芸能

2018年03月09日

博士の異常な欲望――『藝人春秋2』の蒐集

たしか2012年の年末、『文化系トークラジオLife』(TBSラジオ)に出演したとき、今年の一冊として、水道橋博士『藝人春秋』(と、安藤礼二『祝祭の書物』)を紹介しました。道化論ばかり読んでいた時期でもあり、タイミング的なことも含め、とても刺激的な読書体験だったので、のちに長い感想をブログに書きました。その感想については、博士さん自身もリアクションしてくれました。

「境界領域に立つ者のドキュメント――水道橋博士『藝人春秋』(文藝春秋)を読んで」
http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/51757877.html

続編となる『藝人春秋2(上)(下)』をずいぶんまえに読みました。博士さん自身、広く書評・感想を求める旨、ネットで発言していたので、今回も書こうと思います。ただ、あまりにも多くの仕掛けがある本書を読み解くのは、たぶん僕の知識と注意力では限界がありそうです。だって、上下巻を貫く「芝浜」の円環構造とか全然気づかなかったよ! 博士さんによる仕掛けの数々は、枡野さんと古泉さんによる『本と雑談ラジオ』でもいろいろ明かされているので、そちらをおすすめします(そして、TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』2018年2月20日回を聴くことをおすすめします)。だからここでは、必ずしも著者自身が意識していない(と思われる)本書の構造について書きたいと思います。本人すら了解していないことを「こうなのだ」と言い募るのが、批評家の詐欺師的性質だ。

僕は前作のテーマを、彼岸(芸能界)と此岸(日常)をつなぐことだと捉えていた。異形な芸能人を語ってきた文章が、障害者の存在に触れながら、最終的に死者(彼岸の住人)に捧げられることで終わる。彼岸と此岸をつなぐ『藝人春秋1』の、その構成がとても見事で感銘を受けた。だとすれば、博士はそのとき、彼岸/此岸の境界に立つ道化的な存在となっている。一方続編となる今作では、その立場を一歩進める。芸能界に対してはより介入的になり、さらにそれは政界にまで及ぶ。異形の者たちが集う彼岸に潜入して、彼らを撃つこと。『藝人春秋2』では、『007』になぞらえながら、スパイとしての自身の状況介入的な立場を明確に打ち出している。

道化からスパイへ。あるいは、道化から探偵へ。

本書において、まず見るべきはこの点だ。では、これはなにを意味するのか。通常読み取られるべきは、問題ある政治家への、そして、それに加担するメディアへの批判姿勢である。橋下徹、石原慎太郎、猪瀬直樹など、ウォッチされるべき公人に対して博士の追及は厳しい。『週刊文春』のメイン記事にすべきとも思える社会的な問題を、竹中労のルポさながらに追っていく。社会や政治に対する状況介入的な態度は、前作にはなかった本書の大きな特徴である。スパイとなった博士は、自らの筆で敵を始末しようとしている。「死ぬのは奴らだ」と。

しかし、そこまで踏まえてなお、スパイであることの真の意味は別のところにあるのではないか、と思える。今年定年を迎えた、学魔こと高山宏は、19世紀末のヴィクトリア朝イギリスについて考えるなかで、コナン・ドイルが作り出した、探偵シャーロック・ホームズにおける蒐集の欲望について論じる(「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」『アリス狩り』)。高山によれば、ホームズもワトスンも、社交界の記録、官界の醜聞、人事関係、事件関係の一切を収集し、索引化し、所有し、捜査の材料とする。ホームズの推理は、これらの断片を独自につなぎ合わせることで、通常の人には見えないものを紡いでいくのだが、そのとき「ホームズは事実そのものの集積に、索引のための材料のコレクションに熱中しているのである」。そこには、世界を文字化し、索引化するというホームズの異常な蒐集の欲望がある。
かれにとっては世界よりも、世界の文字化、索引化の方が魅惑的である。ホームズの索引とワトソンの日記で世界は二重に文字へと平板化され、ホームズの部屋の中へ、アルファベットの秩序の中へ、コナン・ドイルの意識の中へと「所有」される。世界が文字へと標本化されると言ってもよい。

そしてホームズとワトソンの、世界を文字の裡に収集するという感性を、ホームズ作品そのものが見事になぞっていく。推理小説ほど細部(ディティル)が「伏線」として重要なジャンルはないわけだから、それを口実にして、ここでは世紀末文学特有の細部への惑溺趣味は存分にそのはけ口を見出すことができたのである。

僕が言いたいのは、博士は二重スパイだった、ということだ。道化という立場から権力を撃つスパイとなった博士が、人知れず『藝人春秋2』に密輸入したものは、実は、このホームズ的な蒐集の欲望に他ならない。したがって、高山にならってこう言おう。博士は、権力を撃つことを口実に、事実そのものの集積に、索引のための材料のコレクションに、熱中しているのである。目を凝らして、どんな些細な情報も見逃さない。本書において、博士の蒐集や記録の欲望はくりかえし自己確認される。
その夜から、彼はテレビ界の要注意人物として、ボクの観察対象としてスタメン入りした。(上巻p.24)

テレビを見ていてもスルーできない発言は、そのまま心に引っかかり、録画を残し、メモに取る。(上巻・p.42)

自分を含めて、同時代人の年表作りは、ボクの趣味でありライフワークなのだ。(上巻・p.258)

これほどまでにボクが揺るぎなく小倉伝説を語れるのは、草野伝説と同様、伝聞だけでなく、資料にあたり、本人に裏取りをしているからだ。(下巻・p.26)

さて、この項を読みながら読者は不思議に思うだろう。なぜ、ボクが猪瀬直樹について、ここまで事細かに書けるのか?/それは、ボクが幼少の頃から記録魔で、習性のようにメモや日記を残しているからだ。(下巻・p.80)

この章では、ボクが20年に渡って書き続けている日記を軸に、資料や関連項目をピックアップし、日付や放送資料の裏を取りつつ、当時の模様を振り返ろうと思う。(下巻・p.141)

拠り所にする言葉が枯れると、新たな言葉を探して本の海をひとり泳ぎ、潜水した。(下巻・p.322)

一見、社会派ですらある本書の底辺に流れているのは、あらゆる事実を蒐集しようという博士の異常な欲望である。もちろん、政治家を追及するさいの博士の正義感は疑うべくもない。しかし、正義感を発揮するそのさなかでさえ、博士の異常な欲望は作動している。博士が行動を起こすとき、いつかこの現実を文字化して記録することを、あわよくば作品化することを、念頭に置いていなかったか。

考えてみれば、博士はつねにそうだった。博士が欠かさずに記している日記、惚れ込んだ人の年表作り、下調べと裏取りへの執着。明らかに過剰な博士の細やかさは、その異常な蒐集への欲望によって支えられている。壁一面に本のコレクションが並んでいるという博士の仕事部屋の存在は、室内を資料館化し博物館化し標本化する19世紀末の時代精神に通ずる。

そもそも、本書における事細かなエピソードの数々自体、異常な情報蒐集の結果ではないか。高山は、「まずホームズの頭の中には過去の事件が全て記憶されていて、これから自在な引用を織り合わせて新しい事件の織物(テクスト)を構成していく」と論じている。標本化され索引化された事実の断片をサンプリングし全体像を立ち上げること。通常は気づかない事実の重なりに物語を見出す博士一流の「星座」の提示は、細部の観察によって事件の全貌をつかもうとする点で、極めて探偵的な手つきでもある。道化からスパイへ、道化から探偵へ、という転身で露わになったのは、蒐集癖という博士の異常な欲望だ!

『藝人春秋2』の真の主題(テーマ)は、博士が手を変え品を変え事実を蒐集する、ということだ。ショッキングな告発的ルポルタージュさえ、『藝人春秋2』全体の構造からしたらサブテーマとなる。だとすれば、『藝人春秋2』の構造において博士の本当の敵は、橋下徹でも石原慎太郎でも猪瀬直樹でもない。

博士が真に打倒すべきは、大瀧詠一その人だ。

『藝人春秋2』の構造を真におびやかすのは、福生の自宅であらゆる情報を蒐集する大瀧詠一に他ならない。同じ「スペクター」でも、デーブではなく、フィル・スペクターの影響下にある大瀧詠一に。

実際、高田先生に連れられた大瀧詠一宅の蒐集(「コレクション」)は、異常にもほどがある。「ウィスパー・カード」やソノシートを含めた「数万枚はあろうかというEPとLP」、「数万本はあるだろう」ビデオテープ。極めつけは、「録画モード」で動き続けている「無数のビデオデッキと最新鋭の小型8mmデッキ群」。さらに、「日本の地方局くらいなら全部、観れちゃうし、聴ける」くらいのパラボナアンテナ。人並外れた蒐集行為によって支えられている本書は、語り部である博士以上の蒐集家が出現によっておびやかされる。世界中の情報を蒐集する大瀧との対面こそ、本書におけるもっともクリティカル(危機的=批評的)な場面である。

だからこそ博士は、大瀧の情報量に必死に食らいつこうとする。事実を蒐集して創造的につなぎ合わせる、そんな真の探偵は誰か。七変化する探偵の多羅尾伴内(大瀧詠一の変名でもある)は誰か。本書における真の闘争は、その点にあった。少なからぬ人が言っていたように、大瀧詠一の章に読み応えを感じるとすれば、それは、大瀧詠一の章こそが本書の構造的なハイライトだったからだ。余裕たっぷりに相手を迎える大瀧詠一は、「スペクター」の首領にまことにふさわしかった。

本書の構造を明らかにしたとき、スパイはふたたび藝人に戻るだろう。本書を通読してみれば、博士があらゆる情報を蒐集するのは、必ずしも敵を撃つためだけではないことがわかる。独自につなげ、まだ見ぬ景色=星座を提示するためだ。謎かけもダジャレも漫才のボケも、一見無関係な二項をつなげることでおかしさ(滑稽/奇怪)をもたらす。政治批判自体が目的化されているわけではない。蒐集してつなげるという藝人的な身振りが、本書においてはスパイの告発として機能しているのだ。

大瀧との対決は博士が相手を最大限に称えることで閉じられるが、その言葉は、なにより蒐集をめぐる闘争だったことを表している。――すなわち、「あなたが風をあつめたように、思わず笑ってしまう話をボクもあつめます」と。世界を文字化する蒐集の欲望こそが、『藝人春秋2』という言葉の世界を創り上げているのだ。


藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ
水道橋博士
文藝春秋
2017-11-30



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2017年08月28日

Midnight Tour Guide

『真夜中』の杉作J太郎他ゲスト回を観ました。杉作さんを観ていると、いかに自分が姑息な人間かが問われているようで、襟を正される。トータル、とても元気が出る。リリーさんも杉作さんも、確実にある時期の(鬱めいた)自分を救ってくれた人でした。そのことを思い出しました。というか、そのことを忘れていたことに驚愕しました。だから、最近ダメなんだ。『ギョーカイ騒然!』のDVDも久しぶりに観直そう!

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2017年04月13日

プチ鹿島『芸人式新聞の読み方』(幻冬舎)の書評をしました!

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いま売りの『SPA!』(2017.4.11-18)で、プチ鹿島『芸人式新聞の読み方』(幻冬舎)の書評をしています。鋭い時評でもあり読み比べ芸でもあり、面白かったです。書ききれなかったところだと、ゲンダイ師匠、森善朗あたりとかも笑いました。

この本、弱者の立場から一義的な「正しさ」を言い募るのではなく、さまざまな立場の「正しさ」を軽やかに、軽薄に、反復横跳びする感じが、まさに「芸人式」だな、喜劇人的な身体性だな、と。こんなことを思ったのは、直前にたまたま、マルセ太郎『記憶は弱者にあり』(明石書店)を読んでいたからで、こちらは時代的に仕方ないのかもしれないけど、かなり強く戦後民主主義的「正しさ」を打ち出していて(にもかかわらず、天皇制や安保は問わないでいて)、いま読むと、少ししんどい感じがありました。だから、鹿島さんの新刊は、「新聞の読み方」以上に「芸人式」という冠のほうが興味深かったです。きっと、昨今また聞こえる、芸人は権力批判すべきだ的な論調に対する応答も意識していたのではないか。

ちなみに爆笑問題の太田光もラジオで、くだんの茂木健一郎に対する応答・反論のようなことをしていました。その延長で太田は、大統領になったらネタにしやすいから、自分だったらトランプに投票する、ということを言っていて、この痛快な「芸人式」軽薄さに対して、どういう批評言語で向き合うべきか、とか考えてしまいます。痛快だなあ、面白いなあ、と思うだけになおさら。どのように肯定するのか/しないのか。

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2015年09月25日

Hay! Say! JUMP『JUMPing CAR』

Real Soundのジャニーズ連載、今回は、少しまえに出た、Hay! Say JUMP『JUMPing CAR』について。どことなく渋谷系のにおいを感じました。軽やかなスタンスが。でもって、ヤスタカ以降感。まだ、材料不足の直感レベルですが。普通に良いアルバムですが、普通に良いアルバムが連発されるのは、ジャニーズのサウンドプロダクツ、すごいことだと思います。

↓よろしければ。
http://realsound.jp/2015/09/post-4625.html

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2015年09月23日

小津さんへ――『ホロッコレクション』を観て

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渋谷ユーロライブでおこなわれた『ホロッコレクション』に行ってきました。ホロッコさんは「夫婦お笑いコンビ」として、ときどきテレビでも見かけますが、僕自身は実は以前から面識があって、最近こそなかなか行けないのですが、主催されているライブもよく行っています。

ホロッコさんについては、多くの文字数と愛情を費やしたサンキュータツオさんのブログ記事が必読です。
http://39tatsuo.jugem.jp/?eid=1372

