登録日:2018/09/09 (日) 16:14:24
更新日:2020/07/16 Thu 07:54:52
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彼が必要としたのは知性、その流れるブロンドの髪の下に隠された素晴らしい頭脳だった。
そのプレースタイルは、自由で穏やかな風のごとく……
ルカ・モドリッチ(Luka Modrić)はクロアチア出身のサッカー選手。
現在、世界最高の司令塔と評されるMFである。
◆概要
長身が多いクロアチアの選手にしては身長172センチと珍しく小柄な部類だが、その実態は優れた技術と知性を合わせ持つ、攻守共にハイレベルな万能型MF。
ある時は中盤の指揮者、またある時はハードワーカー。そして、フィールド全体を俯瞰しているかのごときゲームメイク。
さらにそのリーダーシップは代表だけでなく、所属年数の関係で腕章を巻いていなくとも、スターぞろいのマドリーの選手たちをも引っぱる。
まさにチームに不可欠な頭脳、あるいは心臓部と言える存在である。
中国ではサッカーと芸術を融合させたようなプレースタイルから
「魔笛(mo di)」と呼ばれているのだという。
本人の名前の音を含めた、実に絶妙な当て字である。
また、プレースタイルだけでなく、華奢な体つきで、つややかな長い髪。高い鼻筋に彫りの深い目をした、どこか中性的な美しい顔立ち。
かのサッカー界最大級のレジェンド、
ヨハン・クライフに見た目もそっくりなのだ。
さらにスパーズや代表で、クライフのトレードマークであった背番号14をつけていた時期もある。
W杯ロシア大会での大活躍で大きな注目を集めた彼。
しかし、これまでたどってきた人生はまさに、数奇としか形容のしようがないものだった……
(ここから先はかなりショッキングな内容も含むので、閲覧にはある程度心の準備をしておくことを勧めます)
◆生い立ちとクラブ経歴
1985年9月9日、クロアチア(旧ユーゴスラビア)のヴェレビト山脈の中にあるモドリッチ村にて生を授かる。
日本人の感覚だと奇妙さと親近感を同時に感じる名前だが、地名がそのまま名前に使われるのが習わしだという。
最近になって、野生の狼をテーマにしたあるドキュメンタリー作品に5歳の彼が映っていることが判明した。
彼は羊飼いの家で生まれ育ったのである。
(彼が映るのは2分30秒辺りから)
さらにその後も、山羊の角をつかんだり、自分の背丈以上の大きさの猟銃を構えたりするワイルドな姿をとらえた幼少期の写真が発掘されている。
……しかし、平和な時期は長くは続かなかった。
当時のクロアチアは91年6月に独立宣言、それから4年間国内のセルビア人勢力との間で血なまぐさい戦争を繰り広げていた。
独立戦争のピークであった91年8月から12月にかけて、実に8万人ものクロアチア人が殺害もしくは追放されている。
モドリッチ一家もまた時代のうねりに飲み込まれ、同年12月18日にセルビア人勢力の襲撃によって名付け親である祖父を喪い、家を焼かれた。
廃墟と化した彼の生家の周辺は今でも、地雷が埋まっている可能性を警告する看板が立っている……
一家はどうにか約60キロ離れた港町ザダルへと逃げのび、避難先のホテルを転々とする難民暮らしを余儀なくされた。
ザダルもまた、地元クラブのNKザダル時代の恩師であり、彼にとって第2の父親であるトミスラフ・バシッチ曰く、
「何千もの手榴弾が丘の上で爆発し、チームがトレーニングしていたピッチにまで落ちてきた。私たちはそのたびにシェルターに駆け込んだ。サッカーは現実から逃げる手段だった」
……平和な世の中で生まれ育った我々からすると、あまりにも筆舌に尽くしがたい現実である。
だが、本人はこの経験をそれほど悲惨に感じていなかったという。
子供の感覚は大人と違うためなのか、はたまた両親の尽力のおかげか。
何より、バシッチ氏が語ったようにサッカーがつらい現実を生き抜くための心の支えとなったのは言うまでもないだろう。
両親は幼少期の記憶が戦争で塗りつぶされないよう、外で友達と遊ぶことを勧め、
戦争が終わり、故郷に戻ろうと思えば戻れるようになっても、夢を追う彼を支え続けた。
避難先の中庭や駐車場でボールを蹴りながら育ったモドリッチは、のちにクロアチアで最後のストリートサッカー育ちの選手と呼ばれることになる。
