらないことだってある。接触がなければ、互いのことはわからない。多民族社会といっても、これが現実だ。

ただ、一部の「小さな家」ファンの反応を見ていると、わからないだけではなく、わかろうとしない、あるいは興味がない、という印象をぬぐいきれなかった。意識するとしないとに拘らず、「小さな家」に白人ナショナリズムを見出しているのは、多文化主義への反発や、経済力によって大きな発言力を持つようになった少数派への、警戒心もあるのかもしれない。




アメリカ人とアイデンティティ

 外国に暮らした経験のある方なら、おわかりいただけると思うが、文化や言葉の異なる地に放り出されると、自分が日本人であることを再認識するようになる。日本の風土や文化を見直して、日本人の美徳や欠点に気づいたり、自分の中の日本人に驚いたりする。海外に暮らす日本人が、日本に居る日本人よりも日本的になったりするのは、そのためだ。

 でも、日本に戻ればそんなことは考えたりしない。日本人のアイデンティティの確立していない帰国子女や、アイヌのような少数派は例外かもしれないけれども。

 ところが、アメリカのように雑多な民族の集う国では、国外では誰もがアメリカ人なのに、国内では日系人や黒人やユダヤ人になる。ふだんの暮らしの中で、民族背景のアイデンティティを絶えず意識するようになるのだ。少数派の場合、意識させられると言った方がいいかもしれない。

 たとえば日系人のような少数派が五輪で金メダルをとったら、「アメリカ人」として賞讃されるが、犯罪をおかせば「ジャパニーズ」と言われる。イギリス系のような主流派だったら、金メダルをとっても犯罪をおかしてもアメリカ人なのに。

 それに祖国とアメリカとの関係にも左右されることがある。日本の政治家がアメリカについてうっかり失言したりすると、日系人にふりかかってくるのだ。



 日本人の目には、白人はみな同じに映るかもしれないが、白人といってもさまざまで、アングロがトップ、ユダヤ系やイタリア系などは、それよりも下になる。アフリカ系やアジア系といった非白人はさらにその下だ。口にこそ出さないが、北米には人種や民族背景に基づいた不文律のランクがある。そういったランクづけも民族背景のアイデンティティを意識する要因になっていると思う。



 北米に移住して驚いたのが、そのアイデンティティの問題だった。

自分が何者でどこから来たのかを、誰もが口々に語るのだ。職場の休憩時間に、「私の父方は××系で、西部に入植してから・・・」と、ルーツを語ることなどしょっちゅうで、家系図なんて目をつぶっていても書けるんじゃないかと思うくらい、スラスラ書いてみせる。

 日本では、「私の曾祖父は新潟出身で、仙台に出て行商をして・・・」なんて話は誰もしないので、なぜそんなにルーツにこだわるのか、同僚に訊ねてみたことがある。

「その人がどういう人間かを明確にするからよ」(彼女はdefineという言葉を使った)


 そんな同僚や「小さな家」ファンを見ていると、ルーツを語ることで自分のアイデンティティを再確認して、心の安定を保とうとしているように思う。 

 アイデンティティは日本語になりにくい言葉で、辞書にはぴったりの訳が見つからないが、自分が何者であるかを知るとでも言うのだろうか。

 「母国考」の著者、中野燎子さんが「人間が存在することーそのことに関わりのある言葉で意味であること」と解釈されて、「安定根」と訳されているが、絶妙な訳だと思う。

「人間がやすらかに生きるために絶対に必要な心の中の根っこ」

「人間が人間社会の中で、他にかけがえのない一人として安定して存在するための根」

 人が成長するというのは、身体が大きくなるだけではなく、心にも根っこがあって、その根っこがだんだん大きく太くなっていくことだ、と中野さんはおっしゃっている。里子に出された子どもたちが、実親を探し出そうとするのもこの安定根のためだろう。



 日本は長い歴史と独自の文化を持ち、単一の民族が多数を占める。日本に生まれ育った日本人の多くは、無意識のうちに日本人というアイデンティティを形成していく。それは集団への帰属意識を生み、無意識の安心感を与えてくれる。

 けれども、すべての国民の間に共通基盤のほとんどないごった煮のような国では、「アメリカ人」という定義そのものがあやふやで、確乎としたアイデンティティをつかみにくい。彼らのルーツ話に耳を傾けていると、熱のこもった話ぶりとは裏腹に、「アメリカ人とは誰か」という漠然とした不安の声が、二重和音になって聞こえてくる。

 だからこそ、人々はインガルスに理想のアメリカ人を見出そうとしているのかもしれない。アメリカン・スピリットにあふれたインガルスはアメリカ人の琴線に触れるのだろう。彼らは、イギリス系、白人、プロテスタントという非の打ちどころのない血統でもある。インガルスはアメリカ人のお手本となるべきアメリカ人なのだ。

 アメリカの人々はインガルスに「アメリカ人」を見出すことによって、自分の中のアメリカ人を再確認し、アメリカ人としての誇りを持ち、心の安定をはかろうとしているのだろう。ともすると、亀裂の入り易い多民族社会にあって、インガルスはすべてのアメリカ人を「アメリカ人」としてつなぎ止める、求心力の役割を期待されているのかもしれない。


 アメリカ人形成の手引書

 私は渡米してから、じっくりと時間をかけて「小さな家」の舞台になった土地を巡り、地元の人々や「小さな家」ファンや研究者からも直接話しをうかがう機会にも恵まれた。だから、ヨーロッパ系アメリカ人の本音は、充分に知ることができたと思う(私が会ったファンや研究者はすべてヨーロッパ系だった)

 九十年代のポリティカル・コレクトの時代には、「小さな家」の先住民が、繰り返しやり玉に上げられたこともあって、先住民側に立った論文やエッセイを読む機会にも恵まれた。先住民に「小さな家」ファンは少ないので(まったくいないわけではないけれど)、そうでもなかったら、彼らの声を聞くことなどなかった。ポリティカル・コレクトに感謝しなくちゃいけない。

 両者の主張は水と油のように混ざり合わないが、どちらにも共通しているのは、「小さな家」をアメリカ史の視点から語っている点だ。



 私は日本人のせいか、だったら、アジア系アメリカ人はどうなのだろうと思ってしまう。民族背景も生活様式もまったく異なるインガルスを自分の祖先と重ね合わせて、歴史とみることが出来るのかなと。それとも歴史以外の視点から見るのだろうかと・・・?