「夫婦お笑いコンビ」としてメディアに出演することが多いように思いますが、今回の『ホロッコレクション』は、こまりさんがフーテン者を演じる「小津さん」シリーズが中心になっていました。僕が思うに、ホロッコの本領は、この「小津さん」シリーズに顕著な、不穏かつハートウォーミングな世界観にあると思います。単純な喜怒哀楽にフォルダ分けできない奥行きが、本当に魅力的です。先に「フーテン者」と書きましたが、これは『男はつらいよ』に通じるものかもしれません。『男はつらいよ』はあまり観ていないのですが(数作観たら面白かったので、観たいとは思っている)、いずれにせよ、この不穏かつハートウォーミングな感じは、僕の好みど真ん中なのです。そして、自分にこういう好みが醸成されたことの大きな一因は明確に分かっていて、それは、幼少時に読んだ『ドラえもん』の、そして、もう少しあとに読んだ藤子・F・不二雄先生の異色系短編の影響なのだろうな、と思います(むろん、それだけではなく、つげ義春とかしりあがり寿とかもあるとは思いますが)。ほり太さんは、その「のび太」感のあるネームからも推察されるように、無類の藤子不二雄ファンとして知られています。僕がホロッコのネタが好きなのは、藤子好きということが共通しているのかもしれません。

具体的に。「小津さん」シリーズというのは、藤子先生の言葉を借りれば、「生活ギャグ」に他なりません。「生活ギャグ」とは、ほり太さんの説明を借りれば、「普通の家庭に異質なものが飛び込んでくることで出てくる面白いギャグのお話」(ポッドキャスト『熱量と文字数』2013.9.18配信)です。平凡な一人暮らし大学生のもとに突然「小津さん」という異質な存在が飛び込んでくる、という設定において、「小津さん」シリーズは「生活ギャグ」なのです。そして、さらに重要なことは、「小津さん」シリーズは、この「生活ギャグ」システムを置くことで、読み切りギャグ漫画のように毎回異なる話を展開することができる、ということです。それはまさに、アニメ/漫画の『ドラえもん』が終わらない日常を繰り返すことで、半永久的に継続されるように。僕は毎月第三土曜日、ホロッコさん主催の『フフフのフー』に行くことで、「小津さん」の世界に行って、「小津さん」に会いに行くことができるのだ。

自分の話になりますが、今年からフルタイムで働きはじめました。土曜日も夜まで仕事になって、なかなか『フフフのフー』に行く機会が少なくなってしまいました。音楽とかお笑いとか、いわゆる芸能というのは大事なもので、一般的な社会とは違う世界の空気を吸うことが、いかに翌日への活力になることか。ほり太さん演じる「大学生」も、「小津さん」に触れることで、きっと翌日への活力を得ていたことでしょう。フルタイムで働けば働くほど、クラブにも行きたくなるし、お笑いライブにも行きたくなるのです。今年度になってから、どれだけ『フフフのフー』に行って、「小津さん」に会いたかったことか。僕にとって、『ホロッコレクション』というのは、そういう思いのなかで観に行ったライブでした。当初、ほり太さんからお誘いいただいて日程を確認したとき、仕事と重なっていました。「また仕事と重なっちゃったよ」と思っていたら、それは実は僕の勘違いでした。「公演2日目の21日なら、午前中で仕事を終わらせて観に行けそうだぞ!」ということで、予約しました。実際には、仕事が思ったより延びて、お花を買っていたら、少し遅刻してしまいました。朝からご飯を食べる余裕もなくて、仕事終わりで体力的にもクタクタだし、精神的にも少しだけ疲れていました。でも、そんな状態だったからこそ、遅れて飛び込んだステージに「小津さん」の世界が繰り広げられていたのを観たら、それだけで、なんかとてつもない安心感にやられて、涙ぐんでしまいました。「小津さん」のユーモア、不穏さ、のんきさ。職場ではありえない「異質なもの」に触れることで、本当に元気が湧いてきます。

今回、「小津さん」が中心になっているのはたしかなのですが、外部の作家陣もネタを書いています。「小津さん」の親戚が登場人物となっている大麻ネタなど、最高に不穏で、とても笑いました。同時に、これまで隠されていた「小津さん」の人物像が、少しずつ立体になっていきます。とくに、「小津さん」ファンなら誰もが気になっていた奥さんの存在が、今回のライブではクローズアップされます。『ホロッコレクション』のハイライトは、やはりラストの「さようなら、小津さん」でしょう。細かい展開は伏せますが、「さようなら、小津さん」は、まるで「さようなら、ドラえもん」のように、「小津さん」の成長らしきものが描かれます。しかし、ここにはジレンマがある。のび太が成長してしまったらドラえもんが「さようなら」をせざるを得ないように、「小津さん」が成長してしまったら「小津さん」も「さようなら」をせざるを得なくなる。「小津さん」は「異質なもの」であるがゆえに、「大学生」の彼の日常を彩りのあるものにするわけで、「小津さん」が成長してまともになってしまったら、それは単なる日常の延長です。というか、まともになってしまった「小津さん」は、奥さんに追い出される理由がなくなるので、自分の家に帰ってしまいます。今回明かされたのは、「小津さん」シリーズの、そのような構造でした。つまり、「小津さん」は、奥さんに追い出されるほどの「異質なもの」であるがゆえに、「大学生」の日常を、そして、他ならぬ俺(この、矢野利裕としての俺だよ!)の日常を彩りのあるものにするのです。したがって、「さようなら、小津さん」は、あの「大学生」だけの問題ではありません。観客としての僕らの日常に関わる問題です。あのとき、他ならぬ僕らが、「小津さん」の幸せと観客としての自分の幸せを天秤にかけていたのです。「小津さん」に会えなくなったら、俺はどうやって明日からを乗り切れば良いのだ。でも、「小津さん」が幸せであることが、俺の幸せではないのか。とは言え、でも……。

はたして結末は、あのようになりました。終始、笑いました。同時に、泣きそうになりました。泣きそうになった、という感想がほり太さんとこまりさんにとって嬉しい感想かはわかりませんが、自分の現実の生活とコントの展開が重なる地点で、僕は笑い泣きをしました。ライブが終わって、客電が点くと、僕以上に思いきり涙を流している女性がいました。同じような気持ちだったのかもしれません。終了後、楽屋にあいさつに行って、「なんか泣きそうになりました」ということだけ伝えたのですが、上手く説明できなかったように思います。というか、ややこしい説明をするような場ではなかったので、率直な感想だけを伝えました。ややこしいことについては、批評文として、ここに書いておきます。意味不明かもしれませんが、そういうことなのです。また、ゆっくりごはんでも食べたいです。

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2015年05月20日

マキタさんが出演した『課外授業ようこそ先輩』(NHK)が良かった。

またもやマキタさんの話題ですが、『課外授業ようこそ先輩』(NHK)で、マキタスポーツさんが母校の中学校に行った回がとても良かったです。

マキタスポーツさんという芸人を知ったのは、TBSラジオ『キラキラ』がきっかけで、その後、自主ポッドキャスト番組『東京ポッド許可局』を聴くようになりました。同番組は、現在、TBSラジオに移って継続していますが、僕自身はずっとファンとして聴いています。というか、けっこう心の支えです。許可局を聴き始めるのと同時期くらいから、僕自身もライター活動を少しずつするようになります。そんなこともあり、東京ポッド許可局メンバーであるサンキュータツオさんと知り合い、その後、マキタさんとは、仕事を通じて知り合うようになりました。なにが言いたいかというと、面識があることを前提に書いている、ということです。

ラジオや書籍などでマキタさんの話を聞いていると、ときどき驚くくらい自分とシンクロしていると思う瞬間があります。というか、僕のほうがすっかり影響を受けているのかもしれません。もちろん、全部が全部というわけではないのですが(そんな人がいたら気持ち悪いし、おもしろくもない)、僕がこれまであまり共有できなかった部分と響くことが多くて、新鮮な刺激をもたらしてくれます。それで、それはなにかと、ざっくり僕の感覚で言うと、「教育へのまなざし」とでも言いましょうか。一連のJポップ分析に顕著ですが、体系化して再現して、教育可能性を開く。そして、そのうえでもう一度、マジックやオリジナリティを探る。さらに、それを体系化する……。こういう態度とその手続きの往復に、なんかすごくシンパシーを感じるんですよね。

『ようこそ先輩』では、母校の中学校で、生徒たちと一緒に校歌のアレンジをしていました。ちらっと映った画面から察するに、「Jポップの法則」も伝授したのかもしれません。結果的に出来上がった曲は、紋切りの歌詞と言われるかもしれないし、歌もメロディも稚拙だったかもしれません。でも、すごく魔法がかかっていて、素敵でした。なんか、僕もウルだし、泣けました。重要なことは、これはポピュリズムではない、ということです。これはポピュリズム的な「泣ける」ではない、断じて。力を合わせてがんばったね、なんていうものではない、と思うのだ。

ざっくり言うと、教育とは社会的な秩序や規範を身につけさせるものだ。一方、お笑い含め芸能は、社会的な秩序や規範を転覆し、変革させるものだ、文化人類学的に。僕は、大事なことはその中間にあると思っている。たぶんマキタさんもその中間が大事だと思っている。プチ鹿島さんは判断保留だけど、学者であり芸人でもあるサンキュータツオさんも、おそらく中間領域を意識している。

芸能にも社会的な規範との接点があるし、教育にも芸能的な部分がある。鈴木謙介さんは、自分の講義を音楽のライブだと見立てる。僕は、授業での振舞いを、ラジオDJや舞台演劇から仕込む。教壇は舞台なのだ。重要なことは、規範を教え込むことではない。規範を芸能としてアレンジすることだ。それは、マキタさんが校歌をアレンジさせようとすることに通ずる。つまらない曲かもしれないが、校歌は歌おう。それはルールだから。でも、みんなで同じように歌うのは退屈だ。だから、アレンジをするのだ。そこに自分を巻き込んで、あわよくば自分もアレンジされてしまうのだ。なにかを学んで変化する/成長する、とは、きっとそういうことなのだと思う。なんか、いろいろなことを考えながら、自分に引き付けて観ていました。たぶんあの番組の生徒たちも、マキタさんも、いろいろなことを考えながら、いろいろな変化が起こりながら、そうやって歌っていたのだろうなあ、と思えて、本当に良かったです。

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2014年04月04日

『いいとも!』最終回が面白かった!

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『いいとも!』の最終回は、笑いあり感動ありでとても良かったです。普段、とくに熱心に観ているわけではないのに最終回だけ騒ぐというのもはしたない気はしますが、すいません、騒がせて欲しい。というのは、もちろん、ダウンタウンととんねるずと爆笑問題が一堂に会したからです。不仲説のような業界裏話も、東西のお笑い文化論も、興味はなくもないし、数年前から調べたりもしているのだけど、そういうのは他のかたたちにまかせて、とりあえず感想を。ちなみに僕は、とんねるずは幼稚園から小学校の低学年あたりによく見ていて、高学年から中学校になると、ダウンタウンが好きになるのが尖っている、みたいな雰囲気があって(もちろん、このときナイナイが大活躍もしている)、中学校卒業あたりで、知的な爆笑問題に一気にハマって、それ以来、現在まで爆笑問題のファンという感じです。

まあ、昔、深夜のお下劣な番組でナイナイがダウンタウンにいびられていたのを見た記憶がある身からすると、おととしくらいに『アカン警察』で、ナイナイとダウンタウンの共演を見たときも、そうとう興奮したわけですが、今回はそれ以上に興奮しました。ダウンタウンととんねるずに関しては、松ちゃんがよくとんねるずをネタにしていたり、ラジオの『放送室』でも、とんねるずとの関係について話していたことがあるので、とは言え、雪溶けは近いかなと思っていましたが、やはり乱入したときは「すごい!」と思いました。吉本以降の(?)練られた構成の番組にすっかり慣れていたので、このハプニング性には、心底心が躍りました。しかも、なんと言っても、とんねるずのふたりの背がデカい! ノリさんもデカい! トークスキルがどうとか以前に、この存在感だけで一気に気圧配置が変わった感じがしました。これは惚れ惚れする。

で、「まあ、とんねるずはありうるよな。でも、爆笑問題はさすがにないよな」とか思っていたら、今度は爆笑問題が出てきた! ラジオ『爆笑問題の日曜サンデー』で、浅草キッドの水道橋博士が、「ダウンタウンDXにオファーされたらどうする?」って言っただけで、変な緊張感を感じてしまった、あの爆笑問題がダウンタウンと一緒にいる! もう、この先ずっと、この記憶だけでやっていけるような気がしました。松ちゃんが、乱入した太田を指さしてあきれ笑いした、あの瞬間が、とても嬉しかったなあ。

で、やっぱり僕は爆笑問題のけっこうなファンなのですが、あらためて思ったのは、太田と田中のポップなコメディアンっぷりが素晴らしい、ということ。一方には、突っ立っていて、しかし、切れ味鋭く笑いを取る不良のようなダウンタウンがいて、もう一方には、存在感がめちゃくちゃあるスーツ姿の巨人たるとんねるずがいて、そのどちらも貫禄がある。そして、そのあいだをちょこまかと動き回る、鮮やかな青とピンクの二人組・爆笑問題が、本当にコメディアンとして良かったです。いやあ、本当に笑いながらも感動しました。途中で、ぬらぬらと舞台と客席を越境するノリさんの怪物っぷりもすごかったですね。柳沢慎吾の堂々たる姿も素晴らしい。芸能人というのはすごいな、と、しみじみ思って観ていました。

後半のスピーチの連続も、それぞれの個性が発揮されるかたちになっていて良かったです。バナナマンと劇団ひとり、柳原可南子にはおおいに笑いました。中居くんの言葉も、すごく良かったです。ただし、少しだけ愚痴を言うと、例によってツイッターからくだらない意見が、RTされたりしながら散見されて、まあ、「後半のスピーチが退屈だ」「生前葬のようだ」くらいの感想なら、視聴者のつぶやきとしては良いとしても、それが勢い「こういうのタモさんは絶対に嫌いでしょ」とかになると、ちょっと待て、と思う。一視聴者が、いったいタモリのなにを知っているんだ!、と。タモリを擁護して番組を批判するあまり、結局ただの軽薄なクレーマーみたいになっちゃうのはなんなんでしょう。実際、爆笑問題のラジオで言われていたところによると、タモリは「スピーチだけでも番組になっちゃうんだねえ」と喜んでいたとのこと。ほれ見たことか、と思う。ひるがえって、謎の、あさはかなタモリ幻想を疑わなくなるのかしら。テレビのスキマさんの『タモリ学』は早く読まなくては。

