7月 282019
 

該当作品のネタバレを含みます)

 

以前に当ブログに吉田秋生『海街diary』についての感想を上げており、様々なコメントをいただいたこともあって、あらためて『海街』最終巻に掲載されていた番外編なども含めた感想も書こうかと思いつつもグズグズしているうちに続編というかスピンオフな新作『詩歌川百景』が先日雑誌『flowers』で始まってしまった。そこでさっそく初回を読んでみたのだが、正直なところ、以下の記事でつらつら吐き出させてもらった違和感が残念ながらあまり解消されないどころか、かえってさらにモヤモヤが増してしまった次第である……。

【感想・批評】吉田秋生『海街diary』への違和感ふたたび —不在の脅威、真の元凶—

すでに既読の方はご存じの通り、前作『海街diary』の四姉妹の末妹すずの「弟」であった青年・和樹をはじめ山間の小さな温泉町で暮らす人々の人生模様を淡々と繊細に描いていく……という辺りは『海街』と似通っている。今回の話は和樹が働いている旅館「あづまや」の孫娘・妙を中心に展開していくのだが、そのシチュエーション、妙そして離婚でともに実家の旅館に身を寄せている母親とその旅館の大女将である祖母との関係がまたも「軽薄で頼りない母親」とその「娘や孫娘たちの上に隠然と君臨する厳格な祖母」と「祖母に性格も価値観もおそらく容姿もそっくり、というかまんまコピーで母親に不満を抱き続けるヒロイン」という構図をまんまなぞっており、しかしその描き方や視点、それぞれの扱いにまったく変化も進展も感じられないものだった。もっとも見方を変えれば、それだけ作者にこうした関係とテーマに対する拘りが抜きがたくあるということなのだろうが、私にはやはり以前の上掲の記事のコメントにも書かせてもらったとおり、作者がいまだ自身の母親に対するルサンチマンを引きずっているのではないかと思えてしまう。確かにそれが現に作者にとって創作の原動力の一つになっている以上、それ自体は否定はできないのだが、あまり進歩もないままに同様に繰り返されてしまうと単純にこちらが一読者としてのカタルシスが得られないし、なにより前作品の制作が作者のそうしたルサンチマンからの脱却に寄与していなかったという証明になってしまっているようでもどかしい。

たしかに実際にはああいう未熟さを引きずったまま大人になり母親になってしまう女性は存在するのだろうし、そういう母親に悩まされている娘というのも現実に多いだろう。しかし、私がどうしても釈然としないのは、そうした女性たちをそのように育ててしまった元凶が主に、他ならぬ作中で他の家族からも周囲からも尊敬され実の孫娘たちからも慕われ賛美されている祖母であるという視点が(意図的に?)抜け落ちているところだ。だいたい田舎の老舗の出というただでさえ狭いコミュニティでの視線の中で、厳格で頑なでなまじ有能な親の支配下で育つ環境が当の娘たちにとっていかに重圧であったかは想像に難くない。自分なりに「良かれと思って」したことやその感性を、しかもそれに嬉々として同調する実の我が娘とそろって否定してくるような行為、それに象徴されるような祖母(母親)の姿勢が、むしろ彼女の内面を抑圧しそのまっとうな成熟を阻んだ最大の要因ではないか、と私には思えてならないのだ。これは『海街diary』の姉妹たちの祖母と母親との関係にもそのまま言える。これらの母親たちにとって自分の母親はおのれの「母親」である以前に我が子である自分にとっても「大女将」もしくは「教師」としての存在でしかなく、何を置いても無償の愛と肯定を与えてくれる存在ではなかったのだ。そんな中でかたや母親を崇拝しあるいは依存しイエスマンに徹していたのであろう存在感の薄い父親にもその愛や肯定を感じられない彼女たちが、そういた親たちの代わりに自分を肯定し連れ出してくれるように見える異性との恋愛に靡いてしまうのはむしろ必然の帰結とも言えるのだ。