当時モドリッチ一家が滞在していたホテルの職員は、少年時代の彼をこのように振り返っている。
「戦争の中でもチビはめげずにドリブルの練習をした。ホテル職員はみんなチビの大胆さに驚いた。爆弾が爆発して割れた窓ガラスより、チビがサッカーの練習で割った窓ガラスの方が多かった」
10歳の時、国内の名門ハイデュク・スプリトのテストを受けたが、体が細すぎるという理由で不合格。
この手の選手によくありがちなパターンだが、彼の場合同年代の子たちと比べても、明らかに細すぎるレベルであった。
が、バシッチ氏は、そのやせっぽちの少年に特別な才能があることを見抜いていた。
16歳の時同じ名門にしてハイデュク最大のライバルディナモ・ザグレブのユースチームに入団、18歳のころにトップチームへ昇格した。
しかし彼の苦難はまだまだ終わらない。
同じ世代・同じポジションのニコ・クラニチャールの後塵を拝し、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア人クラブのズリニスキ・モスタル、
同じクロアチアリーグのインテル・ザプレシッチへと2度もレンタルされることに。
が、この時の経験が彼を大きく成長させた。
前者では弱冠18歳ながらキャプテンを務めて年間MVPの活躍を見せ、後者ではリーグ2位へ導くと年間最優秀若手選手賞を受賞した。
のちにモドリッチは、ボスニア時代について「ここでプレーできれば、世界のどこでもやっていける」と振り返っている。
劣悪なフィールドに極端なホームびいきの笛。いかに過酷な環境だったかがうかがえる。
05年初頭、クラニチャールがクラブとの確執からハイデュクに移籍したことにより、ついに大きな転機が訪れた。
当時記録的な不振にあえいでいたディナモは急遽モドリッチを呼び戻し、そこから彼は
リーグ3連覇に貢献。チーム内で確固たる地位を築き、07年には
リーグ年間最優秀選手に選出された。
家族にも恩返しとして、ザダルに立派なアパートを買ってあげた。こうして長きにわたる難民生活に終わりを告げたのだった。
08年、その活躍が認められて
イングランドプレミアリーグの
トッテナム・ホットスパーへ
同クラブの当時史上最高額となる移籍金2300万ユーロ(37億6000万円)で移籍を果たした。
スパーズ入団当初は、不慣れな中盤の底で司令塔としての役割を求められ、膝の怪我もあり苦戦が続いた。
しかし同年10月末にハリー・レドナップ監督が就任してからレギュラーに定着。
ディナモ時代二度の貸し出しを得てハードワーカーの資質を身につけたところに、ここではセントラルハーフや左サイドなどの資質を身につけていく。
生き残るために様々な資質を身につけた彼は、やがて攻守共に万能な選手へと成長していった。
10-11シーズンは自身にとって初めてのCL本戦に挑み、初のベスト8進出に貢献。
リーグ戦では32試合に出場し、パス成功数とインターセプト数でリーグベスト3に入る活躍を見せた。
レドナップ監督は、モドリッチの人となりについてこう語っている。
「彼のサッカーに対する愛情はひたすら純粋で、練習で問題を起こしたりできないほど」「道の踏み外し方や問題を引き起こすことを知らない子なんだ」
また、クラニチャールとはこのクラブで再会することになるが、モドリッチがセントラルハーフとしての地位を確立していたのに対し、
クラニチャールはレギュラーの座を獲得することができず、表舞台からフェードアウトしていく。
二人の立場はすっかり逆転してしまった。結局、時代や環境に適応する能力が命運を分けたのだ。
12年、ついに彼はサッカー界最大級の名門、
レアル・マドリーへと移籍。
13-14シーズンに名将カルロ・アンチェロッティが監督に就任するとこのスター軍団の中でレギュラーの地位を獲得。
マドリーでの100試合目となるCLバイエルン・ミュンヘン戦ではアシストを記録して4-0での大勝に貢献し、決勝においてもCKからセルヒオ・ラモスの同点ゴールをアシスト。
マドリーはCLにてついに
デシマ(10度目の優勝)を達成した。
16-17シーズンにはリーグ制覇、15-16シーズンからは、前人未到の
CL3連覇に貢献。
また、17-18シーズンからはエースナンバーの代名詞である背番号10を背負うことになった。
もっとも、マドリーにおいて10番はルイス・フィーゴ以降悉く期待外れか不本意な形で退団するかの縁起の悪い背番号であったのだが、彼は喜んで憧れの背番号をつけることになった。