構成の行き届いていない、馴れ合いの番組を「フジテレビ的」として、快く思わない感想やネットの記事もいくつか目にしたけど、単純に僕は新鮮に楽しめました。こういうワクワクすることが起こるなら、テレビも観ちゃうよなあ、というくらい思いました。ただ、これは賛否あるのだろうというのは理解できる気もします。まあ、とにかくおおいに笑って、おおいに感動しました。

※ちなみに、「キーマンは石橋貴明」の記事はこれのよう。
http://news.livedoor.com/article/detail/8666677/

2013年04月12日

『ダイノジ大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』の試みを全面的に支持する

ふと読んだこの記事が、自分がいま考えていることと真っ向から対立していたので、自分なりに整理をつけたい。

井上智公「「笑いなき芸人ラジオ」という前代未聞の問題作『ダイノジ大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』」(『日刊サイゾー』2013.4.12)

実際に知り合った人にはずいぶんひいきになる傾向が強い僕のこと、大谷ノブ彦さんとはいま一緒にイベント計画中ということもあり、頼まれたわけでもないのに擁護したい気持ちに過剰に駆られていることもたしかでしょう。しかし、それを差し引いても、この記事と僕の考えは対立している。大谷さんのANN第1回は、とても良かった。第2回は録音してまだ聴けていないが、とても楽しみにしている。

(以下、敬称略)

端的に言えば、この記事においては、「笑い」の範囲があまりにも狭い。まあ、好みと思想は人それぞれなので、狭義の「笑い」にこだわる姿勢が大事なときだって、もちろんあるだろう。ただ、だとすれば、「笑い」の範囲を拡張しようとしている大谷のラジオ(僕はそう解釈している)への批判としては、的が外れていると感じる。記事には、「とことんまで笑いにこだわり続ける姿勢がなければ、芸人としてラジオをやる意味はないのではないか」と書かれているが、僕が第1回放送で受けた感銘は、「とことんまで笑いにこだわり続ける姿勢」の結果として、あの自分語りのスタイルが選ばれた、という点にこそあるのだ。記事では、芸人なら音楽評論をするにしても「芸人ならではの切り口と言葉で笑いに昇華」しろ、という批判があるが、ここで言う「芸人ならではの切り口と言葉」とはいったいなんだろう。すっかりお約束化されたボケとツッコミのことだろうか。「やらしい話になっちゃいますけどね」とか「ハードル上がった」とか、その手の形式美のことだろうか。いや、おそらく違うのだろう。記事では、「世の中を冷たく笑う姿勢」を指して、「笑いとは本来そういうものである」と書いている。また、次のようなことも。

ビートたけしが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といって愛されたのは、それが前向きな言葉だからではなく、むしろ親や教師が絶対に言わないはずの、反社会的でありながら世の中の真実を射抜く言葉であったからだ。そしてたけしがそうやって真実=毒を吐くことで、世間に「本当のことを言ってもいいんだ」という自由な空気が広がっていく。笑いというのはそうやって逆説的に人の気持ちを動かして世の中の風通しを良くする力を間違いなく持っていて、それは単にポジティブな言葉でポジティブな世界を作ろうとするよりもはるかに説得力がある。

まあ、言いたいことはわかりますよ。親や学校が言いそうなことをお笑い芸人が言ってどうする、というロジック。僕だって、中身のない「ポジティブな言葉」は基本的に警戒するし、伊集院光の言葉に救われた気がしたひとりだ。でも、「ポジティブな言葉」に対して条件反射的に噛みつくのではなく、もう少し文脈を見たほうが良い。文脈とはなにか。

ラジオでも言及していたが、大谷さんはUSTで『wowowぷらすと』という番組をやっている。これもわりと、いわゆる「お笑い」と違って、ときには「笑い」とは縁遠いマニアックな、すなわち「熱量」をもったことが話されている。大谷さんとともにレギュラーをやっているのは、マキタスポーツである(※マキタさんとも、うっかり知り合ってしまっているがために、自分の文章から変な身内びいき臭が漂ってしまう可能性がして(「さん」付けなのが、すでに)、とてもいやなのだけど、別に僕ごときがどうこう言ったところで利害関係などあるはずもないので、ご容赦くださいませ)。マキタの著書『一億総ツッコミ時代』(星海社新書)は、「ボケ」をめぐる議論である。マキタの現状認識は次のようなものである。

日常がバラエティ番組化し、笑いがツールとして気軽に使われるようになった日本。多くの人がマスコミ的な視点を持つようになった日本。そんな「ツッコミ人間」が多く出現するようになったこの国の気圧配置を私は「ツッコミ高ボケ低」と呼んでいます。

ビートたけしがANNを始めたときのことは、僕はリアルタイムで知らないが、記事で言われるように、おそらく「世間に「本当のことを言ってもいいんだ」という自由な空気が広がっていく」ような衝撃や「逆説的に人の気持ちを動かして世の中の風通しを良くする力」があったのだろう。しかし、そういう機能的な面を言えば、大谷の番組も同様だったはずである。第1回の放送中に送られてきたメールや、その後のツイッターの感想を見れば、それは確認できる。マキタが言うには「ツッコミ高ボケ低」の現代において、なにかに「夢中」になることはリスクをはらんでいる。

ただ、「夢中」をそのまま外に出してしまうと、すごく傷つきやすいというか、他人に足を引っぱられたり、バカにされたりすることがあります。何かに夢中になっている人は、えてして関心のない他者から見ると滑稽に見えるからです。

「夢中になれるものを見つけてほしい」というメッセージを、条件反射的に、押しつけがましい「ポジティブな言葉」と片付けるのはフェアではない。「夢中」になっていることを表明できない息苦しさを感じている者にとって、大谷のANNは、まさに「世間に「本当のことを言ってもいいんだ」という自由な空気が広がっていく」ように受け取られていたはずだ。だからこそ、番組中にサム・クックのライヴが選曲されていたではないか。しかも解説付きで。「ポジティブな言葉」にノれないのは勝手だが、そういう文脈を見ないでロジックを組み立てるのはフェアではない。僕だって、カウンターカルチャーに落とし込みすぎる音楽解説はどちらかと言えば好みではないが、そんなのは小さな問題だ。番組の決意表明と音楽のメッセージ性が重なったサム・クック「It's All Right」は、まぎれもなく第1回放送のハイライトだった。『一億総ツッコミ時代』の議論をもう少し。

何かに夢中になっている人は、ツッコミを入れられる側、つまり「ボケ」なんです。

さっきも書いたが、僕の解釈では、大谷やマキタなどは、「笑い」の範囲を拡張しようと奮闘されているように思う。いや、記事で言う「本来」の笑いということで言えば、現在、「笑い」とされているもののほうが、むしろ歴史的に言えば狭すぎるのであって、もう少し多様性を確保しようとしているのではないか。その意味で言えば、大谷は、マキタ的な意味で「ボケ」ている。「夢中」という仕方で「ボケ」ている。放送中、「批判でもいいから意見をくれ」「2ちゃんねるもチェックする」と言う大谷は、明らかに、「嘲笑」も「笑い」の要素として念頭に置いている。おそらく、「芸人風情が音楽のなにを知っとるんじゃ」といった「嘲笑」のような批判も引き受けたうえで、それでも「夢中」なものを語るという「ボケ」っぷりを、ラジオで見せているのではないか。だから、なにより大谷自身が、この批判記事を、「ボケ」に対する「ツッコミ」の一要素として引き取る可能性がある。爆笑問題の太田光が太田総理をやっていたとき、「芸人のくせに政治を語るな」と批判されたとよくラジオで語っていた。水道橋博士は、「いまは、芸人が大真面目に政治を語ることのほうが可笑しいのだ」と言って擁護していた記憶がある。似ている話だと思う。音楽評論家が音楽評論を語るのではない。芸人がお茶らけるのでもない。芸人が大真面目に、不相応に、音楽評論をしているのが可笑しいのだ。だから僕は、「とことんまで笑いにこだわり続ける姿勢」として、あの放送を聴いて、感銘を受けた。そして、それは圧倒的に「自由な空気が広がっていく」光景ではないか。せっかく、他でもないお笑い芸人のダイノジ大谷が、ラジオというメディアを手にして、ゲラゲラ笑うだけではないエンターテイメントのありかたを模索しようという時期に、あんたが「人の気持ちを動かして世の中の風通しを良くする力」を食い止めようとして、どうするのだ。お笑い芸人は、ゲラゲラ笑いを取ることを考えろ、って、これめちゃくちゃ「風通し」悪いよ! いわんや、他ならぬ「親や教師」がお笑い用語を言いかねない現代にあって、である。

ゲラゲラ笑うことのみが「笑い」の機能だというハードコアな思想の持ち主なら、それはそれでいいでしょう。そのハードコアな立場から生まれることも絶対あると思います。ただ、その「笑い」の範囲の取り方は僕からすれば狭すぎるし、歴史的に見ても狭すぎる。もう少し、「笑い」の「風通し」を良くしてもいいのではないか。一方、「笑い」を「親や教師が絶対に言わないはずの、反社会的でありながら世の中の真実を射抜く言葉」などとするならば(「真実」という言葉のナイーブさは措く)、大谷が、「ツッコミ高ボケ低」の時代に「夢中」という武器を掲げたことの「反社会」性を見なければフェアではない。これは印象論になってしまうけど、00年代の後半、記事が「笑いとは本来そういうものである」とするところの「世の中を冷たく笑う姿勢」が、たしかに飽和状態になって面白くなくなった時期があったと、個人的には思っている。だから、僕の感覚からすれば、いま現在ラジオで「世の中を冷たく笑う姿勢」を示して、どのくらい面白かったかはちょっと疑問ではある。まあ、これは証明しようのない、余計なことですが。

ここ数年、コミックソングとしてヒップホップを捉え直す、とか、漫才と評論の共通性、とか、お笑いの地平でさまざまな文化を見るモードに自分が入っているので、今回の記事は、自分との対立点がやけに気になってしまった。なんたって、いまの僕は、むしろ評論はいちばんお笑いと相性が良いのではないか、という東京ポッド許可局以降のパラダイムにいるので。まあでも、ただの難癖ではなく、議論を喚起させるほど主張のある記事は良い記事なのではないでしょうか。この人のブログも少し読んだけど、テレビとラジオの網羅性がすごくて、それこそ「熱量」のあるお笑いファンなのでしょう。テレビを見る習慣が昔からない僕などは、知識量では歯が立たないと思う。しかし、考え方は真っ向から対立していた。僕は『ダイノジ大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』の試みを全面的に支持する。



ANN番組関係者が見る可能性もおおいにあると思いますが、自分なりの議論の整理なので気にしないでいただけると……。勝手な鼻息の荒さで失礼します。

【4月13日追記】
「真っ向から対立する」と言いつつ、考え方の根本はむしろ似ているのか。つまり、僕は、感動屋になった島田紳助なんかは冷ややかに見ていたわけだけど、記事の書き手には、大谷さんのANNがそういう映り方をしたということになるのか。そうすると、対置されるのは明石家さんまになるわけで、晩年の紳助とさんまの二項対立アングルというのは、それは興味深かったものだ。吉田豪さんがしばしば言っていた。ここで面倒なのは、僕がさんまスタンスと思われがちなお笑いハードコア思想自体にもあまりくみしない、ということなのよね。僕は基本的に、太田光主義者なのだ。で、そうなると、話はすでに、ジャンルとしてのお笑いの領域をおおいに飛び出していく。こうなるともう自分の思弁に陥るので、この場にふさわしくなくなりますね。くり返しますが、議論を喚起させる主張を持ったサイゾー記事は、トータル良かったかと。もう一回、書き手自身の枠組みを問い直せないか、とは思ってしまいましたけどね。それはきっと難癖になってしまうでしょう。問題提起の記事としては妥当なラインか。

toshihirock_n_roll at 22:17|Permalink

2013年02月16日

柳家小春『小春』の伝統性/現代性

DSC_0303年が明けてすぐくらいに、西荻窪駅北口の古本屋・なずな屋に入ったら、とてもかっこいい小唄が流れていました。「かっこいい」を具体的に言うと、まずは三味線のスウィング感がすごい。そして、太鼓のビート感も凄まじい。マスタリングもきれいに仕上がっていて、「これが昔の発掘音源だったら(再発見という意味で)レアグルーヴっぷり半端ないぞ! いや、新譜なら新譜で素晴らしい!」と思って、店のかたに尋ねてみたら、柳家小春『小春』というCDで、このあいだ発売されたばかりとのことでした。しかも店のかたによれば、円盤で自主制作されたものである(!)、と。杉並区に住んでいたときは円盤にもときどき行っていて、インディーの動向もそれとなく追っていたのですが最近はめっきりです。その知らないあいだに、こんな素晴らしい作品が出来上がっていたとは。すぐ円盤に行って購入しました。つい先日おこなわれたレコ発では、テニスコーツなども対バンで出演されていたらしく、これは惜しいことをしました。さて、そんな柳家小春ですが、彼女は柳家紫朝のもとで新内や端唄を学んだ芸人で、数年前から円盤などのライブスペースなどにも活動の場を広げているようです。『小春』は初めての音源で、クレジットを確認したら、マスタリングにはHOSEの宇波拓(!)が、サポートの打楽器にはなんと久下恵生(!)が迎えられていました。江戸時代以来、百年以上歌い継がれてきた唄の数々に、宇波と久下によって現代的なアレンジと解釈を加えられた作品ということです。伝統性と現代性の共存。『小春』の魅力は、とりあえずこの一語に尽きる。尽きる、のだが、自分自身の感動と整合性がとれないのでもう少し言葉を費やしたいと思います。