しかしこの『詩歌川』や『海街』などにおいては、これらの(容易に推測できる)背景には踏み込まず、母親(娘)たちの問題は彼女たち自身の生来の資質、当人の愚かさや弱さ未熟さゆえの自己責任のみに収斂されてしまい、それらはヒロインたちを筆頭に周囲のキャラたちの対応で肯定され補強される。そして、それらは何よりもう一方の当事者であり責任者であるはずの「父親」たちの責任や存在を透明化してしまう。例えば借金を背負った挙げ句に幼い娘たちと妻を捨て不倫相手のキャリアを台無しにし人生を狂わせ早死にさせその後も性懲りも無く再々婚するような父親が周囲からも娘たちからも「優しい人」と呼ばれつづけ、死後も「殴ったり怒鳴ったりしなかった」というだけの事で生さぬ仲の息子からも墓守をしてもらえるのに引き替え、母親の方は法的に問題が無い再婚でも実の娘たちから許しがたい愚挙として非難されつづけ贈り物や差し入れひとつにもさんざん文句を言われ、まず「父親」からの不倫やDVの被害者であるという肝心の事実は顧みられないのである。

あと、女性に対する容姿の大っぴらな評価や言及がヒロイン側のキャラクターたちから「セクハラ」と暗に非難され嫌悪されるのは良いのだが、一方で客のおばちゃん達などが男子に対して「イケメン」と繰り返し囃し立てたり、そんなおばちゃん達の相手を小学生男子にさせたりするのはどうなのか。これらと同じ役回りをさせられているのが性別逆だったらかなり微妙なシチュエーションだと感じるのだが……。あと、いくらセクハラ駄目男とはいえ仕事を首になったことを身内にも言えずにいたたまれない状況の人間を、その真相を把握していながら当人には面と向かってなにも告げずにこやかにあしらっていながら腹の底で軽侮している周囲には、その当人に対しての相応の報いや扱いというよりも、田舎の閉鎖的かつ保守的な社会およびその中心で仕切っている側の人間たち、さらに言ってしまえば女性たちの底意地の悪さにまず不快を感じてしまった。むしろこういう人たちのこういう態度こそがますます当人を追い込み、さらに卑屈に萎縮しそして虚勢を張らざるを得なくなり、果てはそういう都会に出て行ったりあるいは挫折して出戻った人たちが引き籠もったり逆に暴走してしまう元凶になるのでは……と正直思ってしまった。

いい加減くどいようだが、それでも主人公およびヒロイン達の美質や不遇などを「未熟で無能な母親」や「空気の読めない愚鈍なダメ人間」をあえて設定しそれらをもっぱら標的そしてスケープゴート、あるいはいじられ役の道化の役回りをさせ続けることで引き立たせておいて、そしてストーリーの進行上その役割が不要になると雑にフェードアウトさせて終わり、という図式には辟易しかけているし正直なところ腹立たしく不愉快な域になりつつある。そんなに嫌なら読むな、と言われてしまえばそれまでだが、いかんせん確かな画力やテーマの表現力、繊細な演出、心理描写の巧みさなどの優れた点がそれ以上に多々あり、間違いなくふたたび傑作になりうる作品ではあって、またも世間からは好評と絶賛をもって遇され続ける物語になるであろうことは確実であり、だからこそ、この場でこうして愚痴や鬱憤を表しておかずにはいられないのだ。それは、以上にも述べたとおりこうした図式によって成り立つものが「家族やその周囲の人々との絆と愛の物語」として称揚と賞賛のみに支えられて拡がってしまうことは、かえってこうした物語世界とそれに相通じるこの現実世界における病理の真の元凶と構造の歪みの本質というものを体良く覆い隠してしまうことになりかねないからだ。いかにそれが優れて美しく正しく良きものであっても、それがもっぱらこの『詩歌川』や『海街』ようなグレートマザーひとりとその絶大なる影響と支配の下においてその後継者と賛同者のみで展開しそれらの視点と立場でのみ描かれ肯定されるような世界というものが、この私などには、あの『BANANA FISH』や『YASHA』の悪辣な権力者たちが目論む世界とその様式のみならず根底において相似してしまうように思えてならないからだ。

もちろん、今後のこの『詩歌川』のストーリーが進むにつれて、ヒロインの母親側の視点や内面そして祖母の側の苦悩や欠落などにもゆくゆくスポットを当て掘り下げていくような展開にでもなってくれれば、私などのこうしたモヤモヤは雲散霧消し、これまでに書き連ねた駄文などはいっさい無用のものとなるわけだ。そして、この『詩歌川百景』がそうした新たな視点とテーマを描いてくれる物語になってくれることを切に願いつつ見守っていきたい。