韓国人留学生「日本人は日本が好きな外人を見つけて喜んでる」「学びが少ない」
夢のために我慢して嫌いな日本に来る
「私も本音のところ、日本は好きではありません。でも国と私は別問題、仕事と夢のために我慢です」
かつての韓国人留学生、ユンさん。韓国の準難関大学を卒業後、母国の専門学校を経て日本の大学へ。数年前から都内のIT系ベンチャーに勤めている。ユンさんには夢がある。そのために日本で我慢している。夢とは何だろう。
「アメリカの大学院に進むことです。世界的な企業はもちろんですが、韓国の財閥大手に入れれば最高ですね」
なるほど、ここでもアメリカだ。私が以前コロナ禍の新宿を取材中に知り合った韓国人留学生も成績が良ければアメリカに行くと言っていた。それかフランスやイギリスなどのヨーロッパ先進国、日本組は残念賞と。
「それに、韓国の財閥に入社すれば親も喜びます。一族の誇りです」
ユンさんによれば、親を喜ばすことは最高の孝行であり、それは何にも勝るという。ユンさんの親との信頼関係と育ちの良さがうかがえるが、韓国ではそれが普通だという。大手財閥企業に入りでもしたら一族郎党でお祝い、末代まで語り継がれるとは大げさなようで事実。憧れの韓国大財閥の求人はごくわずか、それもSKY(ソウル大、高麗大、延世大)をしのぐコネ組にも勝たなければならない。そのための留学、これもまた韓国のリアルだ。
本当の「負け犬」は留学すらできない
「韓国にもそんな価値観はやめるべきだなんて人たちがいますけど、あきらめた人たちですね。あなたの記事には『負け犬』とありましたが、本当の負け犬は留学すらできずに安い給料のままです。とくに田舎は悲惨ですね」
韓国語で負け犬は「チジリ」だと教えられた。スラングらしいが、なんだか底辺大学や専門学校に留学する韓国人も高卒や就職浪人で国内にくすぶっている韓国人もみんなチジリ、若者は負け犬だらけに聞こえる。地域格差も日本のそれとは比べ物にならない。
「たぶんそのコンビニの彼は地方の高卒じゃないですか? だから一緒にしてほしくないですね。私はもっと上です。もっと上を目指します」
韓国人エリートやそれを自負する人たちのプライドの高さと上昇志向は日本人に受け入れ難いほどに強烈だ。2000年代、私が仕事で付き合った韓国の商社の若者は、反日デモについて「反日で暴れているのは学歴の低い人たちです」「一緒にしないでください」と同じようなことを流暢な日本語でまくし立てた。「あいつら(デモの団体)はヤクザ」とも言っていたがその真意はわからない。その人だけかと思ったが、意外と韓国人は口にする。それほどまでの学歴社会、エリート絶対主義だ。
留学生に優しいのは韓国人が要求したわけじゃない
しかし不思議なのは、あまりよく思われていない日本に留学して大丈夫なのかということだ。経歴に傷はつかないのか。素朴な疑問を問いかけると、それは大丈夫なのだという。日本人にはよくわからない考え方だ。
「そうですか? 気持ちと現実を分けるのが韓国人です。日本人は一緒にするから子どもっぽいです」
また新宿で出会った留学生の彼と同じようなことを言う。彼は「幼稚」と言っていた。たった2人とはいえ、この韓国人留学生と元留学生の日本人に対する印象としての一致性は興味深い。結局のところ、エリートも非エリートも変わらないような気がする。
「留学生に優しいのは日本の方針ですし、私たちが要求したわけではないですから。」
文部科学省がコロナ真っただ中に発表した「外国人留学生在籍状況調査」によれば、2019年5月1日時点で韓国人留学生は1万8338人と、中国の12万4436人、ベトナムの7万3389人に比べれば決して多くはないが増えている。日本への就職に関してはそれ以上だ。
文科省は政府目標の「留学生受入れ30万人計画」を達成したと意気込むが、肝心の中身はどうなのか。
オタク文化はそんなに受け入れられてない
韓国人にとってはもはや「踏み台」「残念賞」扱いの日本、選ばなければ大学に入れてしまう日本、よく考えれば誰でも大学に入れて学位を取得、卒業できてしまう国というのもすごい。そんな日本に、それまでの留学生とは違う、ある意味で「普通」のやんちゃな若者までが学歴と仕事、そしてキャリアを求めて日本にやってくる。他国の留学生は日本に興味があったり好きだったりだが、韓国人留学生の場合そうとは限らない現実。仕方なく来るという韓国人留学生とどう共生して行けばいいのか。私は最後に韓国人にも日本のアニメが好きなオタクがいるから、そういう人は親日で日本に来ているのではと尋ねた。
「大きな勘違いです。韓国でオタクは最底辺ですし、そもそも少ない。ジブリとかポケモンは韓国でも有名です。eスポーツが強いのも国家戦略です。そういうのは韓国ではオタクじゃない。日本独特の萌えアニメとか、そういうのが好きなのは特殊でパオフと呼ばれます。韓国では居場所のない連中です。それに連中も日本が好きと日本のアニメキャラが好きなのは別ですから。日本人はそういう人を見つけて喜ぶことが好きですね、テレビもそんなのばかり」
パオフとはスラングで日本なら「キモオタ」だろうか。確かに、日本の文化が好きで日本に来る外国人を扱った番組が人気だったりする。そこではたまに日本の深夜アニメや萌えキャラが好きな外国人が登場するが、それは韓国に限らず特殊も特殊な人である。別にそういう外国人を大切にすることは悪いことではないが、まるで日本のオタク文化が受け入れられていると考えるのは短絡に過ぎるし、日本でも大多数に受け入れられているかと言えば否だろう。私としては、昔に比べれば市民権を得たほうだとは思っているが。
「学ぶところは少ないけど、仕事はあるのが日本です。政治的な話は別にして私も日本で働いています。大人ですから。アメリカ留学の資金を貯めるまでの辛抱です」
日本はもはや「踏み台」「残念賞」にすぎない
ユンさんとはその後、互いに仕事上の愚痴とコロナの話題をひとしきりして別れた。ユンさんもまたごく普通の青年、真面目で努力家、趣味より勉強と自己啓発といった少し前の韓国人留学生のイメージそのままであった。「こちらも遠慮なく聞くし書くけどいいですか?」と断りを入れたが「そのほうがスッキリします」とのことだった。コロナ禍で鬱積したものもあるのだろう。
ユンさんは、日本は街中にハングルが溢れていて便利であること、日本人は親切で余計な波風は立てないこと、他国に比べれば韓国人にとって暮らしやすいことは認めていた。ユンさんに反日という印象はない、ただ日本を侮る意味での「侮日」ではあった。日本は踏み台にすぎなかった。
もう韓国人留学生を他の途上国の留学生と同じ扱いにすることは失礼なのかもしれない。とするなら、これからは当たり前の毅然きぜんとした対応と、言うべきことは言う姿勢が日本人に求められるのではないか。言い方は悪いが韓国の「下位層」までが就職難を背景に留学して来る現状で、「めざせ留学生30万人」という数値目標だけで満足している段階は終えている。対等な関係とは迎える側がへりくだることではない。日本に住む外国人というだけで弱者扱いする一部リベラルの姿勢こそむしろ差別的だ。外国人には優しく氷河期世代は自己責任、前者の若さのみが優先されている実態も、要らぬヘイトを生む要因となっている。
「おもてなし」こそがアメリカのような分断を生む
また、定員割れの常態化した大学や短大、専門学校の存在も問題だ。日本人がほとんど入学しないために外国人で無理やり穴埋め、その結果ほぼ外国人留学生しかいない大学も存在する。試験すらない専門学校に至っては日本語のあやしい留学生ばかり。
「嫌いな国に来る留学生」という、韓国特有の留学事情と真っ向から対峙するには、この国はあまりにピュアで、その裏返しは彼らの言うとおりの「幼稚」なのかもしれない。ある意味、したたかで強い人たちだ。しかしこのコロナ禍、緊急事態の再宣言も取り沙汰される日本にそのような余裕はないし、お人好しも限界だ。
過度の特別扱いは「おもてなし」とは違う。分断とヘイトはこうした安易な受け入れ政策から生まれる。自民党の外国人労働者等特別委員会による外国人コンビニ店員の特定技能化と新たな在留資格の提言(2020年6月17日)もそうだが、留学生に対する若年労働力欲しさのあやまった「おもてなし」を続けるならば、政府の推し進める「留学生の移民化」は新たなレイシズムを生み、アメリカと同様の分断と悲劇の轍を踏むことになるだろう。
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「コロナ感染は自業自得」世界で最も他人に冷たい日本人の異様さ
日本では新型コロナウイルスに感染すると、「その人の行動に問題があったのではないか」という批判を受ける。ドイツ出身のサンドラ・ヘフェリン氏は「日本人は『コロナ感染は自業自得』と考える人が諸外国より圧倒的に多い。日本人はいじめや痴漢でも被害者を責めがちだ。これはおかしい」という——。
コロナに感染するのは「自業自得」なのか
夏の到来で収まりを見せるのではないかと期待されていたコロナ禍。期待は裏切られ、新型コロナウイルスについて現在も終息のめどはたっていません。日本では東京を中心に感染者が増えているにもかかわらず、感染した人を「自己責任」と見なす社会の風潮はあまり変わっていません。今回は海外とも比べながら日本の「自己責任論」の背景にあるものを考えてみます。
先日、大阪大学の三浦麻子教授らの調査により、日本では他の国よりも「新型コロナウイルスに感染するのは自己責任」と考える人が多いことが分かりました。教授らが賛否の程度を6段階に分けた上で400~500人に「感染する人は自業自得だと思うか」と質問をしたところ、「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常にそう思う」のうちのいずれかを選んだのは、アメリカで1%、イギリスで1.49%、イタリアで2.51%、中国で4.83%でしたが、日本ではこれをかなり上回る11.5%でした。
コロナウイルスへの感染について「自業自得だとは全く思わない」と答えた人は上記の4カ国では60~70%台だったのに対し、日本では29.25%にとどまっています。つまり日本では多くの人が「感染したことについて本人に全く責任がないとは言えない」と考えているということです。
「自分自身」にこれを課しているのだとしたら「自分に厳しく責任感が強い」とも言えそうですが、実際にはコロナウイルスに感染した「他人」に対して厳しい見方をしている人が多いのが現状です。
日本でよく見られる「どっちもどっち」という考え方
日本で被害者が「トラブルを起こした人」という扱われ方をされてしまうことは珍しくありません。
知人の娘は学校でいじめに遭いましたが、先生は加害者に注意をすることなく、「お友達なんだから仲直りしましょう」といじめの被害者と加害者の双方が互いに「謝罪」をすることを求め仲直りさせようとしたといいます。
電車で女子高生が痴漢の被害に遭った場合、必ずしも「痴漢が悪い」という展開にはならず、「最近の若い子はスカートが短いからね」などといった声が聞こえてくるなど、あたかも被害者に原因があったかのような発言をする人が目立ちます。
レイプ被害に遭った伊藤詩織さんに関しても、レイプの原因が彼女の経歴や性格、容姿にあるかのような声が日本では目立ちました。
日本では「加害者」と「被害者」というふうに分けるよりも、「トラブルはあくまでも双方の問題である」という考え方が根強いのです。コロナ禍では新型コロナウイルスがいわば「加害者」であるわけですが、感染した被害者が責任を問われ叩かれてしまうのはそういったところに原因があるのではないでしょうか。
出る杭を徹底的に叩く日本人の性分
事件や事故に巻き込まれた人が「自己責任」と叩かれることは日本では珍しくありません。
