しろばなさんかく

ボカロと音楽のことを書いていきます

#2019年ボカロ10選 後記

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①本当は演奏家たちとともに/imie×ばらっげ

 

 

 

VOCALOID聴き専ラジオのパーソナリティNezMozz氏がVOCALO CRITIQUE vol.4に寄稿した論考「ディアスポラ、第一便」を読み返すと、当時のボカロシーン居住地…即ちニコニコ動画初音ミクという絶対中心地からの離散行動が2012年の時点で既に始まっていたことが指摘されており、その離散(ディアスポラ)とはネガティブな意味ではなく、むしろ離散者自身にも自覚がないほど遅効性の種蒔きに近い行為…ある種の革命の前兆であることが予見されています。

また続く2013年、永野ひかり氏の論文「フリーミュージック/フリーコンテンツ
—インターネットレーベルと初音ミク現象に見るコンテンツ制作者の未来
」では、NezMozz氏の指摘を背景に、初音ミクニコニコ動画という、いわば”実家”を起点として再出発する意識こそが新たな固有価値を生むことに繋がっていくことが述べられていました。

時は流れ、前述した2つの論考がボカロシーンの前半を語ったものに過ぎなくなるほど無慈悲に時間が経過した今となっては、それらの予見は大筋正しかったと言えそうです。国民的アーティストとなった米津玄師は言うに及ばず、後に続くポスト米津ボカロ転生型アーティストが国内のシーンを席捲、ボカロを踏み台にクリエイティブ産業へ進出する例はいまや何も珍しいものではなくなり、情報感受性に優れた若い世代を一括りにするバズワードとしての「ボカロネイティブ」が引用抜きで成立するほどになった現状を見ると、ずいぶん年をとってしまったなぁ…とやけに老爺めいた感想が漏れてしまいます。

ではボカロシーン黎明期の熱狂が確かな過去になって久しい今、我々が立っている地点は一体どうなっているのか。
誰かが答えなければならなかった問いを正面から受け止めたのが、まさに本作といえるでしょう。

 


雄大なロックバラードを伴い、唸るように咆えるように初音ミクがなぞるのは、いつの間にか遠くなってしまった「あの頃」からの距離。


即ち…かつて皆で一緒に聴いていた筈の音は、もう聞こえなくなってしまった…。

明確で残酷な事実。

 


それだけが何度も、何度も。

何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

繰り返し伝えられます。

 

タイトルにもある「演奏家たち」とは、ニコニコ動画初音ミクを奏でる創作者のみならず、聴衆やその時代の空気までを包含した多義語であることは疑いようもありません。そこまで理解が至って始めて、あの頃の我々は、そこに一人の女の子がいることにしよう、という幻想に魅せられた共犯者であったのだと気付きます。

 

 

 

知っていますか?
共犯者って、この世で一番親密な関係なんですってよ。
焼焦げは消えても、痛みは消えてくれないんです。

 

 

 

 

 

 


お元気にしていますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

先に挙げたNezMozz氏の論考は、「今は第一便が出発し始めたばかりです」と結ばれていました。それから今に至るまで、一体いくつの便が出ていったのか?もはや数えることすらおぼつかないまま、残り香と、肌に纏わりつくその湿度を、もう少しだけ感じていたいな…なんて。最近はそんなことばかり考えています。

 

 

 







 

 

 


初めましての方は、初めまして。
またお会いした方も、初めまして。

 

初めまして。
初めまして。


もう一度初めましてしましょう。
何度でも初めましてしましょう。

 

 

 

 

申し遅れました、私、しろばなさん、といいます。

 


1年間に投稿されたVOCALOID音楽作品から10作品を厳選し共有する、ボーカロイドファンコミュニティ年末年始恒例行事「年間ボカロ10選」も、早いもので2019年で第11回目。星の数ほど膨大な作品群からたった10作品に絞り込むのは毎年本当に大変ですが、せっかくなので自分自身の備忘も兼ねた選評・紹介記事を今回も書きました。

 

少し長いかもしれませんが良ければどうぞ、お付き合い下さい。

 

それでは続いて2曲目から!