そしてそのジンクスも何のその、CL3連覇を達成したのは前述の通り。
さらに後述のW杯ロシア大会での大活躍もあり、
18年はUEFA欧州最優秀選手賞、FIFA最優秀選手賞、そしてバロンドールと、個人タイトルを総なめにするほどの当たり年となったのだった。
特にFIFA最優秀選手賞とバロンドールは、
08年から続いたクリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシの二人の独占時代に終止符を打ったことになる。
バロンドール受賞後のインタビューでモドリッチは、このように語っている。
彼ら二人(ロナウドとメッシ)は、この10年間あり得ないようなレベルを維持してきた。
過去には受賞に値した選手もいたかもしれない。
シャビ、
イニエスタ、
スナイデルとか。
でも実現しなかった。
人々は何か違うものを見たかったのかもしれないね。
今夜はサッカー界の勝利だ。僕は受賞できて幸せだ。
でもこのバロンドールは、受賞に値したが、受賞できなかったすべての選手のものだ。
そして、戦時下にいた子供時代の自分自身に何か言ってあげたいことはあるかと聞かれた時には、
特にはない。ただ、こう言いたい。心配いらないよ。
今の僕にたどり着くまで、君はとてもつらい試練を乗り越えていくことになる。
けれど、君はやり遂げる。苦労は報われるんだ。
僕は、君のことが誇らしいよ───
難民だった少年は、あらゆる苦難を乗り越えてここまで上り詰めたのである。まさにドラマチックの一語に尽きる。
+ | ……でも、ちょっとマジメな話が続いて疲れた?じゃあ、箸休めと行こうか。 |
○ただでさえ小柄なうえに童顔なせいか、若手時代はよく子供と間違われており、06年には代表の勝利を祝ってバーに行ったら彼だけ「16歳未満はお断り」と入り口で止められたことがある。
○スパーズ元キャプテン、レドリー・キングの自伝によると、
アウェーで遠征した時は、。
小柄な彼が、190センチ越えの大男と添い寝……しかも相手は年下というのが何とも。
一応、「外国人選手が、自分の国の言葉と文化を共有できる相手を得て心地よく過ごせるのは、チームにとって良いこと」とフォローが入っているが、
この項目最後のエピソードといい、が捗りそうである……
ちなみにディナモ時代の二人の写真はこちら。
……兄弟を通り越して親子にしか見えない。繰り返すが、
○17-18シーズンのCL決勝直前、UEFAによってマドリーとの選手たちが自画像を描くというイベントが開かれた。
せっかくなので、マドリー各選手のイラストを見てみよう。
まずはマルセロ。
次はケイラー・ナバス。
ダニエル・カルバハルは、
で、我らがモドリッチはというと……
モドリッチはマドリーの選手たちの中でもだったのである。
よりにもよって、この中で人気が高そうな彼というのがまた……
ちなみに、こちらの動画でリバプールの選手やユルゲン・クロップ監督のイラストも見られる。
○「まるで頭の後ろに目がついてるよう」と例えられるほどのプレー視野の広さを持つモドリッチ。
下の動画によると「本能的なもの」とのことで、パスを出すときも直感でチームメイトがどこにいるか把握していると語っている。
しかしその背後では、ホテルのおばさんに髪の中をチェックされていた。
結果は
○18年10月19日、彼の伝記の邦訳であるが出版された。
この邦訳の表紙にはモドリッチが髪をかき上げている写真が使われているが、海外の感覚では奇妙だったのか、著者がなぜこれを使ったのか日本の出版社に尋ねたところ、
との回答をもらったらしい。
その結果、日本人のモドリッチのイメージについて、クロアチアのメディアから、
と紹介されることに……
さすがに尾ひれつきすぎである。
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◆代表経歴
各世代の代表に選出後、06年3月1日のアルゼンチンとの親善試合でフル代表デビュー。
W杯ドイツ大会のメンバーにも選出されるが、前述の通り、当時はクラニチャールの影に隠れていたため、
QBK事件で有名な日本戦とオーストラリア戦に途中出場したのみに終わった。
チームはグループリーグ3位で敗退。
その後監督に就任したスラヴェン・ビリッチからの信頼を得るとレギュラーに定着。