2004年にイラクでボランティア活動をしていた高遠菜穂子さんら3名が現地の武装勢力によって人質として誘拐されました。日本政府などの働きかけにより、彼らが約一週間後に解放された際は、解放を喜ぶ声があった一方で、「自己責任」「日本に迷惑をかけた」「わざわざ危ない外国に行くのはどうかと思う」といった批判も目立ちました。
でも当時のイラクが危険な状況にあったのは確かですが、過去の長年の経済制裁と戦争で生活が困窮し助けを求めるイラク市民がいたのも事実なのです。ところがそういった現地の声はあまり報じられず、前述の人質事件の際は「突飛な行動をした日本人が現地で危険な目に遭い日本に迷惑をかけた」というバッシングが目立ちました。
「変わったことをする日本人」を叩くというのは日本ではよく見られる現象です。その根底には「普通の日本人はしない『変わったこと』をあなたはしたのだから、不幸に見舞われても自己責任」という考えがあります。
体調を崩すと「周囲に迷惑をかける」の謎
日本では有名人が自分の抱負などを語る際に「健康に注意して頑張ります」というような「宣言」をすることがあります。
自分の健康について「気をつけます」などと人前で宣言するのは、ドイツにはない発想です。そのため筆者が昔ある仕事で通訳をした際、日本人のリーダーが「皆さん、体に気をつけて頑張りましょう」と語った時は、これをドイツ語にどう訳したらよいのか困ってしまいました。
ドイツを含むヨーロッパでは別れ際に「健康でいてね」「元気でね」とあいさつすることはあっても、ミーティングの最中などにこういったことを言って相手に発破をかける習慣はありません。
それにしても「自分の体は自分でコントロールできるものだ」という日本人の信念にはすごいものがあります。これが宗教なのではないかと思うほどです。
風邪をひくことや病気をすることを日本では「周囲への迷惑」と考えがちです。そのため日本では仕事の場などで「私が風邪をひくと皆さんに迷惑がかかりますから」だとか「私が倒れたりすると周りに迷惑がかかりますから」という旨の発言を聞くことがあります。
筆者が「体調が悪くなるのは、周りにとって迷惑なこと」というニッポン風の価値観と初めて接したのは小学生の時でした。
当時通っていた日本人学校で授業中に具合が悪くなってしまい、心配した先生が親に電話してくれたのですが、それを見た同級生の男の子は冷静な口調でこう言いました。「そうやって学校で具合が悪くなるのは、皆に迷惑だ」と。その男の子の家ではおそらく親がそのように教育していたのでしょう。
体調管理でも露見する「体育会系の思考」
逆にドイツの学校では、授業中に具合が悪くなる生徒がいても、本人の責任を問うような発言は先生からも生徒からもありませんでした。冬休みにスキーやスノボに出かけ骨折をし、休み明けに学校を休んだり、ギプスをして学校に現れたりしても、「自己責任」の雰囲気は全くなく、同級生は「ギプスにサインをさせて」と大喜びでした(ドイツにはギプスにサインをして、回復を願う習慣があります)。
「自己責任」が問われないのは学校に限った話ではなく、メルケル首相が数年前のクリスマス休暇中にクロスカントリーで転倒し骨折をした際は、その後3週間公務を控え、外国訪問や外国の首相との会談が延期になりましたが、ドイツでメルケル首相を非難する声は皆無でした。
日本では、「風邪は万病の元」という言い回しがある一方で、風邪というものが軽く見られている気がします。ドイツでは風邪をひいた人は「今病気なんです」という言い方をするので、筆者も日本に来たばかりの頃は風邪をひいた時に「病気です」と言ったら、「風邪は病気ではない」「そんな大げさな」と叱られてしまいました。
その言葉からは、「風邪ぐらいたいしたことないのだから、同情を買おうとするな」「そんなのは精神力で乗り越えろ」というような体育会系的な思考が読み取れるのでした。
ドイツの集団感染で「責任」を押し付けられたマイノリティー
そうはいっても、ドイツでコロナに感染した人に責任を負わせようとする動きが全くないわけではありません。ドイツのノルトライン・ウェストファーレン州にあるTönnies社の食肉工場では6月に従業員1500人以上が新型コロナウイルスに感染していることが確認されました。
集団感染が発覚した後、同社の担当者が記者会見中に「工場で働くルーマニア人やブルガリア人が週末を利用して母国に帰り、その後すぐに仕事に復帰した」と話しましたが、この発言がドイツ非難を浴びました。それというのも、同社が東ヨーロッパからの労働者を劣悪な環境で働かせていたことは既に世間に知られていました。
外国人労働者とTönnies社の間には下請け企業がいくつも入っており、彼らの多くは請負契約でした。同社からあてがわれた部屋は日本で言う「タコ部屋」状態で、何人もの外国人が狭い部屋で寝泊まりを強いられていました。
経費削減の名のもとにそういった人権を無視した働かせ方をしていたのは会社の責任であるのに、担当者は記者会見で積極的にそのことに触れようとはせず、聞き手に外国人労働者が週末に家族に会いに行ったことに非があるかのような印象を与えました。
政治家もマイノリティーを「フル活用」している
そもそもルーマニアやブルガリアを含む東ヨーロッパではコロナウイルスの感染者の数は多くありません。同社で働く外国人はドイツ国内で感染したかもしれないのに、彼らの母国の名前を名指ししたことが差別的だと現地のメディアで問題視されました。
ドイツ人が大量に消費する肉のために、安い賃金で働かされている外国人労働者がいざとなれば今回のように罪をなすりつけられることについて同情をする声もあるものの、「コロナ集団感染は外国人労働者のせいだ」と考える人もおり、ドイツにもとからあった人種差別が露見した形となりました。
ドイツの一部の政治家の振る舞いも世間の外国人差別に拍車をかけています。コロナ対策が緩いことで知られていたノルトライン・ウェストファーレン州のArmin Laschet首相は記者会見の場で食肉工場の集団感染について問い詰められると、「感染は、私が州の規制を緩めたことが原因ではない」と語り、食肉工場の劣悪な労働条件に触れながらも「ルーマニア人とブルガリア人がドイツに入国したことによりウイルスが入ってきた」という言い方をしました。政治家としての自分の責任を追及されないために、東ヨーロッパの労働者の国を名指しし、世間に「外国人が悪い」という印象を与えてしまいました。
悪いのは本当に「夜の街」の人たちなのか
感染の拡大をいわば社会のマイノリティーのせいにしようとした前述のドイツの州首相ですが、どこかで聞いたことのある言い方だな、と思っていたら、それは会見で「夜の街の方々」を繰り返していた小池百合子都知事でした。
東京都知事も州首相も「マイノリティーに責任がある」とはっきり言ったわけではありません。けれども、繰り返し「国名」について発言をしたり、頻繁に「夜の街」という言葉を使うことで、世間に「責任は彼らにあるのだな」と印象づけることができました。政治家が自らの責任から逃げる手法としては実に有効です。
そうでなくても「自己責任論」が強い日本の場合、マジョリティー側にいる人間は「自分たちとは違う行動をするから、彼らは感染した」と考える傾向があり、前述のような政治家の発言は日本の「自己責任」の風潮にますます拍車をかけています。
自分が元気なうちは、コロナに感染した人を「自己責任」と切り捨てることを当たり前だと思ってしまいがちです。しかし、いつ自分が感染するかもわかりません。他人に厳しくしていると、まわりまわって自分の首を絞めることになるので、「自己責任」という言葉の使用もほどほどにしておきたいものです。
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オンワードに「ゾゾへの再出店」を決断させた想定以上の苦戦と赤字
オンワードホールディングスは、7月13日、「ZOZOTOWNへ再出店する」と発表した。ブランド撤退からわずか1年半で、なぜ復帰することになったのか。流通・ファッションビジネスコンサルタントの小島健輔氏は「百貨店依存への危機感の表れだ。だが、両社の思惑は微妙にすれ違っている」と指摘する――。
身長・体重を入れるだけでセットアップが注文できる
オンワードホールディングス(HD)は、7月13日、ZOZOとの提携開始を発表した。その骨子は、ZOZOが蓄積したサイズデータ「マルチサイズ」に基づき、身長と体重を選択するだけで、スマートテーラー事業「KASHIYAMA(カシヤマ)」のスーツなどをオンラインで簡単に注文できるというものだ。
オンワードは8月下旬からサービスを始め、5年後までに100億円規模の売り上げを目指すとしている。ただ、商品の企画、生産は、すべてオンワードによるもので、それらはすでに「KASHIYAMA」として展開されているため、それほど新味がある発表ではない。
ZOZOが提供するのはサイズマッチングのITサービスと会員顧客、受注と決済、発送だ。完成品は中国・大連のオンワード自社工場から一着毎のパックランナー(運賃を抑え、型崩れを防ぐ独自の圧縮パック)でZOZOの倉庫に届き、顧客に宅配出荷される。
デジタル化された大連の自社工場でスピード生産される「KASHIYAMA」のパターンオーダーは採寸から1週間で顧客に届く。ZOZOとの取り組みではZOZOの倉庫を経由するため10日~2週間と、やや時間がかかる。EC業界で言う「ドロップシッピング」(販売者があらかじめ商品をモール事業者の倉庫に預けず、受注してから倉庫に届ける)というスタイルだ。
なお似たようなマルチサイズ選択型パターンオーダーサービスを展開するユニクロの「ジャストサイズ」は“擬似”パターンオーダーで、全サイズのミニマムストックを出荷倉庫に積んでいるから、欠品しない限り注文の翌日か翌々日には届く。
ZOZOの倉庫は経由するものの、倉庫に在庫を預かって注文に応じて出荷するわけではなく、在庫を預かるフルサービスを売ってきたZOZOとしては異例な取り組みだ。オンワードに復帰してもらいたいZOZOと顧客を広げたいパーソナルスタイルが折れ合った取り組みで、遠からず次のステップへ進むと思われる。
ZOZO側の発表に見る「すれ違い」
セレクトショップ集積からブランドが広がった「ZOZOTOWN(ゾゾタウン)」はファッション好きの20~30代イメージが強く(今年1~3月間の会員平均年齢は男性31.6歳、女性33.9歳)、Zホールディングス傘下となってPayPayモールにも出店し、保守的な百貨店客も含めて幅広い世代を取り込みたいZOZOにとってオンワードの復帰は不可欠だった。閉店ラッシュにコロナ休業も加わって百貨店客がECに流れ込む中、オンワードが再出店すれば他の百貨店アパレルもそろい、百貨店客を取り込めるという思惑もあったに違いない。
ZOZO側の発表ではオンワードの「J.PRESS」や「Paul Smith Woman」など11ブランド・13ショップの「ZOZOTOWN」再出店の方が大きくフォーカスされていたから、両社の思惑は微妙にすれ違って見えた。
衰退を食い止めるため、百貨店からECへ
オンワードはコロナ以前から「百貨店からEC」という引き返せないルビコンを渡っていた。非効率な運営で商品が割高になり若者も大衆も離れていく百貨店に依存していてはオンワードも衰退するばかりだから、00年代にはショッピングセンター(SC)や駅ビルなど商業施設に店を広げた。さらに元経産省キャリアの保元道宣氏がオンワードHDの代表取締役に就任した15年以降は着々とデジタル化への布石を進め、18年3月には支店営業軸からEC軸へ営業組織も物流体制も一変させた。そのうえで2019年10月には全国約600カ所の店舗を閉鎖すると発表した。
EC売り上げは17年(2月期、以下同)の150億2100万円から18年は36.8%増の202億6900万円、19年は25.8%増の255億円、20年は30.6%増の333億800万円と順調に伸び、売り上げに占めるEC比率もグループ全体で6.1%から13.4%へ、オンワード樫山単体では9.9%から16.8%まで伸び、ほぼ目論見もくろみ通りに進んでいたところにコロナ危機が襲った。
