日本酒好きにとって蕎麦(そば)店は特別な場所だ。何しろ、江戸時代はうまい日本酒を飲むなら蕎麦店に行くというのが鉄則だったから。日本酒にこだわるお客に対して、シンプルで潔い酒肴(しゅこう)が、蕎麦店で発達した。今も名店といわれている蕎麦店は、こうした江戸の食文化を受け継ぎ、日本酒ファンを取り込んでいる。日本酒と蕎麦に造詣の深い古川修氏に、「蕎麦屋酒」が堪能できる各地の蕎麦店を案内してもらった。
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蕎麦店で飲む酒は居酒屋とは一線を画す。
なぜなら、蕎麦店の酒肴はシンプルで種類も多くなく、潔いから。これをひもとくには、ちょっとした江戸時代の「蕎麦屋酒」文化を振り返る必要がある。幕末のころは、蕎麦店は酒を飲むところであった。江戸には独身の職人が多く、仕事帰りにちょっと一杯ひっかける格好の場所が蕎麦店だったのだ。
短気な江戸っ子を迎えるにあたり、蕎麦店はまず種物に使う食材をささっと調理して出す。例えば、板わさ、だし巻き卵、のり、鴨(かも)焼き、焼き蕎麦味噌などなど。味噌がなぜつまみに利用されたかというと、江戸初期のころは、蕎麦は醤油(しょうゆ)ベースのつけだれではなく、味噌だれで食べていたからだという。醤油は関東では造っておらず、上方からの下りものとして高級品だった。
こうした酒肴に、特に上等な日本酒、すなわち「上酒」を提供することを、蕎麦店の商売の戦略とした。蕎麦を出す前の酒なので、「蕎麦前」とも呼ばれている。このころの居酒屋は量り売りの日本酒を薄めて出していたりしていたので、蕎麦店に行けばうまい酒が飲めるという評判により、蕎麦店は繁盛を極めていった。
ということで、蕎麦店では昼から酒を飲んでも許される雰囲気を持っている。女性が1人で飲んでもさまになる。居酒屋と違って、酒肴はシンプルであり、長居をせずに最後は蕎麦をたぐって帰る。その瀟洒(しょうしゃ)な潔さが蕎麦店で酒を飲むことの特徴であり、江戸の文化をそのまま飲んでいるかの気になるのだ。
蕎麦店の定番の酒肴で飲む酒は実にうまい。そして、酒肴はもともと種物の具なので、しめの蕎麦にも違和感なくつながってくれる。そのような、正統派の蕎麦店が広島市にあり、連日満席でにぎわっている。広電「段原一丁目」停留所近くの住宅街に密(ひそ)かに佇(たたず)んでいる「蕎麦きり 吟(ぎん)」だ。隠れ家のような蕎麦店である。
ご主人の前田良孝さんは広島県庁の元職員。全国に名をとどろかせる蕎麦打ち名人、高橋邦弘さんが2001年、広島県豊平町(現在の北広島町)に「達磨(だるま) 雪花山房」を構えて話題になったことをきっかけに、蕎麦の製粉に興味を持つ。
県庁での仕事はスポーツ振興だったので、スポーツ研究のために筑波大学大学院で国内留学するが、蕎麦の食べ歩きをしているうちに、どんどん蕎麦に魅せられ、ついには退職。東京とつくば市の蕎麦店で修業した後、故郷の広島に戻り、2010年3月に蕎麦店を開業した。
前田さんは全国の農家を回り直接、玄蕎麦(黒い固い皮がついている蕎麦の実)を仕入れている。それを丁寧に脱皮機にかけ、電動石臼で製粉している。蕎麦に対する姿勢は半端ではない。
以前、「蕎麦きり 吟」を訪ねたときのこと。前田さんにおまかせで酒肴をお願いしてみた。最初に出てきたのは「吟醸とうふ」。大豆の甘味たっぷりで、「十旭日無濾過(ろか)生原酒」がよく合う。続いて「焼き蕎麦味噌」。蕎麦の実を焦がした香ばしい香りと、味噌の旨味(うまみ)で酒が進む。そして「だし巻き卵」。ふわっとした卵の食感の奥から、だしのうま味が口の中に広がってきた。
しめは「せいろ」。凛(りん)とした土の香り豊かな蕎麦は、さらにもう一杯の酒が進む。飲みたくさせてくれる。種物も「かけ」「花巻」「山かけ」「鴨南蛮」とそろっていて、いずれもうまい。
広島に来る機会があれば、かならず「蕎麦きり 吟」を訪問するようにしている。遠い地で味わう江戸前の正統蕎麦店酒。まさに旅に至福のひとときを付け加えてくれる。
◇ 蕎麦きり 吟 広島市南区段原1-17-8 082-236-3269 水曜定休
