LOVE & SEX

宗教人類学者・植島啓司が、説く。男にはなぜ「愛人」が必要なのか?

愛人をもつのは悪だ──そんな世間の道徳観念に縛られて、ロマンスのない人生を送っている男がどれだけいることか。不貞とされる所以を把握もしないまま、人間の本能を封印して……。いい女を連れる男に指をくわえて羨ましがるのはもう終わりにしよう。明日ばったりと出会う運命の愛人が、あなたの幸せの鍵を握っているかもしれないのだから。 愛人をもつのは悪だ──そんな世間の道徳観念に縛られて、ロマンスのない人生を送っている男がどれだけいることか。不貞とされる所以を把握もしないまま、人間の本能を封印して……。いい女を連れる男に指をくわえて羨ましがるのはもう終わりにしよう。明日ばったりと出会う運命の愛人が、あなたの幸せの鍵を握っているかもしれないのだから。

愛人をもつのは悪だ──そんな世間の道徳観念に縛られて、ロマンスのない人生を送っている男がどれだけいることか。不貞とされる所以を把握もしないまま、人間の本能を封印して……。いい女を連れる男に指をくわえて羨ましがるのはもう終わりにしよう。明日ばったりと出会う運命の愛人が、あなたの幸せの鍵を握っているかもしれないのだから。

文:植島啓司

The Lover (1992 France) aka L'AmantDirected by Jean-Jacques AnnaudShown from left: Jane March, Tony Leung Ka Fai

男にとって喜びを与えてくれるのは愛人の存在だけ

男と女とでは年をとってからの過ごし方に大きな違いがある。男は主に仕事や会社単位のつながりで生きてきたので、そこから離れると一緒に飲む仲間もいなくなり、年とともに孤立を深めていく傾向がある。それに対して女には楽しいことや時間を割くべき用事がいくらでもある。子ども(育児)、女子会、近所づきあい、習い事、クラブサークル、ショッピング……、それにちょっとしたデートまで加えれば、忙しすぎて孤独を感じるヒマもないだろう。女には子どもやペットを通じてすぐに友人関係がつくれるというメリットもあるが、男にはそうした技能を持つ者はほとんどいない。

そもそも男というものは、いくつになっても自分の身に起こったことを話す相手(女)を必要としている。他人が聞いたらつまらないようなことでも熱心に聞いてくれる相手がいなければ、たちまち毎日がグレーになってしまう。

しかし、その点、家族は冷淡だ。妻はだいたい忙しくしていて、そう毎日他人のグチや心配事を聞いてくれない。たまに自慢話でもしようものなら、「その話、前に聞いたわよ」とシャットアウトされてしまう。そうなると男には話し相手がいなくなる。自分の身に起こった重大な事件や大きな社会的出来事ならば、だれでも耳を傾けてくれるだろうが、ほんのささいな出来事、たとえば、「新聞に、東京のほうが大阪より寒いっていう記事が出ていたけど、名古屋はどうなんだろうね」とか、「電車の中で若いカップルがキスしていたよ、あれってどんな感じなのかな」とかいう話を、そんなに熱心に聞いてくれる相手はいない。ましてや、「今日、取引先の女の子に若いってほめられたよ」なんていう話になると、ほとんど喜んで聞いてくれる人はいなくなる。

いや、妻だって昔はかわいくて、一緒に心配してくれたり、笑ってくれたりしたものだが、20年、30年一緒にいるとそういうわけにもいかなくなる。いまや羊の顔をめくってみたら狼が出てくるぬいぐるみ人形みたいなものだ。

そんなとき愛人がいたら問題は一挙に解決されることになる。こちらの話を熱心に聞いてくれて、ちょっとしたことでも大げさに喜んでくれる。そう、誰だってただ温泉に入るとか、おいしいごはんを食べに行くのが楽しいわけではない。一緒にそれを喜んでくれる相手がいなければ楽しみも半減してしまう。ここではっきり書いておきたいのは、「ある程度の年齢に達した男にとって喜びを与えてくれるのは愛人の存在だけ」だということ。ある程度の年齢、だいたい40代を過ぎたころから、男にはどうしても愛人が必要となってくる。だからどのような社会でも愛人を社会システムのなかに入れ込むようにしてきたわけである。

愛人の概念が変わってきた

では、なぜ男には愛人が必要なのか。いまそれを論じる背景には、男の価値の相対的な下落もあるし、男女関係の多様化ということもある。さらに「愛人」の概念が変わってきたということもあるだろう。いま述べたように、男がきちんと仕事をしてお金を稼いできてくれるというのが当たり前になると、男のありがたさが半減してしまって、つい邪険な扱いを受けるようになる。こちらも相手によっては話していいことが限られてくるし、酒を飲んでグチを言い合えるような友人もなかなかできない。また、女にも経済力がついてきて、男を頼りにしなければ生きていけないということもなくなってきているし、社会的にも自立をうながされているという事情もある。

だから愛人といっても一般に想像されているように性愛関係のことばかりが望まれているわけではない。むしろ、それ以外の要素がクローズアップされてくる。人間はいつも一緒にいる相手に大きく影響される。相手が20代だとこちらもまた若々しくなるし、30代だと生きるチカラが湧いてくる。40代になるとしっとりと心豊かな時間を送ることができるようになるし、50代の愛人というのもまた慈愛深くこちらに自信を与えてくれる。