コロナ危機が直撃した20年第1四半期(3~5月)は売上高が前年同期より34.9%も落ち込んで21億1200万円の営業損失、24億1700万円の純損失を計上し、純資産は19年2月期末から127億8700万円も減少するというダメージを受けたが、その窮状を力強く支えたのがECだった。
コロナ禍でEC事業は急伸したが…
百貨店売り上げが前年同期から71%、SCや駅ビルの売り上げが40%も落ち込む中、ECは50%伸びて全社売り上げの45%に達した。コロナパンデミックでライフスタイルも購買行動も激変し、百貨店や商業施設の一斉休業で店舗売り上げが激減したという特殊事情とはいえ、まだ何年もかかるとみていた「半分はECで売る」という目標がほぼ実現してしまったのだ。
とはいえ、オンワードのEC体制は規模ほどに盤石ではない。18年段階でオンワード樫山単体の自社EC比率は85%と高く、コロナ危機下の20年3~5月期では単体で94.8%、全体でも90.0%に達したが、システム改修からささげ(採寸・撮影・原稿書き)まで外注比率が高く、自社ECではあっても自社運営とは言い切れないところが残る。今期はEC売上500億円を計画し、中期的には1000億円を目指して「メーカー機能を持ったデジタル流通企業」と謳うには心許ない。
百貨店顧客の取り込みも一巡し、さらにEC売り上げを伸ばすには異なる顧客層に広げる必要があったし、ECのシステムにもフルフィルにも通じたZOZOと提携すれば自社EC体制の整備も進むと期待したのではないか。
退店のきっかけ「ZOZOARIGATO」は終了
コロナ危機がいつまで続くのか誰も読めないが、アフター・コロナではなくウィズ・コロナとなってライフスタイルも購買行動も元には戻らない公算が極めて高い。コロナ危機で高まったECの勢いを継続するには店舗からECへ転じる会員数を増やし続ける必要があるが、17年の160万人から18年は28%増の204万人、19年は30%増の265万人と増やしてきた会員数が20年は18.3%増の313万人と、百貨店からECに転じる顧客も一巡しつつあった。保守的な高齢層に偏る百貨店客の取り込みだけでは頭打ちは目に見えており、衣料消費に積極的な若い世代の取り込みが急務となっていた。
そこに持ち込まれたのが「ZOZOTOWN」への復帰であり、827万人(20年3月期第4四半期)というZOZOの若い会員層はオンワードがEC顧客を広げるのに不可欠と思われた。離反の契機となった会員制割引サービス「ZOZOARIGATO」は導入後、半年で終了し、導入した前澤友作前社長もすでに会社を去っているから、復帰に何の問題もなかった。
若いビジネスマンを取り込むために必然だった
加えて、オンワードには、もう一つの課題があった。採寸から納品まで1週間という画期的な短納期を実現して好調に離陸したスマートテーラー事業の「KASHIYAMA」も、スーツ需要の衰退もあって計画通りには伸びず、顧客層を広げる必要があったのだ。
スマートテーラー事業を手がける子会社のオンワードパーソナルスタイルは、実質初年度の19年8月期は5万6000着、37億円を売り上げたが、大連の第2工場が稼働した20年2月期は60億円を計画しながら43億2900万円にとどまって18億3300万円の営業損失を出し、21年2月期で150億円という計画の実現も危うくなっていた。ZOZOへの再出店を検討する中、若いビジネスマン&ウーマンのスーツ(セットアップ)需要を取り込みたいスマートテーラー事業を提携の柱とするに至ったのは必然だった。
オンワードとZOZOで提携の思惑は微妙にすれ違っていても、互いに必要としていたことは間違いなく、結果としてウインウインの関係が成立するのではなかろうか。
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ツイッターでよく見かける「謝ったら死んでしまう病」という本末転倒
議論の生産性を高めるうえで「プライド」はムダになることが多い。慶應MCCシニアコンサルタントの桑畑幸博氏は「ツイッターでは論点をすりかえる『揚げ足取り』の議論が目立つ。そうした場面では、さっさと謝罪し、本来の論点に戻ったほうがいい」という——。※本稿は、桑畑幸博『屁理屈に負けない! 悪意ある言葉から身を守る方法』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
Twitterで見かけた編集者の「くだらない議論」
自称「議論研究家」の私にとって、なかなか興味深いネタを提供してくれるTwitter。そこで先日も「くだらない議論」を見つけました。(なお、それぞれの発言は論旨が変わらない程度に私が編集しています)
発端は、ある男性編集者(Aさんとします)が「献本へのお礼を直接でなくSNSに流すのは、自分にはコネがあるということを言いたいだけとしか思えない。書物が社交の道具に貶められている」とツイートしたことでした。
その意見に反応したのが同業の女性編集者(Bさん)。「その解釈は狭量だ。本の情報がSNSで拡散されることに意味がある」と意見します。
するとAさんは、「情報を拡散して本の宣伝ができればいいという考えには同意しない。書くことは断念することであり、編集は捨てることであり、出版は閉じ込めることだからだ」と反論します。
ここまでは良かったのです。
メリットとデメリット、リスクとリターン。モノゴトには多様な側面がありますから、献本に対しても異なる意見が出てくるのは当たり前で、両者の意見にはそれぞれちゃんとロジック(理屈)がある生産的な議論です。
「出版やめて、クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」
しかし、「出版とは閉じ込めること」に続けたAさんの次のような発言で、残念ながら「まともな議論」が一気に「くだらない議論」に突入します。
「そんなこともわからないんだったら、出版やめて、クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」
このAさんの発言をスクリーンショットで引用し、Bさんが噛みつきます。
「こういう閉鎖的で性差別の発言が感情的な口調で出てくるところが、ザ・日本の出版界ですね」
ここから先は……。はい、皆さんご想像の通りです。当初の論点である「献本お礼ツイートの是非」は置き去りにされ、以下のような外野からの発言が相次ぎ、炎上することとなりました。
「女性編集者とわかってのこの発言は明らかな性差別」
「性差別からくる発言だと俺は思わなくて、単純な職業差別だと思う」
「クリエイティブな行動すべてを蔑んでると感じた」
「クッキー馬鹿にしてるんですか? 謝罪してください」
もちろん中には「女性差別というより、商業ベースにのらない素人商売という意味合いだと思いますけどね」という冷静な意見もありましたが、概ねAさんへの感情的な批判が続きました。
するべきは相互理解を深める質問
私の個人的な解釈としては、Aさんは賞味期限の短い本を粗製乱造することのメタファーとして「フリマでクッキーを売る」と言ったのではないかと考えていますが、もしそうだとしても、うかつな発言であったことは確かです。
しかしながら、まともなやり取りを「くだらない議論」にしてしまったのはAさんだけの責任ではありません。
私に言わせれば、「どっちもどっち」です。
まず、Aさんの問題は何か。
「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」という、なかなかパンチの効いた一節に皆さん注目していますが、それ以上に問題なのが、その前の「そんなこともわからないんだったら」です。
これはつまり、「自分は正しい。お前は間違っている」ということの表明であり、他の議論でもありがちな「マウンティング目的の発言」に他なりません。これでは、相手が見下されたと感じてヒートアップするのも当然です。
Aさんは、炎上した後で「これは文学と社会学の対立」と言い直しましたが、そうであればBさんとはそもそもの立脚点や視点が違うわけですから、そこを議論の中で「自分はこういう視点で」ときちんと説明すべきでした。(個人的には、文学と社会学というより文化と経済の対立だと思っています)
どちらにせよ、結局面倒くさくなってBさんをブロックしたわけですから、最初から面倒くさいことにならないよう、余計なひと言を加えずに、冷静に議論をすれば良かったのです。(あるいは最初からスルーするか)
次にBさんの問題。
これはもう「論点ずらし」であることは明白です。当初の「献本お礼ツイートの是非」という論点から、「性差別」へと論点をずらし、そこから「個人攻撃」と「業界批判」に持って行ったわけですね。
BさんがAさんの発言を性差別と解釈したとしても、そこはさらっと触れる程度にして、たとえば「編集は捨てること、というのが献本お礼ツイートとどう関係するのですか?」といったような相互理解を深める質問をすべきでした。
もしBさんが相互理解を目指しているわけではないのであれば、最初のAさんのツイートへの反論も「議論する気などなく、単に噛みつきたかった」ということになります。
日常生活に蔓延する「屁理屈」
さて、これはほんの一例です。
ご存じの通り、インターネットの世界には屁理屈をこねくり回したヘイトスピーチやデマ(フェイクニュース)、そして個人に対する誹謗ひぼう中傷が蔓延しおり、それが日常的な炎上の要因となっています。
今回のコロナショックに関わるインターネットやテレビでの発言も、参考にすべきものも多くありますが、中には勘違いや無知からくるトンデモ意見、そして悪質なデマや恐怖心を煽るだけのものまで、玉石混交の「言葉の洪水」に私たちは翻弄されています。
そして仕事の現場では、パワハラにセクハラ、家庭ではモラハラといった、自分勝手な屁理屈によるハラスメントも、まだまだのさばっています。
ですから、私たちは「乱暴な主張で他者を否定し、押さえつけようとする言葉の暴力=屁理屈」の構造やテクニックを知ることで、そこから身を守る術を学んでいかなくてはなりません。
その代表例が、前述のくだらない議論の発端となった「論点のすり替え」です。
揚げ足取りは「人格攻撃」につながる
この「論点のすり替え」を、皆さんは日常的に目にし、耳にしているはずです。たとえば会議で意見がぶつかった時、「そんな言い方をするからあなたの意見は信用できないんですよ。だいたいあなたはいつも……」というように反論するのも論点のすり替えです。
確かに言い方に問題はあったかもしれませんが、そこから「意見そのものの是非」ではなく「人格攻撃」に論点をずらしてしまうのは、悪意に満ちた屁理屈以外の何物でもありません。
では、なぜ人はこのような論点のすり替えを行うのか。それは当然「議論で優位に立つ」ためです。それも多くの場合、本来の論点では勝ち目が見つからないから、とりあえず論点をずらし、そのことで相手より優位に立とうとするのです。
そして、こうした論点のすり替えは、「揚げ足取り」と呼ばれるものです。前述したBさんも、また例に出した会議での批判も、本来の論点とそれに関する意見の中身ではなく、「表現の仕方」のようなプロセスを問題視し、そこに噛みついているのがおわかりでしょう。
ですから、揚げ足取りのような論点のすり替えは、往々にして「人格攻撃」になるケースが多くなります。
誰もが「印象操作」で優位に立とうとする
特に会議やSNSなど第三者の目がある場合、本来の論点から人格攻撃に論点をずらすことで、会議の参加者やSNSの閲覧者に「こんな人物の意見が正しいはずがない」と印象づけ、相手より優位に立つことを狙います。
なんと姑息な屁理屈だと思いませんか?