 

 

 


②YY/23.exe

 

 

新興音楽ジャンルがその発展過程において伝播先のお国柄・コミュニティ特性といったある種の”捻じれ”を取り込んで変容していく様は常に興味深いものとして在りますが、それは国産のfuturebass(フューチャーベース)というジャンルでも同様でしょう。日本のゲーム・ミュージックがイメージソースとして活用されながらも海外から逆輸入的に伝わってきたという独自性、いわば二重に”捻じれ”た特徴がもたらす魅力は、2019年現在既に広く共有されています。
snail's housekawaii futurebass を創造したのち、一時は単なるブームとして消費されるかに思われた時期もありましたが、あれやこれやのうちに気付けばいつの間にかインターネットミュージックの重要な一角を占めるものとしてずっしり定着した感があります。ボカロシーンにおいてはかねてからシーンの柱の一つであるテクノポップ/ダンスポップに加えエレクトロニカ等の近傍ジャンルと接近・合流を繰り返しながら発展を続けていることが特徴的で、2019年はfuturebassの音色でつくるハードコア…いわゆるfuturecoreへの挑戦や、ワブルベースの厚みを応用して浮遊感を強調する形態など、様々なアプローチが日夜繰り返されており非常に楽しい1年でした。そんな群雄割拠な作品群の中でも白眉と言えるのが本作で、シーンの中枢で常に音楽性を更新してきた23.exe氏の作品群の中でも特異な1曲です。
futurebass由来のシンセサウンドを完全に咀嚼しながらも、型となる曲展開を意図的に崩し、全編にキャッチーなパーツを散りばめ、流暢なボーカロイド・ラップによってスムーズに繋いでいく曲展開はもはやfuturebassの括りで捉えることは困難で、氏のキャリアを横断するブレイクスとして捉える方が自然かもしれません。
その強烈な”捻じれ”がもたらす魅力の大きさは、ニコニコ動画よりもyoutube版における当作品の反響(多くが海外からのアクセスと思われる ※執筆現在)を見た方が一目瞭然でしょう。こんなところにも時代の変容を感じます。必聴。

 

 


③TOKYO NIGHT(80s-10s)/シカクドット

 

 

2019年を語るにあたり避けては通れない重大なトピックとして、シティポップ再評価future funkの台頭があります。vaporwaveのカルチャーを出自とするNight tempoマクロスMACROSS 82-99達の海外アーティストによって日本の…特に1980年代のシティポップが優れた参照源として見出されたのを大きな契機に、ムーヴメントが国内のアーティスト達と呼応しながら、ワールドワイドな80sリバイバルの空気も手助けして大きく拡大していったのが肌で感じ取れるほどでした。

和モノレコード流通価格の大幅な値上がりによって阿鼻叫喚の情報戦が繰り広げられるフリーマーケットサイトの光景や、還暦をとっくに超えた竹内まりやの紅白歌合戦初出場、といった象徴的な事件は後にも先にも出会えそうにありません。
本作はそんな結節点となる2019年の空気感をこれ以上なく表現する1曲で、前半が80年代シティポップ風のパート、後半は前半を踏襲しながらfuture funk風にアレンジしたパートの2部構成となっています。

グルーヴィーに甘いディスコ・ファンクとフォークが融合するメロウな曲調に浸っていると、突如テンポが上昇して解像度の高いキックが鳴り響き、一瞬でダンサブルな
フロアの真ん中へ誘導される展開は、並び立つ両ジャンルの関係性をこれ以上なく明快に伝えてくれます。

ラジオ・ネオン・ハイウェイ・スマートフォン・メッセージ…といった言葉遊びや、
後半パートのワザとらしいDJエフェクトなど、記号的な表現がこれでもかと乱舞し30年のタイプスリップが行われる中でも、お構いなしに歌い続けるVOCALOID歌唱の健気さと信頼性が逆説的に浮き彫りになるのも面白いところです。

失われた10年が20年になり…いつのまにか30年に延長されつつあるのを目の当たりにしている世代にとって1980年代の空気感を今と地続きで捉えることは相当困難で、エキゾチックな”何か”でしかないことが証明されてしまった時代、このムーヴメントはしばらく続きそうな予感もします。

