阿羅健一(近現代史研究家)
 昭和19(1944)年、仙台市生まれ。東北大学文学部卒。レコード会社勤務をへて近現代史研究家に。「中国の抗日記念館の不当な写真の撤去を求める国民の会」会長などを務める。著書に『「南京事件」日本人48人の証言』『【再検証】南京で本当は何が起こったのか』『日中戦争はドイツが仕組んだ─上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』『秘録・日本国防軍クーデター計画』など。

日本人の常識と相容れない


 ようやく朝日新聞が慰安婦強制連行の記事を取り消した。ここに至るまでに32年かかり、よく居直りつづけたと感心してしまうが、32年目で取り消したのなら、43年前の報道も取り消せるのではないかと私は考える。43年前、つまりは昭和46年。言うまでもなく本多勝一記者が執筆した「中国の旅」のことである。

 「中国の旅」は昭和46年8月から12月まで朝日新聞に連載された。中国人が戦争中の日本軍を語る形を取ったルポルタージュで、毎回、残虐で非人道的な日本軍が語られた。これほど残虐で猟奇的なことを新聞が掲載してよいのかと感じるほどだったから、その残虐さと猟奇さに度肝を抜かれた日本人はいただろう。

 しかし、語られている日本軍の行為は日本人の感覚からは考えられないもので、常識的な日本人なら躊躇なく疑うものだ。もし日本軍の実情を知っている人なら言下に打ち消すだろうし、日本の歴史に照らしあわせれば、これも直ちに否定できる。「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(「朝日新聞社史」)というように、朝日新聞の読者ですら拒否したのである。

 社内からも批判の声が上がった。「中国の旅」は4部に分けて連載され、残虐で非人道的な話の圧巻はそのうちの「南京事件」だが、当時従軍した記者たちが取材した南京と、「中国の旅」に書かれている南京とはまったく違っていたからである。

 こんなことから、連載をまともに受け取る日本人などいないだろうと考えられたが、実際は多くの日本人が受け入れた。連載から半年後に単行本となり、やがて学校の副読本として使われだし、しかも文部省はそれに反対しなかった。それから十数年して南京に虐殺記念館が建てられると、献花する政治家が次々と現れた。同じように、国交回復のとき話題にもならなかった南京事件を中華人民共和国が言いだすと、外務省は反論することもなく認めた。なぜ受け入れたのですかと彼らに問えば、朝日新聞に掲載されたからと答えるだろう。常識から判断できるのにしないで朝日新聞を信ずる。なぜそうするか不思議なのだが、それほど朝日新聞が信じられていたことになる。

「中国の旅」の虚偽を示す記録の数々


 改めて「中国の旅」が虚偽に満ちた内容であることを示す。「南京事件」にしぼると、その冒頭で南京に攻め入った日本軍はこう記述されている。

「日本軍がなだれこむ。大混乱の群集や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」

 この記述が文字通りの虚偽であることはあまたの事実が示している。日本軍が南京城内に入ったのは昭和12年12月13日で、城内の第三国人を保護するため、翌日には日本の外交官も入った。外交官の名は福田篤泰といい、戦後、衆議院議員となり、総務庁長官などを務めた人である。南京市民でごったがえす中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補はこう証言している。

「街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない」(『一億人の昭和史』毎日新聞社)

 南京市の中心には日本の新聞社や通信社の支局があった。同盟通信(現在の共同通信と時事通信)の従軍記者である前田雄二は15日に城内に入った。前田雄二記者は支局を拠点に取材をするのだが、そのときの支局周辺の様子をこう記述している。

「まだ店は閉じたままだが、多くの生活が生き残り、平和は息を吹き返していた」(『戦争の流れの中に』)