しかし実は、子供から大人まで、私たちは意識、無意識に関わらず、こうした「印象操作」を行ってしまう。それをまず自覚すべきです。
野党代表の国籍問題や与党閣僚の過去の発言を取り上げて「こんな政治家の言うことなど聞くに値しない」と結論づけるのも、子供が「○○ちゃんはいつも……」と人格批判をして自分の意見を通そうとするのも、根っこは同じ「印象操作で優位に立とうとする行為」です。
正直に言えば、私自身こうした論点のすり替えを行った経験があります。いや、こうした論点のすり替えをやったことがない、という人などいないのではないでしょうか。
それほど社会に溢れる「揚げ足取り」という論点のすり替え。では、どうしたら論点のすり替えを行わず、また攻撃される対象となったときに身を守れるのでしょう。
「謝ったら死んでしまう病」にかかったら本末転倒
まず、自分が人格攻撃をされている当事者であれば、「謝ってしまう」のが一番です。「ああ、確かに言い方がまずかったですね。それは申し訳ありません」と、きちんと過ちを認め、謝罪してしまう。
その上で「ですが、本来の論点は……」と議論を本筋に戻すのです。これにより、相手は一時的には優位に立てるものの、それ以降は本来の論点で議論するほかなくなります。
うまくいけば「ちゃんと謝った」ことで、会議の他の参加者やSNSの閲覧者からきちんとした人という好印象を獲得し、揚げ足取りを逆手に取れるかもしれません。
しかし、こうした理屈がわかっていないのか、それともわかっていてもやらないのか、政治家にしろSNSの発言者にしろ(前述のAさんもそうです)、なぜか自分の非を認めて謝ることができない人が多すぎます。まるで「謝ったら死んでしまう病」にかかっているかのようです。
その根底にあるのは、たぶん「ちっぽけなプライド」なのでしょう。自分の経験やスキルに自信があり、自分は正しいことを言っていると思っている。また、「その道のプロ」や「○○という肩書き」といった地位を守りたい。
だから、自分の非を認めることなどできないし、する必要もない。よって、揚げ足取りをされたとしても、謝る必要などないし、揚げ足取りをやってきた方が悪い。
せっかく生産的な議論を重ねて社会的な地位を得たとしても、そういった考えを続けているうちに「謝ったら死んでしまう病」にかかってしまうのだとしたら本末転倒です。
さっさと謝罪し、本来の論点で議論を進める
何かを発信しようと身構えるとき、小さなプライドから私も含む誰もが「病」に侵されてしまう。このリスクは意識すべきです。議論の生産性にプライドは必要ありません。むしろ、無用なプライドなど捨てて、「揚げ足取り」をされたらさっさと謝罪し、本来の論点で議論を進める習慣をつけていきたいものです。
生産性の向上やネットリテラシーが求められる昨今、「屁理屈に振り回されたくない、相手をだまし、押さえつけようとする悪意ある言葉に負けたくない」というのは、今の時代に持つべき真っ当な危機感です。
ぜひ声の大きな攻撃的な人々が駆使する卑怯な屁理屈のテクニックを知ることで、それに負けない力を身につけて欲しいと思います。
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「アフターコロナには現金がゴミになる」金価格が高騰する根本原因
政府・中央銀行の野放図な資金供給で歪む世界
金価格が高騰を続けている。7月1日には一時1788.96ドルまで上昇し、2012年10月以来の高値を付けた。と思ったら、7月9日にはさらに1820.60ドルまで上昇してきた。
そして、7月22日のアジア市場では日本時間9時30分の時点で1847.29ドルまで急騰している。いよいよ2011年9月につけた史上最高値の1920.30ドルが視野に入ってきた。
ポートフォリオに金を加えるべきだ、というのが私の考えだが、金を買うべきか、そろそろピークと考えるべきか、読者のみなさんが自分で見極めるためには、投資商品としての金を単体で見るのではなく、世界経済の大きな動きを読むべきであろう。以下説明していこう。
全世界で感染者が1470万人を超えた(7/21現在)新型コロナウイルスの感染拡大で、一時的にせよ、各国が経済活動を完全に止め、大量の失業者が発生している。各国企業は収入を絶たれ、債務不履行・倒産のリスクが高まっている。
主要国の政府・中央銀行は矢継ぎ早に対策を打ち出し、大量の資金投入を行うことにコミットした。その結果、2020年2月以降に大きく下落していた株価は、早くも3月には底打ちし、持ち直しの動きが強まるなど、株価だけを見れば経済的な不透明感が払拭されたかのような雰囲気が一部である。
だが、今回打ち出された野放図な資金供給という政策が、はたして将来にわたって継続することは可能なのだろうか。また、副作用はないのか。
リーマン・ショック時の中国と同じ過ち……
莫大な資金供給で経済を無理やり回復させたのが、2008年のリーマン・ショック時の中国の巨額の財政出動だった。しかし、このような政策は、表面上はうまくいっているようでも、経済の実態とは大きな乖離が生じる。結局は需要のないところに無理やり資金を供給してさまざまなものを生産し、供給することで、経済が拡大しているかのように見せかけているだけでしかないからだ。
巨額の財政出動を受けて、実体のある十分な需要がついてくれば問題ない。だが、残念ながら得てして供給過剰に陥ってしまう。リーマン・ショック後の巨額の資金供給もご多分に洩もれず、「むしろ弊害が多かった」というのが後年の一般的な評価である。
当時、4兆元(当時のレートで約57兆円)にもおよぶ中国の巨額の財政出動で救われたのが欧米諸国だったが、その弊害が浮き彫りになり、今度はそれを批判し始めた。ところが現在、当時の中国とまったく同じことをしている。中国を批判する資格がないどころか、今後、世界経済に多大な悪影響を与えるのではないかと心配せざるを得ない状況だ。
金融商品の焦げ付きという「新たなパンデミック」
世界の経済成長率は大きく落ち込み、短期間では戻らない。世界的に経済活動が再開されても、以前の規模に回復するには数年単位の期間が必要とみられる。
これまで米国などでは、株主還元の名のもとに、さんざん借金をして自社株買いを行い、配当を増やして株価を上昇させてきた。その状況を作り出したのちに、経営者は保有する自社株を高値で売り抜け、経営から退き、借金も放り出してきたのである。あとを受けた経営者からすれば、たまったものではない。
そこで起きたのが新型コロナウイルスの感染拡大であった。経営者たちは経営が苦しくなり、中央銀行に駆け込んで「債務を引き受けてほしい」と迫っているというのが現状である。
2008年のリーマン・ショックのときもそうだ。金融機関がサブプライムローンを束ねた金融商品(デリバティブ)を世界中にばらまき、それが焦げ付いたことで金融危機が発生。最終的にリーマン・ブラザーズという当時の投資銀行が破綻し、世界的な金融危機を引き起こした。
まさに、金融商品の焦げ付きが「パンデミック」となり、世界の金融市場だけでなく、経済にも大きな悪影響を与えたわけだが、世界を震撼させ、経済を大きな落ち込みに陥れた金融機関の経営者にはほとんど何も負担がなかった。
「不良債権のゴミ箱」化するFRB
新型コロナウイルスの感染拡大という背景があるにしても、企業は資金不足を理由に多額の社債を発行している。米企業の2020年4月の発行額は総額2294億ドルと、前年の3.6倍となり、月間ベースで過去最高を記録した。米連邦準備制度理事会(FRB)が大規模な社債購入を決めたことが、投資家の需要の回復につながったようである。
新型コロナウイルスの感染拡大で経営が著しく悪化している米ボーイングも社債を発行したが、その上乗せ金利は4.5%。2019年7月の発行分の0.9%から大きく上昇した。また、業績不振で政府に支援を仰いだデルタ航空も起債し、当面の資金繰りにめどを付けたものの、年7%の高い利回りが設定された。
このような高利回りに投資家が飛びつき、結果、ハイイールド債への需要が高まった。FRBが総額7500億ドルの買い入れ枠を設定したことで、FRBが「最後の買い手」として控えている安心感が起債の急回復につながったのであろう。
企業が債務不履行になっても、FRBが債務を肩代わりしてくれるのであれば、投資家には何もリスクがないことになる。まさに「フリーランチ」であり、「やった者勝ち」の経済だ。FRBがフリーランチの「ゴミ箱」になって、どのような不良債権も買い上げることができるというのであれば、これはもう「モラルハザード経済」といってもいい。
冷静に考えればわかるように、このような仕組みはいずれ破綻する。
「フリーランチ」は存在しない
FRBの使命は「雇用の最大化」と「インフレ率の抑制」だ。債券の買い入れによる経済の安定化ではないことは言わずもがなである。したがって、FRBが今回採用した政策への批判が高まるのは必至であり、FRBも買い入れる社債を選別せざるを得なくなる。
そのとき、結果的に企業債務が拡大し、債務不履行による倒産ラッシュが起きることになる。多くの投資家が、不良債権をFRBがすべて引き受けるのは不可能であると思い知らされることになるのだが、そんなことは初めからわかり切っている。
そのとき投資家は「FRBが社債を買うと言ったじゃないか」と批判するだろう。しかし、そもそもフリーランチは存在しない。投資家が無知だったということになるだけだ。
「現金がゴミになる」
経営者や金融機関、投資家だけがさんざん儲けておいて、その後のツケを国民が引き受けるというバカげたことはあってはならない。金融機関や大手企業は、「政府に守られていると考えるのは、最終的に大きな勘違いだった」と思い知らされるタイミングが来るだろう。
今後の低成長時代に、実体経済や企業の実力に見合わないような株価水準に上がることもなくなっていく。資金供給の拡大で、株価が人為的に押し上げられるような経済が、永遠に続くと考えるには無理がある。
さらには、政府・中銀による野放図な資金供給が行われることで、今後は通貨が下落する可能性がある。いや、もっとはっきり言えば、「現金がゴミになる」という世界が来るかもしれない。デジタル化の加速で、そのような状況がいずれ鮮明になっていくだろう。
米ニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)で2020年4月20日、国際的な原油取引の指標WTIの5月の先物価格が1バレルあたりマイナス37.63ドルと、史上初めてマイナスを記録した。原油価格がマイナスになるという“考えられないこと”が起こったのである。これからは何があっても驚いてはならない。
人口動態の問題も、今後は重要なポイントになる。少子高齢化は経済の縮小均衡を意味する。「人・モノ・カネ」の流れが止まれば、デフレになる。現金が力を持つ世界になるということでもあるから、デフレであるうちはまだましかもしれない。しかし、その現金の価値が、デジタル化の加速の中で低下していったとしたらどうか。
「架空経済」の崩壊
2021年に東京五輪・パラリンピックが本当に開催されるかはまだ誰にもわからない。その先の世界経済の動向はもっと不透明な状況だ。
ただ言えるのは、新型コロナウイルスは、これまで中央銀行による資金供給で支えられてきた「架空経済」の崩壊をもたらすことになるということだ。
2021年以降は10年間ほど、厳しい状況が続くかもしれない。これまで十数年間、米国を中心にバブル経済に踊りに踊ってきたわけだから、それくらいの厳しい状況は我慢しなければならない。世界的な停滞が長期間続くリスクを念頭に置くことが求められている。
ちなみに、1929年の米国に始まる世界恐慌の際には、株式市場の回復に約25年かかっている。今回はさすがにそのような長期間にわたることはないだろうが、それくらいの長期的視点と覚悟をもって日々の生活を過ごしていくことが求められるだろう。
ジョージ・ソロスの教え
私が投機家としてもっとも尊敬するジョージ・ソロス氏は、新型コロナウイルスのパンデミックとその影響について、「資本主義の未来にとって何が起きるかわからない、かつてない出来事」としたうえで、「私たちはパンデミックが始まったころの状態に戻ることはない。それは明らかだ」と述べている。
確かにこれだけインパクトのある出来事は、人生でそう多くはない。ワクチン開発が成功するまでにも長い時間が必要になるだろう。米国立アレルギー感染症研究所(NIAID)の所長で、トランプ政権の新型コロナウイルス対策本部の主要メンバーでもあるアンソニー・ファウチ博士は、「年内にウイルスが根絶される可能性はほぼない」としている。私たちには、新型コロナウイルスと共存していく覚悟が必要だ。
今回、これから世界に起こりうる基軸通貨ドルの価値の減価、米国株バブル経済の崩壊状況と、歴史的な世界の覇権国家の移行可能性を分析し、新著『金を買え 米国株バブル経済終わりの始まり』(小社刊)を上梓した。
金が今後1トロイオンス=2000ドルを超えて上昇する可能性とその理由についても詳しく考察している。「金を買え」といっても、資産運用の話にとどまらない。見えない未来、見えない社会の先を読み、自分自身の資産ポートフォリオを再構築し、新しい時代を生き抜いてほしいという願いを込めている。
※本稿は、江守哲『金を買え 米国株バブル経済終わりの始まり』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
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「日本の財政は10年後に破綻する」が10年前から外れ続けている理由
自国通貨建ての国債を発行でき、かつ変動相場制を採用している国では財政破綻は起こりえないので、政府はもっと積極的に財政出動すべきだ。こうした主張をする異端の経済理論「MMT(現代貨幣理論)」が注目を集めている。経済アナリストの森永康平氏は「10年前から『日本の財政は10年後には破綻する』と言われてきたが、いまも破綻していない。この現状が、MMTを実証している」と指摘する——。※本稿は、森永康平『MMTが日本を救う』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
現代貨幣理論とはなにか?