 私はアメリカに来るまで、「小さな家」をアメリカ史とみたことはなかった。「小さな家」に魅了されたのは、理解ある両親、温かな家庭、大自然、おいしそうな食べもの、自立した女性といった、ごく身近な理由からだった。

 日本のワイルダー協会にあたるリトルハウスクラブでは、「小さな家」のどこに惹かれるのか会員がコメントすることがあるが、似たようなものだと思う。ただ、日本人はアメリカ人ではないから、アジア系アメリカ人とは一緒くたには出来ない。

 そもそもアジア系アメリカ人に「小さな家」ファンているんだろうか、とも思ってしまう。「小さな家」のふる里を訪れても、ワイルダー学会に参加しても、ホームページの写真をみても、そこで出会うのはヨーロッパ系ばかりで、アジア系の気配はほとんどないからだ。アジア系は少数派の中の少数派で人口が少ないこともあるが、「小さな家」の国民的人気について研究しているアニタ・フェルマン教授は、「小さな家はアメリカ人、とりわけ白人を喜ばせる」と分析している。



 アジア系のファンがいるかどうかは別にして、アメリカ人がインガルスに理想のアメリカ人を見ていると気づいたとき、このシリーズは移民の子どもたちを同化させるのに、まさに格好の作品ではないかと思いあたった。とりわけ、同化しにくいアジア系のような非白人の子どもたちを。

 第二次大戦中、日系人はアメリカ人でありながら日本人として扱われ、収容所送りとなった。その体験から日系人は、アメリカ社会に同化することで生き残りをはかったと言われる。そんな子どもたちにとって、「小さな家」はアメリカ人になるためのノウハウを教えてくれる本になるかもしれない。それも、自ら進んでアメリカ人になりたいと思わせるような最良の手引書に。



 「小さな家」にはアメリカン・アイデンティティが満載だ。

 独立記念日の朝、ベッドから飛び起きたとうさんは、「ばんざい、わたしらはアメリカ人だ!」と叫んでいる。インガルスは自分たちがアメリカ人だと微塵も疑わず、祖国アメリカを心から愛し、アメリカ人であることを誇りにしている。独立記念日はクリスマスと同じくらい大切な祝日だ。

 それに、とうさんはいつだって「自由と独立」を口にしている。アメリカ人の大好きな「自由と独立」を。自由と独立をめざすインガルスはアメリカン・スピリットの体現者だ。

 子どもたちの中には、おはねちゃんのローラに自分を重ねる女の子も多いだろう。アルマンゾのみごとな食べっぷりには、男の子だって一目おくに違いない。陽気なとうさんも、生真面目なかあさんも、優等生のメアリーでさえも、皆、チャーミングなアメリカ人だ。

 アメリカの子どもたちが彼らに憧れたら、インガルスに感情移入するだろう。そうしたら、インガルスの「アメリカ人」が彼らの中に浸透していくかもしれない。

「民族のアイデンティティを捨ててアメリカ人になりなさい」と言われても、素直に聞く子はいない。でも、毎日、学校の先生がお話の時間に「小さな家」を読み聞かせてくれたらどうだろう? 



 アメリカの小学校では、休み時間から戻ってきた子どもたちを静めるために、読み聞かせの時間を設けていて、「小さな家」は定番になっている。教師や図書館員に熱心なファンが多いからだ。

 アメリカ人に「小さな家」ファンになったきっかけを訊ねると、「先生が読み聞かせてくれた」という声が驚くほど多い。フェルマン教授は、「小さな家」ファンの教師がシリーズを教材に使うことについて、「教師の情熱が子どもたちに与える影響は無視できない」と述べている。

 同化させようと意図しなくても、教師が情熱を持って読み聞かせているうちに、子どもたちがローラやアルマンゾに憧れるようになったら、彼らのアメリカ化に拍車をかけるのは予想できる。



 それに何といっても「小さな家」にはおいしそうな食べものがわんさと出てくる。「とろっととろけそうなリンゴの薄切りに香料のきいた茶色の煮汁がたっぷりはいった」アップル・ターンオーバー、「バターをぬってメイプル・シュガーをふりかけた」ふわふわの重ねホットケーキ、糖蜜のたっぷりかかったかあさんの手形入りとうもろこしパン。

「小さな家」は子どもたちの味覚に繰り返しうったえかけてくる。「おいしそうでしょ?」と誘ってくる。

 いつも、みそ汁やトムヤムクンといった伝統食ばかり食べている子どもたちなら、アメリカの食べものに憧れるかもしれない。かつての日本人が、煎餅やお団子よりも、クッキーやケーキの方が上等だと憧れたように。



 十九世紀末から二十世紀初めにかけて、移民の到来がピークに達すると移民排斥運動が起きた。そのとき改革派のアメリカ人は、移民の伝統食を排してアメリカ食を勧めることで、移民の同化をはかろうとした。

 食に詳しいマイケル・ポラン教授によると、移民を同化させるために、彼らの食卓から伝統食を薄めようとする動きは、現代でもみられるという。

 英語にYou’re what you eatという表現がある。食べたものがその人の心と身体を作るという意味だ。だったら、まだアイデンティティの形成されていない移民の子どもたちが、伝統食よりもアメリカン・フードを選んだとしたら、アメリカ人になれるのだろうか?



