笙子がいた夏 2章


 その日の午後は、二人で買い物に出かけた。
 笙子の着替え等を揃える必要があったからだ。長身の私と小柄な笙子では身長が十五センチ以上も違うから、私の服を貸すというわけにもいかない。
 笙子は本当に何も持たずに家出してきたのだ。まあ、アメックスのゴールドカードがあればそれで充分、という気もするけれど。
 それに、冷蔵庫もほとんど空だった。二人分の食料を調達しなければならない。自分の懐が痛まないこのチャンスに、黒毛和牛のサーロインでも買っておこう。
 買い物の途中で、笙子は家へ電話をしていたようだ。「えへ、怒られちゃいました」なんて笑っていた。当然だろう。


 夕食の仕度は私の仕事だった。
 純粋培養のお嬢様である笙子は、家事などほとんどできないのだ。ここにいる間に、少し憶えさせようか。
 私は料理は好きだけど、掃除はあまり好きではない。だから、笙子に掃除を押しつけられればいいな、なんて思っていた。幸い笙子は、嫌な顔ひとつせずに嬉々として家事にチャレンジしていた。お嬢様にとっては、掃除や洗濯も物珍しい体験なのかもしれない。本人にやる気があるなら、二、三日で使い物になるだろう。
 夕食の後、私はビールを飲みながらテレビを観て、この奇妙な同棲もけっこううまくやっていけるかな……などと考えていたのだが、一つ、見落としていたことがあった。
 私の部屋には、ベッドが一つ。
 お客さん用の布団なんてないし、人ひとりが横になれるほど大きなソファもない。
 と、いうことは。
 必然的に、今夜も一緒に寝るということだろうか。それはマズイかもしれない。
 私は飲みかけの缶ビールをテーブルに置いた。ビール一缶で酔うほど弱くはないが、昨夜あんなことがあったばかりだし、自重した方がいいかもしれない。
 ちょうどタイミング良くというか悪くというか、笙子が大きな欠伸をした。
「ね、眠いの?」
 そう訊ねる声が、少し緊張していた。
「ええ。そろそろ寝ようかと思うのですが……」
「……が?」
「パジャマを買うのを忘れてました」
 うっかりしてました、と笑って言う。
「あの、予備のパジャマか何か、貸していただけませんか?」
「あ……、う、うん」
 私は寝るとき、いつも大きめのTシャツをパジャマ代わりに着ている。それを貸してあげたんだけど、私でも大きいんだから笙子が着ると本当にだぼだぼだ。
 下着一枚の上にTシャツを着る。肩と胸元が大きく露出して、ちょっと……いやかなり、アブなげな姿だった。
「沙紀さんは、まだ寝ないんですか?」
「え、っと……その……。まあ、そろそろ……」
 寝るのはいいんだけど、「何処で」というのが問題だ。普通に考えると、一つのベッドに二人が寝ることになるんだけど、それは笙子が嫌がるかもしれない。なにしろ昨夜、私に襲われているんだから。
 ところが笙子は、私の心配をよそにあっけらかんとしていた。
「沙紀さんのベッドは大きいから、二人でも寝られますね」
 先にベッドに横になって、う~んと伸びをする。
「えっと……、そ、そうだね」
 笙子が何も気にしていないのに、私があれこれ思い悩んでも仕方がない。枕は一つしかないので、小さいクッションを持って私もベッドに入った。
 部屋の明かりを消す。
 それでも薄いカーテンの生地を通して街灯の明かりが入ってくるので、室内はぼんやりと明るい。
 窓をバックにして隣りに眠っている笙子のシルエットが、黒く浮かんでいた。
 腕と腕が、微かに触れ合っている。
 私は、不自然なくらいにどきどきしていた。とても眠れそうにない。
 どうしてだろう。
 隣りに人の温もりがあることに慣れていないわけじゃない。前の彼氏と一緒に寝ることだってしょっちゅうだった。
 なのに何故、こんなに意識してしまうんだろう。
 自分のものではないトリートメントの香りが鼻をくすぐる。昼間買い物に行ったとき、笙子がいつも愛用しているシャンプーやボディソープ等を買ってきたのだ。私が使っている物の、三倍以上の価格だったのを覚えている。
 無意識のうちに笙子の方を向いて寝ていた私は、少しだけ顔を近づけた。その分、香りが少しだけ強くなる。
(いい……匂い)