MMT(現代貨幣理論)とはどのようなものなのか。MMTでは貨幣を借用書として捉えている。この借用書はIOUとも言うが、これは英語で「あなたに貸しがある」というI owe youからもじったものである。
分かりやすく説明するために、太郎と花子に登場してもらおう。
太郎の庭では夏にスイカが、花子の庭では冬にミカンが穫れる。そこで花子は冬にミカンをあげるという借用書と引き換えに太郎からスイカをもらった。
次に次郎の庭では秋に柿が穫れる。そこで、太郎は花子からもらった借用書と引き換えに、次郎から柿をもらった。この時点で、次郎は冬になったら借用書と引き換えに、花子からミカンがもらえる状態になった。
このように、最初花子が出した借用書(負債)は貨幣のようなはたらきをして、3人の世界でやり取りされ、交換媒体として使われている。
仮に太郎が花子とスイカとミカンを物々交換していたら、どうなるか。交換したタイミングで取引は完了してしまい、貨幣にとって重要な信用や負債という概念は発生しない。しかし、収穫のタイミングがズレることで「スイカという実物に対して、将来もらえるミカン」という、取引成立時点では実物ではない借用書が交換された。ここに2人の間で信用と負債という概念が発生するというわけだ。
商品ではなく、「信用と負債」が貨幣価値を決める
また、この話が成立するためには、3人全員がお互いのことを完全に信用している必要がある。たとえば、太郎が花子からスイカと引き換えに借用書を受け取り、それを次郎に渡して柿を受け取ろうとした際に、次郎が「花子は信用できないから、その借用書は受け取れない」と言ったら、借用書が3人の世界で貨幣のように流通することはなくなってしまう。
このことから言えることは、誰しも貨幣(借用書という負債)を発行できるが、全ての人々がそれを信用しない限りは貨幣にはなりえないということだ。
つまり、MMTにおいては、貨幣の裏付けとしての商品(金や貴金属)の価値が貨幣を貨幣として流通させるという「商品貨幣論」ではなく、全ての人々が信用する負債が貨幣として流通するという「信用貨幣論」を適用しているのだ。
国と国民と紙幣の関係が分かるモズラーの逸話
MMTが商品貨幣論ではなく、信用貨幣論を支持するということを説明した。しかし、それだけでは、経済学者のランダル・レイが商品貨幣論について、「間抜け比べ」や「ババ抜き」として、説得力に乏しいと指摘したことと変わらない。全ての人々が信頼しているから、その借用書を貨幣として扱うということは、ババ抜きと変わらないではないかと考える人もいるからだ。
ではMMTにおいて貨幣に対する考え方とはどういうものか。ここでMMTを理解するわかりやすいたとえとして、MMTの生みの親ともいわれる投資家のウオーレン・モズラーの名刺の逸話を紹介したい。
モズラーが自分の子どもたちが家の手伝いをしないため、ある日「手伝いをしたらお父さんの名刺をあげるよ」と子どもたちに言った。そうすると、子どもたちは「そんなものはいらない」と答えて手伝いをしなかった。
そこでモズラーは、今度は子どもたちに、「月末までに30枚の名刺を持ってこなければ家から追い出す」と伝えたところ、家から追い出されたくない子どもたちは必死に手伝いをして名刺を集め始めた、という話だ。
逸話に出てくるモズラー(お父さん)を国として考え、名刺を貨幣、子どもたちを国民として考えれば、月末に30枚の名刺を納めよという指示が加わることで、何も価値のない名刺(不換紙幣)を子どもたち(国民)が喜んで受け取る理由がわかる。
「国家が自らへの支払い手段として、その貨幣を受け取ると約束する」という部分をこの逸話は非常にわかりやすく示している。
大事なのは、その貨幣が税の支払いに使えるか
モズラーの逸話に、MMTを理解するのに重要な3つの要素が含まれている。
この考え方をもう少し深掘りしていくと、MMTの主張の1つに近づく。「月末までに30枚の名刺を納めよ」という指示は、国民が国家に税金を納めることと同じだからだ。もともと名刺に価値はないが、父がそれを受け取ることで、家から追い出すという罰を与えない。だから子どもたちは名刺を集める。
これは言い換えると、貨幣(不換紙幣)には裏付けとなる価値はないが、国が納税する際の支払い手段として受け取る。だから国民は裏付けとなる価値のない貨幣を集めようとする。読者は同じことだと感じるだろうか。
つまり、MMTの考え方では、その貨幣が納税の際の支払い手段として使えるかどうかが、その貨幣が流通するかどうかを決める際に重要な要素になる。
税金の存在が貨幣を獲得・保有するインセンティブを国民に与える。この考え方をタックス・ドリブン・マネタリー・ビュー(Tax-Driven Monetary View)といい、ランダル・レイは「租税が貨幣を動かす」(Taxes drive money)と表現している。
これがMMTを理解するための、2つ目のキーワードだ。
税金は財源ではなく、貨幣価値を保証するもの
タックス・ドリブン・マネタリー・ビューに対しては「徴税をする国と納税をする国民の間でしか貨幣が流通しない」からおかしいという指摘があるが、それは間違っている。全国民が消費の際に課税される消費税や、日本に住む多くの国民が支払うことになる住民税など、いろいろな税は存在する。だから、その国において納税の際に決済手段となる貨幣を、普段の経済生活でやり取りをするインセンティブは発生している。
仮にいっさい課税されず、納税の義務もない国民がいたとしても、周りの国民が納税する義務を負っているなら、納税に使用できる貨幣を持っていた方が得である。その貨幣と引き換えに、周りの国民が生産するモノやサービスを受け取れるし、労働力として使うこともできるからだ。つまり、MMTの主張としては、税金は財源ではなく、貨幣の価値を保証するものなのである。
「財政健全化が優先」は誤った考え方だ
本稿ではMMTにおける主張を見てきたが、著名な経済学者から中央銀行や政府関係者に至るまで、MMTは多くの否定的な意見を集めている。多く見られる否定的な意見の1つが、「財政赤字を続けるのは不可能であり、財政黒字を目指す、つまり財政健全化が重要だ」というものだ。しかし、これまで見てきたMMTの考えからすれば、この考え方は誤っている。
MMTから見た反論はこうだ。まず、「機能的財政論」に基づけば、財政が赤字だから緊縮財政、黒字だから財政拡張といった、数字だけを見て財政政策の方向性を決めることはないということだ。
不況なら財政赤字であろうが財政拡張し、財政黒字であってもインフレが亢進こうしんする場合は緊縮財政をして総需要を抑えにいけばよい。
「ストック・フロー一貫モデル」の観点から言えば、財政黒字が生じているということは、民間部門か海外部門で赤字が発生しているということであり、それは結果的に過剰な借り入れやバブル発生の懸念要因となる。また、民間部門の借り入れ、債務膨張が続くはずもなく、いずれはバブル崩壊へと繋がっていってしまう。民間部門で貯蓄を発生させるためには、政府部門が赤字であることが基本的な状態であると考えられるため、財政黒字を積極的に目指すことはおかしいのである。
自国通貨発行権があるなら財政出動できる
巨額の財政赤字、世界最悪レベルの政府債務残高と言えば、私たちが住む日本がいの一番に挙げられる。ただ、MMTの考え方に基づけば、日本は自国通貨を発行している国なので、税収による財政的な制約を課されることもない。だから財政赤字を気にせずにもっと積極的に財政出動をして、成長を促した方がいい、となる。MMTでは税収ではなく、物価上昇率が制約になるが、日本はデフレ状態にはない。むしろ低インフレ状態が長期にわたっているため、MMTの観点からは十分に財政出動をする余地があるということになる。
以上がMMTに対して「財政赤字は悪。財政健全化が重要だ!」という否定的な意見が出た場合の反論になる。
「MMTはハイパーインフレが起きる」という懸念
MMTに対する否定的な意見の代表格ともいえるのが、「無制限にお金を刷るとハイパーインフレが起こる」というものだろう。GDPに対する政府債務の比率が高くなりすぎると、国債価格が暴落(金利が急騰)し、貨幣価値が下落して輸入価格も急騰し、ハイパーインフレが起きるので、政府の債務残高を増やすのではなく減らしていかないといけないという考えである。一方で、MMTでは自国通貨建てで国債を発行できる主権国家は、政府債務の残高を問題にする必要はないとしている。
この時点で既にMMT支持派と否定派では前提が真逆のため、議論にならなそうだが、筆者が見かけることの多いMMT批判は、「MMT論者はお金をいくら刷ってもハイパーインフレは起こらないと言っている」というものだ。
これはMMTを理解しないまま、誤解に基づいて批判してしまっていると思われる。冒頭の否定的な意見とは少しニュアンスが違うのがわかるだろうか。
行きすぎたインフレには歳出削減で対応する
たとえば、「機能的財政論」に基づけば、財政支出をすることで総需要は増加するが、総需要が経済の生産キャパシティを超えてしまえば、当然インフレは生じる。仮にインフレが行きすぎた場合には増税や歳出削減などで対応すればいいというのがMMTの考え方である。
つまり、MMTの枠組みであってもハイパーインフレが起こる可能性はあるのだ。MMTを否定するのであれば、「自国通貨建ての借金ができる国が財政破綻することはない」という点と、「インフレを抑制するためには増税や歳出削減をすればいい」というどちらか、または両方を否定しなければいけない。
後者を否定する論法として、「増税や歳出削減には政治的なコストがかかるため、インフレの兆しが見えてから動いては間に合わない」という意見もある。だがそれもまたMMTへの理解が足りていないと思われる。
MMTでは、所得税(累進課税)は好景気になると負担が増え、民間の消費や投資を抑制する。そのため、増税や歳出削減をしなくとも財政赤字が削減され、インフレを抑制する効果があることも主張している。
「10年後に財政破綻する」と言われてきたが…
また、日本ではこの20年間で2回消費増税をし、公共投資を大幅に削減したにもかかわらず、世界的に見ても高い政府の債務残高がある。しかし、低インフレを継続し、更にこれから再度デフレに突入する可能性すら見えている。残念ながらこの現状は、またしてもMMTの主張を実証してしまうことになる。
「日本の財政は10年後には破綻する」という話は過去20年以上続けられているが、いまだにその兆しは見られない。財政破綻論者は時として「オオカミ少年」と揶揄やゆされており、具体的にGDPに対する政府の債務残高が何%になれば国債価格は暴落するのか、という話になっても、その際に示される数字は常に引き上げられ続けてきた事実は前述した通りである。
過去の歴史を遡さかのぼっても、ハイパーインフレが起きた理由の多くは、戦争で供給力が破壊された場合や、経済制裁によって国内の物資が不足した場合などであり、日本のような先進国において財政赤字だけが理由でハイパーインフレが起きたことは一度もない。
いくらでも借金できるなら税は必要ない?