 ものごとはそう単純ではないが、それを信じていた子どもがいる。ベトナム系アメリカ人作家、ビック・ミン・グエンだ。グエンは「小さな家」の大ファンで、「小さな家」の食べものに魅了され、「小さな家」のローラのようになりたくて、どうしたらアメリカ人になれるかを「小さな家」から学ぼうとした。アメリカの食をむさぼることは、自分の中のベトナムを投げ捨てて、アメリカ人になるための手段だった。「小さな家」はそのマニュアルになったのだ。

 それを知った私は、「小さな家はアメリカ人形成の手引書になる」という自説が立証されたような気がして、興奮を覚えた。

 それと同時に、幼い彼女の胸の中に繰り広げられた壮絶なアイデンティティの葛藤に、心が砕けるような思いにかられた。アメリカの、白い肌をもたない子どもが、白い肌の子どもに憧れたとき、そこにはどんな葛藤があったのだろうかと。

 



ベトナム人からアメリカ人へ

 ビック・ミン・グエンは、一九七四年、ベトナムのサイゴン(現ホーチンミン)で生まれた。回想録「お供物をぬすんで 」(Stealing Buddha's Dinner: A Memoir )

によると、一九七五年の春、サイゴン陥落の一日前に、父、祖母、姉、二人の叔父と共に、ベトナムを脱出してアメリカへ渡った。彼女は生後八ヶ月だった。グエンの両親は内縁関係で、同居していなかったこともあって、母親とは陥落の混乱で離ればなれになってしまい、共にアメリカへ渡ることはできなかった(母親は彼らが渡米したことを後から知らされた。その後渡米して、グエンは成人してから再会している)

 アラスカの難民キャンプに収容された一家は、いくつかの候補地の中からミシガンを選び、州都グランド・ラピッズで「アメリカ人」として新たな生活を踏みだした。父親はそれから数年後に、幼い娘を連れたメキシコ系のアメリカ人と結婚。グエンは、祖母、父、継母、姉、継姉、異母弟、叔父、さらに叔父の親友という大家族の中で育った。



 ギャンブル好きでダンスの得意な父親は、ベトナム人といるほうが気が安まるのか、グランド・ラピッズに定住したベトナム人のコミュニティーに入り浸りで、週末は家に戻らないこともしばしばだった。

 料理上手の祖母は熱心な仏教徒で、毎日の勤行を欠かさなかった。グエンはこの祖母と近く、一人になりたいときは、祖母の部屋のクローゼットに入り込んで本を読んで過ごした。仏教に目覚めたのも祖母の影響だった。

 アメリカ人でありながら、メキシコ人の誇りを持つ継母は、ヒスパニック系のコミュニティーで働きながら、実子も継子も分け隔てなく育ててくれた。厳格なカトリックの家庭に育った継母の希望で、グエンと実姉はカトリックの学校に入学したが、キリスト教になじめず、すぐに退学している。

 ベトナムとメキシコ、仏教とカトリックという二つの文化と宗教の混在する家で育ったグエンは、家の外ではアメリカという白い社会とも対峙しなければならなかった。それはアジア系のグエンにとって、牙をむく野獣のように手強い相手だった。

 彼女の育った八十年代のグランド・ラピッズは、オランダ系の白人を主流とする保守的な町で、公共の看板には「オール・アメリカン・シティ」と掲げてあった。幼いグエンには、それが警告を意味するのか、別の意味なのか、わからなかったという。



 最近はアメリカでも多文化主義や多様性について議論されるようになったが、当時はそんな概念もなく、アジア系の彼女はアメリカ人でありながら、学校でも外国人扱いだった。その体験は、自分はどこか違っている、それは誉められたことではないという負の想いを、彼女の心に容赦なく刻みつけていった。

 その一つに小学生のときのスペリング競争の思い出がある。スペリング競争というのは、クラスを二組に分けて綴り方を競うもので、日本でいえば漢字書き取り競争のようなものだ。

 グエンは幼いころから言葉に興味があったせいかスペリングが得意で、その日、クラスのスペリング競争で優勝した。子どもにしてみれば、担任の先生に褒めてもらえればそれだけで嬉しい。ところが、教室に忘れ物を取りに戻った彼女は、先生たちが話しているのを、偶然、聞いてしまった。

「外国人がスペリング競争で優勝するなんてねぇ・・・・」



 近所の友だちと遊んでいても、負の想いはまとわりついてきた。グランド・ラピッズにはキリスト教徒が多く、グエンの遊び友だちもバイブル・キャンプに参加するような敬虔なキリスト教徒だった。

 けれども、毎日、勤行にはげむ祖母の影響で、幼いころから仏教に親しんできたグエンにとって、キリスト教の神は異質の存在だった。そんなグエンを、友人たちは子どもらしい残酷さで、なじったり哀れんだりした。

「洗礼を受けていない人は地獄に落ちるのよ」

「あんたを救うためにお祈りしてあげる」



 学校の友だちと親しくなると、週末にお互いの家に「お泊まり」に行くようになる。グエンは招かれることはあっても、友人を招くことはなかった。食べるものが違ったからだ。

 友だちの家に泊まりに行くと、夕食はアップルソースつきのポーク・チョップのようなアメリカン・フードだった。

 でも、グエンの家では祖母が食事を担当していたので、フォー(米麺のラーメン)やチャ・ギオ(揚げ春巻き)といったベトナム料理か、継母の作るメキシコ料理だった。

 たまたま遊びに来た友だちに、祖母がベトナム料理を勧めても、鼻にしわを寄せて「ノー・サンキュー」と言われた。継姉でさえイカの匂いを嗅いだだけで、「クサーい!」と言って逃げ出した。だから、友だちを家に招くこともできなかったのだ。



 アメリカ人なのにアメリカ人に扱ってもらえない。かといってベトナム人でもない。自分はいったい何者なのだろう・・・?

 グエンの両親は、繊細な彼女の気持には何も気づいていなかった。たとえ気づいたとしても、「ベトナム人であることを誇りに思いなさい」と言うだけで理解してもらえなかっただろう。

 グエンにもそれはわかっていた。だから継母が、アイデンティティの不安やあせりからくるグエンの行動にいら立っても、「お母さんにはわからないわよ」と繰り返すだけで、本心は打ち明けなかった。

 同じ北米でも、多文化主義を公式に掲げるカナダでは、少数派が民族的アイデンティティを維持することに寛容だ。でも、アメリカはアメリカ人であることを要求する。ベトナム人よりもアメリカ人であることが先に来なくてはならない。



 次第にグエンは、アジア人特有の扁平な顔だちや、ストレートの黒髪を疎ましく思うようになり、白人のような「本物の人」になりたいと願うようになっていった。

 平べったい身体、フォーから立ちのぼる匂い、ブッダへのお供え物といった身体にしみついたベトナムの血。継母と継姉から強烈に放たれるメキシコの匂い。白い牙を剥く無臭のアメリカ。

 ベトナム、メキシコ、アメリカという三つの文化とどう対峙したら良いのか? どうしたら自分の中にそれを取り入れて消化できるか? いったい自分は何者なのか? 