 

 


④幽霊東京/Ayase

 

 

VOCALOID音楽メインストリームにおける主要リスナーはティーンエイジャーであることから、そのトレンドも中・高の3年タームに合わせて変容していくのでは?という予測が、かつてはまことしやかに語られていたことを思い出します。ここで求められるボカロっぽさ・ボカロらしさという概念の起こりを、不世出の天才wowakaが高速ボカロックという形態を発明した2010年前後に置くとすれば、kemuじんの二大巨頭がその方向性を極限まで発展させたのが13年、一転してミクスチャーやラテンビートを取り込んだダウナーなダンスロックが新たな可能性を示し始めたのが16年頃なので、いま振り返ってみると実は結構的を射た説だったのかもしれません。

では、ここから当然の如く発生する疑問、16年からちょうど3年目に当たる2019年、ボカロシーンの方向性を象徴していたのは一体何だったか、いや…”誰”だったか?という問いには、間違いなくAyase氏であったと答えたいと思います。

氏の作品を聴き返すと、高速ボカロックの文法に忠実な初投稿作「先天性アサルトガール」からわずか1年の間に、先人達が培ってきたメインストリームの方法論が物凄いスピードでトレースされていることに気が付きます。その圧倒的な研究量に裏打ちされた非凡なバランス感覚こそが氏の武器であり、その強度が遺憾なく発揮された結果が本作だと言えるでしょう。

ディスコ&ファンクとミクスチャーロックを消化したミドルテンポのダンスビートに、伸びやかなリードシンセ、ファンクギターのカッティング、16年以降の流行を引き継いだ内省的な歌詞とビジュアルイメージといった諸要素が効果的に溶け合い、特有の”キレ”とでも形容すべき快感があります。

かつてwowakaが示した”ボカロっぽさ”の本質が、単位時間当たりの情報量を極限まで増加させることにあるとすれば、Ayase氏のアプローチは足し算と言うよりむしろ引き算に近く、いかに上品に音を引いて緩急をつけるか、用意された手札をどのタイミング
で切るかの判断の正確さによって単位時間当たりの情報量を相対的に操作しているようにも思えます。これは非常に面白い。
Ayase氏は今後2020年ネクストブレイクアーティストに挙がってくる存在であることは間違いないと思うので、その動向により注目していきたいですね。

 

 

 

ホーリータウン/月本

 

 

 

2019年は、J DillaNujabesを源流に掲げるインストゥルメンタルのHip Hop、いわゆるLo-fi Hip Hop(ローファイ・ヒップホップ)が国内で影響力を増してきたことも語られるべき変化の一つです。これはテン年代中盤を席捲したEDMをはじめとするパーティーミュージック、いわば”ハレ”の音楽がトレンドの先端から退場していくのと入れ替わるかのように、ヒーリングミュージック的な”ケ”の音楽の需要が高まってきている事実と無関係ではないでしょう。国内においては「音楽と日常の共存」を掲げるDJ OKAWARI達のアーティストが長年高い評価を受けてきた背景に加え、ここ数年で一気に普及したspotify等の音楽ストリーミングサービス、youtubeのライブストリーミングチャンネルの一般化などの事情も後押しに一役買っていそうです。

生活のあらゆるシーンで常に音楽を聴くという娯楽がより廉価に大衆化していく中で、能動的に音楽を聴きたくない時も何か素敵な音が流れていてほしい…という贅沢な悩みまでもが徐々に浸透しつつあり、実は丁度良い解答になっているのかもしれません。

 

本作はLo-fi Hip Hopのシーンを代表するレーベルの一つであるChillhop Musicが掲げるChillhop(チルホップ)のフォーマットを下敷きに制作が行われていると考えられ、前々項③のシティポップ/future funkにも頻出の「いつかどこか、ここでは無い場所」の象徴として、都市景観を合成したメランコリーな空気感の演出がなんともお見事です。

包み込まれるようなサウンドの中で泳ぐようにねじ込まれるベースの響きはまるでずっと泣いているかのようで、VOCALOIDという何物でもない歌手の甘い歌声と寄り添いながら溶け合っていきます。