さらにライバルのクラニチャールとの共存にも成功し、EURO2008予選では全試合に出場。
アウェーの
イングランド戦では数々のチャンスを作り出してクロアチアを本大会に導くと同時に、イングランドを予選敗退に追いやった。
本大会ではグループリーグ初戦、オーストリア相手にPKを決め勝利に貢献。さらに2戦目のドイツ戦はマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる大活躍。
チームは強豪相手に金星を挙げ、グループリーグを1位で突破した。
ベスト8のトルコ戦ではスコアレスドローのまま延長戦にもつれ込んだものの、119分にイヴァン・クラスニッチへのアシストを決めた。
誰もがこれで決着が着いた……と思った矢先、クロアチアに悲劇が起きた。
その直後にトルコのセミフ・シェンテュルクに同点ゴールを決められ、PK戦に持ち込まれてしまったのだ。
PK戦ではモドリッチを含めた3人が失敗し、ここで敗退。
つかみかけた勝利が目前でこぼれ落ちるという、残酷な幕切れだった。
W杯南アフリカ大会予選はイングランド、ウクライナと同組に入り、格下相手に取りこぼすことはなかったものの、
イングランド相手にホーム、アウェイ共に大敗を喫するなど上位2チームに勝つことができずに、建国以来初の本選出場を逃す羽目に。
EURO2012ではアイルランド・イタリア・スペインが同居する死の組に入り、勝ち点1差でグループリーグ敗退。
W杯ブラジル大会は開催国ブラジル・メキシコ・カメルーンが同居する、これまた死の組に送り込まれ、ここでもグループリーグ敗退。
EURO2016では因縁のトルコ戦で、本人も「どう言い表せばいいんだ?」と評するほどの見事なダイレクトボレーを決め、リベンジを果たした。
さらにスペイン戦では、前節チェコ戦で負傷したことにより欠場したものの、
マドリーのチームメイトであるセルヒオ・ラモスのキックの癖をGKのダニエル・スバシッチに伝えPK阻止に導き、
前回王者相手の大金星に貢献。
彼が代表のキャプテンに就任したのはこの大会の後だが、試合に出れなくとも勝利に貢献するあたり、さすがとしか言いようがない。
もっともクロアチアは、ベスト16ポルトガル戦で、延長終了間際に
リカルド・クアレスマに決められ敗退してしまったのだが。
このように、モドリッチの時代のクロアチアはもう一人の司令塔にして最大の相棒、
イヴァン・ラキティッチやエースストライカー、
マリオ・マンジュキッチなど、
大国にも引けを取らないレベルのタレントぞろいでありながら、なかなか大舞台で結果を残せず、98年フランス大会でベスト3を達成した世代と比較され続けてきた。
ロシアW杯予選も、選手たちの実力と釣り合わない監督人事、目先の金目当てのマッチメイクなど、サッカー協会のゴタゴタに振り回された末、
最終戦のウクライナに敵地で勝たないと予選敗退という瀬戸際に追い詰められた。
ここでは監督交代がカンフル剤となり、ウクライナとプレーオフのギリシャ戦を制し、どうにかクロアチアは本選出場にこぎつけた。
そして迎えたW杯ロシア大会。
彼は代表の大躍進と共に、見る者の感情をあらゆる方向に振り回した───
クロアチアの入ったグループDの相手はナイジェリア、アルゼンチン、
アイスランド。
初戦のナイジェリア戦では常に相手のギャップを探して動き回り、攻守ともに異次元のプレーを披露。
71分にはマンジュキッチが獲得したPKをきっちりと決めて見せ勝利に貢献。
その一方で、この試合ではニコラ・カリニッチが交代出場を拒否した挙句、翌日もズラトコ・ダリッチ監督に謝罪すらしないという事件も起きている。
この事態に監督はチームの重鎮たるモドリッチとチョルルカに相談を持ち掛けた。二人の答えは毅然としていた。
「監督、選択肢なんてありません。ヤツをチームから追放してください!」
二人の支持を取り付けた監督はカリニッチに帰国を命じたのだった。
こうした内部問題は南アフリカ大会のフランスが有名だが、彼らの場合はチーム崩壊どころか、むしろさらに結束するきっかけとなった。
続くアルゼンチン戦はこのグループD最大の白眉と言える試合になった。
あちらもサッカー協会のゴタゴタで内部崩壊寸前だったとはいえ南米の強豪相手に皆がそれぞれの仕事を全うし、相手を圧倒。
53分、相手GKウィリー・カバジェロが味方からのバックパスを
