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新型コロナ、過剰な自粛・都市封鎖が不要な理由(3)~感染症専門家と臨床現場の乖離

現在の医療において、エビデンス(根拠)が重視される傾向になりますが、インフルエンザが重篤化した場合、解熱剤を処方すべきなのか、否か判断が分かれる場合があります。従来の西洋医学の判断であれば、解熱剤は普通に処方されていましたが、少し東洋医学、漢方を囓った人の場合は、体はウィルスを攻撃するために発熱しているので、熱を下げると、自然の抗ウィルス力がマイナスになるので、解熱剤の処方は間違っていると考える場合もあったように思います。そして、最近になると、ウィルスによっては、ほ乳類の免疫機能を逆手にとって、免疫機能が最大化する以上の体温に調整するかの作用があると言われ出したりもしています。となると、解熱剤を処方しないというのは、間違いであると言うことになりますが、解熱剤を処方しようがしまいが、インフルエンザは治り、医師の手柄とされる場合もあれば、自然に治ったと考えられる場合もあったりしています。本来の漢方、中医学であるなら、葛根湯や麻黄湯など、体を温める系の処方だけでなく、それぞれの証や症状の段階に応じた細かな処方がありますので、体を温める、冷やすを経験的に体系化されていたのかもしれません。

現在、感染症対策の専門家は、数量化モデルを用いて、科学的な根拠を示して、自粛の必要性を主張しているようですが、この数量化モデルというのも、解熱剤を処方すべきか、否かのようなレベルとたいして換わらないとも考えられます。数量化のモデルは、すべての変数を把握出来れば、数学的に正しい結論が導き出せますが、現実の場面では、すべての変数を把握することは出来ないので、必ず誤差が生じますし、大きな変数を見落としていれば、誤差どころでは済まないとんでもない結論が導き出されてしまいます。新型コロナがBCGが有効であったのならとか、白血球の型によって、重症化する場合があるとかないとか、そういう変数を、どうとらえるかによって、数量化モデルの結果はまったく違ったものになり、研究室での専門分野の学術研究としては優れたものであっても、現実の社会にはまったく通用しないものである場合があるように思います。

医療に限らず、どのような分野であっても、専門家に安全性対策を尋ねると、「キチガイに刃物」の喩えではないですが、過剰でマニアックな回答が帰ってくるように思われます。今回のコロナ自粛とか、新しい生活様式など、なんで、そこまでの規制をされなければという気がします。臨床家でない私が言うのもなんですが、感染症に限らず、専門家というのは、細分化された特定分野を極めた人間であり、その際分化された特定の分野においては専門家ではあっても、総合的な知見に立てるかというと、必ずしもそうではなく、臨床医の方が、物事を総合的に見て、判断する能力が高い場合も多いように思います。

最近、感染症の専門家会議の発言を、地震学者の発言と同じだという喩えをよく聞くように思います。例えば、南海大地震が30年以内に起こる可能性が○%あるとか、そして、それには、どういう対策が必要だとか、リスクゼロを目指せば、莫大なコストがかかり、今のままでは済むことが不可能になってしまいます。福島の原発のように、あと少しの対策をしていれば、あそこまでの事故に繋がらなかったという場合もありますが、多くの場合は、専門家に尋ねれば、過剰な安全対策の答えが返ってきます。交通事故をなくすには、車の走行を禁止してしまえば、すべてが解決しますが、そこまでの安全性を求めることはなく、交通ルールを定め、信号機を作ったり、歩道を作ったりする程度で妥協しています。対策が足りなければ大事故に繋がり、対策が過剰であれば、社会生活を困難にしてしまいます。活断層の下に原子力発電所があることは危険ですが、原子力発電所のみならず、そこに家を建てて住むことも危険であり、津波の危険がある海辺や水没の可能性のある低地帯に広がる都市の問題などなど、どこまでの安全対策が必要なのか、過剰に安全対策をするならば、莫大な費用がかかり、多くの日本人は破産してしまいますし、その案配には、まさに政治判断が必要だと思われます。現在の日本に限らず、WHOなどの国際機関は、安全過剰・統制過剰の傾向があり、アメリカの共和党系支持者やイギリス保守党支持者など、アングロサクソン系の人々は、個人の裁量権を多く見る傾向があります。安全過剰・統制過剰だと、ゆりかごから墓場まで、社会や国家から、面倒を見てもらえる安心はあるものの、あれこれ指示や指図され、鬱陶しい場合も多く、活力がなくなってしまう傾向があるように思います。