『小春』には「梅は咲いたか」「法界節」「春はうれしや」など、江戸時代から歌い継がれる端唄がおさめられており、アルバム収録曲はいずれも日本の伝統芸能のなかに息づいています。もちろんカヴァーと言うよりは、歌舞伎や古典落語に類するものです。端唄や落語といった伝統芸能の世界では、ともすればミュージシャンやアーティストに求められがちな歌い手の個性が、基本的に不問にされます。柳家小春は、「柳家」の亭号を冠していますが、本名・磯野曜子が柳家小春を名乗ったとき、柳家小春は磯野曜子としての自分を捨てて、伝統芸能の世界に生きなくてはならないのです。兵藤裕己によれば、「○○亭、○○家、○○軒、○○斎といった芸人の亭号とは、ようするに血縁や地縁をはなれた者たちの家なのだ」(『〈声〉の国民国家――浪花節が創る日本近代』講談社学術文庫)。伝統芸能に生きる者は、まずもってその伝統を受け継がなければなりません。芸人は、その身を空っぽにして、祝祭空間におけるシャーマンのように人々の媒介物となり、遠い過去を現前させます。芸人とはそういう存在です。思えば、もしかしたら、小春の師匠の師匠にあたる八代目・桂文楽がそうだったのかもしれません。立川談志は、遠い過去である江戸の息吹を〈いま・ここ〉に現前させることを、「江戸の風を吹かせる」と呼んでいましたが、同じ演目は1秒たりともずらさない、強迫的とも言える完璧主義者の文楽こそ、「江戸の風」を吹かす筆頭だったと言います(『談志 最後の落語論』梧桐書房)。文楽が吹かせた「江戸の風」を、文楽の弟子である柳家紫朝を経由して、紫朝の弟子である柳家小春が2013年の〈いま・ここ〉に吹かす。同時に、その「江戸の風」はすでに、未来に継承されてふたたび吹かれることを待っている――これが、「血縁や地縁をはなれた者たち」による伝統の継承のありかたです。「血縁や地縁をはなれ」て、その身を空っぽにしたときに、芸人は異なる時空間を漂い、伝統芸能を現前させることができるのです。『小春』を聴くと、遠い江戸時代が〈いま・ここ〉にやってくるようです。

もうひとつ。『小春』という作品を聴くと、これをヒップホップに接続したい欲望に駆られます。というのも、最後の曲である「大津絵 両国」――これこそ柳家紫朝の十八番だったというではないか!――が、実にヒップホップ的です。実際、小春自身ライナーノーツの自作解説で、「大津絵 両国」について「ラップみたいです」と述べています。むろん、伝統的な語り芸をラップに見立てる安易な言説はしばしば目にします。立川談志も柳家金語楼の「寿限無」について、「いまでいうラップに近い」と言っていたりします(『談志絶唱 昭和の歌謡曲』大和書房)。なるほど「大津絵 両国」の歌唱法は、ラップのようです。ただ、僕の印象からすると、「大津絵 両国」のヒップホップ性はむしろバックのサウンドのほうにこそあります。「大津絵 両国」においては、小春のミニマルな三味線と久下恵生のタイトな太鼓が、まるで昨今のサウスヒップホップのように楽曲を構成しています。とりわけ久下の太鼓は、ALTZの曲のごとく、現代的なダンスビートとして聞こえます。鳴っている端唄は江戸時代から変わらないとしても、聴き手は現代を生きています。もちろん、演者も現代を生きています。はたして三味線を弾く小春の脳裏には、その後、自分で書くことになる「ラップみたいです」という言葉が回帰してはいなかっただろうか。その耳には、師匠である紫朝の唄とともに、ヒップホップのサウンドが少しでも鳴ってはいなかっただろうか。伝統性とともに挿し込まれる現代性。『小春』の「大津絵 両国」は本当にかっこいいです。また、楽曲の構成に加えて、ジャンル自体の欲望という水準でも『小春』とヒップホップは並列されえます。すなわち、ヒップホップにおける引用・サンプリングの欲望は、「江戸の風」を〈いま・ここ〉に現前させようとする落語の欲望によく似ています。端唄や落語といった伝統芸能とヒップホップが共通するのは、過去を〈いま・ここ〉に現前(レペゼン)させるという点です。そして、その〈いま・ここ〉でなされた表現は、やはり未来で呼び起されることを待っている。このように伝統芸能とヒップホップは、異なる時間性を多層的に抱えています。原雅明は、おもにダンスミュージックについて「多様な形態で再生されていく可能性を持ち続けるだろう」(『音楽から解き放たれるために――21世紀のサウンド・リサイクル』フィルムアート社)と述べていましたが、この言葉は端唄や落語にも当てはまるように思います。ヒップホップの、こういう記憶や時間の折り重なりに感銘を受けた自分としては、『小春』のような作品が現在に、しかも円盤周辺のシーンから出てきたことは素晴らしいことだと思いました。あと、歌詞カード(?)が手ぬぐいなのも素晴らしい。

そう、こいつはまさに生きた文化 瞬く瞬間に全て循環
まるで活火山 今にも噴火 始めようぜカウントダウン3‐2‐1
――ZEEBRA「ONE HIPHOP」


toshihirock_n_roll at 14:56|Permalink

2013年01月16日

日本芸能の水脈②(戦後編)

やはり語り落としていることはたいへん多いが、音楽もかかわる僕の見た景色として。これはこれでユニークな芸能史の一部になったのではないかと思いたい。



「戦後編」とはいえ、もちろん戦前と戦後をむやみに切断してはいけない。大正以降のモダンな文化が1930年代後半の軍国主義によって一掃された、という紋切りの物語は、やはりぐらもくらぶなどの戦前ジャズシリーズを聴けば、すぐさま修正を迫られるだろうし、むしろ軍歌こそは、軍楽隊だったベニー・グッドマンからも見ることができるように、スウィンギンな演奏が勇壮に鳴っていたりする。また、戦後日本で芸能にたずさわる人々は、戦中に子ども時代を過ごしている。のちにアメリカ軍として日本に駐在するジャニー喜多川は、日系人としてアメリカで収容されることになり、その後、兄妹とともに人質交換として和歌山に渡ったと言われている。和歌山では、児玉誉士夫と並んで戦後最大のフィクサーと呼ばれる大谷貴義のもとで世話になったらしいが、ジャニーの姉のメリー喜多川は当時、大阪松竹歌劇団に入団していた。現在まで続くメリーのマネジメント力は、この頃から発揮されていて、メリーは積極的に京マチ子の世話をして気に入られていた。一方、その周辺をうろちょろしていたジャニーは、終戦直後、アメリカで美空ひばりや笠置シヅ子などのステージに関わるようになって、ショービジネスに傾倒していく。その後、来日してジャニーズ事務所を設立する経緯については、拙共著『ジャニ研! ジャニーズ文化論』を参照されたい。和歌山に日系人が渡っていたとき、日本にいた子どもたちは軽井沢のほうへ疎開していたが、そのなかには永六輔がいた。軽井沢には日本在住の外国人が集められており、その外国人たちを仕切っていたのが、べらんめえ口調の「意地悪ジョッキー」でおなじみ、ロイ・ジェームスである。戦後、永とロイは一緒に草野球チームを組んでいたようで、ポジションは、永がキャッチャーでファーストがロイ、サードには安部譲二がいた。ジャニーズがもともとはジャニーズ少年野球団という野球チームだったことはそれなりに知られているが、戦後の芸能界は、草野球をすることで交流を深めるような慣習があったのだろうか。ロイを芸能界に紹介したのは岡田真澄の兄であるE・H・エリックだと言われている。エリックは永が作家をしていた『夢であいましょう』にほとんどレギュラー出演していた。『夢であいましょう』は、音楽とコントが生ライブで披露される番組だったが、そこでは永と中村八大の「六八コンビ」による月1回の月例歌があった。梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」などはその代表曲である。ちなみに「こんにちは赤ちゃん」で印象的なバイヴを弾いているのは鈴木邦彦だ。鈴木も、のちの歌謡曲を牽引するひとりである。梓みちよと言えば、軽井沢時代の永は、名前も知らぬ外国の女の子に初恋をしたが、そのときの体験は、田辺靖雄・梓みちよ「いつもの小道」での歌詞に反映されている。このように、戦後のけっこうな時期まで音楽とコメディは芸能として、いまよりもっと未分化の状態であった。『夢であいましょう』には、ミュージシャンと芸人/コメディアンが分け隔てなく出演していた。番組初期には長唄、小唄、浪曲までこなす立川談志が出ていたし、後期には渥美清が出演するなど、『夢であいましょう』には音楽人に混ざってさまざまな喜劇人が出演している。渥美が芸人になるきっかけも面白い。終戦直後、なんとかして金に換えようと鉄くずを広い集めていた渥美は、無断で電車の線路をひっこ抜いて換金しようとしていたがお巡りさんに見つかり、しょっぴかれてしまう。そのお巡りさんが渥美に「お前の顔はすぐ覚えてしまうから悪事を働くには向かない。フランス座に行って役者になれ」とすすめた。この逸話を証言したのはやはり、渥美のうしろでそのときの様子を目撃していた永である。永と中村の「六八コンビ」に坂本九が加わると「六八九トリオ」となる。その坂本九の『オン・ステージ』というコンサートLPの副題は「芸人 その九年目」というものだった。ここにはミュージシャンがそのまま「芸人」に連続する感覚がある。「八」こと中村八大も『夢であいましょう』では、作曲家の先生なのにレコード会社でぞんざいに扱われるというコントをしていたし、談志とのかかわりで言えば「笑点のテーマ」も中村の作曲だ。その中村が松本英彦らとともに参加していたジャズバンドは渡辺晋とシックスジョーズだが、この渡辺晋とは、もちろんナベプロこと渡辺プロダクションの渡辺会長である。ナベプロにはたくさんのミュージシャンが在籍したが、芸能史という点で言えば、やはりクレイジーキャッツとドリフターズが外せない。クレイジーが奏でるスウィングジャズは、宮間利之とニューハードなど良質なジャズオーケストラに支えられた60年代の歌謡曲と完全に響き合っている。日本において、お笑いと未分化の音楽のありかたは危ういながらもなんとか継続されているかもしれないが、スチャダラパーが「無責任一代男」をサンプリングしたことは、そういう点からすれば意義深いとも言える。ちなみにスチャダラパーの朋友・脱線トリオが、当初、吉本に所属していたことも興味深い。普通に考えると、クレイジーの次にドリフターズが来ると思いがちだが、実はドリフターズはクレイジーより前に結成されており、サンズ・オブ・ドリフターズという名前で50年代から活動している。ドリフターズの歴代のヴォーカルは、坂本九など実は錚々たる顔ぶれなのだが、なかでも芸人とミュージシャンをつなぐ存在として興味深いのは、平尾昌晃、ミッキー・カーチスとともにロカビリー三人男と呼ばれた山下敬二郎である。というのも、山下の父親は落語家で喜劇役者の柳家金語楼こと山下敬太郎なのだ。ちなみにミッキー・カーチスも、のちに談志のもとでミッキー亭カーチスとして落語を披露している。山下はのちに相澤芳郎とウエスタン・キャラバンというバンドで活躍する。ウエスタン・キャラバンのリーダーだった相澤芳郎は、そのスター性に加え、二世タレントとしての話題性も見込んでサンズ・オブ・ドリフターズの山下を自身のバンドに引き抜いたのだ。この相澤芳郎こそ、その少しあとサンミュージックを立ち上げることになる相澤秀禎その人である。サンミュージックと言えば、のちに松田聖子や岡田有希子、最近ではベッキーなどを輩出しているアイドル事務所だが、当初は森田健作をデビューさせるために設立された事務所である。渡辺、ジャニー、相澤と、戦後に進駐軍クラブ周辺で活動していたミュージシャンは、今度は経営側にまわって日本の芸能界を牽引していくことになる。サンミュージックの歩みも面白い。森田健作の付き人をしていたのは、当時役者志望だった現・ブッチャーブラザーズのぶっちゃあであり、その陽気さが買われ芸人に転向した。その後、ぶっちゃあはビタミン寄席などを開催し、80年代後半以降の東京の芸人から慕われる存在になる。現在、サンミュージック所属のお笑いは、酒井法子を見出した相澤の息子が展開しているが、その顔ぶれはカンニング竹山、小島よしお、髭男爵、鳥居みゆきなどなかなか存在感がある。こうした経緯を振り返ると、コント集団としてのドリフターズの影響の裏で、音楽バンドとしてのドリフターズと東京のお笑いシーンが、サンミュージックを介してメビウスの輪のように捩れながらつながっている感じがして面白い。サンミュージックと言えば、1986年に起こった岡田有希子の悲劇が思い出されるが、つい最近、サンミュージックから岡田の「くちびるネットワーク」のカヴァーで「正統派アイドル」を打ち出したアイドル・さんみゅ~がデビューするというニュースが流れた。はたして、これはどうなることか。その岡田が自殺した同日、現場のすぐ近くではいつものように水道橋博士が、弟子入り志願のためにビートたけしの自宅のまえで張り付いていたらしい。ビートたけしが、戦後の渥美も行った浅草フランス座で修業を積んだことはよく知られているが、浅草時代の師匠は深見千三郎である。深見のさらに師匠は東八郎だが、その弟子にはコント55号の萩原欽一がいる。東の息子はもちろん安めぐみの夫、Take2の東貴博である。昨年、その名も「芸人の墓」という名曲を発表した水中、それは苦しいは、かつて本人公認で「安めぐみのテーマ」という、やはり名曲を歌っていた。水中、それは苦しいのメンバーは、ジョニー大蔵大臣を筆頭に、セクシーパスタ林三など、まるでたけし軍団のようなネーミングがなされている。小島よしおは最近浅草に引っ越したらしいが、小島に限らずナイツやWコロンも含め、浅草オペラのエノケン時代から浅草芸人の系譜はゆるやかに続いていると言える。ただし、だからと言って浅草の磁場を素朴に自明視してはならない。一枚岩に見えるお笑いも、当然のことながらさまざまな周辺文化との相互的な干渉関係のなかで成立している。とくに金語楼などは、サモア・ジャズと称して歌って踊るなどして落語家としては異端扱いされていた。そして、金語楼の息子・山下敬二郎が受け継ぐのは、異端とされた父親の「歌って踊る」部分なのだ。異端の落語家の息子が、今度は本当にミュージシャンになるというお笑いと音楽の接点を見極めておきたい。その接点にはドリフターズとサンミュージックがある。金語楼の存在は、東京における漫才という点でも重要だ。東京漫才の開祖的存在は、金語楼の弟弟子にあたる柳家語楼と柳家緑朗によるリーガル千太・万吉である。M‐1グランプリの審査員を務めた談志によれば、関西的なケンカ漫才とは異なる仲の良さそうなおぎやはぎの漫才は「千太・万吉を彷彿とさせる」とのことだ。語楼・緑朗に漫才をすすめたのが、金語楼というわけである。この破格な金語楼に目を付けたのが、かの横山エンタツ・花菱アチャコを擁する吉本興業部である。エンタツ・アチャコの代表作であり漫才最初期の名作である「早慶戦」は、金語楼にもらった六大学野球のチケットがきっかけだったらしい。エンタツ・アチャコに付いた、漫才作者の元祖・秋田實は、エノケンが活躍しはじめた1930年当時には、プロレタリア文学の牙城である『戦旗』の編集委員だったが、戦後には漫才作家として漫才の理論化を試みている。その秋田の薫陶を受けたのは、二代目エンタツ・アチャコを打診されたオール阪神・巨人である。そろそろ、時代は漫才ブームを迎える。漫才ブームの一方、東京ではシティ派の感覚で、スネークマンショー的なパロディが展開されていた。この周辺にいたのが、大竹まこと、きたろう、斉木しげるからなるシティボーイズであり、そこにいとうせいこうや宮沢章夫、竹中直人らを加えたラジカル・ガジベリビンバ・システムの一派だ。これをファッション/音楽の方向へ延長させると、稀代の道化だったマルコム・マクラレンにすぐ到着する。一方、まだ客足の少なかったラジカルの舞台では、客席に唯一松本人志が座っていたというのだから胸が熱くなる。漫才ブームとスネークマンショーのすこしまえ、寺山修司的アングラ文化を引きずった新宿~早稲田界隈では、タモリが山下洋輔たちに招かれていた。のちにタモリは、ロッパに連なるような声帯模写の音盤をスネークマンショーと同じアルファレーベルから出してもいる。テレビ番組でタモリが高座で見せたのは、寺山修司のモノマネだった。このように、80年代前半くらいまでは音楽とお笑いの豊かな交通があったが、80年代後半あたりから、音楽とお笑いが分化されていく印象がある。「Jポップ」という名称の登場は、89年のことである。もちろん、とんねるずもダウンタウンも爆笑問題も音楽とともに語ることは可能だが、とんねるずをちょうど境界の点として、それ以降はどこか別の表現としてなされている感じがある。とくに90年代の松本人志は、芸人がお笑い以外のことをやることに否定的であった。もっとも太田は、音楽も映画もお笑いも含んだ昔ながらの芸能に憧憬があるように思え、スネークマンショーと『増殖』を出したり、現在でも毎年クリスマスには爆チュー問題のピカリとしてサックスを吹いて、クレイジーさながらビッグバンドを率いている。また、東京03のライブもビッグバンドを使ったものだったらしいが、これは未見である。近年では、音楽とお笑いを同時に表現として引き受けるマキタスポーツが頼もしい。かつて自分自身が多羅尾伴内という芸名を持ち、音楽とお笑いを接続するトニー谷の再評価に尽力した大瀧詠一はマキタを高く評価している。これからの動きに注目したい。しかし、僕はなによりラッパーこそ、もっと積極的にお笑いの側面を引き受けて欲しい気がする。それは、単におちゃらけるということではなくて、道化のように自分の本質をさとられない振る舞いをするということだ。50セントは、自らがおちゃらけているわけではないが、観ている者は喜んでいる。「ドーランの下に涙の喜劇人」とは、ポール牧がサインをする際に添えた言葉だが、僕がDJとして初めて人前で出たとき、同じく人前で初めてラップをした、名もわからぬラッパーは「ライアーライアー 涙を隠した仮面ライダー」とラップをしていた。この抒情的なラインはいまだに覚えている。お笑いも音楽も安易な自己表現ではなく、むしろ涙を隠したときに芸たりえるのではないか。