 幼いグエンにはあまりにも重すぎた。大きくなったら私はどんな人になるのだろう? どんな人になりたいのだろう? 読書の好きなベトナムの女の子は、その答えを魅力的な白人の女の子のいる本に見出そうとした。


 


「小さな家」の食べものに憧れて

 子どもの頃ってやたらお腹が空いて、いつもお菓子ばかり食べていたような気がする。幼い頃に食べたキャラメルやチョコレートの味は、いくつになっても忘れない。懐かしい味だ。

 アメリカのスーパーにも、子どもたちの大好きなお菓子が並んでいる。バケツサイズのアイスクリーム、靴ひもみたいなリコリッシュ、ピンポンでも出来そうな巨大な板チョコ。

 どれもこれもケバケバしいパッケージ入りで、甘味料と着色料でハイになって踊っているみたいに見える。買って買ってと絶叫しながら。

 そんなジャンクなお菓子がグエンのお気に入りだった。おやつの大好きなグエンは、チートスやオー・ヘンリーやバブル・ヤムを頬張りながら、スーパーの棚のシリアルを片っ端からチェックして、アイスクリーム屋のメニューも丸暗記していた。ガソリン・スタンドのレジ近くには、ガムやらキャンディーやらチョコレートやらが「買ってちょうだい」と言わんばかりにひしめいているが、そんなお菓子情報もしっかりとインプットしていた。



 食に飢えていたからではない。アメリカン・フードは彼女の夢を叶えてくれる手段だったからだ。

 白人の友だちが食べているのと同じものを食べたい。彼らの食べものを食べれば、私は夢に近づける。私の身体に染みついたベトナムを追い出して、私をアメリカ人にしてくれるんだから。アメリカン・フードを食べないと、私は取り残されてしまう。そうしたら、私はどうなるの・・・? 

 白人の食べものが魔法のように現れることを願いながら、グエンは冷蔵庫や戸棚を開け続けた。



 アメリカン・フードに憑かれた読書好きの女の子は、本の中にもそれを求めた。グエンのお気に入りは、食べるのが好きな人たちの出てくる本だった。たとえば「若草物語」。

 クリスマスの朝、マーチ家が貧しい家族にクリスマスの朝食を差し入れると、ローレンスのおじいさまから、アイスクリームやフランスボンボンが届く。ジョーは、はりきってお昼を作ったものの、あやまっていちごに塩をかけて大失敗をやらかしてしまう。

 ラモーナ・シリーズでは、皆、フーパーバーガーでおいしそうにご飯を食べる。猫がダメにしたジャック・オ・ランタンも(かぼちゃをくり抜いて作ったランタン)、おかあさんの手にかかるとかぼちゃのスープに変わってしまう。



 中でもいちばんのお気に入りは、ローラ・インガルス・ワイルダーの「小さな家」シリーズだった。

 じいちゃんの家のメイプルシロップ・パーティーで、ローラとメアリーは雪にシロップをたらしてメイプル・キャンディーを作った。屠殺の日には、とうさんの作ってくれたブタの膀胱の風船で遊び、ジュージューいうまであぶったブタのしっぽを、ひとかけらの肉も残さず骨までしゃぶった。

「大きな損には必ず小さな得がある」をモットーとするかあさんは、とうもろこし畑を襲ったブラックバードを、びっくりするほどおいしいパイに変えてしまった。パイ皮にふんわり包まれたブラックバードは、ほんとうにやわらかくて、肉がするりと骨からはずれるほどだった。



 裕福な農場暮らしのアルマンゾの家では、その上をいくごちそうの毎日だった。

 朝食には、生クリームのかかったオートミール、ソーセージ、パンケーキ、シロップ、フライド・ポテト、ジェリー、プレザーブ、パン、煮汁のたっぷり入ったアップルパイ。お昼のお弁当には、バターつきパン、ソーセージ、りんご、ドーナツ、アップル・ターンオーバー。夕食は、ハム、ローストビーフ、あるいはチキンパイ、グレービィのかかったマッシュポテト、塩づけブタ入りのベークドビーンズ、ターニップのマッシュ、カボチャの煮込み、スイカのピクルス、ジェリー、パン、バター、スパイスと生クリームのかかった鳥の巣プディング。さらに夕食後には、冷たいアップルサイダーにりんごやポップコーン・・・と、グエンは「小さな家」の食べものを生き生きと綴っている。



 インガルスやワイルダーの食べるという行為は、春に土を掘り起こして種を播き、太陽の照りつける夏に水をやり、時の満ちる秋に収穫するという一連の行為の末にもたらされたもので、労働と食糧が結びついていた。

 彼らにとって、食べることは生きることで、生きることは食べることだった。その行為は、私たちがスーパーで購入した食料品を食べる行為とは、根本から異なっている。それは、より深く「生」に根ざしたものだ。

 グエンは、かあさんの焼きたてのサワー・ドゥのビスケットは、種まき、収穫、脱穀という労働の過程を経てようやく口に入ることや、一家の食糧はとうさんの狩りとかあさんの菜園に依存していること、また、作物の出来具合によってその年の食糧が決まってしまうといった、食べものがどのような過程を経て食卓にあがるのかも記している。



 生産と消費の切り離された現代では、「食べること=生きること」という発想が薄い。とりわけ食文化が浅く、食育のない北米では科学への妄信もあって、栄養さえ摂れれば良いという栄養至上主義がはびこっている。

 でも、ベトナムとメキシコの豊かな食文化にふれて育ったグエンは、「食べること=生きること」と子ども心に感じていたのだろう。アメリカン・フードを食べれば本物のアメリカ人になれると思ったのも、「何をどう食べるか=その人がどう生きるか」とつなげて考えていたのだと思う。

 インガルスにとって食べものは、ただ胃袋を満たすだけのものではなかった。「小さな家」には、彼らが、いつ、どこで、何を、誰と、どのように食べたかが綴られている。そこからは、家族の絆、楽しい時間、幸福感、驚き、悲しみ、といった、彼らの生きざまが見えてくる。