ここでは歌われているのがあなたなのか、君なのか。夜なのか、昼なのか。現実なのか、夢なのか。それらの歌詞に一貫した意味を求める行為すら、ひどく無粋なものにすら感じられ、この上質な虚無に浸ること。それこそが正しいとすら思えてきます。
ダンスすることを求めない、強いメッセージで啓蒙してくることも無い音楽。それがやけに優しく感じるというのも、時代の変化を感じてなんだか面白いですよね。

 

 

 

⑥エゴ/sasakure.UK

 

 

日本におけるJUKE/footwork(ジューク/フットワーク)がシーンとして成立してから10余年。シーンの内部で培われてきた方法論が他ジャンルへ波及する例が徐々に見受けられるようになってきたのも2019年の重要なトピックでしょう。女王蜂の「火炎」、神山羊の「Child Beat」などメジャーアーティストがJUKEのリズムを引用した新しいタイプの楽曲を発表し始めていることに加え、DJプレイの分野でもその受容に変化が起き始めています。

JUKE/footworkでは元来BPM160を基準テンポと捉え、ポリリズムやハーフテンポへの展開を交え緩急を織り交ぜたトリッキーなプレイスタイルを基本とする文化がありますが、近年ではfuturebass・jerseyclub等、同様のbpm帯を基準に持つ近傍ジャンルを包含・横断しながら展開するプレイスタイルがベースミュージックの愛好家達を中心に、単に「160」というシンプルな呼称に回収されつつあり、これからなにか大きな流れが起こる前兆を見ているような気もしてきます。

本作は、そんないまがアツい「160」の方法論を、いまやボカロシーンにおけるレジェンダリー・アーティストとなったsasakure.UKがここにきて自身の楽曲に取り入れたという点で革新的な衝撃があります。

氏本来の持ち味である柔らかく雄弁な電子音の表現は健在で、そこに瞬間的に挟みこまれるクラップ音、多用される奇数連符、高速ハイハットなど「160」を象徴する要素が効果的に、全く隙無く配置されており、聴きごたえ抜群の仕上がりとなっていて思わず舌を巻くほかありません。

また特筆すべきは楽曲主題との一致度で、かなりトリッキーで複雑な筈の曲展開が、歌詞が語る焦燥感や終幕への疾走感を強調する心情表現として完全に嵌っており、ここにきて日本のJUKE/footworkが長年の課題としてきた日本語歌モノとの相性という面から
見ても独自の解答に辿り着いている点は高く評価されるべきでしょう。こういう曲を聴くと本当にワクワクが止まらないです。

 

 

 

⑦Tweedledum and Tweedledee/nina

  

 

VOCALOID音楽に好んで用いられるモチーフの一つに、少女性の象徴である「アリス」があります。VOCALOIDキャラクター達はあらかじめ与えられた年齢設定から年を重ねる事が無いため、初音ミク鏡音リンをアクターとして歌わせる物語音楽と相性が良いらしく、専用の検索タグが生まれるほど数多くの作品がこれまで制作されてきました。
本作にもアリス役に初音ミクが充てられており、既存作品と同様の発想からスタートしているように見受けられます。ただ面白いのは、そのアプローチ方法の明確な違いです。イメージソースとしての引用では無く、ルイスキャロルの原典を直接参照している点に着目すれば、劇伴音楽の一種として制作されたと捉えるのが妥当かもしれません。とても硬派ですよね。
劇伴音楽と言えば、近年はクラシックやアコースティックなサウンドの教養を備えながらエレクトロニカの手法を積極的に取り入れる一派…いわゆるポスト・クラシカル作家と呼ばれるアーティスト達が席捲しているのは重要なトピックです。この一派に属するヒルドゥル・グドナドッティルの劇伴が映画「JOKER」でアーサーのバスルーム・ダンスのシーンを生んだエピソードなどは、彼らの作法がいかに優れた表現力を備えているか如実に物語っているとも言えるでしょう。

話が逸れました。

本作を手掛けたnina氏においても、過去の制作履歴を辿るとどうやらポスト・クラシカル作家に近しい経歴であるのかもしれません。
本作では鏡の国のアリス第4章「トゥイードルダムとトゥイードルディー」のエピソードに沿って、

