六衛府@yukin_done伊藤博文公は韓国併合の5年前の明治38年11月、韓国を日本の保護国とする「第二次日韓協約」の時点では併合に否定的で保護国化も大韓帝国独立が前提の期限付きの提案であったことを示すメモが当時の通訳官・前間恭作氏により残されており、平成22年12月に遺族が九州大に寄贈している。午後9:57 · 2020年7月28日·Twitter Web App218 リツイートと引用リツイート441 いいねの数
六衛府@yukin_done·23時間返信先: @yukin_doneさんメモはニ点あり、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述、もう一点は初代の韓国統監に外交官を任命する当初の方針を変更し、この下書きの執筆中に、伊藤博文がみずから就任することを決意したと記されています。伊藤本人でないと統監職は務まりそうにないという判断が働いたものと思われます。160173
六衛府@yukin_done·23時間そもそも総理大臣経験者が統監職を望むわけもなく、交渉が難渋する中での大韓帝国側の狡猾さ、高宗の人柄など総合的に判断したものと思われます。当然に伊藤はロシア南下のリスクは承知した上での考えであったはずで、韓国がロシアと天秤に掛けなければ、自分は歴史は変わっていたと考えています。460172
kazu_moriwaki@kazu_moriwaki·19時間返信先: @yukin_doneさん閔妃が不用意な事をしたばかりに、東学党の乱から日清戦争になった訳だし、それから三国干渉が有り、ロシアの南侵策に韓国が組み込まれますね。そして日露戦争です。この2つの戦争は、日本側が韓国独立を支援するものであり、我々には、余りメリットが無い戦だ。ロシア革命で対共産防衛線を得た形だ。411