【参考文献】
「ジャニーズ「アイドル帝国」を築いた男」(『週刊文春』2011.11)
中山涙『浅草芸人――エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史』(マイナビ新書)
相澤秀禎『人生に拍手を!』(講談社)
毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』(講談社)
水道橋博士『藝人春秋』(文藝春秋)
※TBSラジオ『Dig』におけるカンニング竹山の発言
※永六輔がTBSラジオで発したあらゆる証言

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2013年01月07日

日本芸能の水脈①(戦前編)

本年もよろしくお願いいたします。

長谷川プロデューサーのご厚意で、すっかりそれなりに話す機会も多くなったTBSラジオ『文化系トークラジオ Life』ですが、年末恒例「文化系大忘年会2012」ではポッドキャスト版の外伝part.3でブースにお邪魔しました(外伝にかぎらず、現在ポッドキャストが配信中なのでぜひお聞きください)。僕は「2012年を一文字で表すと「祭」である」と言ったわけですが、その心はここでは書きません。まあ、首相官邸前デモ的な「政(まつりごと)」の気分を、もうちょっと文学に寄せたかたちで「祭」と表現した感じです。2012年に感銘を受けた本に、水道橋博士『藝人春秋』(文藝春秋)と安藤礼二『祝祭の書物』(文藝春秋、ただしこちらは大満足というわけでもない)があったので、そういう自分の気分も反映しています。「祭」において重要な役割を果たすのが「芸能」ですが、日本の芸能の水脈をどのように描くか、についてはさまざまなありようが考えられると思います。僕の関心と知識の範囲で、やはり自分用の整理のために書いてみたいと思います。



民俗学的に言えば、芸能とは、日常と非日常が交差する祭儀のときに、神と交信し、呪力を発揮する役割を持つものである。非日常のリズムを日常の場に持ち込む存在こそが芸人の源流であり、したがって、芸人とは本来的に日常の社会から逸脱した、異形の存在となる。ここでは、この本来的な定義を意識している。日本では、まずは盲目の琵琶法師がそれに当たる。視力を失った琵琶法師は、常人には聞こえない異界のざわめきを聞き、それを人々に語る。『平家物語』というテクストは、そのような異界にざわめきに耳をすます語り部によって語られた物語である。近代的な内面をもった語り手の裏には、空虚であるからこそ物語る芸人としての語り手がいる(兵藤裕巳)。このような語り手のありかたは、例えば浪曲に接続されるだろう。明治40年代、浪花節の流行に貢献したのは、芝新網町という貧民街に住んでいた桃中軒雲右衛門である。乞食まがいの姿をした芝新網町の浪花節芸人は、「新網芸人」という蔑称で呼ばれていた。そんな雲右衛門の子供時代に面倒を見たというのが豊年斎梅坊主であるが、梅坊主は願人坊主という乞食の僧侶の仲間に入って、かっぽれ踊りを披露していた。梅坊主は、芝新網町の浪花節組合の立ち上げに力を貸すことになる。『ミュージックマガジン』の2002年3月号の特集は「日本のヒップホップはここまで来た!」だが、そのなかの「108枚で辿る日本のラップ/ヒップホップ史」の第一枚目に梅坊主の『幻の庶民芸』が挙げられているのは面白い。説明としては「ラップ以前の路上の語りの一例」という程度で、ストリートにおける語り芸という意味合いで載せてみました、くらいのものだが、社会から逸脱した存在の表現として捉えれば、ミンストレルショウから続く「擬装」の「アメリカ音楽史」(大和田俊之)との接続を考えることも可能だろう。ヒップホップに限らず、いまや音楽を自己表現的に捉える向きが当然のように思われることも多いが、当然のことながら音楽は芸能としての側面があって、それはおそらくJポップ化とともに失われていった。明治時代の浪花節流行におされたのは落語・講談で、両者には一時的な衝突もあったが、もちろんどちらも語り芸である。立川流の真打は立川談志の一存によって決まっていたとのことだが、その基準は「落語百席、唄、講談、踊り、客を呼べる人気、それと談志と同じ価値観」(立川志らく『雨ン中の、らくだ』)だという。談志は浪曲もお手の物だったらしいが、落語以外に「唄」や「踊り」を重要視するあたり、現在的な音楽とお笑いの分化以前の芸能のありかたを強く意識していたことがわかる。むろん、このことだって人によっては当然で、自由民権運動の全盛期、川上音二郎は政治信条の講談を流行歌のフシにのせて訴えていた。この講談がのちに「演説」と呼ばれるようになるが、この演説と歌の混交が「演歌」の元祖と言われている。音楽とお笑いはそもそも密接な表現だったのである。もっとも、いま述べた「演歌」の成立は通説に過ぎなくて、厳密な「演歌」の成立については、輪島裕介『創られた「日本の心」神話――「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で補足されたい。いずれにせよ、芸能も政治も「まつりごと」という点で関わりをもつ。自由民権運動の演歌師と言えば、もうひとり添田唖蝉坊のことが思い浮かぶが、実は唖蝉坊は自由民権運動には参加していなかったという(輪島裕介)。唖蝉坊の息子・添田知道は、社会に対する批判精神を欠いた、芸能としての演歌を批判しているが、個人的には政治と芸能を二項対立化させることはナンセンスだと思う。両者の関わりについては、添田親子の言説を相対化するような言説の構築を目指したい。口頭(オーラル、柳田國男の言う「口承」とは区別したい)の話を中心に据えているが、もちろん文字(リテラル)とも関わってくる。落語における中興の祖と言われる三遊亭円朝の講談を記録した速記本が、日本文学における言文一致体の成立に果たした役割は周知のとおりである。この講談調文体が昭和の新戯作派を経て、パンク歌手の小説家・町田康や、やはりミュージシャン出身の小説家・川上未映子まで接続されることを考えると、講談から文章への移植についてももっと考察を深めなければいけないと感じるが、ここでは指摘に留めておく。大正期になると、関西には宝塚少女歌劇団ができる。服部良一が出雲屋少年音楽隊としてのキャリアをスタートさせる少しまえ、少年音楽隊をモデルにして、安価な少女音楽隊が登場していた。そのひとつが温泉地の出し物として出発した宝塚少女歌劇団である。宝塚は、のちにジャニーズのモデルになることも含め、日本の舞台芸能を語るうえでは重要な存在である。宝塚の特異性とは、言うまでもなく女性の役者のみで構成させることだが、昭和初期に男性を加入させたレヴューを試みたことがあった。この宝塚にとっての稀有な試みで舞台デビューしたのが古川ロッパである。文藝春秋の社員であったロッパが菊池寛の提案で役者になり、宝塚の創始者である小林一三に相談したことで実現したという経緯だ。かくして、ロッパのキャリアは『モン・パリ』の作者でもある岸田辰彌の『世界のメロディー』という舞台から始まった。ギャラについては、ロッパ自ら一三に「千両役者だから千円もらう」と言ったらしい。そのロッパが交流が深い舞台人と言えば、もちろん榎本健一ことエノケンである。関東大震災で打撃を受ける直前に浅草オペラに入ったのがエノケンだが、小回りの利く立ち居振る舞いは、円谷英二が特撮に関わった、戦闘機が登場する『エノケンの孫悟空』における孫悟空役にぴったりである。孫悟空と言えば、かつてはザ・スパイダースの三枚目として登場した堺正章が有名だが、実はエノケンの系譜を汲んでいたということになる。孫悟空としてのエノケンは、「孫悟空のテーマ」「悟空の自己紹介」などでその歌声を聴くことができるが(「孫悟空のテーマ」はコーラスが入る展開が素晴らしい)、マチャアキと同様、喜劇人と音楽の幸福な関係はとても強かったのである。孫悟空の最新版と言えば香取慎吾なので、アイドル歌手という意味では芸能の流れを汲んでいないわけではないが、エノケン~マチャアキという前史を踏まえると正直萎える人選である。エノケンとコンビを組んでいた歌手・二村定一の曲は去年、ぐらもくらぶという復刻レーベル(矢野もイラストで関わっていますが)の第一弾作品『街のSOS!』というCDで、その貴重な曲を聴くことができます。二村はゲイだったらしいが、ディスコ音楽やその後のハウスミュージック、あるいはレナード・バーンスタインの存在を思い出すまでもなく、ゲイによる表現も芸能の役割を考えるうえでは重要である。さて、そんなエノケンを「ガラの悪いコーラス・ボーイ」(中原弓彦(小林信彦)『日本の喜劇人』)として武蔵野館で発見したのが、活動弁士をやっていた徳川夢声である。夢声は活動弁士による演芸会・ナヤマシ会を立ち上げ、ロッパの役者以前の芸能活動はそこが出発だったと言える。ロッパは「声帯模写」と自ら名付けた声マネが得意で、夢声が酒と睡眠薬の飲みすぎで倒れたとき、夢声になり代わって40分のラジオ放送をこなしたという有名な逸話がある。戦争をまたいで戦後、そのロッパに日記で悪口を書かれたのが永六輔である。戦中~戦後を少年期として過ごした永も浅草に出入りをしていたが、ロッパは「永六輔来る。不愉快なり」などと書いていた。ロッパにとって永はどうやら生意気に映っていたらしいが、永は永で、嫌いでもニコニコできる大人のいやらしさを感じたとのことだ。ちなみに夢声は、永に対して「好青年なり」という印象をもっていたとのことだ。時代は戦後に移る。(続く)

【参考文献】
兵藤裕巳『琵琶法師――〈異界〉を語る人々』(岩波新書)
兵藤裕巳『〈声〉の国民国家――浪花節が創る日本近代』(講談社学術文庫)
大和田俊之『アメリカ音楽史――ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社選書メチエ)
輪島裕介『創られた「日本の心」神話――「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)
立川志らく『雨ン中の、らくだ』(新潮文庫)
小林信彦『日本の喜劇人』(新潮文庫)
中山涙『エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草芸人150年史』(マイナビ新書)
※2011年1月30日放送の「爆笑問題の日曜サンデー」における永六輔談