 死体もなければ、血にもおおわれていない。南京はまったくの落ち着いた街だった。

 中国人の話だけで成り立つ「中国の旅」からすると、日本人の証言では不十分とされそうなので、第三国人の証言をあげる。

 南京には数十人の第三国人がいて、一部は南京安全区国際委員会を作って南京市民の保護に当たった。彼らは南京にやってきた日本の外交官に手紙や要望書を出すが、福田領事官補が南京に入った14日、さっそく手紙が出された。その手紙第1号の冒頭はこう書かれている。

「謹啓 私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」(『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』)

 日本軍が南京市民を殺戮することなどなかったのである。

 第三国人の証拠を持ち出すまでもない。14日の南京の中心の様子を朝日新聞がこう報道している。

「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(『東京朝日新聞 十二月十六日』)

 死体と血におおわれた地獄というのはまったくの虚偽なのである。

 軍用犬を放したという記述にいたっては腹を抱えて笑うしかない。軍用犬は、最前線と後方の連絡に使われるが、偵察に使ったり、傷兵を救護したり、軍需品の運搬にも使う。そのため飼育され、訓練が繰り返され、人間を食べることなどありえない。

 虚偽の記述は冒頭で終わるわけでない。続いて「川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった」「どこへ行っても空気は死臭で充満していました」といった死の世界の描写が続く。

「中国の旅」とは、冒頭からこのような虚偽と噴飯ものに溢れ、それが最後まで続くものであった。

当時の日本兵も全員が否定


 「中国の旅」は政治家や外務省や文部省を誤らせただけではない。

 「中国の旅」を読まされた子供たちは、どこの日本兵がこのようなことをしたのか、と思っただろう。人間らしい気持がひとかけらもなかったのか。それを止める日本兵は1人もいなかったのか。これら日本兵は軍法会議にかけられることがなかったのか。

 「中国の旅」は子供たちが国に対していだく尊敬の念を奪ったのである。
 私は連載から十数年して、健在だった兵士にいろいろ尋ねまわったことがある。

 「中国の旅」で語られているのは城内の安全区や揚子江岸でのことで、日本軍は部隊ごとに戦闘地が決められているから、どこの日本兵が行ったかすぐにわかる。安全区は金沢の兵隊が掃蕩し、揚子江岸には津の兵隊が真っ先に進出したので、「中国の旅」が事実なら、殺戮や強姦は彼らが行ったことになる。

 兵士たちに会ったとき、まず軍紀について尋ねたのだが、どれほど多くの兵士に会っても、「中国の旅」で語られた話を聞きだすことはできなかった。「中国の旅」に記述されている例をあげてたずねても、首をかしげるだけである。反対にこんな返事が返ってきた。

「戦前の日本が農村社会だったことは知っていますね。ひとつの村から何人も同じ中隊に入りました。もし強姦などすれば、すぐ郷里に知れわたり、除隊しても村に帰れなくなります。日本の軍隊が同じ郷土の若者から成り立っていたことは、軍紀を守らせる役目をはたしていたんです」

 このように、どの兵士もが「中国の旅」の内容を否定した。

 それでも、金沢や津の兵隊は気づかないが、ほかの土地の兵士と比べて残忍であるとか、そこの風土が猟奇的ということがあるのかもしれない。そう考えなおして調べてみたが、そのようなことももちろんなかった。金沢の特徴をいえば宗教心の篤い土地柄である。

 どの面からも「中国の旅」は否定された。

 なぜそんなものが活字になったのか。活字になるまで社内で反対する人はいなかったのかと不思議に思う。朝日新聞は日本の常識が通用しないところなのだろう。

中国の歴史がデッチあげた日本軍の蛮行


 批判はその後も続いたが、平成2年9月、批判に対して本多勝一記者は本誌にこう書いた。

「問題があるとすれば中国自体ではありませんか」

 反論になっていないが、「中国の旅」が虚偽に満ちていたことをよく知っていたのである。それとともにこの記述は、なぜ「中国の旅」が虚偽だらけであるか解く鍵になる。

 つまり、中国人が語っていることは自分たちが行ってきたことをおうむ返しに語っているだけではないかと気づかせるからである。

 たとえば、李圭の「思痛記」という本が手元にある。李圭という人物は清朝の役人で、この本は1879(明治12)年に書かれた。

 書かれる30年ほどまえの1850年、広西で長髪賊の乱が起こった。指導したのは洪秀全で、3年後には南京を落とし、支配した地域を太平天国と称した。当時は清の時代で、北京に首都があった。太平天国はその清と戦いを続け、1864年に敗れ滅びる。