アリスが双子に出会う→会話をはぐらかされる→何故か3人で踊りだす→双子が決闘の準備をする→大きなカラスが現れて全て有耶無耶に 

以上の流れが淡々と展開していき、冒頭のシンプルさに油断すると気付けばどんどん奥に引き込まれているディープな感動があります。古典ファンタジーに特有の空気感すら
忠実に描画しているようで、思わずニヤニヤしてしまいます。すばらしい。出逢えて本当に良かったと思える1作です。

 

 


⑧嘘のない世界を/Apple Kadenz

 

 

ここ数年VOCALOID音楽を掘っていると時折見つかるのが、作曲者が自らの過去作品を参照するセルフ・アンサー的な楽曲です。投稿10周年を契機にリメイクやリミックスを行った作品や、過去に扱った主題やモチーフに改めて向き合い直す作品などがあり、ずっと聴き続けてきてよかったなぁ…と心底嬉しくなってしまいます。リスナー冥利に尽きるとはこのことですね。
本作は先に挙げた後者に該当し、Apple Kadenz氏の前名義での傑作「私はクズです」の実に6年半越しのセルフ・アンサーとなっています。「私はクズです」といえば過去にれるりり氏の脳漿炸裂教室(なつかしい!)でも題材として取り上げられたことがあるのを覚えている方もいるんじゃないでしょうか。

辛口がウリのこの企画において、ほとんど唯一と言って良い「お前の曲はレベルが高すぎて、理解できるリスナーがあんまりいなかっただけの話だ。」という評価と、反響を気にせずに好きなことをやった方が良い、という柔らかいアドバイスが添えられていたのを思い出します。

このエピソードは、れるりり氏がこの後商業作家として成長していった事実を踏まえると、彼の芸術に対する哲学と人間性が垣間見える貴重な一幕であると同時に、Apple Kadenz氏が当時のボカロシーンにおいていかに異質な存在であったのかを如実に物語っているとも言えるでしょう。


膨大な音楽聴取歴と古楽への深い教養に裏打ちされた氏の音楽性は非常に難解かつ常に発展を続けており、本作においてはメリスマ唱法と呼ばれる手法が取り入れられている点は見逃せません。
この手法は古楽や民謡などに多く見受けられる1音節に多音譜を割り振るもので、ざっくり言ってしまえば、すごく長い”こぶし”に近い唱法です。これによって何が起こるのかと言うと、同じ母音を上げ下げしている最中に歌詞の進行が止まる為、氏本人が言うところの”言葉の痙攣”が発生し、声と音そのものの強度が剥き出しになる効果があるのです。
氏の調教によって本質が剥き出しにされた猫村いろはの歌唱から受ける印象は、もはや歌声と鳴き声の同居に近く、動物的な何かにすら聴こえます。ここではVOCALOIDという楽器が持つ特性、人間のようでありながら人間では無い特殊性と図らずとも同期している点が非常に印象的で興味深いです。6年半ぶりのアンサーに相応しい重みが、ずっしりと伝わってきます。

 

 


ネトゲワスレ/てんき

 

 

DTMの発展が果たした功績の一つに、匿名の誰かのささやかな感情を乗せた歌、本来であれば決して表に出てくる筈がなかったアマチュアリズムに溢れる室内楽、それらを表出させる大きな契機となった点があると思います。今でこそ、例えばBillie Eilishが未だに実家のベッドルームで曲制作を行っているエピソード等が肯定的に広く語られるようになっていますが、本来はひたすら内に籠って誰の為でもない楽曲制作を続けるという行為は、祈りに近い意味を持つ”何か”であったのだろうな、と想像することが出来ます。聖書にもそんなような一節ありましたよね。知らんけど。
近年では、このような言わばギター・ミュージックを通らずに直接DAWプラグインに接続する様な室内楽TINY POPと呼称して一つのジャンルとして捉える動きも起こり始めており、なかなか興味深い状況になってきています。

