安楽死、証拠が残らないなら完全犯罪
白い溝で数字が刻んである黒いポッチ。有壁は「10」を押した。
ドアが閉まると、ゴスンといったん下がってからカゴは上がりはじめた。
呼んでもなかなか来ないし、よくメンテで止まるのは慣れっこだが、
疲れているとことさらイラッとする。
検体の入ったクーラーバッグの重さが肩に食い込む。
地震が来たら崩れ去る、といわれていたボロい建物も、大震災を乗り越えた。
地方の国立大学には建て替えるカネなどない。旧耐震基準だが、まだまだ現役だ。
市場価値でいったらマイナスの『負』動産なんだろうが、
地震が来る前、躯体にバッテンに鉄骨を突っ込む補強工事がしてあったおかげで、
なんとか倒壊はまぬがれた。
エレベータも地震の揺れであちこち歪んだらしく、しばらく使えなかった。
10階まで上がったり下がったりするのは、膝に堪えた。
ドアの気密が悪いので風がスースーする。風圧でカゴがえらく揺れる。
職員が死んだら、偉い人が頭を下げるだけだよな。命よりも箱物のほうが高いのだ。
エレベータが10階に着いた。
教室に戻ると、汗まみれになった緑のスクラブをドラム式の洗濯機に放り込んだ。
液体洗剤をぶっかけて扉を閉める。
「じゃあ、鑑定書の写真でも貼るか」といいながら、
パンツ一丁にサンダル履きでセミナー室に向かう。
ドアを開けると見慣れた顔があった。
「あ、先生。どうも。お疲れのところすみません」
パンツ一枚で会いたい相手ではない。
さっきまでいっしょに解剖していた刑事調査官だ。
しつこくてイラッとした。
「は? 今日は営業終了。午後いっぱい付き合ったじゃん。その件かい?」
「いえ、別件ですが、ちょっと1~2分ぐらい、いいですか。」
「勘弁してよ、大宮司さん。もう疲れてっから、拒否るのも面倒だわ。1分だけな」
「実は先生。中央署管内で、安楽死が行われているらしいんですよ」
「ふーん。フダは出たの? いつ解剖になるの?予定立てないとね。でも明日は教授会で無理」
「いえいえ。事件に持っていけないから困ってるんですよ」
「病気だとか老衰で死んでるなら、俺らの出る幕じゃないっちゃ」
「そこなんです。なんの証拠も残ってないから事件にできない」
「ほらみろ」
「先生に伺いたいのは、薬も使わず寿命を縮める。
有り体にいうと、証拠を残さずに殺害する方法ってあるもんなんですか?」
「そりゃあ、いくらでもあるっちゃ。」
「ぜひ、そのあたりをご指南いただけませんか。
ご存知の通り、安楽死は自殺幇助だとか殺人なんですが、これはゆゆしき事態です。
うちの県内で安楽死がはびこったら、無法地帯になります。
あっという間にヤクザのシノギになっちゃいますよ。手口が広まる前にパクらないと」
「そったら面倒はオレも勘弁だわ。医療関係なら、おたくで捜査すればいいっちゃ。
調査官も警大で勉強したんだから、警視庁とかに知り合いいるでしょ。
あっちの捜査一課は何百人も刑事さんいるべっちゃ。じゃあ、1分経った」
有壁は、セミナー室の冷蔵庫に入っている、アサヒスーパードライのロング缶を取り出し、
プッシュっと開けた。
「仕事の後は、エサヒィ・スープゥードゥラァァァイ! 調査官も飲む?」
「いえ、部下を待たせてますから。では、本部に帰ります」
一礼して去っていった。作業服が見えなくなった。
「つまらんやつだ」
新しいスクラブを着ながら、ぼんやり考える。
安楽死か。いつまで経っても法制化されず、死にたい人がスイスなどに渡航して、
業者に数百万円を払って死なせてもらうという、いびつな世の中だよな。
死にたくなったら、日本でも好きに死ねるようになればいいんじゃないかね。
俺たちの仕事も減るんだろうけど。
鑑識から届いた解剖の写真の束から、鑑定書に貼るものをピックアップして
裏面にアラビックヤマトの容器を滑らせながら、いつもよりも苦いビールを飲み干した。
嫌な予感がした。
これじゃ終わらないな。一課はかなり核心に迫っている。
調査官がまたしつこくやってきたのは、その数日後だった。