日本でもMMTという言葉の認知度が上がっていく中で、MMTについては様々な意見が出るようになった。もちろん否定的な意見だけでなく肯定的な意見もある。しかし、MMTの表面的な部分だけを理解していたり、先程のハイパーインフレのように誤った理解をしているケースも増えているように思われる。
たとえば、「MMTによれば国はいくらでも借金ができるわけだから、税金は必要ない。よって、無税国家ができあがる」というものだ。
「モズラーの名刺」や「タックス・ドリブン・マネタリー・ビュー」の説明時に述べた通り、現代の不換紙幣を国民が喜んで受け取り集めようとするのは、貨幣が納税手段として使えるからである。つまり、「税が貨幣を駆動させる」というMMTの基本的な考え方を全く理解できていない人にしか「MMTは無税国家を実現する」という発想ができないのだ。
統合政府は国民に対して納税させる際に、物納を求めることも可能だが、あえて貨幣で納税させている。そうすることで、貨幣が負債ピラミッドの頂点として君臨し、下層の負債に対する共通単位として機能するのである。仮に統合政府が発行する貨幣が納税手段として使えないのなら、貨幣の価値は不安定になり、結果的に他の安定した貨幣にとって代わられるリスクも発生するだろう。
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日本に群がる韓国の負け犬たち「日本は嫌い。でも仕事も大学も余ってるから…」
日本人と同じで韓国人もそれぞれ
「ああいう人と一緒にされたくないですね」
かつての韓国人留学生、ユンさんは穏やかながらも毅然きぜんとした口調で言い切った。ユンさんの日本語能力は高い。韓国の準難関大学を卒業、母国の専門学校を経て日本にやって来た。日本の有名私大に通った後、数年前から都内のIT系ベンチャーに勤めている。雨の強い日だったので、渋谷駅直結のカフェは助かる。ソーシャルゲームの仕事関係からユンさんを紹介されたが、本音で語ってくれる韓国人探しは正直難儀した。ありがたい。
「日本人と同じで韓国人留学生もいろいろです。『不良』だっています」
日本で言うところのヤンキーのことか。韓国では「ヤンアチ」と言うらしい(ユンさんによれば厳密にはニュアンスが異なるそうだ)。
「韓国で仕事のない人が、誰でも大学生になれる日本に来るのは事実ですし、仕事目当てだったり、女の子目当てだったりというのも事実です。韓流好きにはモテますし、ジョークでしょうけど日本女を屈服させるんだって人もネットで見かけました」
どこの国だってネットに変な人はいる。気に入らない日本の女性を物にしてトロフィーガールのつもりだろうか。
「韓国の女は怖くて生意気ですからね、日本の女の子が人気なのは仕方ありません」
日本の若者は日本にいられるが…
ところで日本のヤンキーが海外留学なんて聞いたことがないが、韓国では珍しくないのか。私の地元、野田のヤンキーにはまずありえない。
「だって仕事がありません。韓国は日本みたいな新卒制度が一般的ではないので留学する人も多い。その中でいちばん近くて、簡単なのが日本ですから」
彼が「不良」と呼ぶのは、私が以前コロナ禍の新宿を取材中に知り合った韓国人留学生のことだ。コンビニでアルバイトをしていて、聞いたこともない大学に通っている。遊びの方は充実していて、日本人の女の子を取っ替え引っ替えとうそぶいていた。彼とはその後も新宿で一度出くわしたが、給付金が入ったと喜んでいた。
「それに韓国は超学歴社会なので、高卒なんてほとんどいません。悪い言い方かもしれませんが、何か欠陥があるのかなと思われます」
あくまでユンさんの意見だが、韓国の若者で高卒は少数派、マイスター高校や特性化高校(実業高校)などもあるが、上の年代から受け入れられているとは言い難い。やはり私立の名門やスポーツや芸術に特化したエリート高校からソウル、高麗、延世(三校でSKYと呼ばれる)といった難関大学校に進むか、日本のいわゆる公立高校のような一般高校からその他大学や専門学校に進む。
ちなみに韓国は一般高校に試験はない(内申点はある)が、私立の特別なエリート高校には試験がある。選ばれし少数のエリートとそうでない者が高校進学段階で選別される。もちろん例外はあるが、日本ほど逆転は容易ではない。
韓国人から見た日本の評価
「留学もアメリカやフランス、イギリスの名門大学を目指します。欧米に留学するのに成績もお金も足りない人は日本に行きます」
欧米と言うが、先進国首脳会議の旧G7の国々と例えればいいのか。つまりアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、カナダ、日本が人気で、その中で一番近くて簡単なのが日本だと。
「そのとおりです。仕事もたくさんありますし、雇ってくれるところも多いので」
一緒にされたくないと言う割にはあのコンビニ店員の彼と同じことを言っている。その点の日本留学に関する韓国人の共通評価は真面目も不良も一緒ということか。ユンさんの大学もSKYほどではないにせよ上位大学出身だが、それでも厳しいという。
「とにかく韓国は仕事がない、これが一番の問題です。だから外に出るしかない」
それでも私の知る限り、韓国の若者はなんだかんだ非正規なり、チキン屋などのファストフードで働いている。そういう選択肢もあるのでは。
「それはあきらめた人ですね。優秀な人とあきらめの悪い人は留学します。目標が高いと留学です。聞こえの悪い仕事や会社には入りたくないので」
目標とは韓国の大手財閥企業に入ることを指す。インターン社員で奴隷のような非正規を続ける人もいれば、就職予備校に通い浪人する人もいる。それはユンさんのころも同じだったのか。
「数年前からそうです。今はもっとひどいかもしれません。日本は少子化で大学も余ってる。だから質の悪い韓国人留学生が増えた。チキン屋で終わるような人が日本の大学に入る」
とりあえず日本という感覚にすぎない
日本は同じ少子化でも、氷河期世代に比べれば民間も公務員も格段に入りやすくなった。韓国も少子化のはずなのになぜ。
「大企業の数が少ないんです。それに韓国の大企業はグローバル化が進んでいるので韓国以外の学生との競争にもなります。あとはさっき言ったように、日本のような新卒の一括採用が少ないので、特別な人以外はソウル大学校を出ても安泰ではありません」
特別な人、とはコネクションのある人のことを指す。日本で言うところの「コネ入社」だが韓国のそれはもっとおおっぴらだ。そして日本ではどこか後ろめたい部分があったりネガティブに語られるが、韓国ではコネも実力の一つ、むしろ特権階級のステータスだ。強力なコネはSKYを卒業する苦労など軽く蹴散らしてしまうほどの力を持つ。
「なので仕事がないからとりあえず日本、という人は多いと思います。ハングル表記も多くて困ることは少ないです」
確かに観光地はもちろん、交通機関から公共、商業施設に至るまで韓国語の併記のない場所を探すほうが難しいくらいに「いたれりつくせり」だ。
「世界で日本ほどハングルが使われてる国もないと思います。その点も人気です」
日本語もそうだが韓国語もローカル言語である。まして南北合わせても人口は7500万人程度、各国のコリアタウンを除けば日本ほど街にハングルが溢れた国もあるまい。
日本は正直好きじゃない
「私も本音のところ日本は好きではありません。でも国と私は別問題、仕事と夢のために我慢です」
ユンさんもまた「嫌いな国に来る留学生」だった。いまは「嫌いな国で働く会社員」である。人それぞれの話なので彼のみで韓国全体の話に広げる気は毛頭ないが、私の知る限りでも韓国人の若者にとっての本音は「日本という国は嫌だけど」である。
もちろんその後、「文化は好き」「人は好き」のエクスキューズはつくが、他国の留学生や元留学生に比べても日本に来る韓国人は特殊な立ち位置にある。嫌な人は出ていくし、日本に近寄ったりしないが、韓国の若者は分けて考える。しかし日本は中曽根内閣の留学生受け入れ10万人計画以来、さらなる少子化を見越した労働力の供給と、四年制大学781校(2020年4月1日時点・文部科学省学校基本調査)に加えて短大326校(2019年4月1日時点・同)、専門学校およそ2800校の経営のために数値目標だけを追い続け、日本のたたき売りのように留学生をいたれりつくせりで受け入れ続けた。質より数を優先して。
「でも私の留学先は日本でも有名大学です。その人(無名大学の韓国人留学生)とは違う。同じにされたくない」
日本は「聞いたことのない」私立大学の山
1990年には507校だった日本の大学は、30年で274校増えている。短大昇格組などを加味しても多すぎる。そもそも2000年の649校、つまり完全に少子高齢化が決定づけられた時期からすらも132校増えた。この781校のうち私立大学が8割近くを占める。
私は何も偏差値が低いから潰せとか、定員に満たないから潰せと言いたいわけではない。ネットスラングの「Fラン大学」の話ではない。学生の9割が外国人とか、大半が1年目に集団失踪する大学を作る必要が、残す必要があるかという話をしている。確かにユンさんからすれば、そんな不良留学生は迷惑、「ああいう人と一緒にされたくないですね」だろう。
「私の地元(韓国)の悪い子も日本に来たいと言っています。バイトはたくさんあるし、誰でも日本の学校は入れる。そんな子が来るとまた韓国人の印象が悪くなるので困ります」
過度の特別扱いが分断を生む
自民党の外国人労働者等特別委員会は2020年6月17日、外国人労働者のためにコンビニエンスストアの店員を在留資格の特定技能に加えるよう求める提言を作成した。コロナ禍で国民が苦しんでいる状況で推し進める神経がわからない。
留学生の多いコンビニバイトを特定技能とするなら、さらなる留学生の就労目的化を加速させてしまうだろう。過度の特別扱いは「おもてなし」とは違う。分断とヘイトはこうした安易な受け入れ政策から生まれる。
ユンさんの夢はアメリカの名門大学院に進むことだという。結構な話だが、これが国民の血税を注ぎ込み、日本の30年以上におよぶ留学生受け入れ政策が成し遂げたかったことなのだろうか。
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橋下徹「Go To トラベルに各地方の知事や市長から異議が出ている根本原因」
緊急事態宣言解除後の経済再開の起爆剤として政府が企画した「Go To」キャンペーン。しかし知事たちをはじめ地方からの反発が強く、実施直前になって東京都民や都内観光を除外するという形に後退した。この混乱を招いた原因は何か。知事・市長を経験した橋下徹氏がずばり指摘する。プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(7月21日配信)から抜粋記事をお届けします。(略)
本当に難しい感染症対策
7月22日からコロナ禍における政府の目玉経済対策「Go To トラベル」が始まる。これは菅義偉官房長官が特に力を入れている政策だ。
ところがこのGo To トラベルが大混乱している。当初は22日から一斉に開始と謳っていたが、東京都民・東京都は除外。そのことによって予約のキャンセルが殺到した。キャンセル料について、赤羽一嘉国土交通大臣が補償はしないと強弁していたところ、一転して補償する流れになるようだ。
そもそも、このGo To トラベルに対しては、地方の首長たちから様々な意見が出ていた。「このような政策を、今、全国一律でやるべきではない」という声が強い。
国民世論もそのような傾向であることを政府は察知し、急遽、東京都内の観光と東京都民はGo To トラベルの対象外になることが決定したのだ。
感染症対策は本当に難しい。僕のような無責任なコメンテーターの立場で政治行政を批判することは簡単だが、実際に当事者として対策を実施するのは至難の業だろう。コメンテーターでほんとよかった(笑)
アクセルとブレーキをコントロールするのは国か地方か?
この大混乱の原因は、国家の動かし方がぐちゃぐちゃになっていることだ。国家の動かし方とは、政府と地方自治体の役割分担、権限と責任の所在のこと。ここが曖昧不明なままでは誰がやっても政策を円滑に実施することができないというのが僕の持論だ。
(略)
3月、4月、5月、6月は、基本的には政府がコントローラー役・ドライバー役を担った。その間、東京都の小池百合子知事や大阪府の吉村洋文知事の活躍もメディアで取り上げられたが、社会経済活動についてのアクセル・ブレーキのコントロールは政府が主導した。
それは、コロナ感染症に適用される新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)が、そのような法律になっていることに原因がある。
特措法では日本全体に感染が急速に蔓延するような状況において、「政府」が緊急事態宣言を発令することになっている。緊急事態宣言が発令されると、知事たちは、事業主に対して休業要請をかけたり、住民に対して外出自粛要請をかけたりすることができるようになる。
つまり、緊急事態宣言を出すか出さないかは、「政府」が「日本全体」を見る視点から判断し、そこから現実的な社会経済活動の抑制が始まる法体系となっているのだ。
だから政府が緊急事態宣言を発令するのには、どうしても時間がかかる。過日4月7日に緊急事態宣言が発令されたが、既に感染拡大の傾向にあった東京や大阪の知事は、医療体制の逼迫性を感じて3月下旬から緊急事態宣言の発令を政府に強く求めていた。しかし、政府は発令に慎重になっていた。
これは政府と知事の間で視点の違いがあるからだ。政府は日本全体の視点から緊急事態宣言発令の是非を判断するが、知事たちは東京や大阪という地域の視点から休業・自粛要請の必要性を判断する。
(略)
「日本全体の視点」と「地域の視点」のぶつかり合い
過日の緊急事態宣言は、日本全体の社会経済活動を抑制した。感染があまり拡大していない地域も含めて予防的に社会経済活動を抑制したため、経済的なダメージは著しかった。そこで政府は日本全体に対する経済支援策を講じざるを得ず、1次補正、2次補正を合わせて、事業費ベースで総額約230兆円、予算ベースで総額約50兆円の予算を組んだ。
加えてコロナ禍の直撃を受けた観光業・飲食業・イベント業を特に支援するために、政府は約1兆7000億円の予算をかけてGo To キャンペーン事業を打ち出した。
これは、「日本全体」の視点によって、「国民全体」が国内旅行や外食、イベントを楽しむことを促す政策である。
ところが、5月25日の緊急事態宣言の解除によって社会経済活動が徐々に再開されたことで、また感染者数が増えてきた。特に東京の増加傾向は顕著であり、最近では緊急事態宣が発令された4月7日前後のピークに近づきつつあるようだ。大阪も、そして他の地方都市も増加傾向になっている。
そこで、各地方の知事や市長からGo To キャンペーンについて異議が出始めた。知事や市長は、自分の預かる「地方・地域」の視点から、異論を出したのだ。
まさに政府の日本全体の視点と、知事・市長たちの地域の視点がぶつかり合っている。
(略)
感染症対策の基本「ボヤはボヤのうちに消せ」の本当の意味
ワクチンや特効薬のない感染症への対策の基本は、「ボヤはボヤのうちに消せ」である。ボヤから火が回り、大火事となってからでは手が付けられなくなる。大火事となればその消火作業に莫大な労力がかかるが、ボヤのうちなら、そこそこの労力でなんとかなる。
さらにボヤを消したらできる限り早く日常生活を取り戻すことも重要だ。ボヤを消した後も日常生活が戻らなければ意味がない。ボヤを消すこと自体が目的なのではなく、消すことで「日常生活を取り戻すこと」が目的なのだ。
ボヤをボヤのうちに消す。そして日常生活を素早く取り戻す。そしてまたボヤが発生したらそれを素早く消す。小難しい専門家の理屈でなくても、この繰り返しこそが感染症対策の基本であることは誰もが直感でわかることだ。
では、このようなボヤ消火作業は、政府がやるべきなのか、知事・市長がやるべきなのか。僕は、知事・市長がやるべきだというのが持論だ。
というのも、日本全体の視点を持つ「政府」が、各地域の感染のボヤを細かく、迅速・的確に見つけることができるだろうか? 政府が各地域の医療体制の状況を細かく把握することができるだろうか? 政府が感染拡大の状況を見ながら、ベッド数確保の調整をすることができるだろうか?
