【試合経過】
この日の面白さ(?)を語るために、必要な打順。 0-1、ソフトバンクリードで迎えた6回裏のオリックスの攻撃。4番ローズのタイムリーツーべースで、2-1と逆転。さらに、一死一塁二塁で、6番下山は三振。
二死一塁二塁と、アウトカウントが増えて、一輝の打席。
初球インコース高目を振り抜いて、打球は、 左中間を真っ二つに切り裂く。タイムリーツーベース! 何と鮮やかなバッティング。
このときの打率は、.432。まだ、打数は少なかったとはいえ、もの凄い勢いで、ヒットを打っていた。
隣りに座っていた、男子大学生二人組の会話。
「一輝、やばい」 「今まで、二軍で何しとったん?」
私の思いを増幅させるのに、十分な単語。 若者が使用する「やばい」の意味は、
すっげぇ! の最上級だったり、
このときは、「この先どうなるのか、末恐ろしい」 というニュアンスも含まれていた。
大阪ドームという場所の、距離の近さもあったのだけれど、 ここまでして、見に来てしまった。 そして、見たいと思っていた光景に遭遇した。
”お気に入りに追加”
今まで、なかったパターン。 ファイターズ以外の球団にいる選手に、こんなに興味を持つとは。
(ガッツも古城さんも川島君も、後でみんな、移籍してしまうという運命が……そして、移籍した後も頻繁にアクセスしてるのは、川島君だけだったりするけれど)
この回、後藤さんのタイムリーも出て、5-1、7回にカブレラのホームランで6-1、オリックスがリードを広げる。
試合のペースが早く、 このまま21時くらいには試合が終わって、 一輝のヒットの余韻を抱きながら、今日は帰れるな、と思っていた。
しかし……
オリックスの中継ぎ投手たちがつかまり、試合はもつれる。 8回、ソフトバンクの怒涛の5連打で、1点差。
さらに9回、クローザー・加藤大輔投手の”危険球退場” があり、その後、 川﨑ムネリンの犠牲フライが出て、 6-6の同点に。
延長戦に突入。
次の日も仕事だし、帰ろうかどうか、迷った。 帰らせなかったのは、 もしかしたら、一輝がまた打つかもしれないな、という思い。
10回裏のオリックスの攻撃は、3番のカブレラから。 一輝の打順は7番で、チャンスで回ってくる可能性があった。
先頭のカブレラがヒットで出塁して、代走に森山君が起用される。 ローズ、ピッチャーゴロ、途中出場の塩崎さん四球で、 一死一塁二塁。
6回のリプレイのように、この場面で、バッター下山。 さっきは三振でツーアウトになり、次の一輝がタイムリーを打った。

森山フォト(友情出演:慶三選手) 握手した後の光景~
【昔からのブックマーク】
ここでやっと、下山選手にまつわる、思い出に触れる。
まず、私は、大学生のときに、新聞部に入っていて、 母校の体育会各部の取材をしていた。
大学野球の試合がある球場にも、足しげく通った。
彼が、大学でレギュラーになったのは、三回生の春のこと。 スコアボードに、名前を見つけた時は、興奮した。
「下山、一回生の時に同じクラスやってん」
と後輩に、得意げに話していた。 クラスといっても、週に一度の専門授業と、 二コマの語学だけが一緒だったのだけど。 クラスメートとして、接した記憶は数えるほどしかない。
春の学園祭で、クラスでお茶漬け屋を出店した時のこと。 彼は野球部の方に出てたみたいだったけど、 クラスには一度だけ、顔を出した。
ユニフォームにウインドブレーカー姿で現れて、 関西学生野球の券を売りに来たのだ。
「ヒラヤマ君(←思いっきり、名前間違えている)、私、買うよ!」 しょっぱなから、名前を間違って呼ぶ失態。 でも、3枚買い上げたら、機嫌を直してくれたようだった。
「ちゃんと名前、覚えてや」
シモヤマ、シモヤマ、3回生の春からは、 忘れたくても、忘れられない名前になった。 私が何かをしてあげた~のは、あの時、チケット買ったくらいで、 それからは全て「借り」というか、もらってばかりだ。
≪神宮に連れてってくれた≫
―1996年春の活躍は、まぶしかった。
当時は、清水章夫さんも所属していた、近畿大学が強くて、 うちの大学は、なかなか優勝できなかった。
リーグ優勝のための、最大の山場、近大3回戦。 四番に座った彼のバッティングは、冴えに冴えた。
先制された裏、ランナーを二、三塁に置いた場面で、逆転のタイムリー。 また、同点に追いつかれるが、 次の打席でも、ランナー三塁の場面で、勝ち越し打を放つ。 (ピッチャーは後に日ハムに入る、今井圭吾投手)
チャンスに打席が回ってくる巡り合わせ、 そのチャンスに確実に結果を出す勝負強さ。
この試合は、エースの先輩の投球も凄かったのだけど、 下山君の活躍は、燦然と輝いていた。