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2012年12月26日

境界領域に立つ者のドキュメント――水道橋博士『藝人春秋』(文藝春秋)を読んで

5351a50f.jpg話題の水道橋博士『藝人春秋』(文藝春秋)が、評判に違わず面白かった。「芸人というより、芸能界を潜入取材している感覚」としばしば語る、博士随一のルポルタージュとしてももちろん面白いが、「藝」のありかたについて、鋭く迫っている点が、僕自身が最近考えたいことともかかわっており、たいへん興味深く読んだ。自分の頭の整理もかねて、『藝人春秋』について書きたい。



こんな言葉から。

日本の芸能史は、賤民の芸能史である。/この日本に現在ある諸芸能――能、狂言、歌舞伎、文楽から、漫才、浪花節、曲芸にいたるまで、それらをすべて生み出し、磨きあげて来たのは、貴族でも武士でも、学者、文化人のたぐいでもなく、つねに日本の体制から外にはみ出されていた、賤民といわれるような人びとの力であった。(小沢昭一『私は河原乞食・考』三一書房 1969.9)

これを書いた小沢昭一が、先日亡くなった。記録に残らない日本の放浪芸をドキュメントし続けた小沢が死を迎え、一方テレビのバラエティ番組では、ワイプ画面を意識した空気の読み合いがおこなわれている(別に悪いとは思わない)。小沢の死はわかりやすく、「河原乞食」としての芸人の死を象徴しているかのようである。現在の芸人と言えば、むしろみんなの憧れであり、たいへんな社会の成功者だが、芸人とは本来的に、小沢が言うように「河原乞食」として社会の周縁に追いやられた存在だったはずである。社会に生きられない存在だからこそ、日常から逸脱した言動で人々を笑わすのだ。したがって芸人は、見ている人の日常とは異なる、非日常の体現者として出現し、日常と非日常をつなぐ存在として生きている。日常/非日常、社会/非社会、此岸/彼岸など、あらゆる〈あちら側/こちら側〉の境界領域に、不気味に存在しているのが芸人なのだ。芸人の「芸」の字は、文芸の「芸」でもあり、あらゆる芸術の「芸」でもある。この「芸」意識を持って物語を紡いでいるのは、意外にも村上春樹だったりする。

物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる。(村上春樹『スプートニクの恋人』)

『藝人春秋』において水道橋博士は、「名もなく過ごす平凡で安全な日々とは違いテレビに出ることを生業とする芸人は日常から隔絶されている」(p.6)と言うように、当然のことながら「河原乞食」的な芸人を意識している。河原に住むホームレスを取材した坂口恭平の思想が水道橋博士を魅了するのも、おそらくこのような「芸」意識に大きくかかわっている。もちろん水道橋博士自身が、かつて自分が生きていた日常や社会を捨てて、名もなき存在として浅草に生きた芸人である。したがって、『藝人春秋』において「藝人」として書かれている人たちは、いわゆる職業的な「お笑い芸人」ではなく、「日常から隔絶されている」存在を指す。もっと言えば、〈こちら側/あちら側〉の境界領域にいて、〈あちら側〉へ来いと手招きする存在こそが「藝人」である。だから水道橋博士にとってはラジオの向こうから手招きするビートたけしが、甲本ヒロトにとっては同じようにビートルズが、他でもない「藝人」として出現しているのである(p.34)。『藝人春秋』とは、そういう「藝人」の記述なのだ。この点を見誤ってはいけないと、僕は思う。ただのルポルタージュではないのだ。その底辺には、「藝人」という思想が横たわっている。

「藝人」はさまざまな境界領域に出現する。近代社会は……なんていう話を展開しても仕方ないが、あらゆる場所に線引きをして秩序化することで成立しているのが社会というものである。その境界線を隙間をぬって、やすやすと境界線を侵犯したり、ふたつの領域をまたがったりするのが「藝人」である。必然「藝人」は、秩序をなきものとする異形なものとして映らざるをえない。招かれた先である浅草の住人(石倉三郎)。NHKという場所にあるまじき胸板の厚さ(草野仁)。あちら側の出来事をこちら側に伝える過剰な語り部(古館伊知郎)。先輩/後輩という区分をなきものにする、ありえないほど越境する交友関係(三叉叉三)。牢獄という典型的な閉じ込めのなかで、悠然と一億円を稼ぐ越境者(堀江貴文)。「売ります/買います」をめぐる境界線の闘争(湯浅卓・苫米地英人)。放送コードの境界領域で企画を出し続ける作家(テリー伊藤)。異形の股間(ポール牧)。つまらない秩序の爆笑問題化(「爆笑“いじめ”問題」)。線で引かれた秩序の隙間に存在し、境界線を越境し、またがり、そうやって秩序を撹乱する存在として「藝人」は存在し、『藝人春秋』はそういう存在のドキュメントとして読むことができる。だとすれば、「僕が一番だと思っている」(p.283)という松本人志の発言とは、かつてビートたけしがおこなったのと同様の「王の殺害」なのかもしれない。王とは秩序を統べる者である。そして、「人々は、そのような共同体を統べる王の更新、あるいは共同体そのものが生まれ変わる瞬間を、「祝祭」として位置づけていた」(安藤礼二「祝祭」『文学界』2011.6)。伝統社会における「祝祭」とは言うまでもなく、一年に一回出現する非日常と日常が交歓する場であり、そこでは日常で生きられなかった「藝人」が唯一生きられる空間である。松本が起こした「祝祭」によって、現在の芸人も生きている。この「祝祭」モデルから考えると、そのまんま東の「父親探し」とは、「父」(=王)を殺害することで、これまで自分が身を置いていた秩序を飛び出し、〈あちら側〉へ向かおうという試みの連続だったと言える。日常を支配する秩序の間隙に立つ存在こそが「藝人」であり、その空間こそが「藝人」が生きる「祝祭」の空間である。

しかし、まだ終わらない。『藝人春秋』が圧巻なのは、その「藝人」の〈グロテスク〉(と見なされる)な性格を抽出している点にある。終盤では、ある障害児の存在が中心化される。正常/異常の境界領域に立つ障害者こそは、「藝人」の姿に、残酷なまでにふさわしい。不謹慎だろうか。そうかもしれないが、やはりそれが「藝人」という存在なのだとしか言いようがない。江戸川乱歩の小説において、しばしば畸形児が見世物にされるように、異形な存在こそが「藝人」と呼ぶにふさわしいのである。しかし、異形な存在こそは、一方でつまらない秩序を揺るがし、新しい秩序を生み出す力を持っている。異形な「藝人」こそが、障害者の問題を〈こちら側〉たる社会に突きつける。男/女の境界領域に存在するセクシャル・マイノリティこそが、性の問題を〈こちら側〉たる社会に突きつける。これはやはり、〈こちら側/あちら側〉の境界領域にいて、〈あちら側〉へ来いと手招きする「藝」の運動とまったく同じなのだ。「政治(まつりごと)」は、この地点で「藝」とかかわりを持つことになる。そして、その障害児の父親とは「あの世とこの世を行き来する死者との随伴エピソード」(p.295)を持つ者なのだ。僕らが知っているあの父親は、まさに「あの世とこの世」の境界領域に立つ語り部として、「藝」をおこなっている。この父親は、「笑いの仕事」をやめて、「今は怪談のほか、バリアフリーの講演とか、街頭や駅で障害者に対する理解を訴えたり、応援したりしてい」(p.310)るということだが、たとえテレビでの「お笑いの仕事」から身を引いたとしても、おこなっていることは真っ当な「藝」に他ならないのである。

そして、児玉清。すでに〈あちら側〉に逝った児玉に対する水道橋博士の言葉は、もう野暮な説明はいらないくらい美しい。〈こちら側/あちら側〉の境界領域に立つ「藝人」の児玉清に対して、水道橋博士は次のような言葉を送っている(ネットではこの部分を「ネタバレ」と呼んでいるので、そういうのが嫌な方はぜひ本文で)。

あの世の映画やドラマの中で名優であり続けただけでなく、この世の数多の本の世界へ誘い、自らが物語のような結末を閉じた児玉清さんに、この本を切り絵とともに捧げます。(p.324)

あ、あと一人。甲本ヒロトという「藝人」に出会ってしまったがために、〈あちら側〉へ連れて行かれてしまった水道橋博士のマネージャー・スズキ秘書は、「生来の無毛症」(p.31)とのことだが、そのスズキ秘書は「もし自分に毛が生えていたら、きっとごく普通にサラリーマンになっていたと思います」(p.233)と語る。二週目に読むと、この言葉は本当に感動的に響く。坊主というのは、やはりあの世とこの世の媒介者である僧侶が、自らの異形性のしるしとしてこしらえるものでもある。その異形性を生まれながらにして背負ってしまい、それゆえに日常から逸脱したスズキ秘書もまた、目次にこそ登場しないが「藝人」として生きている。例えば琵琶法師の異形性とは「無毛」と「盲」だが、兵藤裕巳によれば、「非秩序=穢れの体現者は、原初の創造的なカオスを創出したアナーキーな力を体現する者として、祭儀においてしばしば聖なる呪力を行使することになる」(兵藤裕巳『琵琶法師――〈異界〉を語る人々』岩波新書 2009.4)。スズキ秘書が憧れている甲本ヒロトは、「俺の理想はアナーキー」(p.244)と語るが、スズキ秘書を「ごく普通のサラリーマン」から遠ざけた異形性はすでに、ヒロトが憧れた「アナーキーな力」に満ちている。不謹慎だろうか。そうかもしれない。でもやはり、それが「藝人」という存在であり、『藝人春秋』という本は、そういう「藝人」の姿を描ききっているからこそ感銘を受ける。ならばここで、その不謹慎さは隠したくはないのだ。〈あちら側/こちた側〉の境界に立つ者としての「藝人」。安藤礼二の言葉をもう一度引用する。

柳田國男が創出し、折口信夫が発展させた「民俗学」という学問もまた、人間の集団が生きなければならない時間を大きく二つに分ける。日常の生活が営まれる「ケ」(褻)の時間と、非日常の祝祭が行われる「ハレ」(晴)の時間である。物語(文学)も芸能(芸術)も、二つの相反する時間が交わる「境界」の場所から発生してくる。(安藤礼二「表現のゼロ地点へ――三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹と神秘哲学」『文学界』2012.7)

日常の秩序には存在しえなかった新しい表現が生まれてくる空間としての「祝祭」。そして、その体現者である「藝人」。『藝人春秋』は、そのような「藝人」のありかたに鋭く迫っている。書名に、「芸」ではなく旧字の「藝」が使われているのは、もちろん本家『文藝春秋』に倣ってのことなのだろうが、水道橋博士が意図したか意図していないかとは別の水準で、言葉というのは問答無用に意味を抱えている。佐々木中が説明している。

藝の字と芸の字は意味が逆なのですね。藝は、草木を植えるという意味である。芸は、草を刈る、雑草を刈るという意味です。(佐々木中『切り取れ、あの祈る手を』河出書房新社 2010.10)

新しい表現を生み出す存在としては、やはり「芸人」ではなく「藝人」がふさわしい。地下/地上の境界領域に草木を植えられているように、「藝」はあらゆる境界領域から顔をのぞかせている。



ひるがえって自分。僕は高校の教員として、学校という〈こちら側〉的秩序の再生産側にいる。伊吹文部科学大臣(当時)の言葉は、「“言霊”の無さは何ということだろう」(p.253)と評価されているが、その末端にいるのが我々というわけである。そして、教室には「お笑い」の文法がせっせと持ち込まれている。「藝」のロマンを共有する僕は、いかにして〈こちら側/あちら側〉を撹乱する言葉を持つべきか。そんなことをいつも考える。たんに秩序を破壊してしまっては、それはもはや教育者ではない。この「藝」のありかたこそを、再現可能、反復可能にし、なんとか秩序立てて教育するのだ。それが僕の矛盾した教育目標である。非常勤講師という立場は、生徒にとってなにやらよくわからない存在らしい。担任も部活も持っていないし、どこに所属するのかがわからない不気味な存在のようだ。この〈こちら側/あちら側〉を撹乱する非常勤講師という立場は、「藝」的な感覚として気に入っているが、一方で社会に生きなくてもいけないのが悩みどころだ。

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2012年09月20日

『HEY! HEY! HEY!』の終了――「Jポップ」と「ツッコミ」は一緒にやってきた

52ed1f8b.jpg『HEY! HEY! HEY!』が終わるそうだ。
http://tabetainjya.com/archives/entertainment/hey_hey_hey/

Jポップをめぐる議論は少し追ったりもしているが、バラエティ史や芸能記事を熱心に調べたことはないので、印象論になってしまうかもしれないけど、まあブログ記事なのでご了承をお願いします。

僕は83年生まれですが、小学校高学年から中学生あたりにかけてのダウンタウンの存在は、それはまあ大きなものでした。『HEY!』が始まったのは94年なので、僕が小学校5年のときでしょうか。94年と言えば、小室哲哉がいよいよ覇権を握って、CDの売り上げが飛躍的に伸びている時期です。「Jポップ」という名称が発案されたのは88~89年ですが、烏賀陽弘道『Jポップとは何か』(岩波新書)によると、「J」の定着は93年からの「Jリーグ」を経てのことです。子供の感覚的にも、『HEY!』と「Jポップ」という言葉は、ともに相互的に高め合いながら、巨大化していったような印象があります。