 これが、笙子の匂い。そう思うと、胸の鼓動がよりいっそう強まった。
 笙子は早々と眠ってしまったのか、行儀よく仰向けになって静かな呼吸を繰り返している。
 かなりささやかな膨らみが、ゆっくりと上下している。
 私はしばらく、そのまま笙子を見ていた。
 どのくらいの時間だろう。五分か、それとも三十分か。
 不意に、笙子が目を開いた。私の視線に気がついたのか、顔をわずかにこちらへ向ける。
 目が、合ってしまった。
 暗くてよくわからないが、小さく微笑んだように見えた。
「……眠ってた?」
「……少し、ウトウトしていたみたいです」
「あんた、よく平気で寝られるね」
「ええ。わたし、枕が変わるのは平気な方なんです」
 わざとなのか天然なのか、見当違いの反応を返す。
「そうじゃなくて……。私のこと、怖くないの?」
「怖い? 何故ですか?」
 身体ごと、私の方を向いて訊いた。
「だって私、笙子のこと……その、レイプしたんでしょう?」
 時間が経つにつれて、私もかなり思いだしていた。昨夜のアレは、確かにレイプと呼んでもいいものだった。何が起こったのかわからずにいる笙子を押し倒して、取り返しのつかないことをしてしまったのだから。
「それは……そうですけど……。沙紀さん、しらふでもあんなコトするんですか?」
「するわけないでしょ!」
「じゃあ、今夜は安心ですね」
 にこっと笑ってそう言うと、また仰向けに戻る。
 そのまま眠ってしまうのかと思った頃、小さな声が聞こえた。
「……どうしてなんでしょう。ぜんぜん、怖くないんですよ。昨夜も、確かに驚きましたけど、何故かあんまりショックでもなくて……。どうしてなのかな」
 囁くような声で言うと、ちらっとこちらを見た。
「これって変ですか?」
「……変」
 お嬢様だから、感受性も庶民とは少し違うのかもしれない。
 なんてことを考えながら、だけど私は少し安心していた。笙子の心に、拭いようのない傷を残していたら大変だから。
「こうして一緒に寝ていても、ぜんぜん不安なんてないですよ。むしろ……」
 笙子は私の方を見て、目をそらして、また目を合わせて……という動作を繰り返した。何か、言いにくいことがあるようだ。
「何?」
「あの、……もうちょっと、傍に寄ってもいいですか?」
「え?」
「なんていうかこう……隣りに人の温もりがあると、すごく安心して眠れません?」
「まあ……ね」
 小さい子供みたいなことを言う……とも思ったけれど、否定はできない。
 私も彼氏とラブラブだった頃は、ぴったりと寄り添って眠るのが好きだった。それに笙子の場合、生まれて初めて親に逆らって見知らぬ土地に来て、不安もあるのかもしれない。
「なんなら、腕枕でもしてあげようか」
 冗談のつもりで言ったのに、笙子は恥ずかしそうに頷いた。これでは後に退けない。
 ぴったりと身体を寄せてくる笙子の頭を少し持ち上げて、腕を下に入れる。何が楽しいのか、笙子はくすくすと笑った。
「やっぱり少し、どきどきしますね」
「じゃ、止める?」
 そう訊くと首を横に振る。
「今夜は、気持ちよく眠れそうです」
「昨夜は、眠れなかった?」
「……ええ。明け方になってようやくウトウトと」
「そう」
 そりゃそうだろう。そうでなきゃ変だ。私はむしろ安心した。
 先刻までの動悸も、いつの間にか治まっている。
 やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。
 笙子の顔が、すぐ横にある。
 無防備な寝顔は、やっぱり可愛い。
(やっぱり、襲っちゃおうかなぁ)
 何気なく浮かんだその考えを、慌てて振り払う。
 私ってば、何を考えているんだ。私はノーマルだったはずだ。
 少なくとも、一昨日までは。
(私はノーマルだ、私はノーマルだ、私はノーマルだ……)
 だけど……。
 あの可愛い喘ぎ声をもう一度聞きたいって、心のどこかが思っている。
(襲っちゃダメ、襲っちゃダメ、襲っちゃダメ、襲っちゃダメ……)
 念仏のように唱えているうちに、いつしか私も眠りに落ちていった。

続く

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