 食べるという行為は「生」と密着したものだ。本物のアメリカ人になりたいと願うグエンが「小さな家」の食べものに魅了されたのも、インガルスの食べるという行為に、誇り高いアメリカ人の「生」を感じたからだろう。

 アルマンゾの夢は農夫になることだった。それはbreadwinnerになることを意味した。breadwinnerはパンを得る人という意味で、転じて稼ぎ手、働き手をさす。いつも腹ぺこのアルマンゾが、食べものを育てる農夫になりたいのは理にかなっている。ローラには贅沢なクリスマスのディナーも、バターつきパンも、どちらもごちそうだった。アルマンゾもローラも食の価値のわかる人たちで、その二人が結ばれたのはごく自然だったとグエンは記している。



 作者のワイルダーは移民の同化政策のために「小さな家」を執筆したわけではないけれど、「小さな家」でお馴染みのベークドビーンズ、とうもろこしパン、ドーナツといった食べものは、典型的なニューイングランド地方の食べもので、 家政学者によって移民の同化政策に利用されたものだった。(ニューイングランドはメイン、ニューハンプシャー、ヴァーモント、マサチューセッツ、ロード・アイランド、コネチカットを含む地方) 十九世紀末から二十世紀にかけて、アメリカでは移民の到来がピークを迎えた。彼らはそれまでのイギリス、ドイツ、北欧といった人々とは異なる集団で、アングロサクソンを優位とするアメリカでは、移民排斥運動が起こった。その一方で、彼らを受け入れてアメリカ化させようとする動きもあり、その同化政策に積極的に関わったのが家政学者だった。



 当時、 改革運動を推し進めた家政学者はボストンを拠点としていて、「質素でも合理的」なニューイングランド料理を摂っている人々は、「栄養充分で体力があり、知的・道徳的にまさっている」と信じていた。

 だから、すぐれたアメリカ食を食べさせれば移民を教育できる、彼らもアメリカ人になれると考えたのだ。偶然にもグエンの愛したインガルスの食卓は、かつて同化政策の模範とされたアメリカ食でもあった。

 移民はさまざまな伝統料理をアメリカにもちこんだが、それは家政学者たちの攻撃の的となった。今ではすっかりアメリカに根づいたピザやパスタでさえその対象となった。そんなものを食べていたら、いつまでたってもアメリカ人になれない、アメリカの食べものを口にしてこそアメリカ人になれると信じていたからだ。幼いグエンのように。



 でも、両者には大きな違いがある。「食べること=生きること」を知っていたグエンにとって、アメリカン・フードを口にするのは自ら選択した行為で、自分の生き方を決める手段だった。

 アメリカに到来した移民も、何世代にもわたって伝統食や食文化を受け継いできた。そんな彼らにとって食は能動的な行為で、「食べること=生きること」だった。食べるという行為は単に栄養を摂るだけではなく、もっと深いものだが、それが理解できなかった家政学者は、アメリカの食事さえしていれば移民をアメリカ化できると信じていた。

 マサチューセッツ工科大学の教授で、改革運動の中心だったエレン・リチャーズは、ニューイングランドの料理を安価で提供する「ニューイングランド・キッチン」を組織して移民の同化をはかり、アメリカ文化を守ろうとした。その計画はたった三年で挫折に追い込まれた。食べものを科学的に捉えるだけで、精神面をまったく無視した家政学者の運動は、やがて失墜していった。



 「小さな家」シリーズは、家政学者たちが時間と労力をかけて成し遂げようとしたことを、容易にやりとげてしまった。少なくとも一人のベトナムの女の子に対しては。家政学者が知ったらため息をついただろう。

 「小さな家」のごちそうに惹かれるのは、ヨーロッパ系のファンも同じだ。日本のサイトでもスレをみたことがある。肌の色や国籍を問わず、「小さな家」の食べものに惹かれる人は多い。

 でも、「小さな家」の食べものからアメリカン人のアイデンティティを探ろうとする子どもたちは、いったい、どのくらいいるだろう?   

 作者のワイルダーは自分がアメリカ人であることを露ほども疑わず、アメリカ人の誇りを持ち続けた人だった。正統派の血統ゆえに、アメリカ人のアイデンティティをなんなく手に入れた彼女には、「小さな家」の食べものからそれを求めようとする子どもがいるとは、想像すら出来ないに違いない。

 

 


ベトナム系アメリカ人の「小さな家」

 アメリカのファンの多くは、インガルスに自分の祖先を見ているが、グエンも例外ではない。ベトナムから移住した家族と、西部への移住を繰り返したインガルスを重ね合わせている。

 開拓者の暮らしと移民のそれは似ているとグエンはいう。どちらも落ち着く場所を探し求め、孤独にさいなまれ、一時的な休息場所や、日々の糧や、仕事や、家庭と呼べる場所を求めて群がるからだ。

 それまでの生活に見切りをつけ、誰も知らない異国へ渡り、言葉を覚え、仕事を探し、家庭を築いてきた祖母と父。彼らにはインガルスに通じるところがある。先住民以外のアメリカ人は、もとをたどれば、皆、移民だったのだから当然といえば当然だ。



 「大草原の小さな家」は、カンザスへ旅立つインガルスが親戚に別れを告げる場面で始まる。あたりはまだ暗く、ひっそりと静まりかえっている。グエンはその静けさの中に、もう二度と会えないかもしれない、安否さえわからなくなる不安を嗅ぎ取っている。

 グエンの祖母は内戦によって夫を失い、姉妹と引き裂かれ、再会するまで四十年以上の歳月を要した。グエンもサイゴン陥落の混乱で実母と引き裂かれた。

 私は海外に移住したといっても、政治的に安定した母国があって、そこには家族もいて、有事にはいつでも帰れるという安心感がある。政変によって国を追われたグエンたちとは違う。ほかに行き場のない彼らは、アメリカで腹をくくって生きていくしかない。

 私が以前働いていた職場には、ベトナム難民だった同僚がいて、時々、昼食を共にしていた。彼女たちはあまり多くを語らなかったけれど、腹をくくった底力という点では、たいしたものだった。