まさかのキックミス。アンテ・レビッチがそれをボレーで捉え、クロアチア先制。
80分にはモドリッチが見事なミドルシュートを決め、0-2。試合終了間際にはラキティッチがとどめの3点目を決めた。
マドリーと
バルサの司令塔コンビが大暴れしたこの試合は、0-3でクロアチアの完勝に終わった。
これにより、早々にグループリーグ突破を決めたクロアチアは、アイスランド戦も2-1で勝利。グループリーグを首位通過したのであった。
……しかし、ここからクロアチアにとって地獄のロードが始まることになった……
ベスト16のデンマーク戦では、試合開始早々に先制点を奪われてしまう。
その4分後にマンジュキッチが決め追いつき、試合を優勢に進めたものの、互いに決め手を欠き延長戦に。
114分、クロアチアはPKを獲得するも、モドリッチのシュートは相手GKのカスパー・シュマイケルに読まれ止められてしまう。
うなだれるモドリッチ。こうして試合はPK戦に突入した。
彼とラキティッチの胸には、10年前のEUROのPK戦失敗のトラウマがよぎったことだろう……
しかしクロアチアは2人失敗するもモドリッチを含めた3人が決め、さらにGKのスバシッチが3本止める大活躍で、ベスト8入りを決めた。
ベスト8の開催国ロシア戦では31分、デニス・チェリシェフの豪快なミドルを食らい2試合連続の先制点を許すが、
39分にアンドレイ・クラマリッチがマンジュキッチからのクロスを頭で合わせて同点に追いつく。
後半は互いに打ち合う激しい展開となるが、終了間際にスバシッチが右太腿裏を痛める。……が、結局交代せずにプレー続行した。
延長戦、クロアチアのDFシーメ・ヴルサリコが膝を負傷したことにより、最後の交代枠を切った直後のことだった。
それまで引いた位置からチームを指揮していたモドリッチが、まるで何かに取りつかれたかのような勢いでロシアのゴールに迫る。
その気迫にチームも触発されたのか、100分にモドリッチのCKをドマゴイ・ヴィダが決めて突き放す。
が、115分、FKからロシアのDFマリオ・フィゲイラ・フェルナンデスにヘッドを叩き込まれ、土壇場で追いつかれてしまう。
再び襲いかかる、10年前の悪夢。試合の決着はまたもやPK戦に委ねられた。
スバシッチは足を痛めた状態ながらもロシア1人目のキックを止め、クロアチアは4人が成功。PK戦は3-4でクロアチアが制し、20年ぶりの準決勝へ。
準決勝イングランド戦では開始5分でキーラン・トリッピアーのチーム初シュートが先制点となり、またまた追いかける展開に。
しかし彼らは焦ることなく、何度攻撃を弾かれようと、サイドを駆け、ゴールの前に体を張り続けた。
68分、彼らの攻撃が実り、イヴァン・ペリシッチが同点ゴールを決めた。試合は三たび延長戦へもつれ込む。
選手たちは皆、交代枠を使おうとした監督に対し「大丈夫です。まだ走れます!」と主張し続けたという……
事実、延長戦開始までにイングランドは2枚のカードを切っていたのに対し、クロアチアが初めて動いたのは、延長早々に右脚付け根を痛めたイヴァン・ストリニッチ交代時だった。
さらにこの試合前にラキティッチは39度の高熱を出し、ヴルサリコは前述の通り膝を痛めていたが、二人とも奇跡的に間に合わせて出場。
二人はまるまる120分間を戦い抜き、特に後者はペリシッチの同点ゴールをお膳立てしている。
クロアチアの選手たちはもはや、そんじょそこらの理論や常識を超越したバーサーカーと化していた───
109分、ペリシッチのパスに反応したマンジュキッチが左足でシュートを突き刺し、ついに逆転に成功。
歩くのさえやっとの状態になりながらも戦いを先導し続けたモドリッチはこの逆転弾のあと、仲間たちに後を託すようにピッチを去った。
そしてスコアはこのまま動かず、試合終了のホイッスルが吹かれた───
彼らはついに、フランス大会のベスト3を超え、初の決勝進出という偉業を成し遂げたのだ。
かくして、3試合連続延長戦、そのうち2試合がPK戦にまでもつれ込んだクロアチアの決勝トーナメント。
彼らは歴史的偉業と引き換えに、相手フランスよりもまるまる1試合分長く戦っているというとんでもないハンデを背負いながら、最後の戦いに挑むことになったのだった……
しかし見る者の心を惹きつけたのは、こうした熱さだけではない。
例えばロシア戦後、盟友ラキティッチのインタビュー中に……