ボカロシーンにおいてこの手の室内楽は黎明期から常に細く長く絶えず供給が続くジャンルでもあり、アンダーグラウンドIDMを指向する制作者もいれば、合成音声の
イノセントな歌唱を用いた箱庭的ポップスを指向する制作者もいて、その多様性は個人的にもVOCALOID音楽を掘る大きな動機の一つになっています。
本作は重度のオンラインゲーム愛好家でもあるてんき氏による連作の一つで、おそらく当初は”ネトゲ”にはまりこむ自分、それを閉じ込める部屋の密室感という、パーソナルで俗な対象を俯瞰で描画しようとする試みであったと推測されますが、曲の進行とともに俯瞰目線が徐々に内へ内へ向かっていくうちに、なぜかいつのまにかポップスの宇宙に接続されているという、ちょっと意味が良く分からない展開に、気付けば魅了されてしまっています。すごい。なんだこれ。こういう曲があるから、ボカロを聴くのはやめられないんですよね。

 

 

 
⑩akane/puhyuneco

  

 
海の幽霊」ほか諸作品によって、デジタルクワイアと呼ばれる手法が国内での認知度を上げたことも2019年で特筆すべき点です。プリズマイザーと呼ばれるボーカル・エフェクトの開発に端を発するこの手法は、一つの歌声からソフトウェア解析を用いて重層的なハーモニーを生成する手法で、かねてより米国ポップスにおける歌唱表現の幅を大きく変えてきたことが有名です。

翻って、あたかも一人の歌手から複数人の歌手を創り出す様なこの手法の特徴を鑑みると、同じ歌手を複数トラックで鳴らすことが機能的に容易なVOCALOIDと実は相性が良いのではないか?そんな考えが頭の中に持ち上がって来たところで、実はpuhyuneco氏の過去の楽曲「アイドル」「00」で見られた特徴的なコーラス・ワークがまさにそれであった事に気がつきます。

そんな、ようやく理解が追い付き始めた頃の我々の前に姿を現した本作では、puhyuneco氏の音楽性が既にもっと奥へ、さらに深淵へ進んでしまっていることが判明します。
本作におけるデジタルクワイアは過剰方向へ振り切れており、もはやクワイアという言葉で表現するのが難しいほどの声の集合体です。過去・現在・未来のあらゆる感情が同時に鳴っている様な、巨大な音の壁、とでも形容すべきでしょうか。瞬間的に立ち現れては消えて、また現れて。puhyuneco氏がモチーフとして扱い続けてきた初恋と帰り道、夕暮れの光景、それらが氏本人の過去の記憶をトレースするかのような解像度で極北へと導かれていきます。いびつに歪んでいるはずのひどく尖った曲構成でありながら、どうして自分はこれをポップスとして認識してしまうのか。させられてしまうのか。なにも分からない。


ひょっとして、自分は歌のことなんて…いや、音楽の事なんて本当は全然…何も知らないんじゃないか。これからもこの曲を聴き返す度に、そう思い返すことになるのだと思います。

 

 

 

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以上、10曲でした。


ここまで読んで下さってありがとうございました。

VOCALOID音楽の面白さをお伝えする一助となったなら幸いです。

 

私自身はボカロを熱心に聴き始めてからもう既に10余年が経過してしまいましたが、
最近は聴けば聴くほど、深みに嵌ってますます何も分からなくなっていくことに気が付きます。ボカロわからん。


さて、年が明けて2020年になりました。
次の初音ミクがVOCALOIDエンジンでは無くクリプトン社の独自エンジンを採用するとのニュースもあり、一連の音楽ムーヴメントをVOCALOID、あるいはボカロという言葉で括ることが出来るのも、そろそろ一区切りなのかもしれません。


いずれにせよこれから過渡期に突入するであろうことは紛れもない事実なので、
願わくば行く末を見届けんと、必死に食らいついていきたいなぁ、と思っています。

 

 

 

 

 


……長くなりました。

 


本当はお話したいことがもっとたくさんあるんですが、
それには余白も時間も少し足りないようなので、
この辺で筆を置きたいと思います。

 

 

さようなら。
それではまた、どこかで。

 

 

次にお会い出来たら、

その時はまた、初めましてしましょう。