日生球場の、ベンチ上(=信じられない場所で撮影&スコアつけてた) で身震いした。陽射しが強くて、暑かったのに。 こんなに凄い選手やったんや! と感激して。
5-2のスコア(うち、下山4打点!)で、うちの大学が快勝。 監督さん、エースの先輩、下山君の順にインタビューに行く。 大一番だけあって、スポーツ紙、一般紙の記者たちも大勢群がる。 取り囲まれた彼が、近くにいるのに、とても遠い人に思えた。
記者の輪が解けていくのを見計らって、近づく。 「下山君、お疲れ!」 「おおっ、同じクラスやった……」 次の試合がない場合、コメント取りは、グラウンドに降りて行う。 ライト側のファウルグランドで、久々に言葉を交わす。 今度はもう、間違えて呼んだりはしない。
「初戦で、今井さんには抑え込まれたから。 何としてでも、今日は打ちたかった」
そこから”四番打者と学生記者”としての新たな関わりが始まった。

1996年 神宮球場 管理人撮影(多分、NikonのF3)
その後、母校は無事に、リーグ優勝を決める。
ハムの多田野さんが、どうしても神宮球場でプレーしたくて、 東京六大学のチームに入ることを目指したように、 私も、R大学のことを、大学野球の全国大会”神宮球場”で、 応援し、取材したかった。一度でいいから、神宮に行きたかった。
その夢を、ハタチの下山君が、叶えてくれた。
不覚にも、彼がプロ入りをしてから知ったのだけれど、 大学2回生の秋に、お父さんを病気で亡くしている。
3回生の春、野球界の表舞台に出てきた、 その裏には、悲しい出来事もあったのだな。
その春、エースの先輩も、事故でご姉妹を亡くされていて、 先輩は自ら、取材で語ってくれた。
「家族が悲しんでいるなかで、自分にできることは、 野球で頑張ることだから。優勝して、家族を笑顔にしたい。 そのことが、実力を最大限に引き出してくれる原動力になっている 」
下山君も、同じ状況だったのかな。
自分からは何も語らなかった。 でも、私は、知らなくて良かったのかな、と思っている。
後で知ってからこそ、「そうだったんだ……」と感動する、 振り幅も大きかった。
(本当、取材しながら、知らなくてごめんなさい 近鉄時代の鈴木貴久コーチが急逝したときも、 合併チームになったときの監督の仰木さんが亡くなったときも、 お父さんのような人を亡くされて、辛かったのではないか、と 想像しています)
性格の、こまやかなところ。 情に厚くて、周囲に気づかって、楽しませようとして、 そして、めっちゃ優しいところ。
出会った時から、本当に”めっちゃ、ええやつ”で。 その印象は、2006年の秋、宮崎のフェニックスリーグで、 偶然遭遇したときも、変わらなかった。
学生のとき、監督さんが 「チーム一の努力家。絶対、将来プロに行く」と言っていたこと、 にわかには信じられなかったけれど。
社会人野球で5年かかって、プロから声がかかって、 プロ6年目の今シーズンの活躍。
(今の一輝と同じ年にプロ入りしたのだから、 本当に遅咲き~ )
嬉しくないわけが、ない。 凄いと思うし、勇気をもらっている。
こんなことは、個人的にファンレターで書くことなんだろうな。
【ヒーローインタビュー】
7/2の試合に戻る。
同点で迎えた延長10回裏、一死ランナー一塁二塁。 二塁ランナーは、森山君で、一打サヨナラのチャンス。
バッター下山。
(ただし、下山の次の打者は、一輝)
上記の、私とシモヤマンの関係性もあって。
「ゲッツーはなしやで!」 という、ケチなことは、思わなかった。
「ここで決めちゃえ」 と思ったし、決めるんだろうな、という予感も大きかった。
そして、下山の打球は、三遊間を抜けて、 二塁から、森山君が、生還。サヨナラ勝ち!
「ヒーローになりたかったんで、頼む、森山、還ってくれ~って、 思いました」
森山君は、ホームインできたおかげで、御飯をおごってもらえるらしい。
その他、ファンから”給料上げてもらえ!”という声が飛んで、
「球団の方、お願いします」
と言って、笑いをとっていた。
「遅い時間まで、応援してくれてありがとうございます」
気づけば、22時をまわっていた。こういう何気ないひとことが、 グッとくるときって、ある……帰らなくて、良かった。
1996年から、2008年へ。
プロ野球選手となった、 シモヤマンのお立ち台を見ている、この不思議さ。
別の目的・意図があったにせよ、 やっぱり、”因縁”があるから、なのかな。
冷めたトーンで、書いてしまうことも、多いけれど。
ファイターズ戦で打たれると、やっぱり、ムカつくんだけど。
何か、それでも、いろいろ言えることが楽しい!
もっと強くなって、立ちはだかってくれて、いい。
望むところ、なのだ。
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