 著者の李圭は、南京郊外の豪族の家に生まれたが、1860年に長髪賊に捕まり、2年以上軟禁された。どうにか逃れて、やがて清朝の役人となる。役人になると、軟禁されていたころの体験をまとめた。それが「思痛記」である。訳者の松枝茂夫によれば、李圭は欧米に派遣され、途中、日本にも寄ったことがあるという。

 「思痛記」の中で李圭は周りで起こった悲惨な出来事を記述しているが、その数はおびただしく、日本人からは想像できないことばかりである。そして「中国の旅」で語られる日本軍の残虐な行動は「思痛記」にもしばしば見られる。そのいくつかを列挙する。

「日本兵が現れて、若い女性を見つけ次第連行していった。彼女たちはすべて強姦されたが、反抗して殺された者もかなりあったという」(「中国の旅」)

「美しい女は路傍の近くに連れこまれて淫を迫られた。必死に拒んで惨たらしい死に方をするのが十の六、七であった」(「思痛記」)

「川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった」(「中国の旅」)

「長柄の槍で争って突き刺されるか、鉄砲で撃たれるかして、百の一人も助からなかった。水はそのため真っ赤になった」(「思痛記」)

「強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突立てた写真」(「中国の旅」)

「女の死体が一つ仰向けになって転がっていた。全身に魚の鱗のような傷を受け、局部に矢が一本突き刺さっていた」(「思痛記」)

「日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。(中略)大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」(「中国の旅」)

「刀がふりおろされるごとに一人又一人と死にゆき、頃刻にして数十の命が畢った。地はそのため赤くなった」(「思痛記」)

「水ぎわに死体がぎっしり漂着しているので、水をくむにはそれを踏みこえて行かねばならなかった」(「中国の旅」)

「河べりには見渡すかぎりおびただしい死体が流れ寄っていた」(「思痛記」)

「逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した」(「中国の旅」)

「河べりに大きな木が百本ばかりあったが、その木の下にはみなそれぞれ一つか二つずつ死体があった。木の根元に搦手に縛りつけられ、肢体は黒焦げになって満足なところは一つもなかった。それらの木にしても、枝も葉もなかった。多分賊や官軍らは人をつかまえて財物をせびり、聞かれなかったために、人を木に縛って火を放ったものであろう」(「思痛記」)

「赤ん坊を抱いた母をみつけると、ひきずり出して、その場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、その面前で地面に力いっぱいたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。半狂乱になった母親が、わが子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母をうしろから撃った」(「中国の旅」)

「(賊の頭目の一人汪は)夫人と女の子を家に送り帰してやるといった。嘘とは知らないものだから婦人は非常に喜び、娘を先に立てて歩かせ、自分はそのあとにつづいた。汪は刀を引っ下げてついていったが、数十歩も歩いたか歩かぬに、いきなり後ろから婦人の頸部をめがけて、えいとばかりに斬りつけた。夫人はぶっ倒れて『命だけは』と哀願した。が、またもや一刀、首はころりと落ちた。汪はその首を女の子の肩に乗せて、背負って帰れといった。女の子は力およばず、地に倒れた。汪はこれを抱えおこし、刀をふりあげて女の子の顋門めがけて力まかせに斬りつけると、立ちどころに死んだ」(「思痛記」)

「『永利亜化学工場』では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという」(「中国の旅」)

「蕎(賊の頭目の一人)はひどく腹を立て立ちどころに2人を殺し、さらにその肝をえぐり取って、それをさっきの同伴者に命じて鍋の中に捧げ入れさせ、油で揚げて煮た上で一同に食べさせた」(「思痛記」)