そんなことは不可能である。
Go To キャンペーンを実施すれば、必ず各地域で感染のボヤが生じる。その時には誰が責任をもって対応するのか?
必死にベッド数を確保し、感染拡大の抑制に努力をしていている知事・市長たちの努力が、Go To キャンペーンによって水の泡になったときにも、また知事・市長たちは黙々と医療体制の強化と感染拡大抑止のために汗を流すのだろうか。
僕が知事・市長なら「政府が勝手にGo To キャンペーンを実施して感染を拡大したんだから、その責任は政府がとってくれ。今後は僕はベッド数の確保や感染拡大抑止のために汗を流すことは止める。その権限と責任をすべて政府に返上する」と“大政奉還”を宣言するね。
(略)
(ここまでリード文を除き約2600字、メールマガジン全文は約1万2300字です)
※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.208(7月21日配信)の本論を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで! 今号は《【菅義偉官房長官を直撃】「Go To トラベル」大混乱! 国は財源を用意し、地方に権限と責任を譲るべきだ》特集です。
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東大クイズ王「恩師に『人とは違うと思っているのか』と怒られたから今がある」
クイズ番組で「東大最強の知識王」として知れられる伊沢拓司さん。その原点は6年間通った暁星小学校(東京都千代田区)にあります。伊沢さんは「決しておごらない、やるべきことをやる、正しい行いをする、恐れずに挑戦する。こうした行動指針はすべて小学校で身に付けたものです」と話します——。※本稿は、プレジデントFamily編集部『日本一わかりやすい小学校受験大百科 2021完全保存版』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
「クイズ王・伊沢拓司」は小学校時代につくられた
開成高校時代の「全国高等学校クイズ選手権」2連覇、東京大学大学院時代の「東大王」出演を経て、いま僕はクイズを題材としたウェブメディアを運営する「QuizKnock」の代表を務めています。大学院を中退し、自ら起業することは僕にとって大きな挑戦でした。その挑戦する力を養った場所は、6年間通った暁星小学校(東京都千代田区)です。
両親ともに朝早くから夜遅くまで仕事をしていたため、僕はずっと保育園に通っていました。6歳のとき、習い事感覚で近所にあった幼児教室に通い始めましたが、親は何が何でも私立小学校を受験させたいとまでは思っていなかったように思います。数校を受験することになったものの本命校はなく、わが家には「小学校受験絶対合格!」という空気はあまりありませんでした。
大の巨人ファンだった父は、「長嶋茂雄が立教大出身だから」という理由で系列の立教小学校を薦めていました。僕も巨人ファンだったのでその気になっていましたが、残念ながら落ちてしまいました。
暁星小学校の受験前日、僕は暁星があるのは自宅から便利に通える「板橋」だと思っていたのですが、実際は「飯田橋」だということがわかりました。「そんな知らない場所へは行きたくない!」と言って、親と言い合いになったことを覚えています。さらに当日は母が道に迷い、試験開始時間ギリギリの到着でした。
そんなドタバタの受験でしたが、無事に合格することができました。試験のことで覚えているのは運動と面接だけです。運動が得意だったので8の字ドリブルがうまくできたことが、面接では当時から話すのが好きなタイプだったので試験官の先生と人見知りせずにハキハキとしゃべれたことがよかったのだと思います。
クラス全員ひらがなが書けて、書けなかったのは僕だけ
入学して早々、ショックを受けたのは、クラスメートはほぼ全員ひらがなが書けて、書けなかったのは僕だけだったことです。「小学校受験では、読み・書きはないから」と、両親が教えていなかったのです。
クラスメートがきれいな字でひらがなの書き取りをする中、僕だけ上手に書くことができない。「あ」からいきなり難しくて、苦労しました。周りの子が花丸をもらっているのに、僕は二重丸しかもらえず悔しかったことは鮮明に覚えています。それを母に伝えたら、近所の硬筆教室を見つけてくれました。そこに通ったおかげで字は上達し、生まれて初めて芽生えたコンプレックスは徐々に解消していきました。
花丸、二重丸、ただの丸……。思えば、いろいろな場面で子供たちに優劣を付ける学校でした。裏を返せば、努力することを肯定し、結果をきちんと評価してくれるということです。
勉強のことだけではありません。たとえば「上手に絵が描けた」「教室の本棚を自主的に整理した」「学校で飼っている生き物の世話をした」などの理由で、クラスメートの名前と花丸が黒板に書かれるのです。それは「みんなのことをきちんと見ているぞ」という、先生からのサインでした。だから自然と子供たちに、よいことをしよう、いろんなことに挑戦しようという気持ちが芽生えたのでしょう。挑戦を恐れない気持ちは、いまの自分につながっている気がします。
先生の長いお説教タイムがあったから今の自分がある
暁星小はサッカーが盛んな学校で、体育とは別に週に1回、サッカーの授業がありました。2年生のとき、日韓ワールドカップが共同開催されたことで、日本中のサッカー熱が高まる中、僕もサッカーが大好きになっていました。だからサッカーの授業は楽しみだったのですが、一方で恐れてもいました。なぜなら、先生の指導がとにかく厳しいのです。
技術的な指導ではなく、取り組む姿勢に対して厳しいのです。チームは子供たちが話し合って組むのですが、先生は、「なぜこのようなチーム編成にしたのか」「リーダーはどうやって決めたのか」「なぜあの独りよがりなプレーを放っておくのか」などと質問してきます。うまくチームがまとまらないと、試合をせずに話し合いが続くこともありました。技術的にはうまくても和を乱すプレーをしたら、めちゃくちゃに叱られましたね。サッカーの授業を通じて、チームビルディングの方法や協調性、リーダーシップとフォロワーシップを身に付けさせたかったのだと思います。
先生方が厳しかったのは、サッカーの授業だけではありません。授業中はもちろん、休み時間や掃除の時間も含め、子供が何かをやらかすと必ず叱られました。
あるとき、テストの答案が1枚なくなり、廊下で見つかったことがありました。その日は1時間目から4時間目までの授業の予定を変更し、クラス全員が4時間続けてお説教です。暁星小では教科担任制度をとっているので、授業ごとに先生が替わります。だから2〜4時間目の先生にとっては予定外のことになってしまうのですが、そんなことはお構いなし。おそらく先生方の中で、学習よりも道徳教育が大事だということが共有されていたのでしょう。
伊沢に教員激怒「ものを知っているから、お前は偉いのか?」
僕自身もしょっちゅう叱られていました。いまでも忘れられないのは、次の二つのことです。
まずは3年生のとき。学校から貸し出されていた歩数計をなくしてしまったことがありました。「やばい、めっちゃ叱られる!」とあせった僕は、朝一番に先生に土下座をしにいきました。そのとき先生は、「それは、ただのパフォーマンスなのでやめなさい。歩数計をなくしたことを謝るのであれば、原因は何だったのか、今後どうするのかをきちんと説明すべきだ」と言われました。たしかにその通りだと反省しました。
もう一つは6年生のとき。そのころ読書や、4年生から通い始めた塾によって知識を広げていた僕は、クラスの中で自他ともに認める物知りな存在でした。社会の授業で先生の投げかけた質問に、僕は頬づえをつきながら手を上げたのです。その瞬間、先生が激怒しました。
「ものを知っているから、お前は偉いのか? 塾に通っているから、人とは違うと思っているのか? そう思っているから、そんな態度に出るんじゃないのか!」
とクラスメートの前で見事に鼻を折られました。このときの経験は、その後の人生に強く影響を与えています。クイズプレーヤーとして活躍するようになっても、「決しておごらないこと」を常に心に留めるようになりました。あのとき本気で叱ってくれた先生には、感謝しています。
先生方のお説教は、優しく説諭するでもなく、暴言で抑えつけたりもしません。大人の言葉遣いで、子供たちを対等な人間として扱い、こちらが理解するまで言葉をつなぐのです。また、子供にとってアウェーである職員室に呼び出すこともありません。子供のホームである教室か、もしくは教科指導室に呼び出し1対1で向き合うのです。おそらく叱り方にもルールがあったのでしょう。
「やるべきことをやる」「正しい行いをする」「恐れずに挑戦する」
振り返ると厳しい学校でしたが、理不尽に感じたことはありません。カトリックの教えに基づいた教育で、先生方は、児童の誰に対してもフェアだったと思います。
私立小学校に通っていたとはいえ、わが家は、決して裕福ではありませんでした。図工の時間、みんなが新品の彫刻刀を使う中で、僕だけが中古品を使っていました。
「みんなと同じでなくてもいい、うちには無駄に使うお金はない」という両親の考えでしたが、僕は中古品が嫌でたまりませんでした。けれど、古い彫刻刀をからかう友達は一人もいなかったのです。他者を認める文化が児童間にもできていましたね。
僕の知る限り、いじめもありませんでした。いじめの芽のようなものがあったら、先生方が徹底的につぶしていたのだと思います。
1学年120人。男子だけで過ごした6年間は、とても楽しい時間でした。クラスメートのほとんどが暁星中学に進学するので、みんなと別れるのはつらかったけれど、開成中学へと進学しました。先日テレビの企画で6年生の頃の、僕を叱ってくれた先生にお会いできたのは感動しました。
自らの小学生時代を振り返って、あらためて思います。「やるべきことをやる」「正しい行いをする」「恐れずに挑戦する」といった、大人になったいまも僕の中にある行動指針は、間違いなく暁星小学校で身に付けたものだと。
伊沢拓司が語る【子供の知的好奇心を伸ばす3つのコツ】
1:興味を否定しない
何でも興味を持ったことを否定しないのは大事だと思います。たとえゲームでも深く知ることで、ゲームから派生したさまざまなジャンルの知識へと広がっていきます。
2:さりげないきっかけを与える
いろんなことを知りたいと思ったのは、両親が買ってきてくれた歴史の学習漫画がきっかけでした。それから歴史小説、生き物、サッカーの本など興味の幅が広がりました。最初に娯楽漫画を知っていたら娯楽漫画の世界にどっぷりだったと思うので、適度な抑制も必要ですね(笑)。
3:大人の言葉で話す
補足することは必要ですが、子供を一人前扱いして大人同士の会話で使うような言葉を交えるのはいいことだと思います。語彙が増えると、読書や会話の理解が深くなりますし、自己肯定感も増します。
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イマドキの中学英語の教科書は「This is a pen.」で始まらない
英語をやり直すには、どこから始めればいいのか。ジャーナリストの池上彰氏と作家の佐藤優氏は「最新の中学の英語教科書からやり直すのがいい」という。2人の対談をお届けしよう――。※本稿は、池上彰・佐藤優『人生に必要な教養は中学校教科書ですべて身につく 12社54冊、読み比べ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
「ヘンテコな英文」は一掃された
【池上】私たちの時代、中学1年生の英語の教科書といえば、「This is a pen.」。
【佐藤】我々の頃も、1ページ目はそれでした。
【池上】でも、こんなヘンテコな英文もなくて、「これはペンです」って、赤ん坊じゃないのだから見れば分かる(笑)。
【佐藤】母音の前の冠詞は「an」だという例文に、「This is an orange.」というのがありました。「これはミカンです」。見れば分かるというだけではなくて、ある時イギリス人に、「それは誤訳だ」と指摘されたんですよ。日本人のいう「温州ミカン」は、「オレンジ」ではなく「マンダリン」なのだ、と。どれだけ多くの日本人が、誤りを教えられてきたことか(笑)。
【池上】安心していいのは、その手の「怪しげな文章」が、今の教科書には出てこないことです。同じペンでも、生徒とBaker先生とのやり取りに、こういうかたちで出てきます。
Ms. Baker, this is your pen.