安全志向・統制過剰が強まれば、人間にはICチップの埋め込みが義務化され、すべての行動が追跡されたり、喫煙や飲酒なども、管理されることになりかねません。現在、WHOや医師会などで進められている禁煙強化の動きも、同じ志向性を持っており、行き過ぎには注意が必要です。

新型コロナ、過剰な自粛・都市封鎖が不要な理由(2)~医療崩壊の危機、医療業界の大人の事情の考察から

日本では、医療崩壊しないよう、「時間稼ぎ」のため、自粛をお願いするという話しでしたが、確かに、時間稼ぎにはなったかもしれませんが、この国民的な損失は、あまりにも莫大であったと言えます。医療崩壊とは何なのか、感染が急拡大していたら、医療崩壊していたのかと言う話しですが、全員に、希望者検査を受けさせろだとか、感染者を専用の病棟で隔離する必要があるとか、重症化すれば、ICUでエクモを…とか、人工呼吸器を…と考えれば、医療資源は逼迫し、現状、すでに医療崩壊していると言えるのかもしれませんが、医療に限らず、何事も、キャパシティーの範囲でしか行えないので、現状では、希望者全員が検査を受けることは出来ず、感染の疑いがあって、救急車を頼んでも、受け入れ可能な病院が見つからずに、たらい回しされるという状況が発生しています。

だからと言って、医療機関の多くが逼迫しているのかというと、そうではなく、行政や医療機関それぞれの「大人の事情」によって、急患が受付が行われず、検査が受けられないのです。これは、自粛によって、感染のスピードが遅くても、現状すでに問題が発生していますので、国民すべての問題ではなく、医療行政の制度問題であり、厚生労働省や保健所、医療機関の問題です。例えば、コロナを指定感染症の指定からはずす。たったこれだけで、目先の医療崩壊は解消します。全国民に自粛を強要するよりも、省益や医療機関の利権の問題を解決することが何よりも先決です。従来から、緊急医療が足りない、小児科が足りない、産婦人科が足りない…などの問題が指摘されてきた一方で、都市部の通常の内科クリニックの過剰、中小病院の廃業問題、年収1億円を超える個人開業医がたくさんおられる一方で、無給の研修医に頼る大学病院の存在とか、こういった業界の大人の事情の問題の解決が何よりも重要です。

現在、PCR検査が少ないのは、感染研の利権が影響しているとか、治療薬や検査機器の認可が下りないのは厚生労働省の利権であるとか、色々な批判があふれていますが、日本に限らず、世界中そういった利権や不条理にあふれているのが医療業界の現状です。それはどこの世界にもあることですが、研究にしろ、臨床にしろ、官僚組織による許認可や予算配分を必要としますので、医療業界は、官僚化しやすい宿命があり、また、パーキンソンの法則でしたか、官僚組織は自己増殖しますので、政治の力による官僚機構の抑制がもっとも必要な分野と言えます。

肺炎で重症化した場合、人工呼吸器やエクモの装着が、必ず必要なのかという問題もあります。今回の新型コロナに限らず、ウィルス性の感冒には有効な治療法がありませんが、確かに、重症化した場合、エクモや人工呼吸器の装着によって、助かる人もいるようですが、重症化してしまえば、そこまでしても、助からないことも多く、そこまでせずに安らかに臨終を迎える方がよいと考える方が普通であると言えます。若くて体力がある人が急に重篤化した場合には有効であっても、そうでない人の場合、例えば、体の弱った高齢者の場合は、本人を苦しめるだけの過剰な延命治療と言えます。すべての重篤化した患者をICUに入れ、エクモで治療しなければならないとなると、医療崩壊の危機と言えますが、通常のインフルエンザが重症化した場合のお看取りと考えれば、医療崩壊の心配はまったく無用と言えます。

日本の厚生労働省に限らず、各地の保健所から医療の専門家、研究者、WHOにしろ、官僚化した世界は、過剰な理想、例えば、過剰な安全を主張して、自己増殖しています。新コロの増殖よりも、世界的に官僚組織を押さえる必要がある段階に来ています。今回のWHO事務局長の対応が中国共産党に忖度した対応であったとか問題になっていましたが、それは、単なる表層の一例に過ぎず、その他諸々、硬直化した官僚組織の問題は根深いと言えます。予断になりますが、昨今の行き過ぎた「禁煙社会」の強要も、WHOなどの医療保健官僚組織の陰謀であると、私は考えています。確かに、禁煙によって、社会は健康になるでしょうが、行き着く先は、個人の自由を制限し、個人の生活の細部にまで統制を行おうとする過剰な健康追求社会であり、その専門家や官僚が考える理想の実現ために、官僚組織は肥大化し、人々を統制していこうとしています。