 このように「中国の旅」で語られているのは日本人に想像もつかないことであるが、これと似たことが「思痛記」にはあり、中国人にとっては当たり前のこととして記述されている。最後に挙げた食人肉の話は、魯迅の出世作「狂人日記」にもある。「狂人日記」は、中国では四千年のあいだ人を食ってきた、妹が死んだとき母が泣きやまなかったのは兄貴が妹を食べたからではないか、と書く。

 中国人の語ることが日本の常識や歴史から説明がつかないことと、それが中国では当たり前のように起きていることを考えると、日本軍が南京で行ったと語られた蛮行は、中国人が歴史的に繰り返して行ってきたことであり、日本人も同じことを行ったに違いないと彼らが思い込んだからなのだ。

城市戦で繰り返された虐殺


 その身勝手な思い込みが、なぜ日本が南京を攻めたとき語られたかの手がかりも「思痛記」にある。

 南京から80キロメートルほどに金壇という街がある。長髪賊は南京を落とすとき、金壇城も攻めたが、金壇城が陥落した日のことはこう記述されている。

「入城した。新しい死骸、古い死骸が大路小路を埋めつくしていて、おそろしくきたなかった。城濠はもとから狭くもあったが、そのために流れがとまった。赤い膏白い膏が水面に盛り上がって、あぶくが盆よりも大きかった。それというのが、住民たちは城が陥ちたら必ず惨殺されることを予期して、選んでみずから果てたものもあったが、城の陥落する前に、官軍中の悪い奴らの姦淫強奪に会い、抵抗して従わなかったために殺されたものもあった」

 城が陥落すれば必ず惨殺される、と金壇の住民は考えていたというのだ。

 それは事実で、そういったことが起きるのは金壇城陥落時にかぎらない。たとえば1644年、日本でいえば江戸の初期、清は万里の長城を越えて北京を落とし、明を滅ぼした。明朝の一族は南京城に逃れた。その南京城も翌年には陥落し、このとき江南では南京だけでなく、一帯の都市が次々攻めおとされた。まず揚州が落とされ、続いて南京、そして嘉定、江陰と続いた。

 これらの都市が陥落したときの様子は「揚州十日記」「嘉定屠城紀略」「江陰城守記」といった記録として残されている。

 それによると、陥落と共に公然と強姦が行われ、殺戮が繰り返され、死骸が山のように積まれる。腸はえぐられ、手足はばらばらにされる。腹は割かれ、心肝は食われる。流血は踝を没するほどで、嘉定では10日間で80万人以上の死者が出たとまで記述されている。

 つまり、昔から城壁をはさんだ攻防では負けたほうがことごとく惨殺されてきた。そして七十数年前も金壇で同じことが起こった。

 しばしば首都の置かれた南京はその典型である。早くも549年、粱王朝の首都であったときに起こった。このときは臣の侯景が反乱して南京を攻め落とすのだが、城にいた男女十余万、兵士2万余のうち、最後に残ったのは四千に満たなかったという。

 日本が南京を攻略したとき、さまざまな残虐なことが起こったと中国市民は語ったが、そう語るには、このような歴史背景があったのである。
 中国の城は、城市とも言い、街を取りかこむ城壁である。日本にこのような城はないから、城壁を取りかこんで攻めることも、陥落させたとき殺戮強姦する歴史もない。

親中工作員・スメドレーも記した中国人の残虐


 「思痛記」は日本でいえば明治初期のことであるが、中国人の残虐な行為はその後も続いた。明治33年の義和団の乱でも起きた。そのことは欧米人の記録した「北京最後の日」や「北京籠城」に詳しく記述されている。昭和に入り中国を支配した蒋介石が掃共戦を行うときも頻発した。アグネス・スメドレーは、中国共産党と行動をともにしたアメリカのジャーナリストで、昭和8年に国民党と中国共産党の戦いを「中国の夜明け前」にまとめた。そこにも中国人の残酷な殺戮が羅列されている。こんな具合だ。