Oh, yes. That’s my pen.
Here you are.
Thank you.
You’re welcome.
〈東京書籍1 30ページ〉
「Call me taxi」は何が間違いか
【佐藤】現在は、ネイティブチェックが徹底していますから、「作った英語」の類はなくなりました。逆に言えば、日本のような環境でそれをしっかりやらないのは、大変危険なことなのです。
例えばさっきの冠詞だって、「a」とか「the」とか機械的に覚えるのだけれど、実は面倒くさい。「Sato」「a Sato」「the Sato」は、全部違うのです。「Sato」はいいとして、「a Sato」は「佐藤とかいう人」で、「the Sato」になると「何かしでかした佐藤」のニュアンスになる。
【池上】あの佐藤さんが……。
【佐藤】ついにお縄になったか、と。そんな感じになるわけです(笑)。だから、普通は人の名前に冠詞をつけてはいけません、ということ。
【池上】有名なジョークがあります。海外のホテルのフロントで、「Call me taxi」と言ったら、フロント係がにっこり微笑んで、「OK, Mr. Taxi」と答えた。「私をタクシーと呼んでください」「承知しました、タクシーさん」というやり取りだったというわけです(笑)。タクシーを呼びたいのだったら、「Call me a taxi」と言うべきだった。まあ、現実には、プロのホテルマンが「また、おかしな英語をしゃべる日本人が来たよ」と斟酌して、ちゃんとタクシーを手配してくれると思いますが。
【佐藤】日本人が考えた自虐ネタかもしれません。
「How are you?」は状況によって意味が変わる
【池上】でも、ジョークにならないこんな実話もあります。海外の寝台列車に乗り込んで、指定された上段のベッドに上がろうとした日本人男性がいた。下段に先客の女性がいたので、「私はこの上です」というあいさつのつもりで「on you」と言ったら、突然女性が怒り出した。「on」は「接触」を意味するので、そのシチュエーションで使うのは、非常にまずかったわけです(笑)。ともあれ、冠詞とか前置詞とかは、日本人にはなかなか感覚として捉えづらいですよね。
【佐藤】そういう感覚的なものは、日常的にネイティブな環境にいないと難しいでしょう。
我々が英語を機械的に教えられていた例をもう一つだけ挙げておくと、「How are you?」をどう訳すのか?「ご機嫌いかが?」と暗記したのだけれど、これは場所や状況によって、訳し変えないといけないのです。
【池上】ああ、まさにその話で思い出すことがあります。昔、まだ南スーダンが独立する前のスーダンに取材に行った時のこと。ホテルの部屋に毎朝、現地の人から「How are you?」と電話がかかってきたのです。ずいぶんていねいな扱いをしてくれるんだなあ、と思っていたら、ほどなくそうではないことが分かりました。実は当時、日本では新型インフルエンザが流行していたのです。要するに、外から見ればウイルス汚染国だった。
【佐藤】新型コロナウイルスのように。
今の教科書からは「生きた英語」が学べる
【池上】そういうことです。だから、入国の時に問診票のようなものを書かされていた。彼らにしてみれば、「危険な国」からやってきたわけの分からない民間人に、母国に恐ろしいウイルスを持ち込まれたりしたらたまらない。それで毎日、「今朝の具合はどうだ?」と、私に尋ねていたわけ。軽い気持ちで「今日はちょっと頭が重くて」なんて返していたら、大きな騒ぎになっていたかもしれません。
【佐藤】その使い方が、さっきの「Daily Scene」に出てくるんですよ。学期のはじめ、慣れない環境で体調を崩した前出のエリカに、アメリカ人の父が声をかけるというシーン。
Erika, how are you today?
Not so good.
What’s wrong?
I have a headache.
Take this medicine, and take a rest.
Thank you, Dad.
〈東京書籍1 64~65ページ〉【池上】素晴らしい。この教科書で学んでからスーダンに行くべきでした(笑)。
【佐藤】かつての「How are you?」と言えば「I’m fine, thank you.」という決まりきった受け答えと比べて、どちらの実用性が高いのかは、一目瞭然でしょう。今の教科書からは、こういう生きた英語が習得できるのです。
「実戦」には役立つが、「文法」は薄い
【池上】昔と違って、中学の英語教科書には、「実戦」ですぐに役立つコンテンツが盛りだくさん。社会人の学び直しに適した教材であることは、話してきた通りです。それを前提に言うのですが、会話文が増えたということは、逆に減ったものがあるわけですよね。
【佐藤】はい。「理屈抜き」でやるのですから、理屈に関する部分、すなわち文法は薄くなります。外国語を深く理解するためには、理屈の要素も必要ですから、中学生に対する英語学習という切り口で見ると、問題なしとは言えません。
【池上】佐藤さんとは、2020年の大学入試改革を中心テーマに語り合った『教育激変』(中公新書ラクレ)という本を出したほか、国の進める教育改革について何度か対談しました。その際、教育改革自体は必要だしその目指す方向も間違っていない、ただし英語教育には疑問符がつく、というのが共通認識だったわけです。実際の大学入試をめぐっては、すったもんだの末に、新たな「共通テスト」への「話す・書く」の試験の導入は、公平性の確保に関する技術的な問題もあって延期されました。
ビジネスパーソンにとっては「学び直しの武器」
【佐藤】外国語の習得には、「読む・聞く・話す・書く」の四技能があります。このうち、語学力のMAXは、読解力なのです。読む力で外国語力の天井が決まります。同じ文章を聞いたり、話したり、書いたりできるのに、読むことができないということは、ありえません。英語力を高めるためには、この四技能のバランスを取りつつ、進んで読解力を身に付けていくことが大切なのです。
【池上】そのためには、やはり文法をしっかり学ばなくてはならないのだけれど。
【佐藤】日本人はいざという時、英語がしゃべれない。それは、学校教育が「話すこと」を軽視しているのが原因だ――という人たちの声もあって、中学の教科書がここまで変わったのでしょう。でも、高校に行くと急にレベルがアップしますから、生徒たちは大変だと思います。
【池上】英語教育の改革については、おっしゃったような四技能のバランスを含めて、まだ模索の段階にあると言えますね。
ただし、話を戻せば、今の教科書は、英語力をすっかり錆びつかせてしまったビジネスパーソンにとって、願ってもない学び直しの武器になります。
辞書をひかずに「単語や熟語」を覚えられる
【佐藤】実用的で間違いのない文章が並んでいるだけではなくて、今の教科書には本文の横のところに、ていねいなグロッサリー(用語解説)が付いています。実は、これも重要な意味を持っている。
【池上】昔の教科書にはなかった工夫ですね。非常に分かりやすくなっています。
【佐藤】語学習得の初期の段階では、とにかく単語や熟語を頭に入れることが先決です。そういう点からすると、辞書を引くという作業は指の運動にはなっても、外国語の習得そのものには無関係です。読んでいる文章のすぐ横にある語句をどんどん吸収していくのが、効率的なのです。
そうしたものの力も借りながら、学び直しの社会人はひたすら音読すればいいと思います。理屈抜きで(笑)。
【池上】アポロ11号の月面着陸のテレビ中継で、宇宙船とヒューストン宇宙センターとの交信の模様を伝えたりして「同時通訳の神様」と言われた國弘正雄さんは、かつて「只管朗読」を提唱しました。「ただひたすら座禅すること」を意味する禅宗の「只管打坐」をもじったもので、今佐藤さんがおっしゃったように、「英語をモノにしたければ、ひたすら音読せよ」ということです。
NHKでキャスターをしている頃、それに倣って、中学の教科書をひたすら声に出して読んでいたことがありました。中1だと易しすぎるので、2年生、3年生のを買ってきて。
【佐藤】池上さんはすでに実践していたのですね。
世界で起きている問題を考えさせる「生きた教材」
【池上】「昔の教科書」でしたけど、それでもやった甲斐はありました。ビジネスパーソンには、絶対お勧めです。
ちなみに、会話文、実用的な文章が増えたと言いましたが、もちろん「読み物」がないわけではありません。しかも、世界に起きているいろんなことを考えさせる、やはり「生きた教材」になっています。
三省堂のほうから拾ってみると、例えば2年生の教科書に、「Landmines and Aki Ra」という話が出てきます〈112~115ページ〉。「Landmine」は「地雷」。子ども時代、強制的に少年兵にされ、多くの地雷を埋めたアキ・ラというカンボジア人が、内戦が終わっていろんな生き方をしている人たちと出会う中で、「人生は自分で選べるんだ」ということに目覚めて、地雷除去に奮闘しているというストーリー。
3年生になると、スーダンの大地にうずくまる餓死寸前の子どもと、その近くに舞い降りたハゲワシを映した、有名な「ハゲワシと少女」についての一文があります〈「A Vulture and a child」112~113ページ〉。
【佐藤】ピューリッツァー賞を取った一枚ですね。
【池上】本になり映画化もされた「風をつかまえた少年」の話も、「We Can Change Our World」という文章になっています〈104~107ページ〉。アフリカ、マラウイ共和国の貧しい村の14歳の少年が、廃材で作った風車で発電して村を救ったんですね。そうかと思うと、「The Story of Nishikori Kei」も〈108~111ページ〉。こういう英文を何度も暗記するくらい読めば、相当な英語力が身につくでしょう。
フェアトレードから、被災地の「楽器」の話まで
【佐藤】構成も、とても考えられています。例えば東京書籍の3年生の教科書は、次の六つのユニットから成っています。
「海外でも愛されている日本の文化(Pop Culture Then and Now)」「広大なアマゾンの熱帯雨林から受ける自然の恩恵(From the Other Side of the Earth)」「フェアトレードがかえる社会のしくみ(Fair Trade Event)」。「フェアトレード」は、地理でも出てきました。そして、「被災地の流木から作られた楽器がかなでる音色(To Our Future Generations)」「ロボットと暮らす未来(Living with Robots‐For or Against)」「アウンサンスーチーの目指す世界のあり方(Striving for a Better World)」。このそれぞれに、登場人物同士の会話や説明文が上手に組み込まれている。
【池上】本当に、つくりが現代的で立体的です。
【佐藤】これらをマスターすれば、頭で考えなくても、英語が反射神経に操られてスラスラ口から出てくるようになるでしょう。グローバル時代恐れるに足らず。サバイバル戦には、それで十分生き残れるはずです。
騙されたと思って、中3の教科書を音読してほしい
【池上】実際には、仕事上必要になる専門用語などを覚えなくてはなりませんけど、それも基礎的な形が頭に入っていれば、さして難しいことではありません。
【佐藤】外交官、通訳、メディアの国際部の記者、外国人相手のビジネスマンといった職業に就いていれば別ですが、それ以外の大卒者の英語力は、大学に合格した時点がピークです。その後は、実力が下降線をたどり、40歳くらいになると中2レベルに戻ってしまう。それではあまりに寂しいし、サバイバルの上でも大いに不安だから、再び中3までもっていって、最低限それをキープすることを考えればいいのです。
【池上】騙されたと思って、中3の教科書を中心に隅から隅まで何度も音読する。英語については、シンプルにそれを実践しましょう。