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感染症数理モデルをどのように受け止めるべきか?

数理科学からみた新型コロナ問題

稲葉 寿 東京大学大学院数理科学研究科教授

 一つは既存のデータから流行の実態、感染の特性などを明らかにする統計的分析の分野である。たとえば、西浦教授や東北大学の押谷仁教授らは、データ分析によって感染効率の高まる環境(いわゆる「三密」)を割り出し、かつ時間遡及的接触調査によるクラスター対策を指導することで初期対応において大きな成果を上げた。また実効再生産数を日々計算更新して流行状況をリアルタイムで分析する枠組みを整えた。このことはまさに画期的であり、その意義は特筆大書されるべきである。ようやく世界標準の、今後の感染症対策のスタンダードを構築したといえる。

 ただ、基礎となるデータ収集体制、検査態勢が十分ではなかったこと、また分析チームが複数化されていないという問題は残った。こうした分析は主要な研究大学の公衆衛生学教室、社会医学教室等で当たり前に可能になっているべきで、ピアレビューが可能な、政府とは独立した機関がリアルタイムで公表するようにすべきであろう。

流行の将来予測はきわめて難しい

 もう一つの側面は、流行の将来予測である。今後の流行の予測は、行動制限の戦略をたて、必要な医療資源や検査態勢の準備、再流行への備えのために不可欠である。しかし、これこそはきわめて難しい課題であり、マクロな数理モデルの実用性は十分とはいえないなかで、研究者の出す数字を行政や国民がどのように受け止めるべきか、という基本的な課題が提起されたのである。

拡大今年2月に試算された流行のピークタイム。対策がなければ夏頃にピークが来るという結果だった。いずれにせよオリンピックは無理だったのだ。(T. Kuniya, J. Clin. Med. 2020, 9,789.)

 筆者の個人的感覚からすれば、大規模人口における長期的予測に関しては、古典的な固定パラメータの微分方程式モデルは、人口の異質性や行動変容を十分とらえきれておらず、「予測」とは区別して扱うべきものだ。これはパラメータのもつ論理的含意を引き出してみせることに意義があるものととらえるべきである。一方、時間依存パラメータをもつモデルによれば過去のデータにフィットするように調整はできるだろうが、それが将来予測として機能するためには、時間変動するパラメータが将来どうなるかについての頑健な法則性が必要である。だが、人間の社会的行動に関してなかなかそういうものを見つけるのは難しい。

 かつて人口問題研究所に所属した身としては、年金危機の責を負わされた将来人口推計の運命を思い出さざるを得ない。一般論としていえば、推計に基づく政策選択の結果責任は政府にあり、科学セクターの勧告や推計の責に帰することはできないはずであるが、モデルの性格を十分に理解した上で、説得的なシナリオを選択するには、相当な科学的素養が要求される。科学セクターとしては、起こった事態を検証し、数理モデルを改善する努力を継続すべきことはむろんであるが、それを受け止める側の数理モデルリテラシーを向上させるためのコミュニケーション努力が必要だろう。数理モデルの現状が満足すべきものでなくとも、数理モデルのない時代に戻ることはできないのである。

集団免疫の閾値をめぐる議論は盛んだが

 今回の議論のもう一つのキー概念は集団免疫閾値である。集団の中で獲得免疫を持つ人の割合が一定の値(=閾値)を超えれば、流行は収まっていくと考えられる。現在、新型コロナウィルスに関しては、推定された基本再生産数から計算される古典的な集団免疫閾値よりもずっと低いところに閾値があるのではないかという論文がいくつかあらわれている。

拡大4月7日以降接触頻度8割削減を一定期間続けたあとに、制限解除をおこなった場合の感染人口の変動試算。(T. Kuniya and H. Inaba, AMS Public Health, 7(3), 2020, 490.)

 集団免疫閾値の議論を支えているのも、ケルマックとマッケンドリックが最初に提案した古典的な感染症数理モデルである。現在の新たな議論においては、非薬剤的方法による流行第一波の制御終息によって免疫化された人口割合を考え、第二波の流行が起きないようなその臨界的割合を集団免疫閾値として考えている。これは、集団は一様な感受性を持つという古典的な考えから、異質性を持つグループごとの流行の様相をふまえて、よりダイナミックに閾値を定義しなおしたものといえよう。感受性集団の異質性によって、高い感受性集団から選択的に流行が発生すれば、制御による流行中断によってより低い感受性集団が残されていくから、一様な集団よりも低い閾値が期待されることは容易に想像できるが、その普遍的計算方法は確立されてはいない。

 一方、本稿執筆時点において、各種のニュースを見る限りでは、新型コロナウィルスに関しては、抗体保持者の拡がる速度は期待よりもずっと低いようである。回復者は抗体をもたないか、もっても数カ月で急速に減衰するという報告も複数ある。こうした兆候を見ると、新型コロナに関しては、回復者であっても再感染があるのではないかという想像が成り立つ。その場合、基本再生産数が再感染閾値をこえていれば、獲得免疫による流行終息は期待できない。

 しかしながら、回復者やワクチン接種者が弱い病原性や軽い症状しかもたないのであれば、ハイリスクな人口を削減するワクチンは大いに効果があるというべきだろう。感染者と回復者の共存システムにおいては、流行はエンデミック(感染者が常在する状態)であるが、脅威となる感染症とはみなされなくなっていく可能性はある。

 いずれにせよ、集団免疫に関するこれまでの数理的理解は大きく変わらざるを得ないだろう。

研究教育体制の不十分さこそ日本の反省点

 事態の急速な展開の中で、やむを得なかったとは思うが、今回の数理モデルの政策実装において、議論の混乱があったとすれば、政策決定主体との距離感が不足していたことだけでなく、専門家「集団」による有効なピアレビューが働かなかったことにも要因があるのではなかろうか。これには、日本のこれまでの専門家養成システムのあり方にも責任がありそうである。

 本来であれば、先に述べたように、こうした感染症数理データサイエンスや数理モデル解析は大学の公衆衛生学や社会医学系学科において教育されるとともに、研究大学を中心に複数の研究チームが存在するべきであった。広くいえば、感染症のような「生命・社会問題」におけるデータサイエンス・数理モデル活用という基本的な課題に応じる研究教育体制が不十分であったことこそ、日本の反省点ではないだろうか。

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筆者

稲葉 寿

稲葉 寿(いなば・ひさし) 東京大学大学院数理科学研究科教授

1957年生まれ。ライデン大学PhD. 厚生省人口問題研究所研究員、室長などを経て1996年東京大学大学院数理科学研究科助教授、2014年より現職。専門は数理人口学、数理疫学における構造化個体群ダイナミクス。著書に『数理人口学』(東京大学出版会、2002年)、『感染症の数理モデル』(編著)(培風館、2008年)、Age-Structured Population Dynamics in Demography and Epidemiology(Springer、2017年)など。

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