長野県のJR中央本線松本駅から、アルピコ交通の1日8便しかない山形線バスで30分。「下竹田」というバス停のすぐ先、山々が青く映る、自然豊かな村落に「木鶏(もっけい)」が佇んでいる。こちらは、福島市出身のまだ30歳代のご主人、塙和貴さんが3年ほど前に開業し、ご夫婦で営む蕎麦店だ。
福島市の手打ち蕎麦店で修業を積んでいた塙さんが、信州に蕎麦を食べにきたときに、自然豊かな景色に感動したことがきっかけで、信州に移住し、松本市の蕎麦店に勤めることになる。そこで奥様と出会い結婚。勤め先の蕎麦店が撤退した後は、奥様の実家の会社を手伝いながら、全国各地の蕎麦店を訪ね修業を重ねた。そんな折、2011年3月に故郷が東日本大震災に見舞われる。
4月には、炊き出しのボランティアを志願。何カ所かで蕎麦を打って提供したところ、家族を亡くしたおじいさんが「すごくおいしい」と喜んでくれたのを見て、「人を感動させる蕎麦店を必ず出す」と決意した。13年9月には物件が見つかり、翌年4月に「木鶏」を開業することができた。
器ができたら、今度は中身だ。塙さんは、食材にもとことんこだわった。長野県辰野町の山間にある種鶏所で自然育成された「ぎたろう軍鶏(しゃも)」と出合い、店の看板食材とすることにした。店名の「木鶏」は、中国の古典「荘子」に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をいう。「ぎたろう軍鶏」への期待が込められている。
加えて、信州大学農学部が標高1300メートルの野辺山高原で栽培している蕎麦。蕎麦は寒暖差が大きいほど甘味が強くなる。夜の寒さが蕎麦の株の成長を抑えて、余分な栄養が成長にとられずに効率よく実に入るからだ。これを玄蕎麦で買い取り、県内の製粉所で脱皮作業を委託し、電動石臼で自家製粉をしている。
日本酒は福島県の地酒が中心だ。故郷のうまい酒を紹介したいという思いが伝わってくる。
今回の訪問で、まず「とり皮ポン酢」に「油揚げつけ焼き」をいただいた。合わせたのは福島の「一歩己(いぶき)」の無濾過純米生原酒。初めて飲んだが、しっかりとした造りで芳醇(ほうじゅん)な旨味があり、酒肴が進む。
そして、「手羽塩焼き」。鶏の脂がうまい。上品でギトギトした感じはせず、それでいてジューシーな甘味がある。口の中は幸せいっぱい。「ぎたろう軍鶏」のうまさを十分引き出す焼き加減に、塩加減も素晴らしい。さらに地酒をもう一種類、やはり福島の「天明」を合わせてみた。こちらの地酒は、やや香りが華やかで、ちょっと好みからはずれるか。
しめの蕎麦は、野辺山高原産と山形産のブレンドで、まずは「もり蕎麦」。もちろん旨味たっぷりで、信州の土の香りを感じる。さらに「しゃも南蛮」。軍鶏肉の旨味が汁のだしのなかに溶け出して、蕎麦の甘味との絶妙のバランスを醸している。デザートに注文した「自家製レアチーズケーキ」も秀逸だった。
塙さんご夫妻の接客は、気さくで飾らずにとても心地よい。塙さんは「人と人をつなぐ蕎麦店として、お客様に身体も心も温まって帰ってほしい」と願う。「木鶏」は交通の便がよいとはいえないが、軍鶏と蕎麦と酒を堪能するためにわざわざ訪問する価値が十分にある蕎麦店である。
◇ 木鶏 長野県山形村5511-7 0263-98-2099 月曜定休(祝日の場合は翌日)
蕎麦は同じ実を用いても、それを粉にするときの挽(ひ)き方で、味や香りが違ってくる。粗挽き蕎麦は鮮烈な甘味がダイレクトに伝わってくる。一方、微粉という細かく挽かれた蕎麦粉で打った蕎麦は、深みのある味わいと香りになる。どちらがいいかは好みの問題で、私は両方好きだ。
粗挽きの手打ち蕎麦店のなかでも、限界に挑戦しているのが「胡桃亭」。23メッシュ(1インチ当たりの目の数が23)のふるいでふるった超粗挽き蕎麦粉で、十割手打ち蕎麦を提供している。
通常の手打ち蕎麦の蕎麦粉は50~60メッシュ前後が使用されていることが多いことから、胡桃亭の蕎麦粉は、異常なまでの粗さだということが分かるだろう。蕎麦粉は粗いほど手打ち作業がやりにくいため、一般の蕎麦打ち人では、胡桃亭の蕎麦粉をつなぎなしの十割蕎麦でつなげることができない。そこをご主人の村上秀幸さんは、兄弟子と編み出した特別な打ち方で蕎麦切り(麺)に仕上げている。
