きょう24日は本来なら東京五輪の開幕日だった。延期決定後も新型コロナの感染拡大は世界中で続き、大会を1年後に無事開ける見通しは立たない。
朝日新聞の今月の世論調査で五輪をどうするのがよいか聞いたところ、「来夏に開催」との答えは3分の1にとどまった。
国際オリンピック委員会(IOC)が5月に選手や関係者に行ったアンケートの結果は切実だった。135カ国・地域の約4千人が回答。選手の6割近くが本格的な練習ができないことに悩み、半数が意欲や目的意識の維持に苦しんでいた。
懐疑的な空気が社会を覆い、選手たちの気持ちもゆらぐ。むろん最大の原因はコロナ禍のゆくえが見定められないことにあるが、これに開催者側から打ち出されるメッセージの貧困や、来夏に向けた準備の遅滞、混乱が拍車をかけている。
どんな大会をめざすのか。そのために優先すべきは何で、捨てるのは何か。開催するか否かを、いつまでに、どんな基準によって決めるのか――。
現下の状況に応じた五輪像とそこに至る道筋が示されなければ、選手は前に進めないし、世論もついてこない。ところが聞こえてくるのは、IOC側と日本側との不協和音だ。
例えば、経費削減のため大会組織委員会が開閉会式などの簡素化を提案すると、IOCは放映権料を支払うテレビ局やスポンサーの意向を気遣って消極姿勢を見せる。延期に伴う追加経費をめぐっても、IOCが自らの負担額を一方的に決定・公表し、連携の欠如を印象づけた。
情報発信の仕方にも問題が多い。組織委の森喜朗会長は先日の会見で、大会を中止した場合の費用は「倍にも3倍にもなる」などと発言。しかしその根拠は明らかにせず、「たとえ話」などとけむに巻く。
こうした積み重ねが、人々の間にうんざりした気持ちや、五輪自体への嫌悪感を生んでいることに関係者は気づくべきだ。
混迷の根底には巨大化・複雑化して身動きがとれない五輪の現状がある。運営のマニュアル化が進み、口では節約を唱えつつ、「最高・最大の大会に」との呪縛から逃れられない。関わる組織の利害が優先され、問題が起きても選択肢は限られて、柔軟な対応ができない。
前例のない「延期」を、こうした体質を見直し、五輪のあり方を原点から考える機会とするべきだ。残された期間でやれることには限界があるだろう。だが、五輪の持続可能性につながる改革に踏み出した大会として記憶されれば、それが「2020東京五輪」のまさにレガシー(遺産)となる。
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