 その職場の近くにはベトナム系のスーパーや小売店の集まったベトナム・タウンがあって、仕事帰りによく食料品の買い出しに行っていた。

 混沌とカタコト英語と大量のゴミが渦巻く雑踏の中に、人々の熱気がムンムンしている所で、そこへ行くたびに、人間はたくましいというか、根なし草になっても何とか生きていかれるものだと、つくづく感心していた。

 そういう人々をみていると、物質的にも経済的にも恵まれながら、開拓時代の祖先の苦労話を語るアメリカ人よりも、たとえ肌の色や生活様式が違っても、グエンたちの方がよっぽどインガルスに近いと思ってしまう。



 けれども、その肌ゆえにヨーロッパ系アメリカ人とは異なるアングルから「小さな家」を見ているのも事実だ。

 グエンはかあさんとメアリーがあまり好きではなかった。二人のレディぶりがカンにさわるからだ。先住民を「吠えたける野蛮人」と毛嫌いしていたかあさんは、メアリーよりももっと虫が好かなかった。そんなかあさんの本性をついてグエンは言う。


「もし私がデ・スメットに暮らしていたら、かあさんは私とローラを遊ばせなかったでしょう」


 グエンの言うことは的を射ている。命の恩人だった先住民の首長ソルダ・ドュ・シェーヌでさえ、かあさんには「吠えたける野蛮人」の一人に過ぎなかった。かあさんに異文化への柔軟性があったとは思えない。先住民とアジア系は見た目が似ているから、グエンはそれだけで敬遠されただろう。

 それに娘たちをレディに育てたいと願っていたかあさんにとって、敬虔なキリスト教徒であることは大切だった。ローラが異教徒のグエンと遊んだら、いい顔はしなかっただろう。

 日系人の女の子も同じような立場から「小さな家」を見ている。

「開拓時代は日系人に辛いのはわかっているけれど、ローラの時代に暮らしてみたいな」



 こういう視点は少数派のもので、多数派のアメリカ人や日本人にはないと思う。最近は日本でも先住民への意識が変わってきたようだが、西欧への憧れやマスコミの影響もあって日本人はどちらかというと、白人の立場に寄り添うのではないだろうか?  

 読者の多くはインガルスに感情移入するだろうから、ひいき目もある。それに日本人にしてみれば、「小さな家」はしょせん外国の話だ。自分たちの歴史でも祖先の話でもない。同じアジア系でも、アジア系アメリカ人とは立場が違うから視点も異なる。

 かあさんに思うところはあっても、グエンは子どもなりに努力して、かあさんの良い点に目を向けようとした。かあさんはたいした設備のない大草原でもウサギのシチューやお団子が作れる。麦わら帽子もむずかしいドレスも手作りする。七ヶ月も続いた厳しい冬には、残り少ない食料をやりくりして、塩だらのグレイヴィーで家族を元気づけた素敵な人だ・・・と。

 

 インガルスは幌馬車の旅を続けるにつれて、ノルウェー人、スウェーデン人、ドイツ人など、さまざまな移民に出会う。そんな人々を見て、とうさんは言う。


「みんないい人間ばかりだがね。隣人としては。だが、われわれと同じ仲間は、ほとんどいないようだ」


「われわれと同じ仲間」とはアメリカ人をさすのだろう。

 でも、とうさんたちの出会った移民は、いつか外国人ではなくなって、いずれ「われわれと同じ仲間」になるとグエンは指摘する。とうさんが、かあさんの倹約ぶりを「スコットランド人だからな」とからかうように、祖先の血筋を愛着をもって、遠くから語るようになる。でも、それはヨーロッパ系の移民に限ったことで、ベトナム系の移民は、いつまで経ってもアメリカ人にはなれないのだと。
  ヨーロッパ系移民の子どもなら、「どこから来たの?」と聞かれたら、「東部から」「ウィスコンシンから」と答えられる。彼らはアメリカ人だからだ。

 でも、ベトナム移民の子どもはそうはいかない。同じように答えたら、「そうじゃなくて、ほんとうはどこの出身なの?」と聞かれるからだ、とグエンはいら立ちを隠さない。



 これは非白人のアメリカ人やカナダ人なら、誰でも似たような経験があるはずだ。同じような話は私の周りにも山ほど転がっている。


 「カナダ人になるには四世代かかるから、私はまだ日本人だって言われたの。だったら私の子どもは五世代かかるって言われるでしょうね。日系人はカナダ人にはなれないのよ」


と憤慨しながら話してくれたのは日系三世の女性だ。自分はカナダ人の自覚があるのに、周囲が認めてくれないという。

 「四世代かかる」というのは、日本語学校の校長からも聞いたことがあるので、アカデミックな説なのかもしれないけれど、カナダ人やアメリカ人になろうともがいている子どもは困惑するだろう。

 スリランカ系の元同僚はカナダで生まれ育った二世なのに、カナダ人の愚痴ばかりこぼしていた。アジア系の私に同類意識があるのか、つい本音が出てしまうようだ。彼の口ぶりからして、どうやら彼はカナダ人ではないらしい。

 ところが、親しい白人の同僚には「僕はカナダ人なのに周囲が認めてくれない」とこぼしていた。矛盾しているようだが、どちらも彼の本音だろう。祖国スリランカにも白いカナダにも帰属意識を持てない葛藤が垣間見える。



 多様な人々が集う北米は多民族国家でありながら、白人の国という固定観念はいまだに根強い。

 ただ、私の限られた経験から言えば、非白人をアメリカ人やカナダ人扱いしないのは、白人よりも非白人に多いような気がする。 最近の社会的な風潮を察して、賢明な白人は思っていても口に出さないのかもれしないけれど。

 だが、少数派にはグエンの継母のように強いエスニック・アイデンティティを持つ人が多いのも事実だ。毎年、新たな移民を受け入れている北米は流動的で、政治や経済の動きによって人々の顔ぶれも様変わりする。

 ソビエト崩壊以降は東側諸国から、香港返還時には香港から人々が流出して来た。現在、私の暮らすトロントでは、ここ十年でイスラム教徒が目立つようになった。 今ではその子どもたちが、新たな世代をつくり始めている。 移民の中には経済に影響力を持つ投資家やエリートもいる。

 彼らは建国を担ったアングロ系とは異なる人々だ。多民族国家では、民族間の緊張やかけひきが権力とからんでくる。少数派が大きな発言力を持つようになった今、数百年後のアメリカでは、いったい誰がアイデンティティに悩むようになるのだろう? 