さて、Jポップという巨大ビジネスの中心にいたのは、小室哲哉でした。烏賀陽は、「Jポップ」をたんなる音楽ジャンルとしてではなく、広告業界などを含めた「産業複合体」として捉えました。重要な指摘だと思います。小室は、以前からすぐれたスタジオ・ミュージシャンであり、すぐれたソングライターでしたが、その後、多大な借金を抱えることに象徴的なように、この時期から音楽ビジネスにまで手を広げていきました。小室がビジネスに手を広げた背景は、YOSHIKIの入れ知恵された(津田大介)、学生時代の同級生にそそのかされた(吉田豪)、など、複数説ありますが、いずれにせよ音楽の領域にとどまらない「Jポップ産業複合体」を貫通する存在として小室哲哉がいたことは言うまでもありません。この全能的な態度を指して、小室哲哉は「プロデューサー」と呼ばれたのでしょう。このへんのことは『POST』という同人誌に寄せた「90年代音楽論・イン・ジャパン」に書いたので、超入手困難ですが、ご興味がありましたらご一読くださいませ(『POST』は他の論考も面白いです)。

ということで、『HEY!』の終了は「Jポップ(産業複合体)」の終焉を意味するという見立ては、そんな間違いではないと思います。パフュームやAKB48の成功を見ればわかるように、そしてガール・ネクスト・ドアの失敗を見ればわかるように、覚醒剤のごとくタイアップをがんがん打って、テレビ主導で作り出された幻覚のようなアーティストは必ずしも成功しません。それよりも現在では、ネットまで見据えた口コミのほうがアーティストを巨大化させる可能性を秘めている感じがします。『HEY!』は視聴率が低迷していたようですが、むしろ、みんなパソコン上で新たなアーティストを発見していたのかもしれません。

それにしても、「アーティスト」(芸術家)っていう言い方はなんなのだろう。個人的にはいまだに抵抗がありますが、先の「プロデューサー」とセットで出てきた印象もあります。「アーティスト」という言葉の言説研究とかあるんでしょうか。なければ自分がやっても良いようなテーマではあります。言葉の響きだけで言えば、「ミュージシャン」が職業的なのに対して、「アーティスト」はもう少し、人格(パーソナリティ)によっている感じでしょうか。さて、当時中学生の自分において、『HEY!』のリアリティとは、なによりもフリートークにありました。『ガキの使いやあらへんで』にも同じことが言えますが、とくに『HEY!』におけるダウンタウンの「アーティストいじり」は、たいへんに参考にした覚えがあります。80年代後半のとんねるずの振る舞いというのが僕にはわからないのですが、ダウンタウン的な「いじり」という概念は、このときはっきりと明確化したような気がします。思慮浅い、調子にノった中学生は、『HEY!』によって「ツッコミ」という概念に気づき、オチのない話に「オチは?」とか「中途半端やなあ」と言うようになった。世にも恐ろしい話です。80年代の漫才ブームの感じがわからないのだけど、「Jポップ」の定着とともに、当時の中学生はお笑いのリテラシーを上げたのです。しかし、お笑いのリテラシーを上げるということは、面白くなったということを単純に意味しません。彼らは「規則」を見つけたのです。手旗信号のように、パターン化された「規則」をこなすことができれば、「お笑い」的なものは成立するようになりました。そして、この「規則」によって、発見されるまでもない普通の話が、再帰的に「オチのない話」として発見されるのです。「オチは?」って、ここは収録現場でもなければ、俺らはお笑い芸人でもないだろう、バカ野郎。

「フリ」と「オチ」の発見。いや、秋田實が言わなかったとはいえ、「フリ」も「オチ(サゲ)」も当然昔からあるのですが、僕らのこの「規則」は、「Jポップ」とともに登場した気がします。必ずしも面白くはない「アーティスト」を面白く見せるための「ツッコミ」は、僕らのまわりの、必ずしも面白くない友人を面白く見せるものとして機能していました。その問答無用にゲームボードに乗せてしまう感じは、とてもグロテスクなことでもありました。この「規則」は、いまだ生きているような気がします。宮迫博之が出川哲郎などに「そのリアクションは不正解でしょう」と言う、その「(不)正解」という言葉に象徴的なように、「フリ」に対する正確な答えを求められています。まあ、「フリ」に対する「不正解」は、またさらに「ツッコミ」で救出することができるわけですが。

「Jポップ」が終焉を迎えたとしても、「規則」は生きている。「ツッコミ」の準備はできているし、「いじり」も用意されている。ただし、「Jポップ」が終焉を迎える少し前、松本人志を認めた/に認められた島田紳助は芸能界を引退した。このことがどう響いてくるのか、こないのか。紳助引退という「フリ」に対する「正解」は、まだ出ていない。

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2012年05月04日

〈擬装〉するミュージシャン、〈変身〉するコメディアン

『F』10号は、「擬装・変身・キャラクター」という特集となっている。僕は以前から、〈模倣欲望〉という点から音楽について考えたかったので、この機会にそういうことを考えてみた。「擬装」という観点からアメリカ音楽史を捉え直したのは、大和田俊之『アメリカ音楽史――ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社)である。これはたいへん示唆に富む本で、広い視点で、とても実証的に書かれている。大和田さんによる「擬装」のアメリカ音楽史の出発点は、副題にもあるとおりミンストレル・ショウという文化なのだが、ミンストレル・ショウとは、「白人が顔を黒く塗り、黒人の形態模写をおもしろおかしく演じる」というものである。僕は昔から、音楽とお笑いのモノマネが好きなのだけど、大和田史観を勝手にフレームアップさせていただければ、両者は最初期から密接に関わっていたと言える。最近の僕の関心は、音楽とコメディである。

今回の僕の論文における主人公はジブラという人だが、多くのラッパーがなぜかどこかで忘れてしまう、黒人への「変身」欲望を抱えたまま表現をしていたのは、やはりこの人だったのではないかと思う。このことについては、論文で示したつもりである。ヒップホップは内面を投影するものだ、という見方が支配的な印象があるが、少し考えれば、そんなこともなかったはずだ。例をあげればキリがないが、例えばエミネムのようなラッパーは、スリム・シェイディーというオルター・エゴを仮構し、それに「変身」し、そこでストーリー・テリングをする。僕はむしろ、純粋な内面からは出現しえないような表現のあり方を組織化することこそ、ヒップホップの本領だと思っている。とは言え、このような音楽における変身の表現は、ヒップホップに限らず出現する。ある時期から、突然「土星からやってきた」と言いだし、ファラオの衣装でステージに立ったサン・ラを挙げておこう。スターボーか、と。

ラッパーにしてもジャズメンにしても、音楽における「変身」の性格は、しばしばコメディアンによって担われる。谷啓がトロンボーンを持っていたことを、トニー谷がマンボを歌っていたことを思い出そう。ある時にはエリマキトカゲとなり、ある時には中国人となったタモリも、やはりトランペット奏者だった。坪内祐三は、タモリにはビートたけしのような文体がない、と言っていたが、不断に「変身」する空虚な主体としてのタモリは、こうした内面なき「変身」の系譜に位置づくだろう。日本におけるモノマネの源流には古川ロッパがいる。もっともロッパのそれは、モノマネではなく声帯模写と呼ばれた。ロッパのデビューは、ラジオに出演できなくなった徳川夢声の代打だったというが(中山涙『浅草芸人――エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史』マイナビ新書)、ロッパは夢声の声マネをして放送を難なく乗り切ったという。ロッパの声帯模写をおそらく参考にして、文体模写と称し、音楽と演芸を新たに結ぶ存在にマキタスポーツがいる。マキタによる、ミュージシャンの世界観ごとパロディ化する表現は、誰の内面にも還元されない、まさに「変身」する主体としての地点からしかありえない、見事なものだと思う。そう考えれば、かつてトニー谷の再評価を牽引し、かつて諧謔的な身振りをしていた大滝詠一が、マキタを気に入るのも深い意味がある。マキタの弟子にはセクシーJという芸人がいるが、そのセクシーJを舘ひろしに見立てて、自らは柴田恭兵に「変身」するのがセクシー川田である。川田は、柴田恭兵への憧れゆえに、人生すべてを「柴田恭兵ならどうするか」という大喜利に変換して生きてきた人物である。したがって川田は、人生の選択を柴田恭兵に委ねてきた。いや、自分で選んだには違いないが、その自分とはつねに/すでに柴田恭兵に「変身」した自分なのである。はっきり言って、「変身」する主体の表現として考えたとき、いちばん強度をもっているのは川田だと思う。彼の心はどこにあるのか。彼が表象する柴田恭兵とはいったい誰なのか。彼の表現はどこから来たのか。セクシー川田が主催したライブ、「あぶない刑事一代」は近年まれに見る衝撃だった。

日本の芸人は、河原者と呼ばれるような、まあ早い話が乞食や被差別部落出身者が担ってきた。社会から落伍者とみなされる者だからこそ、「擬装」し、「変身」し、「キャラクター」化しなければ、生きて行けなかったという経緯がある。『平家物語』を広めた琵琶法師たちもそうだが、彼らの異形性(琵琶法師で言えば、〈盲目〉というのは重要な異形性だ)は祭りのときには許容されるが、日常では排除される。このあたりは、兵藤裕己『〈声〉の国民国家――浪花節が創る日本近代』(講談社学術文庫)『琵琶法師――〈異界〉を語る人びと』(岩波新書)に詳しい。2002年3月の『ミュージック・マガジン』誌においては、日本のヒップホップ史が豊年斎梅坊主による口承芸能から出発しているが、だとすれば、日本の伝統的な口承芸能と「擬装」の音楽史の結節点に、日本のヒップホップを置くことは可能だろう。島田紳助不在の現在、浅草演芸的な、音楽とお笑いをめぐる議論を活性化させたいと中・長期的に思っている。速水健朗さんは『コメ旬』で、とんねるずを黒人音楽との関係で論じていたけど、石橋貴明はデビュー間もない頃、憧れのビートたけしにエールを送られていたらしい(『バナナマンのバナナ・ムーン』で石橋が発言)。もちろん、そのたけしは、浅草フランス座で修業をしていた。浅草を中心とした東京の演芸として、音楽を捉え直したい。そういえば、レペゼン浅草のラッパーってあまり聞かないがいるのだろうか。とりあえず、落語が詳しくないことが本当にネック。

※この記事は、『F』10号に書いた文章を一部流用したものです。

toshihirock_n_roll at 22:29|Permalink

2012年04月26日

【告知】第5回ジャニーズ研究部「ジャニーズとデビュー~そうさ、YOUたちSuperboy!~」

747bd492.jpg第5回ジャニーズ研究部
「ジャニーズとデビュー~そうさ、YOUたちSuperboy!~」


OPEN17:30START18:00
CHARGE¥2000(w/1drink)

初代ジャニーズがデビューしてから50年。ジャニーズは、郷ひろみ、少年隊、SMAP、嵐など、さまざまなアイドルたちを輩出してきました。ジャニ研の最終回は、そんなジャニーズの軌跡をたどるべく、それぞれのデビューについて注目します。デビュー映像から見えてくるアイドル文化の変遷とは!? 半世紀にわたってスターを生産しつづけるジャニーズの秘訣とは!? 特別ゲストにライターの南波一海さんをお迎えして、現代アイドルとしての位置づけまで見据えて考えます!

【出演】
大谷能生(音楽家)
速水健朗(編集者・ライター)
矢野利裕(ライター、DJ、漫画家、イラストレーター)

【ゲスト】南波一海

予約は以下からお願いします。
http://www.velvetsun.jp/schedule.html#4_29



シリーズ化してから現在まで、9ヶ月にわたって続けてきたジャニーズ研究部も、次回の第5回をもって、いったん終了となります。第5回ジャニ研は、「ジャニーズとデビュー~そうさ、YOUたちSuperboy!~」と称して、ジャニーズにおけるデビューを出発点に、包括的なまとめをおこないたいと思います。最終的には、目下「アイドル戦国時代」と言われる現在において、ジャニーズはどこに位置づくのか/位置づかないのか、ということまで考える予定です。そこで、助っ人ゲストとして、元ロロロであり、現在はダンス・ミュージック全般から最近ではアイドル文化についても積極的に発言している、南波一海さんをお迎えすることになりました。大谷能生さん、速水健朗さんに加えて、南波一海さんまで参加して、ジャニーズについて語るって、どんだけ豪華なんだよ! 行かない理由ないでしょ! と、個人的には思うわけですが、ぜひみなさまもお越しいただければと思います。

さて、ジャニ研では、もちろんイベントごとにミーティングをしているものの、お客さまの声なども参考にしながら、イベントを通して意見をすり合わせていった側面もあります。そういう意味では、公開勉強会のようなところもありました。

軽く振り返ってみると、第1回は「黒人音楽として見るジャニーズ」ということで、少年隊などのジャニーズ・ディスコが、とくにNYのディスコなどと、どこか違って、どこが意識的に引用されているか、という点を中心に見てみました。そこで出た結論(パンチライン)は、「ジャニーズ・ディスコとは、ディスコから夜とセックスを引いたものである」というものでした。もちろん、このことを言うためには、ディスコの歴史的な経緯などさまざまな周辺分析が必要であり、それはなかなか聴き応えがあったのではないか、と思っています。というか、そう思っていただければうれしいのですが、どうだったでしょうか。少年隊がドレスアップ方向で、スマップがドレスダウン方向という論点も、このときすでに出ていたように思います(スマップは「仮面舞踏会」をしてくれない)。

第2回では、「ジャニーズと広告ビジネス」ということで、ビジネスモデルとしてジャニーズを捉えました。ここでは、戦後の消費傾向にジャニーズがどう関わるかということが話されました。とくに、「スマップのCMを見通すと団塊ジュニアの消費傾向が可視化される」という速水さんの指摘は白眉だったと思います。また、全体に関わる話で言えば、幻想としてのアメリカが舞台だった80年代(光GENJIくらい)までのCMから、日常あるある系のCMに変わっていく流れは、やはり時代をよく捉えていると思います。あるときは新幹線を、あるときは運輸会社をフィーチャーするTOKIOのCMを指して、「TOKIOは国内インフラを支えている」という大谷さん・速水さんの発言も爆笑でした。