新型コロナ、過剰な自粛・都市封鎖が不要な理由(1)~ウィルスの特性から

新型コロナウィルスも、武漢型と欧州型に分類されるようになりましたが、どんどん進化(変化)していくので、おそらく、ワクチンは開発されても、新しい型のものには有効でない場合がある可能性が高いです。当初は有効であっても、ウィルスの進化が有効でない方向に進むと有効でなくなってしまいます。これは、通常のインフルエンザのワクチンと同じだと思われます。

そもそも、今回の新コロは、流感の一言で片付けていれば、こんな大事になることはなかったのです。欧米では凄い数の死者が出ましたが、確かに、日本においてもそうなる可能性はあったし、今後、そうなる可能性もゼロではないですが、武漢型のコロナも欧州型のコロナも、このままでは、おそらく日本人が大量に重症化することはなく、ただ、ウィルスが変化する方向によっては、日本人が重症化するリスクが残されているという解釈が正しく、自粛しようがしまいが、まったく関係がない可能性が極めて高いです。

サーズも、マーズも、新コロも、日本では、たいして、流行しませんでしたが、それがBCGの摂取によるゆえなのか、それとも、白血球の型の傾向によるゆえなのか、それとも、手洗いなどの衛生観念によるものなのか、それとも、他の要因なのかは、わかりませんので、今後、将来的には、日本だけで流行する、それこそ本物の新型ウィルスが出現する可能性もあるので、現状では、「運がよかった」と考えておく程度が無難かもしれないです。

疫学的な対策、現状のような感染クラスターを追跡し、隔離していくという方式が無効なのかというと、やはり、ある程度は有効ですが、今回のような都市封鎖に近い形での強権的な手法はあまりにも、手荒い手法であると言えます。イタリアやスペインのような状況になれば、やむを得ないとも言えますし、ある程度なら納得出来ますが、予防のために、そうならない前から自粛していても、もし、日本人が遺伝的に感染に弱い可能性があるウィルスであった場合は、感染爆発のスピードが遅くなるだけで、最終的には大爆発が起こった可能性が高いです。

もし、武漢で、初期に都市封鎖をしていたら…、とか、もし、イタリアやスペインで、もっと早くから都市封鎖をしていたら…と、仮定する場合で考えても、都市封鎖が早ければ早いだけ、感染拡大の速度は遅くなりますが、重症化しうる新型の感染症だと判った時点で、もうすでに人は移動しており、その時点で都市封鎖、クラスター追跡しても、じわじわと感染が拡大していった可能が大きいです。それこそ、人間のみならず、あらゆる生物にICチップを埋め込んで、すべての行動の監視が可能なら話は別ですが、人間すべての行動を管理し、追跡することによって、ウィルスを封じ込めることは不可能です。WHO官僚体質、疫学者の人権意識の低さを考えれば、最終的には、人間すべてにICチップを埋め込んで、行動を管理し、感染症の予防を行うべきだというような提言が行われる可能性があり、極めて危険な志向です。

諸外国に比べて、検査数が足りないと話題になっていますが、私は必要最低限の対応で十分だと考えます。検査はすればするだけ手間と費用がかかりますし、検査をしたからと言って、擬陽性・擬陰性の可能性があり、確実ではありません。結局の所、検査をしようがしまいが、自分が感染の可能性があると思えば、行動を自粛し、養生すればよいのです。病院に行ったところで、それなりの対処療法しかなく、重症化すれば、最終的には、人工呼吸器やエクモ(体外式膜型人工肺)で延命処置があったとしても、それは過剰な延命治療が多いとも考えれます。