そのようにして女の年齢によって男というものは変わってくるのである。だから、相手の年齢にはそんなにこだわる必要もないし、相手が結婚しているかどうかはまったく問題にならない。とにかく自分にぴったりの相手が現れたらすぐにゲットすることである。自分に親しみを感じてくれて、愛情を寄せてくれて、さらにぜいたくを言えば、尊敬(のフリ)までしてくれたら文句なしだ。

かつては愛人というと相手を養うだけの器の大きさ、権力、経済力が必要とされてきた。特に経済的な余裕がないと、とても愛人など持てないと思われてきたものだった。しかし、いまや「愛人」といってもその意味合いは大きく変化してきている。単なる一方通行の関係ではなく、男女ともお互いに対等な関係を求めるようになってきているからである。つまり、愛人イコール女性ではなく、両方ともにそれを求めるのが当然ということになりつつある。単に夫婦関係の外で交際し、理解しあい、愛しあう相手を「愛人」と呼ぶようになっている。60年代に唱えられた「オープン・マリッジ」のように、男にとって「妻+α」、女にとって「夫+α」というかたちが今後一般的になっていくのではないかと思う。もちろんαは複数であってもまったく問題ない。とにかく、男女ともに職業を持つのが当たり前になってくると、愛情のあり方もまた対等になってくるというわけである。

愛人もカジュアル化しつつある

いまから振り返ってみると、結婚したら死ぬまで相手に尽くし、他の異性には目もくれずに過ごして、家族に看取られて死ぬというのが、長いあいだ当たり前と思われてきた。そんな時代には、男もそれなりに幸せだった。しかし、そういう一夫一婦制を支える倫理観はいまや音もなく崩壊しつつある。その破綻は普通に考えられているように男性の側から引き起こされた事態ではなく、むしろ、女性たちの変化によって導き出されたのだった。

かつては女には選択肢がなくて、結婚して、子どもを産み、母親となって、家を守るというような生き方しか認められてこなかった。しかし、女性の社会進出がどんどん進むにつれて、それなりの経済力を持つようになり、さまざまな喜びも知り、むしろ、女にとっては独身でいるということのほうが専業主婦になるのと比べてメリットがあるとさえ思われるようになってきた。イヤな結婚をするくらいだったら、親と一緒に暮らすほうがずっと楽だと考える女性が増えてきているのである。

男性のほうからしても、いわゆる団塊の世代までは、女は養うものであり、守ってあげなければいけない存在だったから、デートしてもけっしてお金を払わせることはなかったし、結婚した後に彼女を働きに出すなんて不面目なことだった。ほとんどの女性は専業主婦に収まっていた。少なくとも1950年代まではそれが常識だった。ところが、1960年前後に生まれた男女あたりから事情がすっかり変わってしまったのである。よく考えなくてもわかることだが、同じ収入があるのに男が必ずおごらなければならないというのはまったく不合理なことである。同じ仕事をして疲れて帰ってくるのに女だけが食事の支度をするというのもおかしい。

愛人にしたって同じことで、それはもはや男の特権でもなんでもなくなっている。以前、エチオピアからケニアにまたがって暮らすボラナ族の社会では、「男が戦いに行くように女は愛人をもつ」という例を紹介したことがあるのだけれど、男にとって楽しいことは女にとっても同じようにわくわくすることなのだ。そんな民族史の例はいくらでも挙げられる。

運命の女

もともと人間は生きているかぎり人を愛するようにできている。一人の異性を選んだら他の相手を拒絶しなければいけないというほうがむしろ不自然だったのである。たとえば、あるパーティで偶然他のテーブルの女と目が合ったりすることがある。しばらくしてまた目が合ったりすると、胸がときめくのを感じることがある。みんなでテーブルを囲んで談笑しているとき、テーブルの下でお互いの膝が触れ合っているのを知るとき、あなたは幸せを感じないだろうか。女の側からしても、みんなでパーティをやっているとき、好ましいと思っている相手にトイレからの帰りを待ち伏せされてキスされたりしたら、その日一日中雲にでも乗ったような気分で過ごすことになるだろう。

そうした日々を取り戻さなければならない。妻は2人いらないが、愛人は何人いてもよろしい(ちょっと忙しくなるが、それはまあいいだろう)。その場合、経済力があればもちろんそのほうがいいに決まっているけれど、いまではそれが絶対的条件ということでもない。なんらかの技能(ピアノを弾くと天才的)とか、相手を黙って受け入れる心の広さとか、豊かな知性とか、人間的な温かみとか、求められるべきものは他にいくらでもある。女房子どもにすべての行動が読み切られている男など何の価値もない。みっともないだけだ。あなたは一生をかけて自分にとっての「運命の女」を探し続けるべきなのではないか。

だいたいいつも決まった相手(妻・恋人)といるからといって誠実であるとは限らない。一緒にいても心が離れているカップルもいれば、また、別々にいてもいつも心がひとつになっているカップルもいる。つまり、「同じビーチパラソルの下での別々のヴァカンスもあれば、何百キロメートル離れていながらも一緒のヴァカンスというのもある」ということだ。いつも心がつながっている相手と一緒に過ごす喜びは他ではけっして得られないものである。なにもためらう必要はない。あなたも年齢を重ねるとともに、そのようにして愛人と心豊かで成熟した日々を送るべきではないかと思う。

植島啓司

1947年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科(宗教学専攻)博士課程修了。その後シカゴ大学大学院にて研究を続け、1980〜2002年までは関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1974年から現在まで、世界中を旅しながら宗教人類学調査を続けている。『偶然のチカラ』『快楽は悪か』ほか著書多数。

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