第3回は、いよいよジャニーズの核となる部分に迫るべく、「ミュージカルとしてのジャニーズ」というテーマでお話しました。初代ジャニーズを結成しようとしたジャニー喜多川が、初期衝動的に参考にしたのが「ウエストサイド物語」だった、という事実を出発点に、ジャニーズにおけるミュージカルの位置づけを徹底的に考えたのが、この回です。このテーマは、ジャニーズ・ファミリーという共同体のあり方、アメリカとの距離感、ビジネスモデル……と、ジャニーズを考えるにあたって、さまざまな論点をあぶり出しました。その意味では、やはり、ジャニーズの核にはミュージカルへの強烈な欲望があったと思わざるをえず、きわめて重要な回だったと思います。過程を端折りますが、そこで出てきた結論は、「ジャニーさんはアメリカ人である!」ということでした。いや、みんな知っていることなんだけど、しかし言われてみれば、これは重要な指摘なのです。ジャニーさんのアイデンティティの所在をアメリカに置けば、納得行くことがとても多い。ということで現在は、このことを大きな前提として、ジャニーズの捉え直しをおこなっております。「ジャニーとジョニーのあいだ」というパンチラインも出ました。

第4回は、ミュージカルと区別して、「ジャニーズとコンサート」というテーマでした。フィールドワークとして大谷さんとセクゾンのコンサートまで行きました。思想は細部に宿る、ということで、シブがき隊から嵐あたりまでのコンサートを抜粋しながら丁寧に観て行き、舞台演出と音楽の変遷を辿りました。通事的に見ていくと、90年代あたりからブラックミュージックの文法がだんだん入ってくる様子がよくわかります。また、赤字覚悟とも思えるような舞台演出は、ただの音楽ライブではなく遊園地のアトラクションのようでした(なぜ、松本潤はあんなにも空を飛ぶのか!? なぜ、テゴマスは像に乗ってやってくるのか!?)。そこには、CDやコンサートチケットのみでお金を回収するわけではない、グッズなどを利用した囲い込みのビジネスモデルがありました。だとすれば、参考にされるべきはグレイテフル・デッドです。人はなにに投資するのか。現在のAKB48とも共振するような成長物語的なアイドルのあり方と、それと関わるかたちでのビジネスモデル。これらを包括するものとして、「ジャニーズ・ファミリー」という言葉があるのではないでしょうか。

ということで、これらの論点を踏まえて第5回をおこないたいと思います。必見だと思います。次の日も休日だし、ぜひお越しくださいませ!

toshihirock_n_roll at 14:11|Permalink

2012年02月22日

1990年10月、『ビートたけしのオールナイトニッポン』に爆笑問題が代打出演

ビートたけし爆笑問題浅草キッド





ネット時代はすごいもので、二度と見ないと思っていたであろうアレコレや、楽しみにしつつ愚かにも観逃した/聴き逃したアレコレが、アップロードされていたりします。むろん、著作権的にはグレーゾーンでうしろめたい気持ちもないではないが、ちょっとこの欲望には勝てそうもありません。

ということで、いつものように爆笑問題関連のアーカイヴをディグしていたら、なんと、ビートたけしが病欠して爆笑問題が代打に大抜擢された回のオールナイトニッポンが、とある動画サイトにアップロードされていた! これはすごい! この回と言えば、デビュー2年目の爆笑問題が不遜にも「ビートたけしは死にました」と言ってニッポン放送を出入り禁止となったという、語り草になっている回です。この回についての詳細は、例えば、数年前のTBSラジオの有料配信企画『JUNK交流戦スペシャル座談会』や、つい昨年末に放送された『爆笑問題の日曜サンデー』の浅草キッドがゲストの回などで、少しずつ話されていました。僕自身は98年くらいからの爆笑問題ファンですが、後追いで間接的に知り得た情報からすると、件のオールナイトニッポンの内容は以下のとおりです。

・太田が「俺はたけしを超えた。たけしは死にました。」と言った。その後も太田が、「たけし」と呼び捨てにしていた。(『JUNK座談会』における太田の発言、『日曜サンデー』での田中も同様の発言、通説では「風邪をこじらせて死にました」とされる。)
・たけし軍団を措いて爆笑問題が抜擢され、軍団がピリピリしていたところに、太田が番組開口一番「浅草キッド、ざまあみろ!」と挑発をした。(『JUNK座談会』における伊集院光の発言、『日曜サンデー』での太田も同様の発言)
・太田が「来やがれ、キッド! 聴いてるか!」と挑発をしたら(『JUNK座談会』で太田、『日曜サンデー』では「悔しかったら来い!」と言った、と太田)、「調子にノってんじゃねーぞ!」と本当に殴りこみに来た。(『JUNK座談会』で伊集院)
・水道橋博士が「たけしさんを呼び捨てにしただろ!」と番組に怒鳴りこんだ。(『JUNK座談会』における田中の発言)
・水道橋博士が「玉袋が入院してるから良かったものの、命ないぞ」と言った。(『日曜サンデー』で田中)

結果、「伝説の殴り込み事件」(『日曜サンデー』で田中)として、ファンなどには知られたが、すなわちなんと、その音源がアップされていたのです。すごいでしょう。そして、実際に聴きました。それで感想はと言うと、結論から言えば、これまで語られてきた内容ほど、事件性は高くないと感じました。まあ、この話をおもしろおかしく話すうちに、記憶もなんとなく脚色されていったのかな、という感じです。以下から放送内容です。

まず番組開始直後、太田が「実はたけしさんがとうとう死んでしまいまして…」と言い、田中が「縁起でもないこと言うな!」とツッコむ。その後、ダンカンやガダルカナル・タカなどたけし軍団からの中継が5分ほど入り、その後「ビター・スィート・サンバ」が流れ、オープニングへ。オープニングでは、田中が、たけしさんの枠だから緊張するといった内容の話をすると、太田が「要するにビートたけしの時代は終わった」と返し、田中が「違う!」とツッコむ。また太田は、たけしさんの代打はたいてい失敗すると言い、その例に大竹まことを挙げるのだが、田中がそれについてはツッコまず、「大竹まこと大失敗したよね」と呼び捨てで乗っかるのが可笑しい。しかも太田は大竹について、「そのあとニッポン放送を出入り禁止になったらしいよ」と言い、その後の自分たちを予言しているのも、いま聴くと面白い。

さて、気になるのは、爆笑問題が浅草キッドを挑発した、というくだりだが、これはけっこうニュアンスが違う。というのも番組序盤、代打放送としての緊急コーナーとして、いまこの放送を聴いている芸人で、「不満がある、文句を言いたい」「文句はないけど出たい」という芸人はスタジオに来てくれ、という呼び込みをしている。これは挑発という感じではなく、番組のコーナーとして、である。そこで田中が(太田ではない!)、「浅草キッドとか、水道橋博士とかあのへんも聴いてるかもしれない」と浅草キッドの名前を出す。もっとも、番組中盤で、再度芸人への呼び込みをおこなったときに、太田が、浅草キッドは来て欲しくないとも言うのだが、田中は「浅草キッドも他のラジオで俺らの悪口ばっか言ってるらしいけどね」と、なんとなく不満を抱えているのは田中のほうではないかと思えるほどだ。ということで、芸人の飛び入り歓迎で番組が進行し、聴いている限りは、あまり浅草キッドを挑発している感じではない。むしろ、太田が激烈に挑発している相手は、当時(1990年)人気絶頂だったろうウッチャンナンチャンである。例えば次のとおり。

(自分たちがウッチャンナンチャンのコントに出演していることに触れて)「僕らはああいうことは一切今後やりたくないということは、一応断っておきましょうか。僕らがやりたいことでとは違うということは、くれぐれも認識して観ていただきたい。」
「ウッチャンナンチャンももうそろそろ潮時かな、という気がします。」
「なんで面白くもないのに売れるんですかねえ。」

そういえば以前、TBSラジオ『伊集院光 日曜日の秘密基地』に爆笑問題がゲストに出たとき、デビュー当時の太田が「人気はウッチャンナンチャンのほうが上だが、実力はとっくの昔に超えている」と発言していたことが紹介されていたが、そうとう目の敵にしていたようだ。その後太田は、ウッチャンナンチャンをはじめ、いろんな人の悪口を続ける。

(他の代打候補が池田貴族だったことに触れて)「なんですかあれ。池田貴族は頭に来るね。とにかくイカ天とか大嫌いですから。それから、ウッチャンナンチャンも嫌い。B21も嫌い。それだけ言ってても2時間持ちますよ、私は。2時間嫌いなヤツ挙げられます。それから大事な太田プロも嫌いです(爆笑問題は当時、太田プロから独立したばかり―注・矢野)。一言言っておきましょうか。とどめを刺しましょうか。」

ここでの流暢な悪口は、この放送のハイライトと言えるかもしれない。太田が言いながらテンション上がっている感じがよく伝わる。その後も、林家しん平に「落語が下手」、田村英里子に「ブスでしょ」、生島ヒロシに「腹は立つけど、わざわざ名前出して怒ったら損かな、っていう感じ?」、山田邦子に「ちょっと性格が悪いと思ってます」、ウッチャンナンチャンととんねるずに「あんなつまんないネタ」、テンションとホンジャマカに「想像力の無い典型」など、悪口は要所要所に挿し込まれる。また、悪口の相手は芸人のみにとどまらず、「これは言うと怒られるけど、フジテレビは嫌いです。怒られるのを承知で言います。ニッポン放送もはっきり言えば嫌いです」と、超毒舌である。さらに、ビートたけしを発掘したことで有名らしい、当時の爆笑問題マネージャー・瀬名が、おそらく創価学会員であり、太田は、創価学会をネタにしてもいる。瀬名の創価学会については、昨年末の『日曜サンデー』でも、ゲストに来た玉袋筋太郎が、創価学会という名前は出さないものの「拝んじゃった」などとネタにしている。放送業界の慣習のことはよく知らないが、全編聴き終えても、「たけしは死にました」発言よりも、この会社批判・創価学会批判のほうが致命的だったのではないか、という印象がある。ちなみに仲の良い芸人としては、松村邦洋、Z-BEAM(ズビーム)、キリングセンスの名前を挙げ、スタジオに来て欲しい人としては、冗談交じりで、立川談志、チャップリン、淀川長治(「話したい」)、大江健三郎(「討論してみたい」)を挙げている。また、「タモリは俺らたぶん嫌われてるよ。態度でわかる。あと山田邦子ね」とも。放送も中盤になると、当時、一緒に仕事をしていたケラから電話がかかってくる。ケラもけっこう無責任に(たけしの病欠に触れて)「願ったり叶ったりじゃない」と言ったり、やはり創価学会をネタにしていたりと、危なっかしくて可笑しい。とは言え、尊敬しているお笑いについて太田は、「たけしさんって言いたくないけど、たけしさんだね」と言っている。いま僕が、昔の『ビートたけしのオールナイトニッポン』を聴くと、つくづく爆笑問題の話し方はビートたけしの影響を受けているんだなと思うが(同じことは、町山智浩にも菊地成孔にも思う)、この発言の言い方自体がビートたけしの話し方にそっくりだと感じた。

さて、現在なかば伝説化している水道橋博士の殴り込みについてだが、博士が登場するのはラスト5分である。田中が提供読みをしているときに来たらしく、田中は動揺したのか不自然に噛んでいる。博士の第一声は「どうも、太田プロの松永光代です」である。松永光代とは、もちろん現・太田光代のことであり、博士は太田の恋人を生放送で暴露して、「太田光と同棲している松永光代です」と続ける。これには太田も含めスタジオ中が爆笑している。もっとも、面白いのはその先で、太田はそれに対して、「博士、はっきり言いますと入籍してんの」と答え、博士は「したの!?」と驚いている。それで、博士はたしかに、「ダメだよ、たけしって呼び捨てにしちゃあ」と言っているが、これものちのち語り継がれているほど険悪なニュアンスは無い。そして、その博士に答えて、太田が「たけしを抜きましたよ、とうとう我々が」と言っている。これも挑発的と言うよりか、やはり冗談っぽい印象である。最後に太田は「本当に来るとは思わなかったな」とぼそり。最後に一言、と田中に振られた博士は、「呼び捨てにするのは10年早いよ」と言い、現在、玉袋が入院であることを伝えた。このときの博士の「(玉袋は)いちばん嫌いなんだ、太田光のことが。玉袋を連れて来なかった良かった。本当に殴ってると思うよ、番組中は殴らないと思うけど」という発言は、けっこう熱がこもっていて、このへんは怒気を感じる。

ということで、2年目の芸人ということを考えれば、太田が規格外に全方面的に失礼だったのはおそらくたしかなのだと思う。しかし、太田と浅草キッドの関係自体について言えば、僕らが「伝説」としてイメージしているほど、少なくともこの放送に関しては悪くなっているとは思わないし、「たけしは死にました」発言のみが、ニッポン放送出入り禁止の直接的な原因となっているとも考えにくい印象であった。当時のビートたけしの業界的な存在感については、当時7歳の僕が知る由もないのでわからないが、それほどビートたけしが神格化されていたのだろうか。それともやはり、太田の会社批判・事務所批判・先輩批判・創価学会批判などが複合的な要因となって、その後の暗黒時代が始まったのだろうか。僕は、後者なのだろうと思っている。また爆笑問題と浅草キッドの関係も、プロレス的アングルの要素もあっただろうけど、まあ、きっと僕らも知らないいろいろな背景があるのだとも思う。というか、「田中の味わい方」を知っている現在の爆笑問題ファンからすれば、むしろ注目すべきはやはり田中のほうである。太田の毒舌が、わざと、とは言わないまでも、ある種の毒舌芸として許容できる部分があるのに対して、それに便乗する田中の、さらっとした呼び捨ては本当に無礼な感じがして本当に可笑しい。じつは途中から田中も「たけし、たけし」と呼び捨てにしているのだ。しかも、最初に浅草キッドの名前を出すのも田中だし、放送終了直前に至っては、怒気のこもった博士に対して、半笑いでコミカルに、「博士、さっさと帰ってくださいね」なんて言っている。この頃から、田中も田中でやはり「なにかがおかしい」(伊集院光)のだ。まあともかく、貴重な音源が聴けて本当に良かった。ネット時代、とりあえず万歳である。

toshihirock_n_roll at 19:33|Permalink
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