村上さんは岐阜、名古屋での粗挽き蕎麦と割烹(かっぽう)料理での修業を経て、故郷の栃木県西那須野町(現在の那須塩原市)に蕎麦店を1991年に開業した。近くの農家から直接、玄蕎麦を取り寄せ、低温倉庫に保存。それを毎日、脱皮機にかけてから電動石臼を用いて超粗挽き粉に製粉し、十割蕎麦として提供している。
蕎麦は製粉したとたんにどんどん風味が失われるので、玄蕎麦の状態で保管して当日使う分だけ製粉することによって、フレッシュな風味を感じられる蕎麦切りを提供することが可能となるのだ。
胡桃亭のこの超粗挽き蕎麦が、無濾過純米生原酒に実によく合う。実際、「秋鹿」「宗玄」「十旭日」「竹鶴」「悦凱陣」「るみ子の酒」「奥播磨」といった無濾過純米生原酒の逸品をそろえており、絶妙なマリアージュを楽しむことができる。なので、蕎麦だけ食べて帰るのはもったいない。クルマを運転して立ち寄ることはお勧めではなく、誰かのクルマに同乗していくか、電車を利用してぜひ蕎麦前を味わいたい。ちなみに胡桃亭は、在来のJR東北本線野崎駅で下車、タクシーで10分の距離にある。
ある日の胡桃亭では、まず「蕎麦がき」を注文。これが名物で、口のなかに入れるとふわっとしたスフレのような食感が心地よく、その後粗挽き蕎麦の突出した甘味が広がってくる。蕎麦がきが口のなかにあるうちに、無濾過純米生原酒を飲んで口のなかで調和させる。お互いの香味を高める相乗効果により、口のなかは天国と化すのだ。
次は、「だし巻き卵」。こちらは蕎麦のだしが卵のなかに染み渡っていて、卵の甘味を上品に支えている。もちろん、日本酒との相性も抜群。そして、蕎麦寿司。いい具合に酢でしめてあり、爽やかな味わいが口のなかを洗ってくれるようである。
そろそろ、蕎麦切りに移る前に、もう一つとっておきの酒肴を注文。それが「天抜き」だ。これは天ぷら蕎麦から蕎麦の麺を抜いたもの。胡桃亭ではかき揚げの天ぷらが蕎麦汁のなかに浮び、衣がその汁を十分吸いこんでいてうまい。
蕎麦店の天ぷらは衣を厚くしていることが多い。エビなどの種の大きさをごまかすためと思っている人もいるようだが、これは違う。天ぷらの衣に蕎麦汁が十分染み込むように配慮した江戸のころからの伝統の仕事である。この汁の旨さと日本酒がよく合うのは言うまでもない。
たいていの蕎麦店では「蕎麦がき」や「天抜き」をお品書きに載せていないことが多い。これは、蕎麦店では当たり前の料理なので、わざわざ表記していないだけ。それで「天抜き」の存在を知らない人も多いが、ぜひ注文してみていただきたい。ただし、昼の混雑時に「蕎麦がき」を注文するには配慮が必要。というのは、作る手間と労力が大変だから。
しめの蕎麦切りは「せいろ蕎麦」にすることが多いが、おなかに余裕があるときには、温かい種物の蕎麦も注文する。胡桃亭の「せいろ蕎麦」は、粗挽き蕎麦の甘味が突出していて、ちょっとざらざらした食感と合わせて、強い存在感がある。温かい種物も深みのある汁と蕎麦の甘味のバランスが絶妙だ。
ほどよい酔い心地のなかに、うまい蕎麦を食べた満足感がわきあっがてくるのが、なんともいえない。店を出た後、しばらくして蕎麦の甘味と汁の香りが喉から立ち戻ってくるのも、さらによい。胡桃亭は那須や日光方面などへの旅の途中にぜひ寄りたい蕎麦店である。
◇ 胡桃亭 栃木県那須塩原市一区町131-18 0287-37-7575 木曜定休
(ふるかわ・よしみ)1948年東京生まれ。東京大学工学部卒。1977年東大大学院工学研究科博士課程単位取得退学。1977年本田技術研究所入社。自動運転システム、2足歩行ロボットなどのプロジェクトリーダーを経て、2002年芝浦工業大学教授。主な著書は「クルマでわかる物理学」(オーム社)、「蕎麦屋酒」(光文社知恵の森文庫)、「世界一旨い日本酒」(光文社知恵の森文庫)。
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