「将校は見つけ次第、労働者や学生を殺しました。ある時は立ちどまらせて射殺し、また時には捕まえてひざまずかせて首をはねたり、また5体をバラバラに切り殺したりしました。捕えられた断髪の少女たちは裸にされ、まるで当然のように凌辱されたのち、脚の方から頭の方へと、身体を二つにひきさかれました」

「ソビエト・ロシアの領事館の5人は逮捕され、街頭を歩かされ、ポケットに持っていた金は全部まきあげられました。靴はむりやりぬがされて、あげくのはてに殺されました。そのうちの1人の女性は性器から、太い棒を身体につきさされて殺されました」

「老農婦はそばにいって母親の腕から赤ん坊を無理にはぎとり、高くあげ地面にたたきつけた。くりかえし彼女は拾いあげて、また地面にほおり投げた」

 日本人の想像つかないようなことが、日本軍が南京に攻め入る何年か前にも繰り返されていたのである。もっとも、スメドレーはコミンテルンや中国共産党とも繋がった人物(戦後ソ連スパイの嫌疑をかけられるとイギリスに亡命、直後に死亡。遺体は遺志により北京に葬られた)だけに、上記の記述は国民党を貶めるためのプロパガンダだった可能性は考慮せねばならぬ。ただその場合でも、中国で繰り返されてきた虐殺・蛮行の歴史にならったことは間違いない。

取り繕いも果たせぬ朝日新聞


 昭和12年12月の朝日新聞の報道によれば、南京は微笑んでいたが、「中国の旅」によると、南京は死臭で充満していた街である。両者に整合性はまったくない。当時の報道と「中国の旅」がまるっきり違うことは朝日新聞がよく知っていて、慰安婦強制連行と同様に、このことについても取り繕おうとしてきた。

 長いあいだ沈黙を守ってきた朝日新聞が初めて取り繕いをしたのは平成3年である。「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」のなかでこう書いたのだ。南京で取材していた朝日新聞の記者はなんとか事件を報道しようと努めており、「中国への旅」で語られたことが事実である、と。

 このとき「社史」はある1人の記者の手記を引用した。記者とは、南京戦に従軍し、戦後に朝日新聞を辞めてから南京での体験を発表している人物である。何十人もの記者が従軍したのに、なぜ辞めた記者の、しかも朝日新聞と関わりのない雑誌に発表した手記を利用するのか不思議だが、そういう手記が反論になっていないのは言うまでもない。この手記は捏造と剽窃から成り立っていることがその後判明している。そういうものしか朝日新聞には取り繕う手段として持ってない。

「社史」が説明になっていなかったことは朝日新聞自身が知っており、取り繕いは続く。最近では「新聞と戦争 南京」(平成19年12月)や「記者風伝 守山義雄」(平成20年4月)で取り繕いを試みた。しかしここでも、事件を報道しようとしてもできなかったという事実は示せていない。「新聞と戦争 南京」は15回にわたった連載だが、そういうものは一切出てこない。取り繕おうとして恥の上塗りをしているだけである。

「社史」は「中国の旅」への非難について「多くは『中国の旅』が中国側の証言を素直に伝えたことに対する反発であった」と書いた。中国人の証言は正しく、あらぬ濡れ衣が着せられようとしていると言わんばかりである。朝日新聞社の社員の半分以上は「社史」が刊行されてから入社した社員である。「中国の旅」が虚偽に満ちていることを知らず、社史の言い訳を信じているかもしれないが、それは間違っている。

 新聞社の使命が事実の報道であるとすれば、「中国の旅」は新聞社の使命を否定している。「中国の旅」を取り消さないかぎり、朝日新聞は新聞社の使命を放棄していると世間に示しつづけていることになる。32年目で取り消したいまこそ「中国の旅」を取り消すときであろう。