 



「小さな家」を手引書にして

 グエンが「小さな家」シリーズに惹かれたのは、インガルスがアメリカ人を絵にかいたような人々だったからだ。


「彼らは独立宣言を暗記していて、数えきれないほどの賛美歌やアメリカ民謡を知っている。自由と独立を誇りに思い、西部開拓にゆるぎない使命感を持っている。大草原に家を建て、暖炉で塩づけブタを炒め、どこでも生活を営む。築き上げる自信にあふれ、家庭や土地の権利や農業に高潔な志を持っていた」


 本物のアメリカ人になりたいと願う彼女にとって、これほど深く教えてくれる手引書はなかったはずだ。

 ところが、大きくなるにつれて、あれほどに好きだった「小さな家」シリーズがしっくりこなくなってきた。

 敬虔なキリスト教徒だったインガルスは、教会にも積極的で聖書もよく知っていた。そんな彼らは、異教徒の自分を「地獄に落ちる」となじった友人のような、ハードコアなキリスト教徒を思い起こさせた。

 レイシズムも気になった。かあさんのインディアン嫌いに加え、ローラやメアリーも「黒んぼう (darkey)」の歌にキャッキャと笑い、とうさんも顔を黒く塗って、「黒いわしら(those darkies)はめっぽう強い」と歌いながら踊っていた。

 darkey, darkieは黒人を侮辱した呼び方だが、黒っぽいという意味のdarkは黒人以外の肌もさすので、グエンは自分のことを言われているような気になったのかもしれない。



 グエンは子どもながらに、そんなアメリカの過去を冷静に見つめていて、自分のような人間は異教徒で、よそから来たのけ者だから、彼らの社会では、存在さえ認められなかっただろうと感じるようになった。

 白人社会に自分の居場所はない。でも、私はそこに居たい。本物のアメリカ人になりたい。そう願うグエンは「明白なる天命」や白人の世界を象徴する物語に吸い寄せられていった。自分の存在しない世界に、欲しいものを求め続けたのだ。

 「小さな家」シリーズはグエンの欲求に十二分に応えられる本だった。だから、インガルスに複雑な思いを抱くようになっても目をつぶった。そのせいで、ときに、どんよりと雲がかかったような憂鬱な気分におそわれることがあったが、それも払いのけるようにした。

 グエンが夢中になったのは、どれもアメリカ的な白人やアングロの作品だった。才気あふれる「小さな家」のローラや才能豊かな「若草物語」のジョーに憧れ、彼女たちを目標にした。


 白人の女の子なら「赤毛のアン」や「若草物語」のジョーの真似が出来るのに、ベトナム系の子には出来ない。でも、私はどんな白人の女の子よりも、もっと有能な白人になってみせると、腹の中で自負していた。優秀な成績の子どもばかりを集めた特別校に通っていたせいもあるかもしない。

 人形やぬいぐるみに西洋風の名前をつけ、イギリスの本を読みあさり、映画「メアリ・ポピンズ」のイギリス英語のアクセントを真似て、もっとも白い白人になろうと心がけた。

 「小さな家」のローラや「若草物語」のジョーや「高慢と偏見」のエリザベスが、どのような暮らしをして、何を食べて、何を好んだかを知り尽くせば、彼女たちのようになれると思っていた。それはとりもなおさず、自分の中のベトナムを消し去ることでもあった。



 グエンの父親はベトナムで生まれ育ったベトナム人、継母はアメリカ人でありながら、メキシコ人のアイデンティティを手放そうとしない人だった。  

 両親から「アメリカ人」とはどういう人間なのか手本を示してもらえなかったグエンは、「小さな家」を繰り返し読み、インガルスの「アメリカ人」に触れて、アメリカ人について学習していった。「小さな家」はアイデンティティにゆらぐグエンに、アメリカ人の成り方を教えてくれる手引書だった。

 子どもたちは、アメリカ社会に浮遊するエスニック・ヒエラルキーを鋭い嗅覚で察知する。そこにきな臭さを嗅ぎ取った子どもは、子どもなりに対処しようとする。グエンが「小さな家」を繰り返し読み、「小さな家」の食べものに憧れ、アメリカの食べものをむさぼったのも、彼女なりの自己防衛だったのだ。



 何だか、とてつもなく悲しい・・・そう思う。エスニック・アイデンティティを否定しなければアメリカ人になれないと思ったことも、アメリカ人になるために「小さな家」からノウハウを学んだことも。ワイルダーが知ったら、グエンにどんな言葉をかけるだろう?

 北米には三種類の子どもがいるのかもしれない。一番目は、民族背景が社会に容認されているために、アイデンティティの形成時にあまり疑問を持たない子ども。彼らは「私はアメリカ人よ」とためらうことなく口にする。

 二番目はその逆で、民族背景が容認されていないために、二つの文化の板挟みになって葛藤を抱え、自分なりに努力してアメリカ人になる子どもだ。グエンもその一人だろう。中には子どもがアメリカ人になるのを望まない親もいて、プレッシャーをかけることもある。

 そして三番目は、エスニック・アイデンティティのあまり、アメリカ人にならない子どもだ。彼らはコミュニティーに棲み、彼らの言葉を話し、子どもたちを民族学校へ通わせて、他の人々と交わろうとしない。



 ヨーロッパ系のファンは「小さな家」のすべてにポジティブだ。家族の絆も夫婦愛も西部開拓も先住民問題でさえも。自分たちの都合の良いように解釈しているともいえるが、限りなくポジティブで批判の声はあまり聞こえてこない。

 グエンは「小さな家」に深い愛情を抱いていても、ベトナム系ゆえにネガティブな部分にも気づいている。すべてを肯定的に受け止めることは、したくても出来ない。

 日本に居た頃の私はヨーロッパ系ファンと同じ目線に立っていた。その頃の私だったら彼らに親しみを覚え、疎外感も感じなかっただろう。「小さな家」のローラが大好きで、作家のワイルダーは憧れで、すべてを肯定してあたりまえだった。

 でも、こちらに永住してからは、日本人ではなく、日系人に近い視点で「小さな家」を読むようになった。多数派から少数派への転換は大きかった。社会のからくりが鮮明にみえるようになったからだ。

