梶原一騎 正伝（仮題）
発売間近❗️
今回は特別に第1章の中から、本文を抜粋して紹介します。
※ 鬼の亀澤、仏のカメさん
〈面倒ばかりかけやがるなあ、警察ってとこは。取り調べは愛宕署でやると聞いていたのに。小難しい手続きが終わったと思ったら急遽、本庁に変わったって俺をここまで引っ張ってきやがった‥‥、何ていったっけなあ、愛宕署の。そう、宮地ってデカだ。小狡そうでねちっこい奴だった。自分は刑事ですって偉そうな顔をして次から次と御託を並べやがって。朝早くからもう疲れちまったよ〉
不満そうな朝樹の前にいるのは警視庁生え抜きの刑事だという。四十前後のその刑事は朝樹の心を読み透かしたように笑顔を浮かべながら黙って朝樹の目を見つめている。そこには変な悪気も偏見もない、むしろ好感さえ抱かせる不思議な空気を漂わせていた。
「俺みたいな下っ端と違ってな、鬼の『マル暴』担当の凄い人だ。一度のガサ入れで十三人のヤクザをひとりで引っ張ってきたという叩き上げよ。コワモテの梶原さんも十分に覚悟しておくんだな」
そんな宮地の言葉が本当かウソか分からなくなった。朝樹の心の隙を突くように刑事は口を開いた。肩と前腕の筋肉が異様に盛り上がっている。目配りには一分の隙もない。
〈こりゃ相当な武道家に違いない〉
格闘技については誰よりも通暁していると自負する朝樹は心持ち怯んだ。刑事の言葉は朝樹にとってあまりに意外だった。
「今日は朝早くからご苦労様。警視庁四課の亀沢と言います。今回は愛宕署と本庁の合同捜査となりました。私が担当主任を務めますが、まあ本音を言えばこんな大袈裟な体制でやるような事件じゃないんだけど、高森さんが大物有名人ってことで、保安上の問題も配慮して取り調べはここでやるってことになった次第です。あっ、そうだ。アンタは刑事事件の被疑者ってことになるんで今後、名前は呼びつけにさせてもらいます、『高森朝樹』とね。よろしいですね」
朝樹は当惑した。この十数年、殆どの人間にとって自分は『梶原一騎』だった。唯一の例外は母親の〝や江〟くらいだ。実弟の真土や日佐志も、さらには妻や子供も自分を『梶原一騎』として接してきた。それが自然だった。なのにこの刑事は自分のことを『梶原一騎』ではない素の『高森朝樹』として振る舞っている。刑事と被告人の関係である以上、もちろん当然のことだ。だが単なる呼び方一つの問題ではない。互いに面通しをしてまだ三十分も経たないのに、この刑事は『梶原一騎』という人間をまるで知らないような扱いだった。朝樹は日常的に纏っている目に見えない甲冑を自ら剥ぎ取ったような心地良い身軽さを感じた。
「一応これから一日六時間、事情聴取が続くわけですが、まあそんなに気張ることはねえさ。俺の本職はヤクザ、暴力団相手のケンカ沙汰だから、毎日が切った張ったの連続だ。最近は暴力団と言えば麻薬・覚醒剤絡みも多くてね。これがまたタチが悪い。警察にもヤク専門の連中がいるが、また別に『マトリ』と呼ばれる部署もある。互いのシマを守りながら協力していくっちゅうのは口で言うより簡単じゃねえから、俺なんかそっちの連中の面目を潰さねえように下手に出てばかりよ。これでも人間関係には一番気をつけなくてはならない仕事さ。それに比べれば高森のヤマなんかちっちぇえもんだ。ひと一人殺したわけでもねえ、カタワにしたわけでもねえ。一発や二発殴りました、蹴りましたなんて、普通は説教してサヨナラってもんだ。これも高森じゃねえ、もう一方の名前の有名税だって思うしかねえよな」
話す度に『べらんめい口調』が目立ち始める。朝樹はこの期に気がかりだったことを訊いておこうと思った。先に釘を刺しておこうというヤマっ気もあった。
「そうは言うけど亀沢さん、そんなに簡単な事件だって言うならよ、わざわざこっちに連れて来ないで愛宕署でやればいいんじゃないですか。噂だと俺の逮捕は別件で、本筋は麻薬・覚醒剤だって声もあるぜ。それなら見当違いですよ、既に尿検査も血液検査もやっているし結果がシロなのは明白でしょ」
「何言ってるんだよ高森さん。『さん』じゃねえや、高森よ。俺は下から上がってきた事案を調べるだけさ、アンタとサシでな。ただ俺は四課の人間だから〈マトリ〉なんかとの縁が切れねえってだけのことさ。そんな別件云々なんてただの噂だよ。本庁でやるのはしょうがねえだろうよ、担当チームのボスが俺なんだもん。本庁の俺が毎日毎日愛宕に通うわけにはいかねえだろう」亀沢は当たり前のように答えた。
「それに愛宕署の刑事だが‥‥、警察にも暗黙のルールというものがあってな。所轄と本庁が合同捜査を組む場合、足を使ってネタを探すのが所轄、聴取して検察に送検するのが俺たち本庁の役目だ。あの愛宕の刑事もネタを仕入れて捜査するのが仕事だ。四課と麻薬捜査は一心同体だ。自然とアンタら被疑者に対する態度もキツくなるし、麻薬・覚醒剤の話も出るだろう。そこんとこを分かってやってくれ。宮地は宮地で汗かいてるんだ」