通常の流感、インフルエンザにしても、まったく健康な保菌者に対しても検査の対象を増やして、陽性の人を隔離するという方向でいくと、一見、感染が最小限に抑えられるかのような気はしますが、大変な手間とコスト、大変不自由な社会となってしまいます。当然、人から人へ感染するものは、インフルエンザだけでなく、あらゆるウィルス・細菌に対する検査が必要となり、最終的には、水虫(白癬菌)の検査まで対象になってしまう可能性があります。理論上は、水虫の人間を隔離出来れば、水虫になる可能性は低いですが、人間は、有害か無害か判然としないような細菌・ウィルスと共生し、免疫を獲得し、様々な恩恵を受けていることを考えると、無菌化・無ウィルス化の試みはまったく無駄な努力だと言えます。様々なインフルエンザのウィルスも、人間に死をもたらすこともあれば、免疫その他、人間にとって有用である可能性もあり、無インフルエンザの社会を目指すことは、別の恐ろしいウィルスの出現に対する抵抗力を人間から奪ってしまう危険性を持っているとも言えます。それに、検査、検査で、安全ばかりを求めていると、生活における医療のウエイトが肥大化し、人間はなんのために生きていくのか判らない状況となってしまいます。

自粛を止めて、経済を回す!

コロナ騒動に対する過剰な反応を見るだけでなく、騒動の影響も出始め、久しぶりに投稿することにしました。それが過剰なのか、適当なものなのか、現状、どちらが正しいのか判断出来ませんが、私にとっては過剰だと思えてならないです。ウィルスは、封鎖によって封じ込めるよりも、自然に拡散するにまかせながら、各個人が免疫力を高め、それに慣れていくのが良いように思います。自分が犠牲にならないために、過剰に社会活動を制限することは止めて頂きたいというのが私の主張です。

コロナショックの株式大暴落にも驚いていますが、市場原理に反するという意見はあっても、日銀やGPIFによる買い支えも支持したいと思います。中途半端に辞めるのは、外資の餌食になるだけです。理想主義的な原理原則、空理空論にしがみついて、国民を蔑ろにすることは許されないことです。平成のバブル崩壊は、今から振り返ると、新自由主義の名の下に、国際金融資本のカモにされた側面が大きいと思います。ヘッジファンドの売り崩しに、イングランド銀行は敗れてしまいましたが、通貨・国債・株式とも、ハゲタカに対しては断固とした措置が必要です。市場原理に従う方が良いのか、それに対抗する政策を行う方が良いのかは、どちらが正しいのかは、暇な学者の議論に任せるとして、政策は現実にもとづくものであって欲しいです。

国が国民を救済することは必要なことです。かつての就職氷河期なども、市場原理にまかせた結果と言えますが、どこまで有効かはおくとしても、できる限りのことは行って欲しいものです。ただ、むやみやたらと、官僚機構が大きくなることには反対ですし、財政出動には、公明正大さが必要です。昨今の政策は、迷走していると思えてならないです。マスク2枚の配布とか、学校休校による支援とか…、的外れとしか、言えない気がします。

1ヶ月の行動制限で収束したとしても、ウィルスは根絶できず、再び行動制限が必要になるかもしれないし、厳しい行動制限などなくても、時が来れば確実に収束します。ある意味、多数の人間が「軽く感染」し、「自然に治癒」した状態になれば、騒動は必ず収束します。そういう意味では、ウィルスを撒き散らす無症状の保菌者は、受粉に必要なミツバチのような存在だとも言えます。もちろん、重症化する可能性、死亡する可能性もあるので、ウィルスに感染しない努力もある意味では有効な手段ですが、それが行き過ぎ、社会が死んでしまえば、元も子もありません。不安を煽り過剰にリスクゼロを目指して、経済や個人の自由を制限するのではなく、日々の暮らしを大切にしたいものです。

特定分野に専門化、細分化され、全体を見れない専門家の一つの仮説に従うことは、決して最善のことではありません。ウィルスは未知であることが多いですし、実践的に疫学も完成した学問ではなく、解は一つではありません。検査一つとっても、誤差はあり、多くの人に検査をすべきなのか、すべきでないのかは、簡単に答えが出せる問題ではありません。だとしても、何かを選択し、行動していくしかないのですが、そうであるが故に、政府が右を向けと言えば、全員が右を向くべきではなく、逆に反体制派が左を向けと言えば左を向くのでもなく、個人がそれぞれ最善と思う行動を取ることが、結果的に社会全体のリスク分散に繋がる可能性に注目すべきだと思います。

久しぶりのブログになりました。geocitiesがなくなり、yahooブログもなくなり、移行作業をやったりはしていましたが、ネットからは遠ざかり気味です。理由を書き出すと長くなるので割愛しますが、とりあえず、意見表明のみとしました。掘り下げた意見や根拠などは、リツイートで、語ってもらうことにしました。

https://twitter.com/lalikkumako

テーマ : コロナウイルス感染症 - ジャンル : ニュース

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