スバシッチに対しては、
選手の子供たちによって保育園状態となったピッチ上では、
試合中はキャプテンらしく、険しい表情でチームを指揮し、倒れる寸前まで戦い抜く一方、
試合後はぴょんぴょん跳ね回って喜びを全身で表現し、チームメイトに無邪気に甘え、子供たちとたわむれるモドリッチ。
あまりのギャップに誰もが釘付けになったことだろう。
また、代表の大躍進がきっかけで、彼の生い立ちを知った人も多いと思われる。
生い立ちについては前述した通りだが、これを知った後だと、剽軽な印象だった名前が哀切な響きを持って胸に迫ることになるだろう。
たとえ本人が、それほど悲惨に思っていなかったとしても。
……そして迎えたフランスとの決勝戦。
クロアチアは18分、アントワン・グリーズマンが蹴ったFKがマンジュキッチの頭に当たり、そのままオウンゴールに。
FKが蹴られる瞬間、ポール・ポグバがオフサイドポジションにおり、マンジュキッチを後ろから押すように接触していた。
オフサイドと判定されてもおかしくなかったシーンだが、結局VAR(ビデオアシスタントレフェリー)は使われず。
一度は同点に追いつくものの、38分、CKで競り合ったペリシッチは逆にVARでハンド扱いされPKを取られ、2失点目。
さらに後半に入っても彼らの不運は続く。
クロアチアが相手陣内に攻め入り、まさに反撃の狼煙を上げようとした矢先にピッチ上に侵入者が乱入してくる始末。
ただでさえ肉体的にとっくに限界を超えていたクロアチアはもはや、運にも判定にも見放されていた……
しかしそれでも彼らは最後まで戦い続けた。69分にはGKのウーゴ・ロリスがクリアを焦ったところをマンジュキッチが押し込み、一矢報いている。
試合は4-2で終了。「20年おきに初優勝国が生まれる」というW杯のジンクスはここで途切れることとなった。
その直後、激しい大雨がピッチ上に降り注いできた。
それは、誇り高き選手たちの熱を冷ますためなのか、それとも彼らの涙雨だったのか。
モドリッチは大会での活躍が認められ、MVPに選ばれたが、表彰式でのその表情は悲壮感に満ちていた……
……勝者が正義になるのが真理だとしたら、敗者は結局、勝者の影に隠れてしまうのが常なのだろうか?
いいや、決してそんなことはない。
今までのW杯、古くは西ドイツ大会のオランダやアメリカ大会のイタリア、この大会では
ベルギー戦の日本などのように、
敗れてもなお強烈な印象を与え、見る者の胸を打つチームは多くあったではないか。
クロアチアの戦いぶりは見た者の心にきっと、大切な何かを残していったはずだ。
実際、モドリッチとラキティッチはさらに心を揺さぶるやり取りを見せている。
決勝戦を終えた後、互いのメッセージを刻んだユニフォームを交換しているのだが、その原文と訳は以下の通りである。
モドリッチ
「Mom bratu Ivanu od srca. Ponosan što mogu s tobom dijeliti svlačionicu i prekrasne trenutke.」
「心の兄弟イヴァンへ。このピッチで素晴らしい時を君と分かち合ったことを、誇りに思う」
ラキティッチ
「Za moga brata Luku od srca. Najveća mi je čast bila dijeliti sve ovo vrijeme s tobom.Voli te Raketa!」
「心の兄弟ルカへ。あらゆる時間を君と過ごせたことは、最高に誇らしいものだった」
マドリーとバルサという最大のライバル関係、そして友情さえ超越した絆の深さ。
それまでの死力を尽くした戦いぶりもあって、胸を打たれた人も多いだろう。
……ところで、ラキティッチのメッセージの赤い部分、実は日本のメディアでは訳されていないことが多い。
せっかくなので、これを翻訳すると……
「ラケッタは君を愛しているよ!」
「ラケッタは君を愛しているよ!」
/⌒ヽ
/ ゚д゚) ………
|U /J
あなた何サラッと告ってるんですか?!
この一言によって、全世界のサッカー好きの
腐女子たちの心は瞬く間に焼き尽くされたことだろう。
代表の愛称
「ヴァトレニ(炎)」の通りに……
追記・修正は、盟友と兄弟の契りを結んでからお願いします。
Number PLUS永久保存版ロシアW杯総集編 P25
『ルカ・モドリッチ 永遠に気高き魂』株式会社カンゼン