 内側から北米を見るようになった今の私には、ヨーロッパ系のファンよりも、グエンの方がずっと身近に感じる。 同じ肌の色をしていて、アジア系少数派の目線に立っているからだ。

 だから、「あの時代の私は異教徒でよそから来たのけ者だ」というグエンの疎外感もわかる。今の私がヨーロッパ系ファンから感じる疎外感も、グエンなら共有できるだろう。

 私は成長時に帰属意識に悩んだことはないが、 今の私には帰属意識はない。日本を離れて二十年以上経つ私には、もう居場所がないからだ。北米にいると私は日本人。いつまで経っても外国人だ。でも、日本へ行っても私の知っている日本はもうない。日本はもう遠い国になってしまった。



アメリカの小学校では、開拓史の授業で「小さな家」を読み、ローラやメアリーのように、バターを作ったり歌をうたったりする。子どもたちも開拓時代の服装にドレスアップして楽しそうだ。

 「小さな家」ファンのホームページも素晴らしい。彼らの情熱と豊富な知識には頭が下がる。彼らのような人たちがいるからこそ、「小さな家」の遺産は大切に受け継がれているのだろう。こんなに愛されているワイルダーは幸せだなと思う。 

 アメリカでは、ワイルダーの評伝や伝記が何冊も出版され、主なものは日本でも紹介されている。深い知識と丁寧な研究にささえられた彼らの著作は、日本の読者に紹介するにふさわしい。



 「でも・・・」と私は思ってしまう。これってほんとうにアメリカの「小さな家」を映し出しているのだろうかと。 

 多民族社会でありながら、彼らの視点はヨーロッパ系アメリカ人だけに集中している。そして絶大な支持を得ている。いや、だからこそ、支持を得ているのかもしれない。私はそこに複雑な多民族社会の緊張関係を感じてしまう。

 アメリカ人は「小さな家」を歴史的観点からみる。歴史は勝者の立場から語られると言うけれど、それは「小さな家」にもいえるだろう。

 歴史の授業はタイムカプセルだ。子どもたちはカプセルを開けて、タイムマシンに乗り、過去の時代を探検する。

 初期のアメリカはイギリス系を軸としたヨーロッパ系の人々が中心だった。それは事実なのだから、ありのままに伝えるべきだ。

 でも、そこから一歩踏み出して、民族背景や肌の色が違っても、「あなたもアメリカ人なんだよ」と安心感を与えることも必要ではないだろうか? オープンに話し合うだけでも、子どもたちの気の持ちようは変わってくる。

 周囲を見渡すと、大勢の子どもたちもグエンと同じような悩みを抱えているように思える。ギリシャ系カナダ人の同僚と話していたとき、ヨーロッパ系でも同じように感じていると知って驚いたことがある。

「中学でカナダ史を習ったとき、ああ、あたしは含まれていないんだなって思った」



 開拓史の授業で、子どもたちは「大草原の小さな家」ごっこをしてアメリカの過去を学んでいる。でも、「小さな家」は中西部に暮らしたアングロ系の暮らしを描いたものだ。

 作品の背景となった一八七十年代から八十年代半ばには、非キリスト教徒や非ヨーロッパ系の流入によって、アメリカはすでに多文化社会を形成していた。

 人間の営みは風土や気候や民族背景に左右される。開拓民がどのような暮らしを営んでいたかは、誰が、いつ、どこに居住していたかによって異なってくる。南部だったら、猛吹雪も大草原の野火事も経験しなかったはずだ。ユダヤ人なら土曜日が安息日だった。中国人なら米を食べていた。インガルスの暮らしだけがアメリカの開拓生活ではなかったはずだ。

 それなのに、南部のフロリダでも、西海岸のカリフォルニアでも、「小さな家」を社会史に使っている。まるで、それが唯一の暮らしであるかのように。少数派が発言力を持つようになった今、このような授業は、いずれひび割れていくだろう。


 過去のアメリカと現在のアメリカでは、人々の顔ぶれが違う。民族背景も宗教も肌の色も異なる。開拓史を習っても、それを自分に結びつけられない子どもたちがいる。でも、彼らはアメリカ人だ。

 今の子どもたちがこれからのアメリカをつくりあげ、未来の子どもたちは、彼らについてアメリカ史の授業で習う。誰もがいずれアメリカ史の中に収まるときがくる。アメリカの過去と現在と未来をどのようにつなげていくべきか、模索するときが来ているように思う。


 

 一九九七年の春、大学生だったグエンは祖母と叔父とベトナムへ渡り、彼らが暮らした家や叔母や従兄弟を訪ねて廻った。自分の中からベトナムを消し去ってきたグエンは、ベトナム語が話せなくなっていた。せっかく会えた叔母たちともほとんど会話が出来ず、目が合ってもニコッと笑ってジュースをすすり、間を持たせるしかなかった。

 そんなグエンを叔母たちは「あんたはアメリカ人だね」と言って笑い、どの親戚の家に泊まっても、食事の度にコーラとフレンチ・フライを出してくれた。アメリカ人の彼女のために。


 回想録の最終章で、グエンは、アメリカを選んだ父と、現在の自分について触れている。

「父が赤ん坊だった私と姉を連れてベトナムを脱出したのはサイゴン陥落の一日前だった。ぎりぎり間際の決断で、娘たちの母親にひと言の伝言すら残せなかった。母を残して行かなければならなかった父の胸には何が去来したのだろう? 彼女も脱出したのかもしれないと思ったのだろうか、それとも、娘たちの将来を思い、心を鬼にした決断だったのだろうか? それを思いはかるのは難しい。

パニックと恐怖の中で、父は母国を捨て、無我夢中で見も知らぬ国へと脱出した。それは父からの贈り物なのかもしれない。それが私がアメリカ人である証でもある。

たった一夜で、人生もアイデンティティも変わってしまった。私たちはベトナム人で、難民で、アメリカ人だった。 

だが、父も私も後悔などしていない。それ以外の選択などありえなかったのだから。そんな人生を選んでくれた父に感謝している」




*本書の内容の一部、あるいは全部を無断で使用することは、著作権の侵害となります。

©服部奈美 All Rights Reserved.